第19章 アテナイの青銅器時代の歴史

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Create:2023.3.17, Update:2024.7.29

1 はじめに
BC1750年、Cephisus川で大規模かつ長期にわたる洪水が発生した。[1]
Cephisus川の上流に住んでいたEctenesは、Atheniansの先祖Ogygusに率いられてBoeotia地方へ移住した。[2]
BC1580年、Ogygus時代の大洪水から6世代目のとき、Boeotia地方から各地への移住があった。[3]

1.1 Thessalyへの移住
Ectenesの一部の人々は、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられて、Boeotia地方からThessaly地方へ移住した。彼らは、Thessaly地方に最初に住んだギリシア人であった。
後に、Hellenの兄弟AmphictyonやHellenの子Xuthusが、Athens王の娘と結婚していることが、両者が同じEctenesに属していたことを証明している。
恐らく、Deucalionの祖父と初代Athens王Cecropsの父は、兄弟であったと推定される。

1.2 Egyptへの移住
Cranausの祖父であり、恐らく、初代Athens王Cecropsの父であった人物はEgyptのNile Deltaへ移住してSaisの町を創建した。[4]
BC4世紀の歴史家Callisthenes of Olynthus やBC3世紀の歴史家Phanodemus of Athensは、AtheniansがSais人の先祖だと記している。[5]
移住当時、Cecropsは16歳と推定され、ギリシア語の他にも異なる言語を話し、Diphyes (two-formed)という呼び名があった。「2つの言葉を話す」という意味であった。[6]
Cecropsが話した「他の言語」とは、Phoenician languageであったと推定される。
Nile Deltaに住んでいたGreeceからの移民は、GreeceからEgyptへの航路の途中にあるPhoenicia地方と繋がりがあった。つぎの4つのことから彼らの関係が推測される。
1) Cecropsの娘Herseは、Phoenicia地方のTyreの町へ嫁入りした。[7]
2) Agenorの子Phoenixは、Herseの後裔と思われるOeneusの娘Perimedeを娶った。[8]
3) Phoenixは、Tyreの町の王になった。[9]
4) Egyptを追われたAgenor一家は、Tyreの町の近くのSidonの町へ移住した。[10]
Cecropsは、Boeotia地方のTriton川のほとりにEleusisとAthensの町を創建したと伝えられることからもBoeotia地方に縁があったことがうかがわれる。[11]
また、Cecropsの父には、Ogygusという名前の兄弟がいて、EgyptにThebesの町を創建した。[12]
そのThebesの町は、後にCadmusが生まれる町で、上Egyptではなく、Nile Deltaにあったと推定される。[13]

2 初代Athens王Cecropsの時代 (1561-1511 BC)
2.1 Egyptからの移住
BC1562年、CecropsはGreeceへの帰還を試みて、Attica地方南東端のSunium岬の北約25kmの海辺にあるMyrrinousの町に上陸した。[14]
その地に住んでいたColaenusはMessenia地方に移住し、Messenia湾入り口の西側の半島にColonidesの町を建設した。[15]
Cecropsは、Athensの町の北東約15kmにあるAthmoneisの町の王Actaeusの娘Agraulusと結婚した。[16]

2.2 Cecropsの治世
BC1561年、CecropsはCecropiaの町(後のAthensの町のAcropolis)を創建した。[17]
その後Cecropsは、Boeotia地方のAlalcomenaeの町の近くを流れるTriton川のほとりにEleusisとAthensの町を創建した。[18]
BC1511年、Cecropsは高齢で亡くなり、Cecropiaの町に埋葬された。[19]

2.3 Cecropsの子Erysichthon
Erysichthonは、Delos島での祭儀を終え、Attica地方への航海途中死亡し、Myrrinousの町のすぐ南にあるPrasiaeの町に埋葬された。[20]
Delos島の古い呼び名Ortygiaは、Erysichthonが名付け親であった。[21]
ErysichthonがDelos島から持ち帰ったEileithyiaの木彫女神像が、Athensの町にあるEileithyia神殿に奉納されていた。[22]

2.4 Cecropsの娘Herse
BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensの町への旅の途中で、Phoenicia地方のTyreの町に嫁いだ。[23]
Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousの子Sandocusは、Boeotia地方のHyriaの町のMegassaresの娘Pharnaceと結婚した。[24]
BC1410年、Sandocusは、Cilicia Tracheia地方へ移住して、Celenderisの町を創建した。[25]
BC1385年、Sandocusの子Cinyrasは、Celenderisの町から沖に浮かぶCyprus島へ渡って、島の南西海岸付近にPalaepaphosの町を創建した。[26]
Cinyrasは、島の北東端のCarpasiaの町の創建者Pygmalionの娘Metharmeを妻に迎えて、娘Laodice(or Laogore)が生まれた。[27]
PygmalionはSandocusと共に植民に出たPhoenicianと推定される。
Cinyrasの娘Laodiceは、Arcadia地方のArcasの子Elatusの妻になった。[28]
Hyriaの町のMegassaresは、Troy王国の始祖になったDardanusと共にArcadia地方からSamothrace島へ移住し、そこからCadmusと共にBoeotia地方へ再移住した。[29]
ElatusとLaodiceの結婚は、Arcadia生まれのLaodiceの祖母Pharnaceの縁であろうと推定される。
Ancaeusの子Agapenorは、Arcadia地方からCyprus島へ移住して、Palaepaphosの町の近くにPaphosの町を創建し、Palaepaphosの町にAphroditeの神域を造営した。[30]
Agapenorの移住の目的は、銅を採掘することであった。[31]

3 第2代Athens王Cranausの時代 (1511-1502 BC)
3.1 Cranausの治世
BC1511年、Cecropsが死ぬと、Cecropsの甥と推定されるCranausがその跡を継いだ。[32]
CranausはEgypt生まれで、BC1525年にEgyptからAttica地方に渡来した。[33]
Cranausは、Cecropsから指示されて、先祖Ogygusがかつて住んでいたBoeotia地方のTriton川のほとりにAthensの町とEleusisの町を創建した[34]
Cranausの娘Atthis (別名Athena)は、Triton川のほとりで育った。[35]
Homerは、Athenaの名前にAlalcomenaeを添えており、AtthisはTriton川の近くのAlalcomenaeの町に住んでいたと推定される。[36]
Herodotusは、Cranausの時代のAthensの町の住人はCranaansと呼ばれるPelasgiansであったと述べている。[37]
Cranausは、Argosの町からEgyptへ移住したIoの息子であり、Ioと共にEgyptへ移住したPelasgiansがCranausと共にAthensの町へ移住したと思われる。[38]
Herodotusは、Athenaは、Tritonis湖の近くで生まれたと記している。[38-1]
さらに、Herodotusは、その湖の近くの住人は、獣のように交わって女性を共有していたと伝えている。
7 世紀の年代記作家John of Antiochは、それまで、人々は獣のように交わって、一人の親(母)しかいなかったが、Cecropsが夫婦の概念を定めて、2人の親(父と母)を持つようにさせたと伝えている。[38-2]
Cecropsは、EgyptのSaisの町の出身であり、Cranausの娘Atthisは、Saisの町で生まれたと思われる。[38-3]

3.2 Atthisの夫
Athens王の系図を見ると、Cranausの跡を継いだAmphictyonの跡をCranausの娘の息子Erichthoniusが継承している。
しかし、Cranausには、息子Rharusや、Rharusの子Celeusがいた。[39]
Cranausの跡を息子が継がずに、彼の娘の息子が継いだのは、ErichthoniusがCecropsの曾孫であったのが、その理由だと思われる。
つまり、Atthisの夫であり、Erichthoniusの父は、Cecropsの子Erysichthonの息子であったと推定される。[40]
彼は、Hephaestusという名前で伝えられている。[41]
BC1511年、Cecropsが死去したとき、Erysichthonは、それより前に死んでいた。[42]
Cranausの娘Atthisと結婚していたHephaestusがCecropsの跡を継ぐべきであったが、CranausがAthens王に即位した。[43]
Cranausが王位を簒奪したか、Hephaestusに何らかの事情があって、CranausがAthens王に即位した。
HephaestusとCranausの娘Atthisは、Egyptへ移住して、彼らに息子Erichthoniusが生まれた。[44]

3.3 Areopagus
BC1510年頃、Acropolisの近くにある泉の近くでHalirrhothiusが、Cecropsの娘Aglaurusの娘Alcippeを辱め、Alcippeの父がHalirrhothiusを殺した。
Alcippeの父は、Aresの丘で裁かれ、無罪となった。[45]
the Areopagusの最初の裁判であった。[46]

4 Deucalionの子Amphictyonの時代 (1502-1492 BC)
BC1503年、Cranausの別の娘は、Thessaly地方のDeucalionの子Amphictyonと結婚した。[47]
この遠距離婚を成立させたのは、CranausとDeucalionの血縁関係であったと思われる。
Cranausの祖父とDeucalionの祖父は兄弟で、それぞれ、Boeotia地方からEgyptやThessaly地方へと移住したと推定される。[48]
BC1502年、Amphictyonは、義父Cranausを追放した。CranausはAthensの町とSunium岬の中間にあるLamptraeの町まで逃れ、その地で死んだ。[49]

5 Atthisの子Erichthoniusの時代 (1492-1442 BC)
5.1 Egyptからの移住
BC1492年、Egyptで成人したCranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、祖父の無念を晴らすためにEgyptからAthensの町へ移住して来た。彼はAtheniansの支持を得て、Amphictyonを追放してAthens王に即位した。[50]

5.2 Tetrapolisの建設
Thessaly地方に住むDeucalionの子Hellenには、3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[51]
Hellenの跡を継いだAeolusとDorusは、Xuthusを追放した。[52]
BC1470年、XuthusはAthensの町へ移住して、Erechtheusの娘Creusaと結婚した。[53]
Xuthusは、Erechtheusが追放したAmphictyonの甥であった。
このことから、Amphictyonは岳父Cranausから王位を簒奪したのではなく、穏やかな譲位であったと推定される。
BC1465年、Xuthusは、周辺から人々を集めて、Oenoe、Marathon、Probalinthus、そしてTricorynthusという4つの町を建設した。[54]

6 Eleusisについて
6.1 初期の居住者
Saronic Gulfに注ぐCephisus川の河口付近に初めて住んだGreeksはOgygus、あるいは、彼の息子Eleusisであった。BC1750年のOgygus時代の大洪水で、Parnassus山の北を流れるCephisus川流域に住んでいた人々が居住地を追われて南へ移動した。彼らは、Eleusisの町やAthensの町を流れて海へ注ぐ川の近くに住み着き、その川を故郷のCephisus川と同じ呼び名で呼んだ。[55]

6.2 Argosからの移住
BC1720年、Argosの町に住み着いたInachusの子Phoroneusのもとから、Phoroneusの子CarがEleusisの西側のMegara地方へ移住した。[56]
BC1580年、Argosの町のHera神殿の巫女Callithyiaの息子で、密儀祭司のTrochilusが、Argosの町からEleusisの町へ移住した。彼は、EleusisにHera神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[57]
BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erechtheus (or Erichthonius)がEgyptからAthensの町へ移住して来て、Eleusisに入門の儀式を定めた。[58]
Erechtheusは、大麦(barley)の種子をもたらし、EleusisのRharium平原にその種子が播かれた。[59]
Egyptでは女神Isisが、人々に穀物栽培をもたらしたと伝えられ、Greeceでは、女神Demeterがそれをもたらしたという伝承が生まれた。[60]
Pausaniasは、Phoroneusの子CarがMegara地方に初めてDemeterの神域を造営したと伝えており、Demeterは、古くから信奉されていた。[61]
Eleusisの町で祭儀を執り行ったのは、Cranausの子Rharusの子Celeusであり、RharusはErechtheusと共にEgyptから移住して来た。CeleusとErechtheusは、Cranausの孫であり、従兄弟同士であった。[62]
Cranausの息子について記している古代の史料は残っていなかった。
18世紀の英国の大科学者Isaac Newtonのみが、Cranausの子Rharusの系譜を伝えている。[63]
Rharusは、Rharium平原に名前を与えた。[64]

6.3 Eumolpusの侵入
BC1415年、EumolpusがAttica地方に攻め込み、AtheniansはBoeotia地方のTanagraの町近くに避難した。[65]
Xuthusの子IonがAtheniansの推挙を受けてpolemarchosになり、Eumolpusと戦って休戦に持ち込んだ。その後、EumolpusはEleusisに定住しているので、Eumolpusが優勢であったと推定される。[66]

6.4 Eumolpusの素性
Eumolpusは、つぎの2つの理由により、BC1560年にArgosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larissaの後裔であったと推定される。[67]
1) 後に、Eumolpusの子ImmaradusがErechtheusと戦ったときに、Scirusは、DodonaからImmaradusの応援に駆け付けた。
当時、Dodonaには、Argosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larissaの後裔が住んでいた。Scirusもその一人であったと推定される。[68]
2) 当時、Eleusisの町には、Argosの町から移住したTrochilusの後裔が住んでいて、祭儀を執り行っていた。[69]
Larissa、Scirus、Trochilusは、Argosの町から移住したPelasgiansであった。
EumolpusがEleusisの町に来る前の居住地は、Dodona、あるいは、Thessaly地方のScotussaの町であったと推定される。[70]
PelasgiansとDodonaには、つぎのような関係があった。
BC1480年、Larissaの子Pelasgusの子Haemonの子Thessalusは、Scotussaの町からDodonaに神託所を移し、神殿を建立した。[71]
BC1390年、Thessaly地方を追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺へ移住した。[72]

6.5 Eumolpusの侵入の動機
戦いの原因は、Argosの町から移住し、Heraの祭儀を執り行っていたPelasgiansの住むEleusisの町に、AtheniansがEgyptから新たな祭儀が持ち込んだことであったと思われる。EleusiniansとAtheniansとの間で争いが起こり、EleusiniansはThessalyに住むPelasgiansに加勢を依頼したものと推定される。[73]
Trochilusは、Triopasの子Agenorとの争いが原因で、Argosの町を去っているため、Argosの町を頼ることはできなかった。Eleusisの町のPelasgiansは、Agenorの兄弟Pelasgusの娘Larissaの後裔に応援を要請したのだと思われる。[74]

6.6 DysaulesとTriptolemus
Pausaniasは、Xuthusの子IonがCeleusの兄弟Dysaulesを追放したと伝えている。[75]
しかし、CeleusやDysaulesは、Eumolpusが現れる以前からEleusisの町で祭儀を執り行っていた。恐らく、Dysaulesは、自発的に町を去ったものと推定される。
BC1415年、Celeusの弟Dysaulesは、Peloponnesusへ移住して、Phliusの町の近くに住み着いて密儀を定め、町の名前をCeleaeにした。Celeusは、Dysaulesの死んだ兄の名前であった。[76]
Celeusの子Triptolemusは、Dysaulesが住み着いたCeleaeの町より遠方へ旅をした。
Triptolemusは、Achaia地方のRion岬の南西の地に住んでいたEumelusに穀物の栽培方法や町を作る方法を教えた。EumelusはAroe (後のPatrae)の町を創建した。[77]
さらに、TriptolemusとEumelusは共同でAntheiaの町を創建した。[78]
Aroeの町には、Belusの子Aegyptusの墓があった。また、Aroeの町の南のPeirus川中流域にあるPharaeの町の創建者は、Aegyptusの兄弟Danausの娘Phylodameiaの子Pharesであった。Celeusの子Triptolemusとも年代的に矛盾がないことから、Eumelusは、Aegyptusの息子であり、Phylodameiaの夫であったと推定される。[79]
Triptolemusは、Arcadia地方のCallistoの子Arcasにも穀物の栽培方法を教えた。[80]
後に、ArcasはTriptolemusの子Croconの娘Meganiraを妻に迎えた。[81]
Croconは、Eleusiniansとして、初めてAthensの町との境であるRheiti川を東に越えて居住した。[82]

6.7 Ceryxの移住
BC1390年、Crete島の北方約110kmにあるThera島(現在のSantorini島)の火山活動で発生したAegean Seaの大津波は、Eleusisの町にも被害を与えた。
Megara地方の人々が、Mt. Geraniaの高みに避難したときであった。[83]
Eumolpusの子Ceryxは、Athensの町から新天地を求める旅に出ようとしていたButesの子Boreasの移民団に参加して、Thracia地方に入植した。[84]
CeryxはBoreasの娘Chioneと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[85]

6.8 Immaradusの戦い
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusは、Athensの町のPandionの子Erechtheusと戦って、戦死した。[86]
この戦いは、Eleusisの祭儀をめぐる、EleusiniansとAtheniansとの間の争いが原因で、Eleusisの町が優勢のうちに終わり、密儀の執行はEleusisが独自に行うことで決着した。[87]
この戦いには、Eleusisの町に2つの方面から援軍が駆け付けた。
1つは、DodonaのScirus率いるPelasgiansであった。[88]
BC1390年に、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて、大部分がDodona周辺に移住していた。[89]
Scirusは、Athensの町の外港PhalerumにAthena Scirasの神域を造営した。その付近で、彼が戦死すると、川のほとりに葬られた。川は、彼の名に因んでScirus川と呼ばれるようになった。[90]
もう1つの援軍は、Chioneの子Eumolpus率いるThraciansであった。[91]
Eumolpusの子Immaradusの死後、Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承したが、いずれも高齢であった。彼らの後を、Immaradusの弟CeryxがThracia地方から呼び戻されて継承し、Ceryxの跡を息子Eumolpusが継承した。[92]

7 Pandionの時代 (1442-1402 BC)
Pandionの時代は前述のとおり、EleusisのEumolpusとの戦いの時代であった。

7.1 家系の断絶 この戦いでErichthoniusの子Pandionの息子たちは死に絶え、Pandionの跡を継ぐ息子がいなくなったと推定される。その理由として、古代史料に次のような記述がある。
1) HyginusやApollodorosは、Pandionの子ErechtheusがEumolpusと戦いの後で死に、彼の家系は断絶したように記している。[92-1]
2) Demosthenesは、Chaeroneaの戦いの直後に行われた演説の中で、Erechtheusの娘が供儀された後で、Erechtheusの一族は絶滅したと記している。[92-2]
3) AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、2人目のCecropsの父ErechtheusからErecthids (or Erechtheidae)が始まったと記している。[92-3]

7.2 ErechtheusとEumolpusの戦い BC2世紀の年代記作者Castorは、Erichthoniusの子Pandionには、2人の息子たち、ErechtheusとCecropsがいたと伝えている。[92-4] Erechtheusは、戦勝を祈願して娘たちを供儀したが、Eumolpusとの戦いで死んだと思われる。Pausaniasは、Athensの町にあったErechtheusとEumolpusが戦っているブロンズ像を見て、Eumolpusではなく、彼の息子Immaradusだと記している。[92-5] しかし、Pausaniasの見立て通りではなく、Erechtheusの対戦相手は、Immaradusの父Eumolpusであったと推定される。

7.3 Pandionの子Cecrops Pausaniasは、Boeotia地方のHaliartusの町にPandionの子Cecropsの英雄廟があったと記している。[92-6] EumolpusがAttica地方へ侵入したとき、Haliartusの町はまだ存在していなかった。 Copais湖の南側には、Cadmusに追われたHyantesが住んでいた。[92-7] そこには、初代Athens王Cecropsが創建したAthensの町やEleusisの町があった。[92-8] Pandionの子Cecropsは、それらの町を救うために遠征して、Hyantesとの戦いで死んだと推定される。

7.4 Xuthusの子Ion 息子たちを失ったPandionは、Xuthusの子IonにAtheniansの指揮権を委ねた。[92-9] Ionは、Pandionの姉妹Creusaの息子であり、IonはPandionの甥であった。[92-10] Ionが率いたのは、Atheniansの他に、かつて、Xuthusと共にAttica地方からAegialus (後のAchaia)地方へ移住した人々であった。[92-11] また、少し前に、Thessaly地方からXuthusの子Achaeusと共に移住して来たAchaeansも、Ionの軍中にいたと思われる。[92-12]

8 Erechtheusの時代 (1402-1352 BC)
古代史料は、第6代Athens王Erechtheusの父が第5代Athens王Pandionだと伝えているが、前述したように、Pandionの家系は断絶した。
Erechtheusは、Pandionの孫、もしくは、Pandionの孫娘の夫とも考えられるが、次の理由から、Pandionの娘の息子と推定される。
1) Pandionの甥Ionが跡を継いでいないので、血縁関係のないPandionの孫娘の夫がPandionの跡を継いだとは考えられない。
2) ErechtheusがErecthidsの始祖になっているので、Pandionの息子の息子がPandionの跡を継いだとは考えられない。

8.1 Erechtheusの妻Praxithea
BC1412年、Erechtheusは、PhrasimusとDiogeniaとの娘Praxitheaと結婚した。[93]
Diogeniaの父Cephisusは、後のTanagraの町の近くに居住していた。当時、そこには、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たGephyraeansが住んでいたが、Cephisusは、彼らの指導者であったと推定される。[94]
EumolpusがAttica地方に侵入したときに、AtheniansがGephyraeansの居住地に避難して、それが縁で彼らの結婚が成立したと思われる。[95]
この結婚に際して、Praxitheaに一緒に移住したGephyraeansが、Phoenician lettersをAthensの町にもたらした。その後、Athensの町の住人であるPelasgiansによって、Pelasgic lettersが発明されたと推定される。[96]

8.2 Erechtheusの娘Orithyia (or Oreithyia)
8.2.1 BoreasとOrithyiaの伝承
BoreasがOrithyiaを攫ったという伝承について、哲学者Socratesは、OrithyiaがIlissus川で遊んでいたときに、北風に吹かれて岩から落ちて死んだと理解して、Straboもそれに賛同している。[97]
しかし、史実はつぎのようであったと推定される。
BC1390年、Erechtheusの娘Orithyiaは、Boreasと共にAthensの町から新天地を求めて旅立った。伝承のとおり北風に吹かれて南へ移住したのではなく、北風の住処である北の地への移住であった。
Boreasは、Thracia地方のSamothrace島対岸のHebrus川(現在のMaritsa川)を遡り、さらに支流のRheginia川(現在のErgene川)を遡って、移住の適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山のすそ野にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[98]
Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであった。

8.2.2 HyperboreansとDelos島とAthensの関係
8.2.2.1 供え物の伝達路から見た関係
BC1365年、BoreasとOrithyiaの息子たち、ZetesとCalaisは、黒海西岸のIster川(現在のDanube川)の中に浮かぶPeuce島に移住した。[99]
そこは、Hyperboreansの住む土地であり、そこから供え物がDelos島へ届けられた。[100]
Herodotusが伝えているDodona経由の伝達路では、Euboea島のCarystusの町を経由していた。[101]
Carystusの町は、Aegeusの父Scirusの子CarystusがBC1260年にSalamis島から移住して創建した町であった。Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの娘Rhoeo (or Creousa)と結婚して、Delos島の祭司となるAnius (or Anion)が生まれた。[102]
また、Pausaniasが伝えている、Hyperboreansの地からDelos島への伝達路では、Attica地方のPrasiaeの町を経由している。[103]
いずれの伝達路とも、Athensの町がHyperboreansとDelos島との間に深く関わっていた。

8.2.2.2 ApolloとEileithyia信仰から見た関係
Letoの子供たち、ApolloとArtemisが生まれたとき、Eileithyiaがお産を助けた。[104]
Hyperboreansは、そのお礼のために供え物をDelos島へ届けるのだとHerodotusは記している。[105]
初代Athens王Cecropsの子Erysichthonは、Delos島からEileithyiaの木彫女神像を持ち帰り、Athensの町のEileithyia神殿に奉納した。[106]
Erysichthonは、Delos島からの帰途の航海中に死に、Attica地方のPrasiaeの町に埋葬された。Prasiaeの町は、Pausaniasが伝えている伝達路の中継地であった。[107]
Eileithyiaは、Crete島のCnossusの町の近くにあるAmnisusで生まれた。[108]
そこには、Eileithyiaの洞窟があった。[109]
その洞窟から北極星を目指して、約230km航海するとDelos島に着くことができる。
Delos島はCrete島とAthensの町を結ぶ航路の重要な中継地点であった。[110]
Aegeusの子TheseusもCrete島からの帰途、Delos島に立ち寄っている。[111]

8.2.2.3 Boreasの素性
Athensの町とHyperboreansとの関係や、Boreasの娘Chioneの子Eumolpusの墓がEleusisの町にあったことから、Boreasの父はButesと推定される。Butesは、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟で、Athensの町の神官になった。[112]
したがって、OrithyiaとBoreasは、従兄妹同士であった。

8.3 Euboeaへの移住
BC1360年、Erechtheusの子Pandorusは、Euboea島へ移住して、Chalcisの町を創建した。[113]
後に、Pandorusの兄弟CecropsもEuboea島へ移住することになるが、Pandorusの移住も兄弟間の争いが原因と推定される。

9 Erechtheusの子Cecropsの時代 (1352-1312 BC)
9.1 Euboeaへの移住
BC1320年、Erichthoniusの子Pandionの子Erechtheusの子Cecropsは、Euboea島へ移住した。[114]
支配者の突然の移住は、内紛を原因とすることがある。Lynceusの子AbasのPhocis地方移住や、Melampusの子AbasのThessaly地方移住の例がある。[115]
Cecropsは、彼の兄弟Metionとの争いによって、息子たち(Pandion、Cychreus、Scyrius)と共にAthensの町から追放された。
Cecropsは、Euboea島のChalcisの町に住む彼の兄弟Pandorusのもとへ移住したと推定される。[116]
CecropsとMetionの争いは、何世代にも渡って続いた、Athensの町の内紛の原因になった。[117]

9.2 Megara、Salamis、Scyrosへの移住
Cecropsと同じ頃、彼の3人の息子たち、Pandion、CychreusとScyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)も各地へ移住した。

9.2.1 Salamisへの移住
Cychreusは、Salamis島へ移住した。[Strabo.9.1.9]
Cychreusは、Athensの町で神々と同等の尊敬を受けた人物であった。[Plut.These.10]

9.2.2 Scyrosへの移住
Scyriusは、Scyros島へ移住した。[Apo.3.15.5, Plut.These.35から推定]
Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの夫であり、彼らの娘Endeis (or Endais)は、Aeacusの妻であった。[Apo.3.12.6, Paus.2.29.9, Hyginus.14, Plut.These.10]
BC1295年、Salamis島のCychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[推定]
Scyriusの息子にはAegeusもいたが、Pandionの養子になった。[Apo.3.15.5]
Aegeusの子TheseusがAthensの町を逃れてScyros島へ渡ったのは、父の領地があったからであった。[Plut.These.35]

9.2.3 Megaraへの移住
Pandionは、Scyriusと共に、Scyros島へ移住した。[推定]
Pandionは、Scyriusの子Aegeusを養子に迎えた。[Apo.3.15.5]
BC1318年、Pandionは、Megaraの町のClesonの子Pylasのもとへ移住して、彼の娘Pyliaと結婚した。[Apo.3.15.5, Paus.1.5.3]
移住前、Pandionは、Attica地方のThoricusの町を任せられて住んでいた。[Photios.186.7, FGrH.Nr333.F34]

9.3 人身御供の廃止
Athensの町の10部族の名祖たちの一人Leosは、飢饉に襲われたAthensの町を救うために自分の娘たちを犠牲にした。Leosは、ErechtheusがEleusisとの戦いの際に、彼の娘たちを犠牲にしたのを見習ったと伝えられる。[126-1] Erechtheusの子Cecropsは、自分の姉妹たちや、Leosの娘たちが供儀されるのを見て、命のあるものではなく、菓子を代わりに供儀するようにした。[126-2] したがって、Athensの町で人身御供が行われなくなったのは、BC14世紀の後半と推定される。

10 Cecropsの子Pandionの時代 (1312-1287 BC)
BC1312年、Pandionは、妻Pyliaの父Pylasの助力を得てAthensの町へ帰還した。
BC1295年、Pandionは、Metionの息子たちによってAthensの町を追われて、再びMegaraの町へ亡命した。[128]
Pandionの墓がMegaraにあったことから、Pandionの息子たちがAthensの町に帰還してMetionの息子たちを追い出したのは、Pandionの死後であった。[129]
AegeusがAthens王に即位したBC1287年は、Pandionが死んで、彼の子供たちの中で最年長のAegeusが、Megaraの町でAthens王を継承した年と思われる。[130]
BC1285年、AegeusはAthensの町へ帰還してMetionの息子たちを追放した。[131]

11 Pandionの養子Aegeusの時代 (1287-1239 BC)
11.1 内紛
BC1277年、Aegeusと、義兄弟たちとの間の争いが起こった。
AegeusはPandionの息子たちの中で最年長ではあったが、養子であった。[132]
Aegeusに追われたPandionの息子たちは各地へ移住した。

11.1.1 Lyciaへの移住
Pandionの子Lycusは、Messenia地方のAreneの町のPerieresの子Aphareusのもとへ逃れ、その後、Lycia地方へ移住した。[133]
Lycusは、Messenia地方のAndaniaの町で密議を行った。[134]

11.1.2 Argolisへの移住
Pandionの子Orneusは、Argolis地方のPhliusの町の近くへ移住して、Orneaeの町を創建した。[135]

11.1.3 Phocisへの移住
Pandionの子Oeneusの子Peteusは、Attica地方のStiriaの町からPhocis地方へ移住してStirisの町を創建した。[136]

11.1.4 Boeotiaへの移住
Peteusの兄弟と思われるLebadusは、Boeotia地方のMideiaの町へ移住し、町はLebadeiaと呼ばれるようになった。[137]
Pandionの子TeuthrantusはBoeotia地方へ移住してThespiaeの町を創建した。[138]

11.1.5 Arcadiaへの移住
Arcadia地方へ移住して、Caphyaeの町に住み着いた人々もいた。[139]

11.1.6 Acarnaiaへの移住
11.1.6.1 Cephalusの父
Pandionの娘Procrisを殺して、Athensの町を追放されたProcrisの夫CephalusもAegeusによって追放された一人であったと思われる。
多くの伝承は、Cephalusの父をDeion (or Deioneus)と伝えている。Hyginusは、Deionの子CephalusはAtheniansの王であったと伝えている。CephalusはThoricusの町の王であった。[140]
Thoricusの町は、Aegeusの子Theseusが一つにまとめた12市の中の一つの町であり、Pandionもその町に住んでいた。[141]
Hyginusは、多くの伝承がPandionの息子だと伝えているMegara王NisusをDeionの息子だと伝えている。[142]
つまり、Cephalusは、Deion (or Deioneus)という別名を持つAthens王Pandionの息子であったと推定される。

11.1.6.2 Cephalleniaへの移住
Cephalusは、Alcaeusの子Amphitryonと共にTeleboansの地へ遠征した。[143]
Cephalusは、Ionian Seaで最大の島に入植し、Cephallenia島と呼ばせた。[144]

11.2 Minosとの戦い
BC1264年、Crete島のMinosの子AndrogeusがThebesの町で開催されるLabdacusの子Laiusの葬送競技会へ行く途中、Cithaeron山麓のOenoeの町で殺害された。[145]
Diodorusは、AndrogeusがAegeusの政敵Pallasの息子たちと親密であったために殺害されたと伝えている。[146]
Hyginusは、AegeusとMinosとの戦闘中にAndrogeusが死んだと伝えている。[147]
恐らく、Aegeusと義兄弟との戦いの後で、彼らの次の世代であるPallasの息子たちがAndrogeusを通して、Minosの援助を得て、Aegeusに戦いを挑んだものと思われる。[148]
その後、Minosの本格的な侵攻を受けて、AegeusはPallasの息子たちにAthensの町から追い出され、彼の義兄弟Nisusが住んでいたMegaraに逃れた。Megaraは、Pandionの時代からの亡命先で、Aegeusの味方が多くいたと思われる。[149]
しかし、Minosとの戦いでNisusが戦死して、AegeusはTroezenの町のPittheusのもとへ逃れた。[150]

11.3 Troezenへの亡命
AegeusとAethraの結びつきは神託によるものだと伝える悲劇詩人もいる。[151]
しかし、AegeusがTroezenの町のPittheusを亡命先に選んだのはつぎの2つの理由であったと推定される。

11.3.1 姻戚関係
Pittheusの娘Heniocheは、Chalcisの町のChalcodonの兄弟Canethusの妻であった。
Chalcodonの娘Chalciopeは、Aegeusの2人目の妻であった。[152]
つまり、Aegeusは妻Chalciopeを通して、義姉弟の父Pittheusを頼ったものと思われる。[153]

11.3.2 Alcathousの紹介
Pelopsの子Alcathousの最初の妻Pyrgoの墓がMegaraにあった。[154]
Pandionの子NisusがMinosとの戦いで戦死した後、AlcathousがMegaraを継承した。[155]
以上のことから、Pyrgoは、かつてNisusと王権を争ったClesonの子Pylasの子Scironの娘であったと推定される。[156]
Scironは、Aeacusの仲裁により戦時の指揮権を与えられており、彼の娘婿AlcathousもMinosに攻められたMegaraにいたはずである。[157]
Alcathousは、自分の兄弟PittheusをAegeusの亡命先として紹介したと推定される。[158]
この亡命中にAegeusはPittheusの娘Aethraと出会うが、当時54歳と推定されるAegeusとAethraとは正式な結婚ではなかった。[159]
跡継ぎがないAegeusが後に、Aethraが産んだ息子TheseusをAthensの町へ呼び寄せたというのが、史実であると思われる。[160]

11.4 Athensへの帰還
BC1262年、Aegeusは、Troezenの町からAthensの町へ帰還した。Aegeusの帰還には、Pittheusの兄Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusが協力したと推定される。彼らの名前に因んだ2つの町がAttica地方に創建された。[161]
Sphettusの町は、Strabonが伝えているTheseusが1つにまとめた12の町の中に含まれているが、Anaphlystusの町が含まれていない。Strabonは、11の町の名前しか記載していないが、もう1つは、Anaphlystusの町だと思われる。[162]
Aegeusは、Minosに貢納を約束して関係を改善したが、Pallasや息子たちとの不和は続き、まだまだ争いは絶えなかった。[163]

11.5 Aegeusの息子たち
Aegeusの息子は、Theseusのみが伝えられている。Aegeusは、少なくとも3人の女性と結婚し、その他にも多くの女性たちと同棲したと伝えられている。[163-1]
Aegeusが追放したPeteusは、Aegeusの義兄弟Oeneus(Orneus)の息子であった。[163-2]
Aegeusは、Oeneusよりも年長であり、AegeusにもPeteusと同じくらいの年齢の息子たちがいても不思議ではない。
恐らく、Aegeusには、名前が伝えられていない多くの息子たちがいたが、義兄弟たちとの戦いで死んだのではないかと思われる。

12 Aegeusの子Theseusの時代 (1239-1209 BC)
12.1 Athens王即位前
12.1.1 Troezen時代
BC1263年、TheseusはTroezenの町で生まれ、祖父Pittheusのもとで育てられた。Theseusが7歳の頃、HeraclesがPittheusの屋敷を訪問した。[164]
Pelopsの子Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Lysidice (or Eurydice)の兄弟であった。[165]
つまり、Heraclesが祖母の兄弟を訪問したとき、Heraclesの又従兄弟のTheseusがいたことになる。そのとき、Theseusは初めてHeraclesを見た。当時、19歳のHeraclesは、Theseusに強い感動を与え、その後のHeraclesの活躍は、Theseusを彼の信奉者にした。[166]

12.1.2 Athensへの移住
BC1247年、Theseusは高齢で跡継ぎのないAegeusによって、Athensの町へ呼び寄せられた。[167]
そのとき、Theseusは16歳であった。[168]
Theseusは、Argonautsの遠征にTroezenの町から参加した。[169]
また、Theseusは、Calydonian boar huntにAthensの町から参加している。[170]
この2つの出来事は、HeraclesがLydia地方のOmphaleの下で3年間奉仕している間に起きた。[171]
つまり、Argonautsの遠征はBC1248年、Calydonian boar huntはBC1246年の出来事であった。

12.1.3 Creteとの結婚同盟
BC1241年、TheseusはMinosの娘Phaedraを妻に迎えた。この少し前にMinosが死んで、跡を継いだMinosの長男Deucalionは、Aegeusとの同盟を結ぶために妹のPhaedraをTheseusに嫁がせた。[172]
TheseusとPhaedraとの結婚による同盟締結によって、Athensの町からCrete島への貢納は廃止されたと思われる。
Athensの町から若い男女がCrete島へ送られたのは、競技会の勝者に与えられる奉公人とするためであった。彼らの子孫は、Bottonを指導者としてMacedonia地方のPellaの町の近くに移住し、Bottiaeansと呼ばれるようになった。Aristotleは、若い男女は奴隷としてCrete島へ送られたと述べている。[173]
BottonがPellaの町の近くに定住したのは、既にAtheniansに縁のある人々が住んでいたからであった。Pellaの町の近くのEuropusの町は、Aegeusの養父Pandionの父Cecropsの娘Oreithyiaの子Europusが創建した町であった。[174]

12.1.4 Creteからの移住
Minosの娘Phaedraの嫁入りには、彼女の姉Ariadneの息子Ceramusが随伴してAthensの町に移住し、Cerameicus区の名祖となった。[175]
このとき、Crete島の陶器作りの技術がAthensの町に持ち込まれ、Cerameicus区は、Potters Quarterと呼ばれるようになった。[176]

12.1.5 Theseusの結婚
Theseusの妻は、Phaedraの他にも、数多く伝えられているが、その中で、真実と思われるのは、Heraclesの異母兄弟Iphiclesの娘Iopeとの結婚である。[177]
Iopeは、Heraclesの甥Iolausの姉妹であった。
Heracles死後、Eurystheusに追われて行き場を失ったHeraclesの息子たちをAthensの町が受け入れたのは、IolausとTheseusが義兄弟であったからである。[178]
また、Isthmusの町のSinisの娘Periguneとの結婚も真実のようである。[179]
彼らの息子Melanipposの英雄神社がAthensの町のMelite区にあった。[180]

12.1.6 Centaursとの戦い
Theseusは、Centaursと戦ったと伝えられている。[181]
この伝承は、Thessaly地方からCentaursを追い出したIxionの子PeirithousとTheseusの交友関係から生じた創作と思われる。[182]
PeirithousとCentaursとの戦いはあったが、Theseusは参加していないと思われる。
Peirithousの妻Hippodameiaの父Butesの父Teleonの父Pandionは、Theseusの父Aegeusの父であり、HippodameiaはTheseusの父方の従兄弟の娘であった。
後に、Peirithousの後裔がThessaly地方を追われて、Athensの町へ亡命した際、Atheniansは、先祖の友誼によって彼らを受け入れていることから、TheseusとPeirithousの交友は史実であったと思われる。
Peirithousの後裔は、Athensの10部族の一つ、Oineis部族になった。[183]

12.2 Athens王時代
12.2.1 Athensの統合
BC1239年、Aegeusが死に、24歳のTheseusが跡を継いだ。[184]
Theseusは、Pandionの子Pallasと彼の息子たちと戦って勝利した。[185]
Theseusは、それまで、12の町に分かれて争いの絶えなかったAttica地方の町を1つにまとめた。[186]
Strabonは、Cecropia, Tetrapolis, Epacria, Deceleia, Eleusis, Aphidna, Thoricus, Brauron, Cytherus, Sphettus, Cephisiaという11の町の名前を挙げている。もう一つは、Sphettusの町と同時期に創建されたAnaphlystusの町と推定される。[187]
Theseusの権力掌握には、父Aegeusと共にTroezenの町からAthensの町へ移住して町を作ったAnaphlystusとSphettusの力が大きかったと思われる。2人は、Theseusの母Aethraの父方の従兄弟であった。[188]
Aegeusの屋敷は、Athensの町のAcropolisのすぐ東側のDelphiniumにあったことから、Cecropiaが11の町を吸収して統合したものであった。[189]

12.2.2 Eurystheusとの戦い
BC1218年、TheseusはTrachisの町を追い出されたHeraclesの子供たちを受け入れて、Attica地方のTricorythusの町に住まわせた。[190]
Theseusの妻たちの一人Iopeは、Heraclesの子供たちの保護者Iolausの妹であり、TheseusとIolausは、義兄弟であった。[191]
BC1217年、EurystheusがMycenaeansを率いて、Heracleidaeが住むAthensの町へ攻め込んだが、Eurystheusや彼の息子たちは戦死した。[192]

12.2.3 Sardiniaへの植民
BC1216年、Eurystheusが死んで、Heraclesの息子たちの脅威が取り除かれると、Iolausは、Atheniansから移民を募ってSardinia島へ2回目の植民に旅立った。Iolausは、Sardinia島で生涯を終えた。[193]

12.2.4 7将のThebes攻め
BC1215年、AdrastusのThebes攻めにAthensの町は関与しなかった。しかし、Thebansに敗れたAdrastusに頼まれて、Thebesの町に死者の引き取りの許可を出させるための使者を派遣した。
BC4世紀の弁論家Isocratesは、Athensの町がThebesの町に脅しをかけたと伝えている。[194]
当時、他の町を圧倒する勢力のあったMycenaeの町のEurystheusの軍勢を破ったAthensの町をThebesの町は脅威に感じていたものと思われる。

12.2.5 Dorisへの移住
BC1211年、HeraclesとDeianeiraの長男Hyllusは、Peloponnesusへの帰還を試みるが、Isthmusで待ち受けていたPeloponnesus勢に敗れ、Hyllusは戦死した。[195]
Heracleidaeは、Tricorythusの町を出て、Doris地方のAegimiusのもとへ移住した。[196]
Hyllusの軍にはIoniansも従軍していて、その中に戦闘で犠牲になった者たちがいて、HeracleidaeはTricorythusの町に居づらくなったためであった。

12.2.6 Menestheusとの戦い
Theseusが構築した権力の統合は、それぞれの町を支配していた者たちの反発を招き、Erechtheusの子Orneusの子Peteosの子Menestheusは、彼らを扇動した。[197]
このErechtheusは、Pandionの父Cecropsの父ではなく、Pandionの別名であった。Pandionの養子Aegeusの子Theseusの子Demophonは、Menestheusと共にTrojan War時代の人であることから、そのように推定される。
Menestheusが不満分子を糾合し、Theseusへの反抗を準備していたとき、Theseusは少し前に死んだ妻Phaedraのために、Thesprotis地方のAornumにある死者を呼び出す神託所へ行った。[198]

12.2.7 Menestheusの蜂起
Theseusが留守にしたAthensの町へLacedaemonからDioscuriが妹Helenを取り戻すために現れ、Menestheusはこれを利用して蜂起した。
BC1210年、Theseusの2人の息子DemophonとAcamasは、Euboea島のChalcisの町のElephenorのもとへ逃れた。[199]
Theseusが息子たちを避難させたとも伝えられるが、2人は成人であり、自らの意志で行動した。[200]
Chalcodonの子Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟。つまり、Elephenorは、Theseusの義母の兄弟であった。[201]

12.2.8 DioscuriのAthens侵入
当時、7歳、10歳、あるいは、12歳とも伝えられるHelenを、50歳のTheseusが誘拐したと伝えられている。[202]
実際は、IdasがTyndareusの娘Helenを誘拐してTheseusに預かり、TheseusがHelenをAphidnaeの町に預けていたものであった。[203]
IdasとTheseusの友Peirithousは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であり、IdasとTheseusにも親交があったと思われる。[204]
古代の史料は、Dioscuriの実力を過大に評価しているが、Mycenaeの町の攻撃を破ったAthensの町にとっては取るに足らないものであった。

12.2.9 Theseusの最期
BC1209年、Thesprotis地方からAthensの町へ帰ったTheseusは、住民の反感を抑えられず、Scyros島へ渡った。[205]
息子たちがEuboea島へ行ったことは、Theseusは知らなかった。Theseusが彼の息子たちの消息を知っていれば、Scyros島ではなくChalcisの町へ行ったはずである。[206]
Scyros島には、Theseusの父Aegeusの所領があった。Theseusに居座られて、地位を奪われることを恐れたLycomedesは、Theseusを殺した。[207]
Lycomedesは、Achillesの妻Deidamiaの父であり、Neoptolemusの祖父であった。[208]
Lycomedesは、Aegeusの実父Scyriusの孫であり、Theseusの従兄弟と推定される。[209]

13 Peteus (or Peteos)の子Menestheusの時代 (1209-1186 BC)
13.1 EpigoniのThebes攻め
Theseusには、AmazonsのAntiopeとの間に生まれたと伝えられる、息子Hippolytusがいた。[210]
TheseusがPhaedraを妻に迎えたとき、Hippolytusは、祖父Pittheusの許へ送られた。
本来、TheseusがPittheusの跡継ぎとなるはずであったが、TheseusがAegeusの跡を継いだために、HippolytusをPittheusの跡継ぎにするためであった。[211]
伝承では、Hippolytusは、戦車の手綱が野生オリーブ樹に引っ掛かって、戦車が転覆して死んだと伝えられている。[212]
しかし、次のことから、Hippolytusは、Diomedesと共に、BC1205年、EpigoniのThebes攻めに参加して戦死したものと推定される。[213]
1) Troezenの町にDiomedesが創建したHippolytusの神苑があった。[214]
2) Hippolytusは、Diomedesと同世代であった。
3) Trojan War時、Troezenの町は、Diomedesの支配下にあった、

13.2 Troy遠征
BC1188年、Menestheusは、Phalerum港からAtheniansを率いて、Troyへ向けて船出した。[215]
Menestheusは、Troyから帰還してAthensの町へ入ろうとしたが、Theseusの子Demophonに追い返されてMelos島へ行き、その島で死んだ。[216]
Menestheusに従ってTroyに遠征した人々は、Italy半島南部のScylletiumの町に移住した。[217]
また、Aeolis地方のCymeの町近くのElaeaの町へ移住した人々もいた。[218]

13.3 Thessalyからの移住者
BC1188年、Euboea島のChalcisの町へ亡命していたTheseusの息子たち、DemophonとAcamasがAthensの町へ帰還して、Atheniansを掌握した。[219]
BC1186年、Thessaly地方へThesprotiansが侵入して、彼らに追い出されたGyrtonの町のIxionの子Perithousの後裔が率いる人々は、Athensの町へ逃れた。
BC4世紀の歴史家Ephorusによれば、Atheniansは、TheseusとPerithousとの親交を考慮して彼らを受け入れ、後にPerithoedaeと呼ばれる土地を分け与えたという。[220]
つまり、当時のAthensの町を支配していたのは、Theseusを追放した人々ではなく、Theseusの子Demophonであったと推定される。
Thessaly地方からの移住者は、Troy占領後、Athensの町に入ろうとしたMenestheusらを追い返そうとするDemophonの強力な味方になった。[221]
また、Thessaly地方のPheraeの町からも、Eumelusの子Zeuxippusの子Armenius (or Harmenius)が、Athensの町へ逃れて来た。[222]
Athensの町で生まれたArmeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のPenthilusの子Andropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。Melanthusは、第16代Athens王になった。[223]
Melanthusの母や妻は、AthenianであったとPausaniasが伝えている。[224]

14 Theseusの子Demophonの時代 (1186-1153 BC)
14.1 Demophonの帰還
Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Elephenorと共にTroyに遠征した、あるいは、彼らは遠征に参加せず、Chalcisの町にいたとも伝えられている。[225]
Argosの町のDiomedesが、Troyから帰る途中、Athensの町に上陸したが、暗闇でDemophon率いるAtheniansに攻撃されたと伝えられる。[226]
しかし、DiomedesがArgosの町に着いたのは、Troyを出発して4日目であった。[227]
Demophonはこれより早く帰還していなければならないことになる。
実際は、DemophonとAcamasは、自分たちを追い出したMenestheusと共にTroyに遠征しなかった。Menestheusが去ったAthensの町へEuboea島から帰還して、支配を盤石にしたと考えられる。[228]
当然、彼らは、父の行方を捜し、Theseusは、Scyros島へ渡ってLycomedesに殺されたということを突き止めたはずである。LycomedesはAtheniansによって殺され、Theseusの遺骨はAthensの町へ持ち帰られた。[229]

14.2 Demophonの妻
AD5世紀の神学者Jeromeの年代記は、Demophonの子OxyntesをHeraclesの後裔だとする説もあると伝えている。[230]
もしこれが真実であれば、Demophonの父Theseusと同世代のHeraclesの子供が、Demophonの孫と血縁関係になる必要がある。そのためには、Demophonの妻であり、Oxyntesの母である女性がHeraclesの娘でなければならない。
Demophonの妻は、つぎの理由からHeraclesの娘Macariaであったと推定される。
BC1218年、Mycenaeの町のEurystheusが、Trachisの町のCeyxにHeracles一家を追い出さなければ武力に訴えると脅した。Heraclesの子供たちは、Attica地方のTetrapolisの一つTricorythusの町に転居した。[231]
その町には、HeraclesとDeianeiraとの間の娘Macariaの名前に因んだ泉があった。[232]
Eurystheusは、Heraclesの子供たちが次々成人するのに危機感を募らせたと伝えられており、Macariaも結婚適齢期であった。[233]
同じくDemophonも結婚適齢期であり、同じ地域に住んでいたので、Jeromeが伝える説は真実であると思われる。
Macariaの後見人Iolausの姉妹Iopeは、Demophonの父Theseusの妻たちの一人であった。[234]
Iolausが、Macariaを義兄弟Theseusの息子Demophonに引き合わせたと推定される。

15 Demophonの子Oxyntesの時代 (1153-1141 BC)
Demophonの跡を息子Oxyntesが継いだ。[235]

16 Oxyntesの子Apheidasの時代 (1141-1140 BC)
Oxyntesの跡を彼の息子Apheidasが継いだ。[236]
Apheidasは、彼の異母兄弟Thymoetesに殺された。[237]

17 Oxyntesの子Thymoetesの時代 (1140-1111 BC)
Apheidasの跡を彼の異母兄弟Thymoetesが継いだ。[238]

18 Andropompusの子Melanthusの時代 (1111-1095 BC)
18.1 MelanthusのMessenia時代
多くの史料がMelanthusをPylus王と伝えている。[239]
しかし、MelanthusはMessenia地方のPylusの町には住んでいなかったと思われる。
Melanthusは、Periclymenusの子Penthilus(or Borus)の子Borus(or Penthilus)の子Andropompusの息子であった。[240]
Aphareusの子Idasが死んだ後で、Neleusの子NestorがMessenia地方の支配権を継承した。[241]
Nestorや彼の息子たち、ThrasymedesとAntilochusは、Pylusの町に住んでいた。[242]
Menelausは、Neleusの長男Periclymenusの直系の子孫であり、Nestorの子孫ではなかった。MenelausはPylusの町にではなく、Andaniaの町に住んでいたと思われる。[243]
Menelausは、Pylusの王ではなく、Messeniansの王であった。[244]

18.2 MelanthusのAthensへの移住
18.2.1 移住先の決定
Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensの町へ行くことになったと伝えられている。[245]
古代の作家は、動機などが不明の場合、「神託により」と記すことがある。Melanthusが何故、移住先にAthensの町を選んだのか神託以外の理由を伝えている史料はないが、つぎのような理由であったと推定される。
Pausaniasは、Melanthusの母も妻もAthenianであったと伝えており、Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[246]
Thessaly地方のPheraeの町の住人は、Thesprotiansに追われて、Eumelusの子Zeuxippusの子Armeniusに率いられてAthensの町へ移住した。[247]
Armeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のAndropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。[248]
系図を作成すると、移住時のMelanthusは50歳を超えており、Melanthusの跡を継いだ息子Codrusも30歳を超えていた。当時Thymoetesは、在位30年目であり、娘婿にAthens王を継がせたものと思われる。

18.2.2 Eleusis
BC1111年、Melanthusが最初に行ったのはEleusisの町であった。Messenia地方とEleusisの町は深い関係があった。[249]
BC1385年、Eleusisに住むPhlyusの子Celaenusの子CauconがAndaniaの町に住むMesseneを訪問して、Great Goddessesの祭儀を伝えた。[250]
Phlyusの妻Celaenoは、Messeneの姉であり、Cauconは、Messeneの姉の孫であった。[251]
BC1275年、Pandionの子Lycusも、Areneの町やAndaniaの町で、Great Goddessesの祭儀を執り行った。[252]
この祭儀は、Melanthusの時代以降も、Messenia戦争の時代まで脈々と受け継がれていた。[253]

18.3 Melanthusの在位期間
BC1世紀の年代記作者Castorは、CecropsからThymoetesまでのAthens王の統治期間は、450年間であったと伝えている。しかし、歴代の王の統治年数を合計すると429年間になり21年足りない。[254]
Castorは、Demophonの子Oxyntesが12年、Oxyntesの子Apheidasが1年、Apheidasの異母兄弟Thymoetesが8年と、それぞれの統治年数を伝えている。しかし、その前後の王たちの統治年数に比べて、2世代で、21年は少な過ぎる。[255]
Castorは、Melanthusの統治年数を37年と伝えているが、そのうちの21年はMessenia王としての統治年数であったと思われる。
Athens王としてのMelanthusの統治年数は16年で、Thymoetesの統治年数は29年であったと推定される。

おわり