第4章 エーゲ海の大津波(BC1420とBC1390)

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Create:2023.6.9, Update:2025.8.18

1 はじめに
BC1390年、第6代Athens王Erechtheusの治世13年目、Eleusisの町やMegara地方も津波に襲われ、人々はGerania山へ逃れた。[1]
大津波は、これより30年前のBC1420年にも発生していたことが記録されており、その時のRhodes島の様子が伝えられている。[2]
この大津波の原因と思われる記録が残されている。それによると、Crete島の北方約110kmにあるThera (現在のSantorini)島とすぐ北西にあるTherasia島との間で大噴火があった。大噴火は、4日間続き、噴出した溶岩が周囲約2kmの島を形成した。[3]
この記録は、当時、Thera島に住んでいた人々の証言と思われる。
BC1425年、Agenorの子Cadmus率いる移民団の一部の人々がThera島に入植していた。[4]
BC1420年の津波は、Rhodes島、Crete島、Samothrace島に住んでいた人々に被害を与えた。
BC1390年の津波は、Rhodes島、Crete島、Lesbos島、Chios島、Athens、Eleusis、Egypt、Corinthの町に住んでいた人々に被害を与えた。

2 Rhodes
BC1450年、Crete島東部のPrasusの町のErysichthonは、移民団を率いてTelchinis (後のRhodes)島へ移住した。[5]
島には、Telchinesが住んでいた。[6]
Erysichthonは、TelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚して、7人の息子たちが生まれた。その後、TelchinesとRhodosの息子たちとの間に争いが起きて、戦いに敗れたTelchinesは、島を去った。[7]

2.1 BC1420年の大津波
BC1420年、Telchinesが島を去った直後に、大津波が島を襲った。人々は、沼地と化した土地での暮らしを余儀なくさせられ、悪疫が人々を襲った。[8]
このとき人々を導いたのは、Rhodosの息子たちであった。大津波の後で、沼地になった島の土地を耕作可能な土地に変えた太陽に対する崇拝が、この時から始まった。Prasusの町からの移住者たちは、Rhodosの夫Erysichthonを太陽神Heliusとみなし、彼の息子たちをHeliadaeと呼んだ。[9]
島名もそれまでのTelchinisからRhodesと呼ぶようになった。[10]
BC1415年、Heliadaeの間で争いがあり、Rhodosの息子Actis (or Auges, Atlas)は、Egyptへ移住してHeliopolisの町を創建した。[11]

2.2 BC1390年の大津波
BC1390年、Rhodosの子Cercaphusが死に、彼の息子たちの代になったとき、再び、島は大津波に襲われた。無事に生き延びたCercaphusの3人の息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusは、Rhodes島内に自分たちの名を付けた町を創建した。[12]
Rhodiansは、Aegean Seaを支配し、大噴火後のThera島に、最初に上陸した。[13]

3 Crete
Crete島での津波に関する伝承は、見当たらない。しかし、伝承を精査すると、津波によると思われる、つぎのような移住があったことが分かる。

3.1 BC1420年の大津波
BC1420年、大津波がCrete島北西部のCydoniaの町を襲い、Tegeatesの子Cydonが死んだ。
彼の妻Phoenixの娘Europaと2人の息子たち、MinosとCardysは生き延びた。
Cydonは、BC1450年にArcadia地方のTegeaの町からCrete島へ移住して、Cydoniaの町を創建していた。Cydonの移住の原因は、飢饉によるものであった。[14]
Europaは、Agenorの子Cadmus率いる移民団に参加して、Cydoniaの町を訪問し、Cydonと結婚していた。[15]
Cydonの死後、Europaは、Peloponnesusから移民団を率いて来たDorusの子Tectamusの子Asteriusと再婚して、Cnossusの町に住んだ。[16]
Asteriusが跡継ぎを残さずに死ぬと、Europaの子MinosがCnossusの町を継承した。

3.2 BC1390年の大津波
BC1390年、Crete島北部を大津波が襲い、Minosが住むCnossusの町も被災した。[17]
Minosは、Cydoniaの町に住むCardysのもとへ避難するが、Cardysも津波の被害を受けていた。
MinosとCardysは、隣のApteraの町から被災者を乗せて、Asia Minorへ向かうTelchinesの移民団に加わり、Troad地方へ移住した。Cardysは、しばらく後に、Cydoniaの町へ帰った。Minosは、当時、Dardanusの子Erichthoniusが治めていたDardanusの町の近くに定住した。[18]
Dardanusの甥Corybasと妻Thebeとの間に娘Ideが生まれ、Minosには息子Lyctiusが生まれた。
IdeとLyctiusは後に結婚した。IdeとLyctiusとは、Arcadia地方のPelasgusの子Lycaonを共通の祖とする同族であった。[19]
TroyのPriamの富は、Iliumの町の北北東にあるAbydusの町近くのAstyraの金鉱から生れた。
Minosと共にCrete島から移住した人々も採掘に関わっていたものと思われる。富を蓄えたMinosの後裔はCrete島へ帰還し、多くの艦船を保有し、Aegean Seaの制海権を手に入れた。[20]

4 Lesbos
BC1560年、Triopasの子Xanthusに率いられたPelasgiansが、Argosの町から島へ移住した。
当時、島は無人で、Issaと呼ばれていたが、Pelasgiaと呼ばれるようになった。[21]
BC1415年、Erysichthonの子MacarがRhodes島からLesbos島に入植した。[22]
BC1390年、Lesbos島は、大津波に襲われて、島は海水に浸かって荒れ果てた。[23]
Lesbos島の住人は、荒れ果てた島を捨てて、本土へ渡った。[24]
大津波の後で、Peloponnesus北西部のOlenusの町のAeolusの子Macareusが植民団を率いて、Pelasgia島へ移住した。[25]
Macareus自身はAeolisであったが、彼の植民団には、IoniansやPelasgiansも含まれていた。[26]
Macareusが入植する前、Pelasgiaと呼ばれていた島は、Macareusの住み家と呼ばれるようになった。[27]
BC1340年、Macareusの兄弟Lapithesの息子Lesbosが叔父のもとへ移住して来て、島はLesbosと呼ばれるようになった。[28]

5 Chios
BC1390年、大津波は、Lydia地方の沖に浮かぶChios島を襲った。Aeolusの子Macareusは生き延びた人々を集めて、島の対岸にKaridesという町を創建した。[29]
その後、Macareusは、彼の息子をLesbos島からChios島へ移住させた。[30]

6 Samothrace
BC1420年、Samothrace島は大津波に襲われた。[31]
Dardanusと彼の兄弟Iasionの妻Cybele、それに、彼女の息子Corybasは生き延びた。
しかし、Dardanusの妻ChryseとIasionは死んだ。[32]
Dardanusは、BC1430年にArcadia地方のMethydriumの町からSamothrace島へ移住して来ていた。[33]
津波より前に、Dardanusの姉妹Harmoniaは、Samothrace島を訪問したCadmusと結婚して、島からThracia地方へ移住していた。[34]
津波の後で、Dardanusは、Samothrace島からTroad地方へ移住して、Teucrisの町に住んでいたTeucrusと共住した。[35]
Dardanusは、Teucrusの娘Bateiaと再婚してTeucrusの後継者となり、Troy王国の始祖になった。[36]
CybeleとCorybasはIda山に住み、Cybeleは女神として崇められ、Corybasは母の儀式を祝う者たちをCorybantesと呼んで踊りを伝えた。[37]
Cybeleの信仰の対象はCabeiriであったが、Asiaへ広まると信仰の対象は、山の母Cybele本人となった。[38]

7 ThraciaとPeloponnesus
7.1 BC1420年の大津波
BC1420年、大津波がThracia地方を襲った。Strymon川の下流で暮らしていたThraciansのEdoniや、Pangaeus山付近の沿岸部に居住していたAgenorの子Cadmusが率いる人々が被災した。[39]
ThraciansやCadmusの集団は、新天地を求めて南へ移動した。彼らの移動は、Thessaly地方に住んでいた人々の移動を誘発した。Thessaly地方北部に居住していたHellenの子Dorusは、南へ移動して、Oeta山とParnassus山の間に定住した。[40]
Thessaly地方のMelitaeaの町に居住していたXuthusの子Achaeusは、Peloponnesusへ移住した。[41]
Tereus率いるThraciansは、Phocis地方のDaulisの町付近に移住した。その後、Tereusは、Megara地方のPagaeの町の近くに定住した。[42]

7.2 BC1390年の大津波
BC1390年、大津波がPagasetic Gulf西岸のHalusの町を洗い流した。[43]
Halusの町は、Aeolusの子AthamasがThessaly地方のArneの町から移住して、創建した町であった。[44]
また、津波は、Thessaly地方の沿岸部に住むPelasgiansの集落を襲った。住居を失ったPelasgiansは大挙して内陸へ移動し、Halusの町の近くのItonusの町を襲った。
Itonusの町は、Athamasの父Aeolusの兄弟Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの子Itonusが創建した町であった。Itonusは、Athamasの兄弟Mimasの子Hippotesの子Aeolusの娘Melanippeを妻に迎えて住んでいた。[45]
Itonusの妻Melanippeは、Pelasgiansを率いていたDiusの戦利品として連れ去られた。[46]
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方のThermopylae近くのAnthelaの町に住み、付近一帯のDoriansの王であった。Amphictyonは、同族を結集して、PelasgiansをThessaly地方から追い出した。[47]
Thessaly地方を追われたPelasgiansは四散したが、大きな集団は西へ向かいDodona周辺に留まった。一部のPelasgiansは、Nanasの子Janusに率いられてItaly半島へ移住した。[48]
Aeolusの娘Melanippeは、Diusによって、Italy半島南部のMetapontiumの町まで連れて行かれた。[49]
Melanippeの子Boeotusは、成人すると、母Melanippeと共にItaly半島からThessaly地方のArneの町に帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[50]
また、大津波の後で、Achaia地方のOlenusの町のAeolusの子Macareusに率いられたIoniansやPelasgiansがLesbos島へ移住した。[51]

8 Athens、Eleusis、Egypt、Corinth
BC1390年、大津波がEgyptのNileDeltaのArchandropolisの町を襲った。Archandropolisの町は、Achaeusの子ArchanderがArgosの町から移住して創建した町であった。[52]
ArchanderとDanausの娘Scaeaとの間の息子Belusは被災した人々を率いて、新天地を求める旅に出た。Belusは、移住地を求めて出航しようとしていたCorinthの町のSisyphusの子Aeetesの移民団に合流した。Aeolusの子Sisyphusが創建したばかりのCorinthの町も津波に襲われていた。
AeetesとArchanderは、Deucalionの子Hellenを共通の先祖としていた。[53]
Aeetesの移民団には、津波の被害を受けた人々を率いたAthensの町のBoreasとEleusisの町のCeryxも含まれていた。

8.1 Ceryxの移住
Eumolpusの子Ceryxは、Eleusisの町からThasos島近くのThracia地方に入植した。[54]
Ceryxは、移民団の中にいたBoreasの娘Chioneと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[55]
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusと、Athensの町のPandionの子Erechtheusとの戦いが起きた。[56]
Chioneの子Eumolpusは、Thraciansを率いて駆け付け、Eleusisの町のImmaradusに加勢した。[57]
Immaradusは戦死し、Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承した。彼らの後を、Immaradusの弟CeryxがThracia地方から招かれて継承した。Ceryxが死ぬと、Ceryxの子EumolpusがThracia地方からEleusisの町へ移住して、祭儀を継承した。[58]

8.2 Boreasの移住
Boreasは、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟であり、Athensの町の神官であったButesの息子であった。Boreasは、従妹であるErechtheusの娘Orithyiaと結婚した。[59]
Boreasは、Samothrace島近くでAeetesの移民団と別れた。Boreasは、Thracia地方のHebrus川を遡上し、支流のRheginia川を遡って、適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山のすそ野にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[60]
Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであったと推定される。
Boreasの移民団は、Athensの町のPrytaneumから出発した正式な遠征隊ではなかった。[61]
Boreasの子供たちのつぎのような婚姻関係などから、BelusやCeryxと一緒に移住したことが分かる。

8.2.1 Boreasの娘Cleopatra
Cleopatraは、Rheginia川の源流近くにあるSalmydessusの町のPhineusと結婚した。[62]
PhineusはBelusの息子であり、入植後もBoreasとBelusとの間に交流があったことが分かる。[63]

8.2.2 Boreasの娘Chione
ChioneはCeryxと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[64]
Eumolpusは、Belusの入植地に住むBenthesicymeの娘Daeiraと結婚した。[65]

8.2.3 Boreasの双子の息子たち、ZetesとCalais
BC1365年、Boreasの双子の息子たち、ZetesとCalaisは、Propontis海を越えて、黒海西岸のIster (現在のDanube)川の中に浮かぶPeuce島へ移住した。[66]
そこは、Hyperboreansの住む土地であり、そこから供え物がDelos島へ届けられた。[67]
Herodotusが伝えているDodona経由の伝達路では、Euboea島のCarystusの町を経由していた。[68]
Carystusの町は、Aegeusの父Scirusの子CarystusがBC1280年にSalamis島から移住して創建した町であった。Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの娘Rhoeo (or Creousa)と結婚して、息子Anius (or Anion)が生まれた。Aniusは、Delos島の祭司になった。[69]
また、Pausaniasが記しているHyperboreansの地からDelos島への伝達路では、Attica地方のPrasiaeの町を経由している。[70]
いずれの伝達路とも、Athensの町がHyperboreansとDelos島との間に深く関わっていた。
ZetesとCalaisは、Boreasの居住地から、さらに北へ移住し、年2回収穫できる肥沃な島に住むHyperboreansと呼ばれる人々の始祖になった。[71]
Hyperboreansが住む島の支配者や聖職者は、Boreasの子孫が継承した。[72]
HyperboreansとAtheniansとDeliansには、友好関係があった。Boreasの父ButesのAthensの町での神官という地位が大きく影響していると思われる。[73]
Boreasより150年以上も前からAtheniansは、Delos島で祭儀を執り行っていた。[74]
Hyperboreansの住む島は、後に、Alexander the GreatがThracia地方を攻めたときに、Triballiansが逃げ込んだ川の中の島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster川の7つの河口のうち、一番大きいthe Sacred Mouthと呼ばれる河口から22km上流にあった。その島は、Peuce島と呼ばれていた。[75]
Triballiansは、大王と友好関係を結んだ後でも、大王の島への上陸を許さなかった。
その島は、有事の際に、住民が避難して加護を求める神聖な場所であった。[76]

8.3 Belusの入植
Aegean SeaからHellespontos海峡を抜けてPropontis海に入り、陸地を右に見て岸伝いに進むとCyzicusの手前にAesepus川の河口がある。Belusが入植したのは、Aesepus川の流域であった。その付近一帯のことを当時の人々は、Ethiopiaと呼んでいた。
Belusには2人の息子たち、CepheusとPhineusが生まれた。Cepheusは父の跡を継ぎ、Phineusは黒海南西岸の地へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[77]
Phineusは、移住前にDardanusの娘Idaeaと結婚し、移住後、Boreasの娘Cleopatraと結婚した。[78]
PhineusとCleopatraとの結婚は、BelusとBoreasが同じ移民団にいたことを示している。

8.3.1 Belusの父
つぎのことから、Belusの父は、Achaeusの子Archanderと推定される。
1) Belusの入植地は、Ethiopiaと呼ばれ、Belusは、Egyptから出発したと思われる。
2) BC1390年当時、Egyptに住んでいたGreeksは、Argosの町から移住したArchanderしかいなかった。
3) 系図を作成すると、Belusは、Archanderより1世代後であった。

8.4 Aeetesの入植
Aeetesは、黒海東岸のPhasis川付近のColchis地方へ入植した。[79]
Aeetesの移民団には、Belusと共にEgyptから出航した人々も含まれていた。
彼らの中には、Colchis地方への航路を知っていた者もいたと推定される。
BC1430年、Danausと共にEgyptを去った人々の一部は、Colchis地方へ移住していた。[80]
Herodotusの時代、ColchiansはEgyptiansであると信じられていた。[81]
Colchis地方は金銀の産出量が多く、TelchinesがAeetesを先導し、鉱山を探しながら旅をしたものと思われる。Aeetesの入植から150年ほど後に、黄金の国Colchisの名は広く知れ渡り、Greece各地の若者たちが黄金を求めて遠征するArgonautsの物語が誕生した。[82]

9 Egypt
BC1390年、大津波は、EgyptのNileDeltaの西のCanopusの町を襲った。[83]
Macerisの子Sardusは、被災した住民を連れてSardinia島へ移住した。Sardusの入植地は、島の南西部と思われ、そこには、Sardusの神殿が建立された。[84]

おわり