第32章 ロクリス地方とドリス地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.7.19, Update:2024.4.10
Locris

1 はじめに
1.1 LocrisとDoris
Doris地方を挟んで、東にはEpicnemidian Locris地方、西にはOzolian Locris地方がある。[1]
古い時代、前者は、Epicnemidis地方とOpus地方に分かれていた。[2]
その間には、Phocis地方の町Daphnusがあったが、町は破壊され、Opus地方に属するようになった。[3]
Locris地方が3つの地方に分かれていたのは、その成り立ちが原因であった。
つまり、Doris地方からOpus地方へ入植し、そこから、Ozolian Locris地方とEpicnemidis地方へ入植したからであった。[4]
Locriansは、名前を変えたDoriansであったが、地方名は統一されなかった。そこには、同じ地方名を付けることができない、長い歴史があった。
この章では、Locris地方とDoris地方に接して、境界の曖昧なMalis地方やDryopia地方についても記述する。

1.2 Malis
AD2世紀の著述家Apollodorosは、Trachisの町の住人をMeliansと記している。[5]
しかし、Herodotusは、Melos島に住む人々をMeliansと呼んでいる。[6]
Herodotusは、Trachisの町の住人をMaliansと呼んでいる。[7]
Herodotusは、Doris地方がPhocis地方に隣接し、その反対側は、Malis地方に隣接していると述べている。[8]
つまり、Trachisの町の住人は正しくはMaliansで、次第に東側の湾岸に勢力を拡大して、Malian Gulfに名前を与えたと思われる。[9]

1.3 Dryopia
Dryopia地方の位置についても古代の記述は曖昧である。
しかし、次の事からDryopia地方は、Trachisの町とDoris地方の間にあったことが分かる。
1) Heraclesによって、Dryopiansが追放された後の土地は、Maliansに与えられた。[10]
2) Herodotusの時代、Doris地方は、Phocis地方とMalis地方に隣接していた。[11]
3) Trachisの町の住人はMaliansであった。[12]

2 Hellenの子Dorusの時代 (BC1420-1415)
2.1 Thessalyからの移住
BC1420年、Cadmus率いる集団がThracia地方から南下して、Thessaly地方へ侵入した。
Ossa山とOlympus山の近くのPeneius川の北側に住んでいたHellenの子Dorusは住人を率いて、Oeta山とParnassus山の間の土地へ移住した。[13]
Dorusは、移住した人々を1か所に集めてPindusの町を創建した。[14]

2.2 Creteへの移住
BC1420年、Dorusの子Tectamusは移民団を率いて、Doris地方からCrete島へ移住した。移民団には、Doriansの他に、PelasgiansやAeoliansが含まれていた。[15]
Tectamusの入植地は、Crete島の東部であった。[16]

3 Dorusの子Deucalionの時代 (BC1415-1400)
3.1 Opus湾近くへの移住
BC1415年、Dorusの子Deucalionは、Pindusの町からOpus湾の近くへ移住した。[17]
Deucalionは、Epicnemidian Locris地方へ入植した最初のギリシア人であった。

3.2 Thessalyへの嫁入り
BC1413年、Deucalionの娘Protogeniaは、Opus湾近くからThessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusのもとへ嫁いだ。[18]
Aeolusは、Protogeniaの父Deucalionの父Dorusの兄弟Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であった。つまり、Aeolusは、Protogeniaの又従兄妹の息子であった。

3.3 Antheiaの創建
BC1410年、Deucalionの子Amphictyonは、Opus湾近くからThermopylae付近に移住して、Antheia (or Anthela)の町を創建した。[19]
Epicnemidian Locris地方は、AmphictyonからAetolus、Physcius、Locrusへと継承され、その地方の中心はAntheiaの町であった。[20]

3.4 Ozolian Locrisへの移住
BC1410年、Deucalionの子Orestheusは、Opus湾近くからOzolian Locris地方へ移住した。[21]
Orestheusの子Phytiusの子OineusがAmphissaの町に住んでいたことから、Orestheusが定住したのはAmphissaの町であったと推定される。[22]

4 Deucalionの子Amphictyonの時代 (BC1400-1385)
4.1 Thessalyへの移住
BC1392年、Amphictyonの子Itonusは、Antheiaの町からThessaly地方のPagasetic Gulf西岸に移住して、Itonusの町を創建した。[23]
Itonusの町の近くには、Hellenの子Aeolusの子Athamasが創建したHalusの町があった。[24]
つまり、Itonusは、彼の祖父の従兄弟Athamasを頼って移住したと思われる。
Itonusは、Thessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusの娘Melanippe(or Arne)を妻に迎えた。[25]
Aeolusには、Itonusの父Amphictyonの姉妹Protogeniaが嫁いでおり、ItonusとMelanippeはいとこ同士であった。[26]

4.2 Pelasgiansとの戦い
BC1390年、Thessaly地方の沿海部に住んでいたPelasgiansは、大津波で居住地を奪われ、Itonusの町を襲撃して、Itonusの妻Melanippeを連れ去った。[27]
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方およびThessaly地方に住む同族を結集して、Thessaly地方内のPelasgiansを追い出した。[28]

4.3 Amphictyonsの創建
Amphictyonが結集した種族は、Ionians, Dolopes, Thessalians, Aenianians, Magnesians, Malians, Phthiotians, Dorians, Phocians、それに、Phocisと境を接して、Cnemis山の山麓に住むLocriansであった。[29]
彼らの代表は、Antheiaの町に参集し、Amphictyonsと呼ばれた。[30]
BC1352年、Argosの町のAcrisiusは、Delphiを荒らしたPhlegyansと戦うために、Amphictyonsを組織化した。[31]
Acrisiusが治める住人の中には、Thessaly地方からArgosの町へ移住したAchaeansが多くいた。[32]

4.4 Thessalyへの移住
BC1390年、Amphictyonの兄弟Pronousは、Opus湾近くからPelasgiansが退去したThessaly地方へ移住した。[33]
Pronousの子Hellenの子Neonusの子Dotusは、Thessaly地方のDotium平原の名付け親になった。[34]

4.5 Thessalyからの移住
Hellenの子DorusがThessaly地方からParnassus山の近くへ移住した後も、Dorusの娘Iphthime一家は、Thessaly地方に残っていた。[35]
Iphthimeの夫は、Pelasgiansであったと思われ、Amphictyonによって居住地を追われた。
BC1390年、Iphthime一家は、Iphthimeの父Dorusが移住したPindusの町の近くのSpercheius川近くに定住した。[36]

4.6 Thessalyへの嫁入り
BC1387年、Deucalionの娘Thyiaは、Locris地方からThessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusのもとへ嫁いだ。[37]
Aeolusは、Thyiaの父Deucalionの父Dorusの兄弟Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であった。つまり、Aeolusは、Thyiaの又従兄妹の息子であった。
Aeolusには、既に、Thyiaの姉妹Protogeniaが嫁いでいた。[38]

5 Amphictyonの子Aetolusの時代 (BC1385-1365)
5.1 Corinthからの嫁入り
BC1366年、Aetolusの子Physciusは、Corinthの町に住むProetusの娘Maeraを妻に迎えた。[39]
Proetusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの子Thersanderの息子であった。[40]
PhysciusとMaeraは、Deucalionの子Hellenを共通の祖とする同族であった。

6 Aetolusの子Physciusの時代 (BC1365-1345)
6.1 Spercheius川近くからの嫁入り
BC1361年、Andraemonは、Spercheius川近くに住むDryopsの娘Dryopeを妻に迎えて、息子Amphissusが生まれた。[41]
Andraemonは、Deucalionの子Orestheusの子Phytius (or Oxylus)の息子であり、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住んでいた。[42]

6.2 Lesbosからの嫁入り
BC1356年、Amphissaの町のPhytiusの子Oineusは、Lesbos島に住むMacarの娘Amphissaを妻に迎えた。[43]
これより前、BC1389年にMacarは、Achaia地方のOlenusの町からLesbos島へ移住していた。[44]
Macarは、Oineusの父Phytiusの父Orestheusの姉妹Protogeniaの息子であった。[45]
つまり、AmphissaはOineusの又従兄妹であった。
Pausaniasは、Amphissaの名前は、Aeolusの子Macarの娘Amphissaに因んで名付けられたと伝えている。[46]
しかし、町が、周りを丘に囲まれた場所にあったためという説もある。[47]

7 Physciusの子Locrusの時代 (BC1345-1315)
7.1 Boeotiaへの嫁入り
BC1340年、Physciusの娘Thebeは、Boeotia地方のEutresisの町に住むAntiopeの子Zethusのもとへ嫁入りした。
ThebeがPhysciusの娘であると明示している史料はないが、Physciusの子LocrusがZethusのThebes攻略に協力していることから、そのように推定される。[48]
伝承では、ThebeをAsopusの河神の娘としているが、Physciusが住むAntheiaの町の近くにAsopus川があり、河神はPhysciusと推定される。[49]
また、Physciusの妻は、Proetusの娘Maeraであったが、Thebesの町のProetidian gateは、Thebeの祖父Proetusの名前に因んで名付けられたと推定される。[50]

7.2 Oetaの創建
BC1335年、Andraemonの子Amphissusは、Oeta山近くに、Oetaの町を創建した。[51]
Amphissusは、Dryopsの娘Dryopeの息子であった。[52]
Dryopsは、Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreとの息子であった。[53]
Amphissusが治める人々は、Dryopiansと呼ばれた。[54]
Amphissusの父Andraemonは、Deucalionの子Orestheusの子Phytius (or Oxylus)の息子で、Amphissaの町に住んでいた。[55]

7.3 Boeotiaからの亡命
BC1326年、ZethusとAmphionは、Thebesの町のHyrieusの子Lycusに追われて、Physciusのもとへ亡命して来た。[56]
Lycusは、Thebes王Labdacusの子Laiusの後見人であった。[57]
Laiusは、Zethusの母Antiopeの姉の孫であった。[58]

7.4 Boeotiaへの遠征
BC1325年、Locrusは、ZethusとAmphionのThebes攻めに、Lelegesを率いて遠征に参加した。[59]
この遠征の後で、Locris地方のLelegesの一部は、Boeotia地方へ移住した。Aristotleは、LelegesがBoeotia地方を領したと伝えている。[60]

8 Locrusの子Opusの時代 (BC1315-1260)
8.1 Boeotiaからの嫁入り
BC1272年、Theiodamas (or Theodamas)は、Boeotia地方に住むOrionの娘Menodice (or Mecionica)を妻に迎えて、2人の息子たち、EuphemusとHylasが生まれた。[61]
Theiodamasは、Dryopia地方に住んでいたDryopsの子Cragaleusの息子と推定される。[62]

8.2 Aetoliaからの嫁入り
BC1266年、Aetolusの子Andraemonは、Aetolia地方に住むCalydonの娘Protogeniaを妻に迎えて、息子Oxylusが生まれた。[63]
Calydonは、Elisの町からAetolia地方へ移住したAetolusの息子であった。[64]
CalydonはCalydonの町に住み、Pleuronの町や先住民のCuretesと対立していた。[65]
Calydonは、Eleia地方で勢力を伸ばしていたAmythaonから彼の娘Aeoliaを妻に迎えていた。[66]
Calydonが娘をAmphissaの町のAndraemonに嫁がせたのも、Ozolian Locriansの勢力を味方に付けようとしたものと推定される。

8.3 Opusの創建
BC1262年、Locrusの子Opusは、Antheiaの町からThermopylaeとEuripus海峡の中ほどへ移住して、Opusの町を創建した。[67]
Opusは、町の建設に各地から参加者を募集した。Argos、Thebes、Pisaの町やArcadia、Thessaly地方から大勢の人々が参加して、Opusの町の住人になった。
Opusの町の住人は混血して、特定の種族に属さなくなったため、Lelegesと呼ばれるようになった。[68]

8.4 Thessalyからの移住
Thessaly地方のPhthiaの町に住んでいたActorの子Menoetiusは、Opusの町の建設に参加した。OpusはMenoetiusを信頼して、自分の息子Cynusではなく、Menoetiusに町を譲った。[69]

9 Opusの子Cynusの時代 (BC1260-1250)
9.1 Cynusの創建
BC1260年、Opusの子Cynusは、Opusの町の近くにCynusの町を創建した。[70]

9.2 Thebesからの嫁入り
BC1252年、Theiodamas (or Theodamas)の子Euphemusは、Thebesの町のAmphitryonの娘Laonomeを妻に迎えた。[71]
LaonomeはHeraclesの妹であり、彼女の父Amphitryonは、これより少し前に、Minyansの王Erginusとの戦いで戦死していた。[72]
Euphemusの兄弟Hylasは、Heraclesの侍童であり、Trachisの町の近くのOechaliaの町の出身であった。[73]

10 Cynusの子Hodoedocus (or Odoedocus)の時代 (BC1250-1240)
10.1 Narycusの創建
BC1250年、Hodoedocusの子Oileus (or Oeleus)は、Cynusの町の西方にNarycusの町を創建した。[74]

10.2 Calliarusの創建
BC1245年、Hodoedocusの子Calliarusは、Cynusの町の近くにCalliarusの町を創建した。[75]

11 Hodoedocusの子Oileusの時代 (BC1240-1220)
11.1 HeraclesとDryopiansとの戦い
11.1.1 戦いの原因
BC1230年、Dryopiansは、HeraclesとMeliansによって、居住地から追放された。[76]
Diodorusは、Dryopiansが故郷を追われたのは、彼らがDelphiの神殿に不敬を働いたからだと記している。しかし、Delphiから遠く離れたTrachisの町の住人であるMaliansがDryopiansを追い出す理由としては、根拠に乏しい。[77]
DryopiansとMaliansは、Oeta山の近くに住み、居住地が接していたため、勢力争いの結果として、DryopiansはMeliansによって、居住地を追われたと推定される。
あるいは、Heracles自身の問題が原因であったかもしれない。
Argonautsの遠征物語に登場するHeraclesの侍童Hylasは、Oechaliaの町の出身であった。[78]
Hylasの父Theiodamas (or Theodamas)は、Dryopia地方に住んでいた。[79]
Hylasの兄弟Euphemusの妻は、Heraclesの姉妹Laonomeであった。[80]

11.1.2 Dryopiansの居住地(Pausaniasの記述)
Pausaniasは、Asineの町のDryopiansが、初めParnassus山周辺のLycoritaeの町の隣に住んでいたと伝えている。[81]
しかし、LycoreiaはDelphiansの町であった。[82]
Spercheius川近くで誕生したDryopiansが、Doriansの土地を越えて、Phociansの土地に町を作れるのかは疑問である。[83]
約100年前のAndraemonの子Amphissusの時代、Dryopiansは、Amphissusが創建したOetaの町を中心に居住していた。
その後、DryopiansがDoriansの土地を越えて、Phociansの土地へ居住範囲を広げたとは思われず、Pausaniasの記述は誤りと思われる。

11.1.3 Dryopiansの移住先
11.1.3.1 Argolis
Dryopiansは、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃げて、彼から土地を与えられて、Argolis地方にAsine、Hermione、Eionの町を建設した。[84]

11.1.3.2 Euboea
Diodorusは、Heraclesに追われたDryopiansがEuboea島のCarystusの町を創建したと記しているが、間違いである。[85]
Carystusの町は、BC1260年、Chironの子Carystusによって創建されていた。[86]
Dryopiansが住んでいたのは、Carystusの町の近くのStyraの町であり、Heraclesに追われる前に移住していた。[87]

11.1.3.3 Phocis
Phocis地方のCirrhaの町の近くに住んでいたDryopiansもいた。BC4世紀のAeschinesのCtesiphonの対する演説の中に、Delphiを冒涜したCragalidaeが登場する。[88]
Cragalidaeは、Heraclesとの戦いで死んだPhylasの父Cragaleusの後裔と思われる。[89]

11.1.4 Dryopiansの系譜
Oetaの町を創建した、Danausの娘Polydoreの子Dryopsの娘Dryopeの子Amphissusから、Heraclesとの戦いで死んだPhylasまでの系譜は次の通りである。
Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの子Phylas。[90]
後述するDoriansの王Aegimiusの系譜に比べて、Dryopiansの系譜は詳しく残っている。
この原因は、Phylasの娘MedaがHeraclesとの間に産んだAntiochisであろうと思われる。Antiochisは、Athensの10部族の名祖の一人で、Hyllusの死後、Doriansの地へ行かずにAthensの町に残っていた。[91]
恐らく、Antiochisの先祖であるDryopiansの系譜はAthensの町で記録されていたものと推定される。

11.2 Lapithsとの戦い
11.2.1 Heraclesの加勢
BC1227年、Doris地方に住むDorusの子Aegimiusのもとへ、Thessaly地方北部に住むDoriansから救援要請がきた。Hellenの子DorusがParnassus山の近くへ移住した後も、Thessaly地方北部に残っていたDoriansがいた。
彼らは、勢力を増したLapithsによって居住地を追い出されて、Aegimiusに助けを求めた。Aegimiusは救援に駆け付けるが、Gyrtonの町に住むCaeneusの子Coronusによって追い返された。Aegimiusは、Trachisの町のHeraclesに土地の割譲を約束して援助を求め、HeraclesはLapithsと戦って勝利した。[92]

11.2.2 Aegimiusの系譜
Aegimiusの系譜は、彼の父Dorusまでしか遡れない。[93]
しかし、AegimiusがThessaly地方北部まで含めたDorians全体の王であったことを考慮すると、つぎのように推定される。
Hellenの子Dorusは、Oeta山とParnassus山の間の土地にPindusの町を創建した。[94]
そして、Pindusの町に住む人々は、Macedniと呼ばれていたことから、Hellenの子Dorusの跡を継いでPindusの町を治めた者の中に、Macednusという人物がいたと推定される。[95]
Hellenの子Dorusには、息子Tectamusがいたが、Crete島へ移住した。[96]
また、Dorusの息子と推定されるDeucalionは、Locris地方へ移住した。[97]
したがって、Dorusの跡を継いでPindusの町を治めたのは、Dorusの息子Macednusであったと思われる。[98]
MacednusからAegimiusの父Dorusまでの系譜は不明である。

11.3 Aetoliaからの嫁入り
BC1222年、Andraemon (or Andrawmon)は、Calydonの町のOeneusの娘Gorges (or Gorge)を妻に迎えて、息子Thoasが生まれた。[99]
Oeneusの姉妹Protogeniaは、Amphissaの町のAndraemonの父Oxylusの父Andraemonに嫁いでいた。Oeneusは、西のPleuronの町に対抗するために、東のOzolian Locriansとの関係を強固にしようとして、娘を嫁がせたと推定される。[100]

12 Oileusの子Ajaxの時代 (BC1220-1186)
12.1 Atticaからの移住
BC1211年、Doris地方に住むDorusの子Aegimiusのもとへ、Heraclesの子供たちがAttica地方のTricorythusの町から移住して来た。[101]
Heracleidaeは、Peloponnesusへの帰還に失敗して、Heraclesの子Hyllusを失っていた。[102]
Heraclesの死後、AegimiusはHyllusを養子にして、Heraclesとの約束通り、Doriansの土地も割譲していた。[103]
Aegimiusの2人の息子たち、PamphylusとDymasの部族は、PamphyliとDymanesと呼ばれ、Hyllusの部族は、Hylleisと呼ばれた。[104]

12.2 Aetoliaへの遠征
BC1202年、Tydeusの子Diomedesは、Aetolia地方のCalydonの町を追われた祖父Oeneusの旧領を回復するために、Argosの町から遠征した。[105]
この遠征には、Oeneusの娘Gorgesの夫AndraemonもAmphissaの町から参加したと推定される。[106]
旧領を回復した後で、AndraemonはDiomedesからAetolia地方を任せられた。[107]

12.3 Trojan War時代
Oileusの子Ajaxは、Epicnemidian Locriansを率いてTroyへ遠征した。[108]
Ozolian Locriansは、Aetoliansと共にAndraemonの子Thoasに率いられてTroyへ遠征した。[109]
Mycenaeの町と敵対関係にあったHeracleidaeが居住するDoris地方からは、Troy遠征への参加はなかった。

13 Trojan Warの後の時代
13.1 Peloponnesusへの遠征
BC1173年、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusは、Doriansを率いてPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[110]
近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[111]
Cleodaeusは、TirynsやMideaの町も破壊して、Argosの町を占拠した。[112]
Agamemnonの跡を継いだ、彼の息子Orestesは、Mycenaeの町からArcadia地方のTegeaの町へ移住した。[113]
その後、Orestesは軍勢を集めて、Argosの町を占拠していたDoriansを追放した。
Cleodaeusは、無事にDoris地方のPindusの町へ帰還したようであり、その後、彼には息子Aristomachusが生まれた。[114]

13.2 Asia Minorへの移住
BC1126年、Epicnemidian Locris地方のPhricium山周辺に住むAeolisは、Agamemnonの曾孫たち、Dorusの子CleuesとMalausに率いられて、Asia Minorへ移住した。[115]
彼らの移住先は、Aeolis地方のLarisaの町の近くで、先住していたPelasgiansを追い出して、Phryconian Cymeの町を建設した。[116]
Pelasgiansは、Teutamusの後裔に率いられて、Italy半島西海岸のPisaeの町に逃れ、Tyrrheniansに受け入れられて共住した。[117]
Phryconian Cymeへの移住者の大部分は、Thesprotiansによって、Thessaly地方を追われたAeolisであった。[118]

13.3 Thebesからの移住
BC1126年、Cadmusの後裔最後のThebes王Autesionは、Doris地方へ移住した。[119]
Autesionは、Pindusの町に住むHeraclesの子Hyllusの子Cleodaeusの子Aristomachusを頼って移住した。[120]
Aristomachusの先祖HeraclesがThebesの町で生まれ育ち、彼の生涯の約半分をThebesの町で暮らしていた縁であった。[121]
Autesionの娘Argeiaは、Aristomachusの子Aristodemusと結婚し、Spartaの2王家の初代の王となる双子の息子たち、EurysthenesとProclesを産んだ。[122]
Autesionの子Therasは、EurysthenesとProclesの後見人になって、HeracleidaeのPeloponnesus帰還に参加した。[123]

13.4 Peloponnesusへの遠征
BC1126年、Cleodaeusの子AristomachusはDoriansを率いて、Peloponnesusへの帰還を試みるが、Orestesの子Tisamenusに敗れて、戦死した。[124]
Aristomachusは、Thebesの町からの移住者を受け入れ、Thessaly地方からのBoeotiansの帰還やそれに伴う人々の移動で混乱している中で、帰還を試みたと思われる。
Agamemnonの子孫たちのAsia Minorへの移民団は、Locris付近に長期間留まって、Aristomachusの動向を見守っていた。[125]

13.5 Peloponnesusへの移住
Aristomachusの子Temenusは、父の跡を継いで、Doriansの3部族のひとつHylleisの王になった。[126]
Temenusは、Peloponnesusへの帰還を陸路によるものではなく、Aetolia地方から海峡を渡ってPeloponnesusへ侵入しようと計画した。そのため、その方面の事情に詳しいThoasの子Haemonの子Oxylusを遠征に参加させた。
伝承では、Aristomachusの息子たちが、偶然、Oxylusと出会って、彼を案内人にしたことになっているが、彼らは親族であった。[127]
Oxylusは、Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子であり、OxylusとAristomachusは3従兄弟であった。

13.5.1 Aristodemusの死
BC1115年、Aristomachusの子Aristodemusは、Orestesの子Tisamenusの従兄弟たち、MedonとStrophiusによって、Delphiで殺害された。[128]
Pyladesの子StrophiusはCirrhaの町に住み、彼の兄弟MedonはMedeonの町に住んでいた。[129]

13.5.2 Naupactusの創建
BC1115年、Aristomachusの子Temenusは、Aetolia地方とOzolian Locris地方との境近くで艦隊を建造した。[130]
そこには町ができ、船を建造したことに因んで、Naupactusの町と呼ばれるようになった。[131]
Straboは、NaupactusがOzolian Locris地方の町であったが、Macedonia王PhilipがAetoliansに与えてから、Aetolia地方になったと伝えている。[132]
BC459年、Naupactusの町に住んでいたOzolian Locriansは、Atheniansに追い出された。[133]

13.5.3 Heracleidaeの最終帰還
BC1104年、TemenusはDoriansを率いて、Peloponnesusへの帰還を果たした。[134]

13.5.3.1 Doriansの出発地
Herodotusは、DoriansがErineus、Pindusの町や、Dryopis地方からPeloponnesusへ移住したと伝えている。[135]
Pindarは、DoriansがPindusの町を出発して、Amyclaeの町を占領したと伝えている。[136]
BC7世紀の詩人Tyrtaeusは、Erineusの町から移住したと伝えている。[137]
Straboは、DoriansがPindusの町を含む4つの町を中心にした地方からPeloponnesusへ帰還したと伝えている。[138]
Thucydidesは、Boion, Kitinion, Erineusが、Peloponnesus戦争当時のLacedaemoniansの母市だと伝えている。[139]
以上のことから、TemenusがDoriansを率いて出発したのは、Epicnemidian Locris地方とOzolian Locris地方に挟まれた、Tetrapolisを中心としたDoris地方であったと推定される。

13.5.3.2 Heracleidae帰還後のDoris地方
BC5世紀、Phociansに攻められたBoion, Kitinion, Erineusの町のDoriansを救援するために、Lacedaemoniansは、大部隊を派遣した。[140]
Peloponnesusへ移住してから、650年近く経過した後でも、Lacedaemoniansは、先祖の出身地を忘れていなかった。

おわり