第41章 史実としてのトロイ戦争

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Create:2023.12.21, Update:2024.08.25
TrojanWar

1はじめに
Homerの『Iliad』をはじめとして、多くの史料がAgamemnonを総大将とする大規模な遠征軍がTroyを攻略した物語を伝えている。
Homerは、Lemnos島に置き去りにされたPhiloctetesが、後に、Troyに召喚されることを仄めかしている。[1]
Homerより後の時代の悲劇詩人Sophoclesは、Philoctetesに関する逸話を具体的に伝えている。
つまり、Homerより前の時代にTroy遠征を主題にした物語があり、少なくとも、Sophoclesの時代までは、その物語が残っていたと推定される。
そのTroy遠征の物語は、Argonautsの遠征物語やCalydonの猪狩りの物語と同じように、当時の多くの英雄たちを登場させたものであった。
Greeceの伝承では、Troy王国の歴史は、ぼんやりとしか見えてこないが、Hittite文書から得られる情報と合わせると戦いの歴史が見えてくる。
その戦いには、Greeceの古代史料には登場しないHittiteが大きく関与していた。
戦いの原因は、Trosの子Ilusが、Hittiteの属国Wilusaの王を継承して、Iliumの町に移り住み、Dardanusの町に住むTrosの子Assaracusとの間に対立が生じたことであった。
史実としてのTrojan Warを考察してみる。

2 GreeksのAnatolia北西部への入植
2.1 Troadへの入植
BC1435年、Ida (or Idothea)の子Teucrus率いる移民団は、Crete島からTroad地方へ移住して、Hellespont近くにTeucrus (後のDardanus)の町を創建した。[2]
Teucrusと共に入植した人々は、Anatolia半島北西部に最初に入植したGreeksであった。
その当時、後にIliumの町となる所には、Hittiteの属国Wilusaの人々が住んでいた。
BC1425年、Agenorの子Cilixは、EgyptからSidonの町を経由してIda山近くへ移住して、Thebeの町を創建した。[3]
BC1420年、Electraの子Dardanusは、Arcadia地方からSamothrace島を経由して、Troad地方へ移住して、Teucrusと共住した。[4]
BC1390年、Europaの子Minosは、Crete島のCnossusの町からTroad地方へ移住した。[5]

2.2 Hittiteの対応
Greeksが入植したTroad地方および、その周辺は、Hittiteの属国Wilusaが領有しており、両者の間には、争いがあったと推定される。
WilusaとHittiteとは、BC17世紀から親交があった。[6]
当然、属国領へ侵入した異民族へは、Hittiteも対応するはずである。
しかし、当時のHittiteは、中王国時代の末期にあって、内紛が続いて混乱していた。
WilusaとGreeksとの争いは、小規模なものであったと思われる。

2.3 Troad周辺への入植
BC1390年、Archanderの子Belusは、Egyptから移民団を率いて、Cyzicus手前のAesepus川河口近くへ入植した。Belusの入植地はEthiopiaと呼ばれた。[7]
Belusの種族は、Achaeusの子Archanderに率いられて、Argosの町からEgyptへ移住したAchaeansであった。[8]
Belusの子Phineusは、Dardanusの娘Idaeaと結婚した。[9]
BC1380年、Phineusは、黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[10]
BC1350年、Phineusの息子たちは、Salmydessusの町からAnatolia半島へ、つぎのように移住した。
1) Bithynusは、Bithynia地方へ移住した。[11]
2) Thynusは、Phrygia地方へ移住した。[12]
3) Mariandynusは、後のHeracleiaの町付近へ移住した。[13]
4) Paphlagon (or Paphlagonus)は、Paphlagonia地方へ移住した。[14]

3 黒海への進出
BC1390年、Sisyphusの子Aeetesは、Ephyraea (後のCorinth)の町から黒海東岸のColchis地方へ移住した。[15]
BC1380年、Belusの子Phineusは、Ethiopiaから黒海南西岸の地に移住して、Salmydessusの町を創建した。[16]
BC1360年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Troad地方からColchis地方へ移住した。[17]
BC1360年、Aeetesの娘婿Phrixusの子Cytissorusは、Colchis地方から黒海南岸に移住してCytorusの町を創建した。[19]
BC1345年、Phineusの息子たち、Clytius、Polymedes (or Plexippus, Pandion)は、SalmydessusからTauric Chersoneseへ移住した。[18]

4 Trosの子Ilusの時代
4.1 IlusのWilusa王継承
BC1435年にTeucrusが初めてTroad地方に入植してから、100年の間に、Troad地方や黒海沿岸地方には多くの町が建設され、多くのGreeksが入植した。
危機感を募らせたWilusa王は、Dardanusの子Erichthoniusの子Trosの子Ilusに娘を嫁がせた。[20]
Ilusは、妻の父が死ぬと、Wilusaの王位を簒奪した。[21]
娘婿が王位を継承することは、Hittite王の系譜にもあり、HittiteはIlusをWilusa王として承認したと思われる。
Troy王国は、Hittiteへの朝貢の義務を負ったものの、Hittiteと同盟関係になった。[22]
Wilusa王の息子たちは、Ilusに殺され、彼らの一族は、Iliumの町から追放され、Dardanusの町から多くの住人がIliumの町へ移住した。
Dardanusの町は、Trosの死後、彼の息子Assaracus (or Asarakos)が継承した。[23]
IlusがWilusaの王位を簒奪したのは、BC1330年と推定される。それまで、WilusaとTroyに分かれて存在していた国が、1つになった。

4.2 東方への領土拡張
Ilusは、Hittiteの強力な後ろ盾を得て、東方へ領土を拡張した。
BC1325年、Ilusは、Ida山北側に住んでいたTantalusを追放した。[24]
BC1300年、Ilusは、Aesepus川河口近くにあるEthiopiaを攻撃して、EthiopiaをTroyの支配下に置いた。[25]
その後、Ilusは、さらに東方のMysia of Olympeneに進出し、BebrycesのByzosと戦って、勢力を拡大した。[26]

5 Trojan Warの火種
5.1 王位継承争い
BC1296年、Ilusが死に、彼の息子Laomedonが王位を継承した。[27]
Hittite文書の中で、IlusはKukkunni、LaomedonはAlaksanduとして登場する。
BC1295年、Laomedonは彼の兄弟Phaenodamas (or Hippotes)によって、Iliumの町から追放された。[28]
Laomedonは、Hittite軍やHittiteの属国の軍を味方にして、Iliumの町を攻めた。[29]
戦いに敗れたPhaenodamasは、彼の息子たちと共に殺された。[30]
残されたPhaenodamasの3人の娘たちは、Sicily島へ逃れた。[31]
Sicily島で、Phaenodamasの娘Egestaに息子Aegestus (or Acestes)が生まれた。[32]

5.2 IliumとDardanusの対立
IlusがWilusaの王位を簒奪して、Dardanusの町からIliumの町へ移った後で、Dardanusの町はTrosの子Assaracusが継承した。[33]
Ilusの子Laomedonの子Priamには、47人の息子たちがいた。[34]
Priamと同世代のAntenorには、19人の息子たちがいた。[35]
しかし、Ilusの息子は、Laomedonのみ、Assaracusの息子は、Capysのみしか伝承には登場しない。[36]
Iliumの町の後継者争いに、Dardanusの町のAssaracusの息子たちがPhaenodamasを支援して激しい戦いがあって、彼らの多くの息子たちが死んだと思われる。

6 Hellespont利用船舶の増加
6.1 Jasonの遠征
英雄たちが多数参加したArgonautsの遠征物語がある。[37]
物語では、Aesonの子JasonがArgonautsの遠征隊を率いたことになっている。しかし、系図を作成すると、Argonautsの遠征物語はBC1248年であるが、JasonとAeetesの娘Medeaとの結婚は、その20年前である。
BC1268年、JasonはThessaly地方のIolcusの町のMinyansと共に黒海東岸のColchis地方へ遠征して、Medeaと結婚した。[38]
この遠征の後で、Thessaly地方と黒海地方の交易が盛んになった。
Jasonの航海には、次の人たちがThessaly地方から参加したと思われる。
1) Triccaの町のDeimachusの子Autolycus
2) Phylaceの町のIphiclusの子Protesilaus
3) Magnesia地方のPoeasの子Philoctetes

6.2 AchaeansとTrojansとの接触
6.2.1 ThessalyからSinopeへの移住
BC1260年、Deimachusの子Autolycusは、LapithsのIschysによってThessaly地方のTriccaの町を追われて、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[39]
Autolycusの妻Mestraに従ってDotiumの近くからTriccaの町へ移住した人々もSinopeの町への移住に参加したと思われる。[40]

6.2.2 PhylaceのProtesilaus
Mestraの父Erysichthon (or Aethon)は、Thessaly地方のDotiumの近くに住んでいた。[41]
Dotium近くのPhylaceの町に住むIphiclusの子Protesilausの妻は、黒海への航路を知っているMinyansが住むIolcusの町のAcastusの娘Laodamiaであった。[42]
また、Iphiclusの母Clymeneは、Minyasの娘であり、Phylaceの町にもClymeneと共に移住したMinyansが住んでいた。[43]
Iphiclusの子Protesilausは、Hellespontを通過して、黒海沿岸地方との交易を行っていたと推定される。

6.2.3 MagnesiaのPhiloctetes
また、Aegean Seaに面したMagnesia地方のMeliboeaの町に住んでいたPoeasの子PhiloctetesもHellespontusを利用して交易を行っていたと推定される。[44]
BC1世紀の詩人Lucretiusは、Meliboeaの町が紫染料貝の産地であったことを伝えている。[45]
Meliboeaの町は、古くから各地と交易を行っていたと思われる。

6.2.4 ThessalyとDardaniaの友好関係
Thessaly地方に住んでいたProtesilausやPhiloctetesは、Hellespontに面したDardania地方を支配していたAntenorの父Aesyetesと友好関係を築いていたと思われる。[46]

7 Achaeansが参加したTrojan Warの概略
Iliumの町を舞台にした戦いは数多くあったと思われるが、Achaeansが参加した戦いは、少なくとも3回あった。
1) BC1244年、PriamがAchaeansの協力を得たAnchisesに追放され、Hittiteの援助を得てIliumの町を奪還した。
2) BC1188年、HectorがAntenorの息子たちに追放され、Achaeansの協力を得てIliumの町を奪還しようとしたが果たせなかった。
3) BC1170年、Hectorの息子たちがAchaeansの協力を得て、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。

8 第1回Trojan War (1244 BC)
8.1 Priamの追放
BC1244年、Ilusの子Laomedonが死に、彼の息子Priam (or Podarces)がTroy王国を継承した。[47]
Hittite文書の中で、PriamはWalmuとして登場する。
Trosの子Assaracusの子Capysの子AnchisesとAesyetesは、Priamを追放して、Troy王を簒奪した。[48]
Assaracusは、彼の兄弟IlusがWilusaの王位を簒奪してIliumの町へ居を変えた時、父Trosと共にDardanusの町に残された。[49]
Straboは、AntenorがDardania地方を領していたと伝えている。[50]
このことから、Antenorの父Aesyetesは、Dardania地方に住んでいたAssaracusの子Capysの息子で、Anchisesの兄弟であったと思われる。
AnchisesとAesyetesは、Wilusa王Ilusの息子と推定されるPhaenodamasの孫AegestusをSicily島から呼び寄せた。彼らは、ProtesilausやPhiloctetesへ協力を求めて、Iliumの町からPriamを追放した。[51]

8.2 Priamの亡命
Priamは、Miletusの町へ嫁いだ彼の姉妹Hesioneを頼ってMiletusの町へ亡命した。[52]
Hittite王は、Hesioneの夫に対してPriamをHittiteに引き渡し、Wilusaの王に据えることができるように要請した。[53]
当時、Miletusの町は、Hittiteの属国であり、Hittite王の要求した通りに、PriamはHittiteに引き渡された。PriamはHittite軍と共に、王位を奪還するためにIliumの町へ進軍した。[54]

8.3 Priamの帰還
Iliumの町は、Hittite軍やHittiteの属国の軍に攻められた。
この戦いで、Iliumの町の南約1kmの平原で、Priamの軍を迎え撃とうとしたAesyetesは戦死した。[55]
Aesyetesの子Antenor、Anchises、Aegestus、そして、ProtesilausやPhiloctetesは、Iliumの町から逃れて、Priamは、Iliumの町を奪還した。

8.4 敗者の行方
8.4.1 Iphiclusの子Protesilaus
Protesilausは、Troad地方からThracian Chersonesusへ渡る時に戦死して、半島の南端にあるElaesus (or Eleus)の町に葬られた。[56]
Protesilausは、AgamemnonのTroy遠征参加者として物語に登場する。
しかし、Protesilausは、Jasonの母Alcimedeの兄弟Iphiclusの息子であり、Jasonと同世代であった。[57]
Jasonの子Mermerusの子Ilusは、Odysseusと同世代であった。[58]
つまり、Agamemnonは、Protesilausの孫の世代であった。Protesilausが参加した戦いは、Agamemnonの時代の第2回Trojan Warではなく、第1回Trojan Warであった。

8.4.2 Poeasの子Philoctetes
Philoctetesは、Meliboeaの町へ帰還するが、反乱が起こり、AnchisesやAegestusと共に移住先を探す旅に出た。[59]
Philoctetesは、Italy半島南部で、彼らと分かれて、Crotonの町のMacallaに定住した。[60]
Protesilausと同様にPhiloctetesもAgamemnonのTroy遠征参加者として物語に登場する。
しかし、Philoctetesは、物語では敵方であるTrojanのAegestusと共に行動をしていた。[61]

8.4.3 Capysの子Anchises
Anchisesは、Aegestusと共にSicily島へ帰着した。[62]
AegestusとAnchisesには、Scamander川流域の多くの人々が同行した。[63]
この時、Homerの「Iliad」に登場するAnchisesの子Aeneasは、まだ誕生していなかった。
Sicily島で生まれたAeneasは、Troad地方の土を踏むことはなかった。

8.4.4 Aesyetesの子Antenor
Antenorは、Adriatic Seaの奥にPatavium (後のPadua)の町を創建したという伝承がある。[64]
しかし、Antenorは、つぎに述べる理由からMygdonと共にPaeonia地方へ移住したと推定される。
Antenorの妻Theanoの父Cisseusの父は、Mysia of Olympeneに住んでいたMygdonであったと推定される。[65]
Cisseusの孫Iphidamasは、Macedonia地方に住んでいた。[66]
系図を作成すると、Antenorは、当時、30歳代で、息子たちは、まだ少年であった。
あるいは、Mygdonと共にPaeonia地方へ移住した後で、Antenorは、Mygdonの孫娘Theanoと結婚したのかもしれない。
Antenorには、19人の息子が生まれた。[67]
その後、Antenorの息子の一人Hypsipylusは、Lesbos島へ移住した。[68]

8.5 Mygdonの関与
Mysia of Olympeneに住んでいたMygdonは、Antenorに味方して居住地を追われて、Paeonia地方へ移住した。[69]
Mygdonは、Antenorの妻Theanoの父Cisseusの父であったと推定される。[70]
後に、Mygdonの後裔は、Troyへ援軍として駆け付けているが、Antenorの息子たちに味方するためであった。[71]

8.6 Heraclesの関与
HeraclesのTroy遠征を多くの史料が伝えている。[72]
HeraclesがLydia地方のOmphaleのもとからTirynsの町へ帰り、Elis攻めをする前に、HeraclesがIliumの町を攻略したという伝承である。[73]
つまり、BC1246年からBC1243年の間であった。
Priamの王位継承争いがあった頃と時期的には一致する。
Laomedonの父Ilusが支配下に置いたEthiopiaは、Perseusの妻Andromedaの出身地であり、Perseusの子Persesが住んでいた。[74]
Persesは、Heraclesの父Amphitryonの父Alcaeusの兄弟であった。[75]
Heraclesが、ProtesilausやPhiloctetesと共に遠征に参加する理由は十分にあった。
しかし、Heraclesと彼らの遠征理由とは異なっており、Heraclesは、参加していなかったと思われる。

9 第2回Trojan War (1188 - 1186 BC)
伝承では、Agamemnon率いるAchaeansはTroyを占領して、NeoptolemusはPriamの子HelenusやHectorの息子たちを連れて、Molossiansの地へ移住したことになっている。[76]
しかし、次の史料の記述から、AchaeansはTroyを占領できなかったと思われる。
1) AD5世紀の神学者Jeromeは、「Antenorの子供たちが追放された後、Hectorの息子たちはIliumの町を奪還し、Helenusが彼らを援助した。」と記している。[77]
2) Crete島のDictysは、直接、Trojan Warを体験した自身の記録の第5巻の最後に、最終的にIliumの町を掌握したのは、Antenorであったと記している。[78]
3) Herodotusは、Persiaによるギリシア侵攻に匹敵する悲惨な出来事が、Dariusより20世代前にあったと記している。[79]
Herodotusは、3世代を100年で計算しているので、667年前の出来事になる。[80]
Dariusが即位したBC522年を基準にすると、BC1189年頃に、その悲惨な出来事があったことになる。
以上のことを総合すると、Neoptolemusは、Hectorに味方して戦ったが敗れたと推定される。
Hectorは死に、彼の妻と息子たちは、彼の兄弟HelenusやNeoptolemusに連れられて落ち延びたということになる。
そして、Neoptolemusが戦った相手は、Priamの息子たちではなく、Antenorの息子たちであった。

9.1 Hellespontの支配者
Trosの子IlusがIliumの町へ移り住んだ後で、Dardanusの町には、Assaracusが住んでいた。[81]
Laomedonの時代には、AntenorがDardania地方のDardanusの町に住んで、Hellespontを支配していた。[82]
しかし、Laomedonが死んで、王位継承争いが起こり、Antenorの一族がいなくなったDardania地方は、Priamが住むIliumの町の支配下に入った。[83]
Hellespont近くの町は、次のようにPriamの一族が支配した。
1) Abydusの町は、Priamの子Democoonが支配した。[84]
2) Arisbeの町、Practiusの町、そして、Abydusの町の対岸のThracian ChersonesusのSestusの町は、Priamの妻Arisbeの子Asiusが支配した。[85]
3) Percoteの町は、Priamの兄弟Hicetaonの子Melanippusが支配した。[86]
4) Thracian Chersonesusは、Priamの娘Ilionaの夫Polymestor (or Polymnestor)が支配した。[87]
Homerの作品にDardanusの町の名前は登場しない。恐らく、BC1244年にPriamとの戦いでDardanusの町は破却されたと推定される。しかし、Dardanusの町は、その後、再建された。[88]
Priamの時代、Hellespontの支配者は、Antenorではなく、Priamであった。

9.2 Iliumの攻防
BC1188年にPriamが死ぬと、Antenorの息子たちがIliumの町を占領して、王位を簒奪した。
この頃、Priamの王位継承争いで、Priamを援助したHittiteは滅亡寸前であった。
Iliumの町から追い出されたPriamの長男Hectorは、Hellespontの利用を通して友好関係にあったAchaeansに援軍を求めた。
Achaeansは、Hectorに味方するために遠征軍を組織して、Troyへ遠征した。
Achaeansの総大将は、Peleusの子Achillesであり、軍の主力は、Thessaly地方とBoeotia地方の部隊であった。

9.3 戦いの結果
この戦いで、Hector、Achilles、Menoetiusの子Patroclus、Oileusの子Ajax、Telamonの子Ajax、Nestorの子Antilochus、Asclepiusの子Machaonは戦死した。
BC1186年、AchaeansのもとへThessaly地方がThesprotiansによって占領されたという知らせが届いた。それより前に、総大将Achillesを失っていたAchaeansは、Iliumの町の攻略を断念した。[89]

10 第2回Trojan Warに参加したAchaeans
10.1 Thessalyからの参加者
10.1.1 Peleusの子Achilles
Achillesは、Thessaly地方のPhthiaの町で生まれた。[90]
BC1260年にDeimachusの子Autolycusが、Thessaly地方のTriccaの町から黒海南岸のSinopeの町へ移住して以来、Hellespontを通過する船は増加した。[91]
Autolycusの妻は、Phthiaの町に住むMyrmidonの子Erysichthonの娘Mestraであった。[92]
Mestraに同行して、Phthiaの町からTriccaの町を経由してSinopeの町へ移住した人々の後裔とPhthiaの町との間には、交易があったと思われる。
Achillesは、Phthiaの町の支配者であり、黒海沿岸との交易を仕切っていたと推定される。

10.1.1.1 総大将Achilles
Argonautsの遠征物語で有名なCretheusの子Peliasが治めていたIolcusの町は、黒海沿岸地方との交易で繁栄した町であった。[93]
Iolcusの町は、Minyansによって破壊され、Minyansを追い出したAeacusの子Peleusは、Iolcusの町が行っていた交易を継承した。[94]
Iolcusの町が破壊された後で、Lapithsが勢力を増したが、Heraclesとの戦いの後で弱体化した。[95]
Achillesは父Peleusから黒海沿岸地方との交易を継承して、Phthia地方、Dolopia地方、Maliac Gulf周辺を支配していた。[96]
Troy遠征中に、Thessaly地方は、Thesprotiansに侵入されて占領された。[97]
つまり、Thessaly地方が手薄になるくらい大勢の人々がAchillesの遠征に参加したことになる。
Achillesは、Thessaly地方で最大の実力者であり、遠征に参加したAchaeansの中でも最大の人員を率いていた。

10.1.2 Achillesの子Neoptolemus
系図を作成すると、遠征開始時、Neoptolemusは24歳であった。
Neoptolemusは、父Achillesと共にTroyへ遠征した。
Neoptolemusは、Priamの子HelenusとHectorの妻AndromacheとHectorの息子たちを連れてTroad地方を逃れて、Molossiansの地へ移住した。[98]

10.1.3 Achillesの育ての親Phoenix
Amyntorの子Phoenixは、Dolopiansを率いて遠征に参加した。[99]
Phoenixは、Neoptolemusと共にMolossiansの地へ向かう途中、Thermopylae付近で客死した。[100]

10.1.4 Peirithousの子Polypoetes
Polypoetesは、Gyrtonの町からTroy遠征に参加した。[101]
Polypoetesは、Troad地方からIonia地方へ逃れて、Colophonの町に定住した。[102]

10.1.5 Coronusの子Leonteus
Leonteusは、Argisaの町からTroy遠征に参加した。[103]
Leonteusは、Troad地方からIonia地方へ逃れて、Colophonの町に定住した。[104]

10.1.6 Euaemonの子Eurypylus
Eurypylusは、Ormenionの町からTroy遠征に参加した。[105]
Eurypylusは、Troad地方からAchaia地方へ逃れて、Patraeの町に定住した。[106]

10.1.7 Asclepius (or Aesculapius)の2人の息子たち、MachaonとPodalirus (or Podalirius)
MachaonとPodalirusは、Triccaの町からTroy遠征に参加した。[107]
MachaonはTroyで戦死した。[108]
Podalirusは、Troad地方からCaria地方へ逃れて、Syrnusの町を創建した。[109]

10.1.8 Magnesians
Thessaly地方のMagnesiansは、Troad地方からDelphiの町へ逃れて、そこに定住した。
BC1173年、MagnesiansはDelphiansと共にLydia地方へ移住して、Magnesiaの町を創建した。[110]

10.2 Boeotiaからの参加者
10.2.1 Archilycusの子Arcesilaus
Arcesilausは、Boeotiansを率いてBoeotia地方からTroyへ遠征した。[111]
Lacritusの子LeitusがArcesilausの遺骨を持ち帰って、Lebadeiaの町に埋葬した。[112]
Boeotiansは、Thessaly地方のArneの町を通じて、Achillesと関係があって、遠征に参加した。

10.2.2 Astyoche (or Pernis)の子Ialmenus
Orchomenusの町のIalmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いてTroy遠征に参加した。Ialmenusは、Troad地方から黒海北岸のSauromataeへ移住した。[113]
Orchomenusの町は、Minyansが住む町であり、古くから、黒海東岸のColchis地方と交流があった。[114]
Ialmenusの母Astyocheは、Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。[115]
Presbonは、Colchis地方で生まれ、祖父Athamasの跡を継ぐためにBoeotia地方へ移住して来た。[116]
Presbonの父Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の2人の息子たち、PersesとAeetesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)とColchis地方の支配者であった。[117]
Persesの娘Hecate (or Idyia)の娘Circeの夫は、Sauromatiansの支配者であった。[118]
以上のことからIalmenusは、遠征前から黒海方面との交易で、Hellespontを利用して、Priamの息子たちと親交があったと思われる。
Homerは、EgyptのThebesの町の富と並べて、Orchomenusの町の富を挙げているが、その富の源には、黒海方面との交易による収入もあったと思われる。[119]

10.3 その他の地方からの参加者
10.3.1 Athenians
10.3.1.1 Theseusの息子たちの帰還
伝承では、Athens王MenestheusもAtheniansを率いてTroyに遠征している。[120]
しかし、Mycenaeの町のAgamemnonの場合と同様に、Athensの町の支配は盤石ではなかった。
Menestheusは、彼が王位を奪ったTheseusの息子たちにいつ攻められるか分からない状況であった。Menestheusは、Euboea島から帰還したTheseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasによって、Athensの町を追放されたと推定される。
Theseusの息子たちの帰還には、Chalcodonの子Elephenorが協力し、ElephenorはMenestheusとの戦いで死んだと思われる。[121]
Menestheusは、Melos島へ移住して、そこで死んだ。[122]

10.3.1.1 Atheniansの遠征参加
Menestheus自身はTroyへ遠征しなかったが、Atheniansの部隊はTroy遠征に参加したと思われる。
黒海南岸のSinopeの町からAttica地方のPrasiaeの町への航路があった。その航路は、Hyperboreansの地から、Delos島へ初物を運ぶルートに含まれていた。[123]
この航路を使って、Atheniansも黒海沿岸と交易を行い、Hellespontを利用して、Priamの息子たちと親交があったと推定される。
MenestheusがAthensの町を追われて、帰る場所を失ったArcadiansの一部は、Italy半島南部Scylletiumへ移住した。[124]
また、Arcadiansの一部は、Mysia地方のElaeaへ移住した。[125]
Mysia地方には、Arcadia地方から移住したArcadiansが住んでいた。[126]

10.3.2 Telamonの子Ajax
Ajaxは、Megaraの町からTroy遠征に参加した。[127]
Telamonは、Achillesの父Peleusの兄弟であり、Ajaxは、Achillesの従兄弟であった。[128]
Ajaxが遠征に参加したのは、Achillesとの関係ばかりではなく、Hellespontの利用を通して、Priamの息子たちと親交があったからではないかと思われる。
Ajaxの配下にあったSalamiansは、優秀な舵取りであり、Athensの町からCrete島へ貢物を運ぶ船の舵取りをした。[129]
AjaxはTroyで死に、Iliumの町の北東のRhoeteiumに葬られた。[130]

10.3.2.1 捕虜から生まれたAjaxの息子たち
Ajaxには、遠征中に捕虜から生まれた息子が2人いた。
1) Aeantides
Aeantidesは、AjaxがIliumの町の南にあるColonaeの町のCycnus (or Cygnus)との戦いで捕虜にしたCycnusの娘Glauceから生まれた息子であった。[131]
Aeantidesは、後にAeantisの名祖になり、Marathon近くに住んだ。[132]
2) Eurysaces
Ajaxは、Phrygia地方のTeuthrasと戦って、彼の娘Tecmessaを捕虜とした。[133]
AjaxとTecmessaとの間に息子Eurysacesが生まれた。[134]
Eurysacesは、Attica地方のMeliteの町に住み、そこには、Eurysacesのsanctuaryがあった。[135]

10.3.2.2 Ajaxの兄弟Teucer
Telamonの子Teucerは、Trojan Warより前に、Cyprus島へ移住していた。[136]
Teucerは、Palaepaphosの町のCinyrasの娘Euneと結婚した。[137]
Teucerの移住の目的は、Cyprus島のAmathusの町で産出される貴重な鉱石の取引のためであったと思われる。Cinyrasの母は、Amathusの町の名付け親であった。[138]
Teucerは、兄弟Ajaxに加勢するために、Cyprus島からIliumの町へ駆け付けるが、Ajaxが死んで、勝敗が決した後であった。[139]
Teucerは、移住を希望したTrojansを連れて、Cyprus島へ戻り、Salamisの町を創建した。[140]

10.3.3 Thestorの子Calchas
Calchasは、Megaraの町に住んでおり、Megara王Ajaxに従ってTroyへ遠征した。[141]
Calchasは、Troad地方からPamphylia地方へ移住してSelgeの町を創建した。[142]

10.3.4 Mantineans
Arcadia地方のMantineansは、Troad地方からBithynia地方へ移住して、Bithyniumの町付近に定住した。[143]
Mantineansが遠征に参加した理由は、不明である。

10.3.5 Oileusの子Ajax
Pausaniasは、黒海に浮かぶLeuce島 (現在のZmiinyi、蛇島)に関連した伝承を記している。[144]
その伝承には、AchillesやTelamonの子Ajaxの他に、Oileusの子Ajax、Patroclus、Nestorの子Antilochusが登場する。
Oileusの子Ajax以外の者たちは、Troad地方に墓がある。[145]
伝承では、Oileusの子Ajaxは、Delos島近くで溺死したことになっている。[146]
実際は、Oileusの子AjaxもまたTroyで死に、Achillesと同じように黒海沿岸との交易に関係していたのではないかと思われる。
Oileusの子Ajaxは、Epicnemidian Locris地方のNarycusの町に住み、Opuntiansを支配していた。[147]

10.3.6 Menoetiusの子Patroclus
Patroclusは、Oileusの子Ajaxの支配下にあったEpicnemidian Locris地方のOpusの町に住んでいた。[148]
Patroclusは、Oileusの子Ajaxに従ってTroyへ遠征した。
PatroclusはTroyで死に、Sigeiumに埋葬された。[149]

10.3.7 Nestorの子Antilochus
10.3.7.1 Pylusと黒海方面の関係
Neleusと、Orchomenusの町のAmphionの娘Chlorisとの結婚の際には、多くのMinyansがChlorisに同行して移住した。[150]
Neleusの子NestorもOrchomenusの町からClymenusの娘Eurydice (or Anaxibia)を妻に迎えて、Pylusの町にもMinyansが住んでいた。[151]
Minyansは、黒海東岸のColchis地方への航路を知っており、Pylusの町も黒海沿岸地方と交易をしていたと推定される。

10.3.7.2 Antilochusの墓
Nestorの子Antilochusは、Troyで死んだ。[152]
Antilochusの墓は、Iliumの町の北西のSigeiumのAchillesやPatroclusの墓の近くにあった。[153]

10.3.7.3 Nestorの遠征参加の真偽
伝承によれば、Nestorは、Troyで死んだMachaonの遺骨を持ち帰って、Gereniaに埋葬した。[154]
しかし、Nestorが自分の息子の遺骨を持ち帰らずに、他人の遺骨を持ち帰ったとは考えられず、NestorはTroyへ行っていないと思われる。
系図を作成すると、当時のNestorは、74歳と推定される。
Alexander the Greatの死後、80歳位の年齢のAntipaterが騎馬でMacedoniaとEgyptの間を往復した例がある。しかし、当時の平均寿命を考慮すると、Nestorは生きていなかったと思われる。

10.3.8 Argives
Troy遠征物語に記されているArgivesの参加状況を見ると、史実に基づいていると思われるものがあり、ArgivesもTroy遠征に参加したと推定される。

10.3.8.1 Tydeusの子Diomedes
Pausaniasは、まだ未成年者であったAegialeusの子Cyanippusの代わりに、DiomedesがArgivesを率いて、Troyへ遠征したと伝えている。[154-1]
Cyanippusは、Diomedesの姉妹Comaethoの息子であり、Diomedesの甥であった。[154-2]
これは、Troy遠征物語の作者が、当時の有名人として、Diomedesを登場人物に加えたのではなく、史実に基づいていると思われる。

10.3.8.2 Argivesの指導者
HomerのIliadでは、Argivesを率いたのは、Diomedesの他に、Capaneusの子SthenelusとMecisteusの子Euryalusであった。[154-3]
Sthenelusは、Anaxagoridaeに属し、EuryalusとDiomedesは、Biantidaeに属していた。
Argosの3王家のもう一つのMelampodidaeは、Troy遠征に参加していない。
当時のArgosの町の実情を反映していて、史実に基づいていると思われる。
Melampodidaeは、Amphiarausの子Amphilochusに率いられて、Greece北西部へ移住して、Trojan War時代には、Argosの町に住んでいなかった。[154-4]

11 AgamemnonのTroy遠征
Mycenaeの町のAgamemnonは、つぎの理由でTroyへ遠征していないと思われる。

11.1 Mycenaeの支配が盤石ではなかった
Mycenaeの町は、Eurystheusの死後、Pelopsの子Thyestesが継いだが、Thyestesは、彼の兄弟Atreusに追放された。[155]
Atreusの死後、ThyestesがMycenaeの町を奪還して、Atreusの2人の孫たち、AgamemnonとMenelausはSpartaの町へ亡命した。[156]
Menelausは、Tyndareusの娘Helenと結婚して、Tyndareusの跡を継いでLacedaemon王になった。[157]
Agamemnonは、Lacedaemoniansを率いて、Mycenaeの町を奪還して、Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾近くのCythera島に幽閉した。[158]
その後、伝承では、AgamemnonはTroy遠征に出発して、Aegisthusは島を抜け出してAgamemnonがいないMycenaeの町を掌握したことになっている。
さらに、Eurystheusの死後、Heracleidaeは、2度にわたってPeloponnesusへの帰還を試みていて、Peloponnesusへの侵入の機会を窺っていた。
実際、Agamemnonが死ぬと、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊している。[159]
このような状況下で、AgamemnonがMycenaeの町から軍勢を率いて、長期の遠征を行ったとは考えられない。

11.2 Agamemnonの在位年数
伝承では、Agamemnonは、Troyから帰還した直後に殺されたことになっている。[160]
しかし、Agamemnonは、30 (or 35)年間、Mycenaeの町を統治して、治世18年目にTroyが陥落したという伝承もある。[161]
Agamemnonは、Troy陥落後、12年以上生存していたことになる。

12 第3回Trojan War (1170 BC)
AD5世紀の神学者Jeromeは、「Antenorの子供たちが追放された後、Hectorの息子たちはIliumの町を奪還し、Helenusが彼らを援助した。」と記している。[162]
また、AD12世紀のイギリスの聖職者Geoffrey of Monmouthは、「Antenorの子孫が追放された後、Hectorの息子たちがTroyを支配した。」と記している。[163]

12.1 Hectorの息子たちの行方
BC1188年にIliumの町は、Antenorの息子たちによって占領され、Priamの息子や孫たちは、Iliumの町を奪還できずに、各地へ移住した。[164]
Hectorの息子たちは、NeoptolemusやHelenusに連れられて、Molossiansの地へ移住した。[165]

12.2 Iliumを奪還
BC1175年、NeoptolemusはDelphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansとの戦いで戦死した。[166]
Hectorの妻Andromacheは、Neoptolemusと結婚していたが、Helenusと再婚した。[167]
Hectorには、少なくとも3人の息子たちがいた。
つまり、Scamandrius (or Astyanax)、Laodamas、Saperneiosであった。[168]
系図を作成するとHectorとAndromacheの年齢差が大きく、Hectorには別な妻から多くの息子たちが生まれていたと推定される。
BC1170年、Hectorの息子たちが成人すると、Helenusは彼らに軍勢を与えて、Iliumの町を攻撃させた。その軍勢の中核は、Hectorの息子たちが率いるTrojansであった。AchillesやNeoptolemusの指揮下にあったMyrmidonsを含むAchaeansも遠征に参加した。Hectorの息子たちは、各地に散らばっていたPriamの後裔を集めて戦力に加えて、Antenorの息子たちからIliumの町を奪還した。[169]

12.3 Andromacheの帰還
この時、彼らの母Andromacheは、一緒にIliumの町へ行かなかった。
AndromacheとHelenusの間には、息子Cestrinusが生まれていた。[170]
Helenusの死後、BC1156年、Andromacheは、Neoptolemusとの間の息子Pergamusに連れられてAsia Minorへ移住した。Pergamusは、Pergamonの町を創建した。[171]
Andromacheの生まれたThebeの町は、Pergamonの町のすぐ近くにあった。

13 Troy遠征物語
この章の最初に記述したように、Homerの『Iliad』より前に、Agamemnon率いるAchaeansがTroyへ遠征した物語が存在していた。
Homerは、Trojan Warに参加したCos島のSisyphusや、Crete島のDictysが書いたものを書き写したとも伝えられる。[172]
しかし、『Iliad』の中には、Troy王家の系譜が語られており、SisyphusやDictysでは知り得ないことである。
『Iliad』の原型の作者は、Troy王家の系譜にある者と直接会話できた人物であったと推定される。

13.1 物語の作者
Homerの『Odyssey』の中で、Demodocusは、Achaeansが木馬を使用した奇策でTroyを占領したと吟じている。[173]
Demodocusは、次の状況から、Homerの『Iliad』の原型の作者と推定される。
1) Demodocusは、Laconia地方で生まれた。[174]
2) Demodocusは、Argosの町のAutomedesやPerimedesの弟子であった。[175]
3) Demodocusは、Pythian 競技会で賞を獲得した優れた詩人であった。[176]
4) Demodocusは、Mycenaeの町のAgamemnonに雇われた。[177]
5) Demodocusは、Corcyra島のAlcinousに雇われた。[178]
6) Troyから落ち延びたPriamの子Helenusは、Corcyra島のすぐ近くのButhrotumの町に住んでいた。[179]
7) Demodocusは、『Troyの破壊』を書いた。[180]
つまり、Demodocusは、Iliumの町での戦いをHelenusから聞いて、Agamemnonを主人公にした物語を創作したと推定される。

13.2 物語の成立時期
BC1186年、Troad地方から落ち延びたPriamの子Helenusは、Neoptolemusと共にDodonaの北のHellopia地方に定住した。[181]
その後、HelenusはCorcyra島の対岸へ移住して、Buthrotumの町を創建した。[182]
Demodocusの雇い主Alcinousの娘Nausicaaは、Odysseusの子Telemachusの妻であり、Demodocusは、Odysseusと同世代であった。[183]
Demodocusは、『Troyの破壊』を書いており、BC1170年のHectorの息子たちによるIliumの町の奪還までを知っていたと思われる。[184]
また、Homerの『Iliad』には、Trojan War時代のTroy王家の系譜が記されている。
『Iliad』の最初の原作者Demodocusは、Troy王家の系譜にある者、つまり、HelenusやAndromacheから彼らの先祖や親族の系譜を聞き取ったと思われる。
したがって、Helenusが死に、AndromacheがAsia Minorへ渡ったBC1156年より前には、Demodocusは、『Iliad』の原型となる物語を完成させていたと推定される。

おわり