第21章 アルゴスの青銅器時代の歴史

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Create:2023.3.13, Update:2024.2.19

1 はじめに
ArgolisにGreeksがはじめて住んだのは、BC1750年に発生した「Ogygus時代の大洪水」の時であった。Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。
Inachusの2人の息子たち、Aezeius (or Aegialeus)とPhoroneusに率いられた人々はPeloponnesus半島に入った。
Aegialeusは半島北側の海岸地方に、Phoroneusはさらに南へ進んで平野の端の小高い丘(後のLarisa)の東側に定住した。[1]
Aezeiusが創建した町は、Aegialus (後のSicyon)と呼ばれ、Phoroneusが創建した町はPhoroneus (後のArgos)と呼ばれた。[2]
その後、初代Athens王Cecropsに追われたColaenusが、Attica地方のMirinousからMessenia湾入り口西側にColonidesの町を創建した。[3]
ColonidesのPeloponnesus入植は、Inachusの息子たちの入植の約200年後であった。

2 Inachusの子Phoroneusの時代
BC1世紀の年代記作者Castorによれば、初代Argos王は、Inachusであると記されている。しかし、Argosの町を最初に治めたのは、Inachusの子Phoroneusであった。[4]
Phoroneusの時代、既にAegialusの町との戦いがあった。
TelchinesとCaryatiiは、PhoroneusやParrhasiansを相手に戦ったと記録されている。[5]
Telchinesは、Aezeiusの子Telchin (or Telchis)の部族であり、Caryatiiは、Rome時代にArcadia地方のTegeaの町に住んでいた部族である。[6]
また、Parrhasiansは、Rome時代にArcadia地方の南部に住んでいた部族である。
Parrhasiansは、多くの息子たちを各地に送り出したLycaonや、Romeに移住したEvanderが属していた名門の部族であった。[7]
BC1725年、Phoroneusの子CarはMegara地方へ移住した。[8]
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Argosの町の南東の海岸にHermioneの町を創建した。[9]

3 Phoroneusの子Apisの時代
Phoroneusの跡を継いだApisは、Aegialusの町との戦いをも継承して、その町を支配下に置いた。Castorの年代記によれば、第3代Argos王Apisは、第4代Sicyon王でもあった。[10]
Apisは、Aezeiusの子Telchinの子Thelxionによって殺された。[11]
AezeiusからThelxionまでの親子関係は、Apisとの関係から推定した。
Castorの年代記では、彼らの親子関係は不明である。[12]
Castorの年代記を参照しているPausaniasは、ApisをTelchinの息子、ThelxionをApisの息子だと記している。しかし、ApollodorosはApisに子供はいなかったと伝えている。[13]

4 Niobeの子Argusの時代
Apisの姉妹Niobeの子Argusが、Apisの跡を継いだ。[14]
Argusの父は、Phoroneusの娘Themistoの子Arcasと推定される。[15]

5 Argusの子Criasusの時代
Argusの跡は、彼の息子Criasusが継いだ。[16]
BC1645年、Criasusの兄弟Tirynsは、Tirynsの町を創建した。[17]
BC1635年、Niobeの子Pelasgusの子Lycaonの子Oenotrusは、Italy半島西南部に移住して、Pandosiaの町を創建した。[18]
Pausaniasは、Greeceから他国へ移住したのは、Oenotrusが最初であったと記している。[19]
Oenotrusの兄弟Peucetiusは、Italy半島東南部に移住した。[20]
BC1610年、Criasusの兄弟Peiras (or Peirasus, Peranthus)がthe temple of Hera in Argosを創建した。[21]
最初の巫女は、Peirasの娘Callithyiaが務めた。Hera神像は、Tirynsの梨の樹で、Argusが作ったものであった。[22]

6 Criasusの子Phorbasの時代
Criasusの跡は、彼の息子Phorbas (or Agenor, Ereuthalion, Piranthus)が継いだ。[23]

7 Phorbasの子Triopasの時代
Phorbasの跡は、彼の息子Triopasが継いだ。[24]
BC1580年、Triopasは、Rhodes島に移民団を派遣した。[25]
BC1580年、密儀祭司TrochilusがTriopasの子Agenorとの争いで、Eleusisの町へ移住した。[26]
Trochilusは、ArgosのHera 神殿の巫女Callithyiaの息子であった。[27]

8 Triopasの子Iasusの時代
Triopasの跡は、彼の息子Iasus (or Inachus)が継いだ。[28]

8.1 Argosからの大移動
BC1560年、Argosの町から各地への移住があった。この時期、Argosの町への他種族の侵入は確認されず、Argosの町の住人であるPelasgiansはその後も町に住んでいた。集中豪雨などによる河川の氾濫のような一時的な現象ではなく、気候変動などによる長期的な食糧不足が移住の原因であったと思われる。
近年、枯れ木の年輪調査から、BC1560年にThera島(現在のSantorini島)で火山の大噴火があったことが判明し、その影響で気候変動が発生したものと思われる。
Argosの町の住人は町を去って、大きく3つの集団となって各地に移住した。

8.1.1 Egypt、Lycia、Lesbosへの移住
Iasusは、彼の兄弟Xanthusや彼の娘Ioを含む移民団を率いてPeloponnesus半島から船出した。途中、XanthusはLyciaに上陸して、その地に植民した。Iasusと娘Ioを含む移民団はさらに航海を続け、Egyptに到着した。[29]

8.1.1.1 Xanthusの移住
Xanthusは移住者の一部をLycia地方のXanthus川の流域に植民した。その後、Xanthus自身は、さらに北に向かって良い土地を探すために船出した。
Xanthusに同行していたCyrnusは、Rhodes島対岸の半島にCyrnusの町を創建した。
Xanthus自身はIssa島と呼ばれていた無人島に植民した。[30]
その島は、200年後、新たな入植者であるLapithesの子Lesbosに因んでLesbos島と呼ばれるようになるまで、Pelasgia島と呼ばれた。[31]

8.1.1.2 Iasusと娘Ioの移住
Iasusの娘Ioは、Saisの町のTelegonusと結婚した。Telegonusは、1世代前にBoeotia地方からEgyptへ移住した、Saisの町の創建者の息子であった。[32]
BC4世紀の歴史家Callisthenes of Olynthusや、BC3世紀の歴史家Phanodemus of Athensは、Saisの町の住人は、Atheniansの後裔だと述べている。[33]
Ioの子Epaphusは勢力を拡大し、Memphisの町を創建した。 [34]
Herodotusは、Cranausの時代のAthensの町の住人はCranaansと呼ばれるPelasgiansであったと述べている。[35]
CranausはIoの息子であり、Ioと共にArgosの町からEgyptへ移住したPelasgiansがCranausと共にAthensの町へ移住したと思われる。[36]
IoはArgosのHera神殿の巫女であり、EgyptではIsisと呼ばれた。[37]

8.1.2 Arcadiaへの移住
Iasusの兄弟Agenorの子Pelasgusは、Argosの町から西南西70kmの所にあるArcadia地方のLycaeus山(現在のMt. Lykaion、標高1,421m)の麓に移住した。Pelasgusは食用となる樫の実を見つけて人々に教えた。[38]

8.1.3 Thessalyへの移住
Triopasの子Pelasgusの娘Larisaの一家を中心とする集団は、Thessaly地方へ移住した。[39]
Argosの町の西にあるAcropolisの名前やThessaly地方のPeneius川近くの町の名前に、このLarisaの名前が付けられた。このことから、Larisaの時代まで、Argosの町に住んでいて、息子たちを連れてThessaly地方に移住したものと思われる。[40]
Larisaと共にArgosの町からの移住したPelasgiansは、Thessaly地方北部のPeneius河畔のLarisaの町から東南の海岸地方との間の地域に住んでいた。[41]
Larisaの3人の息子たち、Achaeus、Phthius、Pelasgusの住む土地は、それぞれAchaia、Phthiotis、Pelasgiotisという名前で呼ばれるようになった。[42]

8.2 大移動後のArgos
Pausaniasは、DanausがArgosの町に現れたときに、Triopasの子Agenorの子Crotopusの子Sthenelasの子Gelanorが町を治めていたと伝えている。[43]
Danausは、Triopasの子Iasusの娘Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの息子であり、Pausaniasが伝えている系譜には、2世代の欠落がある。[44]
恐らく、文字で記録を残す者が、Argosの町を去ったのが原因と思われる。
したがって、BC1560年からBC1430年の間のArgosの町の記録は残っていない。
Crotopusの娘Psamatheの子Linusの系譜が、Tripodiscus創建の物語としてMegaraの伝承に残っていた。[45]

9 Belusの子Danausの時代 (BC1430-1420)
9.1 Danausの系譜
BC1560年、Iasusの娘IoはArgosの町からEgyptへ移住して、Saisの町のTelegonusと結婚し、Epaphusが生まれた。[46]
Epaphusの娘Libyaには、3人の息子たち、Agenor、Belus、そしてLelexがいた。[47]
Agenorの子Cadmusは、EgyptのThebesの町の住人であった。[48]
このThebesの町は、上EgyptのThebesではなく、NileDeltaにあった町と思われる。
Belusの子DanausやBelusの子Aegyptusの子LynceusはNileDeltaにあるChemmisの町の住人であった。[49]
つまり、Danausは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの息子であった。

9.2 Danausの移住
BC1430年、Belusの子DanausがEgyptからGreeceへ移住することになったのは、Egyptiansによる圧迫であったと思われる。
当時、Egyptiansの王は、第18王朝のファラオThutmose IIIであった。[50]
Thutmose IIIは、Egyptを最大版図にした征服王であり、BC1425年に死亡した。
Danausと共にEgyptを脱出したのは、兄弟Aegyptusや父Belusの兄弟AgenorやLelexがいた。
Danausの叔父Agenorは、Greeceまで行かずに、途中、Phoenicia地方のSidonの町に住み着いた。[51]
Danausは、先祖の地Argosの町へ移住した。[52]
Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部に居を定めた。Patraeの町にBelusの子Aegyptusの墓があった。[53]
Lelexは、Peloponnesus半島南部のEurotas川中流域に居を定めた。その後、息子Mylesにその地を任せて、自らはさらに土地を求めて、Megara地方に定住した。Lelexの先祖Phoroneusの子CarがArgosの町から移住した土地であった。[54]

9.3 Danausの本名
Pausaniasは彼の著書の中の5か所で、Lelexの子Polycaonと結婚したMesseneの父は、Triopasであったと記している。[55]
Triopasは、名声と権力で当時のGreeksの指導者であり、Argosの町に住んでいた。[56]
PolycaonとMesseneが結婚した頃、Argosの町を治めていたのはDanausであり、Triopasは、Danausの別名、あるいは、本名であったと思われる。
Thutmose IIIの年代記に、Greeksと推定されるDanaya (Tanaju)の土地から貢納があったと記されている。[57]
Danayaは、Danausの父Belusの種族名で、Danausは、その種族名から人の名前のように作られた造語かもしれない。
あるいは、DanausはBelusの父であり、Belusの母Libyaの夫であり、孫が祖父の名前で呼ばれていたのかもしれない。
Danausの双子の兄弟Aegyptusの名前も、Egyptを人の名前のように作った造語のように思われる。

9.4 先住者との戦い
Egyptからの移民団を率いたDanausと、当時Argosの町を支配していたSthenelas (Stheneleus, Sthenelus)の子Gelanorとの間の戦いについては、伝承が一致していない。[58]
つぎのように推定される。
Danausは、Gelanorに共住を申し込んで拒否されるが、Argosの町に内乱が起こって、Gelanorは町を追われ、Danausは共住者として受け入れられた。[59]
Gelanorは、Inachusを共通の先祖とするSicyonの町へ亡命した。[60]

10 Danausの娘婿Lynceusの時代 (BC1420-1408)
Danausの娘の名前は、12人知られているが、息子の名前は知られていない。
Danausの跡を継いだのは、Danausの長女Hypermnestraの夫で、Aegyptusの息子、Lynceusであった。[61]

10.1 Achaeansとの婚姻
Lynceus時代の初期に、後のArgosの町にとって、極めて重要な出来事があった。
BC1420年、当時、Thessaly地方のMelitaeaの町に住んでいたAchaeusが、元の居住地であるPeloponnesus北部のAegialusの町へ帰還した。[62]
Achaeusは、CadmusやThraciansの大移動に伴う混乱で、Thessaly地方を去ることになったが、後にAchaeansと呼ばれるようになる多くの人々も彼と一緒に移住した。
その後、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Danausの2人の娘たち、ScaeaとAutomateとそれぞれ結婚した。[63]

11 Lynceusの子Abasの時代 (BC1408-1387)
11.1 LamedonのArgos占領
Pausaniasは、Sicyonの町のLamedonがAchaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesと戦ったと伝えている。[64]
しかし、Sicyon王の系譜に登場するLamedonは、Archanderより2世代後の人物である。
Archanderと戦ったLamedonは、DanausによってArgosの町を追われて、Sicyonの町へ亡命したGelanorの息子であったと推定される。[65]
BC1408年、Lynceusが死に、CadmusやThraciansの侵入による住民移動の混乱に乗じて、LamedonがArgosの町を占領した。[66]

11.1.1 Abaeの創建
当時、少年であったAbasは、Phocis地方へ移住してAbaeの町を建設した。[67]
Abasの祖父Danausと共にGreeceへ移住して来た人々が、Troezenの町、Lacedaemonの町、そして、Megara地方に住んでいた。Abasが移住先をPhocis地方にした理由は不明である。

11.1.2 Arcadiaへの移住
Straboは、Arcadia地方のMantineiaの町は、Argivesによって作られた5つの集落を基に建設されたと伝えている。[68]
このMantineiaの町は、後に新市ができた時に、Ptolisの町と呼ばれるようになった旧市であったと思われる。Lycaonの子Mantineusが創建した町は、Ptolisの町の場所にあった。[69]
Mantineusの娘Aglaiaは、Lynceusの子Abasと結婚したが、Argosの町からの移住が縁であったと思われる。[70]
移住者たちを率いたのは、Aegyptusの子AntimachusとDanausの娘Mideaとの間の息子Amphianaxであった。Amphianaxの娘Antaiaの娘Maeraの墓がMantineiaの町の近くにあった。[71]
Amphianaxの父Antimachusは、Abasの父Lynceusの兄弟であり、AmphianaxとAbasは従兄弟であった。
Amphianaxの移住の動機は、Abasと同様、LamedonによるArgosの町の占領であり、彼の移住は、BC1408年の出来事と推定される。

11.2 Sicyonとの戦い
BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町を占拠していたLamedonやSicyonの町と戦って勝利した。[72]
この戦いには、Locris地方のDeucalionの子Marathoniusも参加し、Sicyonの町のOrthopolisの娘Chrysortheと結婚した。[73]
Marathoniusの父Deucalionの父Dorusは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟であり、MarathoniusはArchanderの又従兄弟であった。
さらに、Aeolusの子SisyphusもArchanderに加勢し、戦いの後でSicyonの町の東側にEphyra (後のCorinth)の町を創建した。[74]
Sisyphusの父Aeolusは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟であり、SisyphusはArchanderの父の従兄弟であった。
Archanderは、Abaeの町からLynceusの子AbasをArgosの町に呼び戻し、まだ少年であったAbasの後見人になった。[75]
Archanderは、Abasの母Hypermnestraの姉妹の夫であり、Abasの義理の叔父であった。[76]
この戦いの後で、Archanderと共に多くのAchaeansがArgosの町に住むことになった。

11.3 AchaeansのMesseniaへの移住
BC1405年、Lacedaemonの町のLelexの子Polycaonが、Messenia地方へ移住してAndaniaの町を創建した。町の建設には、Polycaonの妻Messeneの出身地Argosの町から大勢の人々が参加した。[77]
その人々は、少し前にArchanderと共にThessaly地方からAegialusの町を経由して、Argosの町へ移住したAchaeansであった。
後に、Polycaonの後裔が絶えたとき、Andaniaの町の住人は、Thessaly地方から継承者を迎えている。[78]
この移住により、Achaeansは、Corinthの町からMessenia地方のAndaniaの町まで、広く居住するようになった。

11.4 ArchanderのEgypt移住
BC1402年、Abasの後見が終わると、Achaeusの子Archanderは、Egyptへ移住して、NileDeltaにArchandropolisの町を創建した。[79]
その町は、Archanderの妻Scaeaが幼少期を過ごしたChemmisの町から南西約40kmの所にあった。[80]
Archanderには、Thessaly地方で結婚した妻Cyreneや息子Aristaeusも同行した。[81]

12 Abasの子Proetusの時代 (BC1387-1370)
12.1 Acrisiusの追放
BC1387年、Lynceusの子Abasが死ぬと、Abasの子Proetusは、彼の双子の兄弟AcrisiusをArgosの町から追放した。[82]
2人は、当時、13歳と推定され、自らの意志による行動ではなく、両者を担いだ勢力による党派争いであった。
当時のArgosの町の住人は、大きく分けて2つの集団があった。
1つは、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesと共にThessaly地方からArgosの町に移住して来たAchaeansである。
もう1つは、Aeolisの支配者に代わったSicyonの町から、同族を頼って、移住して来た古くからのSicyonの住人であった。
Proetusは、Sicyonの町の海辺にHera神殿を創建している。[83]
このことから、Proetusの支持者は、Argosの町に新しく住人となったSicyonの町からの移住者と、古くからのArgosの町に住んでいたPelasgiansであったと推定される。
一方、Acrisiusを支援したのは、Achaeansであった。

12.2 追放後のAcrisius
Argosの町を追われたAcrisiusは、少し前にArgosの町からEgyptに移住した、父Abasの後見人Archanderのもとへ行き、17年間、身を寄せた。[84]
Acrisiusは、ArchanderとScaeaとの娘と推定されるAganippeと結婚し、娘Danaeが生まれた。[85]
AcrisiusはEgyptで、帰国の機会を待っていた。Acrisiusに協力したのは、Naupliaの町の創建者Naupliusであったと推定される。[86]
Naupliusの母は、Danausの娘Amymoneであり、彼の父は、Danausと共にArgosの町に移住して来たEgyptianであった。[87]
Naupliusの後裔Dictysは、Seriphus島に住み、後に、Acrisiusの孫Perseusの庇護者になった。[88]

13 Abasの子Acrisiusの時代 (BC1370-1339)
13.1 Acrisiusの帰還とProetusとの戦い
BC1370年、AcrisiusはArgosの町を追われてから17年後に帰国に成功し、Proetusから町を奪い返した。[89]
ProetusはLycia地方へ亡命したという伝承もあるが、Iobatesの娘婿になったBellerophonと混同している。後に、ProetusがLycia地方から城壁作りの職人集団Cyclopesを招いたことから、混乱した伝承が生まれたと思われる。[90]
Proetusの亡命先は、彼の母Aglaiaの出身地であるArcadia地方のMantineiaの町であった。[91]
Mantineiaの町のAmphianaxは、Proetusの父Abasの父Lynceusの兄弟Antimachusの息子であった。つまり、Amphianaxは、Proetusの父の従兄弟であった。
Mantineiaの町で、ProetusはAmphianaxの娘Steneboeaと結婚した。[92]
Steneboeaは、Proetusの又従兄妹であった。
BC1368年、ProetusはAmphianaxの援助を得て、Tirynsの町を占拠した。[93]
Proetusは、Argosの町のAcrisiusと戦ったが勝敗はつかなかった。[94]
両者は、AcrisiusがArgosの町を領し、ProetusがTirynsの町やHeraeumの町、Mideiaの町、およびArgolis地方の沿海部を領することで和解した。[95]
その後、ProetusはLycia地方からCyclopesを招いてTirynsの町の城壁を強化した。[96]

13.2 Acrisiusの後継者Perseus
AcrisiusにはPhilammonという息子がいたが、Delpiを荒らしたPhlegyansとの戦いで戦死した。[97]
Phlegyansとの戦いは、住民に多くのAchaeansを抱えるAcrisiusがAmphictyonsの一員として実施したものであった。後に、Acrisiusは、Amphictyonsを組織化した。[98]
また、Acrisiusには、Inachus川の近くの山の名付け親になったApesantusという名前の息子がいたが、事故で死んだ。[99]
BC1349年、後継ぎを失ったAcrisiusは、Egyptに住むDanaeの息子Perseusを自身の後継者とするためにArgosの町に連れ帰った。Perseusは、母Danaeのもとから無理やり連れ去られたという伝承もあるが、Danaeにはもう一人の息子Daunusがいた。[100]
BC1343年、PerseusはAcrisiusの兄弟Proetusを殺害し、Seriphus島へ亡命してDictysと妻Clymeneの庇護を受けた。[101]
Dictysは、Danausの娘Amymoneの子Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの息子であった。[102]
Naupliusは、Naupliaの町の創建者であり、彼の父は、Danausと共にEgyptからPeloponnesus半島へ移住して来た。DictysとPerseusは、Danausの娘を先祖に持つ同族であった。[103]
AD2世紀の著述家Apollodorosは、恐らく、BC7世紀の叙事詩人Hesiodを参照して、DictysとPolydectesは、Aeolusの子Magnesの息子たちであると伝えている。しかし、Hesiodは、彼らとPerseusやSeriphus島との関係は記していない。[104]
Seriphus島は、Naupliaの町から近く、漁業の拠点であり、Argosの町からCrete島などへの航路の補給地になっていたと思われる。

13.3 Perseusの結婚
Perseusは、Ethiopiansの土地に住むBelusの子Cepheusのもとへ行き、彼の娘Andromedaと結婚した。[105]
Ethiopiansの土地は、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近にあった。そこにはMemnon村があり、Ethiopiansを率いてTroyに駆け付けたTithonusの子Memnonの墓があった。[106]
体躯や容貌がEgyptの南に住むEthiopiansに似ていたために、Aesepus川の河口付近の住人も、Ethiopiansと呼ばれていたものと思われる。
CepheusはEgyptからの移民であり、PerseusとAndromedaとの結婚からつぎのように推定される。
Cepheusの父Belusは、Egyptに住んでいたGreece系Egyptianであった。Belusの父はArgosの町からEgyptに移住し、NileDeltaにArchandropolisの町を創建したAchaeusの子Archanderと推定される。そして、Perseusの父は、Archanderの子Metanastesの子Pilumnusであったと思われる。[107]
つまり、PerseusとAndromedaとは又従兄妹であった。

13.4 医術の伝来
Suda辞典は、EgyptianのApisがGreeceに医学をもたらし、Asclepiusがその技術を発展させたと伝えている。[108]
Aeschylusは、ApisがArgivesの土地の向こう岸のNaupactusからやって来て、疫病を治療したと記している。[109]
両者のApisは同一人物と思われる。
しかし、Ozolian Locris地方のNaupactusの町は、Heracleidaeの帰還時にできた町である。[110]
Asclepiusは、Heracleidaeの帰還より前の人物であり、Sudaによれば、ApisはAsclepiusより前の人物である。
Aeschylusが記しているNaupactusは、Naupliaの誤りであるとすれば、ApisとAsclepiusの関係は、つぎのように推定される。
Naupliaの町の創建者は、Danausの娘Amymoneの子Naupliusであり、その町の住民はEgyptから移住して来た人々であった。[111]
医学の知識を持ったApisは、AcrisiusまたはPerseusに同行してEgyptからGreeceに来たと推定される。[112]
Acrisiusは、Lacedaemonの娘Eurydiceと結婚しているが、Eurydiceの兄Amyclasの妻は、Thessaly地方に住むLapithsの始祖Lapithusの娘Diomedeであった。[113]
Asclepiusは、Diomedeの兄弟Periphasの子Elatus(or Eilatus)の子Ischysの息子であった。Apisの医学の知識は、最初にLapithsに伝わり、その後、Asclepiusがその技術を発展させたと推定される。[114]

13.5 Acrisiusの死
Acrisiusの死についての伝承は多いが、いずれも作り話である。[115]
Acrisiusは61歳で死に、Larissaに埋葬された。
そのLarissaは、PausaniasやApollodorosが伝えているThessalyのLarissaの町ではなかった。[116]
Acrisiusの墓は、Argosの町のAcropolisにあるAthena神殿にあった。[117]
Argosの町のAcropolisは、Larissaと呼ばれていた。[118]

14 Proetusの子Megapenthesの時代 (BC1339-1310)
14.1 Mycenaeとの対立
BC1339年、Acrisiusが死去すると、Proetusの子Megapenthesは、Argosの町に移り住んだ。[119]
Megapenthesは、Argos王Abasの直系の孫であり、傍系の曾孫であるPerseusよりもArgivesに歓迎されたと思われる。
BC1334年、Perseusは、Seriphus島のDictysやEthiopiansの力を借りて、Peloponnesus半島へ帰還した。Perseusは、Argosの町を追われたAchaeansと共に、Tirynsの町を奪い、Argosの町を挟むようにMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[120]
BC1310年、MegapenthesはPerseusを殺害して、父Proetusの仇を討った。[121]
AcrisiusとPerseusの時代から続く対立は、Argivesの町Argosと、Achaeansの町Mycenaeとの対立へと続いた。
BC1217年にMycenaeの町のEurystheusがAttica地方に住むHeraclesの息子たちを攻めたとき、ArgivesはEurystheusに援軍を出さなかった。
また、BC1215年のArgivesによるThebes攻めのとき、Mycenaeansは遠征に参加しなかった。[122]

14.2 Abaeとの対立
Lynceusの子Abasが創建したAbaeの町については、創建後の消息が不明である。
しかし、その消息を知る手掛かりが3つある。

1) Straboは、Euboea島のAbantesは、Phocis地方のAbaの町から島に渡ったThraciansであったという説を紹介している。[123]
2) Hyginusは、「Abasは父Lynceusのことで、Megapenthesを殺した」と伝えている。[124]
3) Aristippusは「The history of Arcadia」の中でAbasの子Deucalionに言及している。[125]

以上の手掛かりからつぎのように推定される。
Lynceusの子Abasは、Arcadia地方のMantineiaの町から妻を迎えており、Arcadia地方と関係が深かった。
Aristippusが言及しているDeucalionは、Lynceusの子Abasの息子であり、父が創建したAbaeの町を継承した。
Megapenthesを殺したAbasはChalcodonの父であり、Abasの父は、Megapenthesに殺されたLynceusであった。
そのLynceusは、Abaeの町を継承したDeucalionの息子であり、AcrisiusとProetusの争いでは、Acrisiusに味方していたものと思われる。
つまり、Euboea島のAbantesの名祖は、Acrisiusの兄弟Deucalionの子Lynceusの子Abasであった。
BC1310年、AbasはPhocis地方のAbaeの町からEuboea島のChalcisの町へ移住した。

15 Argeusの子Anaxagorasの時代
15.1 Argosの割譲
AnaxagorasがArgosの町を継承したとき、Mycenaeの町は、Perseusの子Sthenelusが治めていた。Sthenelusは、Pelopsの娘Nicippe (or Archippe)を妻に迎え、彼の2人の兄弟もPelopsの娘を妻にして、Mycenaeの町は勢力を増しつつあった。[126]
BC1290年、Argosの町のArgeusの子Anaxagorasは、叔母Iphianeiraの夫Melampusと彼の兄弟Biasに、Argosの町の一部を割譲して、Mycenaeの町に対抗しようとした。[127]

15.2 Boeotiaへの移住
BC1275年、 Argosの町に住むHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺害するという事件が起きた。Hyettusは、Boeotia地方へ移住し、Minyasの子OrchomenusにCopais湖の北側の土地を分けてもらい、Hyettusの町を創建した。[128]
Minyasの子Orchomenusは、Aeolisに属することから、Hyettusは、同じAeolisに属するBiasの息子と思われる。[129]

15.3 Calydonへの移住
このHyettus事件は、Melampusの2人の息子たち、Abas (or Manto, Mantius)とMantius (or Antiphates)との対立を生んだ。
BC1264年、Mantiusは叔母Aeoliaの嫁ぎ先であるCalydonの町へ逃れた。[130]
Aeoliaの夫Calydonの父Aetolusは、Melampusの父Amythaonの祖父Salmoneusによって、Elisの町を追われた人物であった。しかし、Elis出身者を多く住民に抱えるAetolusの子Calydonは、Elisの町との関係改善を図ろうとして、Amythaonの娘Aeoliaを娶ったものと思われる。
Calydonが結婚した当時、Elis王は、Augeasの父Eleiusであったと思われるが、彼もSalmoneusの孫で、Amythaonの従兄弟であった。[131]
その後、Mantiusの子Oecles (or Oicles、Oileus、Oecleus)は、Pleuronの町のThestiusの娘Hypermnestraと結婚した。[132]
Amythaonの娘Aeoliaは、Thestiusの父Pleuronの兄弟Calydonの妻であり、Oeclesは、祖父Melampusの姉妹Aeoliaの義理の甥Thestiusの娘と結婚したことになる。

16 Anaxagorasの子Alectorの時代
16.1 Dionysus (Oenarus)の訪問
BC1250年、Dionysusの儀式を伝える一行がArgosの町を訪問した。[133]
一行を率いたのは、Naxos島のDionysusの神官Oenarusと彼の妻Ariadneであった。
彼らの集団には、Oenarusの娘たちとNaxosの子Leucippusの娘たちがいた。[134]
彼らを招いたのは、Amythaonの子Melampusであった。[135]
Minosの娘Ariadneは、この旅の途中で客死し、Argosの町に埋葬された。[136]

16.2 Calydonからの帰還
BC1247年、Melampusの子Mantiusは息子Oeclesや孫Amphiarausと共に、Argosの町に帰還した。[137]
Mantius一家は、自分たちをArgosの町から追い出したMelampusの子Abasや、彼に味方したBiasの後裔と戦った。Biasの子Talausは、Oeclesの子Amphiarausに殺された。[138]
戦いに敗れた者たちは、Argosの町から各地へ移住した。

16.2.1 Eurystheusの協力
Mantiusの帰還には、つぎの理由からMycenaeの町のEurystheusが協力したと推定される。

1) 後のHeraclesのElis攻めにMantiusの子Oeclesが参加した。
2) HeraclesをCalydonの町から退去させるために、EurystheusがOeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonの町のOeneusに圧力をかけたと思われる。

Mycenaeの町とArgosの町は対立していたが、Mantiusは、対立の原因となったProetusの子Megapenthesの後裔ではなかった。

16.2.2 各地への移住
Abasの子Polypheidesは、Achaia地方のHyperesiaの町に移住した。[139]
Abasの子Coeranus(or Cleitus)は、Corinthの町へ移住した。[140]
Abasの子Idmonの子Thestorは、Megaraの町へ移住した。[141]
Abas自身は、Thessaly地方のLarissaの町の近くのPhyllusの町へ移住した。[142]
Phyllusの町は、Abasの父Melampusが生まれた町であった。[143]
また、Biasの子Talausの子Adrastusは、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[144]
Adrastusの母Lysianassaは、Polybusの娘であり、PolybusはAdrastusの祖父であった。[145]
さらに、Melampus自身もArgosの町を去り、Megara地方へ移住し、Cithaeron山近くのAegosthenaの町で没した。[146]

16.3 HeraclesのElis攻め
BC1241年にHeraclesがElisの町のAugeasを攻めた際に、Argivesも参加していた。[147]
Argivesを率いたのは、Melampusの子Mantiusの子Oeclesであった。当時、Argosの町の内紛で、MelampusとBiasの後裔は、Oecles一族しかArgosの町に残っていなかった。[148]
Oeclesは、HeraclesとTroyへ遠征して、Laomedonに殺されたと伝えられている。[149]
Pausaniasは、そのOeclesの墓がArcadia地方にあったことに疑念を抱いている。しかし、OeclesがHeraclesと共に遠征したのは、Troyではなく、Elisの町であった。[150]
Elis攻めの後で、HeraclesがCalydonの町を次の移住先にしたのは、Oeclesから聞き及んでいたためと推定される。[151]
Oeclesは、父Mantiusと共にArgosの町から逃れて、Calydonの町に20年以上住んでいた。[152]

17 Thebes攻めの時代
17.1 AdrastusのArgos帰還
BC1238年、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命していたAdrastusはAmphiarausと和解して、Argosの町へ帰還した。[153]
Amphiarausの父OeclesがHeraclesのElis攻めに参加して死んだことや、Mycenaeの町の脅威が増したことが帰還を可能にした要因であった。[154]
Amphiarausは、Adrastusの姉妹Eriphyleと結婚した。[155]
AmphiarausとEriphyleは、Amythaonを共通の先祖とする同族であった。

17.2 AdrastusのSicyon王継承
BC1236年、AdrastusはSicyonの町から招かれて、祖父Polybusの跡を継いだ。[156]
BC1232年、Adrastusは、Clytiusの後裔Ianiscusに譲位してArgosの町に帰還した。[157]

17.3 Tydeusの亡命
BC1226年、Oeneusの子Tydeusは、Calydonの町からAdrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Deipylaと結婚した。[158]
Tydeusの父Oeneusの母Aeoliaは、Adrastusの父Talausの父Biasの姉であった。つまり、TydeusとAdrastusは、Amythaonを共通の曾祖父とする又従兄弟であった。[159]

17.4 Polyneicesの亡命
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、Thebesの町からAdrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Argiaと結婚した。[160]
Polyneicesの父Oedipusの養父は、Adrastusの母方の祖父Polybusであり、PolyneicesとAdrastusは面識があったと思われる。[161]

17.5 Oedipusの葬儀
BC1223年、Oedipusの葬送競技会がThebesの町で開催され、Adrastusの兄弟Mecisteus が参加した。[162]
Adrastusのもとへ亡命中のPolyneicesは、彼の妻ArgeaをOedipusの葬儀に参列させた。 [163]
Mecisteusの母Lysianassaの父Polybusは、Oedipusの養父であり、MecisteusとOedipusは親戚関係にあった。
Oeclesの子AmphiarausもArgeaに同行して、Oedipusの埋葬に参加した。[164]
Polyneicesの妻Argeaの弔問がきっかけで、PolyneicesはEteoclesに招かれてThebesの町に帰還するが、両者の仲は修復しがたいものになった。

17.6 AdrastusのThebes攻め
Adrastusは、Polyneicesを帰還させるためにThebesの町へ遠征した。Argosの町からの参加者は、つぎのとおりである。[165]
Adrastusの娘Deipyla (or Deipyle)の夫、Oeneusの子Tydeus。
Adrastusの姉妹Astynomeの息子、Hipponousの子Capaneus。
Adrastusの姉妹Astynomeの子Capaneusの妻Evadneの兄弟、Iphisの子Eteoclus。
Adrastusの姉妹Metidiceの息子、Mnesimachusの子Hippomedon。
Adrastusの姉妹Eriphyleの夫、Oeclesの子Amphiaraus。
Adrastusの兄弟、Talausの子Mecisteus。
Adrastusの兄弟、Talausの子Parthenopaeus。
BC1215年、AdrastusはArgivesを率いて、Argosの町を出発して陸路で、Cithaeron山を越え、Electran gateの外で待ち受けるThebansと戦って敗れた。[166]

17.7 EpigoniのThebes攻め
BC1205年、AdrastusのThebes攻めから10年後、Amphiarausの子Alcmaeonを指揮官とするArgivesは、再び、Thebesの町へ遠征した。[167]
Alcmaeon率いるArgivesは海路でAulisの町に着き、そこからThebesの町を目指した。[168]
Eteoclesの子Laodamasは、Thebesの町から出陣して、Glisasの町に陣を敷いていた。[169]
Glisasの町で戦いがあり、Argivesが勝利した。この戦いで、Adrastusの子Aegialeusや、Parthenopaeusの子Promachusなど多くの者が戦死した。[170]
Polyneicesの子Thersanderは、Thebes王に即位した。[171]

17.8 Alcmaeonの移住
BC1204年、Amphiarausの子Alcmaeonは捕虜にしたThebesの町の人々の希望を受けて遠征した。Eteoclesの子Laodamasが移住したIllyriaを目指すが、途中、捕虜たちの一部はAchelous川河口付近にAstacusを創建した。[172]
Alcmaeonは残りの捕虜たちをIllyriaへ送り出した後で、Alcmaeon自身は、Ambracia湾近くにArgos (後のArgos-Amphilochicum)の町を創建した。[173]

17.9 DiomedesのAetolia遠征
BC1202年、Tydeusの子DiomedesはAetoliaへ遠征して、Calydonの町を追われた祖父Oeneusの領地を奪い返した。[174]
この遠征に、DiomedesはEpigoniを率いたAmphiarausの子Alcmaeonを協力者にしたとも伝えられる。[175]
しかし、Oeneusの追放者は、PleuronのParthaonの子Agriusと彼の息子たちであった。
彼らは、Alcmaeonの祖父Oecleusの妻であるPleuronの町のThestiusの娘Hypermnestraを通して、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係にあった。[176]
Alcmaeonが親族を相手の戦いに参加したとは思われない。
Hygniusは、Capaneusの子SthenelusがDiomedesと共にAetolia地方へ遠征したと伝えている。DiomedesとSthenelusの友情関係から見て、Diomedesの協力者は、Sthenelusであったと思われる。[177]
Diomedesは、Oeneusの娘Gorgesの夫で、Amphissaの町に住むAndraemonにAetolia地方を任せた。[178]

17.10 Argos王家の墓
Pausaniasは、「Delta」と呼ばれる場所に、Argos王家の墓地があったと伝えている。[179]
そこには、Danausの娘Hypermnestra、Amphiarausの母Hypermnestra、Biasの子Talausの墓があった。
つまり、Argos3王家の墓が一か所にあったことになる。

18 Trojan Warの時代
18.1 Argosからの参加者
HomerのIliadには、Achaeansの他に、ArgivesやDanaansが多く登場する。
しかし、Argosの町からの参加者に、Troyに墓がある、あるいは、Asia Minorへ移住したなど、Troy遠征に参加したという証拠がある者がいない。
つぎの人物が遠征に参加した後で、他へ移住したとも伝えられるが、これに該当しない。
Argivesは、Trojan Warに無関係であったと推定される。

18.1.1 Thestorの子Calchas
Calchasの父Thestorの父Idmonは、Melampusの子Abasの息子であり、Argosの町に住んでいた。[180]
BC1247年、Argosの町の内紛で、Melampusの子Abas一族は各地へ移住した。
Abasの子Idmonの子Thestorは、Megaraの町へ移住した。[181]
Thestorの子Calchasは、Argivesではなく、Telamonの子Ajaxと共にTroy遠征に参加した。[182]

18.1.2 Amphiarausの子Amphilochus
多くの史料で、Amphiarausの子AmphilochusはTroy遠征に参加したと伝えられている。[183]
しかし、Asia MinorのColophonの町で生まれ、Cilicia地方のMallusの町で死んだAmphilochusと混同されている。[184]
このAmphilochusは、Amphiarausの子Amphilochusではなく、彼の兄弟AlcmaeonとTiresiasの娘Mantoの息子であった。[185]
Amphiarausの子Amphilochusは、兄弟Alcmaeonと共にGreece北西部へ移住して、Trojan War時代には、Argosの町に住んでいなかった。

19 Trojan Warの後の時代
19.1 Diomedesの移住
伝承では、Tydeusの子Diomedesは、Troyから帰郷後、妻の不貞を知り、Argosの町を去ったと伝えられている。[186]
しかし、DiomedesはTroyへは行っておらず、彼の移住の原因は、Mycenaeの町による圧迫であったと思われる。
Diomedesは、祖父Oeneusの旧領Aetolia地方へ行くが、BC1184年、そこから海を渡ってItaly半島東岸Apulia地方へ移住した。[187]

19.2 Argosの3王家の消滅
Argosの町の3王家は、つぎのようにして、Argosの町から消滅した。
Melampous王家は内紛で徐々に、Argosの町から他へ移住したが、BC1204年のAmphiarausの息子たちの移住が最後であった。
BC1184年、Tydeusの子DiomedesがAetolia地方へ移住した。[188]
Diomedesの母Deipyla (or Deipyle)は、Biasの子Talausの子Adrastusの娘であり、Diomedesは、Bias王家の一員であった。
その後、Aegialeusの子Cyanippusが跡継ぎを残さずに死んで、Bias王家は断絶した。[189]
BC1176年、Sthenelusの子Cylarabesが子供を残さずに死んで、Anaxagoras王家が断絶した。[190]
Mycenaeの町のAgamemnonの子OrestesによってArgosの町は占領された。[191]

20 Heracleidaeの帰還の時代
20.1 Argosの占領
BC1110年、Orestesの子Tisamenusは、Heracleidaeとの戦いに敗れてArgosの町に籠城した。[192]
Heracleidaeを率いるAristomachusの子Temenusは、Argosの町の南のTemeniumに砦を築いて、Argosの町を包囲した。[193]
このとき、Diomedesの後裔Erginusが、Argosの町の守護神Palladium像を盗み出して、Temenusに協力した。[194]
Diomedesの死後、彼の息子Amphinomusは、Italy半島からAetolia地方へ移住し、その息子ErginusはArgosの町に住んでいた。[195]
ErginusとTemenusには、Calydonの町のOeneusを共通の祖とする親戚関係があった。
BC1107年、TisamenusはArgosの町をTemenusに明け渡し、Spartaの町へ移った。

20.2 MycenaeとTiryns
Mycenaeの町のOrestesは、Argosの町を占領した後で、Arcadia地方の大半も支配下に置いてTegeaの町へ移住した。[196]
その後のMycenaeの町やTirynsの町の動向は不明である。
恐らく、守りの堅い2つの町のAchaeansは籠城して、Doriansは攻め落とせなかったものと思われる。
Doriansの町になったArgosが、後に、2つの町を滅ぼしたことがそれを証明している。[197]

20.3 Epidaurusの占領
BC1102年、Temenusの娘婿、Antimachusの子Delphontes(or Deiphontes)は、Epidaurusの町を攻めて、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusから町を奪った。[198]
Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensの町へ移住した。[199]
Delphontesは、Attica地方のTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。[200]

20.4 Phliusの占領
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、Phliusの町を攻めて町を占領した。[201]
Phliusの町のHippasusは、Samos島に移住した。[202]

21 DoriansのArgosの時代
21.1 Temenusの子Ceisusの時代
BC1100年、Temenusは娘Hyrnethoと彼女の夫Deiphontesとを偏愛して息子たちに殺された。[203]
Temenusの跡を彼の息子Ceisusが継いだ。[204]
Ceisusは、散らばって住んでいた人々を集めて新しいArgosの町を建設した。[205]
BC1073年、 Temenusの子Isthmiusは、Cresphontesの子AepytusのMessenia地方への帰還を支援した。[206]

21.2 Rhodes島への移住
BC1070年、Temenosの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてCrete島に植民した。[207]
その後、Althaemenes自身は、Rhodes島に移住してLindos、Ialysos、Kameirosという3つの町を建設した。[208]
BC1213年、Tlepolemusが、Tirynsの町からRhodes島へ移住して、同じ3つの町を建設しているので、Althaemenesは彼らと共住したものと思われる。[209]
Althaemenesの移民団には、Megaraの町に住むDoriansも参加していた。[210]
Rhodes島の支配者は、Telchines、Heliadae、Phoenicians、Cariansと変わり、そして、DoriansがRhodes島を支配した。[211]
Greeceの7賢人の一人、Rhodes島のLindosの町のCleobulusは、Althaemenesの後裔と推定される。[212]
Rhodes島のDoriansは、その後、Halicarnassus、Cnidus、Cosへも移住した。[213]

21.3 Spartaとの争い
BC870年、Spartaの町のAgisの子Echestratusは、Laconia地方とArgolis地方の境付近のCynuriaの町から壮年男子を追放した。[214]
BC860年、Argosの町のThestiusの子MeropsはCynuriaの町をめぐってEchestratusの子Labotasと戦ったが勝敗は付かなかった。[215]

21.4 DoriansのArgosの黄金期
BC760年、Aristodamisの子Pheidonは度量衡を定め、銀貨を鋳造した。[216]
Pheidonは、Corinthの町までも支配下に置いていた。[217]
BC748年、PheidonはEleia地方にも影響力を及ぼし、Argosの町と友好関係にあったPisaの町は、Olympiadを開催した。[218]

21.5 Macedoniaの始祖Caranus
BC750年、Pheidonの子Caranusは移民団を率いて、Mt. Bermius近くのEdessa(後のAegeae)に移住した。[219]
Caranusの移住先選定には、Pheidonの銀貨鋳造が深く関係していたと思われる。
当時、Paeonia地方は土を掘れば金の塊が見つかると言われていた。[220]
Caranusは最初に、Pieria地方の住人を追い出した。追い出されたPieriansは、Strymon川を越えてMt. Pangaeus付近に移住した。[221]
Caranusは隣接する地方の支配者Cisseusと戦って勝利した。[222]
Cisseusは、TroyでAgamemnonに討ち取られたIphidamasの祖父Cisseusの後裔と推定される。[223]

21.6 Heracleidae最後のArgos王
BC745年、Pheidonが死んで、彼の息子Eratusが跡を継いだ。
BC745年、Sparta王Charillusの子NicanderがArgolisを荒らした。[224]
Eratusは、Spartaの町に加勢したAsineの町を攻撃して破壊した。[225]
BC720年、Pheidonの子Eratusの跡をPheidonの子Leocedes(Lacedas)の子Meltasが継いだ。Meltasは、Heracleidae最後のArgos王であった。[226]

おわり