第30章 アカイア地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.8.13, Update:2024.3.29
Achaia

1 はじめに
BC1750年、Ogygus時代の大洪水に襲われて居住地を追われた人々は、Parnassus山北麓のCephisus川流域から各地へ移住した。Inachusの子Aezeius (or Aegialeus)に率いられた人々は、Peloponnesus半島北部の海岸地帯に定住した。[1]
彼らの定住地の中心は、Aegialea (後のSicyon)の町であった。[2]
Aegialeaの町は、Aezeiusの兄弟Phoroneusが創建したPhoroneus (後のArgos)の町と共にGreeksが創建したPeloponnesus内で最古の町であった。
Aegialeaの町に定住した人々は、その後、西方へ居住地を広げた。
Trojan War時代前のAchaia地方西部 (Aroeの町やOlenusの町)については、Eleia地方との関係が深いので、「Bronze Age History of Eleia」に記述した。

2 Greeksの最初の定住地
Stephanus of Byzantiumは、Sicyonの町の西北西約40kmにあるHyperesia (後のAegeira)の町の創建者をLycaonの子Hyperetusと伝えている。[3]
このLycaonは、Arcadia地方内に多くの町を創建した息子たちの父、Pelasgusの子Lycaonとも思われる。[4]
しかし、Aegialeaの町の創建者AezeiusにもLycaonという名前の息子がいた。[5]
Hyperesiaの町の創建者は、Arcadia地方南部から北北東へ約100kmと考えるよりも、Aegialeaの町から西北西へ約40kmの所へ移住したと考えた方が良いと思われる。
つまり、Hyperesiaの町の創建者は、Aezeiusの子Lycaonの子Hyperetusであり、町の創建は、BC1680年頃と推定される。
Hyperesiaの町は、Achaia地方で最古の町であった。
Hyperesiaの町は、後に、Aegeiraと呼ばれるようになった。[6]

3 Hellenの子Xuthusの時代
3.1 Atticaからの移住
BC1442年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方からPeloponnesus半島北部のAegialus地方(後のAchaia地方の東側)へ移住した。[7]

3.1.1 Xuthusの移住の動機
Pausaniasは、XuthusがAtheniansによって追放されたと伝えている。[8]
しかし、次の事により、この伝承は誤りと思われる。
1) Atheniansは、Xuthusの子AchaeusがThessaly地方へ帰還するのを援助した。[9]
2) EumolpusがAttica地方に侵入した時、Xuthusの子IonがAtheniansを救った。[10]
Xuthusは、この移住より20年以上前に、Attica地方北東部にTetrapolis (Oenoe, Marathon, Probalinthus, Tricorynthus)を建設しているが、そこに住む人々の数が多くなり、Xuthusは新天地を求めて、移住したと推定される。[11]

3.1.2 当時のPeloponnesus内の情勢
Xuthusの移住は、Belusの子DanausがEgyptから移住して来る少し前であった。
Peloponnesus半島の西側に、ギリシア人の入植地は、まだなかった。
Aegialeia (後のSicyon)の町は、Plemnaeusの子Orthopolisが治めていた。
Argosの町は、Sthenelasの子Gelanorが治めていた。
Arcadia地方は、Lycaonの子Tegeatesが治めていた。

3.1.3 Xuthusの移住先の選定理由
Xuthusは、Thessaly地方からAttica地方へ亡命して来た人物であり、Attica地方からThessaly地方へ移住する選択肢はなかったようである。[12]
また、Boeotia地方は、Cadmusが移住して来る前であり、後にCadmus率いる大集団と互角に戦ったHyantesなどの勢力が強かったと思われる。
Xuthusより前に、Peloponnesus内に住んだDeucalionの後裔はいなかった。
つまり、Xuthusは身内を頼って移住したのではなく、新天地を探して、Aegialus地方にたどり着いたと推定される。

3.1.4 Xuthusの定住地
Pausaniasは、XuthusがAttica地方からAegialusへ移住したと伝えている。[13]
このAegialusは地方名であり、Xuthusの定住地は明確ではない。
しかし、Xuthusの定住地は、Aegialea (後のSicyon)の町とHeliceの町の間であり、後のGonussaの町付近と推定される。Gonussaの町とAttica地方とは深い繋がりがあった。[14]

3.2 Xuthusの子Ionの結婚
BC1440年、Xuthusの子Ionは、Aegialiansの王Selinusの娘Heliceと結婚した。[15]
Selinusは、Hyperesiaの町の創建者Hyperetusの後裔で、Hyperesiaの町の王であったと思われる。したがって、Hyperesiaの町の住人は、Aegialea (後のSicyon)の町と同じく、Aegialiansと呼ばれていた。[16]

3.3 Heliceの創建
BC1430年、Xuthusの子Ionは、Hyperesiaの町から西北西へ約21kmの所にHeliceの町を創建した。[17]
Xuthusの子Ionが治める人々は、Ioniansと呼ばれるようになった。[18]

4 Xuthusの子Achaeusの時代
4.1 Thessalyへの移住
BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Aegialus地方からThessaly地方のMelitaeaの町へ移住した。[19]
35年前、Achaeusの父Xuthusは、父Hellenの死後、兄弟たち、AeolusやDorusによってThessaly地方を追放されていた。[20]
Achaeusの遠征隊の中心は、Xuthusと共にThessaly地方を追われた人々や、彼らの子供たちであった。この遠征には、AegialiansやAtheniansも参加した。[21]
この遠征は、Attica地方で生まれたAchaeusの意志ではなく、Xuthusと共にThessaly地方を追われた人々の要望であったと思われる。

4.2 Thessalyからの移住
BC1420年、Xuthusの子Achaeusは、Thessaly地方のMelitaeaの町からAegialus地方へ帰還した。[22]
この年、Cadmus率いる大集団やThraciansが、Thracia地方からThessaly地方へ南下した。彼らの移動はThessaly地方に住んでいた人々を混乱に陥れた。Achaeusによって、町を追われたHellenの子Aeolusの後裔は、その機を逃さず、AchaeusをMelitaeaの町から追い出した。[23]

4.3 Atticaへの移住
BC1415年、Eumolpus率いる集団が、Attica地方へ侵入した。[24]
Atheniansは一時、Boeotia地方のTanagra周辺に居住していたGephyraeansのもとへ避難した。[25]
Xuthusの子Ionは、Atheniansの推挙を受けてpolemarchosになり、Eumolpusと戦って休戦に持ち込んだ。[26]
Ionの母は、第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaであり、当時のAthens王PandionはIonの叔父であった[27]
Ionは、戦いの後で、Aegialus地方からPotamiの町へ移住した。[28]

4.4 Argosからの嫁入り
BC1408年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町のDanausの2人の娘たち、ScaeaとAutomateをそれぞれの妻に迎えた。[29]
この年、Danausの跡を継いだLynceusが死ぬと、Gelanorの子LamedonはSicyonの町のOrthopolisの協力を得て、Argosの町を占領した。[30]
Lynceusの子Abasは、Argosの町からPhocis地方へ移住してAbaeの町を建設した。[31]
このとき、Aegyptusの子AntimachusとDanausの娘Mideaとの間の息子AmphianaxもArcadia地方へ移住した。[32]
Danausの娘たち、ScaeaとAutomateの嫁入りも、Argosの町を逃れた結果であったと思われる。

4.5 Argosへの移住
BC1407年、Achaeusの息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町を占領していたGelanorの子Lamedonを追放した。[33]
ArchanderとArchitelesは、Lynceusの子AbasをPhocis地方からArgosの町へ呼び戻してAbasの後見人になり、Aegialus地方からArgosの町へ移住した。[34]

5 Achaeusより後の時代
Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesがArgosの町へ去った後、Achaeusの跡を継いで、Xuthusの入植地に住み続けたAchaeusの息子もいたと推定される。
また、Xuthusの子IonがAttica地方へ去った後のHeliceの町やHyperesiaの町の状況は不明である。
Ionには、Attica地方に住んでいた4人の息子たち、Geleon、Aegicores、Argades、Hoplesがいた。[35]
しかし、Ionには、Aegialus地方に住み続けて、Heliceの町やHyperesiaの町を継承した息子たちもいたと推定される。

5.1 Pelleneの創建
BC1300年、Triopasの子Phorbasの子Pellenは、Argosの町からAchaia地方へ移住して、Sicyonの町の西北西約17kmの所にPelleneの町を創建した。[36]
Pellenの孫たちは、Argonautsの遠征に参加しており、逆算するとPellenの祖父TriopasはProetusの子Megapenthesと同時代になる。Abasの子Proetusの子供は、Megapenthesしか知られていないが、Triopasという息子もいたと推定される。[37]
BC1375年、Proetusは、Sicyonの町の海岸近くにHera神殿を創建している。[38]

5.2 Gonussaの創建
Phorbasの子Pellenの妻は、Sicyonの町のMarathonの子Sicyonの娘Gonussaであったと推定される。[39]
BC1280年、PellenとGonussaの息子は、Pelleneの町の近くに、Gonussaの町を創建した。[40]

5.3 Argosからの移住
BC1247年、Melampusの子Abasの子Polypheidesは、Argosの町からHyperesiaの町へ移住した。[41]
近くのPelleneの町は、Argivesが創建した町であった。[42]
Polypheidesの移住の理由は、Talausの子Adrastusが、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命したのと、同じ理由であった。[43]
つまり、Argosの町の内紛が原因であった。

5.4 Trojan War時代
Homerによれば、Trojan War時代、Aegialus地方のHyperesia、Gonoessa、Pellene、Aegium、Heliceの町は、Mycenaeの町の支配下にあった。[44]

5.5 Thessalyからの移住
BC1186年、Euaemonの子Eurypylusは、Thesprotiansに奪われたThessaly地方のOrmeniumの町からAroeの町へ移住した。[45]
EurypylusとAroeの町の関係は不明で、伝承通り、Delphiの神託に従って移住したのかもしれない。[46]

6 Heracleidaeの帰還の時代
6.1 Achaeansの侵入
BC1104年、Argolis地方やLaconia地方に住んでいたAchaeansは、Heracleidae率いるDoriansに追われて、Orestesの子Tisamenusに率いられて、Aegialus地方へ移住した。[47]
Aegialus地方は、Tisamenusの祖父Agamemnonの時代には、Mycenaeの町の支配下にあった。[48]
Tisamenusは、Aegialus地方に住んでいたIoniansに対して、共住を申し出たが、彼らはTisamenusの提案を拒否して、戦いになった。[49]
この戦いで、Tisamenusは戦死したが、AchaeansがIoniansに勝利して、IoniansはAthensの町へ移住した。[50]

6.2 GonussaのMelas
BC1075年、Hippotasの子Aletesは、Argosの町からCorinthの町の攻略に向かう途中で、Gonussaの町のAntasusの子Melasを遠征隊に加えた。[51]
Aletesの父Hippotasの父Phylasの父Antiochusは、Heraclesの息子であり、Athensの町の10部族のひとつ、Antiochis部族の名祖であった。[52]
また、Melasは、Sicyonの娘Gonussaの子孫であり、Sicyonの母は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[53]
つまり、AletesもMelasも、Athensの町との関係が深かった。
BC657年、Melasの後裔Eetionの子Cypselusは、Corinthの町の僭主になった。[54]

6.2 Elisへの移住
BC1101年、Orestesの子Penthilusの子Damasiusの子Agoriusは、Elisの町から招かれて、Elisの町へ移住して、Haemonの子Oxylusの共同統治者になった。[55]

7 Dorians侵入より後の時代
7.1 Patraeの創建
7.1.1 創建者Patreus
Pausaniasは、Patraeの町の創建者Patreusの父Preugenesを、Lacedaemonの子Amyclasの子Harpalusの子Dereitesの子Aeginetesの子Peliasの子Ampyxの子Areusの子Agenorの子と伝えている。[56]
しかし、PausaniasはPatraeの町の創建が、Sparta王Agisの時代であったとも伝えている。[57]
PatreusとAgisを同時代人とした場合、1世代の平均は47歳となる。この系譜も、他のLacedaemonの系譜と同じく、4世代の欠落があったと思われる。[58]

7.1.2 Patraeの創建年
Sparta王Agisは、系図を作成すると、BC970年頃の生まれである。
したがって、Patraeの町の創建は、BC930年頃と推定される。

7.1.3 建設参加者
Patraeの町の建設者は、Lacedaemonに住んでいたAchaeansであった。[59]
彼らを率いたPreugenesの子Patreusは、Spartaの町のMesoa区に住んでいた。[60]
Doriansが支配者になった後も、Amyclae、Pharis、Geranthraeの町は、Achaeansが支配する町であった。それらの町のAchaeansは、Doriansに追い出されたが、彼らの行先は不明である。Pharisの町の住人は、Doriansと戦わずに退去したと伝えられるが、Patreusに率いられて、Patraeの町の建設に参加したと推定される。[61]

7.1.4 移住先の選定理由
Pharisの町の創建を伝える史料は見つからないが、創建者は、Oebalusの子Icariusと推定される。Icariusは、Messenia地方のPharaeの町から、Ortilochusの娘Dorodocheを妻に迎えた。[62]
Ortilochusの祖父Pharisは、Danausの娘Phylodameiaの息子であり、父は、Aegyptusの子Eumelusと推定される。Eumelusは、Aroe (後のPatrae)の町に住んでいた。Eumelusの子Pharisは、父のもとから南へ新天地を求め、Messenia湾の奥にPharaeの町を創建した。[63]
Icariusは、結婚を機に、父Oebalusの住むSpartaの町から南へ移住して、町を創建した。
Icariusの妻Dorodocheと共にMessenia地方のPharaeの町から移住してきた人々も町の建設に参加した。その町は、最初、Patraeの町と呼ばれていたが、Pharisの町と呼ばれるようになった。[64]
Doriansに追い出されたPharisの町の住人は、先祖の出身地Aroeの町を移住先に選んだと推定される。後に、Peloponnesian Warのとき、Patraeの町がAchaia地方で最初にAthensと同盟を結んだことは、以上の推定が正しいことを証明している。[65]

7.1.5 Achaeansが入植していなかった理由
Heracleidaeに追われて、Achaia地方へ移住し、先住していたIoniansをTisamenus率いるAchaeansは追い出した。[66]
しかし、Aroeの町の住人は、同族であったために追い出されなかった。Trojan War時代に、Thesprotiansに奪われたThessaly地方のOrmeniumの町の住人が、Euaemonの子Eurypylusに率いられて、Aroeの町に定住していた。[67]
Euaemonの父や兄弟は、Heraclesと戦ったLapithsであった。[68]

7.1.6 Aroeの町がPatreusの移民団を受け入れた理由
Patreusが率いた移民団の構成員は、Aegyptusの子Eumelus時代のAroeの町の住人の後裔と共通の先祖を持つものがいたとも思われる。しかし、多くは、Lapithsとしての繋がりであったと推定される。[69]
Pharisの町の創建者Icariusの父Oebalusの父Cynortasの父Amyclasの妻は、Lapithsの始祖Lapithusの娘Diomedeであった。Diomedeと共にThessaly地方から移住したLapithsが、Amyclaeの町を経由してPharisの町にも住んでいたと思われる。[70]
また、Thessaly地方のTriccaの町に住んでいたLapithsも、Thesprotiansに追われて、Aesculapiusの子Machaonの妻Anticleiaと共にMessenia地方のPharaeの町に移住していた。
Icariusの妻Dorodocheは、Anticleiaの叔母であり、直線距離で、30kmほどしか離れていないMessenia地方とLaconia地方の同じ名前(Pharae)の町には交流があったはずである。
Thessaly地方から逃れて来たLapithsは、Pharisの町にも住んでいたと推定される。[71]

7.1.7 Gaulsとの戦い
BC279年、Greeceに侵入したGaulsはThermopylaeで行く手を阻まれ、OrestoriusとCombutisを将とする、歩40,000と騎800を別動隊としてAetolia地方へ侵入した。[72]
Pausaniasは、Pharaeの町がAetoliansと親しかったため、Pharaeの町の人々は、海を越えてAetolia地方へ渡って、Gaulsと戦ったと伝えている。[73]
BC29年には、Pharaeの町の人々は、Romeに味方して、一部のAetoliansと戦ってCalydonの町から戦利品を得た。
したがって、Pharaeの町と「親しかった」Aetoliansとは、主にPleuronの町の住人であったと思われる。[74]
Pleuronの町は、Tyndareusが移住し、Dioscriが生まれ育った町であった。
Tyndareusの兄弟Icariusの町Pharisの住人が創建したPatraeの町とは、深い繋がりがあった。Gaulsとの戦いの後で、Patraeの町の男子の人口は極端に減り、女性の数が男性の数の2倍になった。[75]

7.1.8 Romeの好意
BC31年、Lacedaemonは、Actiumの戦いでAugustusに味方した。Lacedaemonの植民地と思われていたPatraeの町にAugustusは、好意的であった。[76]
Gaulsと戦いの後で、Patraeの町の住人は、貧困に陥り、若干の人々を町に残して、周辺に新たにMesatis、Antheia、Bolina、Argyra、Arbaの町を作って暮らしていた。
Augustusは、それらの町や、Rhypesに住んでいたAchaeansをPatraeの町に集めて、彼らに数々の特典を与えた。[77]

7.2 民主政への移行
Orestesの子Tisamenusの後裔は、Heliceの町に住み、Ogygusの息子たちの代まで続いた。その後、王政が廃止されて民主政になるとAchaiaの国制は高い評価を受け、Pythagorasの一派に対して反乱を起した人々もその法制を採用した。Achaiaの民主政への移行は、BC6世紀の終わり頃と推定され、Tisamenusの後裔は、約600年間、Achaia地方を治めたことになる。[78]

おわり