第31章 ポキス地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.8.22, Update:2024.4.4
Phocis

1 はじめに
Phocis地方は、古代ギリシア人発祥の地であり、聖なる河Cephisusの流れが始まる所でもあった。[1]
Cephisusという名前は、古代ギリシア人の居住地の広がりと共に各地の川に名付けられ、古代ギリシア世界で最も多くの川の名前であった。
また、Phocis地方には、ギリシア最古の神託所のひとつDelphiがあった。
Delphiには、Omphalusと呼ばれる石があり、古代ギリシア人は、その石があった場所が世界の中心であると考えていた。[2]
その地方がPhocisという名前で呼ばれるようになったのは、Aeacusの子Phocusの息子たちが、その地方内の各所に居住地を広げた後であった。
Aeacusの子Peleusの子Achillesの時代、つまり、Trojan War時代の頃からである。

2 Ogygus時代の大洪水
2.1 洪水の発生した年
AD4世紀の歴史家Eusebiusは、『Chronography』の中で、Atheniansの先祖Ogygusの時代に大洪水があり、初代Athens王Cecropsの即位まで、190年であったと記している。[3]
BC2世紀の年代記作者Castor of Rhodesによれば、CecropsのAthens王即位は、BC1561年である。[4]
したがって、Ogygus時代の大洪水は、BC1750年頃の出来事と推定される。

2.2 ギリシア最古の町
大洪水の少し前、CleopompusとCleodoraとの息子Parnassusは、それまで散らばって住んでいた人々を一か所に集めて町を作った。[5]
Parnassusが創建した町は、Phocis地方の北西部のLilaeaの町の近くに発して、Parnassus山の北側を流れるCephisus川の右岸にあったと思われる。[6]

2.3 Boeotiaへの移住
Atheniansの先祖Ogygusは、Ectenesを率いて、Cephisus川の下流へ移住して、Boeotia地方に定住した。[7]

2.4 Peloponnesusへの移住
Inachusの2人の息子たち、AezeiusとPhoroneusに率いられた集団はOgygusよりさらに先へ進んで、Peloponnesus半島へ入った。[8]
Aezeiusは、Peloponnesus半島に入ってすぐの海岸地帯を定住地に決め、Aegialeia (後のSicyon)の町を創建した。[9]
Phoroneusは、さらに南下して平野の端に定住した。Phoroneusは散らばって住んでいた人々を一箇所に集めて、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[10]

2.5 Lycoreiaの創建
Parnassusが創建した町は、大洪水によって水没し、人々は、Parnassus山へ逃れて、Lycoreiaの町を創建した。[11]
人々を率いて町を建設したのは、Parnassusの娘Coryciaの子Lycorus (or Lycoreus)であった。[12]
Lycoreiaの町には、Delphiansが住んでいて、後に、Delphiの神域の近くに移り住んだ。[13]

2.6 Delphiの創建
Pausaniasが伝えている系譜によれば、Delphiの町の名付け親Delphusは、Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの息子であった。[14]
つまり、Lycoreiaの町から移住して、Delphiの町を創建したのは、BC1690年頃と推定される。[15]

3 BC15世紀のPhocis
3.1 Thraciaからの移住
BC1420年、Thracia地方のStrymon川流域に住んでいたEdoniの一部が、Dryasの子Lycurgusの子Tereusに率いられて、後のDaulisの町の近くへ移住した。[16]
Tereusは、第5代Athens王Pandionの娘Procne (or Progne)と結婚した。[17]
その後、TereusはPhocis地方からMegara地方のPagaeの町の近くへ移住した。[18]

3.2 Argosからの移住
3.2.1 Abaeの創建
BC1408年、Lynceusの子Abasは、Argosの町からPhocis地方へ移住して、Abaeの町を創建した。[19]
Abasの祖父Danausと共にEgyptから渡来したOrusの後裔がArgolis地方のTroezenに、Lelexの後裔がLacedaemonやMegaraに住んでいた。何故、Abasの移住先がPhocis地方であったのかは不明である。
AD6世紀のStephanus of Byzantiumは、AbaeにDelphiより古い神託所があったと伝えているが、それが、AbasがPhocis地方を移住先に選んだ理由かもしれない。[20]
しかし、Abaeから神託を受けたと古代ギリシアの史料に、最初に登場するのは、Lydia王Croesusである。[21]
したがって、Abasの時代にAbaeの神託所はなかったかもしれない。
BC1407年、Abasは、Abaeの町からArgosの町へ帰還した。[22]
その後、Abaeの町はAbasの子Deucalionに委ねられた。[23]

3.2.2 Abasの子Deucalion
Lynceusの子Abasには、双子の息子たち、ProetusとAcrisius、それに、庶子Lyrcusがいたことが知られている。[24]
Abasには、その他に、Deucalionという名前の息子がいたと思われる。
しかし、Aristippusが書いた『Arcadiaの歴史』の中で、AbasにもDeucalionという息子がいたと記されている。そのAbasは、Arcadia地方のMantineusの娘Aglaiaと結婚した、Lynceusの子Abasと推定される。[25]

3.2.3 Deucalionの子Lynceus
Deucalionの子Lynceusは、Argosの町のProetusの子Megapenthesに殺され、Lynceusの子AbasはMegapenthesを殺害した。[26]
LynceusとMegapenthesは従兄弟同士であり、MegapenthesはMycenaeの町のDanaeの子Perseusをも殺害している。Argos、Mycenae、Abaeの3つの町の間で、争いがあったようである。

4 BC14世紀のPhocis
4.1 Hyampolisの創建
BC1371年、Hyantesは、Boeotia地方からAbaeの町の近くに移住して、Hyampolisの町を創建した。[31]
BC1420年、HyantesはCadmusに追われて、Onchestusの町の周辺に住んでいた。[32]
BC1371年、Athamasの養子になったCoronusとHaliartusがBoeotia地方にCoroneiaの町やHaliartusの町を創建して、Hyantesは彼らに圧迫されて、移住したと推定される。[33]

4.2 Thessalyからの移住
BC1365年、Deion (or Deion、Deioneus)は、Arneの町から、Phocis地方へ移住した。[34]
Deionは、Xuthusの娘Diomedeを妻に迎えて、息子たち、Aenetus、Actor、PhylacusとCephalus、娘Asterodiaが生まれた。[35]

4.3 PhlegyansのDelphi略奪
BC1350年、Boeotia地方に住んでいたPhlegyansがDelphiの神域を荒らした。
史料に記録が残る最初のDelphi略奪であった。[36]
Phlegyansは、Orchomenus王Phlegyasが各地から集めた戦士の集団であった。[37]
Delphiansは、各地に救援を求めた。

4.3.1 Argosからの援軍
Philammon率いるArgosの町の精鋭部隊は、Phlegyansと戦ったが、Philammonは戦死した。[38]
当時、Argosの町を支配していたAbasの子Acrisiusは、この事件を契機にAmphictyonsを組織化した。[39]
Argivesを率いたPhilammonは、Acrisiusの息子と推定される。跡取り息子を失ったAcrisiusは、Egyptに住む彼の娘Danaeの息子Perseusを後継者にした。[40]

4.3.2 Arcadiaからの援軍
Arcasの子Elatus率いるArcadiansは、Phlegyansと戦って、Phlegyansを撃退した。[41]
PhlegyansはPhocis地方からBoeotia地方へ戻り、Thebesの町のAmphionの死後、Eurymachus率いられてThebesの町に攻め込んで略奪した。[42]

4.3.3 Elateiaの創建
Arcasの子Elatusは、Phlegyansを追い出した後もPhocis地方に残り、Elateiaの町を創建した。[43]
Rome時代のElateiaの町は、Phocis地方最大の町であったが、HomerはElateiaの町に言及しておらず、Trojan Warの後で発展した町と推定される。[44]

4.3.4 Daphnusの創建
Elateiaの町から北へ約23kmの海の近くにあるDaphnusの町は、Elateiaの町の住人によって創建された植民市と推定される。[45]
Phocis地方に属するDaphnusの町は、Epicnemidian Locris地方をEpicnemidis地方とOpus地方に分離していた。[46]
つまり、Phocis地方には、北の海に面した港がDaphnusの町にあったが、町が破却されて、Locris地方になり、Epicnemidian Locris地方は、1つに繋がった。[47]

4.4 Thessalyへの移住
BC1325年、Deionの子Phylacusは、Phocis地方からThessaly地方へ移住して、Pagasetic Gulfの北東にPhylaceの町へ移住した。恐らく、Phylacusは、Phylaceの町の創建者と思われる。[48]
Phylacusの父Deionは、Thessaly地方のArneの町からPhocis地方への移住者であった。[49]

4.5 Euboeaへの移住
BC1310年、Abaeの町の住人は町を放棄して、他へ移住した。恐らく、Argosの町から攻められて、町に住めなくなったものと推定される。これ以降、Abaeの町に住んだ人々については不明である。
Lynceusの子AbasはAbaeの町からEuripus海峡を渡って、Euboea島のChalcisの町へ移住した。
Chalcisの町は、BC1360年に、第6代Athens王Erechtheusの息子Pandorusによって創建されていた。[27]
Euboea島はMacrisと呼ばれていたが、Abantis (or Abantias)と呼ばれるようになった。また、Euboea島の住人は、Abantesと呼ばれるようになった。[28]
Abasと共に、彼の兄弟と思われるCriusもEuboea島へ移住した。[29]

4.6 Naubolensesの創建
BC1310年、Abasの兄弟と思われるOrnytusは、Abaeの町から西北西方向へ約33kmの所へ移住して、町を作った。Ornytusには息子Naubolusが生まれ、町はNaubolenses (後のDrymaea)と呼ばれるようになった。[30]

4.7 Cyparissusの創建
BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Orchomenusの町からDelphiの近くへ移住して、Cyparissusの町を創建した。[50]

5 BC13世紀のPhocis
5.1 Anticyraの創建
BC1280年、Cyparissusの子Anticyreusは、Anticyra湾の海岸地帯に移住して、Anticyraの町を創建した。[51]
Anticyreusは、Heraclesの狂気をhelleboreという植物で治した。[52]
helleboreは、下剤として使われていたことから、Heraclesは便秘で苦しんでいたのかもしれない。[53]

5.2 Euboeaからの移住
BC1270年、Euboea島のCriusの子Tityos (or Tityus)は、後にPanopeusの町になる土地に移住した。[54]
Tityosの父がCriusだと直接伝えている史料はないが、つぎの理由で、TityosはCriusの息子であったと推定される。
1) Delphiに関連してApolloに殺されたのは、Orchomenusの娘Elareの子Tityosであった。[55]
2) Apolloに殺されたのは、Euboea島のCriusの息子であった。[56]
TityosはEuboea島で生まれたが、父の故郷Abaeの町や、母の故郷Orchomenusの町に近いPanopeusの町に移住したと推定される。

5.3 Boeotiansとの戦い
5.3.1 Delphiの神域荒らし
BC1264年、Criusの子Tityosは、Delphiの神域や周辺を荒らして討ち取られた。[57]
Delphiansが頼ったのは、Tityosの母の故郷Orchomenusの町ではなく、Orchomenusの町に敵対していたThebesの町であった。[58]
Thebesの町のLabdacusの子Laiusは、Plataeaの町のDamasistratusと共にTityosと戦った。
LaiusとTityosは死に、両者ともPanopeusの町に埋葬された。[59]
Tityosの娘Europaは、Panopeusの町に住み続けて、Cephisus川の近くで、息子Euphemusを産んだ。[60]

5.3.2 Apolloの伝承
Pausaniasは、Tityosを討ち取ったApolloについて、つぎのように伝えている。
Apolloは、Delphiの神域を荒らしたCriusの子Tityosを殺した。[61]
その後、Apolloは、Crete島西南部のTarrhaの町に住むCarmanorのもとへ行き、浄められた。[62]
そして、Apolloは、Carmanorの家で、Minosの娘Acacallisと結婚した。[63]
そのApolloとは、HyperboreanのHyperochus、あるいは、Laodocus(or Amadocus)だと推定される。
HyperochusとLaodocusは、Hyperboreansの地からDelos島へ奉納品を届けるHyperboreansの娘たちの道中を警護するPerphereesであった。[64]
彼らは、DodonaからMalis地方へ向かう途中で、Delphiを通り、Delphiansからの求めで、Criusの子Tityosを討ち取ったものと思われる。Delphiansは、HyperochusとLaodocusを英雄として供犠を行っている。[65]

5.3.3 Pausaniasの誤り
Pausaniasは、Delphiの神域の略奪の歴史を述べている。その中で、Pausaniasは、最初にCriusの息子、その次に、PhlegyansがDelphiの神域を略奪したと記しているが、その逆であった。[66]
Phlegyansと戦ったのは、Arcadia地方のArcasの子Elatusであった。[67]
Criusの子Tityosを討ち取ったApolloは、Minosの娘Acacallisと同時代であった。[68]
Acacallisと同時代のHeraclesと一緒に、LacedaemonのOebalusの子Hippocoonと戦ったCepheusは、Arcasの子Elatusより前の時代の人物ではない。
Cepheusは、Arcasの子Elatusの兄弟Apheidas(or Aphidas)の子Aleusの子Lycurgusの息子であった。[69]
つまり、PhlegyansがDelphiの神域を荒らしたのは、Criusの息子より、3世代前の出来事であった。

5.4 Stirisの創建
BC1260年、Oeneusの子Peteusは、Oeneusの彼の義兄弟Aegeusによって、Attica地方のStiriaの町から追われて、Phocis地方へ移住した。PeteusはPhocis地方の南東部にStirisの町を創建した。そこから、東北東に約11km離れたLebadeiaの町にも、Aegeusに追われて移住したLebadusが住んでいた。[70]
Lebadusは、Peteusの兄弟と思われる。[71]

5.5 Aeginaからの移住
BC1256年、Aeacusの子Phocusは、Aegina島からPhocis地方北西部のNaubolenses (後のDrymaea)の町へ移住した。[72]
Naubolensesの町には、Ornytusの子Naubolusが住んでいたが、Phocusを共住者として受け入れた。その後、Naubolusの娘AntiphateiaとPhocusの子Crisusは結婚した。[73]
CrisusとAntiphateiaには、息子Strophiusが生まれた。[74]

5.6 Apolloの神託所の創建
Pausaniasは、Delphiの神託所がThemisからApolloに引き継がれたと伝えている。[75]
神託所の創建者のひとりであるLycia地方のOlenは、詩人Orpheusより前に生まれた。[76]
Olenは、Athensの町からLycia地方へ移住したPandionの子Lycusの息子であり、BC1280年頃の生まれと推定される。[77]
神託所の最初の女性予言者Phemonoeは、Orpheusより、27年前の人物であった。[78]
このOrpheusは、有名な詩人ではなく、Argonautsのひとりであり、Phemonoeは、BC1290年頃の生まれと推定される。
Pythian Apollon hymnを歌う競技会の最初の勝利者は、Apolloを浄めたCarmanorの娘Chrysothemisであった。[79]
Chrysothemisは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの妻であり、BC1270年頃の生まれと推定される。
Carmanorが浄めたApolloとAcacallisの結婚などから総合的に判断すると、DelphiにApolloの神託所が設置されたのは、BC1255年頃と推定される。

5.7 Panopeusへの移住
BC1250年、Phocusの子PanopeusとNaubolusの子Iphitusは、Naubolenses (後のDrymaea)の町からPanopeusの町へ移住した。[80]
Iphitusは、Panopeusの兄弟Crisusの妻Antiphateiaの兄弟であった。[81]
つまり、PanopeusとIphitusは義兄弟であった。
町は、Phocusの子Panopeusの名前に因んで、Panopeusと呼ばれるようになった。[82]
Panopeusの町には、Naubolusの父Ornytusの兄弟と思われるCriusの子Tityosが住んでいたが、Delphiの神域を荒らして、討ち取られた。
PanopeusとIphitusがPanopeusの町へ移住したとき、町にはTityosの娘Europaが住んでいた。IphitusとEuropaは、又従兄妹であった。[83]
BC1248年、Iphitusは、Argonautsの遠征隊を率いるJasonが神託を得るためにDelphiを訪問した際に、彼の案内役を務めた。[84]

5.8 Crissaの創建
BC1240年、Phocusの子Crisusは、Naubolensesの町からParnassus山を越えて、Delphiの近くへ移住して、Crissaの町を創建した。[85]

5.9 Argolisからの嫁入り
BC1232年、Crissaの町のPhocusの子Crisusは、Argolis地方のCleonaeの町からPelopsの子Atreusの娘Kydragoraを妻に迎えて、娘Anaxibi (or Anaxibia)が生まれた。[86]

5.10 Corinthからの移住
BC1230年、Sisyphusの子Ornytionの子Phocusは、Corinthの町からPhocis地方のNeon (後のTithorea)の町へ移住した。[87]
Pausaniasは、Tithoreaの町にあるOrnytionの子Phocusと彼の妻Antiopeの墓に関する伝承を記している。
BC7世紀のBacisは、TithoreansがThebesの町にあるAmphionとZethusの墓から土を盗んで、Ornytionの子Phocusと妻の墓に運ぶと、Tithoreaの町は豊作になり、Thebesの町は凶作になると予言した。[88]
Bacisや彼と同時代のThebansやTithoreans、それに、Pausanias自身も、Ornytionの子Phocusの妻Antiopeは、AmphionとZethusの母だと信じていたようである。[89]
その原因は、AmphionとZethusの母Antiopeの伝承に登場するEpopeusの父Aloeusの父Sisyphusと、Phocusの父Ornytionの父Sisyphusを同一人物だと思っていたためであった。
しかし、どちらのSisyphusもCorinth王であったが、前者は初代Corinth王であり、後者はJasonの跡を継いだ、第9代Corinth王であった。

5.11 Dryopiaからの移住
BC1230年、 Heraclesは、Delphiの神殿に不敬を働いたDryopiansをDryopia地方から追放した。[90]
Dryopiansは各地へ移住したが、一部は、Cirrhaの町の近くに定住して、Cragalidaeと呼ばれた。[91]
Cragalidaeは、Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの後裔と推定される。[92]

6 BC12世紀のPhocis
6.1 Cirrhaの創建
BC1190年、Phocusの子Crisusの子Strophiusの子Pyladesは、Crissaの町から南へ移住して、Crissa湾の岸辺にCirrhaの町を創建した。[93]

6.2 Trojan Warの時代
6.2.1 Troy遠征
BC1188年、Naubolusの子Iphitusの2人の息子たち、SchediusとEpistophusがPhociansを率いて、Troyに遠征した。[94]
SchediusはTroyで戦死して、EpistophusはSchediusの遺骨を持ち帰った。[95]

6.2.2 Boeotiaからの移住
BC1188年、Boeotia地方へThraciansやPelasgiansが侵入して町を占拠したが、その混乱で、PhlegyansがPanopeusの町を占拠した。
BC1215年、Phlegyansは、Minyansの地に住んでいたが、Rome時代には、Panopeusの町に住んでいた。[96]
Panopeusの町に住み、Delphiへの参拝者を恐れさせたPhlegyansの王Phorbasは、Trojan War時代の後の人物だと思われる。[97]
Troy陥落後、Iphitusの子Epistophusは、Pelasgiansに占拠されたPanopeusの町への帰還を断念して、Anticyraの町に移住した。[98]
SchediusとEpistophusの墓は、Anticyraの町にあった。[99]

6.2.3 Boeotiaへの移住
BC1188年、Hyampolisの町のHyantesは、Boeotia地方のOrchomenusの町へ侵入して住人を追い出して占拠した。[100]
町を追われたOrchomeniansは、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方のTeosの町へ移住した。[101]
また、Orchomeniansの一部は、Athensの町に受け入れられて、Munychiaの町に住んだ。[102]
BC1126年、Munychiaの町に避難していたOrchomeniansは、Thessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansと共に、Orchomenusの町からHyantesを追放した。[103]
Hyantesは、再び、Hyampolisの町へ戻った。

6.3 Molossiansとの戦い
BC1175年、Achillesの子NeoptolemusはMolossiansを率いて、Delphiを略奪し、Delphiansを率いたDaetasの子Machaereusと戦って、戦死した。[104]
Neoptolemusと共に、彼の兄弟Oneirosも、Phociansとの戦いで、Agamemnonの子Orestesに討ち取られた。[105]
Orestesは、Crisusの子Strophiusの子Pyladesと共にDelphiansに加勢していた。
Pyladesは、Orestesの姉妹Electra (or Laodice)の夫であり、Orestesの義兄弟であった。[106]
Pyladesは、Delphiの外港Cirrhaの町に住んでいた。[107]

6.4 Medeonの創建
BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaの町から東へ移住して、Medeonの町を創建した。[108]
Homerは、軍船目録の中で、Boeotia地方のMedeonの町の名前を挙げているが、その町はTrojan War時代には存在していなかった。[109]
Straboは、Boeotia地方のMedeonの町の名前は、Phocis地方のMedeonの町の名前に因んでいると伝えている。[110]

6.5 Heracleidaeの帰還
BC1115年、Aristomachusの子Aristodemusは、MedonとStrophiusにDelphiで殺害された。[111]
Aristodemusは、Peloponnesusへの帰還を準備していたHeracleidaeの総領であった。
Aristodemusの死後、彼の兄弟TemenusがHeracleidaeを率いることになった。
MedonとStrophiusは、Orestesの子Tisamenusの従兄弟たちであり、Heracleidaeとは敵対関係にあった。[112]
当時、StrophiusはCirrhaの町、MedonはMedeonの町に住み、Doris地方に住んでいたHeracleidaeの動静を把握していたと推定される。

7 BC11世紀以降のPhocis
7.1 Amphictyonsとの戦い
BC595年、Cirrha (or Cyrrha)の町の住人は、Delphiの神域に狼藉を働いたため、Amphictyonsは町を攻めた。Sicyonの町の僭主Clisthenesが総大将になり、Athensの町のSolonが助言者になった。[113]
Delphiに残された記録によれば、Atheniansは、Alcmaeonに率いられて、この戦いに参加した。[114]
また、Thessaliansは、EurylochusやLattamyasに率いられて、戦いに参加した。[115]
Lattamyas率いるThessaliansはBoeotia地方にも侵入して、Thespiaeの町付近での戦いで、Thebansに敗れた。[116]

おわり