第22章 ミュケナイの青銅器時代の歴史

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1 はじめに
Mycenaeの町に住んでいたEurystheusやAgamemnonなどについて、多くの伝承が残っている。しかし、ほとんどの伝承は、作り話である。
荒唐無稽な伝承を無視して、史実と思われる伝承を繋ぎ合わせることで、Mycenaeの町の歴史が見えてくる。
Mycenaeの町Peloponnesus半島内で、Argosの町と同じくらい古い町であるにもかかわらず、Mycenaeの町の場合、Perseus以前の伝承が殆ど残っていない。
Mycenaeの町の初期の歴史は、深い霧の中にある。

2 Perseus以前のMycenae (BC1750-1330)
2.1 最初のギリシア人
Mycenaeの町の名前の由来については諸説あるが、一番妥当だと思われるのは、Inachusの娘Myceneに因むとする説である。[1]
BC1750年、Inachusの2人の息子たち、Aegialeus (or Aezeius)とPhoroneusは、Aegialeia (後のSicyon)の町とPhoroneus (後のArgos)の町を創建した。[2]
Mycenaeの町は、2つの町を結ぶ街道の要衝の地にあった。
Mycenaeの町は、2つの町とほぼ同じ頃に創建されたと思われる。[3]
Mycenaeの町の創建者は、Inachusの娘Myceneの夫Arestorと推定される。
Arestorは、第3代Sicyon王Telchinと同族で、Mycenaeの町の最初の住人は、Telchinesであったと思われる。

2.2 考古学からの判明事項
近年の考古学的調査によって、Mycenaeについては、つぎのことが判明している。[4]
1) BC1600年頃から、MycenaeにCrete島の影響が支配的になった。
2) BC1550年頃からBC1450年頃までの間に、Mycenaeは大国に発展した。

2.3 史料の中での記述
Perseusより前の時代のMycenaeの町についての記述は、ほぼ皆無である。
唯一、大科学者Newtonがつぎのように伝えている。[5]
「Egyptから移住して来たDanausが、Argosの町を支配していたGelanorと戦った。
Gelanorは、Mycenaeの町の支配者Eurystheusの兄弟であった。」
この後、Newtonは、このEurystheusがPerseusの子Sthenelusの息子であるかのように記述している。
これは、Newtonの勘違いである。
Newtonが勘違いしたのは、Gelanorの父の名前がSthenelasであったことが原因と思われる。[6]
つまり、Newtonは、Danausの時代の史料に記されたGelanorの兄弟Eurystheusを、200年後に、同じMycenaeの町を支配していたSthenelusの子Eurystheusと同一人物と見なしていた。
しかし、Gelanorの父の名前は、Sthenelusだけではなく、Sthenelas、Stheneleus、Sthelenusとも伝えられている。[7]
つまり、Danausの時代に、Eurystheusという名前の人物がMycenaeの町を支配していたのは、史実と思われる。

2.4 TelchinesとArgosの戦い
Inachusの子Phoroneus時代、Argosの町は、Telchinesと戦っていた。[8]
BC1690年、Phoroneusの子Apisとの戦いに敗れたTelchinesは、Rhodes島へ移住した。[9]
Telchinesは、Rhodes島に、Telchinisという古い名前を与えた種族であった。[10]
Argos王Apisは、この戦いの後で、Sicyonの町を支配下に置いて、Sicyon王にもなった。年代記作者Castorが伝えているSicyoniansの王たちの系譜に、Apisは、第3代Telchinと第5代Thelxionとの間に、第4代Sicyon王として記されている。[11]
BC1665年、Apisは、TelchinとThelxionとによって殺され、Sicyonの町は、25年間に及ぶArgosの町の支配から解放された。[12]

2.5 Creteへの移住
Telchinesは、Rhodes島を中心に活動していたが、彼らは、最初、Crete島へ渡ったと推定される。
AD2世紀の神学者Clemens of Alexandriaは君主制の始まりを「SicyonのAegialeus、Europs、Telchis、Crete島のCres」の順序で記している。[13]
つまり、Cresは、Telchisの息子であり、Sicyonの町からCrete島へ移住して、王になったと解釈することができる。
Telchinesは、第3代Sicyon王Telchinの名前に因んで名づけられた種族であった。

2.6 Cresについて
Cresは、Crete島の最初の王であり、Cresに因んで、Crete島と呼ばれるようになったとも伝えられている。[14]
また、Cresは、Crete島のEteocretansの王であり、Talosという名前の息子がいた。[15]

2.7 CreteからMycenaeへの移住
BC1665年、Sicyonの町がArgosの町のApisによる支配から解放された後、Sicyonの町とCrete島のTelchinesとの間で交易活動が活発になったと思われる。[16]
BC1600年頃から、Mycenaeの町にCrete島の影響が認められるのは、TelchinesがMycenaeの町に住み着いた結果であると思われる。[17]
その後、Crete島やRhodes島を拠点にして、Agean Seaを自由に航海していたTelchinesの活動により、Mycenaeの町は発展した。[18]

2.8 Messapus
Pausaniasは、Sicyonの町の王たちの名前を記している。
Pausaniasは、Thurimachusの子Leucippusに跡を継ぐ息子がいないため、彼の娘Calchiniaの息子Peratusが王になったとして記している。[19]
年代記作者Castorが作成したSicyoniansの王のリストでは、LeucippusとPeratusの間に、Messapusという名前が記されている。[20]
恐らく、Messapusは、Leucippusの娘Calchiniaの夫であり、Peratusの父であったと推定される。[21]

2.9 Messapusの父
Mycenaeの町は、many-eyed、あるいは、All-seeingと称されるArgusの名前に因んで、Argionと呼ばれていた。[22]
Argusは、Phoroneusの娘Niobeの子Argusの子Ecbasusの子Agenorの息子であった。[23]
Argusの妻は、Asopus河神の娘Ismeneであった。[24]
ArgusとIsmeneが結婚した当時、Asopus川が流れるSicyonの町の王は、Aegydrus (or Aegyrus)の子Thurimachusであった。Asopus河神はThurimachusであり、IsmeneはThurimachusの娘と推定される。[25]
系図を作成すると、Messapusは、Argusの次の世代である。
以上のことから、次のように推定される。
Agenorの子Argusは、Sicyonの町のThurimachusの娘Ismeneを妻にして、Mycenaeの町に住んだ。
Sicyonの町の王Thurimachusの子Leucippusに息子がいないため、Leucippusの跡をLeucippusの娘Calchiniaの夫Messapusが継いだ。[26]
つまり、Messapusの父は、Agenorの子Argusであった。

2.10 Argosからの大移住
BC1560年、Argosの町から各地への大移住が発生した。[27]
近年の考古学的調査によれば、BC1550年頃からMycenaeの町は大国に発展している。[28]
つまり、大移住の原因は、気候変動による飢饉ではなく、Mycenaeの町によるArgosの町の占領であったと思われる。

2.11 Mycenaeの繁栄
Agenorの子Argusの跡を継いで、Mycenae王となったMessapusは、彼の母Ismeneや彼の妻Calchiniaの出身地でもあるSicyonの町を支配下に置いた。
BC1560年、Messapusは、Argosの町を攻めて、占領した。
これによって、Mycenaeの町は、Arcadia地方に住むPelasgiansを除いて、Peloponnesus半島のすべての人々を支配したことになる。
Messapusの死亡時期は、BC1540年頃であり、Messapusは、Mycenaeの町から発掘されたAgamemnonのMaskに関係する人物と推定される。
Mycenaeの町に住んでいたTelchinesは、Idaean Dactylsとも呼ばれ、金属加工に卓越した種族であった。[29]

2.12 Danausの出現
BC1430年、Danausは、EgyptからPeloponnesusへ移住して来て、Argosの町を支配していたGelanorから支配権を奪取した。[30]
Pausaniasは、GelanorをTriopasの子Agenorの子Crotopusの子Sthenelasの息子だと伝えている。[31]
しかし、Sthenelasは、Crotopusの息子ではなく、彼らの間には、2世代くらいの欠落がある。
また、Sthenelasは、Crotopusの後裔ではなく、Mycenaeの町のMessapusの後裔と推定される。Danausが移住して来たとき、Gelanorの兄弟EurystheusがMycenaeの町を支配していた。[32]

2.13 Argosの奪還
BC1600年、Agenorの子Argusは、Criasusの子Phorbasによって、Argosの町から追放されてMycenaeの町へ移住した。[33]
BC1560年、Argusの子Messapusは、Phorbasの子Triopasの後裔をArgosの町から追放した。
Triopasの子Iasusの娘Ioは、Egyptへ移住した。[34]
Danausは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの息子であった。
つまり、Danausは、Mycenaeの町によって占領されていたArgosの町を奪い返したことになる。
その後、Danausは、Mycenaeの町を攻めて破壊し、Mycenaeの町の住人は、Sicyonの町へ移住したと推定される。

2.14 Argosの再占領
BC1413年、Danausの跡を継いだLynceusが死んで、Lynceusの子AbasがArgosの町を継承した。[35]
BC1408年、Danausによって追放されたGelanorの息子と推定されるLamedonは、Sicyonの町からArgosの町へ攻め込んで占拠した。[36]

2.15 Argosの奪還
BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Lamedonと戦って、Argosの町を奪還して、さらに、Sicyonの町を占領した。[37]
ArchanderとArchitelesは、Danausの娘たち、ScaeaとAutomateの夫たちであった。[38]
Deucalionの後裔であるArchanderとArchitelesには、多くのAchaeansが付き従い、彼らは、Argolis地方全域に定住した。[39]
Aeolusの子Sisyphusは、Sicyonの町の東にEphyra (後のCorinth)の町を創建して、Sicyonの町をも支配した。[40]

2.16 Mycenaeの荒廃
AchaeansとSicyonの町との戦いで、Mycenaeの町は、さらに、荒廃した。
BC1368年、Argosの町のAbasの2人の息子たち、ProetusとAcrisiusが支配権を争って戦い、そして、和解した。[41]
その時、Acrisiusは、Argosの町を、Proetusは、Tiryns、Heraeum、Mideiaの町、および、Argolisの沿海地方を領することになった。[42]
Mycenaeは、町として存在していなかった。

2.17 Perseus以前のMycenaeの記録
PerseusがMycenaeの町を創建する前の記録が残っていないのは、過去を語り継ぐ人々が四散したからだと思われる。
BC1430年、Danausが移住して来る前に、Mycenaeの町に住んでいた人々は、Danausに町を破壊されて、Sicyonの町へ逃れた。
BC1407年、Sicyonの町は、Achaeansに占領されて、Thessaly地方から移住して来たAeolusの子Sisyphusに支配された。[43]
BC1430年以前に、Mycenaeの町に住んでいた人々は、各地へ四散した。
同じようなことが、BC1560年にArgosの町からThessaly地方へ移住したPelasgiansにも見ることができる。彼らの子孫が、BC1390年にThessaly地方から追い出されるまでの記録が残っていない。
しかし、Mycenaeの町と異なり、最初の移住者Larisaから、追放された当時のLarisaの子孫Nanasまでの系譜だけは残されていた。

3 Danaeの子Perseusの時代 (BC1330-1304)
3.1 Danaeの子Perseus
BC1360年、Perseusは、Argos王Acrisiusの娘Danaeの息子として、EgyptのNileDeltaにあるChemmisの町で生まれた。[44]
BC1349年、AcrisiusはPerseusを後継者にするために、Argosの町に呼び寄せた。[45]
BC1343年、PerseusはAcrisiusの兄弟Proetusを殺して、Seriphus島へ逃れた。[46]

3.2 Perseusの空白時代
PerseusがArgosの町を出て、Ethiopiansの土地に現れるまで、約8年間、Perseusの所在は不明である。
PerseusがLycaonia地方のIconium (Konya)の町まで遠征したと伝えている史料があるが、この所在不明の時期の出来事と思われる。[47]
Hittite文書によれば、Arzawa王TarhuntaraduがHittite領の奥深くまで侵入して、Tuwanuwa (Tyana)の町を占領していた。[48]
Iconiumの町は、Tuwanuwaの町の西方約185kmにある。
Tarhuntaraduは、Perseusの母Danaeと同世代であり、Perseusは、Ahhiyawa軍と共に、Tarhuntaraduの遠征に参加していたと思われる。
Perseusが創建したMycenaeの城塞の神殿には、EgyptのAmenhotep IIIの妻TiyeのScarabが置かれていた。[49]
そのScarabは、Amenhotep IIIと交流があったTarhuntaraduからPerseusに与えられ、Perseusが神殿に安置したと推定される。

3.3 Perseusの結婚
BC1335年、Perseusは、Ethiopiansの地に住むBelusの子Cepheusのもとへ行き、彼の娘Andromedaと結婚した。[50]
Andromedaの生まれ故郷EthiopiaはEgyptの南ではなく、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近にあった。[51]
そのEthiopiaは、Adrasteia平原にあり、PerseusがAndromedaと結婚した当時、そこは、Pelopsの父Tantalusの領地であった。[52]
Perseusの息子たちとPelopsの娘たちの婚姻は、Pelopsの父TantalusとPerseusとの交友関係によるものであった。
また、Perseusの母Danaeと、Pelopsの妻Hippodamiaの母Evareteは姉妹であり、Perseusの息子たちとPelopsの娘たちは、又従兄妹同士であった。[53]

3.4 Mycenaeの創建
Abasの子Acrisiusが死ぬと、Tirynsの町に住むProetusの子MegapenthesがArgosの町へ移り住んだ。[54]
BC1332年、Perseusは、Ethiopiansの地からPeloponnesusへ帰還し、Argosの町から追い出されたAchaeansと共にTirynsの町を占拠した。[55]
伝承では、PerseusがMegapenthesと町を交換して、PerseusがTirynsの町に、MegapenthesがArgosの町に住むことになったと伝えられている。[56]
しかし、結果的にそうなったのであり、彼らの意志で交換したのではなかった。
BC1330年、Perseusは、Mycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[57]
Mycenaeの町は、Argium山に建設されたという伝承があり、Agenorの子Argusが創建した町は、既に存在していなかったと思われる。[58]

3.5 Perseusの息子たち
3.5.1 Perseusの子Perses
Persesは、Ethiopiaで生まれ、母Andromedaの父Cepheusの跡を継ぐためにその地に残された。[59]

3.5.2 Perseusの子Alcaeus
Alcaeusは、Thebesの町のMenoeceusの娘Hipponomeと結婚して、後にHeraclesの父になる、息子Amphitryonが生まれた。[60]
PerseusがMycenaeの町を創建後、AlcaeusがTirynsの町を継承した。

3.5.3 Perseusの子Sthenelus
Sthenelusは、父PerseusからMycenaeの町を継承した。[61]

3.5.4 Perseusの子Cynurus
BC1300年、Cynurusは新天地を求めて、Laconia地方との境付近へ移住してCynuriaの町を創建した。[62]

3.5.5 Perseusの子Mestor
Mestorは、Pelopsの娘Lysidiceを妻に迎えて、娘Hippothoeが生まれた。[63]

3.5.6 Perseusの子Helius (or Heleus)
BC1290年、HeliusはLaconia湾岸にHelosの町を創建した。[64]
Heliusは、兄弟Mestorの娘Hippothoeと結婚して、息子Taphiusが生まれた。[65]
BC1277年、Heliusは、兄弟たちと共にGreece北西部へ遠征して、Echinadian Islandsに定住した。[66]

3.5.7 Perseusの子Electryon
Electryonは、Mideiaの町に住み、Pelopsの娘Lysidice(or Eurydice)と結婚して、後にHeraclesの母になる、Alcmenaが生まれた。[67]
Electryonは、Lysidiceとの結婚の前に、PhrygianのMideiaと結婚していた。[68]
この結婚は、つぎのようにして成立したと思われる。
Perseusの最初の息子Persesは、祖父の跡を継ぐためにEthiopiaに残された。[69]
Ethiopiaは、Adrasteia平原にあったが、そこに住んでいたPelopsの父Tantalusは、Trosの子Ilusに攻められて、追い出された。[70]
Persesは、隣接するTroyの脅威に対抗するために、父Perseusに援軍を求めた
Perseusは、ElectryonをPersesのもとへ派遣した。
ElectryonはEthiopiaで、PhrygianのMideiaを妻にして、多くの息子たちが生まれた。[71]
その後、Ilusとの戦いに敗れたElectryonは、Peloponnesusへ帰還して、Mideaの町を任せられた。

3.6 Perseusの娘たち
3.6.1 Perseusの娘Gorgophone
BC1307年、Gorgophoneは、Messenia地方のAndaniaの町のAeolusの子Perieresに嫁いだ。[72]
Andaniaの町は、5世代前にArgosの町から移住したAchaeansを中心に、Lacedaemonの町のLelexの子Polycaonによって創建された。[73]
Mycenaeの町の住人も、Argosの町に住んでいたAchaeansの後裔であった。
PerieresとGorgophoneの婚姻は、両者の町の住人が同族であったことから成立したと思われる。

3.6.2 Perseusの娘Autochthe
Perseusには、Autochtheという名前の娘がいた。[74]
Autochtheは、後述の「Atreusの母」で記す理由からPelopsの妻であったと思われる。

3.7 Perseusの最期
BC1310年、Perseusは、Argosの町のProetusの子Megapenthesに殺された。[75]
それは、PerseusがMegapenthesの父Proetusを殺したことに対する復讐であった。
この出来事の後、Argosの町とMycenaeの町は絶縁状態になった。
ArgivesのThebes攻めにMycenaeの町は登場せず、EurystheusのHeracleidae攻めにArgosの町は登場しない。
両者の争いに、Argosの町の植民市であるPhocis地方のAbaeの町も関係していた。
Megapenthesは、Abaeの町のLynceusを殺し、Lynceusの子AbasはMegapenthesを殺害した。[76]

4 Perseusの子Sthenelusの時代 (BC1310-1262)
4.1 Sthenelusの結婚
Perseusの跡を息子Sthenelusが継いだ。
Sthenelusの妻は、Pelopsの娘Nicippe (or Archippe)の他に、Amphidamasの娘Antibiaがいた。[77]
Sthenelusの妻の父に年代が合致するAmphidamasは、Arcadia地方のAleusの息子が該当する。[78]
そのAmphidamasの娘Nausidameは、Elisの町のAugeasの母であり、後にHeraclesはAugeasと戦うが、その戦いの原因と関係があると思われる。[79]
Sthenelusの子EurystheusとSthenelusの甥Heraclesとは同年齢であり、Eurystheusの母は、Sthenelusの2人目の妻Nicippeであったと推定される。[80]

4.2 Sthenelusの娘Alcyone
AD1世紀の歴史家Dionysius of Halicarnassusは、Trojan Warの3世代前に、AlcyoneがArgosの神職を務めていたと伝えている。[81]
このAlcyoneは年代的に見て、Sthenelusの娘で、Eurystheusの異母姉妹であったと思われる。Eurystheusの娘AdmeteもArgosのHeraの巫女であった。[82]

4.3 Amphitryonの遠征
BC1277年、Sthenelusの兄弟たち、ElectryonやHeliusが彼らの甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征した。[83]
この遠征で、Mideiaの町に住むElectryonと彼の息子たちが死に、彼の末の息子Licymniusと彼の娘Alcmenaが残された。[84]
Amphitryonは従兄弟たち、LicymniusとAlcmenaをThebesの町に呼び寄せ、AmphitryonはAlcmenaを妻にした。[85]
Sthenelusは、ElectryonがいなくなったMideiaの町をPelopsの息子たち、AtreusとThyestesに任せた。[86]

4.4 Sthenelusの娘Astymedusa (or Medusa)
BC5世紀の神話学者Pherecydesは、Thebesの町のOedipusの3人目の妻は、Sthenelusの娘Astymedusaだと伝えている。[87]
このSthenelusをArgosの町のCapaneusの子Sthenelusであるとすれば、彼の娘とOedipusの年齢は、100歳差となり、妥当ではない。
AstymedusaがPerseusの子Sthenelusの娘であるとすれば、概ねOedipusの妻として妥当な年代になる。
Oedipusは、Corinth地方のTeneaの町に住んでいたときに、Mycenaeの町に住むAstymedusaと面識があったと思われる。[88]
BC1234年、当時、60歳と推定されるOedipusの3度目の結婚は、Thebesの町のCreonに強い憎悪の念をもたらした。
Creonは、娘MegaraをHeraclesに離縁されたことからPerseusの後裔を嫌っていた。[89]
OedipusとAstymedusaの結婚は、Oedipusと彼の息子たち、EteoclesとPolyneicesの争いを生んだ。[90]

5 Sthenelusの子Eurystheusの時代 (BC1262-1217)
BC1262年、Sthenelusの跡を、彼の息子Eurystheusが継いだ。[91]

5.1 Eurystheusの誕生
Eurystheusは、Heraclesより僅かに先に生まれたために、Mycenae王になったと伝えられている。[92]
しかし、HeraclesがEurystheusより早く生まれていてもMycenae王となることはなかった。Heraclesは祖父Alcaeusから父Amphitryonへと継承されたTirynsの町の領主であった。

5.2 Cleonaeの創建
BC1251年、AtreusはMideiaの町を出て、Cleonaeの町を創建した。[93]
Cleonaeの町はMycenaeの町の北約11km、Mycenaeの町は、Mideiaの町の北西約12km、そして、Tirynsの町はMideiaの町の南南西約7kmにあった。
Cleonaeの町の創建は、HeraclesがThebesの町からTirynsの町へ移住した時期であり、つぎのように推測される。[94]
Mycenaeの町を父から継承したEurystheusは、頼りになる身内として、Thebesの町に住んでいたHeraclesとLicymniusを近くに呼び寄せた。
Eurystheusの父Sthenelusの兄弟Alcaeusの子Amphitryonの子Heraclesは、Thebesの町から父の旧領Tirynsの町へ移住した。[95]
Eurystheusの父Sthenelusの兄弟Electryonの子Licymniusは、Thebesの町から父の旧領Mideiaの町へ移住した。
そのため、Atreusは、Mideiaの町を出て、Cleonaeの町を創建した。
BC468年、Mycenaeの町がArgosの町に破却されたとき、Mycenaeansの一部は、Cleonaeの町へ逃れた。[96]

5.3 Argosの内紛
Argosの町に住むHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺害するという事件が起きた。Hyettusは、Boeotia地方へ移住してCopais湖の北側にHyettusの町を創建した。[97]
恐らく、この事件を契機にArgosの町に内紛が勃発して、Melampusの子MantiusがArgosの町から追い出された。[98]
BC1247年、MantiusはArgosの町へ帰還して、自分たちを追い出したMelampusの子Abasや、彼に味方したBiasの後裔を町から追い出した。[99]
この内紛で、Amythaonの子Melampus本人を含めて、彼の一族がArgosの町を去った。
EurystheusがHeraclesに命じたElis攻めに、Mantiusの子Oeclesが参加していることから、Mantiusの帰還に、Eurystheusが協力したと推定される。
Mycenaeの町とArgosの町は対立していたが、Mantiusは、対立の原因となったProetusの子Megapenthesの後裔ではなかった。

5.4 Elis攻め
BC1243年、Eurystheusは、HeraclesにEleia地方のElisの町のAugeasを攻めさせた。[100]
伝承では、AugeasがHeraclesに約束した報酬を支払わなかったからだと伝えられている。[101]
しかし、つぎのようなことが原因であったと思われる。
Augeasの母は、Arcadia地方のAmphidamasの娘Nausidameであり、Nausidameの姉妹Antibiaは、Eurystheusの父Sthenelusの最初の妻であった。
つまり、AugeasとEurystheusは、お互いの母を通じて義理の従兄弟であった。 [102]
婚姻関係によって、Eurystheusが生まれる前は、Elisの町とMycenaeの町は、良好な関係にあった。しかし、Sthenelusが、Pelopsの娘Nicippe (or Archippe)と2度目の結婚をするに及んで、両者の関係は悪化した。[103]
Pelops亡き後、Elisの町が、Pisaの町に代わってOlympiaを支配下に置いて、競技会を開催するなど、Pisaの町にも影響力を及ぼすようになった。
EurystheusはPisaの町からの請願を受けてHeraclesにElisの町を攻めさせたと推定される。[104]

5.5 Dryopiansの受け入れ
BC1230年、Delphi近くのDryopesの町のPhylasがDelphiの神殿に不敬を働いたことから、HeraclesはDryopiansを攻めて、その地から追放した。[105]
Dryopiansの一部は、Peloponnesusへ逃げ込み、Eurystheusから援助を受けて、Argolis地方にAsine、Hermione、Eionという名前の3つの町を建設した。[106]
Eurystheusは、Heraclesへの敵対心のためにDryopiansを援助したと伝えられ、既にこの頃から、両者の敵対関係は有名であったものと思われる。[107]
この頃、Eurystheusの息子たちも成人し、Argolis地方南東部の海岸地帯へもMycenaeの町の支配が及んでいたことを証明している。

5.6 Eurystheusの味方
BC1262年、Eurystheusが父からMycenaeの町を継承した頃、まだ成人に達していないEurystheusの近くにいた身内は、2人だけであった。
その2人とは、Eurystheusの父Sthenelusの姉妹Autochtheの息子たち、ThyestesとAtreusであり、Mideiaの町に住んでいた。[108]
彼らとEurystheusは、Perseusを共通の祖父とする従兄弟であったが、彼らの方が、15歳以上、Eurystheusより年長であった。

5.7 EurystheusのHeraclesに対する気持ちの変化
Heraclesは、Eurystheusと同じ年齢であり、Eurystheusの従兄弟Amphitryonの息子であった。[109]
AmphitryonはTeleboansやChalcodonと戦った戦士であり、HeraclesもMinyansのErginusとの戦いで、有名になっていた。[110]
HeraclesはCreonの娘Megaraとの間に生まれた子供たちを失った後で、Thebesの町からTirynsの町へ移り住んだ。[111]
HeraclesがActorの息子たちを襲撃して、Elisの町が犯人の処罰を求めたとき、EurystheusはHeraclesを処罰せず、町から出て行かせた。[112]
Eurystheusにとって、Heraclesは信頼できる身内であり、力強い味方であった。
しかし、HeraclesがElisの町やPylusの町を攻略し、Olympiaで競技会を開催したことでEurystheusのHeraclesに対する嫉妬心は、敵対心に変わった。[113]
それまで、Olympiaでの競技会は、その時代の覇者が開催していた。[114]

5.8 EurystheusのHeracles一家への執念
HeraclesがTirynsの町を出た後のHeracles一家の転居には、Eurystheusの強い意志が働いていた。

5.8.1 PheneusからCalydonへの転居
Arcadia王Lycurgusは、Hippocoonとの戦いで、彼の息子Cepheusや多くの孫たちを失った。Lycurgusは、Eurystheusからの要請を受けて、HeraclesにArcadia地方のPheneusの町からの退去を迫ったと推定される。[115]
Lycurgusは、Eurystheusの妻Antimacheの祖父であった。[116]

5.8.2 CalydonからTrachisへの転居
Eurystheusは、Argosの町への帰還を援助したMantiusの子Oeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonの町のOeneusに圧力をかけたと推定される。[117]
Mantius一族は、Calydonの町に20年以上住み、Amphiarausはその町で生まれた。[118]

5.8.3 TrachisからAthensへの転居
Heraclesの死後、Eurystheusは、Trachisの町のCeyxに対して、彼がHeracles一家を追い出さなければ武力に訴えると脅した。[119]

5.9 Eurystheusの最期
BC1217年、Eurystheusは、Heraclesの息子たちが住んでいたAthensの町へ攻め込むが、Heraclesの甥Iolausに討ち取られた。[120]
BC1215年、HeracleidaeがPeloponnesus半島へ侵入して、Mideiaの町やTirynsの町を占拠した。[121]
翌年、Heracleidaeは、Heraclesの子Tlepolemusを残して、PeloponnesusからAttica地方の町へ撤収した。[122]
BC1213年、Tlepolemusは移民団を率いて、Rhodes島へ移住した。[123]
Tlepolemusの移民団は、Tirynthiansで構成され、その中には、Heracleidaeとの戦いで生き残ったEurystheusの一族が含まれていた。[124]

5.9.1 LebesとRhacius
BC1213年、MycenaeanのLebesは、PeloponnesusからCrete島へ移住した。
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からAsia Minorへ移住してColophonの町を創建した。[125]
Rhaciusは、Tiresiasの娘MantoからEpigoniに攻められてThebesの町が陥落した話を聞いて涙を流した。このことから、Lebesは、Sthenelusの子Iphitusの息子と推定される。[126]
BC1234年、Iphitusの姉妹Astymedusaは、Thebesの町のOedipusに嫁いでいた。[127]

5.9.2 Eurystheusの娘Admete
Argosの町のHera神殿の巫女であったEurystheusの娘Admeteは、Samos島へ移住した。[128]
Samos島は、Crete島から航海してColophonの町に着く少し手前にあった。
Admeteは移住先を探していたRhacius率いる移民団の中にいて、途中でSamos島に定住したと推定される。

6 Eurystheus死後のMycenae
6.1 混乱する伝承
Eurystheusの跡を継いだPelopidaeについては、多くの伝承があって混乱している。
それらの伝承の背後にある真実の歴史を知るためには、つぎのようなことを考慮する必要がある。
1) AtreusとThyestesの母は、Perseusの娘であった。
2) Aegisthusは、Thyestesの息子ではなく、Thyestesの娘Pelopiaの息子であった。
3) Thyestesは、Atreusより前に死んだ。
4) Menelausは、TyndareusからLacedaemonを譲られたのではない。

6.2 AtreusとThyestesの母
Atreusの母はHippodamiaではなく、Perseusの娘Autochtheであったと推定される。[129]
この推定の根拠は次のとおりである。
1) Pelopsの息子は15人以上知られているが、Hippodamiaの息子は6人であったと伝えられている。[130]
系図を作成すると、Atreusは、PelopsとHippodamiaが結婚してから20年以上後に生まれている。また、Atreusがfirstbornであったと伝えている史料もあり、Atreusの母はHippodamiaではなく、もっと若い妻であったと推定される。[131]
2) SthenelusがMideiaの町をAtreusとThyestesに委ねている。[132]
Atreusの母がHippodamiaであれば、彼らはSthenelusの妻の兄弟である。
Atreusの母がAutochtheであれば、彼らはSthenelusの甥である。
Sthenelusは、血縁者であるAtreusとThyestesにMideiaの町を任せたと推定される。
3) Eurystheusの死後、AtreusがMycenaeの町を継承した。[133]
Thucydidesは、Atreusが異母兄弟Chrysippusを殺した後で、Eurystheusのもとへ逃げ込んだと伝えている。さらに、EurystheusがHeraclesの息子たちとの戦いに向かうときにAtreusにMycenaeの町を託したと伝えている。[134]
しかし、Eurystheusが死んだとき、Atreusは70歳を超えていた。また、Chrysippusはだいぶ前に死んでいた。
当時、支配者の死後、彼の娘婿が跡を継いだ例は見られるが、支配者の母の兄弟が継いだ例は見られない。
AtreusがEurystheusの父Sthenelusの父Perseusの娘Autochtheの息子であれば、AtreusはEurystheusの従兄弟であり、正当な継承者になる。
4) Atreusの2人の孫たちは、Tyndareusの娘たちと結婚した。[135]
Mycenaeの町のPelopsの子Atreusと、Spartaの町のOebalusの子Tyndareusとの間に血縁関係はないように見える。
しかし、Atreusの母が、Perseusの娘であれば、Atreusは、Tyndareusの母Gorgophoneの姉妹の息子になる。つまり、AgamemnonとMenelausは、父の従兄弟Tyndareusの娘たちと結婚したことになる。

6.3 Thyestesの子Aegisthus
多くの伝承が、Aegisthusは、Thyestesの息子だと伝えている。[136]
そして、Aegisthusの母については、Thyestesの娘Pelopiaだという伝承がある。[137]
Aegisthusの娘Erigoneは、Agamemnonの子Orestesと結婚して、息子Penthilusを産んだ。[138]
AegisthusがThyestesの息子だという伝承は、AgamemnonがAtreusの息子だという伝承に合わせて生まれたと思われる。
実際は、Agamemnonは、Atreusの子Pleisthenes (or Plisthenes)の息子であり、Aegisthusは、Thyestesの娘Pelopiaの息子であったと推定される。

6.4 Thyestesの死亡時期
AegisthusがMycenae王Atreusを殺してThyestesを復位させたという伝承がある。[139]
しかし、Mycenae王Agamemnonが祖父の仇であるはずのAegisthusを殺したという伝承はない。
Eurystheusが死んだとき、Atreusは、73歳であったと推定される。
Thyestesは、Atreusより年長であり、Eurystheusが死んだとき、Thyestesは既に死んでいたと思われる。[140]

6.5 MenelausのLacedaemon継承
伝承では、Tyndareusが義理の息子MenelausにLacedaemonの王権を譲ったことになっている。[141]
しかし、Tyndareusの跡をDioscuriが継いだという伝承もあり、Dioscuriより先にTyndareusは死んだのかもしれない。[142]
Tyndareusの息子たち、CastorとPolydeucesには、Menelausと同じくらいの年齢の息子たちがいた。[143]
Tyndareusには、彼がAetolia地方からSpartaの町へ帰って来てから結婚した女性から少なくとも3人の娘たちが生まれている。伝承には残っていないが、彼女たちの兄弟たちもいたと思われる。
つまり、Tyndareusには跡継ぎがいたにもかかわらず、義理の息子MenelausがLacedaemonを継承した。
恐らく、Mycenaeの町の勢力を背景にして、Tyndareusの正当な継承者を差し置いて、MenelausがLacedaemoniansの支配権を得たと推定される。
その証拠に、Menelausの跡をAgamemnonの子Orestesが継ぎ、Orestesの跡を彼の息子Tisamenusが継いだが、彼らはLacedaemonに住んでいなかった。

7 Pelopsの子Atreusの時代 (BC1217-1203)
Eurystheusの死後、AtreusがMycenaeの町を継承した。[144]

7.1 Heracleidaeとの戦い
7.1.1 Heracleidaeの帰還 (第1回)
BC1215年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeがPeloponnesusへ侵入して、各地を占領した。[145]
このとき、Heracleidaeは、Mycenaeの町ではなく、Mideiaの町やTirynsの町を占拠した。[146]
AtreusやAgamemnonは、Mycenaeの町に籠城していたと推定される。
Eurystheusの死後、Mycenaeの町の戦力は、未だ回復していなかった。

7.1.2 Heracleidaeの帰還 (第2回)
BC1211年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeが再びPeloponnesusへ侵入しようとした。[147]
AtreusやAgamemnonは、MycenaeansやTegeansを率いて、HeracleidaeをIsthmusで迎え撃った。[148]
Hyllusは戦死して、Heracleidaeは撃退された。[149]
伝承では、Hyllusは、Tegeaの町のEchemusとの一騎打ちで死んだことになっている。[150]
しかし、Heracleidae側が総大将を出しているのに、Peloponnesus側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。
Hyllusの対戦相