1 はじめに
BC1750年、Cephisus川で大規模かつ長期にわたる洪水が発生した。Cephisus川の上流に住んでいたEctenesは、Ogygusに率いられてBoeotia地方へ移住した。[1]
BC1580年、Ectenesは、Hyantesなどによって圧迫されて、Boeotia地方から各地へ移住した。[2]
Ectenesの一部の人々は、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられて、Boeotia地方からThessaly地方へ移住した。彼らは、Thessaly地方に最初に住んだギリシア人であった。
2 Argosからの移住
BC1560年、Argosの町の住人であるPelasgiansは、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaの一家に率いられて、Thessaly地方へ移住した。[3]
移住先は、Thessaly地方北部のPeneius川からPagasetic Gulf西岸に至る地域であった。[4]
2.1 Larisaの創建
Pelasgiansは、Peneius川近くに人々を集めて町を作った。[5]
最初、町はArgosの町と呼ばれていたが、Larisaの子Pelasgusが母の名前に因んで、Larisaの町と呼ぶようになった。[6]
Larisaの町は、Thessaly地方最古の町であった。
また、Pagasetic Gulf南西のOthrys山近くにあるLarisa Cremasteも同じ頃の創建と思われる。このLarisaも、Pelasgusの娘Larisaの名前に因んで名付けられたという。[7]
2.2 Pelasgiansの居住地
Larisaの3人の息子たち、Pelasgus、Achaeus、Phthiusは、それぞれ分かれて居住した。
Pelasgusは、Peneius川近くのPelasgiotisに住んだ。
Achaeusは、Pagasetic GulfとMaliac Gulfの間のAchaiaに住んだ。
Phthiusは、Melitaeaの町とPelasgiotisの間のPhthiotisに住んだ。[8]
3 Deucalionの時代
BC1540年、Deucalionは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川へ南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[9]
DeucalionはPyrrhaと結婚して、2人の息子たち、HellenとAmphictyonが生まれた。[10]
3.1 洪水の発生時期
Athens王がCecropsからCranausに変わった年に「Deucalionの時代の洪水」が発生した。[11]
BC2世紀の年代記作者Castorが伝えているAthens王の一覧によれば、CecropsからCranausに代わった年は、BC1511年となる。[12]
3.2 洪水の発生
BC1511年、Thessaly地方北部を震源とする直下型の大地震が発生した。Tempeと呼ばれる山々が裂けてTempe渓谷ができ、沼の水がPeneius川に流れ込んで沼地がなくなり、Dotiumという平原になった。Peneius川は増水し、その川の支流の上流でも洪水が発生した。[13]
3.3 洪水による影響
3.3.1 Pelasgians
Larisaの子Pelasgusは、それまでの沼地が平原になって喜んで祭りを催し、それがPeloria祭の起源となった。[14]
3.3.2 Deucalion一族
Deucalionの子Hellenは、Pyrrhaの町からEnipeus川の対岸にHellasの町を建設して住んでいたが、洪水に襲われて、Pyrrhaの町へ再移住した。[15]
4 Deucalionの子Hellenの時代
Hellenは、Deucalionの跡を継いでPyrrhaの町を治め、その地方の人々はHellenes、または、Hellasと呼ばれるようになった。[16]
HellenはOrseisと結婚して、3人の息子たち、Aeolus、Dorus、Xuthusが生まれた。[17]
また、Hellenのもう一人の妻Othreisとの間には、2人の息子たち、PhagrusとMeliteusが生まれた。[18]
4.1 AmphictyonとAthens王の娘との結婚
BC1503年、Hellenの兄弟Amphictyonは、Athensの町へ移住して、第2代Athens王Cranausの娘と結婚した。[19]
この結婚は、Ogygusを共通の先祖とする同族間の結婚であり、両人から4世代前は同じ先祖であったと思われる。
Amphictyonは、Cranausを追放して、第3代Athens王に即位した。[20]
BC1492年、Amphictyonは、Egyptから移住して来たCranausの娘Atthisの子Erichthonius (or Erechtheus)によって、Athensの町から追放された。[21]
4.2 Melitaeaの創建
BC1495年、Hellenの子Meliteusは、Pyrrhaの町のすぐ近くにMelitaeaの町を創建した。[22]
5 Hellenの子Aeolusの時代
Hellenの跡を彼の長男Aeolusが継いだ。[23]
Aeolusには息子たち、Mimas、Hypseus、Sisyphus、Athamas、Cretheusが生まれた。[24]
5.1 Dodonaの神託所
BC1480年、Haemonの子Thessalusは、Scotussaの町からDodonaに神託所を移して、神殿を建立した。[25]
この引越しには町のほとんどの女たちが同行し、Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[26]
Haemonは、Larisaの子Pelasgusの息子と推定される。[27]
5.2 Achaiaへの移住
BC1470年、AeolusとDorusは、彼らの兄弟XuthusをMelitaeaの町から追放した。Xuthusは、Athensの町へ移住して、第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaと結婚した。 [28]
BC1442年、Xuthusは、Peloponnesus半島北部のAegialus (後のAchaia)地方へ移住した。
Erechtheusの死後、Xuthusは人口の増えたAttica地方から人々を率いて新天地を求めたものと思われる。[29]
5.3 Dorusの移住
BC1460年、Dorusは、Melitaeaの町からEnipeus川を下り、Peneius川の北側の土地へ移住した。[30]
Dorusが住む地方はDoris (後のHistiaeotisの一部)、住人はDoriansと呼ばれるようになった。[31]
6 Aeolusの子Mimasと、Mimasの子Hippotesの時代
6.1 空白時代
Deucalionの子Hellenの子Aeolusの後の2世代の系譜は殆ど伝えられていない。
Diodorusのみが、Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの系譜を伝えている。[32]
Mimasの子Hippotesの時代は、GreeceにPhoenician lettersをもたらしたCadmusの渡来があった。Hippotesの子Aeolusの系譜については、詳細に伝えられている。
DeucalionやHellenの系譜が伝えられているのは、Deucalionの子AmphictyonやHellenの子XuthusがAthens王の娘との結婚が原因であり、Athensの町で記録されていたと推定される。もし彼らの結婚がなければ、Deucalionの系譜は、Hippotesの子Aeolusから始まっていたと思われる。
6.2 支族の誕生
MimasやHippotesの息子は、一人だけではなく、他にも多くの息子たちがいたはずである。
その息子たちから、AenianiansやPerrhaebiansが誕生したと思われる。
AenianiansやPerrhaebiansは、Amphictyonsの一員になっており、後に、Aeolisと共にThessaly地方からPelasgiansを追放している。
AenianiansやPerrhaebiansもDeucalionの後裔であったと推定される。[33]
6.3 Xuthusの子Achaeusの帰還
BC1435年、Xuthusの子AchaeusがAtheniansを味方にして、Aegialusの町からMelitaeaの町へ帰還した。[34]
6.4 Arneの創建
Xuthusを追放したAeolusの跡を継いだのは、彼の息子Mimasであった。[35]
BC1435年、Mimasは、Achaeusによって追い出されて、Melitaeaの町から北西へ約50kmのCoralius川の近くに移住して、Arneの町を創建した。[36]
6.5 CadmusやThraciansの通過
BC1420年、CadmusやThraciansの大集団がThrace地方から南下して、Thessaly地方を通過した。[37]
6.5.1 Hellenの子Dorusの移住
Doris地方に住んでいたDorusは一族を率いて南へ移動し、Greece中部のOeta山とParnassus山の間のDryopis地方へ移住した。[38]
Dryopis地方は、後に、Dorisと呼ばれるようになった。[39]
Doriansの一部は、Dorusと共に移住しないで、Peneius川の近くに残留した。
彼らの首領は、Dorusの子Tectamusの子Peneiusであった。Peneiusは、居住地を流れる川に彼の名前を与えた。[40]
6.5.2 Aeolusの子Cretheusの移住
Cretheusも彼の叔父Dorusと共にDryopis地方へ移住し、そこから、彼の従兄弟Dorusの子Tectamusと共にCrete島へ移住した。Tectamusの移民団には、DoriansやPelasgiansが含まれていたが、CretheusはAeoliansを率いていた。[41]
6.5.3 Achaeusの再移住
Xuthusの子Achaeusと彼の2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Melitaeaの町からAegialusの町へ戻った。[42]
6.6 Halusの創建
BC1415年、Athamasは、Arneの町からPagasetic Gulf西岸に移住して、Halusの町を創建した。[43]
6.7 Eleusisへの移住
BC1415年、EumolpusがAttica地方に攻め込んで、Eleusisの町に定住した。[44]
Straboは、EumolpusがThracianだと記しているが、Thessaly地方に住んでいたPelasgianであったと思われる。[45]
Eleusisの町には、BC1580年にArgosの町から移住した密儀祭司Trochilusの後裔が住んでいて、祭儀を執り行っており、Athensの町と争いがあったと推定される。[46]
Trochilusは、Triopasの子Agenorとの争いが原因で、Argosの町を去っているため、Eleusisの町の人々は、Argosの町を頼ることはできなかった。Eleusiansは、Agenorの兄弟Pelasgusの娘Larisaの後裔に応援要請したと推定される。[47]
6.8 Peloponnesus北部への移住
BC1407年、Aeolusの子Sisyphusは、Xuthusの子Achaeusの息子たちと共にArgosの町に味方して、Sicyonの町と戦って勝利した。[48]
この戦いの後で、Sisyphusは、Arneの町からSicyonの町の東側へ移住して、Ephyra (後のCorinth)の町を創建した。[49]
7 Hippotesの子Aeolusの時代
Hippotesの跡を彼の息子Aeolusが継いだ。[50]
Aeolusには、5人の妻たちから、10人の息子たちと、3人の娘たちが生まれた。
彼の妻たちの名前は、Enarete、Protogenia、Thyia、Stilbe、それにIphis (or Iphys)であった。[51]
彼の息子たちの名前は、Andreus (or Minyas)、Deion (or Deion, Deioneus)、Macareus、Aethlius、Perieres、Macedon、Magnes、Lapithus (or Lapithes)、Salmoneus、それにCretheusであった。
彼の娘たちの名前は、Melanippe (or Arne, Antiopa)、Calyce、それにCanaceであった。[52]
7.1 文字の普及
Aeolusの父HippotesやHippotesの父Mimasの系譜は、不明である。
Aeolusの系譜が詳細に残っているのは、彼の時代に、CadmusがPhoenician lettersをギリシアにもたらしたからであると思われる。[53]
しかし、どこで、どのような縁があって、文字で記録できる人物が、Hippotesの子Aeolus以降の系譜を記したのかは不明である。
7.2 Itonusの創建
BC1392年、Amphictyonの子Itonusは、Locris地方からThessaly地方へ移住して、Athamasが創建したHalusの町の近くにItonusの町を創建した。[54]
Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Itonusは、Hellenの子Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの息子であった。
つまり、Itonusは、彼の祖父の従兄弟Athamasを頼って、移住した。
7.3 大津波の襲来
BC1390年、Crete島の北方約110kmにあるCalliste (後のThera、現在のSantorini)島で大規模な噴火があり、Aegean Seaで大津波が発生した。その津波は、Thessaly地方の東海岸や、Pagasetic Gulfの岸辺の町を襲った。[55]
7.3.1 Boeotiaへの移住
Pagasetic Gulf西岸のHalusの町は津波で洗い流され、Aeolusの子AthamasはBoeotia地方へ移住した。[56]
7.3.2 Italyへの移住
津波は、Thessaly地方の東海岸に住むPelasgiansを襲い、彼らはItonusの町を襲撃した。
Itonusの妻MelanippeはPelasgiansのDiusに連れ去られた。[57]
DiusはMelanippeを連れてItaly半島南部のMetapontiumの町へ移住した。[58]
MelanippeはArneの町のHippotesの子Aeolusの娘であった。[59]
7.3.3 Pelasgiansの追放
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方のThermopylae近くのAnthelaの町に住み、付近一帯のDoriansの王であった。[60]
Amphictyonは、Melanippeの父Aeolusと共に同族を結集して、PelasgiansをThessaly地方から追放した。[61]
Melanippeの父Aeolusは、Amphictyonの父Deucalionの父Dorusの兄弟Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であった。つまり、彼らは、Hellenesとして、同族であった。
Amphictyonが集めた集団は、後に、Argosの町のAcrisiusによって、Amphictyonsとして組織化された。[62]
7.3.4 Phthiaへの移住
Pelasgiansが退去した土地に、Amphictyonの兄弟PronousがLocris地方から移住して来た。[63]
Pronousの子Hellenの子Neonusの子Dotusは、Dotium平原の名付け親になった。[64]
7.3.5 Peloponnesusへの移住
Aeolusの3人の息子たち、Aethlius、Macareus、Perieresは、Arneの町からPeloponnesus半島北西部のOlenusの町へ移住した。[65]
Olenusの町は、彼らの移住より20年前に、Danausの娘Anaxiteaの子Olenusによって創建された町であった。[66]
Olenusには、彼とDanausの娘Hippodamiaの娘との間に生まれた2人の娘たち、AexとHeliceがいた。[67]
恐らく、PerieresはOlenusの娘と結婚して、Olenusの町を継承したと思われる。
Perieresには息子Pisusが生まれた。[68]
BC1389年、Macareusは植民団を率いて、Pelasgia (後のLesbos)島へ移住した。[69]
BC1385年、AethliusはOlenusの町から南へ移住して、Elisの町を創建した。[70]
BC1335年、Perieresの子PisusはOlenusの町からOlympiaの町の近くへ移住して、Alpheius川のほとりにPisaの町を創建した。[71]
7.3.6 Dryopisへの移住
Hellenの子DorusがDoris地方からParnassus山の近くへ移住した後も、Dorusの娘Iphthime一家は、Doris地方に残っていた。[72]
Iphthimeの夫は、Pelasgiansであったと思われ、Amphictyonの息子たちによって居住地を追われた。
彼らは、Iphthimeの父の移住先の近くのSpercheius川近くに定住した。[73]
Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreとの息子Dryopsの娘Dryopeの子Amphissusは、Oeta山の近くにOetaの町を創建し、彼らはDryopes (or Dryopians)と呼ばれた。[74]
7.4 Triccaの創建
BC1385年、Peneiusの娘Triccaの夫は、Peneius川の左岸に町を建設して、妻の名前に因んで、Triccaの町と呼ばせた。[75]
恐らく、Triccaの夫はDoriansで、Doris地方から西へ居住地を広げたと推定される。
7.5 Aeolusの養子Epopeus
Aeolusの跡を、彼の娘Melanippeの子Boeotusが継いでおり、Aeolusの跡を継ぐ息子はいなかった。[76]
BC1375年、Aeolusは自分の跡継ぎにするために、Sicyonの町からAloeusの息子Epopeusを養子に迎えた。[77]
AeolusはEpopeusの母Canaceの父であり、Epopeusは彼の孫であった。[78]
8 Aeolusの娘Melanippeの子Boeotusの時代
8.1 Boeotusの帰還
Pelasgiansによって拉致されたMelanippeは、Italy半島南部のMetapontiumの町まで連れて行かれ、その地で、2人の息子たち、AeolusとBoeotusを産んだ。[79]
BC1370年、Boeotusは、母Melanippeと共にItalyからThessaly地方のArneの町へ帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[80]
Aloeusの息子Epopeusは、Sicyonの町へ帰還した。[81]
8.2 Lapithsの誕生
BC1365年、Aeolusの子Lapithusは、Arneの町からPeneius川の北側の地へ移住した。
Lapithusの一族は、Lapithsと呼ばれるようになった。[82]
Lapithsの発祥地は、Larisaの町の西側、Doris地方の東側にあったと推定される。[83]
8.3 Lacedaemonへの嫁入り
BC1351年、Lapithusの娘Diomedeは、Laconia地方のAmyclaeの町に住む、Lacedaemonの子Amyclasへ嫁いだ。[84]
Thessaly地方とLaconia地方の遠距離婚は、つぎのようにして成立したと推定される。
Thessaly地方の部族を含むAmphictyonsをArgosの町のAcrisiusが組織化した。[85]
そのときに、Acrisiusは、Aeolusの子Lapithusと知合い、縁組みを仲介したものと思われる。Amyclasは、Acrisiusの妻Eurydiceの弟であった。[86]
8.4 Eleiaへの移住
BC1335年、Aeolusの子Salmoneusは、Arneの町からEleia地方へ移住して、Salmoneの町を創建した。[87]
Salmoneの町は、Elisの町とPisaの町のほぼ中間にあった。
Elisの町の創建者は、彼の異母兄弟Aethliusであり、Pisaの町の創建者は、彼の甥Pisusであった。[88]
8.5 Glaphyraeの創建
BC1330年、Aeolusの子Magnesの子Glaphyrusは、Olympus山からBoebeis湖の近くへ移住して、Glaphyraeの町を創建した。[89]
9 Boeotusの子Itonusの時代
9.1 AmphionとZethusへの加勢
BC1325年、AmphionとZethusはCadmeia (後のThebes)の町のHyrieusの子Lycusを攻めて、町を占領した。[90]
この戦いには、Zethusの妻Thebeの兄弟Locrusも加勢したが、Arneの町のBoeotusの子Itonusも加勢したと推定される。[91]
Itonusは、Locrusの父Physciusの兄弟Itonusの妻Melanippeの子Boeotusの息子であった。つまり、Locrusは、Itonusの父Boeotusの従兄弟であった。
9.2 Boeotiaへの移住
この戦いの後で、Boeotusの子Itonusは、Arneの町からBoeotia地方のCoroneiaの町の近くへ移住した。Itonusは、Coroneiaの町の下のCopais湖の岸辺に、Arneの町を創建した。[92]
そこには、Itonian Athenaの神域が造営され、Boeotiansの同盟集会が開催された。[93]
Coroneansが、Itonus率いるBoeotiansの移住を受け入れたのは、Coroneiaの町やHaliartusの町の住人もAmphionとZethusに協力したからであった。それらの町の創建者CoronusとHaliartusは、Zethusの妻Thebeの母Maeraの父Proetusの兄弟であった。[94]
9.3 Rhodesへの移住
BC1320年、Lapithusの子Phorbasは、Rhodes島の住民から招かれて島へ移住した。[95]
Rhodes島に住むMacareusの子Leucippusは、島の先住民に対抗するために身内のPhorbasをRhodes島へ招いた。
Leucippusは、少し前にLesbos島からRhodes島へ移住していた。[96]
LeucippusとPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを祖父とする従兄弟であった。
BC1305年、Phorbasは、Pelopsを恐れたElis王Alectorから招かれて、Rhodes島からAchaia地方のOlenusの町へ移住した。[97]
10 Iolcusの隆盛
10.1 Iolcusの創建
BC1320年、Aeolusの子CretheusはArneの町からPagasetic Gulf北岸へ移住して、Iolcusの町を創建した。[98]
AD6世紀の文法学者Stephanus of Byzantiumは、Iolcusの町の名前は、Amyrusの子Iolcusに因んで名付けられたと伝えている。[99]
Amyrusは、Iolcusの町の北西方のDotion平原を流れる川の名前でもあり、Argonautsの遠征参加者の一人でもあった。[100]
Amyrusの子Iolcusの名前が、町の名前になったのは、Iolcusの町が破壊された後で、CretheusのIolcus創建の100年以上後である。
Cretheusが創建した当時の町の名前は、Iolcusでなかったかもしれない。
10.2 Oechaliaの創建
BC1310年、Aeolusの子Melaneusは、Triccaの町の近くにOechaliaの町を創建した。[101]
MelaneusはLapithsに属しており、Triccaの町とDoris地方の間、つまり、Doriansの地に初めて進出したLapithsであった。
10.3 Messeniaへの移住 (Perieres)
BC1310年、Aeolusの子Perieresは、後継者の絶えたMessenia地方のAndaniaの町の住人から求められて、Andaniaの町へ移住した。[102]
Andaniaの町の住人は、その町の創建者Polycaonの妻Messeneと共にArgosの町から移住した人々であったが、元々はThessaly地方に住んでいたAchaeansであった。
Andaniaの町に住んでいたAchaeansは、Thessaly地方の有力者の中からPerieresを選んだと思われる。
10.4 Messeniaへの移住 (Melaneus)
BC1305年、Aeolusの子Melaneusは、Oechaliaの町からMessenia地方のAndaniaの町の近くに移住して、Oechaliaの町を創建した。[103]
Melaneusは兄弟Perieresの求めに応じて移住したと推定される。
10.5 Pheraeの創建
BC1303年、Hippocoonの子PheresはPhyllusの町からIolcusの町の近くへ移住してPheraeの町を創建した。[104]
10.6 Eleiaへの移住
BC1303年、Hippocoonの子Amythaonは、Thessaly地方のPhyllusの町からEleia地方へ移住してPylusの町を創建した。[105]
Amythaonの移住には彼の2人の息子たち、MelampusとBiasの他に、Iolcusの町のCretheusの子Neleusも参加した。[106]
NeleusがIolcusの町の継承権をめぐって、彼の兄弟Peliasと争ったという伝承もある。[107]
しかし、PeliasとNeleusは共同でOlympia祭競技会を開催していることから、Neleusは自発的に異母兄弟Amythaonの移住に参加したと推定される。[108]
また、Amythaonの子Biasの娘Anaxibiaは、Peliasに嫁いでおり、争いが移住の原因とは考えられない。[109]
10.6.1 Pylusの名前の由来
Megaraの町のClesonの子Pylos (or Pylon)がPylusの町を創建したという伝承がある。[109-1]
系図を作成すると、Pylosが創建した町から彼を追放したNeleusの移住は、Pylosが60歳近くの年齢のときである。Pylosの名前と町の名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。
AmythaonはPylusに住み、Pheresの娘Idomeneと結婚し、2人の息子たち、Bias と Melampusが生まれた。[109-2]
AmythaonがThessaly地方からEleia地方へ移住する時、MelampusとBiasが同行している。つまり、Amythaonの息子たちが生まれたのは、Thessaly地方のPylus (or Phyllus)である。
Amythaonは、Eleia地方に創建した町に、Thessaly地方にいたときに住んでいた町の名前をそのまま付けたと推定される。
そして、その町の名前は、Lepreatic PylusやMessenian Pylusに引き継がれた。[109-3]
10.7 Magnesiaへの移住
BC1300年、Periphasの子Antion (or Leonteus)は、Ossa山とPelion山の間のMagnesia地方へ移住した。
Antionの子Phlegyasの娘Coronisは、Boebeis湖の近くで育った。[110]
その後、Antionの子Ixionの子Peirithousは、Pelion山周辺を自領とした。[111]
10.8 Aesonis (or Aeson)の創建
BC1300年、Hippocoonの子Aesonは、Phyllusの町からPagasetic Gulf近くへ移住して、Aesonisの町を創建した。[112]
10.9 Orchomenusからの嫁入り
BC1296年、Cretheusの子Peliasは、Orchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えた。[113]
当時、他に例のない宝庫を作ったMinyansとの姻戚関係により、Iolcusの町は繁栄した。[114]
多くのMinyansがOrchomenusの町からIolcusの町に移住した。[115]
10.10 Diaの創建
BC1287年、Actorの子Aeacusは、Phthiaの町の近くにDiaの町を創建した。[116]
10.11 Aegina島への移住
BC1285年、Actorの子Aeacusは、Diaの町からAegina島へ移住した。[117]
10.12 Eleiaへの移住 (Pyttius)
BC1280年、Pyttiusは、Thessaly地方からEleia地方へ移住してBuprasiumの町を創建した。[118]
Pyttiusの子Amarynceusの子Dioresの子Automedonは、Trojan WarでAchillesのcharioteerであったことから、PyttiusはMyrmidonsに属していたと考えられる。[119]
Pyttiusの年代から推定すると、Pyttiusは、Myrmidonの子Actorの息子と思われる。[120]
10.13 Jasonの遠征
BC1268年、Aesonの子Jasonは、Minyansと共にColchis地方へ遠征した。[121]
これより前に、Athamasの子Phrixusの子Presbonは、Colchis地方からBoeotia地方へ移住し、彼の息子Clymenusは、Minyansの王になった。[122]
Iolcusの町には、Minyansの娘の嫁入りに伴って、多くのMinyansが住んでいた。
Jasonは、Colchis地方への遠征でAeetesの娘Medeaと結婚した。[123]
Argonautsと呼ばれる英雄たちのColchis遠征の20年前であった。
Argonautsの遠征物語では、Iolcusの町のPeliasがJasonに遠征を命じ、Greece各地から多くの英雄が遠征に参加している。
この物語は、Pelias時代のIolcusの町の繁栄を背景にしているが、その繁栄の源は、Orchomenusの富ではなく、Minyansによる黒海方面との交易であった。
Minyansは、Presbonが移住した後も、黒海方面と交易を続けて、Boeotia地方よりも、黒海方面との交易に便利なPagasetic Gulfに近い町へ住み着いたと思われる。
Minyansは、Argonautsの代名詞になった。[124]
10.14 Sinopeへの移住
Jasonの遠征には、Triccaの町のDeimachusの子Autolycusも参加した。[125]
BC1260年、Autolycusは、Jasonとの遠征中に見つけた土地に移民団を率いて移住した。
そこは、黒海南岸のSinopeの町であった。[126]
Deimachusは、Triccaの町を創建したPeneiusの娘Triccaの子孫と思われる。
Triccaの町の最初の住人は、Doriansであった。[127]
Autolycusは、Oechaliaの町から勢力を伸ばしたLapithsのElatus(or Eilatus)の子Ischysに追い出されたと推定される。
10.15 Aegina島からの移住
BC1251年、Aeacusの子Peleusは、Aegina島からPhthiaの町のActorの子Eurytionのもとへ移住した。[128]
EurytionはAeacusの兄弟であり、Peleusの叔父であった。
Peleusは、従兄妹であるEurytionの娘Antigoneと結婚して、Phthiaの町を継承した。
Phthiaは、Peleusの祖父Actorが治めていた町であった。
11 Lapithsの隆盛
Lapithsは、Larisaの町とDoris地方の間で誕生し、Pelasgiansが退去した後のLarisaの町の周辺に居住地を広げた。その後、西方のTriccaの町の周辺にも居住地を広げた。
Lapithsは、Dotium平原に住んでいたAenianiansやPerrhaebiansを追い出して、Pelion山周辺まで居住地を広げた。[129]
11.1 Argosからの移住
BC1247年、Amythaonの子Melampusの子Abasは、Argosの町からLarisaの町の近くのPhyllusの町に移住して来た。[130]
Talausの子Adrastusが、Sicyonの町のPolybusのもとへ移住したのと同時期で、Argosの町の内紛が原因であった。[131]
Phyllusの町は、Abasの父Melampusが生まれた町であった。[132]
Abasは、Thessaly地方の平原に「the Pelasgian Argos」という名前を付けた。[133]
後に、強力な騎兵で有名になるPharsalusの町は、Acrisiusの子Pharsalusに因むと伝えられている。[134]
Phyllusの町からPharsalusの町は距離的に近く、AcrisiusはArgosの町の系譜にも登場することから、AcrisiusはAbasの後裔と推定される。
11.2 Gyrtonの創建
BC1247年、Antionの子Phlegyasは、Larisaの町の近くにPhlegyasの町を創建した。[135]
Phlegyasの跡を継いだ彼の兄弟Ixion(別名Gyrton)に因んで、町はGyrtonと呼ばれるようになった。[136]
Gyrtoniansは、それ以前にはPhlegyaeと呼ばれていた。[137]
11.3 Centaursの追放
BC1245年、Ixionの子Peirithousは、Pelion山に住むCentaursを追い出した。[138]
Centaursの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。その後、Molossia地方のAuas川付近に移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[139]
Parauaeiは、BC5世紀末のPeloponnesian Warでは、Peloponnesus側として、Oroedusに率いられていた。BC3世紀には、Parauaeiは、Macedonia地方の辺境部に住んでいた。[140]
CentaursはAenianiansの支族であり、Centaursの追放は、LapithsとAenianiansとの戦いの一つであった。[141]
12 Phthiansの隆盛
12.1 Iolcusの破壊
BC1236年、Iolcusの町に住んでいたMinyansは、Peliasの子 Acastusの暴政に反発して、彼を殺害して町を破壊した。[142]
しかし、Iolcusの町に住む人がいなくなったわけではなく、Homerの軍船目録にも登場するように、Iolcusの町には人が住み続けた。[143]
BC6世紀のAthensの町のHippiasの亡命先の候補の一つとしてIolcusの町の名前が登場する。[144]
BC290年、DemetriusがDemetriasの町を建設した時に、Iolcusの町の住人がDemetriasの町へ移り住んだが、Iolcusは村として存続した。[145]
Straboは、Iolcusの町が古い時代に破壊されたままであったと伝えている。しかし、それはPelias時代の町の中心部分であったと思われる。[146]
Iolcusの町は、Thessaly地方の古代の町としては珍しく城壁を備えていたようである。[147]
Homerは、Iolcusの町を「well-built」と形容している。[148]
12.2 Admetusの移住
Iolcusの町の近くのPheraeの町にもMinyansが住んでいて、彼らも反乱を起こした。
Pheraeの町のMinyansは、Pheresの子Admetusの母であるMinyasの娘Periclymeneと共に移住して来た人々であった。[149]
Admetusの妻は、Iolcusの町のPeliasの娘Alcestisであった。[150]
BC1236年、AdmetusはMinyansに追われて、Euboea島へ逃れた。[151]
Euboea島のTamynaeの町には、Admetusの妻Alcestisの前夫Hippasusの息子Theseusが住んでいた。[152]
Theseusは母の再婚後、Admetusに育てられた。後に、TheseusはHippasusの父Eurytusが住むOechaliaの町へ行き、近くのTamynaeの町に住んでいた。[153]
Admetusは、Tamynaeの町にApolloの神殿を造営した。[154]
12.3 Minyansの追放
BC1236年、Phthiaの町のPeleusは反乱を起こしたMinyansを追放した。[155]
Minyansは、黒海方面との交易の中継基地があるLemnos島へ移住した。[156]
BC1115年、Lemnos島のMinyansは、Athensの町から逃れて来たPelasgiansに追われてLacedaemonへ移住した。[157]
12.4 Ormeniumの創建
Itonusの町のCercaphusの子Ormenusは、Peleusに加勢してMinyansと戦った。[158]
Ormenusの母は、Myrmidonの娘Eupolemiaであり、Peleusは、Ormenusの母方の従兄弟Aeacusの息子であった。
BC1235年、Ormenusは、破壊されたIolcusの町の南東にOrmeniumの町を創建した。[159]
12.5 Phoenixの移住
BC1230年、Ormeniumの町のAmyntorの子Phoenixは、Phthiaの町のPeleusのもとへ移住した。[160]
Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。つまり、Phoenixは、彼の父Amyntorの又従兄弟Peleusのもとへ移住した。
Peleusは、PhoenixにDolopia地方を与えた。[161]
12.6 LapithsとHeraclesの戦い
12.6.1 戦いの発端
Lapithsは発祥地(Doris地方とLarisaの町の間の土地)から西方や東南東方へ居住地を広げた。Lapithsがいなくなった土地に、西隣のDoris地方の住人が居住地を広げた。
恐らく、その土地が係争地となって、LapithsとDoriansの間に戦いが起こった。
Gyrtonの町のCaeneusの子Coronusがその土地に居住していたDoriansを追い出した。[162]
12.6.2 Heraclesの加勢
BC1227年、Doriansの王Aegimiusは、Doris地方のDoriansからの要請でLapithsと戦うが敗れた。Doris地方からHellenの子DorusがParnassus山の近くへ移住した後も、同じ種族として、関係は続いていたようである。[163]
Aegimiusは、Trachisの町のCeyxのもとにいたHeraclesに援助を求めた。
12.6.3 HeraclesがDoriansに加勢した理由
12.6.3.1 Lapithsに対するCeyxの敵対感情
Heraclesの軍中には、Ceyx率いるMeliansがいたが、MeliansはAenianiansの支族であった。少し前に、Dotium平原に古くから住んでいたAenianiansは、Lapithsに追われて、Oeta山周辺に逃げ込んだ。[164]
Trachisの町の近くに住み着いたMeliansの首領の娘がCeyxに嫁ぎ、CeyxがMeliansを率いることになったものと思われる。[165]
12.6.3.2 HeraclesとDoriansの関係
Heraclesの姉妹Laonomeは、Theiodamas(or Theodamas)の子Euphemusと結婚していた。[166]
また、Heraclesの侍童HylasもTheiodamasの息子であった。[167]
TheiodamasはDryopesに、HylasはOechaliaに住んでいたと伝えられる。[168]
OechaliaはTrachisの町の近くにあったことや、Heraclesとの姻戚関係などから、Theiodamasは、Doriansであったと思われる。
12.6.4 戦いの経過
HeraclesはTrachisの町からThessaly地方の北部へ遠征し、Doris地方を占拠していたLapithsと戦って、Gyrtonの町のCaeneusの子Coronusを討ち取った。
その後、HeraclesはItonusの町を攻めて、Pelopiaの子Cycnusを討ち取った。
さらに、Heraclesは、Ormeniumの町を攻めて、Ormenius本人と彼の息子Amyntorを討ち取った。[169]
12.6.5 Phthiaの不参加
かつて、Phthiaの町のAeacusの子Peleusは、LapithsとCentaursとの戦いで、Lapithsに味方していた。[170]
しかし、HeraclesとLapithsとの戦いに、Phthiaの町は登場しない。
その理由は、つぎのように推定される。
12.6.5.1 Peleusの死
Homerは、PeleusがAchillesをTroy遠征に送り出したように伝えているが、Peleusは、HeraclesとLapithsとの戦いの少し前に死んだと推定される。[171]
Peleusが死んだとき、7歳に満たないPeleusの子Achillesは、Phoenixに育てられた。[172]
12.6.5.2 Doriansの系譜
Phthiaの町のMyrmidonsは、姻戚関係で、Lapithsと繋がる。しかし、Myrmidonは、Hellenの子Dorusの直系の子孫であり、Doriansであった。[173]
Phthiaの町は、Lapithsの居住地の近くではあったが、系譜的にはDoriansであったため、中立を保ったと思われる。
12.6.6 Triccaの不参加
この戦いには、Lapithsの一員であるTriccaの町のAsclepiusが参加していない。
恐らく、Triccaの町の住人の大半がDoris地方から移り住んだ人々の子孫、つまり、Doriansであったからと思われる。[174]
BC1260年、Deimachusの子Autolycus率いる移民団が、Triccaの町からSinopeの町へ移住した後も、Triccaの町には多くのDoriansが住んでいたと思われる。[175]
13 Thesprotiansの侵入
Troyへ遠征して手薄となったThessaly地方へ、東のPindus山脈を越えて、Dodona周辺に住んでいたThesprotiansが攻め込んだ。[176]
Achaeans、Perrhaebians、Magnesiansは、Thesprotiansと戦ったが敗れた。[177]
Perrhaebians、Magnesiansは、penestae(農奴)としてThesprotiansに従属して住み続けた。[178]
13.1 Arneの住人
Arneの町のBoeotiansの一部は、Haimonに敗れてBoeotia地方へ移住した。[179]
予言者Peripoltasに率いられたBoeotiansは、Boeotia地方の辺境の地に定住して町をArne(後のChaeroneia)と呼んだ。[180]
13.2 Triccaの住人
Asclepius(or Aesculapius)の子Machaonの妻Anticleiaは、Triccaの町から子供を連れて実家のあるMessenia地方のPharaeの町へ移住した。[181]
Machaonの息子たちのうち、NicomachusとGorgasusは、Pharaeの町を継承した。PolemocratesやAlexanorやSphyrusは、Argolis地方のEuaの町やSicyonの町やArgosの町に住んで人々を治療した。[182]
13.3 Gyrtonの住人
Gyrtonの町のPeirithousの後裔はAthensの町へ移住した。Atheniansは、TheseusとPerithousとの親交を理由に彼らを受け入れ、後にPerithoedaeと呼ばれる土地を分け与えた。[183]
13.4 Ormenionの住人
Pagasaean gulfの北岸のOrmenionの町のEuaemonの子Eurypylusは、Achaia地方のPatraeの町に移住した。
EurypylusとPatraeの町との関連は不明で、伝承の通り、Delphiの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[184]
13.5 Pheraeの住人
Pheraeの町のEumelusの子Zeuxippusの子Armenius(or Harmenius)は、Athensの町へ移住した。[185]
Armeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のPenthilusの子Andropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。第16代Athens王Melanthusの母や妻は、Athenianであった。[186]
13.6 Magnesians
Magnesiansの一部はDelphiへ逃れて、Delphiに定住した。その後、Delphiansと共にAsia Minorに移住して、Lydia地方にMagnesiaの町を創建した。[187]
BC7世紀の叙事詩人Archilochosは、Magnesiaの町の住人は、不摂生であったため、Ephesusの町の手に落ちたと伝えている。[188]
Thessaly地方に残ったMagnesiansは、penestaeになってThesprotiansに従属して住み続けた。[189]
13.7 Dolopians
DolopiansはThesprotiansに追われて、Scyros島へ逃れたと思われる。
BC475年、Athensの町のCimonがScyros島に住んでいたDolopiansを攻めて奴隷にした。[190]
13.8 Perrhaebians
伝承によれば、PerrhaebiansはEuboea島のHistiaeotis地方へ逃れて、後に、Thessaly地方へ帰還した。その際、Perrhaebiansは、Euboea島のHistiaeotis地方の住人を連れて帰ったために、Thessalyの地方名になったと伝えられている。[191]
しかし、この伝承は、類似した名前をもとに作られた話のようである。
13.9 Asia Minorへの移住
Thesprotiansに追われたThessaly地方の人々の多くは、penestaeになって住み続けた。
しかし、3世代後、残留していた人々は、Thessaly地方から追われた。彼らの一部は、Locris地方へ逃れた。[192]
BC1126年、Agamemnonの曾孫Malaus率いる移民団は、Locris地方のMt. Phricium付近からAsia Minorに移住して、Phryconian Cymeを建設した。[193]
Mt. Phriciumには、Thessaly地方から逃げ込んだAeolisが住んでいた。[194]
Cymeの建設に参加した住人の多くは、Thessaly地方を追われた人々であったと推定される。
Phociansは、Thesprotiansの侵入を防ぐために城壁を造った。[195]
14 Thesprotians侵入後のThessaly
BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Thessaly地方で、土と水をPersia大王に献じた種族として、つぎの名前が挙がっている。[196]
Thessalians、Dolopians、Enianians、Perrhaebians、Magnetians、Achaeans of Phthiotis。
これらの種族は、Thesprotians侵入後、Thessaly地方に居住していた全ての種族と思われる。
14.1 Thessalians
Thesprotiansは、先住民をpenestaeとなって残留することを許した。[197]
BC1165年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusは、反乱を起こしたArneの町のBoeotiansと戦って反乱を鎮圧した。[198]
BC1126年、Aeatusの子Thessalusは、Arneの町のBoeotiansを追い出した。[199]
Thessalusの子Nessonは、Nessonis湖の近くに住んでいたことから、ThessalusはLarisaの町に住んでいたと思われる。[200]
Thessalusの名前に因んで、その地方は、Thessaly地方、そこに住む人々はThessaliansと呼ばれるようになった。[201]
14.2 Dolopians
Dolopiansの一部は、Scyros島へ逃れた。[202]
残留したDolopiansは、Pindus山地とPhthiotis地方の間に住み続けていた。[203]
14.3 Enianians (or Aenianians)
Enianiansの一部は、Olympus山近くに住んでいたが、大部分は、Oeta山近くに住んでいた。Enianiansは、Heracleiaの町の住人がHeracleidaeに率いられてPeloponnesusへ移住した後で、その町に移り住んだ。その後、Enianiansは、さらに東へ進出して、Othrys山麓のEchinusの町を奪い取った。[204]
14.4 Perrhaebians
Perrhaebiansは、Thessaly地方北部のCyphus山周辺に住み続けた。[205]
Larisaの町に住んでいたPerrhaebiansは、penestaeとしてThesprotiansに従属して、住み続けた。[206]
14.5 Magnetians
Magnetiansは、Thessaly地方北東部のOssa山とPelion山の間やその周辺に住み続けた。[207]
Magnetiansは、penestaeとしてThesprotiansに従属していた。[208]
14.6 Achaeans of Phthiotis
Phthiaの町を中心とした古くからのPhthiotis地方にはAchaeansが住み続けた。[209]
Phthiaの町は、Acrisiusの子Pharsalusに因んで、Pharsalus (後のPalaepharsalus)の町と呼ばれるようになった。[210]
Leakeは、Palaepharsalusの町が新しいPharsalusの町のacropolisから半マイル東寄りにあったと推定している。[211]
15 Larisaについての考察
Homerの軍船目録にLarisaの町は登場しない。[212]
Polypoetes指揮下の町の名前の最初に挙げられているLarisaの町の近くにあったArgissa (後のArgura)の町がLarisaの町と同一だと考える人もいる。[213]
恐らく、Trojan Warの時代、Larisaの町はArgissaの町より人口が少なくなり、Larisaの町を含めて、Argissaの町と呼ばれていたと思われる。
つまり、Pelasgiansが去った後で、かつて、Pelasgiansの首都であった町をLarisaと呼ぶ人はいなくなったと推定される。
15.1 Larisaの破壊
Larisaの町は、BC1560年にPelasgusの娘Larisaの一家に率いられたPelasgiansが、Argosの町からThessaly地方へ移住して来た直後に建設された。[214]
その後、BC1390年にPelasgiansがThessaly地方を去るまで、170年間、Larisaの町はPelasgiansの中心の町であった。それ故に、PelasgiansがThessaly地方から追い出されたとき、Larisaの町は破壊されたのではないかと思われる。
15.2 Larisaの史料出現
BC1390年以降、Larisaの町が古代史料に登場するのは、つぎのとおりである。
15.2.1 Perseusの祖父殺し伝承
Apollodorosは、Teutamidesが治めていたLarisaの町で、Danaeの子Perseusが彼の祖父Acrisiusを殺したと伝えている。[215]
Acrisiusが死んだのは、BC1339年と推定される。
Hellanicusによれば、Pelasgusの娘Larisaの子Pelasgusの子Phrastorの子AmyntorにTeutamidesという息子がいた。[216]
そのTeutamidesは、Larisaの町の王であったと思われるが、Acrisiusの時代より、100年以上前の人物であった。
また、Acrisiusの伝承に登場するLarisaは、Thessaly地方の町の名前ではなく、Argosの町のAcropolisの名前であった。[217]
15.2.2 Argonautsの遠征物語
Argonautsの遠征物語に、Larisaの町からの参加者が3人いる。
遠征の舞台は、BC1248年と推定される。
15.2.2.1 Aethalides
Hyginusは、Myrmidonの娘Eupolemiaの子Aethalidesは、Larissaeanだと伝えている。[218]
Apollonius of Rhodesは、EupolemiaがItonusの町の近くを流れるAmphrysus川のそばでAethalidesを産んだと伝えている。[219]
また、Aethalidesの子Cycnus (or Cygnus)は、Itonusの町に住んでいた。[220]
つまり、Aethalidesは、父の代から3代にわたって、Itonusの町に住んでいて、Larisaの町は無関係と推定される。
15.2.2.2 Peirithous (or Pirithous, Perithous)
Apollodorosは、Ixionの子PeirithousがLarisaの町からArgonautsの遠征に参加したと伝えている。[221]
しかし、Straboは、IxionとPeirithousは、Gyrtonの町の王であったと述べている。[222]
また、Apollodorosは、Peirithousの子PolypoetesがGyrtoniansを率いて、Troy遠征に参加したと伝えている。[223]
つまり、Peirithousが住んでいたのはGyrtonの町であり、Larisaの町ではなかった。
15.2.2.3 Polyphemus
Apollonius of RhodesとHyginusは、PolyphemusがLarisaの町からArgonautsの遠征に参加したと伝えている。[224]
PolyphemusはLapithsに属していて、彼の父Elatus (or Eilatus)は、Peneius川近くの住んでいたと思われる。[225]
Polyphemusの子孫は、まったく不明で、PolyphemusがLarisaの町に住んでいたと伝えているのは、Argonautsの遠征に、その町から参加したという伝承のみである。
15.2.3 Calydonian boar hantの物語
Calydonian boar hantの物語に、Larisaの町からの参加者は、Peirithousのみである。
この物語の舞台は、BC1246年と推定される。
Apollodorosは、Ixionの子PeirithousがLarisaの町から参加したと伝えている。[226]
しかし、前述したように、Peirithousが住んでいたのはGyrtonの町であり、Larisaの町ではなかった。
15.2.4 HeraclesとLapithsの戦い
BC1227年、HeraclesはDoriansと共にLapithsと戦った。[227]
この伝承に、Gyrtonの町は登場するが、Larisaの町は登場しない。
15.3 Larisaの再建
Stephanusは、AcrisiusがPeneius川近くにLarisaの町を建設したと伝えている。[228]
BC1390年に破壊された後で、Larisaの町にはPelasgiansを追い出したPerrhaebiansが住んでいたが、Acrisiusは、彼らと共住して、町を再建したと推定される。
このAcrisiusは、Pharsalusの町の名祖の父親で、Amythaonの子Melampusの子Abasの孫で、Achaeansであり、彼が再建した町の名前は、Argissaのままであったと思われる。[229]
Abasは、BC1247年に、Argosの町を追われて、父の生まれ故郷である、Larisaの町の近くのPhyllusの町に移住して来ていた。[230]
15.4 Larisaの占領
AcrisiusがLarisaの町を再建した後で、ThesprotiansがThessaly地方に侵入して、Larisaの町を占領した。[231]
この後、近くのArgissaの町より人口が増えた、Larisaの町は、Argissaとは別に、昔の名前で呼ばれるようになったと思われる。Thesprotiansは、かつてThessaly地方に住んでいたPelasgiansであった。
Larisaの町を占領したのは、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusであったと思われる。Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusの子Nessonに因んで名付けられたNessonis湖がLarisaの町の近くにあった。[232]
この後、Larisaの町の支配者は、Heraclesの後裔であるAleuasとなり、Aleuasの後裔は、Aleuadaeと呼ばれた。[233]
Larisaの町に住んでいたPerrhaebiansは、Thesprotiansに隷属して住み続けた。[234]
Acrisiusの子Pharsalusに率いられたAchaeansはPhthiaの町へ逃れて、先住者と共住して、Pharsalus (後のPalaepharsalus)の町と呼ばれるようになった。[235]
BC5世紀、Phthiotis地方にはAchaeansが住んでいた。[236]
Larisaの町の住人は、Thessaliansと名前を変えたThesprotiansであった。
おわり |