第21章 アルゴスの青銅器時代の歴史

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Create:2023.3.13, Update:2024.12.11

1 はじめに
Peloponnesus半島にGreeksがはじめて町を作ったのは、BC1750年に発生した「Ogygus時代の大洪水」の時であった。Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。
Inachusの2人の息子たち、Aegialeus (or Aezeius)とPhoroneusに率いられた人々はPeloponnesus半島に入った。
Aegialeusは半島北側の海岸地方に、Phoroneusはさらに南へ進んで平野の端の小高い丘(後のLarisa)の東側に定住した。[1]
Aegialeusが創建した町は、Aegialeia (後のSicyon)と呼ばれ、Phoroneusが創建した町はPhoroneus (後のArgos)と呼ばれた。[2]
その後、初代Athens王Cecropsに追われたColaenusが、Attica地方のMirinousからMessenia湾入り口西側にColonidesの町を創建した。[3]
ColonidesのPeloponnesus入植は、Inachusの息子たちより約200年後であった。

2 Inachusの子Phoroneusの時代 (1750-1700 BC)
年代記作者Castorは、初代Argos王をInachusと記している。しかし、Argosの町を最初に治めたのは、Inachusの子Phoroneusであった。[4]

2.1 Telchinesとの戦い
Aegialeiaの町の創建者Aegialeusが死んだ。
Aegialeusには、息子Lycaonがいたが、Lycaonは父より先に死んでいた。[5]
Lycaonには、息子Hyperetusがいたが、まだ、少年であった。[6]
Phoroneusは、自分の息子Europsを、Phoroneusの兄弟Aegialeusの後継者にした。[7]
しかし、Europsは、Sicyonの町の有力者Telchin (or Telchis)によって王位を簒奪された。[8]
Telchinは、第3代Sicyon王になった。[9]
Phoroneusは、Sicyonの町を攻めて、Telchin率いるTelchinesと戦うが撃退された。[10]
この戦いで、Phoroneusには、Parrhasiansが味方し、Telchinesには、Caryatiiが味方した。[11]
Parrhasiansは、Rome時代にArcadia地方の南部に住んでいた部族である。
Parrhasiansは、多くの息子たちを各地に送り出したLycaonや、Romeへ移住したEvanderが所属していた名門の部族であった。[12]
Caryatiiは、Rome時代にArcadia地方のTegeaの町に住んでいた部族であった。[13]

2.2 Argosからの移住
BC1725年、Phoroneusの子CarはMegara地方へ移住した。[14]
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Peloponnesus半島の南東の海岸へ移住して、Hermioneの町を創建した。[15]

3 Phoroneusの子Apisの時代 (1700-1665 BC)
BC1700年、Phoroneusが死に、彼の息子Apisが跡を継いだ。[16]
BC1690年、Apisは、Sicyonの町との戦いに勝って、Sicyonの町をArgosの町の支配下に置いた。[17]
第3代Argos王Apisは、第4代Sicyon王になった。[18]
Apisは、Peloponnesusの支配者になり、PeloponnesusはApisの名に因んでApiaと呼ばれるようになった。[19]
BC1665年、Apisは、Telchinと彼の息子Thelxionによって殺された。[20]

4 Niobeの子Argusの時代 (1665-1630 BC)
BC1665年、Apisの姉妹Niobeの子Argusが、Apisの跡を継いだ。[21]
Argusの父は、Inachusの娘Themistoの子Arcasと推定される。[22]

4.1 王統の変化
Argusの子孫には、Arcadia地方内の各地に息子たちを送り出したPelasgusの子Lycaonがいる。そのLycaonは、Parrhasiansに所属していた。[23]
Argusの先祖Phoroneusは、Parrhasiansとは別の部族であった。[24]
しかし、Phoroneusの後裔Lycaonは、Parrhasiansに所属していた。
恐らく、Themistoの夫が、Parrhasiansの族長であったと推定される。
つまり、Themistoの子Arcasや、Niobeの子ArgusもParrhasianであったことになる。

4.2 Argosの内紛
Argusには、2人の妻たち、PeithoとEvadneがいた。恐らく、PeithoはParrhasianであり、Evadneは、Phoroneusの孫娘であったと思われる。
Phoroneusが所属していた部族とParrhasiansは、それぞれ、Argusの息子たちを味方につけて、Argosの町の中で争いが生じた。
Argusの息子たち、TirynsとEpidaurusがArgosの町を去って、それぞれの町を創建したのは、内紛が原因と推定される。[25]

5 Argusの子Peirasusの時代 (1630-1610 BC)
5.1 Argusの継承者
年代記作者Castorは、Argusの次のArgivesの王として、Criasusの名前を記している。[26]
しかし、次のことから、Argusの跡は、彼の息子Peirasus (or Piras, Peiras, Peranthus, Piranthus)が継いだと思われる。
1) Hyginusは、Argivesの王を列挙して、Argusの次に、Argusの子Piranthusの名前を記している。[27]
2) Peirasusの父Argusは、Hera神像を製作した。Peirasusは、そのHera神像を安置するために、Hera神殿を創建した。[28]

5.2 Hera神殿の創建
BC1620年、Peirasusは、Argosの町から北北東へ7.4km離れた所に、Hera神殿を創建した。[29]
Peirasusは、彼の娘CallithyiaをHera神殿の最初の巫女にした。[30]

6 Peirasusの子Triopsの時代 (1610-1600 BC)
Peirasusの跡は、彼の息子Triopsが継いだ。[31]

6.1 Argosの内紛
BC1600年頃、Argosの町で大きな内紛があったと推定される。
その推定理由は、次のとおりである。
1) この内紛への報復を受けて、BC1560年、Argusの子Criasusの子Phorbasの後裔がArgosの町から各地へ移住した。
2) この内紛の結果、Mycenaeの町が大きくなり、さらに、BC1560年の内紛で、Mycenaeの町がPeloponnesusの覇者になった。[32]
3) Argusの子Ecbasusの子Agenorの子Argusが、Argion (後のMycenae)の町へ移住したのは、BC1600年頃と推定される。[33]

6.2 王位簒奪
このArgosの内紛の原因は、Criasusの子Phorbasによる王位簒奪であったと思われる。
Peirasusの子Triopsには、2人の兄弟たち、ArgusとArestoridesがいた。[34]
しかし、Triopsの後、Argosの王統はNiobeの子Argusの子Criasusの後裔に移っている。[35]
Criasusの子Phorbasが、Argusの子Peirasusの息子たち、Triops、Argus、Arestoridesを殺して、王位を簒奪したと推定される。

7 Criasusの子Phorbasの時代 (1600-1590 BC)
Argosの町の支配者は、Criasusの子Phorbasになった。
年代記作者Castorは、Niobeの子Argusの後の王を、PeirasusとTriopsではなく、CriasusとPhorbasと記している。[36]
内紛のときに、Peirasusの子Triopsに味方したPeirasusの兄弟Ecbasusの子Agenorの子Argusは、Argosの町から逃れて、Mycenaeの町に定住した。[37]
Argusは、many-eyed、あるいは、All-seeingと称された。[38]
Argusは、すべてを見通すことのできる、先見の明のある人物であった。
Mycenaeの町は、Argusの名前に因んで、Argionの町と呼ばれるようになった。[39]

8 Phorbasの子Triopasの時代 (1590-1565 BC)
Phorbasの跡は、彼の息子Triopasが継いだ。[40]

8.1 Trochilusの追放
BC1561年、Argosの町の密儀祭司Trochilusは、Triopasの子Agenorによって追放されてEleusisの町へ移住した。[41]
Trochilusは、ArgosのHera神殿の巫女Callithyiaの息子であった。[42]
この後、Agenorの姪IoがHera神殿の巫女になった。[43]

8.2 Mycenaeとの戦い
Trochilusの追放は、Mycenaeの町がArgosの町を攻める端緒になった。
Mycenaeの町には、Trochilusの伯父Triopsに味方して、Argosの町から追い出されたAgenorの子Argusが住んでいた。[44]
Argusは、第7代Sicyon王Thurimachusの娘Ismeneを妻に迎えた。[45]
Argusの子Messapusは、第8代Sicyon王Leucippusの娘Calchiniaを妻に迎えた。[46]
Mycenaeの町は、これらの婚姻関係によって、Sicyonの町を勢力下に置いていた。
また、Sicyonの町からCrete島へ移住したTelchinesもMycenaeの町に住んでいた。[47]
Phoroneusの子Apisの時代に、Sicyonの町とArgosの町は、互角に戦っていた。
しかし、Niobeの子Argusの息子たちの時代以降、Argosの町に住んでいたPhoroneusの部族は各地へ移住して、Argosの町にはParrhasiansが残っていた。

9 Triopasの子Pelasgusの子Crotopusの時代 (1565-1560 BC)
Triopasの跡は、彼の孫Crotopusが継いだ。[48]
BC1560年、Mycenaeの町のArgusの子Messapusに攻め込まれて、Argosの町の住人は、各地へ移住した。
Triopasの息子たち、Agenor、Pelasgus、Anthus、Eurisabeは、Messapusとの戦いで戦死したと思われる。[49]

9.1 Egypt、Lycia、Lesbosへの移住
Iasusは、彼の兄弟Xanthusや彼の娘Ioを含む植民団を率いてPeloponnesus半島から船出した。途中、XanthusはLycia地方に植民した。Iasusと娘Ioを含む植民団はさらに航海を続け、Egyptに到着した。[50]

9.1.1 Xanthusの移住
Xanthusは、Lycia地方のXanthus川流域に植民した後、Xanthus自身は、さらに北へ向かって良い土地を探すために航海した。[51]
Xanthusに同行していたCyrnusは、Rhodes島対岸の半島にCyrnusの町を創建した。[52]
Xanthus自身はIssa島と呼ばれていた無人島に植民した。[53]
その島は、200年後、新たな入植者であるLapithesの子Lesbosに因んでLesbos島と呼ばれるようになるまで、Pelasgia島と呼ばれた。[54]

9.1.2 Iasusと娘Ioの移住
Iasusの娘Ioは、Saisの町のTelegonusと結婚した。Telegonusは、1世代前にBoeotia地方からEgyptへ移住した、Saisの町の創建者の息子であった。[55]
BC4世紀の歴史家Callisthenes of Olynthusや、BC3世紀の歴史家Phanodemus of Athensは、Saisの町の住人は、Atheniansの後裔だと述べている。[56]
Ioの子Epaphusは勢力を拡大して、Memphisの町を創建した。 [57]
Herodotusは、Cranausの時代、Athensの町の住人はCranaansと呼ばれるPelasgiansであったと述べている。[58]
CranausはIoの息子であり、Ioと共にArgosの町からEgyptへ移住したPelasgiansがCranausと共にAthensの町へ移住したと思われる。[59]
IoはArgosのHera神殿の巫女であり、EgyptではIsisと呼ばれた。[60]

9.2 Arcadiaへの移住
Iasusの兄弟Agenorの子Pelasgusは、Argosの町から西南西70kmの所にあるArcadia地方のLycaeus山(現在のMt. Lykaion、標高1,421m)の麓へ移住した。Pelasgusは食用となる樫の実を見つけて人々に教えた。[61]

9.3 Thessalyへの移住
Triopasの子Pelasgusの娘Larisaの一家を中心とする集団は、Thessaly地方へ移住した。[62]
Larisaと共にArgosの町から移住したPelasgiansは、Thessaly地方北部のPeneius河畔のLarisaの町から東南の海岸地方との間の地域に住んでいた。[63]
Larisaの3人の息子たち、Achaeus、Phthius、Pelasgusが住む土地は、それぞれAchaia、Phthiotis、Pelasgiotisという名前で呼ばれるようになった。[64]

9.4 Megaraへの移住
Triopasの子Pelasgusの子Crotopusは、Megara地方のGeraneia山麓へ移住して、Tripodiskionの町を創建した。[65]

10 大移動後のArgos (1560-1430 BC)
10.1 Mycenaeによる支配
BC1560年、Argosの町は、Mycenaeの町の支配下に入った。
Argosの町の主要な住人は、Parrhasiansではなく、Phoroneusの部族に変わった。
Mycenaeの町は、Arcadia地方を除く、Peloponnesus半島の殆どの住人を支配し、海外との交易活動によって、大国になった。[66]
Argosの町も、Mycenaeの町と共に繁栄した。
Argosの町は、Sthenelasの子Gelanorまで、Messapusの後裔が治めた。

10.2 伝承
BC1560年にArgosの町から大移動が発生してから、BC1430年にDanausが現れるまで、Argosの町での出来事は不明である。
Pausaniasは、Argos王Crotopusの娘Psamatheの子Linusの墓が、Argosの町にあったと伝えている。[67]
また、Pausaniasは、Crotopusの墓も、Argosの町にあったと伝えている。[68]
Argosの町から追放されたCrotopusや彼の孫がArgosの町へ帰還できたとは思われず、偽物の墓と推定される

11 Belusの子Danausの時代 (1430-1420 BC)
11.1 Danausの系譜
BC1560年、Iasusの娘IoはArgosの町からEgyptへ移住して、Saisの町のTelegonusと結婚し、Epaphusが生まれた。[69]
Epaphusの娘Libyaには、3人の息子たち、Agenor、Belus、Lelexがいた。[70]
Belusの子DanausやBelusの子Aegyptusの子Lynceusは、NileDeltaにあるChemmisの町の住人であった。[71]
つまり、Danausは、Argosの町からEgyptへ移住したIoの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの息子であった。

11.2 Danausの移住
BC1430年、Danausは、EgyptからArgosの町へ移住した。

11.2.1 Manethoの記述
AD1世紀の歴史家Josephusは、BC3世紀の歴史家Manethoの著作から引用して、次のように伝えている。
「Misphragmuthosis王の治世中、Egypt各地から追放された人々は、城壁で囲まれ、24万人の兵士が守るAuarisという場所に包囲された。籠城していた人々は、Egyptから出て行くという条件で解放された。Auarisから解放された人々は、家族を伴って、Egyptを去り、砂漠を越えてSyriaへ逃れた。」[72]
AD3世紀の歴史家Sextus Julius Africanusは、Manethoが記したEgypt第18王朝の歴代のファラオの名前を伝えている。
それによれば、Misphragmuthosisは、第6代目のファラオであった。
つまり、Misphragmuthosisは、Egypt第18王朝の第6代ファラオThutmose IIIの別名と推定される。
Thutmose IIIは、古代Egyptを最大版図にした征服王であり、BC1425年に死亡した。[73]

11.2.2 Hecataeusの記述との照合
Manethoは、砂漠を越えてSyriaへ逃れた人々が、Judaeaと呼ばれる土地に、Jerusalemを創建したと伝えている。[74]
BC3世紀の歴史家Hecataeus of Abderaも、同様のことを伝えている。[75]
Hecataeusは、Egyptから追い出された多くの異邦人たちの指導者たちの中で最も有名なのは、DanausとCadmusであったと記している。

11.2.3 推定
BC1430年当時、GreeceからEgyptへ移住した人々は、Sais、Thebes、Memphis、Chemmisの町に住んでいた。
Belusの子Danausは、Chemmisの町に住んでいた。[76]
Danausの部族と推定されるDanaya (Tanaju)は、Thutmose IIIに朝貢していた。[77]
以上のことから、次のように推定される。
NileDeltaに住んでいた人々が、Thutmose IIIに対して反乱を起こしたが、彼らの居住地から追放されて、Auaris (or Avaris, Athyria)に籠城した。
Auarisには、GreeceからEgyptへ移住した人々だけではなく、ユダヤ人も含まれていた。
ユダヤ人は、陸路で砂漠を越えて、Syria地方へ移住した。
GreeceからEgyptへ移住した人々は、DanausやAgenorに率いられて、海路で、Peloponnesus半島やSyria地方へ移住した。

11.2.4 Colchisへの移住
Manethoの記述が正確であれば、このとき、Egyptから各地へ移住した人々は、数十万人と推定される。
Hecataeusは、Egyptを逃れた人々の大部分は、Egyptからあまり離れていない地方へ移住したと伝えている。
しかし、Egyptを逃れた人々の一部は、PontusのColchis地方へ移住した。[78]
彼らの指導者は不明であるが、Sisyphusの子Aeetesが、Ephyra (後のCorinth)の町からColchis地方へ移住する40年前であった。

11.3 Danausの同行者
Danausと共にEgyptを脱出したのは、兄弟Aegyptusや、叔父たち、AgenorやLelexであった。
Danausの叔父Agenorは、Greeceまで行かずに、途中、Phoenicia地方のSidonの町に住み着いた。[79]
Danausは、先祖の地Argosの町へ移住した。[80]
Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部に居を定めた。Patraeの町にBelusの子Aegyptusの墓があった。[81]
Lelexは、Peloponnesus半島南部のEurotas川中流域に居を定めた。その後、Lelexは、彼の息子Mylesにその地を任せて、自らはMegara地方へ移住した。[82]
それまで、Lelexの先祖の地Argosの町からMegara地方へは、BC1725年、Phoroneusの子Carが移住していた。[83]
また、BC1560年には、Pelasgusの子CrotopusがMegara地方へ移住していた。[84]

11.4 Danausの本名
Pausaniasは、彼の著書の中の5か所で、Lelexの子Polycaonの妻Messeneの父は、Triopasであったと記している。[85]
また、Pausaniasは、Argosの町に住むTriopasが名声と実力で、当時のGreeksの指導者であったとも記している。[86]
PolycaonとMesseneが結婚した頃、Argosの町を治めていたのはDanausであり、Triopasは、Danausの本名であったと思われる。
Thutmose IIIの年代記に、Greeksと推定されるDanaya (Tanaju)の土地から貢納があったと記されている。[87]
Danayaは、Danausの父Belusの種族名で、Danausは、その種族名から人の名前のように作られた造語と思われる。
あるいは、DanausはBelusの父であり、Belusの母Libyaの夫であり、孫が祖父の名前で呼ばれていたのかもしれない。
Danausの双子の兄弟Aegyptusの名前も、造語のように思われる。

11.5 Argosの奪還
Danausが現れたとき、Argosの町は、Argusの子Messapusの後裔、Sthenelas (Stheneleus, Sthenelus)の子Gelanorが治めていた。[88]
Danausは、Gelanorと戦ってArgosの町を奪い返した。[89]
Argosの町は、Danausの先祖Iasusの娘Ioが、130年前に、Gelanorの先祖Messapusによって奪われた町であった。
Danausに敗れたGelanorは、Sicyonの町へ逃れた。[90]

11.6 Mycenaeの破壊
伝承には残っていないが、DanausはMycenaeの町を破壊したと推定される。
後に、Danausの孫Abasの時代に、Argosの町は、Sicyonの町と戦っているが、伝承に、Mycenaeの町は登場しない。
恐らく、Mycenaeの町は、Danausに破壊されて、Mycenaeの町の住人は、Sicyonの町へ逃れたと思われる。

12 Danausの娘婿Lynceusの時代 (1420-1413 BC)
Danausの娘の名前は、12人知られているが、Danausの息子の名前は知られていない。
Danausの跡を継いだのは、Danausの長女Hypermnestraの夫、Aegyptusの子Lynceusであった。[91]

12.1 Achaeansとの婚姻
BC1420年、当時、Thessaly地方のMelitaeaの町に住んでいたXuthusの子Achaeusが、Peloponnesus北部のAegialus地方へ帰還した。[92]
Achaeusは、父が追放されたMelitaeaの町へ移住したが、CadmusやThraciansの大移動に伴う混乱で、Thessaly地方を去ることになった。後にAchaeansと呼ばれるようになる多くの人々も彼と一緒に、Thessaly地方からAegialus地方へ移住した。
BC1408年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Danausの2人の娘たち、ScaeaとAutomateとそれぞれ結婚した。[93]

13 Lynceusの子Abasの時代 (1413-1387 BC)
BC1413年、Lynceusが死んで、彼の息子Abasが跡を継いだ。[94]

13.1 LamedonのArgos占領
Pausaniasは、Sicyonの町のLamedonがAchaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesと戦ったと伝えている。[95]
しかし、Sicyon王の系譜に登場するLamedonは、Archanderより2世代後の人物である。
Archanderと戦ったLamedonは、DanausによってArgosの町を追われて、Sicyonの町へ逃れたGelanorの息子であったと推定される。[96]
BC1408年、Abas (or Triopas)がLynceusの跡を継いで、5年目に、LamedonがArgosの町を占領した。[97]

13.2 Phocisへの移住
Abasは、Argosの町から逃れて、Phocis地方にAbaeの町を建設した。[98]
Abasの祖父Danausと共にGreeceへ移住して来た人々が、Troezenの町、Lacedaemonの町、そして、Megara地方に住んでいた。
Abasがそれらの町へ行かずに、Phocis地方へ移住した理由は不明である。
Phocis地方のDaulisの町の近くには、少し前に、Thracia地方からTereusに率いられて移住して来たThraciansが住んでいた。[99]

13.3 Arcadiaへの移住
Straboは、Arcadia地方のMantineiaの町は、Argivesによって作られた5つの集落をもとにして建設されたと伝えている。[100]
このMantineiaの町は、後に新市ができた時に、Ptolisの町と呼ばれるようになった旧市であったと思われる。Lycaonの子Mantineusが創建した町は、Ptolisの町の場所にあった。[101]
Mantineusの娘Aglaiaは、Lynceusの子Abasと結婚したが、その結婚は、Argosの町からの移住が縁であったと思われる。[102]
移住者たちを率いたのは、Aegyptusの子AntimachusとDanausの娘Mideaとの間の息子Amphianaxであった。Amphianaxの娘Antaiaの娘Maeraの墓がMantineiaの町の近くにあった。[103]
Amphianaxの父Antimachusは、Abasの父Lynceusの兄弟であり、AmphianaxとAbasは従兄弟であった。
Amphianaxの移住の動機は、Abasの移住と同じく、LamedonによるArgosの町の占領であり、彼の移住は、BC1408年の出来事と推定される。

13.4 Sicyonとの戦い
BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町を占拠していたLamedonを追放して、Sicyonの町を占領した。[104]
この戦いには、Locris地方のDeucalionの子Marathoniusも参加し、Sicyonの町のOrthopolisの娘Chrysortheと結婚した。[105]
Marathoniusの父Deucalionの父Dorusは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟であり、MarathoniusはArchanderの又従兄弟であった。
さらに、Aeolusの子SisyphusもArchanderに加勢し、戦いの後でSicyonの町の東側にEphyra (後のCorinth)の町を創建した。[106]
Sisyphusの父Aeolusは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟であり、SisyphusはArchanderの父の従兄弟であった。
Archanderは、Phocis地方へ逃れていたLynceusの子AbasをArgos王に復位させて、未成年者であったAbasの後見人になった。[107]
Archanderは、Abasの母Hypermnestraの姉妹の夫であり、Abasの義理の叔父であった。[108]
この戦いの後で、Archanderと共に多くのAchaeansがArgosの町へ移り住むことになった。

13.5 Messeniaへの移住
BC1405年、Lelexの子Polycaonが、Lacedaemonの町からMessenia地方へ移住してAndaniaの町を創建した。町の建設には、Polycaonの妻Messeneの出身地Argosの町から大勢の人々が参加した。[109]
その人々は、少し前にArchanderと共にThessaly地方からAegialus地方を経由して、Argosの町へ移住したAchaeansであったと推定される。その証拠に、Polycaonの後裔が絶えたとき、Andaniaの町の住人は、Thessaly地方から自分たちの指導者を迎えている。[110]
この移住により、Achaeansは、Corinthの町からMessenia地方のAndaniaの町まで、広く居住するようになった。

13.6 Egyptへの移住
BC1402年、Abasの後見が終わると、Achaeusの子Archanderは、EgyptのNileDeltaへ移住して、Archandropolisの町を創建した。[111]
Archandropolisの町の近くには、Archanderの妻Scaeaが幼少期を過ごしたChemmisの町があった。[112]
Archanderには、Thessaly地方で結婚した妻Cyreneや息子Aristaeusも同行した。[113]

14 Abasの子Proetusの時代 (1387-1370 BC)
14.1 Acrisiusの追放
BC1387年、Lynceusの子Abasが死ぬと、Abasの子Proetusは、彼の双子の兄弟AcrisiusをArgosの町から追放した。[114]
2人は、当時、13歳と推定され、自らの意志による行動ではなく、両者を担いだ勢力による党派争いであった。
当時のArgosの町の住人は、大きく分けて2つの集団があった。
1つは、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesと共にThessaly地方からArgosの町へ移住して来たAchaeansである。
もう1つは、Argosの町に古くから住んでいたPelasgiansであった。
追放後のAcrisiusの行動から考えて、Acrisiusを支援したのはAchaeansであり、Proetusを支援したのはPelasgiansであったと推定される。

14.2 Egyptへの移住
Argosの町を追われたAcrisiusは、少し前にArgosの町からEgyptへ移住した、彼の父Abasの後見人Archanderのもとへ逃れた。[115]
Acrisiusは、ArchanderとScaeaとの娘と推定されるAganippeと結婚し、娘Danaeが生まれた。[116]

14.3 Hera神殿の創建
BC1375年、Proetusは、Sicyonの町の海岸近くにHera神殿を創建した。[117]
その地方は、古くは、Aegialusと呼ばれ、Proetusの父Abasの後見人Archanderが住んでいた。[118]
Abasの時代から、その地方には、Argosの町の影響力が及んでいたと思われる。

15 Abasの子Acrisiusの時代 (1370-1339 BC)
15.1 Egyptからの帰還
BC1370年、Acrisiusは、17年後に帰国に成功し、ProetusからArgosの町を奪い返した。[119]
Acrisiusの帰還を助けたのは、Naupliaの町の創建者Naupliusであったと推定される。[120]
Naupliusの母は、Danausの娘Amymoneであり、彼の父は、Danausと共にArgosの町へ移住して来たEgyptianであった。[121]
後に、Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの子Dictysは、Acrisiusの孫Perseusの庇護者になった。[122]

15.2 Arcadiaへの移住
伝承では、Acrisiusに追放されたProetusはLycia地方へ亡命している。
しかし、その伝承は、ProetusがLycia地方からCyclopesを招いたことから、Lycia地方へ移住したBellerophonと混同されて成立した作り話と思われる。[123]
Proetusの亡命先は、彼の母Aglaiaの出身地であるArcadia地方のMantineiaの町であった。[124]

15.3 Proetusの結婚
Mantineiaの町に住んでいたAmphianaxは、Proetusの父Abasの父Lynceusの兄弟Antimachusの息子であった。つまり、Amphianaxは、Proetusの父の従兄弟であった。
Mantineiaの町で、ProetusはAmphianaxの娘Steneboeaと結婚した。[125]
Steneboeaは、Proetusの又従妹であった。

15.4 AcrisiusとProetusの戦い
BC1368年、ProetusはAmphianaxの援助を得て、Tirynsの町を占拠した。[126]
Proetusは、Argosの町のAcrisiusと戦ったが勝敗はつかなかった。[127]
両者は、AcrisiusがArgosの町を領し、ProetusがTiryns、Heraeum、Mideiaの町、およびArgolis地方の沿海部を領することで和解した。[128]
その後、ProetusはLycia地方からCyclopesを招いてTirynsの町の城壁を強化した。[129]

15.5 Acrisiusの後継者
AcrisiusにはPhilammonという息子がいたが、BC1350年、Delpiを荒らしたPhlegyansとの戦いで戦死した。[130]
Phlegyansとの戦いは、住民に多くのAchaeansを抱えるAcrisiusがAmphictyonsの一員として実施したものであった。Acrisiusは、Amphictyonsを組織化した。[131]
また、Acrisiusには、Inachus川の近くの山の名付け親になったApesantusという名前の息子がいたが、事故で死んだ。[132]

15.6 Egyptからの移住
BC1349年、後継者を失ったAcrisiusは、Egyptに住むDanaeの息子Perseusを自身の後継者とするためにArgosの町に呼び寄せた。伝承では、Perseusが母Danaeのもとから無理やり連れ去られたと伝えられている。しかし、Danaeには、少なくとも、もう一人、Daunusという名前の息子がいた。[133]
伝承では、Danaeの青銅製の小部屋が、Argosの町にあったと伝えられている。[134]
しかし、Danaeは、Egyptで生まれ、Argosの町に住んだことはなかった。

15.7 Argosからの亡命
BC1343年、PerseusはAcrisiusの兄弟Proetusを殺害してSeriphus島へ亡命し、Dictysと妻Clymeneの庇護を受けた。[135]
Dictysは、Danausの娘Amymoneの子Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの息子であった。[136]
Naupliusは、Naupliaの町の創建者であり、彼の父は、Danausと共にEgyptからPeloponnesus半島へ移住して来た。DictysとPerseusは、Danausを共通の先祖とする同族であった。[137]
AD2世紀の著述家Apollodorosは、恐らく、BC7世紀の叙事詩人Hesiodを参照して、DictysとPolydectesは、Aeolusの子Magnesの息子たちであると伝えている。しかし、Hesiodは、彼らとPerseusやSeriphus島との関係は記していない。[138]
Seriphus島は、Naupliaの町から近く、漁業の拠点であり、Argosの町からCrete島などへの航路の補給地になっていたと思われる。

15.8 Perseusの結婚
Perseusは、Ethiopiansの地に住むBelusの子Cepheusのもとへ行き、彼の娘Andromedaと結婚した。[139]
Ethiopiansの地は、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近にあった。そこにはMemnon村があり、Ethiopiansを率いてTroyに駆け付けたTithonusの子Memnonの墓があった。[140]
体躯や容貌がEgyptの南に住むEthiopiansに似ていたために、Aesepus川の河口付近の住人は、Ethiopiansと呼ばれていたものと思われる。
CepheusはEgyptからの移民であり、PerseusとAndromedaとの結婚からつぎのように推定される。
Cepheusの父Belusは、Egyptに住んでいたGreece系Egyptianであった。Belusの父はArgosの町からEgyptへ移住し、NileDeltaにArchandropolisの町を創建したAchaeusの子Archanderと推定される。そして、Perseusの父は、Archanderの子Metanastesの子Pilumnusであったと思われる。[141]
つまり、Andromedaは、Perseusの又従妹であった。

15.9 医術の伝来
Suda辞典は、EgyptianのApisがGreeceに医学をもたらし、Asclepiusがその技術を発展させたと伝えている。[142]
Aeschylusは、ApisがArgivesの土地の向こう岸のNaupactusからやって来て、疫病を治療したと記している。[143]
両者のApisは同一人物と思われる。
しかし、Ozolian Locris地方のNaupactusの町は、Heracleidaeの帰還時に、Aristomachusの子Temenusによって創建された町であった。[144]
Asclepiusは、Heracleidaeの帰還より前の人物であり、医術を伝えたApisはAsclepiusより前の人物であった。[145]
Aeschylusが記しているNaupactusは、Naupliaの誤りで、ApisとAsclepiusの関係は、つぎのように推定される。
Naupliaの町の創建者は、Danausの娘Amymoneの子Naupliusであり、その町の住民はEgyptからの移住者であった。[146]
医学の知識を持ったApisは、Acrisiusに同行してEgyptからGreeceへ移住して来たと推定される。[147]
Acrisiusの妻は、Lacedaemonの娘Eurydiceであった。[148]
Eurydiceの兄Amyclasの妻Diomedeは、Thessaly地方に住むLapithsの始祖Lapithusの娘であった。[149]
Asclepiusは、Diomedeの兄弟Periphasの子Elatus (or Eilatus)の子Ischysの息子であった。
つまり、Apisの医学の知識は、最初にLapithsに伝えられ、その後、Asclepiusがその技術を発展させたと推定される。[150]

15.10 Acrisiusの死
Acrisiusの死についての伝承は多いが、いずれも作り話である。[151]
Acrisiusは61歳で死に、Larisaに埋葬された。
そのLarisaは、PausaniasやApollodorosが記しているThessaly地方のLarisaの町ではなかった。[152]
Acrisiusの墓は、Argosの町のAcropolisにあるAthena神殿にあった。[153]
Argosの町のAcropolisは、Larisaと呼ばれていた。[154]

16 Proetusの子Megapenthesの時代 (1339-1310 BC)
BC1339年、Acrisiusが死去すると、Proetusの子Megapenthesは、Argosの町へ移り住んだ。[155]
Megapenthesは、Argos王Abasの直系の孫であり、Argosの町を継承する権利があった。これによって、Argosの町の主たる住人は、AchaeansからPelasgiansになった。

16.1 Mycenaeとの対立
BC1334年、Perseusは、Seriphus島のDictysやEthiopiansの力を借りて、Peloponnesus半島へ帰還した。Perseusは、Argosの町を追われたAchaeansと共に、Tirynsの町を奪い、Argosの町を挟むようにMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[156]
BC1310年、MegapenthesはPerseusを殺害して、父Proetusの仇を討った。[157]
AcrisiusとPerseusの時代から続く対立は、Pelasgiansの町Argosと、Achaeansの町Mycenaeとの対立へと変わった。
BC1217年にMycenaeの町のEurystheusがAttica地方に住むHeraclesの息子たちを攻めたとき、Argosの町はEurystheusに援軍を出さなかった。
また、BC1215年のArgivesによるThebes攻めのとき、Mycenaeansは遠征に参加しなかった。[158]

17 Megapenthesの子Argeusの時代 (BC1310-1295)
Megapenthesの跡を彼の息子Argeusが継いだ。[159]

17.1 Abaeとの対立
Lynceusの子Abasが創建したAbaeの町については、創建後の消息が不明である。
しかし、その消息を知る手掛かりが3つある。
1) Straboは、Euboea島のAbantesは、Phocis地方のAbaの町から島に渡ったThraciansであったという説を紹介している。[160]
2) Hyginusは、「Abasは父Lynceusのことで、Megapenthesを殺した」と伝えている。[161]
3) BC4世紀の哲学者Aristippusは、「The history of Arcadia」の中で、Abasの子Deucalionに言及している。[162]
以上の手掛かりからつぎのように推定される。
Lynceusの子Abasは、Arcadia地方のMantineiaの町から妻を迎えており、Arcadia地方と関係が深かった。[163]
Aristippusが言及しているDeucalionは、Lynceusの子Abasの息子であり、Abasが創建したAbaeの町を継承した。[164]
Megapenthesを殺したAbasはChalcodonの父であり、Abasの父は、Megapenthesに殺されたLynceusであった。[165]
そのLynceusは、Abaeの町を継承したDeucalionの息子であり、AcrisiusとProetusの争いでは、LynceusはAcrisiusに味方していたものと思われる。
つまり、Euboea島のAbantesの始祖は、Acrisiusの兄弟Deucalionの子Lynceusの子Abasであった。
BC1310年、Abasは、Phocis地方のAbaeの町からEuboea島のChalcisの町へ移住した。[166]

17.2 Achaiaへの移住
BC1300年、Triopasの子Phorbasの子Pellenは、Argosの町からAchaia地方へ移住して、Sicyonの町の西北西にPelleneの町を創建した。[167]
Pellenの子Hyperasius (or Hippasus)の息子たち、AmphionとAsterius (or Asterion)は、Pelleneの町からの参加者としてArgonautsの遠征物語に登場している。[168]
Argosの町のLynceusの子Abasには、Triopasという別名があった。[169]
Pellenの父PhorbasをAbasとしても年代的に不都合はない。
恐らく、Acrisiusの孫PerseusとProetusの子Megapenthesの争いに、Abasの孫Pellenも巻き込まれて、移住したと推定される。
BC1375年、Proetusは、Sicyonの町の海岸近くにHera神殿を創建しており、Pellenが移住した土地にArgosの町の影響力があったと思われる。[170]

18 Argeusの子Anaxagorasの時代 (BC1295-1260)
Argeusの跡を彼の息子Anaxagorasが継いだ。[171]

18.1 Argosの割譲
AnaxagorasがArgosの町を継承したとき、Mycenaeの町は、Perseusの子Sthenelusが治めていた。Sthenelusは、Pelopsの娘Nicippe (or Archippe)を妻に迎え、彼の3人の兄弟もPelopsの娘を妻にして、Mycenaeの町は勢力を増しつつあった。[172]
BC1290年、Anaxagorasは、Amythaonの2人の息子たち、MelampusとBiasに、Argosの町の一部を割譲した。[173]
Anaxagorasは、彼らを共住者にして、Mycenaeの町に対抗しようとした。
MelampusとBiasは、Megapenthesの2人の娘たち、IphianeiraとLysippeをそれぞれの妻にしていた。[174]
つまり、MelampusとBiasは、Anaxagorasの義理の叔父であった。

18.2 Boeotiaへの移住
BC1275年、 Argosの町に住むHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺害するという事件が起きた。Hyettusは、Boeotia地方へ移住し、Minyasの子OrchomenusにCopais湖の北側の土地を分けてもらい、Hyettusの町を創建した。[175]
Minyasの子Orchomenusは、Aeolisに所属していたことから、Hyettusは、同じAeolisに所属するBiasの息子と思われる。

18.3 Calydonへの移住
このHyettus事件は、Melampusの2人の息子たち、Abas (or Manto, Mantius)とMantius (or Antiphates)との対立を生んだ。
BC1264年、Mantiusは、彼の叔母Aeoliaが嫁いだCalydonの町へ逃れた。[176]
その後、Mantiusの子Oecles (or Oicles、Oileus、Oecleus)は、Pleuronの町のThestiusの娘Hypermnestraと結婚した。[177]
Aeoliaは、Thestiusの父Pleuronの兄弟Calydonの妻であった。
つまり、Oeclesは、祖父Melampusの姉妹Aeoliaの義理の甥Thestiusの娘と結婚した。

19 Anaxagorasの子Alectorの時代 (1260-1235 BC)
Anaxagorasの跡を彼の息子Alectorが継いだ。[178]

19.1 Dionysusの訪問
BC1250年、Dionysusの儀式を伝える集団がArgosの町を訪問した。[179]
その集団を率いたのは、Naxos島のDionysusの神官Oenarus (or Dionysus)と彼の妻Ariadneであった。
Dionysusの集団には、Oenarusの娘たちとNaxosの子Leucippusの娘たちがいた。[180]
彼らを招いたのは、Amythaonの子Melampusであった。[181]
Minosの娘Ariadneは、この旅の途中で死に、Argosの町に埋葬された。[182]

19.2 Calydonからの帰還
BC1247年、Melampusの子Mantiusは、彼の息子Oeclesや孫Amphiarausと共に、Argosの町へ帰還した。[183]
Mantius一家は、自分たちをArgosの町から追い出したMelampusの子Abasや、彼に味方したBiasの後裔と戦った。[184]
Biasの子Talausは、Oeclesの子Amphiarausに殺された。[185]
戦いに敗れた者たちは、Argosの町から各地へ移住した。

19.2.1 Eurystheusの協力
Mantiusの帰還には、つぎの理由からMycenae王Eurystheusが協力したと推定される。
1) 後のHeraclesのElis攻めにMantiusの子Oeclesが参加した。[186]
2) 後に、Heraclesは、Calydonの町を去っている。
これは、EurystheusがOeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonの町のOeneusに、Heraclesを追い出すように、強制したためと思われる。
Mycenaeの町とArgosの町は対立していたが、Mantiusは、対立の原因となったProetusの子Megapenthesの後裔ではなかった。

19.2.2 各地への移住
Abasの子Polypheidesは、Achaia地方のHyperesiaの町へ移住した。[187]
Hyperesiaの町の近くには、Argivesが創建したPelleneの町があった。[188]
Abas本人は、Thessaly地方のLarisaの町の近くのPhyllusの町へ移住した。[189]
Phyllusの町は、Abasの父Melampusが生まれた町であった。[190]
また、Biasの子Talausの子Adrastusは、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[191]
Adrastusの母Lysianassaは、Polybusの娘であり、PolybusはAdrastusの祖父であった。[192]
Talausの子Pronaxは、Argosの町からSicyonの町とCorinthの町の境を流れるNemea川の上流へ移住して、町を創建した。[193]
Pronaxは、Corinthの町に住むAeolusの子Sisyphusの娘Nemeaを妻に迎えて、町の名前をNemeaにした。[194]
Abasの子Coeranus (or Cleitus)は、Megara地方へ移住した。[195]
Coeranusには、祖父Melampusや甥Thestorが同行した。[196]
Melampusは、Cithaeron山近くのAegosthenaの町で死んだ。[197]

19.3 HeraclesのElis攻め
BC1241年、Argivesは、HeraclesのElis攻めに参加した。[198]
Argivesを率いたのは、Melampusの子Mantiusの子Oeclesであった。[199]
Oeclesは、Aetolia地方からArgosの町へ帰還するときに、Mycenaeの町のEurystheusに助けられたことから、Elis攻めに参加したと推定される。
Elis攻めの後で、Heraclesが次の移住先としてCalydonの町を選択したのは、Oeclesから勧められたためであったと思われる。[200]
Oeclesは、彼の父Mantiusと共にArgosの町から逃れて、Calydonの町に20年以上住んでいた。[201]

19.4 AdrastusのArgos帰還
BC1238年、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命していたAdrastusは、Amphiarausと和解して、Argosの町へ帰還した。[202]
和解の条件は、AmphiarausとAdrastusの姉妹Eriphyleとの結婚であった。[203]
AmphiarausとEriphyleは、Amythaonを共通の先祖とする同族であった。
AmphiarausがAdrastusと和解したのは、多くの人々がArgosの町を去った後で、父を失い、勢力を増すMycenaeの町に対抗できなくなったからと思われる。

20 Alectorの子Iphisの時代 (1235-1210 BC)
Alectorの跡を彼の息子Iphisが継いだ。[204]

20.1 AdrastusのSicyon王継承
BC1236年、Adrastusは、Sicyoniansから招かれて、祖父Polybusの跡を継いで、Sicyon王になった。[205]
BC1232年、Adrastusは、Clytiusの後裔Ianiscusに譲位してArgosの町へ帰還した。[206]

20.2 Tydeusの亡命
BC1226年、Oeneusの子Tydeusは、Calydonの町からArgosの町のAdrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Deipylaと結婚した。[207]
Tydeusの父Oeneusの母Aeoliaは、Adrastusの父Talausの父Biasの姉妹であった。[208]
つまり、Adrastusは、Tydeusの又従兄であった。
あるいは、Tydeusは、Calydonの町で生まれたAmphiarausを頼ってArgosの町へ来たとも思われる。しかし、当時、Amphiarausは、Argosの町ではなく、Pylosの町に住んでいた。[209]

20.3 Polyneicesの亡命
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、Thebesの町からAdrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Argiaと結婚した。[210]
Adrastusは、Polyneicesの父Oedipusの養父Polybusの娘Lysianassaの息子であった。[211]

20.4 Oedipusの葬儀
BC1223年、Oedipusの葬送競技会がThebesの町で開催され、Adrastusの兄弟Mecisteus が参加した。[212]
Adrastusのもとへ亡命中のPolyneicesは、彼の妻ArgeaをOedipusの葬儀に参列させた。 [213]
Mecisteusは、Oedipusの養父Polybusの娘Lysianassaの息子であった。
Oeclesの子AmphiarausもArgeaに同行して、Oedipusの埋葬に参加した。[214]
Polyneicesの妻Argeaの弔問の後で、Polyneicesは、彼の兄弟Eteoclesに招かれてThebesの町へ一時的に帰還するが、両者の間には修復しがたい対立が生まれた。

20.5 AdrastusのThebes攻め
Adrastusは、Polyneicesを帰還させるために軍勢を率いてThebesの町へ遠征した。
Argosの町からの参加者は、つぎのとおりであった。[215]
Adrastusの娘Deipyla (or Deipyle)の夫、Oeneusの子Tydeus。
Adrastusの姉妹Astynomeの息子、Hipponousの子Capaneus。
Adrastusの姉妹Astynomeの子Capaneusの妻Evadneの兄弟、Iphisの子Eteoclus。
Adrastusの姉妹Metidiceの息子、Mnesimachusの子Hippomedon。
Adrastusの姉妹Eriphyleの夫、Oeclesの子Amphiaraus。
Adrastusの兄弟、Talausの子Mecisteus。
Adrastusの兄弟、Talausの子Parthenopaeus。
BC1215年、AdrastusはArgivesを率いて、Argosの町を出発して陸路で、Cithaeron山を越え、Electran gateの外で待ち受けるThebansと戦って敗れた。[216]

21 Capaneusの子Sthenelusの時代 (1210-1186 BC)
21.1 EpigoniのThebes攻め
BC1205年、AdrastusのThebes攻めから10年後、Amphiarausの子Alcmaeon率いるArgivesは、再び、Thebesの町へ遠征した。[217]
Alcmaeonを指揮官とするEpigoni率いるArgivesは、海路でAulisの町に着き、そこからThebesの町を目指した。[218]
Eteoclesの子Laodamasは、Thebesの町から出陣して、Glisasの町に陣を敷いていた。[219]
Glisasの町で戦いがあり、Argivesが勝利した。この戦いで、Adrastusの子Aegialeusや、Parthenopaeusの子Promachusなど多くの者が戦死した。[220]
Epigoniは、Thebesの町を占領して、Polyneicesの子Thersanderは、Thebes王に即位した。[221]

21.2 Alcmaeonの移住
BC1204年、Amphiarausの子Alcmaeonは、捕虜にしたThebansの要望を受けて遠征した。Alcmaeonは、彼らの王であったEteoclesの子Laodamasが移住したIllyria地方を目指した。途中、捕虜たちの一部はAchelous川河口付近にAstacusの町を創建した。[222]
Alcmaeonは残りの捕虜たちをIllyria地方へ送り出した後で、Alcmaeon本人は、Ambracia湾の東側にArgos (後のAmphilochian Argos)の町を創建した。[223]
伝承では、Amphiarausの子AmphilochusはTroy遠征に参加したと伝えられている。[224]
しかし、この伝承は、Cilicia地方のMallusの町を創建したAmphilochusと混同されたものであった。[225]
このAmphilochusは、Amphiarausの子Amphilochusではなく、Amphiarausの子AlcmaeonとTiresiasの娘Mantoの息子であった。[226]
Amphiarausの子Amphilochusは、兄弟Alcmaeonと共にGreece北西部へ移住したと推定される。

21.3 DiomedesのAetolia遠征
BC1202年、Tydeusの子Diomedesは、Argosの町からAetolia地方へ遠征して、Calydonの町を追われた祖父Oeneusの領地を奪い返した。[227]
この遠征に、Diomedesは、Epigoniを率いたAmphiarausの子Alcmaeonを協力者にしたとも伝えられる。[228]
しかし、Oeneusを追放したのは、Pleuronの町に住むParthaonの子Agriusと彼の息子たちであった。[229]
彼らは、Alcmaeonの祖母Hypermnestraを通して、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係にあった。[230]
Alcmaeonが親族を相手の戦いに参加したとは思われない。
Hygniusは、Capaneusの子SthenelusがDiomedesと共にAetolia地方へ遠征したと伝えている。DiomedesとSthenelusの友情関係から見て、Diomedesと共に遠征したのは、Alcmaeonではなく、Sthenelusであったと思われる。[231]
Diomedesは、Oeneusの娘Gorgesの夫で、Amphissaの町に住むAndraemonに、Aetolia地方を任せた。[232]

21.4 Argos王家の墓
Argosの町の「Delta」と呼ばれる場所の近くに、王家の墓地があった。
そこには、Danausの娘Hypermnestraと彼女の夫Lynceus、Amphiarausの母Hypermnestra、Biasの子Talausの墓があった。[233]
Spartaの町の2つの王家(Agiadae、Eurypontidae)の墓所は離れた所にあった。[234]
しかし、Argosの町の3つの王家(Anaxagoridae、Melampodidae、Biantidae)の墓は、一か所にあったことになる。

21.5 Trojan War
BC1188年、Antenorの息子たちが、Laomedonの子Priamの息子たちを追放して、Iliumの町を占領した。Priamの息子たちは、Hellespontの利用を通して友好関係にあったAchaeansに援軍を要請した。
Achaeansは、Peleusの子Achillesを総大将にしてTroy遠征軍を編成した。
次のことから、この遠征に、Argivesも参加したと推定される。
1) Pausaniasは、Cyanippusの後見人として、Tydeusの子DiomedesがTroyへ遠征したと伝えている。Diomedesは、Cyanippusの伯父であり、Cyanippusは、当時、未成年者であった。
2) Homerは、Argivesを率いた将を3人列挙している。[235]
つまり、Tydeusの子Diomedes、Capaneusの子Sthenelus、Mecisteusの子Euryalusであった。彼らは、Argos3王家の中のAnaxagoridaeとBiantidaeを代表していた。
しかし、もう一つの王家であるMelampodidaeの将が記されていない。
当時、Melampodidaeの王であったAmphiarausの子Alcmaeonは、Acarnania地方へ移住して、Argosの町に住んでいなかった。
PausaniasやHomerが伝えていることは、当時の実情に合致しており、ArgivesもTroy遠征に参加したと推定される。

22 Sthenelusの子Cylarabesの時代 (1186-1165 BC)
22.1 Italyへの移住
Troy遠征から帰還したDiomedesは、祖父Oeneusの旧領Aetolia地方へ移住した。[236]
BC1184年、Diomedesは、Aetolia地方から海を渡ってItaly半島東岸Apulia地方へ移住した。[237]
Apulia地方北西部のDriumと呼ばれる丘の近くにCalchasの英雄廟と、Podaleiriusの英雄廟があった。[238]
Thestorの子CalchasやAsclepiusの子Podalirus (or Podalirius, Podaleirius)と共にTroyへ遠征したDiomedesが、彼らの英雄廟を建てたと推定される。

22.2 Doriansによる占領
BC1173年、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansが、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[239]
近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[240]
Doriansは、TirynsやMideaの町も破壊した。[241]
Argosの町もDoriansによって、一時占拠されたと推定される。
その後の戦いでDoriansは撃退されるが、Peloponnesus内は荒廃した。

22.3 Argosの3王家の消滅
Argosの町の3王家、Anaxagoridae、Melampodidae、Biantidaeは、つぎのようにして、Argosの町から消滅した。
BC1247年、MelampodidaeとBiantidaeの大部分の人々は、Oeclesの子Amphiarausによって、Argosの町から追放されて、各地へ移住した。
BC1238年、BiantidaeのAdrastusは、Amphiarausと和解して、Argosの町へ帰還した。[242]
BC1204年、Amphiarausの息子たち、AlcmaeonとAmphilochusの移住を最後に、Argosの町からMelampodidaeはいなくなった。
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、Aetolia地方へ移住した。[243]
Diomedesの母Deipyla (or Deipyle)は、Biasの子Talausの子Adrastusの娘であり、Diomedesは、Biantidaeに所属していた。
その後、Aegialeusの子Cyanippusが跡継ぎを残さずに死んで、Biantidaeは断絶した。[244]
BC1165年、Sthenelusの子Cylarabesが子供を残さずに死んで、Anaxagoridaeは断絶した。[245]
Inachusの子Phoroneusから585年続いたArgosの王統が断絶した。

23 Orestesの子Tisamenusの時代 (1165-1107 BC)
23.1 Orestesによる併合
BC1165年、Argosの町の王家が断絶するとAgamemnonの子Orestesは、Argosの町を占領した。[246]
Orestesは、Arcadia地方のTegeaの町に住んでいた。[247]
その後、Orestesは、Argosの町を彼の息子Tisamenusに任せた。[248]

23.2 Doriansによる占領
BC1110年、Orestesの子Tisamenusは、Aristomachusの子Temenus率いるDoriansとの戦いに敗れてArgosの町に籠城した。[249]
Temenusは、Argosの町の南のTemeniumに砦を築いて、Argosの町を包囲した。[250]
このとき、Diomedesの後裔Erginusが、Argosの町の守護神Palladium像を盗み出して、Temenusに協力した。[251]
Diomedesの死後、彼の息子Amphinomusは、Italy半島からAetolia地方へ移住し、Amphinomusの子Erginusは、Argosの町に住んでいた。[252]
ErginusとTemenusには、Calydonの町のOeneusを共通の祖とする親戚関係があった。
BC1107年、Tisamenusは、Argosの町をTemenusに明け渡し、Spartaの町へ移った。
BC1104年、Heracleidaeは、TisamenusがAchaia地方へ移住した後で、獲得した領土を分け合い、Temenusは、Argosの町を獲得した。[253]

24 Aristomachusの子Temenusの時代 (1107-1100 BC)
24.1 Epidaurusの占領
BC1102年、Temenusの娘婿、Antimachusの子Delphontes (or Deiphontes)は、Argosの町からEpidaurusの町へ遠征して、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusから町を奪った。[254]
Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensの町へ移住した。[255]
Delphontesは、Attica地方のTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。[256]

24.2 Temenusの死
BC1100年、Temenusは、彼の娘Hyrnethoと彼女の夫Deiphontesとを偏愛したため、息子たちに殺された。[257]

25 Temenusの子Ceisus以降の時代
Temenusの跡を彼の息子Ceisusが継いだ。[258]
Ceisusは、散らばって住んでいた人々を集めて、新しいArgosの町を建設した。[259]

25.1 Phliusの占領
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、Phliusの町を攻めて町を占領した。[260]
Phliusの町の有力者Hippasusは、Samos島へ移住した。[261]

25.2 Aepytusへの援軍
Heracleidaeが獲得した領土を分け合ったとき、Messenia地方は、Aristomachusの子Cresphontesに割り当てられた。[262]
しかし、Cresphontesは、Polyphontesによって殺され、王位は簒奪された。[263]
BC1073年、 Temenusの子Isthmiusは、Cresphontesの子AepytusがMessenia地方へ帰還させるために、Argosの町から援軍を派遣した。[264]

25.3 Rhodesへの移住
BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてCrete島に植民した。[265]
その後、Althaemenes本人は、Rhodes島へ移住してLindos、Ialysos、Kameirosという3つの町を建設した。[266]
BC1213年、Tlepolemusが、Tirynsの町からRhodes島へ移住して、同じ3つの町を建設しているので、Althaemenesは彼らの子孫たちと共住したと思われる。[267]
Althaemenesの植民団には、Megaraの町を建設したDoriansも参加していた。[268]
Rhodes島の支配者は、Telchines、Heliadae、Phoenicians、Cariansへと変わり、そして、DoriansがRhodes島の支配者になった。[269]
Greeceの7賢人の一人、Rhodes島のLindosの町のCleobulusはHeraclesの後裔であったことから、Althaemenesの後裔と推定される。[270]
Rhodes島のDoriansは、その後、Halicarnassus、Cnidus、Cosへも移住した。[271]

25.4 Spartaとの戦い
BC870年、Spartaの町のAgisの子Echestratusは、Laconia地方とArgolis地方の境付近にあるCynuriaの町から壮年男子を追放した。[272]
BC860年、Argosの町のThestiusの子Meropsは、Cynuriaの町をめぐってEchestratusの子Labotasと戦ったが勝敗は付かなかった。[273]

25.5 Argosの黄金時代
BC760年、Aristodamisの子Pheidonは度量衡を定め、銀貨を鋳造した。[274]
Pheidonは、Corinthの町までも支配下に置いた。[275]
BC748年、Pheidonは、Eleia地方にも影響力を及ぼし、Argosの町と友好関係にあったPisaの町は、Olympiadを開催した。[276]

25.6 Macedoniaへの移住
BC750年、Pheidonの子Caranusは植民団を率いて、Macedonia地方のMt. Bermius近くのEdessa (後のAegeae)の町へ移住した。[277]
Caranusの移住先選定には、Pheidonの銀貨鋳造が深く関係していたと思われる。
当時、Paeonia地方は土を掘れば金の塊が見つかると言われていた。[278]
Caranusは最初に、Pieria地方の住人を追い出した。追い出されたPieriansは、Strymon川を越えてMt. Pangaeus付近へ移住した。[279]
Caranusは隣接する地方の支配者Cisseusと戦って勝利した。[280]
Cisseusは、Troy遠征の物語に登場するIphidamasの祖父Cisseusの後裔と推定される。[281]

25.7 Heracleidae最後の王
BC745年、Pheidonが死んで、彼の息子Eratusが跡を継いだ。
BC745年、Sparta王Charillusの子NicanderがArgolis地方を荒らした。[282]
Eratusは、Spartaの町に味方したAsineの町を攻撃して、町を破壊した。[283]
BC720年、Pheidonの子Eratusの跡をPheidonの子Leocedes (Lacedas)の子Meltasが継いだ。
Meltasの時代に、王制が廃止された。Meltasは、Heracleidae最後のArgos王になった。[284]

おわり