第11章 ペラスゴイ人の系譜

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Create:2023.3.10, Update:2024.3.12

1 はじめに
Pelasgiansは、古代ギリシア人の他の種族に比べて、広い範囲に居住していた。
また、Pelasgiansは頻繁に移住を繰り返し、名前を変えた種族であった。
そのため、BC4世紀のEphorusのような古代の歴史家にとって、Pelasgiansは理解しがたい種族であったようだ。[1]

2 Pelasgiansの始祖
Pelasgiansの始祖は、Phoroneusの娘Niobeの息子Pelasgusであると、AD1世紀の神話作家Apollodorusと、彼と同時代の歴史家Dionysius of Halicarnassusは、一致して伝えている。[2]
彼らは、Pelasgusに、Arcadia地方に住むLycaonという息子がいたとも伝えている。[3]
しかし、系図を作成すると、Niobeの息子Pelasgusの子Lycaonの3世代後に、Triopasの子Pelasgusの子Lycaonがいる。
最初のLycaonはArgosの町に住み、次のLycaonはArcadia地方に住んでいた。[4]
Peloponnesus半島は、古くはNiobeの兄弟Apisに因んだApiaと呼ばれた。その後、Pelasgusに因んだPelasgiaになり、Pelasgusの兄弟Argusに因んでArgosという呼び名になった。
この呼び名は、Arcadia地方ではなく、Argosの町が中心であった。
したがって、Pelasgiansの始祖は、BC1710年の生まれと推定される、Niobeの子Pelasgusが妥当である。[5]

3 Argosから各地への移住
3.1 ArgosからItalyへの移住
BC1635年、Niobeの子Pelasgusの子Lycaonの子Oenotrusは、Argosの町からItaly半島西南部へ移住し、Pandosiaの町を創建した。[6]
Oenotrusの兄弟Peucetiusは、Italy半島東南部へ移住した。[7]
その地方は、Peucetiusに因んでPeucetiaと呼ばれるようになった。[8]
Oenotrusと共に移住したPelasgiansはOenotriansに、Peucetiusと共に移住したPelasgiansはPeucetiansに、それぞれ名前を変えた。[9]

3.2 ArgosからArcadiaへの移住
BC1560年、Triopasの子Agenorの子Pelasgusは、Argosの町から西南西へ約70kmのLycaeus山(標高1,421m)の麓へ移住した。[10]
BC14世紀初め、Callistoの子Arcasに因んで、彼のもとで暮らす人々は、PelasgiansからArcadiansに名前を変えた。[11]

3.2.1 ArcadiaからEleiaへの移住
BC14世紀、Lycaonの子Cauconの後裔である、PhrixusとMakistus兄弟は、Arcadia地方からEleia地方へ移住して、Phrixaの町とMakistosの町を創建した。[12]
彼らが率いた人々は、Pelasgiansから名前を変えたCauconesであった。[13]

3.3 ArgosからEgyptへの移住
BC1560年、Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasの子Iasusは、Pelasgiansを率いて、Argosの町からEgyptへ移住した。[14]
Iasusの娘Ioは、EgyptのSaisの町に住んでいたTelegonusと結婚した。[15]
Ioの息子Epaphusは勢力を拡大し、NileDeltaの分岐点より上流にMemphisの町を創建した。 [16]
また、第2代Athens王CranausもIoの息子であった。[17]

3.3.1 EgyptからAthensへの移住
古い時代のAtheniansはPelasgiansであり、その頃は、Cranaansという名前で呼ばれていた。[18]
Cranaansとは、第2代Athens王Cranaus治下の人々のことと思われる。もしそうであれば、Pelasgiansの始祖PelasgusからCranausの時代までの約150年の間に、Attica地方へのPelasgiansの移住がなければならない。
Cranausの時代にArgosの町を治めていたAgenorの子Crotopusまでの間、Argosの町からAthensの町への移住は伝えられていない。
しかし、AtheniansはEgyptのSaisの町からの移民であり、Athensの町の初期の支配者はEgyptianであったという伝承がある。[19]
このことから、次のように推定される。
Herodotusは、PelasgiansがCranaansと呼ばれていたと伝えている。[20]
従って、Cranausの前のAthens王Cecrops治下の人々はPelasgiansではなかった。
Argosの町からEgyptへ移住したTriopasの子Iasusの娘Ioは、Saisの町のTelegonusと結婚して、息子Cranausが生まれた。Cranausは、Ioと共にEgyptへ移住したPelasgiansの後裔を連れてAttica地方へ移住して来た。[21]

3.4 ArgosからAsia Minorへの移住
BC1560年、Iasusの兄弟Xanthusは、Argosの町からPelasgiansを率いてLycia地方に植民後、Xanthus自身はIssa島に植民し、島はPelasgia (後のLesbos)と呼ばれるようになった。[22]
Xanthusと途中で別れたArgosの町のCyrnusは、Rhodes島対岸のCherronesus地方にCyrnusの町を創建した。[23]

3.5 ArgosからThessalyへの移住
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaに率いられたPelasgiansは、Argosの町からThessaly地方へ移住した。[24]
Pelasgiansは、Thessaly地方北部のPeneius河畔のLarisaの町から東南の海岸地方にかけての地域に定住した。[25]
BC1511年、Larisaの子Pelasgusの時代にThessaly地方北部を震源とする大地震が発生した。Tempeと呼ばれる山々が裂けてTempe渓谷ができ、沼の水がPeneius川に注いで沼地が干上がってDotiumという平原になってPelasgiansは居住地を広げた。[26]

3.5.1 ThessalyからDodonaへの移住
BC1480年、Haemonの子Thessalusは、Thessaly地方のScotussaの町からDodonaへ移住した。Thessalusは、Scotussaの町にあった神託所も移して、Dodonaに神殿を造営した。[27]
この移住には町のほとんどの女人が同行し、Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は代々、彼女たちの子孫であったと伝えられる。[28]

3.5.2 Thessalyから各地への移住
Pelasgusの娘Larisaに率いられたPelasgiansがThessaly地方に住んで、6世代の間にPelasgiansの人口は、肥沃な大地の恵みを受けて、急激に増加した。[29]
BC1390年、Aegean Seaに発生した大津波は、Thessaly地方沿岸部に住むPelasgiansの町を襲った。居住地を失ったPelasgiansは内陸へ大挙して移動し、Pagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲った。
Itonusの町には、Deucalionの子Amphictyonの子Itonusと彼の妻Melanippeが住んでいた。
Melanippeは、Thessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusの娘であった。[30]
AmphictyonとAeolusは同族を結集して、PelasgiansをThessaly地方から追い出した。[31]
Thessaly地方を追われたPelasgiansは、新たな土地を求めて四散した。

4 ThessalyからDodona周辺への移住
Thessaly地方を追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺へ逃げ込んだ。[32]
Dodona周辺から、Pelasgiansの一部は、Italy半島へ渡ったが、多くのPelasgiansは、故郷Thessaly地方へ帰還する日を待ちながら山地で暮らした。[33]
その後、彼らの中にThesprotusという名前の指導者が現れ、一族の名称もPelasgiansからThesprotiansという名前になったと推定される。[34]
Thesprotiansは、Dodonaの南西の海の近くにEphyra (後のCichyrus)の町を創建した。[35]
Ephyraは、Dodonaに神殿を造営したThessalusの兄弟と思われるCrannonが、Thessaly地方のScotussaの町の近くに創建した町(後のCrannon)の名前でもあった。[36]

4.1 帰還前のThessalyの状況
BC1257年、Lapithsに追われて、Dotion平原に居住していたAenianiansはOeta山北側に移住した。その後、一部はOlympus山南西のCyphusの町付近に移住した。
また、Gyrtonの町周辺に居住していたPerrhaebiansの一部は、Peneius川上流のDodona近くのLacmus山周辺に移住した。しかし、多くのPerrhaebiansは、Lapithsに隷属して共住する道を選んだ。[37]
その後、LapithsはGyrtonの町を中心に、Magnesia地方やPagasetic Gulf周辺に居住範囲を広げ、Peneius川を越えてDoriansの居住地をも圧迫するようになった。しかし、Doriansに味方したHeraclesによって、Lapithsは攻め滅ぼされた。[38]
これより少し前、Iolcusの町の周辺に住んでいたMinyansは、Peliasの子Acastusの横暴に抵抗して反乱を起こし、Phthia地方のPeleusによって追い出されていた。[39]
Trojan War時代のThessaly地方は、中心的な町であったIolcusが破壊され、LapithsもHeraclesとの戦いに敗れて、Phthiaが大きな力を持つようになった。
Peleusの子Achillesの時代には、Phthiaは、Scyros島やAegina島、さらには、Locris地方にまで影響力を持っていた。[40]

4.2 帰還の端緒
BC1390年にThessaly地方を追われたPelasgiansは、Italy半島東海岸北部のRavennaの町にも住んでいた。彼らは、Lydia地方からItaly半島に移住してきたTyrrheniansに圧迫されてThessaly地方に帰還したと伝えられている。[41]
しかし、彼らは直接、Ravennaの町からThessaly地方へ帰還したのではなかった。彼らは、Adriatic Seaを渡って、Dodona周辺のThesprotiansのもとへ逃げ込んだ。
彼らの出現は、Thesprotiansを刺激して、Thessaly地方侵入の引き金になったと推定される。
その後、ギリシア北西部へは、次のように各地から移住して来た人々によって、Thesprotiansは次第に圧迫されていった。

1) Aetoliaへの入植
BC1320年、Peloponnesus半島のElisの町のEndymionの子AetolusがAetolia地方のCuretesの土地に移住し、Curetesを追い出して、Pleuronの町とCalydonの町を創建した。[42]
Aetolusの入植の後、Greece北西部は人気のある移住先となり、その地を目指す入植が盛んになった。[43]

2) Cephalleniaや島々への入植
BC1277年、Alcaeusの子Amphitryonは、Deionの子Cephalusと共にTeleboansの地へ遠征した。[44]
この遠征の中心人物は、既にArgolis地方にHelosの町を建設していた、Amphitryonの叔父で、Perseusの子Helius (or Heleus)と推定される。Heliusは、彼の兄弟Mestorの娘Hippothoeと結婚しており、Helosの町に飽き足らず新天地を求めての遠征であった。[45]
Heliusは、彼の兄弟のElectryonや彼の甥Amphitryonに協力を求めた。Amphitryonは、母の弟Creonや、Aegeusに追われてAttica地方のThoricusの町からThebesの町へ来ていたDeioneusの子Cephalusを遠征に誘った。[46]
遠征隊は、Acarnania地方西方のIonian Seaに浮かぶ島々からTeleboansを追い出して植民した。[47]
Cephalusは、Ionian Seaで最大の島に入植し、島をCephalleniaと名付けた。[48]
Heliusは、Echinades諸島に入植した。[49]
その後、Heliusの子Taphiusは、Cephallenia島の北に浮かぶ島々からTeleboansを追い出して、その一つにTaphosの町を創建し、島をTaphosと呼ばせた。[50]

3) Acarnaniaへの入植
BC1246年、Pelasgiansが、Sicily島からAcarnania地方へ移住して来た。[51]
このPelasgiansは、BC1390年にThessaly地方を追われて、Italy半島へ渡り、Rome近くのRegis Villaの町に住んでいた。彼らは、BC1300年にLydia地方から渡来したTyrrheniansに追われてSicily島へ移住していた。[52]
しかし、後のRomeの地へArcadia地方からEvanderが移住して来たことを契機に、住民の移動が順次発生した。住民の移動の連鎖はItaly半島南部に及んで、Oenotriansに追われたSicelsがSicily島へ移住した。Sicelsの侵入を受けて、Sicily島にいたPelasgiansはAcarnania地方に移住した。[53]

4) Cephalleniaへの入植
BC1244年、Augeasの子PhyleusがElisの町からCephallenia島のDulichiumに入植した。[54]

5) Ephyraの攻略
BC1237年、Amphitryonの子HeraclesはThesprotia地方へ遠征して、Ephyraの町を攻略した。[55]
Trojan War時代、Jasonの子Mermerusの子Ilusは、Ephyraの町に住んでいた。[56]

6) Corcyraへの入植
BC1237年、Heraclesと共に遠征したAesonの子Jasonは、Scheria (後のCorcyra)島へ入植した。[57]

7) Acarnaniaへの入植
BC1237年、Heraclesの遠征に参加したOebalusの子Icariusは、Pleuronの町からAchelous川から西に越えたAcarnania地方に入植した。
Icariusの2人の息子たち、AlyzeusとLeucadiusは、Acarnania地方に自分たちの名前を付けた町を創建した。[58]

8) Taphosへの入植
BC1237年、Heraclesの遠征に参加したPerseusの子Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からTaphos島に入植した。[59]

9) Echinadesへの入植
BC1237年、Heraclesの遠征に参加したPhyleusの子Megesは、Cephallenia島からEchinades諸島へ移住して、一番大きな島を領して、故郷と同じDulichiumと呼んだ。[60]

10) Ambracian Gulf近くへの入植
BC1204年、Amphiarausの子Alcmaeonは、Ambracian Gulfの東側へ移住して、Argos (後にArgos-Amphilochicumに改名)の町を創建した。[61]

4.3 指導者の誕生
BC1237年のHeraclesの遠征で捕虜になったEphyraの町のPhyleusの娘AstyocheとHeraclesとの間には、息子Dexamenusが生まれた。
Dexamenusの子Ambraxは、Ambracian Gulf北部のAmbraciaの町を支配した。[62]
Dexamenusには、PheidonやHaimonという息子たちもいた。
Dexamenusの息子たちは、Thesprotiansの指導者になった。[63]

4.4 Trojan War時代の無防備状態の出現
Troy遠征には、Thessaly地方全域から、戦闘可能な男たちが参加した。
Trojan War時代、Thessaly地方は無防備な状態であった。

4.5 帰還の状況
ThesprotiansのThessaly地方占領は、Troy陥落の直前には完了していたものと思われる。
最初にThesprotiansがThessaly地方に侵入したのは、BC1186年早春であったと推定される。[64]
Thessaly地方のArneの町のBoeotiansは、Heraclesの子Dexamenusの子Haimonに敗れた。
Boeotiansの一部はBoeotia地方へ帰還したが、大部分の人々は、Penestaeと呼ばれる農奴となって残留した。[65]
Thesprotiansは、Achaeans、Perrhaebi、そしてMagnesiansと戦った。
Achaeansも、当初Penestaeとして住み続けることを許されたが、Arneの町のBoeotiansと共に、3世代目に追い出された。
結局、PerrhaebiansとMagnetesがThesprotiansに従属してThessaly地方に住み続けた。[66]
Perrhaebiansは、800年後のAmyntasの子Philipの時代も、Thessaly地方北部に住んでいた。[67]

5 ThessalyからItalyへの移住
BC1390年、Thessaly地方を追われたPelasgiansの一部は、Italy半島各地へ移住した。

5.1 Italy半島北部への移住
Pelasgiansの一部はDodonaを経由してItaly半島北東部へ上陸して、Padus川 (現在のPo川)の河口の南にSpinaの町 (現在のComacchio)を創建した。[68]
また、Spinaの町の少し南にも、Ravennaの町を創建した。[69]

5.2 Italy半島中部への移住
Thessaly地方北部のPerrhaebia地方に住んでいたPelasgiansは、Janusに率いられて、Italy半島東海岸からApennines山脈を越えて西側へ移動した。[70]
Janusは、Larisaの子Pelasgusの子Phrastorの子Amyntorの子Teutamidesの子Nanasの息子であった。[71]
Janusは、Reatine地方のCutiliaの町の近くで、Ausonesに受け入れられて、彼らと共住した。Ausonesは、Janusが現れる少し前にUmbriansやSicelsを追い出してCutiliaの町の近くに定住していた。 [72]
Janusの娘Olisteneは、古代Romeの王を輩出したSabinesの名祖となったSancusの子Sabusと結婚した。[73]
Janusの子Aethexの子Faunusは、Umbriansを追い出し、Trasimene湖一帯を支配した。[74]

5.2.1 ItalyからSicilyへの移住
BC1300年、Faunusの子Arnusは、Lydia地方から移住してきたAtysの子Tyrrhenus率いるTyrrheniansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[75]
さらに、Romeの西北西方の海岸近くのRegis Villaの地に住んでいた、Sabusの子Janusの子Maleusも、Tyrrheniansによって追い出された。[76]
Tyrrheniansに追われたPelasgiansは、Sicily島へ移住した。[77]
Pelasgiansは、Sicily島から次のように移住を繰り返した。

1) SicilyからAcarnaniaへの移住
BC1246年、Pelasgiansは、Italy半島から大挙して移住してきたSicelsに追われて、Sicily島からAcarnania地方へ移住した。[78]

2) AcarnaniaからBoeotiaへの移住
BC1188年、PelasgiansはAcarnania地方からBoeotia地方へ移動した。彼らは、Coroneiaの町に住んでいたBoeotiansを追い出して、町を占拠した。[79]

3) BoeotiaからAthensへの移住
BC1126年、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansは、Thessaly地方のArneの町から帰還したOpheltesの子Damasichthon率いるBoeotiansによってBoeotia地方から追放された。
Pelasgiansは、AgrolasとHyperbiusに率いられてAthensの町に逃げ込み、Hymettus山麓の不毛な土地に住むことを許された。[80]

4) AthensからLemnosへの移住
BC1115年、Pelasgiansは、不毛な土地が立派に開墾されたのを見たAtheniansに嫉まれて、Athensの町から追放されて、Lemnos島へ移住した。[81]
Homerは、Lemnos島にはSintiesが住んでいたと述べ、BC3世紀の歴史家Philochorusは、SintiesはPelasgiansであったと伝えている。[82]
Sintiesとは、Athensの町からLemnos島へ移住したPelasgiansのことであった。

5) LemnosからChalcidiceへの移住
BC495年、Lemnos島のPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島の5つの町Cleonae、Olophyxis、Acrothoi、Dium、Thyssusへ移住した。[83]
BC1390年にThessaly地方からItaly半島へ移住したJanusの後裔は、約900年後、皮肉にも先祖が昔住んでいた土地の近くに戻って来た。

5.3 Italy半島南部への移住
BC1390年、Thessaly地方の沿海部に住んでいて、津波で被災したPelasgiansを率いるDiusは、Pagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲った。Diusは、Amphictyonの子Itonusの妻Melanippeを戦利品として連れ去り、Italy半島南部のMetapontiumの町へ移住した。[84]
Metapontiumの町でMelanippeは2人の息子たち、AeolusとBoeotusを産んだ。[85]
Boeotusは成人すると、Italy半島からThessaly地方のArneの町に帰還して、彼の祖父Aeolusの跡を継いだ。[86]
Melanippeの子Aeolusは、Sicily島の北東に浮かぶLipara島に移住し、Liparusの娘Cyaneと結婚して、島の周辺を領した。[87]

6 ThessalyからPhrygiaへの移住
BC1390年にThessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Nanasの兄弟Silenus子Dolionに率いられて北へ向かい、黒海に出た。彼らは、Bosporus海峡を渡り、Propontisを右に回って、Ascanius川の岸辺に定住した。[88]
その後、PelasgiansはDolionesに名前を変えて、西へ移動し、Cyzicusの町周辺に広く居住するようになった。[89]
Cyzicusの町の東側のPropontisの岸辺のPlaciaの町とScylaceの町には、BC5世紀の歴史家Herodotusの時代にもPelasgiansが住んでいた。[90]
Dolionから5世代目のAeneusの子Cyzicusは、Troy王Priamの妻Arisbeの姉妹Cleiteを妻に迎えて、Cyzicusの町に住んでいた。Cyzicusは、Argonautsの遠征隊が、かつて、先祖が追い出されたThessaly地方から来たと知って、彼らと戦って、彼は戦死した。[91]
また、Ida山中にもThessaly地方のLarissaの町のGargarosに因んで名付けられた町があった。
Iliumの町の南方の海岸近くの町Colonaeに住んでいた、Hecatoの娘Calyceの子Cycnus (or Cygnus)は、Gargarosの後裔と推定される。[92]

7 ThessalyからLesbosへの移住
BC1390年にThessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Aeolusの子Macareusの移民団に参加してPelasgia島 (後のLesbos島)へ移住した。Macareusの移民団にはAeolisの他に、Ioniansも含まれていた。[93]
その後、Macareusの息子たちは、近隣の島々(Chios、Samos、Rhodes、Cos)へ入植したが、その中にはPelasgiansも含まれていたと思われる。[94]

7.1 LesbosからHermus流域への移住
Trojan Warの時代、Hermus川流域には、Teutamusの子Lethusの2人の息子たち、HippothousとPylaeusを指導者とする大部族が住んでいた。[95]
Pelasgiansの大部族は、Asia Minorに影響力を及ぼしていたHittiteの属国になって、Seha River Landという名前で呼ばれていた。[96]
HittiteやPelasgiansの勢力が弱まった頃、Locris地方からAeolisの移民団を率いたMalausがHermus川の河口近くへ移住して来て、Phryconian Cymeの町を創建した。[97]
Aeolisに追われたTeutamusの後裔が率いるPelasgiansは、Italy半島へ移住して、Tyrrheniansが住むPisaeの町に定住したようである。[98]
Tyrrheniansは、Asia Minorから移住して来たPelasgiansを同族として受け入れて共住したと思われる。

8 ThessalyからLemnosへの移住
BC1390年にThessaly地方から逃れたPelasgiansの行先の中にLemnos島の名前はない。しかし、彼らはHellespont付近の多くの島々へ渡ったと伝えられ、その中にLemnos島も含まれていたと思われる。[99]
BC3世紀の歴史家Anticleidesは、Lemnos島の最初の住民は、Pelasgiansであったと伝えている。[100]

8.1 LemnosからLydiaへの移住
Straboは、Lemnos島のPelasgiansの一部はAtysの子Tyrrhenusに率いられてItaly半島へ移住したと伝えている。[101]
このことから、Lydia地方のMaeoniansの祖Manesは、BC1390年にThessaly地方を追い出されたPelasgiansの指導者であったと推定される。[102]
Manesは、Thessaly地方からLemnos島を経由して本土へ渡り、Tmolus山の周辺に定住した。[103]
Manesは、HittiteがArzawa王Kupanta-Kuruntaと呼んだ人物と同一と推定される。[104]

8.1.1 LydiaからLemnosへの移住
BC1318年、Hittite王Mursili IIとUhha-Ziti (Tantalus)との戦いで、Manesの後裔はUhha-Zitiに味方した。[105]
Hittiteが戦いで勝利して、Atysの子Tyrrhenusに率いられたMaeonians (Pelasgians)は、Lydia地方からLemnos島へ逃れた。
Herodotusは、Smyrnaの町からUmbriaの土地へ移住したと伝えているが、当時、Smyrnaの町は存在していなかった。[106]
TyrrhenusがItalyに現れたのは、BC1300年頃であり、18年間のタイムラグがあり、その間、彼らはLemnos島にいたと推定される。

8.1.1.1 新たな移住先の選定
Atysの子Tyrrhenusが移住した後で、さらに多くの移住者を受け入れたLemnos島は、人口過多になり、TyrrhenusはItaly半島へ移住することになった。
当時、Italy半島中部のAgyllaの町は、Delphiに宝庫を奉納する程に繁栄して、その噂はギリシア世界全体に広まっていたものと思われる。[107]
Agyllaの町の創建者は、Thessaly地方を追われたPelasgiansであった。Lemnos島のPelasgiansは、同族としての交流からその繁栄ぶりを知っていたと思われる。また、両者の始祖が創建したDodonaへの奉納や神託を受けるための参拝などを通して、Agyllaの町の情報を知り得たものと思われる。[108]

8.1.1.2 LemnosからItalyへの移住
BC1300年、TyrrhenusはMaeonians (Pelasgians)を率いてItaly半島西海岸中部に上陸し、Latium地方へ侵入しようとして、Romisに撃退された。しかし、その後、彼らは多くの先住民を追い出して、Italy半島の北半分に居住範囲を広げた。彼らはTyrrhenusに因んでTyrrhenians、彼らの居住地はTyrrhenia地方、Italy半島西側の海はTyrrhenia海と呼ばれるようになった。[109]
Tyrrheniansに追い出された先住民の多くは、90年前にThessaly地方を追い出されたPelasgiansで同族であったが、彼らの間で言葉は通じなかった。[110]

8.1.2 LydiaからMysiaへの移住
Manesの子Cotysの子Atysの子Mysusは、Lydia地方からMysia地方へ移住した。[111]
Mysusの移住の原因は、彼の兄弟Tyrrhenusと同じく、Hittiteとの戦いであったと思われる。
Mysusの子Diomedesの子Teuthrasは、Arcadia地方からの移住して来た、Telephusの母Augeと結婚した。[112]
Teuthras支配下のPelasgiansは、Arcadiansを同族として受け入れて、彼らと共住した。

9 ThessalyからChiosへの移住
BC1390年にThessaly地方から逃れたPelasgiansはHellespont付近の多くの島々へ渡ったと伝えられる。[113]
その中には、Chios島へ移住したPelasgiansもいた。[114]

10 土地に執着しないPelasgians
これまで見て来たように、Pelasgiansは土地に執着せず、移住を繰り返した。そのため、Pelasgiansは、「こうのとりの群(Pelargi)」と綽名されていた。[115]
一方、Aeolisは、敵対するものに徹底抗戦した。
Eleia地方のCretheusの子Neleusは、Pylusの町が廃墟と化すまで、Heraclesと戦った。[116]
Thessaly地方のPeliasの子Acastusは、Iolcusの町が破壊されるまで、Minyansに抵抗した。[117]
Euboea島のMelaneusの子Eurytusは、Oechaliaの町が破壊されるまで、Heraclesと戦った。[118]
Argolis地方のCorinthの町に住んでいたAeolisは、Doriansに最後まで抵抗して、Peloponnesusを去った。[119]
Laconia地方のAmyclaeの町に住んでいたAchaeansは、Doriansに最後まで抵抗して、Peloponnesusを去った。[120]

おわり