若葉の頃

 カレンダーが8月から9月へとめくられたその日、ミュラーは高級士官クラブ<海鷲>で、ビッテンフェルトと杯を交わしていた。
 間近に迫った大本営のフェザーン移転を前に、帝国軍の首脳たちは多忙を極めている。8月8日の布告から出立の9月17日まで40日ほどしかない中で、自分の艦隊の艦船、将兵、書類、とにかくすべてをフェザーンへ移す手配をしなければならないのだ。
 あとからあとから追いかけてくる事務仕事にストレスの臨界点を越えたビッテンフェルトがミュラーを半ば強引に連れ出し、今夜、久々の酒席となったわけだが、豪快に飲み、豪快に食べ、豪快に笑った後、黒色槍騎兵艦隊を率いる猛将はあっさりと眠りの精に抱き取られ、広い店内に怒号のようないびきを響き渡らせていた。
 「まったく・・・ビッテンフェルト提督らしいといえばその通りだが・・・」
 ひとり取り残された形のミュラーは、傍らで眠る僚友の寝顔に意外なあどけなさを見つけて、思わず口元をゆるめた。少年と青年がせめぎ合っていた頃、シンプルな濃紺の制服を着ていた時代へと記憶が遡って行く。
 「間もなくオーディンを離れることになるからかな・・・昔のことがことさらに思い出されるのは・・・」
 ミュラーは空になったグラスにやや薄めの水割りを作ると、ソファの背に身を預けてゆったりとその砂色の瞳を閉じ、瞼の裏に浮かぶ遠い日の記憶とともにひとりグラスを傾けるのだった。


 それはミュラーが士官学校に入学してやっと1ヶ月が過ぎようか、という頃のある朝のことだった。
 「掲示板、見たか?またアイツだぞ!」
 「しかし、まあ、ヤツも次から次へとよくこれだけ、処分されるネタがあるものだ」
 連れ立って廊下を歩いてくる4年生の姿を認めて、ミュラーはまだぎこちなさの残る敬礼を施して慌てて道を譲ったが、すれ違いざま、彼の耳にはそんな会話が聞こえてきた。
 壁に張りつくようにして上級生を見送ったミュラーは、「処分」とは穏やかじゃないな、とさっそく掲示板が設置されている玄関ホールへと足を向けてみた。案の定、すでに掲示板前には黒山の人だかりができている。
 「どうしたんだ?何があったの?」
 上級生に遠慮してか、少し遠巻きに騒ぎを見ていた同級生たちに声をかけてみると、彼らは「まあ、見てみろよ」とでも言うように、曖昧な笑いを浮かべて掲示板を指差す。
 持ち前の好奇心に突き動かされるように、ミュラーは人垣を器用に縫って掲示板が見える位置まで進み出た。

       『 下記の者、3日間の謹慎に処する。
                   記
          第4学年 フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト
                                 学校長 』

 砂色の瞳がとらえたのはあっけないほどの告知文書だった。
 「で、アイツは、今回は何をやったんだ?謹慎3日、なんてそう重くはない処分だから、たいしたことではないのだろうが」
 「何でも、名誉あるオーディン士官学校の品位を汚す行為があった、ということらしいぞ」
 「なんだ、それ?」
 そんな声も聞こえてきて、ミュラーはこの「フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト」という上級生に俄然、興味を抱いた。
 「将来の帝国軍を背負って立つ気概を忘れることなく、栄えあるオーディン士官学校に籍を置く学生としての本分をわきまえ、国家と皇帝陛下の御為に日々、学業と訓練に邁進せよ」
 ほんのひと月前に聞かされた入学式での校長訓示を思い出すまでもなく、ここは学校とはいえ軍隊と同じで、規律と秩序を何より重んじるところなのに、そんな型破りな先輩がいらっしゃるのか、となんだか胸がすくような気分がしたのだ。

 「俺が聞いたところによると、この間の外出日に何かやらかしたらしい」
 「ああ、知ってる、それ。秋祭りのイベントでやっていた『大食い選手権』に飛び入り参加して、ぶっちぎりで優勝しちまったんだ、アイツ。おまけに、その日のニュースで名前と顔が放送されちゃったんだよ、それも制服姿で」
 「それで、学校の品位がどうの、と言われたわけか・・・」
 「ネタが『大食い選手権』じゃなあ・・・あの頭の固い教官連中が目を剥きそうなことではあるな」
 「ま、ヤツのことだからたいして堪えちゃいないって。堂々と3日もサボれてツイてる、くらいのことは言ってるに違いないさ」
 「ああ、そうだろうな」
 そこで始業のチャイムが鳴り、学生たちは三々五々、それぞれの教室へと散っていった。
 「おい、ミュラー、行くぞ!」
 まだぼんやりと掲示板の前に立ち尽くしていたミュラーに同級生が声をかける。
 「あ、ああ。今行くよ」
 同級生には軽く手を挙げて応えながら、ミュラーは「フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト」という名前を記憶層に銘記したのだった。


 やがてテストの季節が近づいてきていた。
 ふだんは閑散としている図書館もにわか勉強に励む学生たちでいつにない賑わいを見せている。
 ミュラーも放課後は閉館まで図書館で過ごすのがここ最近の日課になっていた。寮に帰ってしまうと、つい同室の友人と話し込んでしまったりで、ちっとも勉強がはかどらないのだ。
 「ふ~、どうも数字をいじるのって苦手なんだよなあ」
 手にしていたペンをノートの上に投げ出して、ミュラーは大きくため息をついた。いずれは「提督」と呼ばれたい、と艦隊司令官を目指しているというのに、航路計算や艦隊運用の数値が絡んでくると一気に向学心が萎えてしまう。
 「だれか、ヤマ張ってくれないかなあ。もう、そこだけに賭けるんだけどなあ」
 彼にとって最大の鬼門、宇宙航法概論のテストは2日後に迫っている。入学して数ヶ月の1年生が習っていることなど初歩の初歩で、それほど高度なことを要求されているわけではないのだが、彼の頭脳は数字の操作だけですでに許容量いっぱい、という状態だった。
 「なんだ、こんなところで引っかかっているのか?」
 突然、ミュラーの頭上から張りのあるバリトンが降り注いだかと思うと、机の上に広げてあったテキストが目の前にふわっと浮き上がった。
 「こんなの基本だぞ、1年坊主!いいか、この公式をまず覚えろ。今は理屈なんかいいからとにかく覚えるんだ。で、こっちの数値を代入する。ほれ、計算、計算!」
 何が起こったのか把握できないまま、ミュラーは言われた通りに慌てて電卓をたたく。
 「で、求められた解をさらにこっちの公式に当てはめる。あとは計算するだけだ。どうだ?わかるか?やってみろ」
 「あ、できた・・・」
 「そうだろ、そうだろ。だいたいこの最初の公式を使うところまではすぐわかるんだけどな、その先で迷うヤツが多いんだ。ここはテストでもよく出るところだから、しっかりやっておけよ。うん、この問題集のこのあたり、目を通しておくといい。あとはこれだな」
 他人の持ち物だということなど意に介さず、次々と「重要ポイント」に赤々と大きなマル印をつけて行く見知らぬ上級生をぽかんと見上げていたミュラーが、はっと我に返った。
 「あ、あの・・・ありがとうございました」
 「いいってことよ。最初のテストがうまく行くと、ここの生活もぐんと快適になる。ガンバレよ、1年坊主!」
 「は、はいっ!」
 その上級生はミュラーの肩をポンポンと軽く叩くと、手にしていたテキストを机に戻し、その場を去っていった。
 たくましい長身、印象的なオレンジ色の髪、薄い茶色の瞳とニキビ跡が少し残る白い肌、ぶっきらぼうなのに温かみを感じさせる声。襟元の徽章で4年生だということはすぐにわかったが、それが誰なのか、ミュラーは必死で記憶を辿ったが思い当たらなかった。


 「おい、ミュラー、テストの結果が貼り出されてるぞ。お前、すごいじゃん。学年3位!!」
 同級生に腕を引っ張られるようにして掲示板の前に来てみると、確かに自分の名前が3位として表示されている。自分でも信じられない、という面持ちで呆然と掲示を見上げていたが、突然、背後から頭をぽんと叩かれた。
 「あ、あなたは・・・」
 図書館で計算問題を教えてくれた先輩だ・・・と、ミュラーは口の中だけで小さく呟いた。燃えるようなオレンジ色の髪は見忘れようもない。
 「で、テストはどうだったんだ、1年坊主?」
 「はい。うまくいったみたいです・・・学年3位に入りました」
 「そうか、そうか。それはよかったな」
 上級生は豪快に笑うと大きな手のひらでミュラーの髪をくしゃっとかきまわした。子供をあやすようなやりようにミュラーはややむっとしながらも、ここは礼儀正しく頭を下げた。
 「先輩のおかげです。その節はありがとうございました」
 「別にいいって」
 じゃあな、と歩き出そうとする上級生に、ミュラーのとなりにいた同級生が遠慮がちに声をかけた。
 「あの、ビッテンフェルト先輩。今回は惜しかったですね・・・5位だったそうで」
 「まあ、3日謹慎していた間に受けていない授業もあったからな。それに、たまにはワーレンやロイエンタールなんかにも花を持たせてやらないと」
 「あ、そ、そうですね・・・」
 ガンバレよ、1年坊主ども、と軽く手を振って歩いて行く背中を敬礼で見送りながら、ミュラーは速くなる鼓動を感じていた。あの人が、あの人がビッテンフェルトという人だったのか!
 「ミュラー、お前、ビッテンフェルト先輩と知り合いなのか?」
 同級生が意外そうな目を向ける。
 「いや、知り合いというわけでもないんだけど・・・」
 「あの人、すごいよなあ。成績優秀なのにそれを鼻にかけるようなところもないし、将来はああいう上官の下で働きたい、と思わせる人だよ」
 同級生の手放しの誉めように、ミュラーは素直に頷くのも癪な気がしてあえて反論をしてみた。
 「でも、校規違反で処分されたりが多い人なんだろう?」
 「まあな。でも、貴族でもなく、コネがあるわけでもなく、やたら処分はされるのに、学校があの人を見放さないのは、それだけの人材だと見込まれているからだ、ってもっぱらの評判なんだぜ。実際、成績は常に5本の指に入るし、去年の全校参加の野外演習でもあの人が率いた小隊の独壇場だったという話だ。気取らないし、面倒見はいいし、いい先輩だって下級生からの人気もすごいんだぞ」
 憧れのスターを語るような同級生の口ぶりにミュラーも苦笑を禁じえないものの、確かにあの図書館での出会いを思い出せば、コイツの言うとおりかもれしないな、とも思うのだった。

 その後は特別な交流もなく時は流れ、ビッテンフェルトは士官学校を卒業していった。
 ミュラーも進級して、学業に、訓練にとますます多忙な日々を過ごすようになり、ビッテンフェルトのことも学生生活の小さな挿話のひとつとして記憶の片隅に追いやられた格好になった。
 ふたりが再会を果たすのは、さらに10年の歳月を経たローエングラム侯の元帥府においてのこととなる。


 夜も更けて高級士官クラブ<海鷲>も閉店時間を迎えようとしていた。ウェイター役を務める幼年学校生が各テーブルでラストオーダーを受けている。
 ミュラーの傍らでは、酔いつぶれたビッテンフェルトがまだ眠り込んでいた。
 「提督、ビッテンフェルト提督!ほら、起きてくださいよ!!」
 ミュラーはビッテンフェルトの体をゆすったり、耳元で叫んだりしてみるが、効果はない。
 「ビッテンフェルト提督!!」
 麾下の将兵を叱咤する時のような大声で呼んでもビッテンフェルトは微動だにしない。閉店準備に取りかかっている幼年学校生たちは、眠れるトラとなった猪提督をなんとかしてもらおうとミュラーにすがるような目を向けている。
 (あー、もう背負っていくしかないか・・・)
 普通に考えればごめんこうむりたい事態だ。だが、ミュラーはそれほど嫌がっているふうでもなく、幼年学校生に手伝わせて僚友を背中に負うと、ややおぼつかない足取りで<海鷲>を後にした。
 (まあ、今の自分があるのも、提督のおかげ、といえなくもないし・・・ささやかながら、これはご恩返しです。今回に限り、ですけどね)
 ミュラーは遠い記憶に向かって呟いた。あの図書館での出会いがなければ、ずっと航路計算でつまずいたまま、提督など夢のまた夢、だっただろう、と。
 ミュラーは頭上にきらめく夏の星座を見上げた。
 (提督・・・このオーディンの星空を見られるのも、もうあとわずかですよ。あの頃・・・我々はこの星空に飛び出して行くことを夢見たのでしたね・・・)
 よいしょ、と彼は背中の眠り子を背負い直すと、少しだけ秋の気配を漂わせ始めた夜風に砂色の髪をそよがせた。
 間もなく、この星空の彼方、フェザーンで新しい生活が始まる。おそらくは再びこの星に戻ることはないだろう。故郷を遠く離れることに何がしかの郷愁を感じて軽く吐息したミュラーの耳に、ふと懐かしい声が滑り込んできた。
 「ガンバレよ、1年坊主!」
 その声に励まされて夢の階段を駆け上がったかつての士官候補生は、思わず声に出して「はいっ」と返事をしていた。
 後の「鉄壁ミュラー」を生み出したのが自分なのだということを知ってか知らずか、ビッテンフェルトはミュラーの背中でなお気持ちよさそうに熟睡し続けている・・・。

                                     =Gifts =


 

まゆさんの「星の砂」でカウント4716番を踏んだ記念に頂きました
リクエスト権利を頂いた時、迷わずお願いした「ビッテンとミュラーさんのお話」です。
士官学校時代のビッテン、かっこいい~。下級生が憧れるのも無理ないです~
このころから、この人の部下になりたいと思わせる魅力があったのですね。
謹慎処分の原因が『大食い選手権』の優勝とは、いかにもビッテンらしくて納得!(笑)
ミュラーさんも初々しくて可愛い~。
しかし、ビッテンとミュラー、何かと縁があるかと思っていたら、原点はここだったのね。
二人の関係は、過去も現在もそして未来もこんな感じで続くのでしょう。
まゆさん、素敵なお話ありがとうございました。