1 はじめに
Arcadia地方は、Peloponnesus半島の中で、唯一、海から切り離された地方であった。
Herodotusは、Arcadia地方は山岳地帯であったが、金も銀もないと記している。[1]
Polybiusは、Arcadia地方の気候が寒冷で陰鬱であったため、人々はそれを解消するために歌唱や舞踏の修練を義務として行ったと伝えている。[2]
Pausaniasは、Arcadia地方を流れるLadon川をGreeceで一番美しい川だと絶賛している。[3]
Peloponnesus内の他の地方は何度も住民移動があったが、Arcadia地方の住人が大規模に変わることはなかった。
2 最初のGreeks
BC1560年、Crete島の北方約110kmのAegean Seaに浮かぶThera (現在のSantorini)島で火山の大噴火があった。[4]
気候変動よる食糧不足が発生し、Argosの町の住人の一部は、Thessaly地方や、Egyptへ移住した。
Argosの町に残った人々は、食糧を求めてArcadia地方へ移住した。
彼らを率いたのは、Phorbasの子Triopasの子Agenorの子Pelasgusであった。[5]
Pelasgusは、昔Argosの町のPhoroneusの子ApisがAegialeia (後のSicyon)の町のAegialeusの子Telchinと戦ったときに、Apisに加勢したParrhasiansに所属していた。[6]
Apisに敵対しAegialeiaの町にいたCaryatiiもArcadia地方のTegeaの町に居住地を変えているので、飢饉はArgolis地方全体に及んでいたと推定される。[7]
Pelasgusは、Arcadia地方で自生している数種類の樫の中で、ペゴス樫(edible oak)の実が食用になることを発見し、人々に教えた。[8]
Argosの町からTegeaの町に至る街道沿いにも樫の木が多く、Arcadia地方には樫の木が豊富に自生していた。[9]
Delphiの巫女は、Arcadiansを「樫の実を食べる」人々だと言っている。[10]
Pelasgusは、Argosの町から西南西へ約70kmの所に聳えるLycaeus山 (現在のMt. Lykaion、 標高1,421m)の近くに定住した。
3 Pelasgusの子Lycaonの時代
Pelasgusの子Lycaonは、Lycosuraの町を創建し、Lycaean gamesを開催した。[12]
Eleia地方のOlympiaの町で、Idaean Heraclesが競技会を開催する90年以上前であった。[13]
BC1510年頃に開催されたLycaean gamesは、恐らく、ギリシア最古の競技会である。
Lycaeus山頂からはPeloponnesus半島の殆どを見渡すことができ、山頂に雨乞いの供犠をするための祭壇があり、人身御供が行われていた。[14]
Pelasgusのもう一人の息子Temenusは、Arcadia地方北部に聳えるCyllene山の麓、後にStymphalusの町ができるあたりに住んだ。[15]
Lycaonには、長子Nyctimusをはじめ多くの息子たちがいて、それぞれArcadia地方各地に町を創建した。[16]
3.1 Lycaonの子Pallas
Pallasは、人身御供をする父Lycaonに反対し、信仰が芽生えた。[17]
Pallasの娘Athenaは、姉妹ChryseがDardanusと結婚するとき、都市の守護女神Palladia をChryseに贈った。[18]
Chryseは、Samothrace島で、後に「神々の母」「山の母」「Phrygiaの大女神」と呼ばれるCybeleと義理の姉妹になった。[19]
3.2 最初のLycaonと2人目のLycaon
Lycaonの息子たちの名前は数多く伝えられている。
系図を作成すると、その息子たちの中で、NyctimusとOrchomenusは、他の息子たちとの生年差が30年以上ある。Agenorの子Pelasgusの子Lycaonの子Pelasgusの子Lycaonという系譜があったと思われる。
つまり、最初のLycaonに、NyctimusとOrchomenusの他に、Pelasgusという息子がいて、そのPelasgusにもLycaon(2人目のLycaon)がいたと推定される。
4 Pelasgusの子Lycaonの時代
4.1 Heraeaの創建
BC1450年、2人目のLycaonの子Heraeeusは、Lycosuraの町から北北西へ移住して、Alpheius川の右岸にHeraeaの町を創建した。[20]
Heraeeusは、最初のLycaonの子Orchomenusの娘Sterope(or Asterie, Asterope)を妻に迎えて、息子Oenomausが生まれた。[21]
4.2 Tegeaの創建
BC1450年、Lycaonの子Tegeatesは、Arcadia地方の南東部にTegeaの町を創建した。[22]
BC1430年にTegeatesの息子たちはCrete島へ移民団を率いた。[23]
その後、BC1370年頃にArcasの子Apheidas (or Aphidas)の居住が確認されるまで、Tegeaの町の居住者は、不明である。[24]
4.3 大洪水の発生
BC1430年、Arcadia地方の中央部に長期的な大洪水が発生した。[25]
深刻な食糧不足に襲われたArcadiansは、各地へ移住した。
4.3.1 Dardanusの移住
Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusは、祖父Orchomenusが創建したMethydriumの町に住んでいた。Methydriumの町は、標高1,000m程の高地を流れるMaloetas川とMylaon川の間の小高い丘の上にあった。[26]
DardanusはArcadiansを率いてPeloponnesus半島を後にした。DardanusはAegean Seaを北上して、Hellespontos海峡手前のMelas Gulfの沖合に浮かぶSamothrace島に移住した。[27]
その後、DardanusはAnatolia半島北西部Troas地方に再移住して、Troy王国の祖となった。
[28]
4.3.2 Megassaresの移住
Dardanusの叔母Alcyoneも、彼女の夫Megassaresや2人の息子たち、HyperenorやHyrieus、それに娘Pharnaceと共に、Dardanusに同行した。[29]
MegassaresはSamothrace島に立ち寄ったCadmusの移民団に参加して、Boeotia地方に再移住し、Hyriaの町を創建した。[30]
Megassaresの2人の息子たち、Hyrieus と Hyperenorは、Cadmusに次ぐ実力者Spartiになった。[31]
Pharnaceは、Sidonの町のAstynousの子Sandocusと結婚して、Cinyrasが生まれた。[32]
Astynousは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[33]
Sandocusは、Phoenicia地方のTyreの町からCilicia地方へ移住してCelenderisの町を創建した。[34]
Cinyrasは、Celenderisの町から沖に浮かぶCyprus島に渡り、島の南西海岸付近にPalaepaphosの町を創建した。[35]
Cinyrasの娘Laodiceは、Arcadia地方のArcasの子Elatusの妻になった。[36]
ElatusとLaodiceの結婚は、Arcadia生まれのLaodiceの祖母Pharnaceの縁であろうと推定される。
4.3.3 Tegeatesの息子たちの移住
Tegeaの町のLycaonの子Tegeatesの3人の息子たち、Cydon、Gortys、Archediusは、Crete島へ移住した。[37]
彼らは、Dardanusの移民団と途中まで一緒に行動していたものと思われる。
後に、Cydonの子Minosは、Dardanusが住むTroas地方へ移住した。[38]
CydonはCrete島の北西部にCydoniaの町、Gortysは島中央部にGortynaの町、そしてArchediusはCatreusの町を創建した。[39]
Cydonは、Cydoniaの町に滞在したCadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaと結婚して、MinosとCardysが生まれた。[40]
4.3.4 Parusの移住
Arcadia地方のParrhasiaの町に住むLycaonの子Parrhasiusの子Parusも途中まで、Dardanusの移民団に同行した。Parusは、Delos島の南のParos島に入植した。[41]
4.4 Argosからの移住
BC1408年、Aegyptusの子AntimachusとDanausの娘Mideaとの息子Amphianaxは、Argosの町から後にMantineiaの町になる土地に移住した。[42]
Argivesは5つの集落を作り、Ptolisと呼ばれていた。後に、Lycaonの子Mantineusの名前に因んで、Mantineiaと名付けられた。[43]
同じ年に、Lynceusの子AbasもArgosの町からPhocis地方へ移住してAbaeの町を創建している。[44]
彼らの移住の原因は、Danausが追い出したGelanorの息子で、Sicyonの町に住むLamedonのArgosの町の占領であったと推定される。[45]
Mantineusの娘Aglaiaと、Lynceusの子Abasが結婚していることから、AbasはAmphianaxと共にArcadia地方へ移住し、その後、Phocis地方へ再移住したと思われる。[46]
AbasとAmphianaxは、いとこ同士であった。
Amphianaxの娘Antaiaの娘Maeraの墓がMantineiaの町の近くにあった。[47]
5 Callistoの子ArcasからArcasの孫Aleusまでの時代
5.1 文字の伝来
Arcadiansの系譜は、Callistoの子Arcasの時代から急に詳細になる。
Arcadia地方へ文字を知る者が移住したことが原因と思われ、その経路として、つぎの3つが考えられる。
1) Danausの孫Amphianax(Arcasと同時代)のArgosの町からの移住。
2) Callistoの子ArcasとCroconの娘Meganiraとの結婚に伴う、Eleusisの町からの移住。
3) Arcasの子ElatusとCinyrasの娘Laogoreとの結婚に伴う、Cyprus島からの移住
5.2 Trapezusの創建
BC1405年、Callistoの子Arcasは、Alpheius川の近くに移住して、Trapezusの町を創建した。[48]
5.3 Triptolemusの訪問
BC1402年、Callistoの子Arcasは、Eleusisの町のCeleusの子Triptolemusから栽培穀物の種子を譲り受け、住人にパンの作り方を教えた。[49]
これが縁で、Arcasは、Triptolemusの子Croconの娘Meganiraと結婚した。[50]
5.4 Argosへの嫁入り
BC1401年、Mantineusの娘Aglaiaは、Argosの町のLynceusの子Abasのもとへ嫁いだ。[51]
この結婚は、Abasの従兄弟Amphianaxが、Argosの町からPtolis (後のMantineia)の町へ移住したのが縁であった。
5.5 Ceos島への移住
BC1388年、Achaeusの子ArchanderとHypseusの娘Cyreneとの息子AristaeusがCeos島へ移住した。[52]
その移住には、Lycaonの後裔のParrhasiansが参加していた。[53]
5.6 Argosからの亡命
BC1370年、Acrisiusに追放されたArgosの町のAbasの子Proetusは、Ptolisの町のAmphianaxを頼って亡命して来た。[54]
Amphianaxの父Antimachusの父Aegyptusは、Proetusの父Abasの父Lynceusの父であった。
つまり、Proetusは、父Abasの従兄弟Amphianaxを頼って亡命した。
Proetusは、Amphianaxの娘Stheneboeaと結婚した。[55]
HomerはProetusの妻をAnteiaだと伝えているが、Thersanderの子Proetusの妻と勘違いしているようだ。[56]
BC1368年、Proetusは、Argolis地方へ帰り、Tirynsの町を占拠した。[57]
5.7 Corinthへの嫁入り
BC1370年、Amphianaxの娘Anteiaは、Ptolisの町からCorinthの町のSisyphusの子Thersanderの子Proetusのもとへ嫁いだ。[58]
5.8 Cyprusからの嫁入り
BC1360年、Arcasの子Elatusは、Cyprus島の南西部のPalaepaphosの町からCinyrasとMetharmeの娘Laogoreを妻に迎えた。[59]
Cyprus島とArcadia地方の遠距離婚を成立させた事情については、BC1430年のMegassaresの移住を参照。
5.9 Cleitorの創建
BC1355年、Arcasの子Azanの子Cleitorは、Trapezusの町からArcadia地方北部へ移住して、Cleitorの町を創建した。[60]
5.10 Elateiaの創建
BC1350年、Arcasの子ElatusはArcadiansを率いて、Delphiの神域に侵入したPhlegyansと戦っていたPhociansに味方して、Phlegyansを撃退した。[61]
Elatusは、Phocis地方にElateiaの町を創建した。[62]
Straboの時代、Elateiaの町はPhocis地方最大の町であった。[63]
Elateiaの町は、Homerに言及されておらず、Homerより後の時代に発展したと思われる。[64]
5.11 Daphne伝説
Pausaniasは、Daphne伝説を記している。その舞台は、Arcadia地方からEleia地方へ流れ下るAlpheius川に、北から流れ込むLadon川が合流する付近のHeraeaの町であった。[65]
Pausaniasは、Heraeaの町の近くを流れるLadon川がGreeceで一番美しい川だと絶賛しており、その美しい流れがDaphne伝説を生み出したと思われる。[66]
Heraeaの町は、Lycaonの子Heraeeusによって創建された。そして、PausaniasがPisaの町のOenomausだと誤って伝えている、Sterope (or Asterie、Asterope)の息子Oenomausに継承された。[67]
したがって、Daphneの伝承に登場するLeucippusは、Pisaの町のOenomausの息子ではなく、そのOenomausの祖父である、Heraeaの町に住むOenomausの息子であった。[68]
Pausaniasは、Daphne伝説がArcadia地方やEleia地方に残っていたと記している。その伝承は、Arcadia地方で生まれ、Hippodamiaの父OenomausのEleia地方進出に伴って、広まったものと思われる。[69]
5.12 Oenomausの系譜
Heraeaの町の創建者Heraeeusには、息子Oenomausがいた。
このOenomausは、Pausaniasが勘違いしているPisaの町のOenomausの祖父であった。[70]
そのOenomausには、Leucippusの他に、Alxion (or Alexinus)という息子もいた。[71]
Alxionは、Sicyonの町からEpopeusの娘Harpina (or Harpine)を妻に迎えて、息子Oenomausが生まれた。[72]
Harpinaは、Heraeaの町の近くでAlpheius川に合流する川を、祖父の名前に因んでLadon川と名付けた。Harpinaの母は、Ladonの娘Metopeであった。[73]
Harpinaの祖父Ladonが住むBoeotia地方のCadmeiaの町の東側を流れるIsmerus川は、Ladon川とも呼ばれていた。[74]
5.13 OenomausのEleia進出
BC1330年、Oenomausは、Heraeaの町からAlpheius川沿いにEleia地方へ進出して、彼の母の名前に因んだHarpinaの町を創建した。[75]
その後、Oenomausは勢力を増し、BC1315年、Heraeaの町の西隣のPisaの町に住むPerieresの子Pisusを町から追放して、Pisaの町の支配者になった。[76]
Oenomausは、当時、Elisの町の支配下にあったOlympiaの町をも奪って、Olympiaで競技会を開催した。[77]
5.14 PelopsとOenomausの戦い
BC1312年、Tantalusの子Pelopsは、Iliumの町のTrosの子Ilusに攻められ、Lydia地方からPeloponnesos半島へ移住して来た。[78]
Pelopsの上陸地は、Laconia湾奥のEurotas川の河口付近であった。Pelopsは、河口近くのAcriaeの町の創建者Acriasを軍に加え、途中、AmyclaeやSpartaで兵の数を増やした。PelopsはArcadia地方に入り、Alpheius川を下ってPisaの町に達した。[79]
Pelopsの目的は、彼の祖父Clymenusが追放されたOlympiaの町を奪還することであった。[80]
Pelopsは、当時Olympiaの町を支配下に置いていたPisaの町のOenomausと戦って、両方の町を手に入れた。[81]
5.15 MycenaeとElisへの嫁入り
BC1297年、Amphidamasの娘Antibiaは、Stymphalusの町の近くのAleaの町からMycenaeの町のPerseusの子Sthenelusへ嫁いだ。[82]
同じ年、Amphidamasのもう一人の娘Nausidameは、Aleaの町からElisの町のAlector (or Alexinus)の子Eleiusへ嫁いだ。[83]
この2つの結婚は、HeraclesのElis攻めに関係があった。
Sthenelusの息子は、Mycenaeの町のEurystheusであり、Alectorの息子は、Elisの町のAugeasであった。
つまり、EurystheusとAugeasは、義理の従兄弟同士であった。
Eurystheus誕生前、SthenelusとAntibiaとの婚姻関係によって、Elisの町とMycenaeの町は、良好な関係にあった。しかし、Eurystheusの父Sthenelusが、Pelopsの娘Nicippe(or Archippe)と2度目の結婚をするに及んで、両者の関係が冷えた。[84]
Pelops亡き後、Elisの町のAugeasは、Pisaの町に代わってOlympiaで競技会を開催し、Pisaの町にも影響力を及ぼすようになった。Eurystheusは、Pisaの町からの請願を受けてHeraclesにElisの町を攻めさせた。[85]
5.16 Tirynsへの嫁入り
BC1287年、Pheneusの町のGuneusの娘Laonomeは、Tirynsの町のAlcaeusの子Amphitryonに嫁ぎ、息子Iphiclesが生まれた。[86]
Amphitryonの母がLaonomeであったという伝承はあるが、Amphitryonの妻がLaonomeであったという伝承はない。しかし、系図を作成すると、Amphitryonの妻AlcmenaとIphiclesの生年差は、7歳しかなく、AlcmenaをIphiclesの母とするのは妥当ではない。
後に、Elisの町との戦いで、Iphiclesが瀕死の傷を負ったとき、Pheneusの町のBuphagusと彼の妻PromneがIphiclesを看護した。両者の間に親戚関係があったと推定される。[87]
6 Aleusの子Lycurgusの時代
6.1 Athensからの移住
BC1277年、Aegeusに追われたAtheniansが、Aleusの子Cepheusを頼ってOrchomenusの町の近くのCaphyaeの町に移住した。[88]
Caphyaeの町はAeneasが建設し、彼の祖父Capysに因んで名付けられたという説もある。しかし、それは、Romeの庇護を受けるために流布された作り話と思われる。[89]
6.2 Boeotiaからの移住
BC1256年、 Megareusの子Hippomenesは、Boeotia地方のOnchestusの町からArcadia地方へ移住した。[90]
また、Boeotia地方のSchoinosの町のSchoeneusもArcadia地方へ移住した。[91]
彼らの移住は、Orchomenusの町との戦いに勝って勢力を増したThebesの町から逃れたものであった。
Schoeneusは、Tegeaの町近くにSchoenusの町を創建した。[92]
Hippomenesは、Schoeneusの娘Atalantaと結婚して、息子Parthenopaeusが生まれた。[93]
6.3 Mycenaeへの嫁入り
BC1252年、Tegeaの町のAmphidamasの娘Antimacheは、Mycenaeの町のSthenelusの子Eurystheusに嫁いだ。[94]
Antimacheの父Amphidamasの父Lycurgusの父Aleusは、Eurystheusの父Sthenelusの妻Antibiaの父Amphidamasの父であった。
つまり、Antimacheは、彼女の父Amphidamasの従兄妹Antibiaの夫Sthenelusの息子と結婚した。
6.4 EleiaのAreneとの紛争
BC1250年、Tegeaの町のAleusの子Lycurgusは、Eleia地方南部のTriphylia地方のAreneの町と土地の問題で争い、Areithousを討ち取った。[95]
Areithousは、Phylomedusaの夫であり、彼らの息子Menesthiusは、Trojan Warの戦士としてHomerのIliadに登場する。[96]
BC5世紀の歴史家Pherecydesは、AreithousをBoeotianだと伝えている。Areithousは、Nestorの母Chlorisと共にBoeotia地方のOrchomenusの町からEleia地方のPylusの町を経て、Triphylia地方へ移住して来たMinyansの首領と思われる。[97]
Areithousは、Areneの町からTegeaの町へ向かう途中の隘路で、Lycurgusの策略にかかって最期を遂げた。[98]
Mantineiaの町からTegeaの町に向かう街道の狭くなった所にAreithousの墓があった。[99]
6.5 Peliasの娘たちの墓
Pausaniasは、Mantineiaの町の近くに、Thessaly地方のIolcusの町のPeliasの娘たちの墓があったと伝えている。[100]
Peliasや彼の娘たちは、Argonautsの遠征に関係した人物であり、Arcadia地方に彼らの伝承を持ち込んだのは、Minyansであったと推定される。
Minyansは、Iolcusの町からLemnos島、Laconia地方、Thera島を経由してLibyaに渡り、Cyreneの町へ移住した。[101]
BC6世紀、Cyreneの町は、優秀な国制を持っていたMantineiaの町からDemonaxを招いて国政改革を行った。[102]
Cyreneの町とMantineiaの町には交流があり、Minyansの伝承がMantineansに伝えられたと推定される。
Argosの町やSpartaの町などと歴史の古さを競うようになったMantineansは、有名な物語に登場するPeliasの娘たちの墓を築いたと推定される。
6.6 Centaursの移住
BC1246年、Thessaly地方のPelion山付近に住んでいたCentaursは、Ixionの子Peirithous率いるLapithsに追われて、各地へ移住した。[103]
Centaursの一部は、Arcadia地方西部のPholoe山に逃れ、Heraclesとの戦いで滅ぼされたという伝承がある。[104]
しかし、この伝承もPeliasの娘たちの墓と同様に創作と思われる。
Centaursの大部分は、Thessaly地方の北部を流れるPeneius川源流のAethicesの地方へ移住した。[105]
また、Centaursの一部は、Aetolia地方のCalydonの町の東側を流れるEvenus川付近にも移住した。[106]
Centaursが所属するAenianiansは、DotiumからOeta山付近に移住した。[107]
Nessus率いるCentaursは、Oeta山からCalliumの町を経由してNaupactusの町近くのEvenus川に逃れたと推定される。[108]
6.7 EleiaのPylusとの戦い
BC1244年、Eleia地方南部のPylusの町のNeleusの息子たちは、Chaaの町の領有権を巡ってArcadiansと戦った。[109]
この時のArcadiansの王はTegeaの町のAleusの子Lycurgusであった。Lycurgusは高齢のため、家臣EreuthalionがArcadiansを率いた。Ereuthalionは、Areithousの鎧を身に着けて戦ったが、Neleusの子Nestorに討ち取られた。[110]
Lycurgusの墓がTegeaの町ではなく、Chaaの町の近くのLepreusの町にあったことから、Lycurgusは陣中で病没したと思われる。[111]
7 Heraclesの時代
7.1 Tirynsからの移住
BC1243年、Amphitryonの子Heraclesは、Tirynsの町からPheneusの町へ移住した。[112]
これより前、Heraclesは、Molioneの2人の息子たち、CteatusとEurytusを殺害して、Elisの町からMycenaeの町のEurystheusはHeraclesの引き渡しを求められていた。[113]
Eurystheusは、HeraclesにTirynsの町から出て行かせた。
7.2 Elisへの遠征
BC1240年、Heraclesは、Pheneusの町からElisの町へ遠征して、Augeasと戦って、町を占領した。[114]
Pausaniasは、Pisaの町もPylusの町と共に、Elisの町に味方したと伝えている。[115]
しかし、前述したように、この戦いは、Elisの町とOlympiaをめぐって対立するPisaの町からの要請であり、Pisaの町がElisの町に味方することはあり得ない。
7.3 Italyへの移住
7.3.1 Arcadiaからの出発
BC1240年、Tegeaの町のすぐ西にあるPallantiumの町(現在のPalantio付近)で争いが起こった。争いに敗れたThemisの子Evanderは新天地を求めて一族と共に町を去った。[116]
EvanderはParrhasiansに属し、Argosの町からArcadia地方に居住地を広げたPelasgusの子Lycaonの家系であった。[117]
Evander率いる移民団は、Tegeaの町からOlympiaの町を経て、Olenusに至る街道を進んだ。
途中、Evanderは、Olympiaの町でHeraclesのElis攻めに参加した後で、行き場を失った者たちがAlpheius川付近で野営している人々に出会った。[118]
Evanderは、参加を申し出たAchaia地方のDymeの町のEpeansやPheneusの町のArcadiansを移民団に参加させた。[119]
Evanderは、Elisの町の外港CylleneからItaly半島へ向けて出航した。[120]
7.3.2 Latiumへの定住
Evanderの移民団は、Italy半島を右回りに航海して、西海岸中央部のTiber川を遡り、後にRomeと呼ばれるようになる土地に上陸した。Evanderは、Velia (後のPalatium)という丘の近くに定住した。[121]
そこから東へ約35km離れた、Praeneste (現在のPalestrina)の町の支配者HerilusはEvanderに戦いを挑んだが撃退された。[122]
Evanderの移民団の中には、Heraclesの遠征に従軍した歴戦の勇士が含まれていた。[123]
当時、野蛮なSicelsによって苦しめられていたLaurentumの町のFaunusは、Evanderを味方として受け入れた。[124]
Evanderは、Faunusを助けて、Sicelsの首領であるVulcanus (or Vulcan)の息子Cacusを討ち取り、Sicelsを南へ追いやった。[125]
Evanderに同行したEpeansやPheneusの町のArcadiansは、Sicelsが住んでいたSaturnianの丘に定住した。[126]
7.3.3 Evanderの後裔
Evanderは移住後、Faunusの親戚の者と思われるSabinesの娘Nicostrateと結婚して、息子Pallasが生まれた。[127]
Nicostrateは神がかりになって託宣を下す予言者であったと伝えられ、Carmentaとも呼ばれた。[128]
Evanderの母Themisも予言者で、Carmentaとも呼ばれ、姑から嫁への術の伝授であった。[129]
Themisの先祖であるPelasgusの子Lycaonの子PallasにはChryseという娘がいた。Chryseにも神秘的な宗教に関する伝承があり、Lycaonの子Pallasの家系に連なる女性たちに代々受け継がれていったものと思われる。[130]
BC1182年、Evanderの子PallasはAeneasに味方して、Faunusの跡を継いだAeneasとRutuliansのTurnusと戦って死んだ。[131]
EvanderとAeneasとは、Pelasgusの子Lycaonを共通の先祖とする同族であった。
BC1154年、Evanderに率いられてItaly半島へ移住したArcadiansの後裔は、Aeneasの子Ascaniusが創建したAlbaの町に移住した。[132]
しかし、Arcadiansの一部はそのままPalatineの丘の近くに住み続けた。Rome建国の父Romulusの養父Faustulusもその一人であった。[133]
7.3.4 その他
AlphabetをItalyに持ち込んだのは、Evanderと共に移住したArcadiansであったと伝えられ、Romeの繁栄に大きく寄与した。[134]
そのAlphabetは、Greek alphabetではなく、Homerの頃まで使われていたPelasgic lettersと推定される。[135]
AD2世紀、第15代Rome皇帝AntoninusはEvanderの功績を認めて、彼の出身地であるArcadia地方のPallantiumの町を市に格上げし、住民の自治を認めて税を免除した。[136]
その後、Pallantium市民は、Evanderの像を建立した。[137]
7.4 Lacedaemonとの戦い
BC1239年、Heraclesは、Amyclaeの町やSpartaの町で、Hippocoonや彼の息子たちと戦って、彼らを討ち取った。[138]
この戦いには、Tegeaの町のCepheusも彼の息子たちと共に参加した。[139]
この戦いの原因は、HeraclesのHippocoonに対する私的な恨みだと伝承は伝えている。[140]
しかし、ArcadiansとLacedaemoniansとの紛争に、Heraclesが前者に味方したというのが真相と思われる。
7.5 Calydonへの移住
BC1238年、Heraclesは、Pheneusの町に5年間住んだ後で、Aetolia地方のCalydonの町へ移住した。[141]
Heraclesの勢力増大に危機感を抱いたEurystheusが、彼の妻の父で、Arcadia地方の支配者Lycurgusの子Amphidamasを介して、Pheneusの町から退去させたと推定される。
7.6 Mysiaへの移住
BC1230年、Augeの子Telephusは、Mysia of Pergameneへ移住した。[142]
Telephusは、HeraclesとAugeとの間の息子だと伝えられているが、Telephusの父は、Schoeneusの子Clymenusであった。Telephusや住人は、Clymenusの横暴に耐えられず、Asia Minorへ移住した。[143]
Telephusの母Augeは、Mysia地方の支配者Teuthrasと結婚し、TelephusはTeuthrasの娘Argiopeと結婚した。[144]
Telephusは、Teuthrasの跡を継いでMysia地方を治めた。[145]
7.6.1 AugeとTelephusの後裔
AugeとTeuthrasには、息子Teuthraniusが生まれた。[146]
TelephusとArgiopeには、息子Eurypylusが生まれた。[147]
Trojan Warの時代、TeuthraniusとEurypylusはMysiansを率いて、Troyに味方してAchaeansと戦って死んだと伝えられている。[148]
7.7 Thebes攻めへの参加
TelephusのMysiaへの移住には、Schoeneusの娘Atalantaの子Parthenopaeusも同行した。[149]
Parthenopaeusは、Tegeaの町近くのSchoenusの町で生まれた。[150]
Parthenopaeusの母Atalantaと、Telephusの父Clymenusは、兄妹であり、ParthenopaeusとTelephusは、いとこ同士であった。[151]
BC1215年、Parthenopaeusは、Argosの町のAdrastusがThebes攻めの軍を起こすと、祖父の無念を晴らすために遠征に参加したが、戦死した。[152]
BC1205年、Parthenopaeusの2人の息子たち、TlesimenesとBiantesは、父の仇を討つためにEpigoniのThebes攻めにMysia地方から駆け付けて参加した。[153]
8 Trojan War時代
8.1 Cyprusへの移住
Homerは、Ancaeusの子AgapenorがArcadiansを率いて、Troy遠征に参加したと伝えている。[154]
Pausaniasは、Troyからの帰還途中でArcadiansが乗り組んだ船が嵐に遭ってCyprus島に流れ着いたと伝えている。[155]
しかし、AgapenorがCyprus島へ移住した目的は、銅を採掘することであった。[156]
Ancaeusの子Agapenorは、Cyprus島の南西部のPalaepaphosの町の近くにPaphosの町を創建した。[157]
Agapenorの父Ancaeusの父Lycurgusの母Neaeraの父Pereusの母Laodiceは、Palaepaphosの町の創建者Cinyrasの娘であった。[158]
つまり、Arcadia地方とCyprus島とは古くから交流があった。
後に、Cyprus島に住むAgapenorの後裔Laodiceが、Tegeaの町のAthena Alea神殿に外衣を奉納している。[159]
Pausaniasは、奉納品に付いた詩銘を記しているが、もし、Pausaniasが実際に見たのであれば、Laodiceは、BC4世紀以降の人物である。
Athena Alea神殿は、第96回Olympiadの2年目(BC395)に焼失し、その後再建されているからである。[160]
8.2 Bithyniaへの移住
Apollodorosは、Troy陥落後、Cyprus島に住み着いた人々の他に、Sangarius川近くに定住した人々もいたと伝えている。[163]
Trojan Warとは関係ないかもしれないが、Bithynia地方へ移住したArcadiansもいたと思われる。
彼らは、Sangarius川近くのBithynium (後のClaudiopolis)の町に住み着いたMantineiansであったと思われる。
AD2世紀のRome皇帝Hadrianの寵臣Antinousは、Bithyniumの町の出身であった。[164]
Hadrianは、Antinousの死後、彼の先祖の出身地Mantineiaの町にAntinousの神殿を創建した。[165]
Hadrianが、Mantineiaの町に好意的であったのは、Arcadiansの中でMantineiansのみがRome皇帝Augustusに味方したことも一因であった。[166]
8.3 Mycenaeからの移住
BC1173年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[167]
Agamemnonの子Orestesは、Mycenaeの町からTegeaの町へ移住した。[168]
伝承では、Orestesは「神託に従って」移住したことになっているが、実際は、Doriansとの戦いに敗れて、Tegeaの町へ逃れたと思われる。[169]
その後、Orestesは、DoriansをPeloponnesusから追い出したが、破壊されたMycenaeの町へは住まず、Tegeaの町で最期を迎えた。[170]
Orestesの墓は、Tegeaの町の市門の内側にあったが、Spartansが遺骨を盗んで、Spartaの町に改葬した。[171]
Pausaniasの時代、Orestesの墓はSpartaの町にあった。[172]
Orestesと共に多くのAchaeansがArcadia地方へ移り住み、DoriansがLacedaemonの支配者となった後も住み続けていたと思われる。
SpartansがMesseniansと戦ったとき、ArcadiansはMesseniansを同族として支援した。
8.4 TegeaからTrapezusへの遷都
BC1173年、Arcadia王、Cercyonの子Hippothousは、王都をTegeaの町からTrapezusの町に移した。[173]
Pausaniasは、Mycenaeの町のAgamemnonの子Orestesが、Arcadia地方の大半を領したと伝えているが、その中にTegeaの町も含まれていたと思われる。[174]
Orestesは、Tegeaの町で最期を迎えた。[175]
9 DoriansのPeloponnesus
9.1 Heracleidaeの帰還
BC1112年、Aristomachusの子Temenus率いるDoriansは、Achaia地方のRion岬に上陸した。[176]
Temenusは、Achaia地方のAegaeの町からArcadia地方へ入った。[177]
Temenusは、彼らの軍中にいたArcadiansと同族が住むArcadia地方の人々を味方に付けようとしたものと思われる。[178]
Heracleidaeの祖Heraclesは、Arcadia地方北部のPheneusの町に5年間居住したこともあり、Heracleidaeにとっては、親しみのある土地でもあった。[179]
Arcadia王Cypselusは、Heracleidaeを歓待して、彼の娘MeropeをTemenusの弟Cresphontesに嫁がせた。[180]
Arcadia地方は、DoriansがPeloponnesusの支配者になった後も、住人の移動がなかったPeloponnesus内で唯一の地方であった。
9.2 AepytusのMesseniaへの帰還
Aristomachusの子Cresphontesは、Messenia地方を領有し、Meropeには息子たちが生まれた。[181]
Cresphontesは、民衆が喜ぶように統治したので、財産を持つ富裕層が反乱を起こして、Cresphontesと彼の息子たちを殺した。[182]
Cresphontesの末の子Aepytusは、Arcadia地方のTrapezusの町に住む祖父のもとで養育されていたために無事であった。[183]
BC1082年、AepytusはArcadia地方に住む彼の母の兄弟Holaeas、Argosの町のTemenusの子Isthmius、Spartaの町のEurysthenesとProclesの支援を受けてMessenia地方のStenyclerusの町へ帰還した。[184]
9.3 Spartaとの戦い
BC920年、AgiadaeのSparta王Sousは、Cleitoriansと戦った。[185]
Cleitoriansは、BC1355年にAzanの子Cleitorが、Arcadia地方北部に創建したCleitorの町の住人であった。[186]
BC900年、EurypontidaeのSparta王Agisは、Arcadia地方に侵攻してMantineiansに殺害された。[187]
AgiadaeのSparta王、Sousの子Eurypon (or Euryphon)は、Mantineiaの町を攻めて占領した。[188]
9.4 Aeginetansとの交易
BC850年、Trapezusの町のSimusの子Pompusは、Aeginetansと交易し、彼らとの友好の印として息子にAeginetesという名前をつけた。[189]
Aeginetansは、Elisの外港Cyleneから、陸路で物資を運び上げた。[190]
Aeginetansの交易品は、Sicily島の皿やMegaraの樽などで、Arcadiansの交易品は、荷運びや耕作用のラバを産むために必要なロバであったと推定される。[191])
Straboは、Arcadia地方にロバの牧場があったと伝えている。[192]
9.5 Spartaとの戦い
BC790年、Tegeaの町は、Spartaの町のPolydectesの子Charillusに攻められた。Elnes率いるTegeansは勇敢に戦い、Charillus本人をはじめ多くの捕虜たちを得た。Spartansの捕虜は、足枷を付けられて農作業をさせられた。[193]
その足枷は、Tegeaの町のAthena Alea神殿に奉納され、Pausaniasはそれを見たと記している。[194]
しかし、BC395年、古い神殿は焼失し、Pausaniasが見たのは再建された神殿にあった足枷であった。
おわり
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