第17章 ミュルミドネスの系譜

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Create:2023.4.13, Update:2024.4.16

1 はじめに
Myrmidonsの名前の由来については、蟻に因んだ説があるが、名前に因んだ作り話である。
Straboは、島の住人が蟻のように土を掘っていたから、そのような名前で呼ばれたと記している。[1]
しかし、Myrmidonsは、Eurymedusaの子Myrmidonの子孫の総称である。
Myrmidonは、Triopasの別名であった。[2]
Homerは、Iliadの中で、Peleusの子Achillesの配下にあった人々をMyrmidonsと呼んでいる。[3]
Achilles配下の5人の将は、すべてMyrmidonの後裔であった。
Achilles指揮下の第4隊を率いたAchillesの育ての親Phoenixは、種族としてはLapithsであった。[4]
しかし、Phoenixの父Amyntor (or Armenius)の父Ormenus (or Ormenius)の母Eupolemeiaは、Myrmidonの娘であった。[5]

2 名祖Myrmidon
2.1 Myrmidonの母の故郷
Myrmidonの母は、Achelaus河神の娘Eurymedusaと伝えられる。[6]
しかし、そのAchelaus河神とは、Cletor (or Clitor)であった。[7]
次の事から、このAchelaus川は、Acarnania地方とAetolia地方の境になっている川ではない。[8]
1) Myrmidonは、Aeolusの娘Pisidiceと結婚して、AntiphusとActorが生まれた。[9]
2) Actorの子Eurytionは、Phthiaの町からCalydonian boar huntに参加した。[10]
3) Eurytionの娘Antigoneは、Aeacusの子Peleusの妻であった。[11]
つまり、Myrmidonの母の故郷は、Thessaly地方南部のLamiaの町の近くのParacheloitaeと呼ばれる土地を流れて、Spercheius川に合流するAchelaus川付近と推定される。[12]
Paracheloitaeは、Phthia地方にあった。[13]

2.2 Phthiaの歴史
Phthia、あるいは、Phthiotisは地方名と町の名前、両方で使用されている。
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larissa一家がArgosの町のPelasgiansを率いて、Thessaly地方北東部のDotium平原周辺に入植した。[14]
Larissaの息子たちの一人Phthiusが居住した地方は、Phthiotisと呼ばれた。[15]
BC1390年、Larissaの後裔であるPelasgiansは、Deucalionの息子たちによって、Thessaly地方から追放された。[16]
Deucalionには4人の息子たち、Amphictyon、Orestheus、Marathonius、Pronousがいた。[17]
Amphictyonは、Locris地方のThermopylae付近にAntheiaの町を創建した。[18]
Orestheus (or Oreius)は、Ozolian Locris地方へ移住した。[19]
Marathoniusは、Sicyonの町へ移住した。[20]
Pronousは、PelasgiansがいなくなったThessaly地方のDotium平原周辺へ移住したと推定される。[21]
Thessaly地方のDotium平原に名前を与えたのは、Hellenの子Neonusの子Dotusであると伝えられる。このHellenは、Pronousの息子と推定される。[22]

2.3 Myrmidonの父
Myrmidonの子Actorの子Eurytionの娘Antigoneの夫Peleusから系図で逆算すると、Myrmidonが生まれたのは、BC1345年である。
また、系図を作成すると、Hellenの子NeonusはBC1370年生まれである。
Thessaly地方南部のParacheloitaeに住むCletorの娘Eurymedusaは、Dotium平原近く、恐らく、Phthiaの町に住むHellenの子Neonusに嫁いだと推定される。[23]
したがって、Myrmidonの父は、Hellenの子Neonusと推定される。

2.4 Cletorの母
系図を作成すると、Eurymedusaの父CletorはBC1405年生まれである。
その頃、Cletorが住むParacheloitaeの近くのSpercheius川付近にはDryopes (or Dryopians)の先祖が住んでいた。[24]
Peneius河神とDanausの娘Polydoreとの間の息子Dryopsであった。[25]
系図を作成すると、Polydoreの子DryopsはBC1410年生まれになる。
DryopsとCletorは兄弟で、Cletorは父のもとからParacheloitaeへ移住したと思われる。
したがって、Cletorの母は、Danausの娘Polydoreと推定される。

2.5 Cletorの父
Cletorの父を推定するための手掛かりが2つある。

1) 1つ目の手掛かり
Cletorの父が、Danausの娘Polydoreの夫Peneius河神だと伝えられていることである。[26]
Peneius川はThessaly地方とEleia地方にあった。
Eleia地方のPeneius川は、Aeolusの子AethliusがThessaly地方から移住して、Elisの町を創建した後で名付けられ、それは、BC1385年以降であった。[27]
Cletorの父の時代には、Thessaly地方にのみ、Peneius川があった。
したがって、Cletorの父は、Thessaly地方北部のPeneius川近くに住んでいたと推定される。

2) 2つ目の手掛かり
Thessaly地方北部のPeneius川近くに住む者とArgosの町に住む者の遠距離婚がどのようにして実現したかである。
BC1420年、Peneius川付近に居住していたHellenの子Dorusは、Thracia地方から南下して来たCadmusやThraciansの大集団に圧迫されて、Parnassus山近くへ移住した。[28]
このとき、Dorusと共に移住しないで、Peneius川付近に残留した人々もいた。
その中には、Dorusの娘Iphthime一家もいた。[29]
Iphthimeの夫については不明である。
しかし、Iphthimeの息子がDanausの娘と結婚していることから考えて、Pelasgiansであったと思われる。
Iphthimeには、3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいたが、その中の一人がDanausの娘Polydoreの夫となり、息子Dryopsが生まれた。[30]
Cletorの両親の遠距離婚を可能にしたのは、Polydoreの姉妹ScaeaとAutomateと、Achaeusの息子たちとの結婚であったと推定される。[31]
BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Peloponnesus北部のAegialus地方からThessaly地方のMelitaeaの町へ移住した。[32]
BC1420年、Achaeusは、CadmusやThraciansの大集団に圧迫されて、Aegialusの町に帰還した。その後、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesはArgosの町のDanausの娘たちを妻に迎えた。[33]
彼らの結婚が、PolydoreとIphthimeの息子を結び付けたものと思われる。
Polydoreは、Thessaly地方のPeneius川付近に住むIphthimeの息子のもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、DryopsとCletorが生まれた。
BC1390、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。
Iphthimeの一家は、Iphthimeの父Dorusの移住先の近くであるSpercheius川の近くに移住した。[34]

したがって、Cletorの父は、Iphthimeの3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosの中のいずれかと推定される。

3 Myrmidonの後裔
Myrmidonの父Neonusの父Hellenの父Pronousの父Deucalionの父は、Dorusであることから、Myrmidonの種族はDoriansである。
Myrmidonの母Eurymedusaの父Cletorの父の母Iphthimeの父は、Doriansの始祖Dorusであった。[35]
Myrmidonは、Aeolusの娘Pisidiceと結婚した。[36]
Aeolusは、Lapithusの息子であり、Myrmidonの妻は、Lapithsであったと推定される。[37]
Myrmidonには3人の息子たち、Antiphus、Actor、Erysichthon、そして、娘Eupolemeiaがいた。[38]

3.1 Myrmidonの子Antiphus (or Antippus)
Antiphusには、娘Hippeaがいた。[39]
Hippeaは、Peneius川近くに住むLapithusの子Periphasの子Elatusに嫁いだ。[40]

3.2 Myrmidonの子Actor
Actorには2人の妻たち、Sicyonの娘Aeginaと、Damocrateiaがいた。[41]
Actorと彼女たちとの間には、多くの子供たちが生まれた。

3.2.1 Actorの娘Alope
Alopeは、叔母Eupolemeiaの義理の息子Erytus、あるいは、Echionと結婚した。[42]

3.2.2 Actorの子Aeacus
3.2.2.1 Aeacusの妻たち
Aeacusには2人の妻たち、Psamatheと、Endeis (or Endais)がいた。[43]
PsamatheとEndeisは姉妹であり、彼女たちの父は、Athens王Aegeusの実父Scyrius (or Sciron, Chiron, Scirus)であった。[44]
つまり、AeacusとAegeusは、義兄弟であった。
Aeacusは、Pandionの死後、Pandionの子NisusとPandionの娘婿ScironとがMegaraの継承権を争ったときに、争いを仲裁した。[45]
Aeacus、Nisus、それに、Scironが、Aegeusを通して、義兄弟であったからであった。
当時、Aeacusは敬虔な人物として有名であった。[46]

3.2.2.2 Aegina島への移住
Aeacusは、Thessaly地方からSaronic Gulfに浮かぶOenone島へ移住し、後に島は彼の母の名前に因んでAegina島と呼ばれるようになった。
Aeacusが生まれたPhthiaの町から遠く離れたAegina島を結び付けたのは、つぎのように推定される。
Aeacusの母Aeginaの姉妹Salamisは、Salamis島に住むScyriusに嫁いだ。[47]
Aeacusは、彼の叔母Salamisの嫁ぎ先近くのAegina島に入植したと思われる。
Aeacusは、Aegina島へ移住する前に、Diaの町を創建していた。[48]
Aeacusは、Diaの町から多くの人々を率いて島へ移住し、島はMyrmidoniaとも呼ばれた。[49]
Aeacusの2人の妻たちは、Salamis島のScyriusの最初の妻から生まれた娘たちであり、Aeacusの叔母Salamisの義理の娘たちであった。
つまり、Aeacusの2人の妻たちは、Aeacusの義理の従兄妹であった。
AeacusとPsamatheの間には、息子Phocus (or Phoeus)が生まれた。[50]
また、AeacusとEndeisの間には、2人の息子たち、PeleusとTelamonが生まれた。[51]

3.2.2.3 Aeacusの後裔
Aeacusの息子たちと、彼らの後裔については後述する。

3.2.3 Actorの子Echecles
Echeclesは、Dryopia地方に住むPhylasの娘Polymeleと結婚して、息子Eudorusが生まれた。[52]
Eudorusは、Achilles指揮下の第2隊を率いた。[53]

3.2.4 Actorの子Menoetius
BC1262年、Menoetiusは、Phthiaの町からLocris地方のOpusの町へ移住した。Locrusの子Opusが、ThermopylaeとEuripus海峡の中ほどの地に町を建設する際に、Menoetiusが参加したものであった。Opusは、Menoetiusが気に入り、自分の息子Cynusに町を譲らず、Menoetiusに町を継がせた。Opusの子CynusはOpusの町の近くに、Cynusという名前の町を創建した。[54]
BC1224年、Menoetiusは、HeraclesのEurytus攻めに参加した。[55]
Melaneusの子Eurytusは、Euboea島のOechaliaの町に住んでいた。[56]

3.2.4.1 Menoetiusの子Abderos
Abderosは、Heraclesのお気に入り(minion)であった。[57]

3.2.4.2 Menoetiusの子Patroclus
Menoetiusは、Phthiaの町からPeleusの娘Philomela (or Polymele)を娶って、息子Patroclusが生まれた。[58]
Patroclusは、Amphidamasの子Clitonymusを殺害して、Opusの町からPhthiaの町の彼の母方の祖父Peleusのもとへ亡命した。[59]
Phthiaの町には、Peleusの子Achillesがいた。AchillesはPatroclusより少し年下であったが、Patroclusの叔父であった。[60]
Patroclusは、Achillesと共にTroyへ遠征して、戦死した。[61]

3.2.4.3 Menoetiusの娘Myrto
Menoetiusの娘MyrtoがHeraclesと結婚して、娘Eucleiaが生まれたという伝承がある。[62]
MenoetiusはHeraclesの友人であったが、Heraclesの義父であったとする伝承はない。[63]

3.2.5 Actorの子Ceyx
BC1250年、Ceyxは、Phthiaの町からSpercheius川をDryopia地方の方へ越えたOeta山の麓に移住し、Trachisの町を創建した。[64]
BC1246年、Thessaly地方北東部のDotium平原に古くから住んでいたAenianiansが、Ixionと彼の息子Peirithous率いるLapithsに追われて、Oeta山周辺に逃げ込んで来た。[65]
後に、HeraclesがTrachisの町に移住して来たとき、Ceyx支配下のTrachisの町の住人は、Malians (or Melians)であった。[66]
恐らく、Maliansの首領の娘がCeyxに嫁ぎ、CeyxがMaliansを率いることになったものと推定される。[67]
次の事から、Maliansは、Aenianiansの支族であったと推定される。
1) Maliansは、Malian Gulf北側のOthrys山麓のEchinusの町にも住むようになった。[68]
2) AenianiansがOeta山付近からOthrys山麓のEchinusの町まで居住範囲を広げた。[69]
Ceyxには、息子Hippasusと娘Themistinoeがいた。[70]

3.2.5.1 Ceyxの息子Hippasus
Hippasusは、Heraclesと共にEuboea島のOechaliaの町の支配者Eurytusとの戦いに参加して、戦死した。[71]
Hippasusの子Hypsenorは、Troy遠征に参加した。[72]

3.2.5.2 Ceyxの娘Themistinoe
Themistinoeは、Pagasetic Gulf北西にあるItonusの町のCycnus (or Cygnus)の妻であったとする伝承もあるが、創作と思われる。[73]
Cycnusは、Themistinoeの母の一族を追い出したLapithsの一員であった。Cycnusは、Heraclesと戦って、戦死した。[74]

3.2.6 Actorの子Daedalion
AD1世紀の詩人Ovidiusは、DaedalionがTrachisの町のCeyxの兄弟だと伝えており、DaedalionもActorの息子であったと思われる。[75]

3.2.6.1 Daedalionの息子たち
BC5世紀の歴史家Pherecydesは、Deionの娘Philonisには、PhilammonとAutolycusがいたと伝えている。[76]
BC1世紀の神学者Cononは、Philammonが、Attica地方のThoricusの町に住んでいたHeosphorosとCleoboiaの娘Philonisの息子であったと伝えている。[77]
Heosphoros (or Eosphorus)は、Dawn-bringerのことで、人間としての名前は、Pherecydesが伝えているDeionと思われる。[78]
OvidiusとHyginusは、PhilammonとAutolycusをDaedalionの娘Chioneの息子たちだと伝えている。[79]
しかし、Pausaniasは、AutolycusをDaedalionの息子だと伝えている。[80]
系図を作成すると、PhilammonとAutolycusは、Daedalionの娘の息子たちではなく、Daedalion本人の息子たちとする方が妥当である。

3.2.6.2 Daedalionの妻
以上のことから、Daedalionの妻Philonis (or Chione)は、Thoricusの町に住むDeionの娘であった。
次の事から、Thoricusの町に住むDeionは、第8代Athens王Pandionであったと推定される。
Deionの子CephalusはAtheniansの王であった。[81]
Deioneusの子Cephalusは、Thoricusの町に住んでいた。[82]
Deionの子Cephalusは、Attica地方のThoricusの町で、Erechtheusの娘Procrisと結婚した。[83]
Hyginusは、多くの伝承がPandionの息子だと伝えているMegara王NisusをDeionの息子だと伝えている。[84]
つまり、Cephalusは、Deion (or Deioneus)という別名を持つAthens王Pandionの息子であったと推定される。
つまり、Daedalionの妻は、Athens王Pandionの娘であった。

3.2.6.3 Daedalionの子Autolycus
Autolycusは、Parnassus山の近くに住んでいた。[85]
Autolycusは、Amphitheaと結婚して、息子Aesimusと娘Anticliaが生まれた。[86]

3.2.6.3.1 Autolycusの子Aesimus
Aesimusは、Anticliaの兄弟で、Aesimusの子Sinonは、Odysseusの従兄弟であった。[87]
SinonはArgosの町に住み、Troy遠征に参加した。[88]
Homerの物語では、Sinonは、Achaeansが去った後、木馬と一緒にIliumの町に残され、Trojansを欺く役目を果たした。[89]

3.2.6.3.2 Autolycusの娘Anticlia
Anticliaは、Ithaca島に住むArcesiusの子Laertesと結婚した。[90]
AnticliaとLaertesの遠距離婚を可能にしたのは、血縁関係であった。
Laertesは、Pandionの子Cephalusの子Arcesiusの息子であり、AnticliaはLaertesの又従兄妹であった。

3.2.6.4 Daedalionの子Philammon
Philammonは、Charopsの娘Argiopeと結婚して、息子Thamyrisが生まれた。[91]
Philammonと彼の息子Thamyrisは詩人であり、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[92]

3.2.7 Actorの子Haemon
Haemonの子Laercesの子Alcimedonは、Achilles指揮下の第5隊を指揮した。また、第3隊を指揮したPeisanderの父Maemalusも、Haemonの息子であったと思われる。[93]

3.2.8 Actorの子Pyttius
BC1280年、Pyttiusは、Phthiaの町からPeloponnesus半島のEleia地方へ移住し、Enipeus河畔のSalmoneの町の近くにBuprasiumの町を創建した。[94]
Pyttiusの子Amaryncesの子Dioresの子AutomedonはTroy遠征に参加して、Achillesの戦車の御者をした。このことから、PyttiusもMyrmidonの系譜につながる者で、Actorの息子であったと推定される。[95]

3.2.8.1 Pyttiusの子Amarynces
Amaryncesは父の跡を継いで、Elisの町の支配下にあったBuprasiumの町を治め、HeraclesのElis攻めのときは、Elis王Augeasから将に任命された。[96]
Amaryncesには2人の息子たち、HippostratusとDioresがいた。[97]
Hippostratusは父の跡を継いだ。[98]
DioresはEleia地方の軍勢の一部を率いて、Troy遠征に参加した。[99]
Dioresの子Automedonは、Achillesの戦車の御者をした。[100]

3.2.9 Actorの子Eurytion
Eurytionは、父の跡を継いでPhthiaの町を治め、娘Antigoneをもうけた。
BC1256年、Eurytionは、Aeacusの子PeleusをAntigoneの婿に迎えた。
Peleusは、Eurytionの甥であった。[101]
Antigoneは、従兄Peleusと結婚し、娘Polydoraが生まれた。[102]
Polydoraは、Phthiaの町からSpercheius川の近くに住んでいたPerieresの子Borusのもとへ嫁いだ。[103]

3.2.10 Actorの子Ctimenus (or Irus)
BC1275年、Ctimenusは、Phthiaの町からDolopia地方のXynian湖近くへ移住し、Ctimeneの町を創建した。[104]
CtimenusとDemonassaの間の2人の息子たち、EurydamasとEurytionはArgonautsの遠征の物語に登場する。[105]
DolopesのAmyntorとPeleusが戦ったと伝えられるが、そのAmyntorもCtimenusの息子と思われる。Peleusは、Amyntorの子Crantorを人質として預かり、彼の盾持ちにした。[106]
しかし、AmyntorはPeleusの従兄弟と思われ、彼らの間に戦いがあったかは疑問である。

3.3 Myrmidonの子Erysichthon
Erysichthonには、娘Mestraがいた。[107]
Mestraは、Tricaの町に住むDeimachusの子Autolycusに嫁いだ。[108]

3.4 Myrmidonの娘Eupolemeia (or Eupolemia)
Eupolemeiaは、彼女の母Pisidiceの弟Cercaphusと結婚した。Cercaphusは、Itonusの町に住んでいた。[109]

4 Aeacusの子Phocus
Phocusは、義兄弟のPeleusとTelamonに殺されたという伝承があるが、作り話である。
また、PausaniasがAegina島で見たと記しているPhocusの墓も伝承をもとにして作られたものと推定される。[110]
BC1264年、MinosがMegara地方を攻めたときに、Aegina島も巻き込まれた。[111]
戦いは、Minosが勝利して、Aegina島にはCretansが移住して、Aeacus一族と共住した。[112]
BC1256年、Aeacusの子Phocusは移民団を率いて、Aegina島からPhocis地方北部のNaubolenses (後のDrymaea)の町の近くへ移住した。[113]
その町は、Lynceusの子Abasの子Deucalionの子Lynceusの子Ornytusの子Naubolusによって、少し前に創建されていた。[114]
Phocusには2人の息子たち、PanopeusとCrisusがいた。[115]

4.1 Phocusの子Panopeus
Panopeusは、父のもとからBoeotia地方との境近くに移住して、Panopeusの町を創建した。[116]
Panopeusには、息子Epeius (or Epeus)と娘Aegleがいた。[117]
EpeiusはTroy遠征に参加して、木馬製作者になった。[118]
Aegleは、Athens王Theseusと結婚した。[119]

4.2 Phocusの子Crisus
Crisusは、父のもとからDelphiの西側に移住して、Cirra (後のCrisa)の町を創建した。[120]
Crisusは、Naubolusの娘Antiphateiaと結婚して、息子Strophiusが生まれた。[121]
Strophiusは、Agamemnonの姉妹Kydragoraと結婚して、息子Pyladesと娘Astydameiaが生まれた。[122]

5 Aeacusの子Telamon
BC1256年、TelamonはAegina島からSalamis島へ移住して、Cychreusの娘Glauceと結婚した。[123]
その後、TelamonはAlcathousの娘Eriboea (or Periboea)と結婚した。[124]
Telamonには2人の息子たち、Ajax (or Aias)とTeucerがいた。[125]

5.1 Telamonの子Ajax
Ajaxは、Lysidiceと結婚して、Philaeus (or Philius)が生まれた。[126]
Lysidiceは、LapithsのElatusの子Caeneusの後裔であった。[127]
Ajaxは、彼の母Eriboeaの父Alcathousが死ぬと、Megara地方を継承した。[128]
Ajaxは、Troy遠征中に死去し、Achillesの子Neoptolemusによって埋葬された。[129]
Ajaxには、Troy遠征中に2人の息子たち、AeantidesとEurysacesが生まれた。

5.1.1 Ajaxの子Philaeus
Philaeusの妻は、Agamemnonの娘Iphigeniaであったと推定される。
その理由は、つぎのとおりである。
1) PhilaeusがMegara王である父Ajaxと共に住んでいたと思われるMegaraの町にIphigeniaの英雄廟があった。[130]
2) Philaeusは、Attica地方のBrauronの町へ移住した。[131]
3) Iphigeniaは、Artemisに仕える巫女となり、Brauronの町で死んだと推定される。[132]
4) Iphigeniaの兄弟Hyperionは、Megara王を継承した。[133]
Philaeusの子孫には、BC6世紀にChersoneseに城壁を築いたCypselusの子Miltiadesがいた。[134]
Pausaniasは、このMiltiadesをMarathonの将軍だと記しているが、HerodotusやPherecydesは、Cypselusの息子だと伝えている。[135]

5.1.2 Ajaxの子Aeantides
Aeantidesは、AjaxがIliumの町の南にあるColonaeの町のCycnus (or Cygnus)との戦いで捕虜にしたCycnusの娘Glauceに産ませた息子であった。[136]
Aeantidesは、Aeantisの名祖で、Marathon近くに住んでいたと思われる。[137]
BC479年のPlataeaの戦いでは、Greece側の死者1360人のうち、Atheniansは52人であったが、そのすべてが、Aeantis出身者であった。[138]

5.1.3 Ajaxの子Eurysaces
Ajaxは、Chersoneseの町からHellespontを越えたPhrygia地方を襲い、Teuthrasと戦って殺し、彼の娘Tecmessaを捕虜とした。[139]
Eurysacesは、AjaxとTecmessaとの間に生まれた息子であった。[140]
Eurysacesは、Attica地方のMeliteの町に住み、そこには、Eurysacesのsanctuaryがあった。[141]

5.2 Telamonの子Teucer
5.2.1 Teucerの帰還の伝承
Teucerは、Troy陥落後、祖国に帰還したが、父Telamonが上陸を許されなかったと伝えられている。[142]
Pausaniasは、これと同じような逸話として、Telamonが義兄弟を殺して、父に船上から弁明したが許されなかったという話を伝えている。[143]
これらの逸話は、BC5世紀以降に作られたものと思われる。
Athensの町のPeiraeusの海辺に、陸上にいる人々に向って、船上から弁明するPhreattysという法廷が設置されていた。[144]
この法廷の設置は、BC5世紀のThemistoclesの時代にPeiraeusが港になってからであった。[145]

5.2.2 Teucerの帰還の真偽
TeucerがTelamonに追い返されたという伝承が創作であれば、Teucerの帰還があったことを証明できるのは、Ajaxと捕虜の女性たちとの間にTroyで生まれた息子たちしかない。
実際、Ajaxの息子たち、AeantidesとEurysacesは、Troyから帰還している。[146]
しかし、彼らを連れて帰るのは、Ajaxの兄弟Teucerでなくても可能である。
Troyで戦死したMachaonの遺骨を、彼の兄弟PodalirusがNestorに託した例がある。[147]

5.2.3 Cyprusへの移住
Teucerに関する多くの伝承の殆どは作り話だと思われるが、Cyprus島にSalamisの町を創建したことだけは史実のようである。[148]
AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、Cyprus島に到着したのは、AgapenorよりもTeucerの方が先であったと述べている。さらに、Agapenorは銅を採掘するためにCyprus島へ来たとも述べている。[149]
また、AD6世紀の年代記作者Malalasは、Teucerが彼の兄弟Ajaxが死んだ後で、Cyprus島からIliumの町に来たが、その時、Neoptolemusがいたと伝えている。[150]
つまり、Teucerは、銅の採掘、あるいは、その他の目的のためにCyprus島へ移住していて、彼より遅れてAgapenorがArcadia地方から移住して来たと推定される。

5.2.4 Salamisの創建
Teucerは、Achillesと共にTroyへ遠征したAjaxを助けるためにCyprus島からIliumの町へ駆け付けるが勝敗は決した後であった。[151]
Teucerは、移住を希望したTrojansを連れて、Cyprus島へ戻り、Salamisの町を創建した。[152]

5.2.5 Teucerの結婚
Agapenorは、島の南西部のPalaepaphosの町の近くにPaphosの町を創建した。[153]
Teucerは、Agapenorが創建したPaphosの町の近くのPalaepaphosの町に住むCinyrasの娘を妻にした。[154]
BC1360年、Arcadia地方のArcasの子Elatusは、Cyprus島の南西部のPalaepaphosの町からCinyrasとMetharmeの娘Laogoreを妻に迎えた。[155]
それ以来、Arcadia地方とCyprus島とは交流があったと思われる。
Elatusの妻の父Cinyrasは、Teucerの妻の父Cinyrasの先祖と推定される。
Cinyrasは、Midas王と共に、富豪の代名詞とされる人物であった。[156]

5.2.6 SalamisのTeucerの子孫
Pausaniasは、Telamonの子Teucerの子孫によるSalamisの町の支配は、Evagorasまで続いたと伝えている。[157]
しかし、Evagorasの後も彼の後裔がSalamisの町を治めていた。Evagorasの4代後のNicocreonまで続いた。[158]

5.2.7 Teucerの子Ajax
Teucerの子Ajaxは、Cyprus島の北側の対岸、Cilicia TracheiaのOlbe一帯を支配した。[159]
BC6世紀、Athensの町のSolonはCilicia地方のAipeiaの町に住むPhilocyprusを説得して、町の下方の平原にSoliの町を建設するのに協力した。そのPhilocyprusは、Teucerの子Ajaxの後裔と思われる。[160]
Aipeiaの町は、堅固なばかりで、痩せた土地であったと伝えられ、Alexander the Greatが財貨保管場所にしたCyinda (or Quinda)であったと推定される。[161]

5.3 TelamonとHesioneの結婚伝承
TelamonがTroy王Laomedonの娘Hesioneと結婚したという伝承がある。[162]
この結婚は、Telamonの子TeucerをTroy王家の後継者にするための作り話と思われる。
Teucerは、Iliumの町から多くのTrojansを連れてCyprus島へ帰って、Salamisの町を創建した。[163]
Teucerの跡を継いだSalamisの町の支配者は、住民を従わせるため、自分たちがTroy王家の後裔であるかのような話しを作ったと思われる。[164]

5.3.1 伝承の成立時期
AD1世紀初期の著作家Hyginusや、AD2世紀の著述家Apollodorosは、Teucerの母が、Hesioneだと伝えている。[165]
BC4世紀の悲劇詩人Lycophron of Chalcisは、Priamの娘Cassandraの父の姉妹のTrambelusの兄弟が、Teucerであるかのように伝えている。[166]
BC1世紀の詩人Parthenius of Nicaeaは、Telamonの子TrambelusがAchillesに討ち取られ、後で、彼の父の名前を知ったAchillesが嘆き悲しんだと伝えている。[167]
Homerも、AjaxとTeucerを「父を同じくする兄弟」と伝えている。[168]
したがって、Cyprus島で作られたTelamonとHesioneの結婚伝承は、Trojan War時代のすぐ後に作られ、Greece全般に広まったと思われる。

6 Aeacusの子Peleus
6.1 Phthiaへの移住
BC1256年、PeleusはAegina島からPhthiaの町のActorの子Eurytionのもとへ移住した。Peleusは、Eurytionの娘Antigoneと結婚して、娘Polydoraが生まれた。[169]
Antigoneの父Eurytionの父Actorは、Peleusの父Aeacusの父であり、AntigoneはPeleusの従兄妹であった。
Eurytionの死後、PeleusがEurytionの跡を継いだ。[170]

6.2 Phthiaの所在
BC5世紀の歴史家Pherecydesは、PeleusがPharsalusの町とThetideionの町に住んでいたと伝えている。[171]
そのPharsalusの町は、StraboがPalaepharsalusの町と記している古い町であると思われる。Straboは、Peleusの妻Thetisに因んで名づけられたThetideionの町は、Pharsalusの町とPalaepharsalusの町の近くにあったと述べている。[172]
19世紀の英国王立協会員Leakeは、Palaepharsalusの町がPharsalusの町のacropolisから東へ半マイルの距離にあったと推定している。[173]
Pharsalusの町の東側をEnipeus川が流れている。Palaepharsalusの町、つまり、Phthiaの町は、Pharsalusの町の東側のEnipeus川の近くにあったと推定される。

6.3 Centaursとの戦い
AD1世紀の詩人Ovidiusは、Peleusは、Phthiaの町の西側のDolopiaのCtimenusの子Amyntorと戦って征服したと伝えている。[174]
しかし、AmyntorはPeleusの従兄弟と思われ、戦いがあったかは疑問である。
BC1247年、PeleusはAmyntorから彼の息子Crantorを預かって、彼の盾持ちにした。[175]
BC1246年、LapithsとCentaursの戦いが起きると、PeleusはLapithsに味方して、Centaursと戦った。[176]
Peleusの父Aeacusの父Actorの母Pisidiceは、Lapithsであった。[177]

6.4 Iolcusの内乱
BC1236年、Iolcusの町で内乱が発生して、Peliasの子Acastusが殺害された。Peleusは反乱を起こしたMinyansをThessaly地方から追放した。[178]
この戦いで、Peleusは、Thetisを助け出して、Phthiaの町へ連れ帰った。Thetisは、Acastusの息子の妻であったと推定される。[179]
PeleusはThetisを妻にして、息子Achillesが生まれた。[180]

6.5 Phoenix
BC1230年、Amyntorの子PhoenixがOrmeniumの町からPhthiaの町のPeleusのもとを訪れた。Peleusは、Phoenixに領地としてDolopiaを与え、Peleusの子Achillesの養育を任せた。[181]
Phoenixは、彼の父Amyntorの又従兄弟Peleusを頼って亡命した。

6.6 Thetisの家系
6.6.1 Thetisについての伝承
Thetisの家系を推測するための伝承は、つぎの2つである。
1) Pausaniasは、Peleusの異母兄弟Phocusの母は、Thetisの姉妹であったと伝えている。[182]
Pausaniasは、Phocusの母がNereusの娘Psamatheだとも伝えている。彼は、海神Nereusを介して、彼女たちが姉妹だと述べているようにも思われる。[183]
2) Crete島のDictysは、Thetisの父はChironであったと伝えている。
Dictysは、そのChironはCentaurとは記しておらず、Nereusと同じであるように記している。[184]

6.6.2 CentaurのChiron
ThetisがCentaurのChironの娘であったと記している史料はない。
それにもかかわらず、Thetisの父Chironが、Centaurと結び付けられたのは、BC5世紀の抒情詩人PindarとBC3世紀の叙事詩人Apollonius of Rhodesの影響と思われる。
Pindarは、PeleusとThetisの祝いの宴がPelion山であったように記している。[185]
Apolloniusは、Pelion山のPhilyraの子Chironの妻が、Peleusの子Achillesを抱いていたと伝え、CentaurのChironがAchillesの祖父であるかのように記している。[186]
しかし、Lapithsによって、CentaursがThessaly地方から追い出されたのは、BC1246年であり、Iolcusの町が破壊され、PeleusとThetisが結婚したのは、BC1236年である。
PindarやApolloniusが伝えている出来事の頃、CentaursはPelion山に住んでいなかった。

6.6.3 Thetisの父
Thetisは、「海の老人」あるいは「海神Nereus」の娘だと伝えられている。[187]
DictysがThetisの父であると伝えているChironがPelion山に住むCentaurであるとすれば、「海」とは関係がない。
Hyginusは、PeleusとTelamonの母Endeisの父がChironであったと伝えている。[188]
ApollodorosやPausaniasやPlutarchは、「Chiron」を「Sciron」と伝えている。[189]

6.6.4 海神Nereus
Plutarchは、Aegeusの子Theseusと同じ世代に、Salamis島のScirusの娘の子Menesthesがいたと伝えている。[190]
つまり、Argonautsの一員であるPeleusやTheseusは同世代であり、彼らの祖父の代にScirusという名前の人物がSalamis島にいたことになる。
この人物は、Aegeusの実の父であり、Euboea島の北に浮かぶScyros島に名前を与えたScyriusと同一人物と推定される。[191]
Aegeusの時代のAtheniansには船の舵取りをする技術がなかったので、Salaminiansが舵取りをしたと伝えられ、当時のSalaminiansは海の民であった。[192]
したがって、Salamis島のScyriusがThetisの父であり、海神Nereusであったと推定される。
つまり、Thetisの父Chironは、Aegeusの父であり、PeleusやTelamonの母方の祖父Scyriusであった。

6.6.5 Scyriusの父
Cecropsの子Pandionが、Scyriusの子Aegeusを養子にして、AegeusがPandionの跡を継いで、Athens王になっていることから、つぎのように推定される。[193]
Cecropsには、Pandionの他に、CychreusとScyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)という息子たちがいた。
Cecropsと彼の息子たちは、異母兄弟Metionとの争いによって、Athensの町から追放された。[194]
Cychreusは、Salamis島へ移住した。[195]
Cychreusは、Athensの町で神々と同等の尊敬を受けた人物であった。[196]
Scyriusは、Athensの町からScyros島へ移住した。[197]
Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの婿であり、彼らの娘Endeis (or Endais)は、Aeacusの妻であった。[198]
Salamis島のCychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[199]
Scyriusの息子にはAegeusもいたが、Pandionの養子になった。[200]
TheseusがAthensの町を逃れてScyros島へ渡ったのは、父Aegeusの領地があったからであった。[201]

6.7 Peleusの死
PeleusがTrojan Warの後で、Acastusによって、Thessaly地方から追い出されたという伝承がある。その時、PeleusやAcastusが生きていれば、100歳くらいの年齢になる。[202]
BC1230年に、Amyntorの子PhoenixがPeleusのもとへ移住して、PeleusがPhoenixにDolopia地方を与えた。[203]
恐らく、この出来事が信頼できるPeleusの最後の消息である。
BC1227年、HeraclesはAegimiusからの要請でLapithsとの戦いを開始する。
この戦いに、当時、53歳と推定されるPeleusは登場しない。Peleusは、Phoenixを受け入れた後、しばらくして、彼は死んだと推定される。[204]
Peleusが死んだ時、彼の息子Achillesは7歳くらいであり、Phoenixに育てられた。[205]
AchillesはPhoenixの3従兄弟であった。

6.8 Peleusの娘Philomela (or Polymele)
PeleusとPerieresの娘Polydoraとの娘Philomelaは、Opusの町のActorの子Menoetiusへ嫁いで、息子Patroclusが生まれた。[206]
Patroclusは、Achillesより年上であったが、Achillesの甥であった。[207]

6.9 Peleusの娘Polydora
PeleusとEurytionの娘Antigoneとの娘Polydoraは、Spercheius川近くに住むPerieresの子Borusと結婚して、息子Menesthiusが生まれた。[208]
Menesthiusは、Achilles配下の第1隊を率いた。[209]

6.10 Peleusの子Achilles
Achillesは、PeleusとThetisの息子としてPhthiaの町で生まれた。[210]
作成した系図では、Achillesは、Troyで戦死した時、47歳であった。
Thermopylaeの英雄Leonidasや、Alexander the Greatの最強部隊Argyraspidesのように、60歳以上でも戦士であったことを考慮すると、Achillesは若い戦士であった。
Achillesは、Scyros島のLycomedesの娘Deidamiaと結婚した。[211]
Achillesには、2人の息子たち、Neoptolemus (or Pyrrhus)とOneirosがいた。[212]

6.10.1 Achillesの子Oneiros
Oneirosは、Phocis地方でAgamemnonの子Orestesに殺された。[213]
恐らく、NeoptolemusがDelphiansと戦ったときの出来事で、Oneirosも戦死したと思われる。Orestesの親友PyladesはDelphiの近くのCirrhaの町に住んでいた。[214]

6.10.2 Achillesの子Neoptolemus
6.10.2.1 Trojan War時代
Neoptolemusは、AchillesとLycomedesの娘Deidamiaの息子として生まれた。[215]
Achillesの死後、Neoptolemusは神託によって、Troyの戦場へ招致されたと伝えられている。[216]
しかし、系図を作成すると、Troy陥落時のNeoptolemusの年齢は26歳であった。
恐らく、Neoptolemusは父Achillesと共に、Priamの子Hectorに味方するために、Achaeansを率いてTroyへ遠征した。AchillesやHectorが戦死すると、AchaeansはTroyを去って、四散した。Neoptolemusは、Hectorの兄弟Helenusと姉妹Andromacheを連れてMolossiansの地へ移住した。[217]

6.10.2.2 Neoptolemusの定住地
NeoptolemusがMolossiansの地へ行って定住したのは、Dodonaの北にある現在のPamvotis湖近くのIoannina平原であった。[218]
Thucyides の「The History of the Peloponnesian War」やArrian の「The Anabasis of Alexander」にEpirusの王宮があった具体的な町の名は登場しない。
恐らく、知名度のない集落が数多く散在していたものと思われる。

6.10.2.3 Neoptolemusの最期
BC1175年、Neoptolemusは、Delphiを略奪しDelphiansのDaetasの子Machaereusとの戦いで戦死した。[219]
Neoptolemusは、Orestesに殺されたとも伝えられる。Orestesは、Cirrhaの町に住んでいたPyladesと共にDelphiansに味方してNeoptolemusと戦ったと思われる。[220]

7 Epirus 王国
7.1 Epirusの継承
Helenusは、Dodonaの西方の海岸近くにButhrotumの町を創建した。[221]
Leakeは、NeoptolemusがButhrotumの町に住んでいたと考えていた。[222]
しかし、NeoptolemusはHellopia地方に住み、HelenusがButhrotumの町に住んでいたと推定される。
Neoptolemusの死後、Epirusの王権はHelenusが引き継いだ。[223]
その後、Helenusは、Neoptolemusの子MolossusをButhrotumの町に呼び寄せて、後を継がせた。[224]
HelenusとAndromacheとの間の息子Cestrinusは、Buthrotumの町から少しAmbrasian Gulf寄りの土地に移住して、Cestriaの町を創建した。[225]
Molossusの死後、Epirus の王統は、Hellopia地方に住むNeoptolemusの子Pierusに継承され、彼の後裔が代々Epirus を支配した。[226]

7.2 Myrmidonsの最期
BC2世紀、Myrmidonsの後裔が住むEpirusは、RomeとMacedoniaのPerseusとの戦いで、Perseusに味方した。
BC167年、執政官Aemilius Paullus率いるRome軍によって、Epirusの70の町が略奪され、住民15万人が奴隷として売られた。それらの町のほとんどはMolossiansの町であった。[227]

おわり