1 はじめに
BC549年、Lydia王Croesusは、PersiaのCyrusがMediaを攻略して勢力を増すのに危機感を覚え、各地の神託所へ使節を派遣して、神託を得た。その神託所とは、Delphi, Abae, Dodona, Amphiaraus, Trophonius, Branchidaeであった。その中で、Croesusが一番信用できると認めたのはDelphiであった。[1]
その他に、ClarusやPtous山の神託所が有名であった。
2 Abaeの神託所
Pausaniasは、AbaeがApolloの聖地であり、古くから神託所があったと伝えている。[2]
AD6世紀の文法学者Stephanus of Byzantiumは、Delphiの神託所より前に、Abaeの神託所があったと記している。[3]
しかし、Abaeの神託所が初めて史料に登場するのは、BC6世紀のCroesusの時代であった。
3 Amphiarausの神託所
Amphiarausの神託所は、Boeotia地方とAttica地方との境界付近のOropusの町のPsaphisにあった。[4]
予言者であったAmphiarausを神とみなしたのは、Oropusの町が最初で、その後、ギリシア人の間に広まった。[5]
Lydia王Croesusは、黄金の楯と槍をAmphiarausの社へ奉納した。それらの奉納品は、Herodotusの時代には、Thebesの町のIsmenian Apolloの神殿にあった。[6]
Amphiarausは、Melampusの子Mantiusの子Oeclesの息子であり、AdrastusのThebes攻めに参加して、戦死した。
Amphiarausが死んだ場所はPsaphisではなく、Thebesの町のElectran gateの南であった。[7]
4 Branchidaeの神託所
4.1 神託所の創建
BC1186年、Thessaly地方からTroy遠征に参加したMagnesiansは故郷へ帰還せず、Delphiの町に住み着いた。[8]
BC1173年、Magnesiansは、Delphiを荒らしたAchillesの子Neoptolemusを殺したDaetasの子Machaereusが率いるDelphiansと共にAsia Minorへ移住した。[9]
MagnesiansとDelphiansは、Lydia地方にMagnesiaの町を創建した。[10]
Magnesiansは、Asia Minorへ移住する前、Thessaly地方のDotium PlainにあるDidyman hillsの近くに住んでいた。[11]
Machaereusの子孫Democlusの子Smicrusは、Magnesiaの町からMiletusの町へ移住して、息子Branchusが生まれた。[12]
Branchusは、Miletusの町の近くのDidymaにApolloの神託所を開設した。Branchidaeの神託所は、Delphiの神託所に次いで、名声の高い神託所であった。[13]
4.2 創建の年代
Pausaniasは、神託所の創建がIoniansの入植より古いと記している。[14]
Miletusの町の歴史家Leanderが、Miletusの町のDidymaeumにCleochusが埋葬されていると記しているのを見て、Pausaniasは推定したと思われる。[15]
Cleochusは、Crete島からAsia Minorへ移住して、Miletusの町を創建したMiletusの母Ariaの父であり、BC14世紀の人物であった。[16]
しかし、DidymaeumへのCleochusの埋葬が、BC14世紀にDidymaeumが存在していたことの証明にはならない。
Branchusは、Miletusの町の支配者Codrusの子Neileusの後裔Leodamasから捕虜の母子を託された。その捕虜は、LeodamasがEuboea島のCarystusの町との戦いで得たものであり、Lelantine War時代の出来事であった。[17]
Branchusは、Miletusの町に僭主が現れる前の王制の時代の人物であり、DidymaのApolloの神託所の創建は、BC720年頃と推定される。
4.3 Xerxesによる破却
Persia大王Xerxesは、Miletusの町の近くのDidymaにあるBranchidaeの神殿や神託所を破却した。[18]
Branchidaeは、神殿の財貨を引き渡して、Xerxesに従ってDidymaを去って、Sogdiana地方へ移住した。[19]
Branchidaeの神殿には、Miletusの町がPersiaから制海権を勝ち取れるだけの艦隊を建造することが可能な富が奉納されていた。[20]
この時、DidymaのBranchidaeは、すべて移住したのではなく、残っていた者たちもいた。BC300年頃、Antiochusの子Seleucusは、Ecbatanaの町にあったApollo像をMiletusの町のBranchidaeに返還した。[21]
4.4 SogdianaのBranchidaeの滅亡
BC327年、Sogdiana地方のBranchidaeの町は、Alexander the Greatによって破壊された。
彼らの先祖がXerxesに神殿の財貨を引き渡し、人々を裏切ったことが破壊の理由であった。[22]
Branchidaeは、Alexander the Greatの母方の先祖Neoptolemusを殺害したDaetasの子Machaereusの後裔であったことも理由の一つであったと思われる。[23]
この因縁を考慮すると、BC331年、Alexander the GreatがEgyptのMemphisの町に滞在中、Miletusの町のBranchidaeから大王を喜ばすような予言が届いたという伝承は、作り話と思われる。[24]
5 Clarus (or Claros)の神託所
BC1196年、Tiresiasの娘Mantoを含むEpigoniの捕虜たちは、Asia Minorへ移住し、Colophonの町のLebesの子Rhaciusに受け入れられて共住した。[25]
Mantoは、Colophonの町近くの海辺のClarusの町に、Apollonの神託所を開設した。[26]
ClarusのApollonの神託所の創建は、BC1194年頃と推定される。
神託所は、Mantoの子Mopsusが継承した。[27]
その後、Mopsusは、異父兄弟Amphilochusと共に、Cilicia地方へ移住して、Mallusの町を創建しており、Clarusの神託所はMopsusの息子が継承と思われる。[28]
Mopsusの娘Rhodeは、Lycia地方のRhodia(Rhodiapolis)の町の名祖であり、近くのTelmessus出身で、Alexander the Greatの遠征に従軍した予言者Aristanderも、Mopsusの後裔と思われる。[29]
BC334年、Smyrnaの町の住人は、新市の建設について、Clarusの神託所から神託を受けた。[30]
6 Delphiの神託所
6.1 Lycoreiaの創建
BC1750年、Ogygus時代の大洪水が発生したとき、Phocis地方のCephisus川の近くに住んでいた人々の一部は、Parnassus山に逃れて、Lycoreiaの町を創建した。[31]
Lycoreiaの町の創建者は、Lycorus (or Lycoreus)であった。[32]
Lycoreiaの町の住人の一部は、後に、Delphiの神域の近くに移り住んだ。[33]
6.2 Delphiの創建
Pausaniasが伝えている系譜によれば、Delphiの町の名付け親Delphusは、Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの息子であった。
つまり、DelphusがDelphiの町を創建したのは、BC1690年頃と推定される。[34]
6.3 Delphiの神託所の神
Delphiには、最初、Earthの神託所があり、Daphnisが予言していた。[35]
その後、神託所は、PoseidonとEarthの共有となり、PoseidonにはPyrconが仕えていた。[36]
その後、神託所は、EarthからThemisへ、ThemisからApolloへと引き継がれた。[37]
6.4 Apolloの神託所の創建
Apolloの神託所の創建者のひとりであるLycia地方のOlenは、詩人のOrpheusより前に生まれた。[38]
Olenは、Athensの町からLycia地方へ移住したPandionの子Lycusの息子であり、BC1280年頃の生まれと推定される。[39]
神託所の最初の女性予言者Phemonoeは、Orpheusより、27年前の人物であった。[40]
このOrpheusは、有名な詩人ではなく、Argonautsのひとりであり、Phemonoeは、BC1290年頃の生まれと推定される。
Pythian Apollon hymnを歌う競技会の最初の勝利者は、Apolloを浄めたCarmanorの娘Chrysothemisであった。[41]
Chrysothemisは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの妻であり、BC1270年頃の生まれと推定される。[42]
Carmanorが浄めたApolloとMinosの娘Acacallisの結婚などから判断すると、Apolloの神託所が設置されたのは、BC1255年頃と推定される。[43]
6.5 最古の訪問者
Delphiの神託所で神託を受けたと記録に残っている最古の人物は、Sardusの父Macerisであった。[44]
MacerisがDelphiを訪問したのは、BC1420年頃と推定される。
Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれた英雄であった。[45]
7 Dodonaの神託所
7.1 Thessalyの神託所
BC1560年、Argosの町で大飢饉が発生して、Argos王Triopasの子Pelasgusの娘Larisaは、Triopasの子Agenorの子Pelasgusと共にArcadia地方へ移住した。
Agenorの子Pelasgusは、食用に適する樫の実を発見して人々に教えた。[46]
その後、LarisaはThessaly地方へPelasgiansの移民団を率いて移住した。[47]
Pelasgiansは、Thessaly地方のScotussaの町の近くにArcadia地方から運んだ樫の木を植えて、Zeusの神託所を作った。[48]
7.2 Dodonaへの移設
BC1480年、Zeusの神託所の神木とした樫の木の一部が焼失した。Pelasgiansは神託に従って、Thesprotia地方へ神託所を移すことになった。[49]
Haemonの子Thessalusは、DodonaにThessaly地方のScotussaの町から運んだ樫の木を植えて、Zeusの神託所や神殿を造営した。[50]
神託所の引越しには、Scotussaの町の女人たちが同行した。Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[51]
Thessalusの父Haemonは、Larisaの子Pelasgusの息子であった。[52]
7.3 DodonaとPelasgiansの関係
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Pelasgiansの大部分は、Dodona周辺に住み着いた。[53]
当時、Dodona周辺に住んでいた人々は、Thessaly地方から逃れて来たPelasgiansを同族として受け入れた。[54]
BC1126年、Boeotia地方のCoroneiaの町を占拠していたPelasginansとThessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansが戦っていたとき、両者は、Dodonaで神託を受けた。Boeotiansは、Dodonaの巫女がPelasginansと同族であったため、自分たちが受けた神託を疑ったと伝えられている。[55]
Dodonaの創建者がPelasginansであったということは、当時の人々には広く知られていた。
7.4 ギリシア最古の神託所
Herodotusは、Dodonaがギリシア最古の神託所であると記している。[56]
Herodotusは、Thessaly地方からDodonaへ神託所が移されたことを知らなかったようだ。
もし、Herodotusがそれを知っていたならば、Dodonaへ移される前にThessaly地方にあった神託所が最古であると記しているはずである。
あるいは、Thessaly地方から移される前に、既にDodonaに古くからの神託所があったのかもしれない。その場合、Dodonaの神託所の創建年代は、まったく不明であり、他の神託所と比較することはできない。
8 Olympian Zeusの神託所
Straboは、Olympiaの町が競技会で有名になる前に、Olympian Zeusの神託所で有名であったと伝えている。[57]
その神託所をOlympiaの町で最初に競技会を開催したIdaean Heraclesが開設したのであれば、BC15世紀の後半と思われる。[58]
9 Ptous山の神託所
BC1330年、Melia (or Metope)の子Tenerusは、Boeotia地方のCopais湖の東側のPtous山に神託所を開設した。[59]
Meliaは、BC1420年、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たUdaeusの子Ladonの娘であった。[60]
Tenerusは、Teiresias、Manto、Mopsusへと続く、予言者の家系であった。
BC1205年、EpigoniのThebes攻めで、Teiresiasは死に、彼の娘Mantoは捕虜になった。[61]
Mantoは、Asia MinorのIonia地方へ移住して、Colophonの町の近くの海辺のClarusの町に、Apollonの神託所を開設し、息子Mopsusが継承した。[62]
Persian Warのとき、Caria語で神託を告げたPtous山の女司祭もTenerusの後裔で、Asia MinorにいるMantoの子Mopsusの後裔と交流があったものと思われる。[63]
Ptous山の神託所は、BC335年、Alexander the GreatがThebesの町を破壊するまで、約1000年続いた。[64]
10 Thesprotiaの神託所
Pausaniasは、昔、Thesprotis地方のAornumに死者を呼び出す神託所があったと記している。[65]
詩人Orpheusは、亡き妻Eurydiceに会うために、その神託所を訪問した。[66]
BC7世紀、Corinthの僭主Cypselusの子Perianderは、亡き妻Melissaの死霊の託宣を聞くために使者を、Thesprotis地方のAcheron川の近くへ派遣した。[67]
Cypselusが使者を派遣した神託所は、Pausaniasが記しているAornumの神託所と同じと思われる。
また、Pausaniasは、Athens王Theseusが王妃を攫おうとして、Thesprotis地方へ遠征したと記しているが、この神託所へ行ったようである。[68]
Theseusの治世末期、Theseusの妻Phaedraが死んだ。[69]
Theseusは、OrpheusやPerianderと同様に、亡き妻の死霊から託宣を得るために、Thesprotis地方へ行ったと思われる。
11 Trophoniusの神託所
Boeotia地方のLebadeiaの町は、Trophonius神に捧げられた町であった。[70]
このTrophoniusはOrchomenus王Erginusの息子で、Agamedesと兄弟であり、Delphiの神殿などを建築した名工であったとも伝えられている。[71]
しかし、Erginusの死後、TrophoniusやAgamedesではなく、Erginusの兄弟の後裔が王位を継承しているので、Erginusの息子たちは、創作された人物と思われる。[72]
Trophoniusには子供たちがいて、娘の名前はHercynaであった。[73]
Trophoniusの神域がいつ頃からあったのかは不明であるが、少なくとも、BC7世紀には既に有名な神域であったことは確かである。
第2次Messenia戦争で、Aristomenesが紛失した楯をTrophoniusの神域から取戻し、後にAristomenesはLebadeiaに楯を奉納したと伝えられている。[74]
また、BC6世紀にLydia王Croesusが神託を試すために使者を送った神託所の一つに、Trophoniusの神託所も名前が挙がっていた。[75]
BC1世紀、Romeの将軍SullaがLebadeiaの町を荒らし、神託所から宝物を持ち去った。[76]
Lebadeiaの町にあったTrophoniusの木彫神像がMinosと同時代のDaedalusの作品だという伝承ある。[77]
この伝承が正しければ、Trophoniusは、BC13世紀には神として崇められていたことになる。
おわり
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