1 Greeks発祥の地と大洪水
1.1 Greeks発祥の地
石器時代のGreece各地に人々が暮らしていた痕跡が残されているが、その人々がギリシア語を話していたかどうかは不明である。
古代ギリシア人の祖先は、Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流に長い間住んでいた。Cephisus川は、古代ギリシア人にとって聖なる川と形容され、彼らの居住地の広がりとともに各地を流れる川にも同じ名前が付けられた。Sicyonの町やArgosの町、Athensの町やEleusisの町、さらに、Salamis島やScyros島にもCephisus川がある。[1]
1.2 Ogygus時代の大洪水
古代ギリシア人の系譜を作成して、彼らの動きを追跡できるのは、BC1750年にCephisus川で大洪水が発生する少し前の時代からである。確認される最古のGreeks の名前は、Cleopompusとその妻Cleodoraである。Cleopompusの子Parnassusは、それまで散らばって住んでいた人々を一か所に集めて住まわせて集落をつくった。Parnassusは、鳥の飛び方による占いを発明したと言われる。これは、Dodonaの巫女が鳩の飛び方を見て予言していたことと関連があるのかもしれない。[2]
Parnassusの名前はDelphiの北に横たわる山の名前になった。Parnassusがつくった町の名前や詳しい位置については不明である。その町は大洪水により消滅し、逃れた人々はParnassus山の高みに逃げ延びて、新たにLycoreiaの町を作った。古い町はParnassus山の北を流れるCephisus川の右岸にあったものと思われる。[3]
この大洪水はDeucalion時代のものであったと伝えている史料もあるが、つぎの理由により、誤りである。[4]
BC1511年、Hellenの父DeucalionがThessaly地方に住んでいた頃に大地震があり、川が堰き止められて大洪水が発生した。その大洪水は、Deucalion時代の洪水と呼ばれた。しかし、地形的かつ距離的に見て、Thessaly地方の大洪水がParnassus山付近に達することは考えられない。[5]
BC1390年、Thessaly地方に攻め込んでPelasgiansを追い出したDeucalionの時代に大津波が発生した。これをDeucalion時代の洪水と伝えている伝承もある。
Samothrace島や、Megara地方も被害にあっているが、Aegean Sea南部で発生した津波が、Parnassus山麓まで被害を与えたとは考えられない。[6]
Cephisus川上流の住民をParnassus山の高い所へ移住を余儀なくさせた大洪水は、ふたりのDeucalionの時代よりも前の時代の出来事であった。Thessaly地方の場合と同様に地震などを原因とした山塊の崩落などによる長期的な川の堰き止めによって発生した大洪水であったと推定される。[7]
2 Delphiの創建と、新天地への移住
2.1 Delphiの創建
Cephisus川の岸辺からParnassus山の高い所に洪水を逃れた人々は町をつくった。指導者の名前は不詳であるが、妻の名前は、Coryciaであった。息子の名前はLycorusで、町の名は息子の名に因んでLycoreia と呼ばれた。Lycorusには息子Hyamusが生まれ、Hyamusには娘Celaenoが生まれ、Celaenoには息子Delphusが生まれた。その後、荘厳な地に町がつくられ、この息子の名に因んでDelphiと名付けられた。[8]
Delphusには息子Pythesが生まれ、息子の名に因んでDelphiは、Pythoとも呼ばれた。[9]
Delphiの創建は大洪水の時代から5世代目で、BC1650年と推定される。
2.2 新天地への移住
Cephisus川の上流に住んでいた大部分の人々は、Ogygusや、Inachusの2人の息子たち、PhoroneusとAezeiusに率いられて南へ移動した。
3 Ogygusの移住
3.1 Boeotia地方への定住
OgygusはEctenesを率いて、Cephisus川の右岸に沿って下り、Boeotia地方の後にThebesの町となる土地の北側に定住した。彼らは、東はAulisの町から、西はAlalcomenaeの町までの範囲に居住した。[10]
Thebesの町の北の一番古い門にOgygusの名を残している。[11]
Ogygusの子Eleusisは、さらに南へ移住し、Saronic Gulfに注ぐCephisus川の河口付近にEleusisの町を創建した。[12]
3.2 Boeotiaからの大移動
BC1580年、Ectenesは悪疫による勢力減衰して、Hyantesなどによって圧迫を受けて、Boeotia地方から各地へ移住した。[13]
それまで、Ectenesと呼ばれていたBoeotia地方の住人はHyantesと呼ばれるようになった。[14]
3.2.1 Atticaへの移住
Attica地方に移住したEctenesは、Attica地方北東部に散らばって居住した。
この移住から約115年後に、第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaの夫Xuthusは、周辺から人々を集めて、Oenoe、Marathon、Probalinthus、そしてTricorynthusという4つの町を建設した。[15]
3.2.2 Thessalyへの移住
Hellenの父Deucalionの祖父に率いられた集団は、Thessaly地方へ移住した。[16]
後に、Hellenの兄弟Amphictyonや、Hellenの子Xuthusは、Athens王の娘と結婚した。
Deucalionの祖父と第2代Athens王Cranausの祖父とは兄弟であったか、少なくともBoeotia地方を故郷とする同族であったと推定される。[17]
Deucalionは、Thessaly地方の北部を流れるPeneius川に南から流れ込むEnipeus川の源流付近に住んでいた。彼は、Pyrrha(後のMelitaea)の町を創建した。[18]
BC1560年、Deucalionの父の時代に、Peloponnesus半島のArgosの町からLarissaの息子たちがThessaly地方に移住して来た。Larissaの子Pelasgusの子Haemonの時代には、Thessaly地方はHaemoniaと呼ばれ、Deucalionの子Hellenが住む地方は、Hellasと呼ばれるようになった。[19]
Deucalionの子Hellenは、父から独立してEnipeus川の対岸にHellasという町を作ったが、大洪水に襲われて父の住むMelitaeaの町へ再移住した。[20]
この大洪水は、「Deucalion時代の洪水」として知られるものであった。Thessaly地方北部を震源とする大地震による山塊の崩落や土地の隆起が起こった。広大な沼の水がPeneius川に流れ込んで、上流まで洪水が発生した。[21]
この洪水は、初代Athens王Cecropsから第2代Athens王Cranausに代わった年に起こったもので、BC1511年であった。[22]
3.2.3 Egyptへの移住
Cranausの祖父であり、恐らく、初代Athens王Cecropsの父であった人物はEgyptのNile Deltaへ移住してSaisの町を創建した。[23]
Cecropsは移住当時16歳と推定される。
Cecropsはギリシア語の他にもう一つの言語を話すことから、「two-formed」という意味を持つDiphyesという呼び名があった。「2つの言葉を話す」という意味であった。[24]
Cecropsは、Boeotia地方のTriton川のほとりにEleusisとAthensの町を創建したと伝えられることからもBoeotia地方に縁があったことが分かる。[25]
また、Cecropsの父には、Ogygusという名前の兄弟がいて、EgyptにThebesの町を創建した。[26]
そのThebesの町は、後にCadmusが生まれる町で、上Egyptではなく、Nile Deltaにあったと推定される。[27]
3.2.4 EgyptからAtticaへの移住
BC1562年、Cecropsは成人するとEgyptからGreeceへの帰還を試みて、Attica地方のSunium岬の北約25kmの海辺にあるMyrrinousの町に上陸した。[28]
その地に住んでいたColaenusはMessenia地方に移住し、Messenia湾入り口の西側の半島にColonidesの町を建設した。[29]
CecropsはAthmoneisの町(Athensの北東約15km)の王Actaeusの娘Agraulusと結婚した。
BC1561年、CecropsはCecropiaの町(AthensのAcropolisのある場所)を創建した。[30]
その後Cecropsは、Boeotia地方のAlalcomenaeの町の近くを流れるTriton川のほとりにEleusisとAthensの町を創建した。[31]
Cecrops の息子Erysichthonは、Delos島での祭儀を終え、Attica地方への航海途中死亡した。Erysichthonは、Myrrinousの町のすぐ南にあるPrasiaeの町に埋葬された。[32]
BC1511年、Cecropsは高齢で亡くなり、Athensの町のAcropolisに埋葬された。 [33]
Cecropsが死ぬと、Cecropsの甥Cranaus がその跡を継いだ。[34]
CranausはEgypt生まれで、BC1525年にEgyptからAttica地方に移住して来た。
Cranausの娘Atthisは、EgyptのHephaestusに嫁ぎ、息子Erichthoniusが生まれた。[35]
Cranausの別の娘は、Thessaly地方のDeucalionの息子Amphictyonと結婚していたが、BC1502年、Amphictyonが義父Cranaus をAthensの町から追放した。
CranausはAthensの町とSunium岬の中ほどにあるLamptraeの町まで逃れ、その地で死んだ。[36]
BC1492年、Cranausの孫Erichthoniusは、EgyptからAthensの町へ来て、Amphictyonを追放してAthens王に即位した。[37]
Cranausの時代のAthensの町の住民はPelasgiansであった。それは、CranausがArgosの町から多くのPelasgiansと共にEgyptへ移住したIasusの娘Ioの息子がであったと推定される。CranausはPelasgiansと共にEgyptからAthensの町へ移住して来た。[38]
4 年代推定の根拠
4.1 Ogygus時代の洪水 (BC1750年)
BC2世紀の年代記作者Castor of Rhodesは、Ogygus時代の洪水から初代Athens王Cecropsまで、190年だと伝えている。[39]
Cecropsの即位年は、Castorが記す歴代のAthens王の在位年数から逆算すると、BC1561年であり、Ogygus時代の洪水は、BC1750年頃と推定される。[40]
4.2 Boeotiaからの大移住 (BC1580年)
Ogygusに率いられたEctenesは、洪水を逃れてBoeotia地方に移住した。[41]
その後、Ectenesは、Hyantesなどによって圧迫されて、Boeotia地方から各地へ移住した。[42]
Boeotia地方からの移住時期は、つぎのことからBC1580年頃と推定される。
初代Athens王Cecropsは、Egyptからの移住者であった。[43]
Cecropsは、Boeotia地方のTriton川近くにAthensとEleusisを創建した[44]
第4代Athens王Erichthonius(or Erechtheus)もEgyptからの移住者であった。[45]
第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚した。[46]
第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaは、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚した。[47]
以上のことから、彼らの先祖はBoeotia地方に住んでいたが、そこから移住して、Thessaly地方やEgyptに分かれたと推定される。
CecropsはEgyptianであったが、ギリシア語も話していた。Greeceで生まれ、ギリシア語を習得してから、Egyptへ移住したと考えられる。[48]
CecropsがAthens王に即位したBC1561年から逆算して、Boeotia地方から移住したのは、BC1580年頃と推定される。
5 Peloponnesus半島への移住
5.1 Aegialeia、Phoroneus、Myceneの創建
Inachusの2人の息子たち、AezeiusとPhoroneusに率いられた集団はOgygusよりさらに先へ進んで新天地を求めた。[49]
Aezeiusは、Peloponnesus半島に入ってすぐの海岸地帯を定住して、Aegialeia(後のSicyon)の町を創建した。[50]
Phoroneusは、さらに南下して平野の端に定住した。Phoroneusは散らばって住んでいた人々を一箇所に集めて、Phoroneus(後のArgos)の町を創建した。[51]
また、Inachusの娘Myceneの名前が付けられたMyceneの町もこの頃に創建されたと思われる。[52]
Mycenaeの町は、Danaeの子Perseusが住む前から存在していたようであり、Sicyonの町とArgosの町を結ぶ交通の要衝に位置していた。また、Trojan War以前は、Argosの町よりもMycenaeの町の方が良い土地であった。
5.2 AegialeiaとPhoroneusの争い
Aegialeiaの町とPhoroneusの町は、創建当初から争っていた。
Phoroneusの子Apisは勢力を増大させて、Aezeiusの子Europsの子Telchinを戦いで破り、2つの町を支配した。[53]
Telchinの子Thelxionは偽計を用いてApisを殺して、町を奪還した。[54]
Aegialeiaの町の住人は、海岸地方を西へ居住範囲を広げ、その地方はAegialus、住民はAegialiansと呼ばれた。[55]
海岸沿いに町ができたことから、Coastを意味するギリシア語Aegialeusからそのように呼ばれたとも伝えられている。[56]
5.3 AegialeiaからCrete島への移住
Apisとの戦いに敗れた人々の一部は、Telchinの子Cresに率いられてAeria(後のCrete)島へ渡った。[57]
BC1690年、CresはCrete島西部のMt. Leucaの北の海沿いの土地(後のApteraの町)に定住した。[58]
Cresと共にCrete島へ渡った人々は、Telchinに因んで、Telchinesと呼ばれた。[59]
Crete島は Telchinia、島に住む人々は Telchines と呼ばれていた。[60]
6 Telchines
Telchinesは、古代Aegean Sea世界に技術革新をもたらした超越した種族であった。彼らは、航海術に優れた海の子であるとともに、発明者であり、紹介者であり、時には科学的な知識を持った魔術師であった。[61]
BC1438年、彼らはCrete島のIda山に発生した大火災で偶然に鉄を発見した。彼らはCrete島北西部のBerecynthus地方のApteraの町で最初に鉄を加工した。[62]
6.1 CreteからRhodesへ
BC1600年より前に、Crete島のTelchinesの一部は、Ophiussa(後のRhodes)島に移住していた。新たに得られた製鉄技術は、Crete島から各地に鉱山を求めて航海する中で、Rhodes島のTelchinesにも伝えられた。[63]
Rhodes島はTelchinesの島となり、Telchinis島と呼ばれるようになった。[64]
6.1.1 RhodesからSamothraceへ
BC1425年、Telchinesは島を離れて各地に移住した。[65]
一部は、Rhodes島からSamothrace島へ移住し、その後、近くのLemnos島にも住むようになった。[66]
6.1.2 SamothraceからBoeotiaへ
これと同じ頃、Phoenicia地方からGreeceに移住したCadmusは航海の途中でSamothrace島に立ち寄った。[67]
Samothrace島にいたTelchinesは、Cadmusの移民団に参加して、Boeotia地方へ移住して、Teumessusの町に定住した。[68]
Cadmusは、Greece侵入前にThrace地方のChalcidice半島北方のPangaeus山付近で金鉱を発見している。この発見には冶金技術に優れたIdaean Dactylsとも呼ばれるTelchinesが寄与していた。[69]
6.1.3 Sparti
Cadmusに次ぐ権力を持っていたSpartiと呼ばれる人々は、大蛇の歯を播いた土から這い出てきたとされる。旅の途中に各所で鉱山を探して試掘をしている様子から、この逸話が残ったと思われ、Spartiの中にもTelchinesがいた可能性がある。[70]
Spartiは大蛇を象徴にしているが、Telchinis島の大蛇に関連していると思われる。
Thessaly地方のLapithusの子Phorbasには、Rhodes島の大蛇退治の伝承がある。[71]
SpartiはCadmusの後裔がThebesの町を去って、町の支配者が変わった後も、予言者あるいは将軍として、指導的地位を1000年以上も保っていた。[72]
6.2 CreteからTroasへ
BC1435年、Telchinesは、Teucrusと共にCrete島からTroas地方へ移住して、Ida山周辺に住み着いた。[73]
Priamの富は、Iliumの町の北北東にあるAbydusの町附近のAstyraの金鉱から生れた。[74]
その鉱山を管理していたのは、冶金技術に優れたIdaean Dactylsとも呼ばれるTelchinesであったと思われる。[75]
6.2.1 TroasからLydiaへ
BC1325年、Ida山近くに住むTantalusがIliumの町のIlusに追われてLydia地方のSipylus山近くへ移住した。[76]
Tantalusの移住には、Telchinesも同行し、Sipylus山周辺で金を採掘した。[77]
Tantalusの子孫の富は、Sipylus山一帯の鉱床から生れた。[78]
Tantalusの父Clymenusは、Crete島北西部のCydoniaの町の出身であり、Telchinesは、その町の近くのApteraの町の出身であった。[79]
6.2.1.1 LydiaからItalyへ
BC1300年には、Sipylus山周辺に住んでいたTelchinesは、Atysの子Tyrrhenusが率いるMaeoniansと共にItaly半島へ移住した。
Tyrrhenusの移民団は、Lemnos島を経由したか、あるいは、Lemnos島からの参加者を受け入れて、Italy半島へ行ったと思われる。
彼らは、ItalyでTyrrheniansと呼ばれたが、Lemnos島もTyrrheniaと呼ばれていた。[80]
また、Tyrrhenia海に浮かぶ銅や鉄を産出するElba島には、Aethaliaと名前が付けられていた。
Aethaliaは、Lemnos島の古い名前であった。[81]
6.2.2 TroasからMacedoniaへ
BC1250年、Mysia of Olympeneに住んでいたMygdonは、Paeonia地方へ移住した。[82]
この遠征には、Ida山に住んでいたIdaean Dactyli (Telchines)も参加し、Mygdonと共にPaeonia地方に定住した。[83]
後に、彼らは、Macedonia地方のBermius山周辺からMidasの富を掘り出す技術者になった。[84]
おわり