第33章 アイトリア地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.7.4, Update:2024.8.21
Aetolia

1 はじめに
Aetolia地方に最初に住んだギリシア人は、Endymionの子Aetolusが率いて、Elisの町から、その地に移住した人々であった。彼らが移住したとき、Aetolia地方にはCuretesが住んでいた。[1]
Straboは、Cadmusに追われたHyantesの一部が、Boeotia地方からAetolia地方へ移住したと伝えている。[2]
Curetesは、名前を変えたHyantesであったと推定される。
Aetolusの子Pleuronと、Curetesの女性との結婚は、Aetolia地方の長い抗争の原因になった。

2 Endymionの子Aetolusの時代
2.1 Elisからの移住
BC1320年、Eleia地方のElisの町のEndymionの子Aetolusは、Epeansを率いて、Peloponnesus半島から北へ海を渡った。[3]
Aetolusは、Salmoneの町のSalmoneusによって、Elisの町を追われた。[4]
AetolusはElisの町の王であったが、彼の後に王となったのは、彼の姉妹Eurycydaの息子Eleiusであった。[5]
Eleiusの父は、Salmoneusの子Alector (or Alexinus)であったと推定される。[6]
つまり、Elisの町の権力争いがあり、自分の孫を王位に就けようとしたSalmoneusがAetolusや彼を支持する人々をElisの町から追放したと思われる。

2.2 Pleuronの創建
Aetolusは、Achelous川とEuenus川の間の、Curium山麓に定住し、Pleuronの町を創建した。[7]
その地は、Curetian countryと呼ばれ、先住民Curetesがいた。[8]
Aetolusは、Curetesと戦って勝利したが、Curetesを遠方に追い払うことはできなかった。[9]
Aetolusが入植した地方は、彼の名前に因んでAetolia地方、その地方に住む人々は、Aetoliansと呼ばれるようになった。[10]

2.3 Aetolusの妻
Aetolusは移住前に、Phorbasの娘Pronoeと結婚して、2人の息子たち、PleuronとCalydonが生まれていた。[11]
Aetolusの妻Pronoeは、Lapithus (or Lapithes)の子Phorbasの娘であった。[12]
Lapithusは、Lapithsの始祖であり、Mimasの子Hippotesの子Aeolusの息子であった。
Aetolusは、Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Aethliusの子Endymionの息子であった。
つまり、AetolusとPronoeは、又従兄妹同士であった。

3 Aetolusの子Pleuronの時代
3.1 Pleuronの結婚
Pleuronは、CuretesのDorusの娘Xanthippe (or Demonice)を娶り、父の跡を継いで、Pleuronの町に住んだ。[13]
Xanthippeは、この時代によく見られる戦争捕虜のようでもあるが、その後のAetolusの後裔とCuretesの関係を見ると、両者の和睦のための結婚であったようだ。

3.2 Calydonの創建
Pleuronの兄弟Calydonは、Pleuronの町から東南東へ約12kmの所に移住して、Calydonの町を創建した。
Aetolusと共にElisの町から移住して来たEpeans (Aeolis)は、Curetesの居住地と隣接するPleuronの町に住んでいた。しかし、彼らは次第にCuretesに圧迫され、Calydonの町へ移り住むようになった。[14]

3.3 Eleiaからの嫁入り
BC1301年、危機感を抱いたCalydonは、父AetolusをElisの町から追い出したSalmoneusに代わってEleia地方の覇者になったPylusの町のAmythaonの娘Aeoliaを妻に迎えた。[15]
Aeoliaに随行して、Elisの町から多くのAeolisがCalydonの町へ移住したと推定される。
Aeoliaは、Calydonの父Aetolusの父Endymionの父Aethliusの兄弟Salmoneusの娘Tyroの子Amythaonの娘であった。つまり、Aeoliaは、Calydonの3従兄妹であった。

4 Pleuronの子Thestiusの時代
4.1 Diomedesの祖父Oeneusの父
4.1.1 伝承上のOeneusの父
伝承では、Oeneusの父は、つぎのように伝えられている。
Homerは、AgriusとMelasの父Portheus。 [16]
Hyginusは、Parthaon。 [17]
Apollodorosは、Pleuronの子Agenorの子Parthaon。 [18]
Antoninus Liberalisは、Portheus。 [19]
Pausaniasは、Porthaon。 [20]

4.1.2 もう一人のOeneus
Pausaniasは、Troy占領後に、OeneusがDiomedesの許へ帰った際、庶出の娘Mothoneが生れたというMessenia地方のMothoneの伝承を記している。[21]
しかし、Oeneusの孫Diomedesは、Troyに行く前に結婚しており、Trojan Warの後のOeneusは、曾孫がいても不思議ではない年齢である。高齢のOeneusに娘が生まれたとは信じられない。[22]
また、Homerは「軍船目録」の中で、Oeneusは既に死んでいると記している。[23]
これらの伝承を総合すると、Pleuronの子Agenorの子ParthaonにOeneusという名前の息子がいたことは事実のようであるが、Diomedesの祖父とは別人と思われる。

4.1.3 Oeneusの父の推定
Mothoneの伝承に従えば、Parthaonの子Oeneusは、Diomedesと同世代であり、Diomedesの祖父Oeneusは、Parthaonの子Oeneusの祖父Agenorと同世代である。
従って、Diomedesの祖父Oeneusは、Pleuronの息子、または、Pleuronの兄弟Calydonの息子と推定される。
また、CuretesとCalydoniansとの間に争いが起こり、Oeneusの子MeleagerがPleuronの子Thestiusの息子たちを殺したと伝えられている。[24]
つまり、Calydonの支配者Oeneusは、Curetesの血を引いていないことになる。
したがって、Diomedesの祖父Oeneusの父は、Aetolusの子Pleuronではなく、Aetolusの子Calydonだということになる。
Aetolusの子Pleuronは、CuretesのDorusの娘Xanthippeを妻としており、その息子たち、AgenorやThestiusは、Curetesであった。[25]

4.1.4 Oeneusの結婚
BC1267年、Oeneusは、Pleuronの町のThestiusの娘Althaeaを妻に迎えた。[26]

4.2 Thestiusの父
Oebalusの子Tyndareusの妻Ledaの父Thestiusについては、Pausaniasのみが、Pleuronの子Agenorであると伝えている。[27]
しかし、つぎの理由からThestiusの父はAgenorではないと思われる。
Thestiusの父がAgenorであるとすれば、Agenorの子Porthaonは、Thestiusの兄弟になる。[28]
Calydonの猪狩りの物語に、Thestiusの息子たち11人のうち9人の名前が登場するが、Porthaonの5人の息子たちは登場しない。
その物語には、Aetolusの子Calydonの子Oeneusの息子たちが登場するので、Thestiusは、Oeneusと同世代ということになる。
Thestiusは、Calydonの町と戦っていたPleuronの町の支配者であり、Thestiusの父は、Calydonの兄弟Pleuronであったと推定される。[29]

4.3 Ozolian Locrisへの嫁入り
BC1266年、Calydonの娘Protogeniaは、Amphissaの町に住むAetolusの子Andraemonに嫁いだ。[30]
Calydonは、Pleuronの町に対抗するために、東側に隣接するOzolian Locriansの勢力を味方に付けようとしたものと推定される。

4.4 Olenusの創建
BC1265年、Dexamenusの子Hipponousは、Achaia地方のOlenusの町からAetolia地方へ移住して、Olenusの町を創建した。[31]
その町の近くにあるPleuronの町は、Hipponousの父Dexamenusの兄弟Actorの妻Molioneの出身地であった。[32]

4.5 Spartaからの移住
BC1265年、Oebalusの子Tyndareusは、Spartaの町からPleuronの町へ移住した。[33]
Pleuronの町のThestiusは、Apahareusの姉妹Demoniceの嫁ぎ先であった。[34]
Demoniceは、Tyndareusの異母姉妹であった。[35]

4.6 Messeniaからの移住
Tyndareusは、Aetolia地方へ行く前にMessenia地方のAreneの町へ行った。Areneの町に住んでいたAphareusの子Idasは、Tyndareusと同世代であり、2人は一緒に移住した。[36]
Idasの母AreneはTyndareusの姉妹であり、IdasはTyndareusの甥であった。
Idasは、Pleuronの町のEvenusの娘Marpessaと結婚した。[37]
伝承では、IdasがMarpessaを奪って、Evenusに追いかけられたが、EvenusはIdasを捕まえられず川に身を投げ、その川はEvenusと呼ばれるようになった。[38]
Evenus川は、Pleuronの町からCalydonの町を越えた所を流れており、Idasは、Pleuronの町からCalydonの町へ逃げ込んだと思われる。
後に、Idasの娘は、Calydonの町のOeneusの子Meleagerと結婚した。[39]

4.7 Argosからの移住
Argosの町でHyettus事件が起きて、Melampusの2人の息子たち、AbasとMantiusの対立が生じた。[40]
BC1264年、Melampusの子Mantiusは、Abasによって、Argosの町から追われて、叔母Aeoliaの嫁ぎ先であるCalydonの町へ逃れた。[41]
Mantiusの子Oecleusは、Pleuronの町のThestiusの娘Hypermnestraと結婚して、息子Amphiarausが生まれた。[42]

5 Calydonの子Oeneusの時代
5.1 Idasの娘の結婚
BC1247年、Idasの娘Cleopatra (or Halcyone)は、Calydonの町のOeneusの子Meleagerと結婚した。[43]

5.2 Argosへの移住
BC1247年、Melampusの子Mantiusは、息子Oeclesや孫Amphiarausと共に、Calydonの町からArgosの町へ帰還した。[44]
この後、Aetolia地方では、Calydonの町とPleuronの町との間で戦いが始まる。
2つの町に縁があるMantiusの子Oeclesと彼の妻Hypermnestraがいなくなったことで、2つの町の争いが再燃したと思われる。
また、Pleuronの町出身のIdasの妻Marpessaは、自殺したとも伝えられており、このことが戦いの原因に関係しているのかもしれない。[45]

5.3 CalydonとPleuronの戦い
BC1246年、Aetolusの入植時代から続く、入植者と先住民の争いは、後世に語り継がれるほどの戦いになった。AetoliansとCuretesとの間の激戦は、6日間続いた。[46]

5.3.1 Calydonの猪狩りの物語
Calydonの猪狩りの物語には、Argonautsの遠征に参加した多くの英雄たちが登場する。[47]
古代ギリシアの9歌唱詩人の一人に数えられるBacchylidesも、CuretesとAetoliansとの戦いを伝えている。しかし、彼の詩には、英雄たちは登場しない。BC5世紀には、多くの英雄たちが追加される前の物語が残存していたと思われる。[48]

5.3.2 戦いの参加者
Oebalusの子TyndareusとAphareusの子Idasも、この戦いに参加した。
TyndareusはPleuron側、IdasはCalydon側であった。後に、TyndareusとIdasは、戦いの舞台をPeloponnesusに移して、Messenia地方とLaconia地方の戦いになった。[49]

5.3.3 Olenusの破壊
Calydonの町のOeneusは、Aetolia地方のOlenusの町を攻めて陥落させ、Hipponousの娘Periboeaを捕虜にした。[50]
Straboは、Olenusの町を破壊したのは、Aeolisだと記している。[51]
Oeneusは、Aeolisの支族Epeansの支族Aetoliansに属しており、Straboが記すAeolisは、Oeneusのようでもある。
しかし、Aetolia地方のOlenusの町の名前は、Homerの『軍船目録』に登場するので、Oeneusが破壊者ではない。[52]
Olenusの町の破壊者は、Thucydidesが記している、Calydonの町とPleuronの町のAeolisと推定される。[53]

5.3.4 戦いの勝敗
Calydonの町のOeneusが勝利して、Pleuronの町やCuretesを支配下に置いた。
8年後、Heraclesは、Achelous川の河口近くのParacheloitis地方の干拓をしてOeneusを喜ばせた。[54]
当時のOeneusの支配は、Calydonの町から西へ、Pleuronの町やCuretesの居住地を遥かに越えて、Acarnania地方との境になっているAchelous川まで及んでいた。[55]
Achelous川の名前は、Amphiarausの子Alcmaeonの時代の後であり、Heraclesの時代には、Thestius川と呼ばれていた。[56]

5.3.5 Pleuronの住人
戦いに敗れたThestiusの後裔は、Pleuronの町から内陸部へ移住して、Thestiaの町を創建した。[56-1]
Pleuronの町には、Pleuronの子Agenorの子Parthaonが住み続けた。

5.4 Messeniaへの移住
BC1245年、Aphareusの子Idasは、Calydonの町からMessenia地方のAreneの町へ帰還して、父の跡を継いだ。[57]

5.5 Arcadiaからの移住
BC1238年、Amphitryonの子Heraclesは、Arcadia地方のPheneusの町からCalydonの町へ移住して来た。[58]
この少し前に、HeraclesはElisの町と戦っていたが、Argivesを率いたMantiusの子Oeclesも戦いに参加していた。[59]
Heraclesは、OeclesからCalydonの町のOeneusを紹介されたと推定される。
Oeclesの妻Hypermnestraは、Thestiusの娘であり、Oeneusは、彼女の姉妹Althaeaの夫であった。つまり、Oeneusは、Oeclesの義兄弟であった。
また、Oeclesの父Mantiusの父Melampusは、Oeneusの父Calydonの妻Aeoliaの兄弟であった。つまり、Oeneusは、Oeclesの祖父の義兄弟の息子でもあった。

5.6 Achelousとの戦い
BC1238年、Heraclesは、Calydonの町に攻め寄せたAchelousを撃退した。[60]
Achelousの妻は、Pleuronの子Agenorの子Parthaonの娘Melpomene (or Sterope)であった。つまり、Pleuronの町がCalydonの町を攻めたように思われる。
しかし、Melpomeneは、Pleuronの子Molusの娘Molioneの息子たちの又従兄弟であった。つまり、Achelousの攻撃対象は、Molioneの息子たちを殺したHeracles本人であったのかもしれない。[61]

5.7 Thesprotiaへの遠征
BC1237年、CalydoniansはHeraclesに率いられてThesprotiaへ遠征して、Ephyraの町を占領した。[62]
Calydonの町と遠く離れたEphyraの町との間に利害関係はなく、Heraclesの遠征にCalydoniansも参加したというものであった。

5.8 Spartaへの移住
BC1237年、Tyndareusは、Aetolia地方からSpartaの町へ移住した。伝承では、HeraclesがHippocoonとの戦いの後で、TyndareusをSpartaの町に呼び戻したことになっている。[63]
しかし、TyndareusのSpartaの町への帰還は、HippocoonやIcariusがいなくなり、Oebalusの跡を継ぐ者がいなくなったからであった。
Aetolia地方で生まれ育ったTyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesもSpartaの町へ移住した。多くの伝承は、Argonautsの遠征にDioscuriがSpartaの町から参加したと伝えている。しかし、Dioscuriが本当に遠征に参加したのであれば、Spartaの町からではなく、Pleuronの町からであった。

5.9 Trachisへの移住
BC1235年、Heraclesは、Calydonの町からTrachisの町へ移住した。[64]
伝承では、HeraclesがOeneusの親戚の子供を過失により殺害したことが原因でCalydonの町を去ることにしたと伝えられている。 [65]
しかし、このHeraclesの転居も、Calydonの町でのHeraclesの更なる勢力拡大を危惧したMycenaeの町のEurystheusの意志が働いたと思われる。このEurystheusの思惑をOeneusに伝えたのは、Calydonの町で生まれて、Argosの町に住んでいたOeclesの子Amphiarausであったと推定される。OeneusとOeclesは、お互いの妻を通して、義兄弟であった。[66]

5.10 Argosへの亡命
BC1226年、Oeneusの子Tydeusは、Argosの町のTalausの子Adrastusのもとへ亡命した。[67]
Oeneusの母Aeoliaは、Adrastusの父Talausの父Biasの姉であり、TydeusはAdrastusの又従兄弟であった。
Tydeusは、Adrastusの娘Deipylaと結婚して、息子Diomedesが生まれた。[68]

5.11 Amphissaへの嫁入り
BC1222年、Calydonの町のOeneusの娘Gorges (or Gorge)は、Ozolian Locris地方のAmphissaの町のAndraemon (or Andrawmon)のもとへ嫁いだ。[69]
Oeneusの姉妹Protogeniaの夫は、Amphissaの町に住むAetolusの子Andraemonであった。[70]
AndraemonとGorgesには、息子Thoasが生まれた。[71]

5.12 Argosへの亡命
BC1202年、Oeneusは、Agriusの息子たちによって、Calydonの町から追われて、Argosの町のDiomedesのもとへ亡命した。[72]
Oeneusの娘婿Heraclesは既に死亡していたが、Amphissaの町には、娘婿Andraemonがいた。当時、ArgivesはThebesの町を陥落させて、Argosの町の名声はOeneusのもとへも届いていたと思われる。Oeneusは、息子Tydeusは既に死亡していて、孫Diomedesを頼っての亡命であった。

5.13 Diomedesの遠征
BC1202年、Oeneusの子Tydeusの子Diomedesは、Aetolia地方へ遠征して、Calydonの町を追われたOeneusの仇を討った。[73]

5.13.1 遠征の参加者
Diomedesの遠征の協力者は、Amphiarausの子Alcmaeon、あるいは、Capaneusの子Sthenelusであったという異なる伝承がある。[74]
Alcmaeonの母Hypermnestraは、Pleuronの町のThestiusの娘であり、Alcmaeonが親族を相手の戦いに参加したとは思えない。[75]
SthenelusはDiomedesの親友であり、SthenelusがDiomedesの遠征に協力したと思われる。[76]
また、Ozolian Locris地方のAmphissaの町のAndraemonも遠征に参加した。
Andraemonは、Oeneusの娘Gorgesの夫であり、Diomedesの父Tydeusの義兄弟であった。[77]
戦いの後で、Diomedesは、AndraemonにAetolia地方を任せた。[78]
この遠征には、Oeneusも同行して、再び、Argosの町へ帰ったという伝承もある。[79]
しかし、それでは、Oeneusを帰還させるために行った遠征の意味がなくなる。Oeneusは、これより前に死去していて、DiomedesはOeneusの復讐のために遠征したと推定される。

5.13.2 Agriusの後裔
Diomedesに敗れたAgriusの後裔は、Pleuronの町から内陸部へ移住して、Agriniumの町を創建した。[80]
Agriniumの町は、Aetoliansの中で最大の人口を有するEurytaniansに属していた。[81]
Thucydidesは、Eurytaniansのことを、Aetoliansの中でも、難解な言語を話し、生肉を食べる、最も未開な部族であったと記している。[82]
Agriniumの町は、BC218年にMacedonia王PhilipがAetoliansを攻めたときにも存在していた。[83]

5.14 Acarnaniaへの嫁入り
BC1202年、AchelousとMelpomene (or Sterope)との娘Callirhoeは、Pleuronの町からAcarnania地方のArgos-Amphilochicumの町へ嫁いだ。[84]
Alcmaeonの父Amphiarausの父Oeclesの妻Hypermnestraは、Callirhoeの母Melpomeneの父Parthaonの従兄妹であった。

6 Andraemonの子Thoasの時代
6.1 Trojan War時代
AndraemonとGorgeとの息子Thoasは、Aetoliansを率いてTroy遠征に参加した。[85]
Thoasの部隊には、Amphissaの町を含むOzolian Locris地方の人々も含まれていたと思われるが、HomerはAmphissaの町に言及していない。
Thoasは、Aetoliansを治めるために、Amphissaの町から多くのAeolisを連れてCalydonの町へ移住したと推定される。[86]
Trojan War時代のAmphissaの町は、人口が少なかったと思われ、Iliadの原作者は、当時の実態を知っていたと推定される。

6.2 Italyへの移住
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、Argosの町からAetolia地方へ移住した。その後、Diomedesは、Aetoliansを率いてItaly半島東岸に移住して、Argyrippeの町を創建した。[87]
Diomedesは、Dauniansの王Daunius (or Daunus)の娘Euippeと結婚して、2人の息子たち、DiomedesとAmphinomusが生まれた。[88]
Diomedesは、さらに、Arpiの町やBeneventumの町を創建した。[89]
Diomedesと共に移住したAetoliansは、Italy半島南東部にBrundisiumの町を創建した。[90]

7 Thoasの子Haemonの時代
7.1 Italyからの移住
BC1150年、Diomedesの死後、彼の息子Amphinomusは、Italy半島からAetolia地方へ移住して来た。[91]
Thoasの子Haemonは、Amphinomusを受け入れ、彼の息子とAmphinomusの娘Thyrieを結婚させたと推定される。
Thyrieの子Cycnusは、Pleuronの町の近くに住んでいた。[92]

7.2 Argosへの移住
BC1120年、Amphinomusの息子と思われるErginusは、祖父Diomedesの故郷Argosの町へ移住した。[93]
BC1107年、Erginusは、HeracleidaeがArgosの町を攻囲していたときに、Argosの町にあった都市の守護神Palladium神像を盗み出して、Temenusに協力した。[94]
ErginusとTemenusには、Calydonの町のOeneusを共通の先祖とする血縁関係があった。

7.3 Elisへの移住
BC1105年、Thoasの子Haemonの子Oxylusは、Aetoliansを率いて、Aetolia地方からElisの町へ移住した。[95]
Calydonの町やPleuronの町に残ったのは、Amphissaの町から移住したAeolisと、Diomedesの死後、彼の息子Amphinomusと共にItaly半島から移住してきたAetoliansであった。

8 Heracleidae帰還後の時代
その後、AeolisとAetoliansの間で争いが生じて、Diomedesの後裔は、Achelous川の西側、つまり、Acarnania地方へ移住した。
Acarnania地方には、Epigoniに敗れてThebesの町から移住した人々がAstacusの町を作って住んでいた。また、Argosの町から移住した人々は、Ambracian湾の近くにArgos-Amphilochicumの町を創建して住んでいた。[96]
Diomedesの後裔は、自らをOeniadaeと呼び、Aetoliansではなく、Acarnaniansの一員となった。[97]
Calydonの町やPleuronの町の住人は、他のAetoliansと区別するために、自らをAeolisと呼んでいた。[98]

9 Peloponnesian War時代
9.1 Oeniadaeの攻防
BC459年、Spartansとの戦いで、Ithome山に籠城していたMesseniansは、Lacedaemoniansに追われて、Ozolian Locris地方のNaupactusの町へ移住した。[99]
Naupactusの町は、AtheniansがSpartansへの憎悪のため、Ozolian Locriansを追い出して手に入れ、Messeniansに提供したものであった。[100]
Naupactusの町のMesseniansは、Atheniansの好意に報いろうとして、Atheniansに敵対していたOeniadaeの町を包囲し、休戦の上、住人を退去させた。[101]
居住地を追われたOeniadaeは、他のAcarnaniansの協力を得て町を包囲し、8か月後に町を奪還した。
BC455年、Athensの町のPericlesは、Oeniadaeを除くAcarnaniansを味方に引き入れ、翌年、Aetoliansを従えてOeniadaeの町を包囲するも攻略できなかった。[102]
BC424年、AtheniansはOeniadaeを加えてAcarnanians同盟を結成した。[103]

9.2 Calydonの住人
BC405年、Aegospotamiの海戦でAtheniansに勝利したSpartansは、Naupactusの町からMesseniansを追放した。[104]
BC389年、Calydonの町に住むAchaeansが、AcarnaniansやBoeotiansと同盟しているAtheniansに圧迫されて、Spartansの援助を要請したと伝えられている。[105]
恐らく、Naupactusの町からMesseniansを追い出したSpartansが、Calydonの町からも住人を追い出してAchaeansに与えたものと思われる。[106]
つまり、Andraemon、あるいは、彼の息子Thoasと共にAmphissaの町からAetolia地方へ移住したAeolisは、BC405年にSpartansによって追放されたと推定される。
しかし、彼らの多くの住人はそのまま住み続けていたようである。
BC29年、Nicopolisの町建設にあたって、Rome皇帝AugustusがAetoliansを居住地から立ち退かせて新市へ移住させようとした時、住人の大半はAmphissaの町へ亡命した。[107]

10 Oeniadaeのその後
BC331年、Oeniadaeの町はAetoliansに攻められ、町は破壊され、住人は追放された。[108]
このAetoliansは、Achelous川を挟んで東側、つまり、Aetolia地方に住むCuretesと推定される。Strabonが列挙するRome時代のAetoliansの種族の名前に、Curetesがある。[109]
このCuretesの攻撃は、SpartaのAgis IIIが主導するMacedoniaへの反乱に呼応した行動と思われる。[110]
BC324年、Alexander the Greatが発した「追放者復帰王令」は、Oeniadaeを追放して自領としていたAetoliansが強く反発した。彼らは、Samos島を市民に分け与えていたAtheniansと共に、反Macedoniaの急先鋒となった。[111]
Rome時代にも、Oeniadaeの町の名前は残っていたようであるが、その住人については、詳しくは不明である。[112]
BC1320年、Elisの町のAetolusの入植に始まるCuretesの戦いは、1000年近く続いたことになる。結局、最後まで同じ土地に住み続けたCuretesの勝利であった。

おわり