第23章 アルゴリス地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.6.20, Update:2024.12.16

1 はじめに
Argolis地方にGreeksがはじめて住んだのは、BC1750年に発生した「Ogygus時代の大洪水」の時であった。Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。
Inachusの2人の息子たち、Aegialeus (or Aezeius)とPhoroneusに率いられた人々はPeloponnesus半島へ移動した。
Aegialeusは半島北部の海岸地方に、Phoroneusはさらに南に進んで平野の端の小高い丘(後のLarisa)の東側に定住した。[1]
Aegialeusは、Aegialeia (後のSicyon)の町を創建し、Phoroneusは、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[2]

2 Asine
2.1 Asineの創建
BC1230年、Parnassus山近くに住んでいたDryopiansの一部は、Heraclesに追われて、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃れた。Eurystheusは、彼らをNaupliaの町の近くの土地に住まわせ、DryopiansはAsineの町を創建した。[3]

2.2 Asineの破壊
BC745年、Argos王Eratusは、Spartansとの戦いの後で、Spartansに味方したAsineの町を攻撃して破壊した。[4]
Asineの町に住んでいたDryopiansは、Lacedaemonに逃げ込み、Messenia地方の沿海の土地を与えられた。[5]

3 Cleonae
3.1 Cleonaeの創建
BC1251年、Pelopsの子Atreusは、Mideiaの町から北北西へ約20kmの所へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[6]
AtreusがCleonaeの町を創建したのは、HeraclesがThebesの町から、Heraclesの父Amphitryonの旧領Tirynsの町へ移住した頃であった。[7]
Atreusの移住は、Heraclesと共にThebesの町に住んでいたLicymniusが、Licymniusの父Electryonが住んでいたMideiaの町へ帰還したことが原因と思われる。

3.2 Heraclesへの加勢
BC1243年、Heraclesは、Eleia地方のHyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中のActorの2人の息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeの町で襲撃して殺した。[8]
この時、CleonaeansがHeraclesに加勢した。[9]
Cleonaeansを率いていたのは、Atreusであった。
Atreusの父Pelopsは、Heraclesの母Alcmenaの母Lysidice(or Eurydice)の父であった。[10]
つまり、AtreusはHeraclesの祖母の兄弟であった。

3.3 Crete島からの嫁入り
BC1235年、Atreusの子Pleisthenes (or Plisthenes)は、Crete島のMinosの子Catreusの娘Aerope (or Eriphyle)を妻に迎えた。[11]
当時、Pleisthenesは、Cleonaeの町に住んでいた。[12]
Cleonaeの町から約10km離れたPhliusの町には、Minosの娘Ariadneの子Phliasus (or Phlias)が住んでいた。Phliasusは、Aeropeの従兄であった。この親戚関係が、Cleonaeの町に住むPleisthenesとCrete島に住むAeropeの遠距離婚を成立させたと推定される。

3.4 Mycenaeへの移住
BC1217年、Mycenaeの町のEurystheusがHeracleidaeとの戦いで死んだ。
Atreusは、Eurystheusの跡を継いでMycenaeの町へ移住した。[13]
Atreusは、Cleonaeの町を兄弟Cleonymus (or Cleones)に任せた。この時、町の名前がCleonaeに変わった。[14]

3.5 Athensへの移住
BC1109年、Heracleidaeの一人、Heraclesの子Ctesippusの曾孫AgamedidasがCleonaeの町の支配者になった。[15]
Colophonの町のParalus (or Parphorus)は、Chios島の対岸の本土にClazomenaeの町を創建した。その町の住人は、Heracleidaeに追われて、Cleonaeの町やPhliusの町からAthensの町へ逃れた人々であった。[16]

3.6 Mycenaeからの亡命
BC468年、Argosの町はMycenaeの町を占領した。[17]
Mycenaeの町の住人の一部はCleonaeの町に逃げ込んだ。[18]
したがって、Heracleidaeの帰還後もCleonaeの町には、Achaeansが住んでいたと推定される。

4 Corinth
4.1 Corinthの創建
BC1407年、Xuthusの子Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Sicyonの町のLamedonと戦い、Sicyonの町に勝利した。[19]
Archanderに加勢したAeolusの子Sisyphusは、Thessaly地方のArneの町からSicyonの町の東側の土地へ移住して、Ephyra (後のCorinth)の町を創建した。[20]
Sisyphusは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟Aeolusの息子であった。

4.2 Colchisへの移住
BC1390年、Aegean Seaに発生した大津波によって、Corinthの町も被災した。
Sisyphusの子Aeetesは、被災した人々を率いて、黒海東岸のPhasis川付近のColchis地方へ移住した。[21]

4.3 Alcidameaの子Bunus
Sisyphusの子Aeetesの跡を継いだのは、Bunusであった。[22]
Bunusは、Corinthの町にHera神殿を創建した。[23]
Sisyphusの家系はThessaly地方のDeucalionの後裔で、Hera信仰には縁がなかった。
恐らく、Bunusの母Alcidameaは、ArgosのHera神殿の巫女であり、一時、Argosの町を占拠していたGelanorの子Lamedonの娘と思われる。
Sicyonの町とArgosの町の戦いの後で、Alcidameaは、Sisyphusの子Almusに嫁ぎ、息子Bunusが生まれたと推定される。

4.4 Aloeusの子Epopeus
Bunusの跡を、Aloeusの子Epopeusが継いだ。[24]
EpopeusはSicyon王として、Sicyonの町に住んでいて、Corinthの町をも支配することになった。[25]
Epopeusの息子は、Marathonのみが知られている。[26]

4.5 Epopeusの子Marathon
MarathonはAttica地方へ移住した。Pausaniasは移住の原因を、Epopeusの横暴だと伝えている。[27]
しかし、Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚しており、その結婚が移住の原因であった。[28]
そして、その結婚は、BC1352年のErechtheusとEumolpusの子Immaradusとの戦いに、MarathonがSicyonから駆け付けたのが縁であった。[29]
Erechtheusの前のAthens王Pandionは、Xuthusの子Ionから支援を受けて、Eumolpusと戦った。[30]
Marathonは、Ionの父Xuthusの兄弟Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの息子であった。
Marathonには、2人の息子たち、SicyonとCorinthusが生まれた。[31]

4.6 Corinthusの継承者
Marathonの子CorinthusがEphyraeaの町を継承して、町はCorinthと呼ばれるようになった。[32]
Pausaniasは、Corinthusに跡継ぎがなかったため、CorinthiansはJasonの妻Medeaを迎えたと伝えている。[33]
しかし、系図を作成すると、CorinthusとMedeaの生年差は、65年ある。
Apollodorosは、Medeaと同時代のGlauceの父、Corinth王Creonの名前を伝えている。[34]
恐らく、Corinthusの跡をCreonが継承したと思われる。[35]
Lycaethusの子Creonは、Epopeusの兄弟の孫と推定される。[36]

4.7 MedeaとJasonの時代
4.7.1 Thessalyからの移住
Aesonの子Jasonの妻Medeaは、Thessaly地方のAesonis (or Aeson)の町に住んでいた。
Aesonisの町は、AesonがPagasetic Gulf近くに創建した町であった。[37]
BC1247年、MedeaはJasonと共に、Aesonisの町からCorinthの町へ移住した。[38]
CorinthiansがMedeaを招いたのは、MedeaがCorinthの町の創建者Sisyphusの後裔であったからであった。
Corinthiansに招かれたのは、Medeaであったが、Corinthの町を治めたのは、Medeaの夫Jasonであった。[39]

4.7.2 Lyciaへの移住
BC1243年、Sisyphusの子Glaucusの子Bellerophontes (or Hipponus, Bellerophon)は、Corinth地方のIsthmusの町からLycia地方のXanthusの町へ逃れた。彼は、Xanthusの町を治めるIobatesの娘Philonoeと結婚した。[40]
これより前に、Pandionの子LycusがLycia地方へ移住していた。[41]
Iobatesは、Pandionの子Lycusの息子で、周辺の異民族(Solymi)に対抗するためにBellerophontesを呼び寄せたと思われる。[42]
Bellerophontesの母Eurynomeの父Nisusは、Iobatesの父Lycusの兄弟であった。[43]
つまり、Philonoeは、Bellerophontesの又従兄であった。

4.7.3 Corcyraへの移住
JasonとMedeaがCorinthの町に住んでから10年後、Medeaは死んだ。[44]
BC1237年、JasonはHeraclesと共にGreece北西部へ遠征して、Scheria (後のCorcyra)島へ移住した。[45]

4.8 Aeolusの子Sisyphusの時代
Jasonの跡をAeolusの子Sisyphusが継承した。[46]
Sisyphusの子Ornytionの妻の名前を伝えている史料はない。
しかし、Corinthの町の外港に名前を与えた、2人の息子たち、LechesとCenchriasの母PeireneがOrnytionの妻であったと推定される。[47]
Pausaniasは、Peireneの父がOebalusであり、PeireneはAchelous河神の娘であったと伝えている。[48]
BC1237年、OrnytionはCorinthiansを率いて、Jasonが無事に入植できるように、Jasonに同行した。Ornytionは遠征中、Acarnaia地方のAchelous川近くに住んでいたTelonの子Oebalusの娘Peireneを妻にした。[49]

4.9 Sisyphusの子Ornytionの時代
4.9.1 LechaeumとCenchreaeの創建
Ornytionは、Corinthian gulfに面したLechaeumの町と、Saronic Gulfに面したCenchreaeの町を創建した。それらの町の名前は、Ornytionの2人の息子たち、LechesとCenchriasに因む名前であった。[50]
2つの町の建設は、BC1230年頃と推定される。

4.9.2 Phocisへの移住
BC1230年、Ornytionの子Phocusは、Corinthの町からPhocis地方のTithoreaの町へ移住した。[51]

4.10 Ornytionの子Thoasの時代
Corinthの町は、Homerの『軍船目録』で、Mycenaeの指揮下にある町として登場する。[52]
しかし、Corinthiansは、AchaeansのTroy遠征に参加しなかったと思われる。

4.11 Heracleidaeの帰還
4.11.1 Doriansとの戦い
BC1075年、Corinthの町は、Heracleidaeの一人、Hippotasの子Aletes率いるDoriansに攻められた。そのとき、Ornytionの子Thoasの子Damophonの子Propodasの2人の息子たち、DoridasとHyanthidasが王位にあった。DoridasとHyanthidasは、王位をAletesに譲って、彼らは町に住み続けた。
しかし、Corinthの町の主な住人であったAeolisは抵抗し、AletesはSolygiaの丘に陣を構えて戦い、抵抗した住人を町から追い出した。Corinthの町は、Aeolisの町からDoriansの町になった。[53]

4.11.2 共住者Melas
Aletesは、Achaia地方のGonussaの町からCorinth攻略に協力したAntasusの子Melasを共住者にした。BC657年にCorinthの町の僭主となったEetionの子Cypselusは、Melasの後裔であった。[54]
また、Melasは、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの後裔であった。[55]

4.11.3 Megaraの創建
BC1074年、Peloponnesusへの帰還を完了したHeracleidaeは、Athensの町の勢力伸長を危惧して、HeracleidaeはAthensの町へ侵攻した。Athens王Melanthusの子Codrusは戦死したが、Athensの町は勝利した。[56]
Heracleidaeは、Athensの町から帰る途中、Megara地方に住んでいたIoniansを追い出して、DoriansのMegaraの町を建設した。[57]
このとき、Corinthの町のAletesがDoriansの遠征隊を率いたとも伝えられる。[58]
しかし、Aletesの父Hippotasの父Phylasの父Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖であった。Doriansの遠征隊を率いたのはAletesではないと思われる。

4.12 Doriansの支配
Aletesの後、Corinthiansを支配したのは、Ixionから、Agelas、Prymnis、Bacchisへと続くHeracleidaeであった。[59]
Bacchisは、足が不自由であったが、政治的才能があり、3人の娘たちと、7人の息子たちがいた。[60]
Bacchisの後裔は、Heracleidaeではなく、Bacchiadaeと呼ばれるようになった。[61]
Bacchisの後、Agelas、Eudemus、Aristomedes、Agemon、Alexander、Telestes、AutomenesがCorinthiansを支配した。[62]
Automenesの後、90年間、毎年1人を選んで、町を委ねていたが、Prytanesのときに、Cypselusによって、Bacchiadaeは追放された。[63]

4.13 Eetionの子Cypselusの時代
BC657年、Eetionの子Cypselusは、Corinthの町の僭主になった。[64]
Cypselusの先祖は、Aletes率いるDoriansに協力して、Corinthの町に住んでいたAntasusの子Melasであった。
MelasはSicyonの娘Gonussaの後裔であった。[65]
つまり、Cypselusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの後裔であり、Aeolisであった。

4.14 脱落がない系譜
HeracleidaeがPeloponnesus半島への帰還を果たした後、Argosの町やSpartaの町などの支配者の系譜には、BC11世紀前後に4世代ほどの脱落がある。
しかし、Corinthの町の支配者の系譜は、Aletesの後も矛盾なく、BC7世紀のCypselusの時代まで続いている。
Athens王の系譜以外で、唯一、Corinthの町の支配者の系譜は、BC11世紀以降でも脱落がない。
これには、Corinthの町の創建者Sisyphusから続く支配層が、町に住み続けていたことが影響していると思われる。
また、叙事詩人Amphilytusの子Eumelusの存在も大きかった。
EumelusはBacchiadaeに所属し、Eumelusの祖父の祖父は、Prymnisの子Bacchisであった。
Eumelusは、Corinthの町の創建時からの歴史を「Corinthian History」にまとめた人物であり、AletesからBacchisに至る系譜も調べることができたと推定される。

5 Epidaurus
5.1 Epidaurusの創建
BC1645年、Niobeの子Argusの子Epidaurusは、Argosの町から東側の海の近くへ移住して、Epidaurusの町を創建した。[66]
それ以前、Epidaurusの町は、Epicarusと呼ばれるCariansの住む町であった。[67]

5.2 Tirynsによる支配
BC1368年、Abasの子Proetusは、Acrisiusとの戦いで、Argolis地方の沿海地方を領することになったが、それにはEpidaurusの町も含まれていた。[68]
それまで、Epidaurusの町はArgosの町の支配下にあったが、Tirynsの町の支配下になった。

5.3 Mycenaeによる支配
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[69]
Perseusは、Tirynsの町とMideaの町も支配していたが、Epidaurusの町もMycenaeの町の支配下にあったと思われる。
しかし、Perseusの多くの息子たちの中で、Epidaurusの町に関係した息子はいなかった。

5.4 Aeginaからの移住
BC1285年、Actorの子Aeacusは、Thessaly地方のDiaの町からAegina島へ移住した。このとき、Aegina島に住んでいたのは、Attica地方のOenoeの町から島に入植したIoniansであった。彼らは、Xuthusの子Ionの後裔に率いられて、Epidaurusの町へ移住した。[70]

5.5 Asclepiusの誕生
BC1263年、医神Asclepiusが、IschysとPhlegyasの娘Coronisの息子として誕生した。
Pausaniasは、AsclepiusがEpidaurusの町で生まれたと記している。[71]
Epidaurusの町は、Phlegyasの先祖の地であった。[72]
恐らく、Phlegyasの母がEpidaurusの町で生まれたと思われる。
後に、Epidaurusの町でAsclepius信仰が盛んになって、AsclepiusがEpidaurusの町で生まれたという伝承が生まれたと思われる。
Straboは、AsclepiusがThessaly地方のTriccaの町を流れるLethaeus川の畔で生まれたと伝えている。[73]

5.6 Trojan War時代
Trojan War時代、Epidaurusの町はArgosの町の支配下にあった。[74]

5.7 Perinthusの創建
BC1170年、Epidaurusの町のPerinthusは、Orestesの遠征に参加して、Perinthusの町を創建した。そのPerinthusの町は、Thracia地方の町ではなかった。[75]
BC1173年、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansが、Doris地方からPeloponnesusに侵入して、Mycenaeの町を破壊した。[76]
このとき、Epidaurusの町もDoriansが侵入して、土地が荒廃したと推定される。

5.8 Athensへの移住
BC1102年、Antimachusの子Deiphontesは、Argosの町からDoriansを率いてEpidaurusの町を攻めた。Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Deiphontesに町を譲り渡した。[77]
Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensの町へ移住した。[78]
Deiphontesは、Attica地方のTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。[79]

5.9 Tirynsからの移住
BC468年、Tirynsの町は、Argosの町に攻められて、住人の一部は、Epidaurusの町へ移住した。[80]

6 Heraeum
6.1 Hera神殿の創建
BC1610年、Niobeの子Argusの子Peiras (or Pirantos)は、Hera神殿を創建した。[81]
Niobeの子Argusは、Tirynsの町に自生していた梨の樹でHera神像を作った。[82]
Peirasは、彼の娘Callithyia (or Callithias)をHera神殿の最初の巫女にした。[83]

6.2 Eleusisへの移住
BC1580年、Callithyiaの子Trochilusが、Argosの町からEleusisの町へ移住した。Trochilusは、Eleusisの町にHera神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[84]

6.3 Iasusの時代
Triopasの子Iasusの娘Ioも、Hera神殿の巫女であった。[85]
BC1560年、Ioは、彼女の父Iasusと共にEgyptへ移住した。[86]
Ioは、Egyptでは、Isisと呼ばれた。[87]

6.4 Danausの時代
BC1430年、Ioの後裔Danausは、Egyptから移住して来て、Argosの町を支配した。[88]
Danausの娘HypermnestraはHera神殿の巫女になった。[89]

6.5 Lamedonの時代
BC1408年、Danausによって、Argosの町から追放されたGelanorの息子LamedonがSicyonの町からArgosの町に攻め込んで、町を支配した。[90]
Lamedonの娘Alcidameaは、Hera神殿の巫女になった。[91]
Alcidameaの子Bunusは、Sisyphusの子AeetesからCorinth王を継承して、Corinthの町にHera神殿を建立した。[92]

6.6 Proetusの時代
BC1368年、Abasの子Proetusは、Acrisiusと和解して、Tiryns、Heraeum、Mideia、およびArgolis地方の沿海地方を領することになった。[93]
これより前に、Proetusは、Sicyonの町の海岸の近くにHera神殿を創建していた。[94]

6.7 Perseusの時代
BC1332年、Perseusは、Seriphus島から帰国して、Tirynsの町を占拠した。[95]
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[96]
このときから、Heraeumの町は、Argosの町のProetusの子Megapenthesではなく、Mycenaeの町のPerseusの支配下に置かれたと推定される。

6.8 Sthenelusの時代
Perseusの子Sthenelusが父からMycenaeの町を継承した。[97]
Sthenelusの娘Alcyoneは、Hera神殿の巫女になった。[98]

6.9 Eurystheusの時代
Sthenelusの子Eurystheusが父からMycenaeの町を継承した。[99]
Eurystheusの娘Admeteは、Hera神殿の巫女になった。[100]
Argosの町とMycenaeの町は、Hera神殿をめぐって争っていたが、少なくともEurystheusの時代まではMycenaeの町の管轄にあった。[101]

7 Hermione
7.1 Hermioneの創建
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Argosの町から南東の海の近くへ移住して、Hermioneの町を創建した。[102]
Hermioneの町は、Peloponnesus内で、Sicyon、Argos、Mycenaeに次ぐ古い町であった。
それ以前、そこには、Cariansが住んでいた。[103]

7.2 Parnassus近くからの移住
BC1230年、Parnassus山近くに住んでいたDryopiansの一部は、Heraclesに追われて、Hermioneの町付近へ移住して、新しいHermioneの町を創建した。[104]

8 Midea (or Mideia)
8.1 Mideaの創建
Mideaの町は、Danaeの子Perseusが創建して城壁で囲んだ。[105]
しかし、Pausaniasは、Perseusの祖父Acrisiusの時代に、既にMideaの町があったように記している。[106]
Pausaniasの記述が正しければ、Mideaの町は、BC1368年より前に、創建されたことになる。
恐らく、Perseusの子Electryonが住んだ頃は、Mideaの町は、別な名前で呼ばれていたと思われる。
Electryonの妻は、PhrygianのMideaであり、Electryonが妻の名前に因んで、Mideaの町と名付けたと思われる。[107]

8.2 Hippodamiaの亡命
BC1290年、Pelopsの妻Hippodamiaが夫に追放されて、Pisaの町からMideaの町へ逃れて来た。[108]
Electryonの2人目の妻Lysidice (or Eurydice)は、Hippodamiaの娘であった。[109]
HippodamiaはMideaの町で死んだ。後に、Hippodamiaの遺骨はOlympiaに埋葬された。[110]

8.3 Electryon一族
BC1277年、Electryonは、彼の兄弟Heliusや彼の甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征した。[111]
この遠征で、Electryonと彼の息子たちが死に、息子Licymniusと娘Alcmenaが残された。[112]
Amphitryonは、彼の従兄弟たち、LicymniusとAlcmenaをThebesの町に呼び寄せて、Amphitryonは、Alcmenaと結婚した。[113]
Mycenaeの町のSthenelusは、Mideaの町をPelopsの2人の息子たち、AtreusとThyestesに治めさせた。[114]

8.4 Licymniusの帰還
BC1251年、Heraclesは、Thebesの町から彼の父の旧領Tirynsの町へ移住した。
Licymniusも彼の父の旧領Mideaの町へ帰還した。[115]
HeraclesがTirynsの町からPheneusの町へ移住したとき、Heraclesの同行者たちの中に、Licymniusの名前はなかった。[116]
Licymniusの帰還によって、Mideaの町に住んでいたPelopsの子Atreusは北へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[117]

8.5 Heracleidaeの帰還
BC1215年、Heracleidaeは、Eurystheusとの戦いの後、Hyllusを指揮官として、Corinth地峡を通って陸路でPeloponnesus半島へ侵入した。[118]
Heraclesの母Alcmenaと彼女の弟Licymniusは、父の旧領Mideiaの町へ帰還した。[119]
Licymniusは、Mideaの町で死に、Tirynsの町に埋葬された。[120]
Tirynsの町のAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていた。[121]

8.6 Trojan War後のMidea
Mideaの町は、Homerの軍船目録に登場しない。[122]
また、Heracleidaeの最終帰還の伝承にも登場しない。
しかし、Straboは、Tirynsの町と共にMideaの町もArgosの町によって滅ぼされたと記している。[123]
Tirynsの町がArgosの町によって破壊されたのは、BC468年のことである。[124]
BC1173年、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansは、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[125]
このとき、Mideaの町もDoriansによって破壊され、その後、再建されたと思われる。

9 Nauplia
9.1 Naupliaの創建
BC1405年、Danausの娘Amymoneの子Naupliusは、Tirynsの町の近くにNaupliaの町を創建した。[126]
Naupliaの町の住人は、Danausと共にEgyptから移住して来た人々であった。[127]

9.2 町の名前の由来
Straboは、Naupliaの名前は、町の位置に由来しており、Naupliusは町の名前を元に創作された人物だと記している。Straboは、HomerがNaupliaの町やPalamedesに言及していないことを、その証拠としている。また、Straboは、Amymoneの子NaupliusがTrojan Warの時代に生きているはずがないと記している。[128]
しかし、Straboは、Naupliusが二人いることを知らなかった。
Trojan Warの時代のNaupliusは、Amymoneの子Naupliusの子Proetusの子Lernusの子Naubolusの子Clytonaeusの息子であった。[129]
Naupliaの名前は、町の創建者Naupliusの名前に因んで名づけられたと思われる。

9.3 Trojan Warの時代
Homerの軍船目録にNaupliaの町は登場しない。
Naupliusの子Palamedesは、Cormosから軍船を率いてTroy遠征に参加した。[130]
また、Agamemnonの子OrestesとAegisthusとの戦いに、Naupliusの息子たちが登場する伝承もある。[131]
Trojan Warの時代にも、Naupliaの町は存在していたはずである。

9.4 Argosによる占領
BC669年、Naupliaの町はArgivesに攻められて、Argos領になった。Naupliansは、SpartansがMesseniansに勝利した後で、Messenia地方南西部のMothoneの町を与えられた。[132]

10 Nemea
10.1 Nemeaの創建
BC1247年、Argosの町に内紛が起こって、Talausの子Adrastusは、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[133]
このとき、Talausの子Pronaxは、Argosの町からSicyonの町とCorinthの町の境を流れるNemea川の上流へ移住して、町を創建した。[134]
Pronaxは、Corinthの町のAeolusの子Sisyphusの娘Nemeaを妻に迎えて、町の名前をNemeaにした。[135]
Pronaxの子Lycurgusは、Nemean Zeusの祭司であった。[136]

10.2 Hypsipyleの嫁入り
Pronaxは、Thoasの娘Hypsipyleを2人目の妻として迎えた。
Thoasは、Crete島のMinosの娘Ariadneの息子で、Lemnos島に住んでいた。[137]
Lemnos島で生まれたHypsipyleが、Nemeaの町のPronaxに嫁いだ経緯は、次のようであったと推定される。
Lemnos島で疫病が蔓延して、幼いHypsipyleを残して、彼女の両親が死んだ。[138]
孤児になったHypsipyleは、父Thoasと共にNaxos島からLemnos島への移住した人々に連れられて、Naxos島へ移住した。
BC1250年、Naxos島のDionysusの神官OenarusとAriadneは、Dionysusの儀式を広めるために、Peloponnesusへ遠征した。[139]
Hypsipyleは、OenarusとAriadneの孫娘であり、祖父母と共にPeloponnesus内の各地を廻った。
この遠征に参加していたAriadneの子Phliasus (or Phlias)は、Argolis地方のPhliusの町のChthonophyleと結婚して、Phliusの町に住んだ。[140]
Hypsipyleの祖母Ariadneは、旅の途中、Argosの町で死に、Hypsipyleは、叔父Phliasusの養女になって、Phliusの町に住んだ。[141]
BC1233年、Hypsipyleは、Nemeaの町に住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[142]

10.3 Lemnosへの移住
BC1188年、Hypsipyleの子Euneusは、AchaeansのTroy遠征に参加して、Nemeaの町からLemnos島へ移住した。Euneusの祖父Thoasは、Lemnos島の支配者であった。[143]
EuneusがLemnos島へ移住した頃、島には、Thoasと共にNaxos島から移住した人々ではなく、Thessaly地方のIolcusの町から逃れて来たMinyansが住んでいた。[144]
Euneusは、島に住むMinyansを従わせるために、Euneusの父がAesonの子Jasonだという話を広めた。[145]

11 Orneae
11.1 Orneaeの創建
BC1275年、AegeusによってAthensの町から追われたOrneusは、Argolis地方のPhliusの町の近くへ移住して、Orneaeの町を創建した。[146]
Pausaniasは、Orneusの父をErechtehusだと伝えている。[147]
Orneusの父が第6代Athens王Erechtehusであるとすれば、Orneusの子Peteusの子Menestheusは、Cecropsの子Pandionの養子Aegeusと同時代である。しかし、Trojan War時代のMenestheusの同時代人は、Aegeusではなく、彼の孫であった。したがって、ここでのErechtehusは、第8代Athens王Pandionの別名と思われる。したがって、OrneusはAegeusの義兄弟であった。

11.2 Trojan War時代
Trojan War時代、Orneaeの町はMycenaeの町の支配下であった。[148]
その後、Orneaeの町はArgosの町の支配下になった。[149]

11.3 Orneaeの滅亡
BC415年、Lacedaemoniansは、Orneaeの町にArgosの町から亡命した貴族派を居住させた。[150]
その後、ArgivesはOrneaeの町を攻め、町を完全に破壊した。[151]

12 Phlius
12.1 Phliusの創建
Homerは、Phliusの町をAraethyreaの町と呼んでいる。[152]
しかし、Straboは、Araethyreaの町から約6kmの所にPhliusの町が建設されたと記している。[153]
Araethyreaの町より前の時代の町もあり、最初の町の創建者は、Arasであった。[154]
Arasが創建した町は、Phliusの町から1km離れた、後にCeleaeの町となる場所にあったと思われる。そこには、Arasの墓があつた。[155]
Arasが町を建設したのは、BC1350年頃と推定される。

12.2 Arasの系譜
Arasの娘Araethyreaの子Phliasの妻は、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Chthonophyleであった。[156]
つまり、Arasの父は、Aloeusの子Epopeusと同時代の人物であった。
恐らく、Arasの父は、Epopeusの兄弟、Hopleus、または、Nireusのいずれかと推定される。[157]
彼らの父Aloeusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの息子であった。[158]

12.3 Sicyonからの嫁入り
BC1305年、Araethyreaの子Phliasは、Sicyonの町からSicyonの娘Chthonophyleを妻に迎えた。[159]

12.4 Naxosからの婿入り
BC1250年、Dionysusの儀式を伝える集団がPeloponnesusを訪問した。[160]
集団を率いたのは、Naxos島のDionysusの神官Oenarusと彼の妻Ariadneであった。
彼らを招いたのは、Argosの町のAmythaonの子Melampusであった。[161]
その頃、Phliasの子Polybusは、彼の母方の祖父Sicyonの跡を継いで、Sicyonの町に住んでいた。Phliasには、Polybusの他に、Phliasの跡を継いだ息子がいた。しかし、彼には娘Chthonophyleしかいなかったため、Phliusの町を継ぐ者がいなかった。
Oenarusの子Phliasus (or Phlias)は、Chthonophyleと結婚して、Phliusの町を継承した。[162]
PhliasusとChthonophyleは、Ephyra (後のCorinth)の町の創建者Sisyphusを共通の先祖としていた。
両者を仲介したのは、Melampusであったと思われる。
Melampusは、Chthonophyleの叔父Polybusの娘Lysianassaの夫Talausの伯父であった。

12.5 PhliusとNaxosの関係
Phliasの父Oenarusは、Boeotia地方のAnthedonの町からNaxos島へ移住した、Aloeusの子Otus、あるいは、彼の兄弟Ephialtesの息子であった。[163]
OtusとEphialtesは、当時、Strongyle (後のNaxos)と呼ばれていた島へ移住して、島名をDia島と改名した。[164]
Diaは、女神Heraの娘Hebeの別名で、Phliusの町やSicyonの町で信奉されていた。[165]

12.6 Phliasの息子たちの時代
BC1243年、Phliasの子Dameonは、HeraclesのElis攻めに参加して、Actorの子Cteatusに討ち取られた。[166]
その後、Dameonの兄弟Androdamasは、Sicyonの町へ移住したようである。[167]
Pausaniasは、HeracleidaeがPhliusの町にDoriansを連れて来る前のPhliusの町の住人は、Argivesであったと記している。[168]
恐らく、Phliusの町はArgosの町の支配下になったと思われる。

12.7 Heracleidaeの帰還
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、Argosの町とSicyonの町のDoriansを率いてPhliusの町へ遠征し、住民から受け入れられてPhliusの町の王となった。
Doriansとの共住に反対したPhliusの町の指導者Hippasusは、Samos島へ移住した。[169]
また、Phliusの町の住人の一部は、Cleonaeansと共に、Asia Minorへ渡り、Chios島の対岸の本土にClazomenaeの町を創建した。[170]

13 Sicyon
13.1 Aegialeiaの創建
BC1750年、Inachusの子Aegialeus (or Aezeius)は、Parnassus山近くのCephisus川上流からPeloponnesus半島へ北部の海岸地方へ移住して、Aegialeia (後のSicyon)の町を創建した。[171]
Aegialeusの兄弟Phoroneusは、さらに南へ進んで、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[172]

13.2 Aegialeusの系譜
Pausaniasは、Aegialeusの子Europsの子Telchisの子Apisという系譜を伝えている。[173]
Pausaniasは、年代記作者Castorが作成した親子関係の記載がないSicyon王のリストを参照している。
EuropsとApisは、Aegialeusの兄弟Phoroneusの息子たちであった。[174]

13.3 後継者争い
初期のSicyonの町には、つぎのような後継者争いがあったと推定される。
Aegialeusには、息子Lycaonがいたが、Lycaonは父より先に死んだ。
BC1708年、Aegialeusが死んだとき、Lycaonの息子Hyperetusは少年であった。
Aegialeusの兄弟Phoroneusは、自分の息子をAegialeusの後継者にして、Europsが第2代Sicyon王になった。[175]
BC1702年、Sicyonの町の有力者Telchin (or Telchis)は、Europsから王位を簒奪して、第3代Sicyon王になった。[176]
Phoroneusは、Sicyonの町を攻めて、Telchin率いるTelchinesと戦うが撃退された。[177]

13.4 Apisとの戦い
BC1700年、Phoroneusが死に、彼の息子Apisが第3代Argos王になった。[178]
BC1690年、Apisは、Sicyonの町を攻めて、Telchinesと戦って勝利し、町を占領した。[179]
Apisは、第4代Sicyon王にもなった。[180]
Apisは、Peloponnesusの支配者になり、PeloponnesusはApisの名に因んでApiaと呼ばれるようになった。[181]

13.5 Creteへの移住
Apisとの戦いに敗れたTelchinesの一部は、Telchinの子Cresに率いられて、Crete島へ移住した。[182]
Cresは、Crete島のEteocretansの王になった。[183]
Cresの後裔の一部は、Ophiussa島に渡り、島はTelchines (後のRhodes)島と呼ばれるようになった。[184]

13.6 Argosによる支配
Apisは、彼の姉妹Niobeの子PelasgusとAegialeusの子Lycaonの娘Deianiraとを結婚させて、PelasgusにSicyonの町を統治させた。[185]
Pelasgusと共に、多くのPelasgiansがArgosの町からSicyonの町へ移住した。
BC1665年、Telchinと彼の息子ThelxionはApisを殺して、Sicyonの町は、Argosの町から独立した。[186]

13.7 Creteからの移住
Sicyonの町がArgosの町から独立して、Telchinesが町を支配すると、Crete島へ移住したTelchinesとの交易が盛んになった。
Argolis湾とSicyonの町とを結ぶ交通の要衝の地にあったMycenaeの町にもTelchinesが住み着いたと思われる。

13.8 Italyへの移住
PelasgusとDeianiraとの息子Lycaonは、Cylleneと結婚して、2人の息子たち、OenotrusとPeucetiusが生まれた。[187]
BC1635年、OenotrusとPeucetiusは、彼らの祖父Pelasgusと共にArgosの町からSicyonの町へ移住して来た人々の子孫を率いて、新天地を求めた。
OenotrusとPeucetiusは、Sicyonの町を出発してItaly半島に入植した。[188]

13.9 Argosの内紛
BC1600年、Argosの町に住んでいたNiobeの子Argusの後裔の間で、争いが生じた。
Argusの子Criasusの子Phorbasは、Argusの子Peirasusの子Triopsから王位を簒奪した。Triopsに味方したArgusの子Ecbasusの子Agenorの子Argusは、Mycenaeの町へ移住して、町はArgionと呼ばれるようになった。[189]
Argusは、many-eyed、あるいは、All-seeingと呼ばれ、先見の明がある優れた人物であった。[190]

13.10 Mycenaeとの姻戚関係
Argusは、第7代Sicyon王Thurimachusの娘Ismeneを妻に迎えた。[191]
Argusの子Messapusは、第8代Sicyon王Leucippusの娘Calchiniaを妻に迎えた。[192]
Leucippusが死ぬと、Mycenae の町に住むMessapusは、第9代Sicyon王になり、Sicyonの町を支配下に置いた。[193]

13.11 Argosとの戦い
BC1560年、Argusの子MessapusがArgosの町を攻め、Sicyonの町に住むTelchinesも攻撃に参加した。
Argosの町に住んでいたPelasgiansは、各地へ移住した。[194]
この戦いの後で、Mycenaeの町は、Arcadia地方に住むPelasgiansを除いて、Peloponnesus半島に住む人々の大半を支配することになった。

13.12 Danausの出現
BC1430年、Plemnaeusの子Orthopolisの時代に、DanausがEgyptからArgosの町へ移住して来た。[195]
Danausによって、Argosの町を追われたSthenelasの子Gelanorは、Sicyonの町へ逃れた。[196]
このとき、Mycenaeの町は、Gelanorの兄弟Eurystheusが支配していた。[197]
Mycenaeの町も、Danausによって破壊され、Mycenaeの町の住人は、Sicyonの町へ逃れた。

13.13 Argosの占領
BC1408年、Gelanorの子Lamedonは、Sicyonの町のOrthopolisの協力を得て、Argosの町を占領した。[198]
Danausの跡を継いだLynceusが死に、Lynceusの子Abas (or Triopas)が父の跡を継いでから、5年目であった。[199]
Abasは、Argosの町からPhocis地方へ移住してAbaeの町を建設した。[200]

13.14 Achaeansとの戦い
BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町を占拠していたLamedonを追い出した。[201]
Sicyonの町のOrthopolisは、Lamedonに味方して、Archanderと戦った。
Archanderに味方したのは、Locris地方のDeucalionの子MarathoniusやThessaly地方のAeolusの子Sisyphusであった。[202]

13.15 戦いの結果
Deucalionの子Marathoniusは、Orthopolisの娘Chrysortheを妻にして、第13代Sicyon王になった。[203]
しかし、Sicyon王の系譜にあるMarathoniusは、形式的なものであった。
実質的にSicyonの町を支配したのは、Aeolusの子Sisyphusであった。
Sisyphusは、Sicyonの町の東隣にEphyra (後のCorinth)の町を創建し、両方の町を統治した。[204]
Sicyonの町は、Telchinesの町からAeolisの町になった。

13.16 Orthopolisの後のSicyon
Sisyphusの死後、Sicyonの町は、Sisyphusの子Aloeusが継承し、Corinthの町は、Sisyphusの子Aeetesが継承した。[205]
Aloeusの跡を、彼の息子Epopeusが継いだ。[206]
EpopeusはSicyonの町に住み、Corinthの町をも支配した。[207]

13.17 Epopeusの妻Metope
13.17.1 Metopeの系譜
Thebesの町のすぐ東側を南から北へ流れるIsmenus川の名付け親は、Meliaの子Ismenusであった。それ以前、Ismenus川は、Ladon川と呼ばれていた。[208]
また、Phlius地方のAsopus河神はLadonの娘Metopeと結婚し、Boeotia地方の川の名親となった息子Ismenusが生まれた。[209]
Ladonの娘Metope (or Melia)には、もう一人の息子Tenerus (or Pelasgus, Pelagon)がいた。[210]
Tenerusは予言者であり、Copais湖の東方Ptous山に神託所を開設した。[211]
Thebes攻め時代のThebesの町の予言者Everesの子Teiresiasは、Cadmus時代のSpartiの一人Udaeusの後裔であった。[212]
また、Thebesの町で、Amphitryonの妻Alcmenaの出産に立ち会ったTeiresiasの娘Historisも、予言者であった。彼女の父Teiresiasは、Everesの息子ではなく、Metopeの子Tenerusの息子と思われる。[213]
以上のことから、Metopeの父Ladonは、Everesの子Teiresiasの先祖であり、Ladonの父は、Cadmusと共にCadmeiaに住み着いたSpartiの一人Udaeusと推定される。[214]

13.17.2 Metopeの夫
Metopeの夫、つまり、Phlius地方のAsopus河神は、つぎの理由からAloeusの子Epopeusと推定される。
1) Metopeの息子Ismenusは、Epopeusが住んでいたPhlius地方からBoeotia地方へ移住して、Ismenus川の近くに定住した。[215]
Ismenus川は、Ladon川と呼ばれていた。[216]
恐らく、その川の名前は、Metopeの父Ladonに因んで名付けられたと思われる。[217]
2) Asopus河神の娘Harpina (or Harpine)は、Arcadia地方西部のHeraeaの町に嫁いだが、その町の近くを流れる川の名前はLadonであった。[218]
Harpinaが結婚した頃、Phlius地方からAsopus川が流れ込むSicyonの町の支配者は、Epopeusであり、Harpinaの父Asopus河神は、Epopeusと推定される。
つまり、Metopeの夫は、Epopeusであり、彼らの娘HarpinaがHeraeaの町の近くを流れる川に、彼女の母の故郷の川と同じ名前を付けたと推定される。

13.18 EpopeusとAntiopeについて
13.18.1 史料出現
Homerの作品に、AmphionとZethusの母としてAntiopeは登場するが、Epopeusは登場しない。[219]
Herodotusの著作には、AntiopeもEpopeusも登場しない。
Apollonius of Rhodesの著作には、AmphionとZethusの母としてAntiopeは登場するが、Epopeusは登場しない。[220]
年代記作者CastorやJeromeの著作には、Sicyon王Epopeusは登場するが、Antiopeは登場しない。[221]
Diodorusの著作には、Sicyon王Epopeusは登場するが、Antiopeは登場しない。[222]
Hyginusの著作には、Epopeusではなく、Antiopeと結婚して、Lycusに殺されるEpaphusが登場する。[223]
Apollodorosの著作には、AntiopeがSicyonの町のEpopeusのもとへ逃れて結婚し、Thebesの町のLycusがSicyonの町を攻めて、Epopeusを殺したと伝えている。[224]
Isaac Newtonは、Pausaniasと同じように伝えている。[225]

13.18.2 Pausaniasの記述
Pausaniasは、Sicyonの町のEpopeusと、Epopeusの子Marathonについて、つぎのように記している。
Corinth王Bunusが死ぬと、Sicyon王EpopeusがCorinthの町をも支配した。[226]
EpopeusがAntiopeを誘拐したので、ThebansはSicyonの町へ攻め込んだ。Nycteusはこの時負傷したが、Epopeusは負傷したが、勝利した。
Nycteusは負傷者し、死に臨んで兄弟のLycusに復讐を頼んだ。
Antiopeは、Thebansによって、Thebesの町まで連れて行かれる途中でAmphionとZethusを産んだ。[227]
Heliusの子Aloeusの子Epopeusの子Marathonが、父の無法と横暴を逃れてAttica地方の海沿いの地へ移住した。そして、Epopeusが死ぬとMarathonは、彼の息子たちに王国を分け与え、再びAttica地方へ帰った。[228]
EpopeusとAntiopeの伝承は、意図的に、Thebesの町の基礎を築いたAmphionとZethusをSicyonの町に結び付けようとしているようである。

13.19 EpopeusとThessaly
Pausaniasは、「EpopeusがThessalyから来て王国を獲得した」と伝えている。[229]
系図を作成すると、同じ頃に、Thessaly地方のArneの町に、ItalyからAeolusの娘Melanippeの子Boeotusが帰還して、Aeolusの跡を継いでいる。[230]
Epopeusは、Aeolusの娘Canaceの息子であり、Boeotusと同じく、Arneの町のAeolusの孫であった。[231]
恐らく、Epopeusは、Arneの町のAeolusの養子になり、Boeotusが帰って来たために、Thessaly地方からSicyonの町へ戻ったものと思われる。

13.20 Atticaからの移住
BC1321年、Epopeusが死ぬと、彼の息子Marathonは、Attica地方からSicyonの町に戻り、Sicyonの町とCorinthの町を継承した。[232]
Marathonの2人の息子たち、SicyonとCorinthusは、Asopiaの町とEphyraeaの町を分け与えられて、それぞれの町は、Sicyonの町とCorinthの町と呼ばれるようになった。[233]
Marathonの妻は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[234]

13.21 Teneaからの移住
BC1276年、Marathonの子Sicyonの跡を、彼の娘Chthonophyleの子Polybusが継いだ。[235]
Polybusは、Corinth地方のTeneaの町に住んでいたが、町を彼の養子Oedipusに任せて、Sicyonの町へ移住した。[236]

13.22 Argosへの嫁入り
BC1263年、Polybusの娘Lysianassaは、Argosの町のBiasの子Talausのもとへ嫁ぎ、息子Adrastusが生まれた。[237]

13.23 Talausの子Adrastus
BC1247年、Argosの町のTalausの子Adrastusは、Melampusの後裔Amphiarausと争って、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命して来た。[238]
Polybusは、Adrastusの母Lysianassaの父であった。
BC1238年、Adrastusは、Amphiarausと和解して、Argosの町へ帰還した。[239]
BC1236年、Polybusが死に、Polybusの孫Adrastusは、Sicyonの町の人々から招かれて、町を治めた。[240]
BC1232年、Adrastusは、Sicyonの町に4年間住んだ後で、Argosの町へ帰還した。[241]

13.24 Adrastus以降のSicyon
Adrastusが去った後のSicyon王の系譜は、2通り存在する。

13.24.1 Castorの記述
Adrastusの跡をPolypheides、Pelasgus、Zeuxippusが王になり、その後、Apollo Carneiusの司祭がSicyonの町を支配した。[242]
Castorは、3人の王の統治期間の合計を82年とし、BC1150年からDorinasの支配が始まったように伝えている。

13.24.2 Pausaniasの記述
Adrastusの後にIaniscus、Phaestus、Zeuxippus、Hippolytus、Lacestadesが王になった。Lacestadesの時代に、Temenusの子Phalcesに攻められたが、LacestadesもHeracleidaeの一人であったので、共住したという。[243]
Pausaniasは、PhaestusをHeraclesの息子だと記しているが、それが本当であれば、Mycenaeの町のEurystheusに追い出されない筈がない。Phaestusは、母の名前も不明であり、Heraclesの息子ではないと思われる。[244]
Castorは、史料からAdrastus以降のSicyon王を見つけ出して、系譜を作成したが、2人くらい抜けていたようである。
Pausaniasは、Sicyon王の系譜や事績を記した史料に基づいての記述と思われ、信用できる。

13.25 王制の廃止
Dorinasの支配になってからは、王の支配ではなく、司祭がSicyonの町を支配した。[245]
Sicyonの町が、Dorinasの支配になったのは、BC1109年であった。
Sicyon王の統治期間を、Castorの年代記は、959年、Jeromeの年代記は、962年、Suda辞典は、981年であったと記している。[246]
しかし、実際は、BC1750年からBC1109年までの641年間であった。

14 Tenea
14.1 Teneaの創建
Teneaの町の最初の支配者は、Phliasの子Polybusであった。[247]
Polybusは、Phliusの町に住んでいたが、東南東へ移住して、Teneaの町を創建したと推定される。[248]

14.2 Thebesからの移住
BC1286年、Laiusの子Oedipusが、Polybusの養子になって、Thebesの町からTeneaの町へ移住して来た。[249]
恐らく、Polybusの妻Periboeaは、Laiusの娘であり、跡継ぎがないPolybusが妻の弟を養子に迎えたものと思われる。[250]

14.3 Sicyonへの移住
BC1276年、Polybusは祖父の跡を継いでSicyon王になり、Teneaの町からSicyonの町へ移住した。[251]
Oedipusは、Polybusの跡を継いでTeneaの町を治めた。

14.4 Thebesへの移住
BC1238年、Boeotia地方でSphinxの反乱が起こり、Oedipusは、Corinthiansを率いて反乱を鎮圧して、Thebesの町へ移住した。[252]

14.5 Tenedosからの移住
OedipusのThebesへの移住には、Teneaの町の住人の一部も同行したと思われる。
Oedipusが去った後、Teneaの町は、西隣のCleonaeの町のAtreusの支配下になった。
BC1186年、Atreusの孫Agamemnonは、Troy沖のTenedos島から逃れて来た人々をTeneaの町に住まわせた。[253]
このとき、町の名前が、Tenedos島の支配者Cycnus (or Cygnus)の子Tenes (or Tennes)に因んで、Teneaと名付けられた。[254]

14.6 Tenedosへの移住
BC1170年、Agamemnonの子Orestesは、Amyclaeの町のPeisanderと共にTenedos島へ遠征して、Peisanderは島に入植した。[255]
このとき、Teneaの町の住人の一部は、Orestesに同行して、Tenedos島へ帰還したと思われる。

14.7 Sicilyへの移住
BC733年、Corinthの町のHeracleidaeの一人Archiasは、Sicily島南東部へ移住してSicelsを追い出してSyracuseの町を創建した。[256]
Archiasが率いた移民のほとんどは、Teneaの町の住人であった。[257]
つまり、Syracuseの町の初期の住人は、Trojansであった。

14.8 Rome時代
AD2世紀、PausaniasがGreeceを旅したとき、Teneaの町には、Tenedos島から移住した人々の子孫が暮らしていた。[258]

15 Tiryns
15.1 Tirynsの創建
BC1645年、Niobeの子Argusの子Tirynsは、Argosの町から南東の海の近くへ移住して、Tirynsの町を創建した。[259]
BC1610年、Tirynsの兄弟Peirasは、Argosの町のHera神殿を創建した。[260]
Hera神像は、Niobeの子ArgusがTirynsの町に自生していた梨の樹から作った。[261]

15.2 Tirynsの支配者の変遷
BC1387年、Abasの子ProetusはArgosの町からAcrisiusを追放して、Tirynsの町はProetusの支配下に入った。[262]
BC1370年、Abasの子AcrisiusがArgosの町からProetusを追放して、Tirynsの町はAcrisiusの支配下に入った。[263]
BC1368年、Proetusは、彼の妻Steneboeaの父Amphianaxの援助を得て、Tirynsの町を占拠した。[264]
その後、ProetusとAcrisiusは戦い、Tirynsの町はProetusが領した。[265]
ProetusはLycia地方からCyclopesを招いてTirynsの町の城壁を強化した。[266]
BC1343年、Acrisiusの孫Perseusは、Proetusを殺害して、Seriphus島へ逃れた。[267]
BC1339年、Acrisiusが死に、Proetusの子Megapenthesは、Tirynsの町からArgosの町へ移り住んだ。[268]
BC1334年、Perseusは、Seriphus島から帰還して、Tirynsの町を占拠した。[269]
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、Tirynsの町にはPerseusの子Alcaeusが住んだ。[270]
BC1287年、Amphitryonは、Arcadia地方のPheneusの町のGuneusの娘Laonomeを妻に迎えて、息子Iphiclesが生まれた。[271]
BC1280年、Alcaeusが死に、彼の息子AmphitryonがTirynsの町を継承した。
BC1278年、Amphitryonは、Thebesの町のSpartiから招かれて、Tirynsの町からThebesの町へ移住した。[272]
BC1251年、Amphitryonの子Heraclesは、Thebesの町からTirynsの町へ移住した。 [273]
BC1243年、HeraclesはTirynsの町からArcadia地方のPheneusの町へ移住した。[274]
この後、Mycenaeの町のEurystheusの息子が、Tirynsの町を治めたと思われる。

15.3 Rhodesへの移住
BC1215年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeがPeloponnesusに帰還するが、翌年、彼らはAttica地方のTricorythusの町へ撤収した。[275]
Peloponnesusに残留したHeraclesの母Alcmenaの兄弟Licymniusは死に、Heraclesの子TlepolemusはTirynthiansを率いて、Rhodes島へ移住した。[276]
Tirynsの町のAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていたことから、Licymniusの墓は、そこにあったと推定される。[277]
Homerは、TirynthiansがMycenaeansではなく、Argivesの指揮下にTroyに遠征したと伝えている。[278]
しかし、Perseusの時代からTirynsの町は、Argosの町の支配下になったことはなく、Mycenaeansの町として記されるべきである。

15.4 Tirynsの滅亡
BC468年、Tirynsの町は、Mycenaeの町と共にArgosの町に滅ぼされた。[279]
Tirynsの町を逃れたTirynthiansは、Epidaurusの町や、Argolis湾入り口東側のHalieisの町へ移住した。[280]

16 Troezen
16.1 Troezenの創建
BC1430年、Danausと共に、EgyptからGreeceへ移住して来たOrusは、Argolis地方の南東部に定住し、その地方はOraeaと呼ばれるようになった。[281]
Orusの後、Orusの娘Leisの子Althepus、Saron、Alcyoneの2人の息子たち、HyperesとAnthas、Anthasの子Aetiusが町を支配した。
Aetiusの時代に、Pelopsの2人の息子たち、PittheusとTroezenは、Pisaの町からAetiusのもとへ移住して来て、彼と共住した。[282]
Pittheusは人々を集めて町を作り、彼の兄弟の名前に因んで、その町をTroezenと名付けた。[283]
PittheusがTroezenの町を創建したのは、BC1285年と推定される。[284]

16.2 Atticaからの亡命
BC1264年、Pallasの息子たちによって、Athensの町から追放されたPandionの養子Aegeusは、Troezenの町のPittheusのもとへ亡命した。[285]
Pittheusは、Aegeusの2人目の妻Chalciopeの父Chalcodonの兄弟Canethusの妻Heniocheの父であった。つまり、Aegeusは妻Chalciopeを通して、義姉弟の父であるPittheusを頼って亡命したと思われる。[286]
また、Megaraの町のPelopsの子Alcathousが、自分の兄弟Pittheusを紹介したのかもしれない。[287]
BC1263年、AegeusとPittheusの娘Aethraとの間に、息子Theseusが誕生した。[288]
Aegeusは、当時55歳と推定され、AegeusとAethraとは正式な結婚ではなかった。[289]

16.3 Atticaへの移住
BC1262年、Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得てAthensの町へ帰還した。[290]
Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusは、Attica地方にAnaphlystusの町とSphettusの町を創建した。[291]
BC1256年、Troezenの町で養育されていたAegeusの子Theseusは、Pittheusの屋敷で、Pittheusを訪問したHeraclesを見た。[292]
Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Nicippeの兄弟であった。
BC1247年、Theseusは、Troezenの町からAthensの町へ移住した。[293]
Theseusは、Pittheusの跡継ぎとして、Troezenの町に住んでいたが、Aegeusに跡継ぎがいなくなり、TheseusがAthensの町へ呼び寄せられた。

16.4 Athensからの移住
BC1241年、Theseusは、Antiopeから生まれた息子HippolytusをPittheusの跡継ぎにするためにTroezenの町へ移住させた。[294]
Hippolytusは、戦車の手綱が野生オリーブ樹に引っ掛かって、戦車が転覆して死んだと伝えられている。[295]
しかし、Hippolytusは、Argosの町のDiomedesと共にEpigoniに参加して戦死したと思われる。[296]
HippolytusとDiomedesとは同世代であり、Troezenの町には、Diomedesが創建したHippolytusの神苑があった。

16.5 Asia Minorへの植民
BC1070年、Alcyoneの子Anthasの子Aetiusの後裔Anthesは、Troezenの町からCaria地方へ移住して、Halicarnassusの町とMyndusの町を創建した。[297]
Anthesの移民団は、Argosの町のTemenosの子Ceisusの子Althaemenesが率いた移民団に含まれていた。[298]
Althaemenesの移民団はRhodes島に居を定めた後で、HalicarnassusやCnidus、Cosに分散した。[299]

おわり