第15章 ラピタイ人の系譜

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Create:2023.5.26, Update:2024.4.1

1 始祖Lapithus (or Lapithes)
BC1387年、AeolusとStilbeとの間に、息子Lapithusが生まれた。[1]
Aeolusは、Deucalionの子Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であり、Thessaly地方のArneの町に住んでいた。[2]
Stilbeは、Deucalionの子Hellenの子Dorusの子Tectamusの子Peneiusの娘であり、Peneius川の北のDoris地方に住んでいた。[3]
つまり、Lapithusは、Aeolisの父とDoriansの母との間に生まれた。
BC1365年、Lapithusは、Arneの町からPeneius川を越えた土地へ移住した。[4]
Lapithusは、Eurynomusの娘Orsinomeと結婚して、3人の息子たち、Periphas、Lesbos、Phorbasと娘Diomedeが生まれた。[5]
Eurynomusの系譜は不明であるが、Lapithusの母StilbeがDoriansであったことから、EurynomusもDoriansであったと思われる。
Lapithusには、その他にAeolusという息子もいたと思われる。

2 Lapiths誕生の地
Lapithusの定住地は、Heracles時代にDoriansとLapithsが争った土地、つまり、Gyrtonの町より西側の土地であったと推定される。[6]
その土地の西側は、Deucalionの子Hellenの子Dorusを始祖とするDoriansが住むDoris地方であった。
つまり、Lapithusは、Arneの町から彼の母の故郷Doris地方と、その東側のAenianiansやPerrhaebiansが住んでいた土地の間に定住した。

3 Lapithusの子Periphas
Periphasは、Peneiusの子Hypseusの娘Astyaguiaを妻に迎え、8人の息子たちが生まれた。彼の後裔は勢力を増してLapithsと呼ばれるようになった。[7]
8人の息子たちのうちで、史料に登場するのは、Antionのみである。[8]
その他に、Elatus、Andraemonという息子もいたと思われる。

3.1 Periphasの子Antion
Antionは、Thessaly地方のPhyllusの町に住むAmythaonの娘Perimelaと結婚して、息子Ixionが生まれた。[9]
また、Ixionには、異母兄弟Phlegyasがいた。[10]

3.1.1 Antionの子Ixion (or Gyrton)
Ixionは、Olympus山近くに住むMagnesの子Eioneus (or Deioneus)の娘Diaを妻に迎えて、息子Peirithous(or Pirithous, Perithous)が生まれた。[11]
IxionはPhlegyasと共に、Peneius川流域に住むPerrhaebiansを追い出した。[12]
IxionとDiaは、Arneの町のHippotesの子Aeolusを共通の先祖としていた。
Ixionには、もう一人の妻Nepheleがいた。[13]
Nepheleは、Centaursの女性で、Ixionとの間に2人の息子たち、EurytionとImbrusが生まれた。[14]

3.1.1.1 Ixionの子Peirithous
Peirithousの時代には、彼が率いるLapithsは、Peneius川流域に広く分布し、Aenianians、Perrhaebians、それにCentaursを他へ追い出して居住地域を広げた。[15]
Ixionには、Diaの他にNepheleという名前の妻もおり、彼女からCentaursと呼ばれる半身半獣の種族が生まれたと伝えられる。[16]
Centaursは、裸馬を乗りこなすThessaliansで、Lapithsに追われて、Arcadiaへ移住したが、山賊を稼業としていたためにHeraclesに滅ぼされた。[17]
Peirithousは、第8代Athens王Pandionの子Teleonの子Butesの娘Hippodameiaと結婚した。彼らの祝宴には第10代Athens王になるTheseusも招かれた。[18]
Peirithousの妻Hippodameiaは、Theseusの父方の従兄弟の娘であった。
また、PeirithousとTheseusは親友であった。[19]
後に、Peirithousの後裔がThessaly地方を追われたとき、かつての先祖の友好関係によって、Athensの町に受け入れられた。Peirithousの後裔は、Athensの10部族の一つ、Oineis部族となった。[20]

3.1.1.2 Ixionの子Eurytion
Eurytionは、Centaursの指導者であり、Lapithsと戦った。[21]

3.1.2 Antionの子Phlegyas
Phlegyasは、Dotium平原のBoebian lakeの近くのAmyrusの町に住んでいた。
PhlegyasはIxionと共にPerrhaebiansを追い出して、Gyrtonの町を創建した。[22]
Gyrtonの町の住人は、Phlegyasの名前に因んでPhlegyaeと呼ばれていたが、Gyrtoniansと呼ばれるようになった。[23]
Gyrtonの町の名前は、Phlegyasの兄弟Gyrtonに因んで名付けられたと伝えられている。[24]
しかし、Ixionと、彼の息子Peirithousが、Gyrtonの町を支配していたことから、GyrtonはIxionの別名であったと思われる。[25]
つまり、Phlegyasの時代は、町はPhlegyasと呼ばれていたが、IxionがPhlegyasの跡を継いで、町はGyrtonという名前で呼ばれるようになった。
Phlegyasには、息子Eilatidasと娘Coronisがいた。[26]

3.1.2.1 Phlegyasの子Eilatidas
Eilatidasの娘Coronis (or Epione)は、Triccaの町のAsclepiusに嫁いだ。[27]
Eilatidasが父Phlegyasの跡を継がず、IxionがPhlegyasの跡を継いでいることから、Eilatidasは父より先に死んだと推定される。

3.1.2.2 Phlegyasの娘Coronis
Coronisは、Triccaの町に住むElatusの子Ischysに嫁いで、医神Asclepius (or Aesculapius)を産んだ。[28]

3.2 Periphasの息子と思われるElatus
Elatusの子PolyphemusはLapithsであり、Elatusの後裔は、Larissaの町やGyrtonの町に住んでいた。[29]
したがって、Elatusは、Lapithusの子Periphasの息子であったと推定される。[30]
Elatusには、4人の息子たち、Caeneus、Ampycus、Polyphemus、Ischys、それに、2人の娘たち、Dotia、Caenisがいた。

3.2.1 Elatusの子Caeneus
Caeneusの子Coronusは、DoriansとLapithsの戦いで、Doriansに味方したHeraclesによって殺された。[31]
Caeneusの後裔Lysidiceは、Telamonの子Ajax (or Aias)と結婚して、Philaeus (or Philius)が生まれた。[32]
Herodotusは、Corinthの町のEetionの子CypselusがPhilaeusの後裔だと2か所で記しているが間違っている。[33]
Corinthの町のCypselusの父方の先祖は、Antasusの子Melasであった。[34]
また、Cypselusの母方の先祖は、DoriansのCorinthの町の最初の支配者Aletesであった。[35]
Herodotusは、Athensの町のMiltiadesの父CypselusをPhilaeusの後裔だと記しており、Athensの町のCypselusとCorinthの町のCypselusとを混同している。[36]

3.2.2 Elatusの子Ampycus
Ampycusは、従兄弟Aeolusの子Melaneusが創建したOechaliaの町へ移住した。[37]
MelaneusがMessenia地方へ移住して、住人が少なくなったOechaliaの町へAmpycusが移住して、町を再建したと思われる。[38]
Ampycusは、息子Mopsusと共に予言者であった。彼に予言術を伝授したのは、彼の叔父Antionの妻Perimelaの兄弟Melampusであったと推定される。[39]

3.2.2.1 Ampycusの子Mopsus
Mopsusは、Oechaliaの町から北北東の地へ移住して、Gyrtonの町の近くにMopsiumの町を創建した。[40]
Mopsusは、Argonautsの遠征の物語に登場する。[41]

3.2.3 Elatusの子Polyphemus
PolyphemusはLarissaの町に住み、Argonautsの遠征の物語に登場する。[42]

3.2.4 Elatusの子Ischys
Ischysは、Gyrtonの町からPhlegyasの娘Coronisを妻に迎え、息子Asclepius (or Aesculapius)が生まれた。[43]
Coronisは、Dotium平原のBoebian lakeのほとりのAmyrusの町で育った。[44]
その後、Ischysは、Triccaの町へ移住した。
Triccaの町は、Dorusの子Tectamusの子Peneiusの娘Triccaの名前に因んで名付けられた町であり、Doriansが住んでいた。[45]
そして、IschysがTriccaの町へ移住した頃、それまで町に住んでいたDeimachusの子Autolycusが黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[46]
DoriansのAutolycusの後に、LapithsのIschysがTriccaの町に住んだが、町の住人の多くはDoriansであったと思われる。後のHeraclesとLapithsとの戦いに、Triccaの町は登場しない。

3.2.4.1 Ischysの息子Asclepius
Asclepiusは、Argolis地方のEpidaurusの町で生まれたという伝承がある。[47]
Asclepiusの祖父Phlegyasの母が、Epidaurusの町の出身であった。[48]
Epidaurusの町の人々が、町に縁のあるAsclepiusを信仰して、Asclepiusがその町で生まれたという伝承が生まれたと思われる。
Straboは、AsclepiusがThessaly地方のTriccaの町を流れるLethaeus川の畔で生まれたと伝えている。[49]
Triccaの町には、Asclepiusの最古の神域があった。[50]

3.2.4.1.1 Asclepiusと医術
ギリシアに医学をもたらしたのは、EgyptianのApisであった。[51]
Apisは、EgyptからArgosの町のAcrisiusに同行して、Argosの町の近くのNaupliaの町に来た。[52]
Acrisiusの妻Eurydiceの兄弟Amyclasの妻は、Lapithusの娘Diomedeであった。[53]
つまり、Egyptから伝来した医術を最初に習得したのは、Lapithsであったと思われる。
そして、Asclepiusは、その医術をさらに進化させた。[54]

3.2.4.1.2 Asclepiusの息子Machaon
3.2.4.1.2.1 Machaonの妻Anticleia
Machaonは、Messenia地方のPharaeの町からDioclesの娘Anticleiaを妻に迎えた。[55]
彼らの住むThessaly地方北部Triccaの町とMessenia地方のPharaeの町は、直線距離で280km以上離れていた。
LapithsとPelasgiansとの婚姻は、つぎのようにして成立したと推定される。
Neleusの子NestorがMessenia地方を継承した当初、彼に従おうとしない住人(Lapiths)がいた。[56]
Nestorは、Lapithsを従わせるために、Thessaly地方に住むLapithsの有力者の影響力を利用しようとした。
このとき、Messenia地方のPharaeの町のOrtilochusの子Dioclesも、Spartaの町のTyndareusに脅威を感じていた。[57]
そのため、Messenia地方の盟主Nestorは、Dioclesの娘AnticleiaをLapithsの有力者と結婚させ、その仲介をすることで、Lapithsの支持を得ようとした。
これより少し前に、Thessaly地方のほとんどのLapithsは、Heraclesとの戦いに敗れて、勢力を失い、Triccaの町のAsclepiusのみが勢力を保っていた。[58]
BC1200年、Nestorは遠路はるばるTriccaの町を訪問し、Asclepiusから歓待された。[59]
Asclepiusには、2人の息子たち、MachaonとPodalirusがいたが、Podalirusは結婚適齢期に達していなかった。Machaonには既に3人の息子がいたが、Anticleiaを嫁に迎えることに決まった。[60]
Machaonは軍医として、Tricca、Ithome、Oechaliaの町から戦士を率いて、Troyに出征したが、Mysia地方のTelephusの子Eurypylusに討ち取られた。[61]

3.2.4.1.2.2 Machaonの後裔
Machaonと最初の妻との息子たち、Polemocrates、Alexanor、Sphyrusは、Argolis地方に住んだ。Anticleiaの2人の息子たち、NicomachusとGorgasusは、祖父Dioclesの跡を継いで、Messenia地方のPharaeの町に住んだ。[62]
Nicomachusの後裔Nicomachusは、Euboea島のChalcisの町からChalcidice半島近くのStageiraの町に植民団を導いた指導者たちの一人の子孫Phaestisと結婚して、息子Aristotleが生まれた。[63]

3.2.4.1.3 Asclepiusの子Podalirus (or Podalirius or Podaleirius)
3.2.4.1.3.1 Syrnusの創建
PodalirusはTroy遠征に参加して、その帰りに航路を外れてCaria地方に漂着し、そのまま、Syrnusの町に住み着いたと伝えられている。[64]
しかし、NestorがMachaonの遺骨を持ち帰っていることから、つぎのように推定される。Podalirusは、Thessaly地方がThesprotiansに占領され、帰るべき土地を失ったことを知った。そこで、彼は、MachaonとAnticleiaの仲を取り持ったNestorに兄Machaonの遺骨を託した。
Podalirusは、予言者Calchas、Peirithousの子Polypoetes、Coronusの子Leonteusと共にAsia Minorで定住地を探した。[65]
PolypoetesやLeonteusはColophonに定住した。[66]
Podalirusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定されるDamaethusが治めるCaria地方のBybastusの町で、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。その後、Podalirusは、妻の名に因んだSyrnusの町を創建した。[67]

3.2.4.1.3.2 Podalirusの後裔
Asclepiusの子Podalirusの医術を伝える子孫は、Syrnusの町の近くのCos島で生き続けた。医学の父と呼ばれたBC4世紀初頭のHippocratesは、Heraclesから20代目、Asclepiusから19代目の子孫であった。[68]
Cos島には、Heraclesの子Thessalus (or Thettalus)の後裔が住んでいたが、Syrnusの町に住むPodalirusの後裔と姻戚関係が生じたと思われる。
Hippocratesは、Macedonia王Perdiccasと交友があった。[69]
Hippocratesの子Dracoの子Hippocratesは、Alexander the Greatの死後、幽閉されたRoxaneを治療して、Antipaterの子Cassanderに殺された。[70]

3.2.5 Elatusの娘Dotia
Dotiaは、Thessaly地方のDotiumの町に彼女の名前を与えたとされ、Dotium平原またはその近くに居住していたと思われる。[71]

3.2.6 Elatusの娘Caenis
Caenisも、Thessaly地方北東部のDotium平原またはその近くに居住していたと思われる。[72]

4 Lapithusの子Lesbos
BC1350年、Lesbosは、彼の伯父Macareusが既に入植していたPelasgia島へ植民団を率いて移住し、Macareusの娘Methymaと結婚した。[73]
Pelasgia島は、Macareus入植後、Macareusの家とも呼ばれていたが、Lesbosの名前に因んでLesbos島と呼ばれるようになった。[74]

5 Lapithusの子Phorbas
BC1320年、Phorbasは、Rhodes島の住民に招かれてThessaly地方からRhodes島に植民団を率いて移住した。[75]
PhorbasをRhodes島へ招いたのは、少し前にLesbos島からRhodes島へ移住したMacareusの子Leucippus、あるいは、彼の息子であり、先住者に対抗するためであったと思われる。
LeucippusとPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを共通の祖父とする従兄弟同士であった。
BC1310年、Phorbasは、勢力を増すPisaの町のPelopsを恐れたElis王Alectorから招かれてPeloponnesus北西部のOlenusの町を任せられることになり、再移住した。[76]
Phorbasは、Rhodes島へ移住する前に、既に娘Pronoeをもうけていた。
Phorbasは、Olenusの町へ移住後、Elisの町のEpeiusの娘Hyrminaを妻に迎えて、息子Actor、娘Astydameiaが生まれた。また、DexamenusもPhorbasの息子と思われる。[77]

5.1 Phorbasの娘Pronoe
Pronoeは、PhorbasがRhodes島へ移住する前に、Elisの町のEndymionの子Aetolusに嫁いでいた。[78]
PronoeとAetolusとは、Thessaly地方のArneの町のHippotesの子Aeolusを曾祖父とする又従兄妹であった。PhorbasにOlenusの町を任せたElis王Alectorの妻Eurycydaは、Pronoeの夫Aetolusの姉妹であった。[79]
つまり、Phorbasは、彼の娘の義理の兄弟Alectorから招致されたことになる。

5.2 Phorbasの子Actor
BC1285年、Actorは、Olenusの町からElisの町の西の海の近くへ移住して母の名前に因んだHyrminaの町を創建した。[80]
Actorは、Pleuronの町からMolusの娘Molioneを妻に迎え、双子の息子たち、CteatusとEurytusが生まれた。[81]
Actorの兄弟でAchaia地方のOlenusの町を治めるDexamenusの子Hipponousは、Aetolia地方のPleuronの町とCalydonの町の間に、Olenusの町を創建した。
異国の地に町を建設できたのは、Hipponousの叔父Actorの妻MolioneがPleuronの町の出身であったからであった。[82]

5.2.1 Actorの双子の息子たち
Actorの双子の息子たちは、Olenusの町からDexamenusの双子の娘たち、TheroniceとTheraephoneをそれぞれ妻に迎えた。CteatusとTheroniceからは息子Amphimachus、EurytusとTheraephoneからは息子Thalpiusが生まれた。[83]
CteatusとEurytusは、HeraclesがElisの町を攻める準備をしていると知ったElisの町のAugeasによって、軍勢を率いる将に任命された。[84]
兄弟は勇猛な戦士であり、HeraclesはElisの町を攻めたが敗北を重ね、勝敗がつかぬままに休戦した。[85]
兄弟は、Heraclesが病気であることを知って攻撃を仕掛けて、多くの者を殺した。 [86]
その中には、Heraclesの異母兄Iphiclesも含まれていた。[87]
休戦を破られて身内を殺されたHeraclesは、Eleia地方のHyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中の兄弟をArgolis地方のCleonaeの町で襲撃して殺した。[88]
この襲撃で、Heraclesに加勢したCleonaeans 360人が戦死したと伝えられている。
しかし、兄弟の母Molioneが犯人捜しをしたとも伝えられることから、少人数による襲撃であったと思われる。[89]
Cleonaeの町は、Pelopsの子Atreusが創建した町で、当時、Atreusが住んでいた。
Pelopsの娘Eurydice (or Lysidice)の娘Alcmenaの子HeraclesにAtreusが協力したと推定される。[90]

5.2.1.1 Cteatusの息子Amphimachus
Amphimachusは、Augeasが死去した後で、Augeasの息子Agasthenesや従兄弟Thalpiusと共にElisの王権を継承した。[91]
Amphimachusは、Agasthenesの子Polyxenusや従兄弟Thalpiusと共にElisの軍勢を率いてTroy遠征に参加した。[92]

5.2.1.2 Eurytusの息子Thalpius
ThalpiusはAgasthenesの子Polyxenusや従兄弟AmphimachusとともにElisの軍勢を率いてTroy遠征に参加した。[93]

5.3 Phorbasの娘Astydameia
Astydameiaは、Olenusの町からEleia地方とMessenia地方の境のNeda川の上流にあるArcadia地方のPhigaliaの町を治めるPyrgeusと結婚して息子Lepreusを産んだ。[94]
Lepreusは、Arcadia地方のLycaonの子Cauconの後裔であり、Caucones (Arcadians)であったと思われる。[95]
Cauconの墓が、Eleia地方南部のLepreusの町にあった。Cauconが一族を率いてArcadia地方のPhigaliaの町からEleia地方南部にかけて広く居住し、Lepreusの町はその中心であったと思われる。[96]

5.3.1 Astydameiaの子Lepreus
BC1265年、Lepreusは、Phigaliaの町からEleia地方南部へ移住して、Lepreusの町を創建した。Lepreusは、Elisの町のAugeasに味方して、Heraclesに殺されたと伝えられる。[97]
しかし、Lepreusの墓は、Arcadia地方のPhigaliaの町にあった。
また、Lepreusの町はHeracleidae帰還後にMinyansがEleia地方南部に創建した町であった。したがって、Astydameiaの子LepreusがLepreusの町を創建したことや、彼とHeraclesとの逸話も後代の創作と思われる。[98]
BC1250年、Lepreusの町に住んでいたCauconesは、Lepreusの横暴に耐え切れずにLycia地方へ移住した。[99]

5.4 Phorbasの息子と思われるDexamenus
DexamenusがPhorbasの息子であったとする直接的な史料はない。しかし、次のことからDexamenusはPhorbasの息子であったと思われる。
1) Phorbasの息子Actorの双子の息子たちが、Dexamenusの双子の娘たちと結婚した。[100]
つまり、Dexamenusの父とPhorbasは同世代であった。
2) PhorbasとDexamenusは、Olenusの町を治めていた。[101]

5.4.1 Dexamenusの双子の娘たち
TheroniceとTheraephoneは、Olenusの町からEleia地方西海岸に近いHyrminaの町のActorの双子の息子たちに嫁いだ。TheroniceはCteatusとの間に息子Amphimachusを産み、TheraephoneはEurytusとの間に息子Thalpiusを産んだ。[102]

5.4.2 Dexamenusの娘Mnesimache (or Hippolyte, Dejanira)
Mnesimacheには、CentaurのEurytionとの伝承がある。[103]

5.4.3 Dexamenusの子Eurypylus
Eurypylusには、HeraclesのIlium遠征に参加したという伝承がある。[104]

5.4.4 Dexamenusの息子と思われるHipponous
AD1世紀の神話作家Apollodorusは、Calydonの町のOeneusが、Olenusの町を攻め落として、Hipponousの娘Periboeaを戦利品として得たと伝えている。[105]
この戦いは、Calydonの町とPleuronの町との戦いの一つと思われるが、海を越えてAchaia地方のOlenusの町がPleuronの町に味方したとは考えられない。ここでのOlenusの町は、Calydonの町とPleuronの町の間にあったAetolia地方のOlenusの町であった。[106]
BC1265年、Hipponousは、Achaia地方のOlenusの町からAetolia地方へ移住して、Olenusの町を創建した。[107]
Hipponousは、彼の義理の叔母Molioneとの関係で、Pleuronの町の近くに町を建設できたと思われる。[108]

6 Lapithusの娘Diomede
Diomedeは、Lacedaemonの子Amyclasへ嫁ぎ、Spartaの町やAmyclasの町を治める息子たちを産んだ。[109]
遠く離れたLacedaemonとThessaly地方の男女の縁を取り持ったのは、Argosの町のAcrisiusであったと思われる。Amyclasの姉Eurydiceの夫Acrisiusは、Amphictyonsの組織化の際に、Lapithusと面識があった。Acrisiusは、彼の義理の弟AmyclasとLapithusの娘Diomedeの結婚を仲介したと思われる。[110]

7 Lapithusの息子と思われるAeolus
Aeolusは、次の理由で、Lapithusの息子と推定される。
1) Aeolusの子Cercaphusの子Ormenusと、彼の息子Amyntorは、Heraclesに攻められて殺された。[111]
Ormenusとの戦いは、HeraclesとLapithsとの戦いの中での出来事であり、OrmenusはLapithsの一員であったと思われる。
2) 系図を作成するとAeolusとLapithsの始祖Lapithusとの生年は、20年しかない。
つまり、AeolusはLapithusの息子であったと推定される。
Aeolusは、Peneius川付近に住み、2人の息子たち、CercaphusとPerieres、それに2人の娘たち、PerimedeとPisidiceをもうけた。[112]
また、Aeolusには、Melaneusという息子もいたと推定される。[113]

7.1 Aeolusの子Cercaphus
BC1293年、Cercaphusは、Peneius川付近からItonusの町へ移住して、Phthia地方からMyrmidonの娘Eupolemeiaを妻に迎え、息子Ormenusが生まれた。[114]
Cercaphusは、彼の姉PisidiceとMyrmidonの結婚が縁で、Phthia地方へ進出した。[115]
Myrmidonの娘Eupolemeiaの子Aethalidesは、Phthia地方のAmphrysus川近くからArgonautsの遠征に参加した。
Aethalidesが住んでいたのはItonusの町であり、彼はCercaphusの後継者であった。[116]

7.1.1 Cercaphusの息子と思われるAethalides
Aethalidesは、父からItonusの町を継ぎ、Iolcusの町のPeliasの娘Pelopiaを妻に迎えて、息子Cycnus (or Cygnus)が生まれた。[117]
Cycnusは、Heraclesに攻められて討ち取られた。[118]

7.1.2 Cercaphusの子Ormenus (or Ormenius)
BC1236年、Iolcusの町のMinyansが反乱を起こして、町を破壊した。[119]
BC1235年、Ormenusは、Iolcusの町からIolcusの町の東側へ移住して、Ormenionの町を創建した。[120]
BC1227年、Ormenusは、Heraclesに攻められて、息子Amyntorと共に殺された。[121]
Ormenusには、2人の息子たち、AmyntorとEuaemon、娘Astydameia (or Astydamia)がいた。

7.1.2.1 Ormenusの子Amyntor
BC1230年、Amyntorの子Phoenixは、父子の争いが原因で、Phthia地方を治めるPeleusのもとへ亡命し、Dolopia地方を与えられた。[122]
Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。つまり、Peleusは、Phoenixの父Amyntorの又従兄弟であった。
BC1227年、Amyntorは、Ormenionの町を攻めたHeraclesと戦って、父Ormeniusと共に殺された。[123]
Phoenixは、Troyに遠征し、Achillesの配下の5人の将の一人として、第4隊を指揮した。[124]
Troyから帰還したPhoenixは、Achillesの子Neoptolemusと行動を共にし、新天地へ向かう途中、Thermopylae付近で客死した。[125]

7.1.2.2 Ormenusの子Euaemon
Euaemonと彼の息子Eurypylusは、Ormenionの町に住み、Eurypylusは、伯父Amyntorが死に、彼の息子Phoenixが町を出て行った後で、Ormenionの町を継承した。[126]
Eurypylusは、Troyに遠征したが、故郷をThesprotiansに奪われ、Achaia地方のPatraeの町に住み着いた。EurypylusとPatraeの町を結びつけるものはなく、伝承通り、Delphiの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[127]

7.1.2.3 Ormenusの娘Astydameia
Astydameiaは、Ormenionの町を攻撃したHeraclesの捕虜となり、Heraclesとの間に息子Ctesippusを産んだ。[128]

7.2 Aeolusの子Perieres
BC1310年、Perieresは、跡継ぎが絶えたMessenia地方のAndaniaの町から招かれて、Peneius川付近からAndaniaの町へ移住した。[129]
LacedaemonのLelexの子Polycaonは、彼の妻Messeneの出身地Argosの町から大勢の人々を参加させて、Andaniaの町を創建した。[130]
Andaniaの町の住人は、少し前にAchaeusの息子たちと共にThessaly地方からArgos周辺へ移住したAchaeansであった。[131]
Andaniaの町は、Lacedaemonの分家であった。しかし、住民は自分たちの住む地方をLacedaemonではなく、Polycaonの妻Messeneに因んでMesseniaと呼ぶようになった。Polycaonの後裔が絶えたとき、住民は跡継ぎをLacedaemonからではなく、Thessaly地方から求めた。[132]
Perieresは、Perseusの娘Gorgophoneを娶って、2人の息子たち、AphareusとLeucippusが生まれた。[133]
Perieresは、Leucippusが生まれて間もなくして死んだ。当時、夫と死別した妻は寡婦を通すのが慣習であったが、GorgophoneはSpartaの町のAigalusの子Oebalusと再婚した。[134]
Pausaniasは、それまでの慣習に反して再婚した女性は、Gorgophoneが最初だと伝えている。[135]
しかし、Gorgophoneより前に、次の例がある。[136]
1) Tectamusの子Asteriusと再婚した、Phoenixの娘Europa。
2) Aeolusの子Cretheusと再婚した、Salmoneusの娘Tyro。

7.2.1 Perieresの子Aphareus
Aphareusは、Andaniaの町から西海岸へ移住して、Arenaの町を創建した。ArenaはAphareusの母Gorgophoneが再婚して生まれた娘であり、Aphareusの妻の名前であった。[137]
Pausaniasは、AphareusのもとへThessaly地方のIolcusの町から、彼の従兄弟Neleusが逃れて来て、Pylusの町を含む海沿いの土地を分け与えたと伝えている。[138]
しかし、Pausaniasは別な箇所で、Neleusが住んでいたPylusの町は、Messenia地方ではなく、Eleia地方のElisの町の近くにあったと記している。[139]
また、Pausaniasは、PerieresをHippotesの子Aeolusの息子であったと思い違いをしている。AphareusとNeleusは同時代人ではあったが、会うことはなかったと思われる。
AphareusとArenaとの間には、2人の息子たち、IdasとLynceusが生まれた。[140]

7.2.1.1 Aphareusの子Idas
Idasが成人した頃、Spartaの町のTyndareusが、異父兄弟であるAphareusを頼って、Arenaの町を訪れた。[141]
その後、Tyndareusは、Aetolia地方のPleuronの町のThestiusのもとへ移住することになり、Idasも一緒に移住した。[142]
Pleuronの町で、Tyndareusは、Thestiusの娘Ledaと結婚し、IdasはEvenusの娘Marpessaと結婚した。[143]
Idasは、娘Cleopatra (or Halcyone)が、Calydonの町のOeneusの子Meleagerと結婚するまで、Aetolia地方に住んでいた。その間、Pleuronの町とCalydonの町との争いが起こり、TyndareusはPleuronの町、IdasはCalydonの町に分かれて戦った。
Aphareusの死後、Idasは父の跡を継ぐために、Arenaの町へ戻った。[144]
その後、Tyndareusは、彼の2人の息子たち、CastorとPolydeuces (or Pollux)と共にSpartaの町へ帰還した。[145]
TyndareusとIdasは、Pleuronの町とCalydonの町の敵対関係をそのままPeloponnesusへ持ち込み、Laconia地方とMessenia地方との争いとなった。[146]
まず、Tyndareusは、Andaniaの町のLeucippusを攻めた。Tyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesは、捕虜になったLeucippusの2人の娘たちを妻にした。[147]
Andaniaの町への攻撃は、その町がLacedaemonのLelexの子Polycaonにより創建されたからという大義を掲げて行われたと思われる。[148]
つぎに、Tyndareusは、Andaniaの町の近くのOechaliaの町を攻め、Melaneusの子Eurytusを町から追い出した。[149]
徐々にMessenia地方に勢力を拡大するTyndareusに対して、Idasは、Tyndareusの娘Helenを誘拐して、Athensの町のTheseusに預けた。[150]
IdasとTheseusの友Peirithousとは、Lapithsの始祖Aeolusの子Lapithusを共通の祖とする同族であり、IdasとTheseusにも親交があったと推定される。[151]
Tyndareusの2人の息子たちは、Helenを奪い返した。この事件は、Idas兄弟と、Tyndareusや息子たちとの間での直接対決に発展して、Tyndareusを残して、彼らは死に絶えた。[152]

7.2.1.2 Aphareusの子Lynceus
Lynceusの妻子については、伝えられておらず、Tyndareusの息子たちとの戦いで、LynceusはPolydeucesに殺された。[153]
AD2世紀のPhilo of Byblosは、LynceusがMessenia地方のPapaeの町に住み、その町の植民市がCrete島にあったと伝えている。[154]

7.2.2 Perieresの子Leucippus
Leucippusは、兄弟Aphareusが沿岸部へ移住してArenaの町を創建した後で、Andaniaの町を継承した。[155]
Leucippusには、3人の娘たち、Hilaira(or Hilaeira)、Phoebe、Arsinoeが生まれた。[156]
Andaniaの町のLeucippusは、Tyndareusに攻められて、HilairaとPhoebeは捕虜となり、Tyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesの妻になった。[157]

7.3 Aeolusの息子と思われるMelaneus
BC6世紀の思想家Pherecydesは、Melaneusの父をArcesilausとしている。しかし、一緒に記されている内容が他の史料との相違点が多く、信用できない。[158]
Melaneusは、Aeolusの息子と思われ、つぎのように居住地を変えたものと思われる。
BC1310年、Melaneusは、Triccaの町の近くにOechaliaの町を創建した。
BC1305年、Melaneusは、後継者の絶えたAndaniaの町に招かれたPerieresに乞われてMessenia地方へ移住し、Andaniaの町の近くにOechaliaの町を創建した。
PerieresとMelaneusは、兄弟であったと思われる。[159]
Melaneusには、妻Oechalia (or Stratonica)との間に、息子Eurytusが生まれた。[160]
MelaneusがAeolusの息子と推定される理由は、つぎのとおりである。
1) Melaneusの子Eurytusは、Heraclesに攻められて殺された。[161]
Eurytusとの戦いは、HeraclesとLapithsとの戦いの中での出来事であり、MelaneusはLapithsの一員であったと思われる。
2) 系図を作成するとMelaneusとLapithsの始祖Lapithusとの生年は、59年しかない。
つまり、MelaneusはLapithusの孫であったと推定される。
3) Lapithusの子Aeolusの子Perieresに頼られていることから、Perieresの兄弟と思われる。
つまり、Melaneusは、Lapithusの子Aeolusの息子と推定される。

7.3.1 Melaneusの子Eurytus
Eurytusは、Messenia地方のOechaliaの町で生まれた。彼は、Argolis地方のNaupliaの町からPyloの娘Antiopeを妻に迎えて、6人の息子たち、Iphitus、Clytius、Deioneus (or Didaeon)、Hippasus、Toxeus、Molion、それに娘のIole (or Iolea)が生まれた。 BC1237年、Eurytusは、Aetolia地方からSpartaの町に戻ったTyndareusに追われてEuboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[162]
Euboea島のEretriaの町の古い名前は、Melaneisであり、Eurytusの父Melaneusに因む名前であったと伝えられる。[163]
Euboea島へ移住したEurytusは、Melaneisの町を創建した後で、東北東へ移住して、Oechaliaの町を創建したと推定される。
その後、Thessaly地方で、LapithsはPeneius川近くから勢力を伸ばして、Dotium平原からAenianiansを追い出した。さらに、LapithsはGyrtonの町やLarissaの町にいたPerrhaebiansを追いやり、さらに、Doriansが古くから住み、古くはDoris地方と呼ばれたHistiaeotis地方をも圧迫した。そして、HeraclesがDoriansを助けて、Lapithsとの戦いが始まった。[164]
Thessaly地方でHeraclesに敗れて、居住地を追われて、Euboea島のOechaliaの町のEurytusのもとへ逃げ込んだLapithsは、相当な数であった。Euboea島では、HeraclesとLapithsの最後の戦いとなり、双方ともに多くの犠牲者を出した。Eurytus本人もその中のひとりであり、3人の息子たちも戦死した。[165]

7.3.1.1 Eurytusの子Iphitus
Iphitusは、偶発的な出来事により、Tirynsの町でHeraclesに殺されたと伝えられる。[166]
当時、Iphitusの父Eurytusは、Messenia地方のOechaliaの町にいたが、Iphitus本人は、母の生地であるArgolis地方のNaupliaの町にいたと思われる。[167]
一方、Heraclesは、Naupliaの町のすぐ近くのTirynsの町に住んでいて、Iphitusとは親交があったと推定される。Heraclesは罪を悔い、LydiaのOmphaleの下で3年間奉仕した。[168]
当時、誤って人を殺した者は、他人の家庭に入って、一定期間奉仕するという決まり事があった。[169]

7.3.1.2 Eurytusの子Clytius
Clytiusは、Messenia地方のOechaliaの町からArgonautsの遠征に参加し、Aeetesに殺されたとも伝えられる。[170]
しかし、Euboea島のOechaliaの町でのHeraclesとの戦いで死んだとする伝承もあり、こちらの方が信用できる。[171]

7.3.1.3 Eurytusの子Deioneus(or Didaeon)
Deioneusは、Athensの町のTheseusの妻であったIsthmusの町のSinisの娘Periguneを譲り受けて妻とした。[172]
この結婚の当時、Deioneusは、Messenia地方のOechaliaの町に住んでいたと思われるが、DeioneusとTheseusの関係は不明である。

7.3.1.4 Eurytusの子Hippasus
Hippasusは、Iolcusの町のPeliasの娘Alcestisを妻に迎え、息子Theseusが生まれた。[173]
Hippasusの死後、彼の妻Alcestisは、彼女の息子Theseusを連れて、Pheraeの町のPheresの子Admetusと再婚した。[174]
TheseusはAdmetusのもとで育てられたが、後に、Euboea島の祖父Eurytusの近くで暮らした。[175]

7.3.1.5 Eurytusの2人の息子たち、ToxeusとMolion
ToxeusとMolionは、Heraclesに攻められたEuboea島のOechaliaの町を守って、父や兄弟と共に戦死した。[176]

7.3.1.6 Eurytusの娘Iole (or Iolea)
Ioleは戦争捕虜となり、Heraclesの息子Hyllusの妻になった。[177]

7.4 Aeolusの娘Perimede
Perimedeは、Achelousに嫁ぎ、2人の息子たち、HippodamasとOrestesを産んだ。[178]

7.5 Aeolusの娘Pisidice
Pisidiceは、Phthiaの町のMyrmidonのもとへ嫁いだ。[179]

8 Thessaly地方でのLapithsの興亡史
8.1 Lapithsの誕生と拡大
BC1365年、Thessaly地方のArneの町から、Aeolusの子Lapithus率いる集団がPeneius川を越えて、Gyrtonの町の西側の土地へ移住した。[180]
BC1310年、Aeolusの子Melaneusは、Peneius川の上流のTriccaの町の近くにOechaliaの町を創建した。[181]
BC1293年、Lapithusの子Aeolusの子Cercaphusは、Phthiaの町のMyrmidonの娘Eupolemeiaと結婚して、Pagasaean gulf西側の後のItonusの町付近へ移住した。 [182]
BC1260年、Periphasの子Ischysは、Oechaliaの町からTriccaの町へ移住した。[183]

8.2 Lapithsの黄金期
BC1246年、 Periphasの子Antionの子Ixionは、息子Peirithousと共に、PerrhaiboiやAeanianians (Centaursを含む)を追い出して、Larissaの町やGyrtonの町を奪取した。[184]
BC1236年、Iolcusの町のMinyaensが反乱を起こして、Peliasの子Acastusを殺害した。
Minyaensは、Phthiaの町のPeleusに追放されて、Lemnos島へ移住した。[185]
Iolcusの町の近くのPheraeの町にもAdmetusの母であるMinyasの娘Periclymeneと共に移住したMinyaensがいて、反乱を起こした。Peliasの娘Alcestisを妻に持つAdmetusも反乱に巻き込まれて、妻Alcestisの前夫Hippasusの息子Theseusのもとへ逃れた。[186]
BC1235年、Cercaphusの子Ormenusは、Pagasaean gulf北側のIolcusの町の近くへ移住して、Ormenionの町を創建した。[187]
Iolcusの町が破壊され、一大勢力であったMinyaensがThessaly地方から追放され、Myrmidonsとの婚姻により勢力を増したLapithsは、Phthia地方へも進出した。
Lapithsの居住範囲は、Peneius川の上流のTriccaの町からPeneius川の河口まで及んだ。また、Peneius川からthe Mount Pelion peninsulaまでのMagnesia地方、それに、the Pagasaean gulfの北岸地方にまで及んだ。

8.3 Doriansとの戦い
しかし、Lapithsの繁栄は長続きしなかった。
BC1227年、Gyrtonの町のCaeneusの子Coronusは、Hestiaeotis地方に住むDoriansの土地へ侵出したが、Heraclesに攻められて敗死した。[188]
Coronusに加勢したItonusの町のPelopiaの子CycnusもHeraclesに攻められて敗死した。[189]
さらに、Ormeniumの町のOrmenusもHeraclesに攻められて、彼の息子Amyntorと共に敗死した。[190]
Euboea島のOechaliaの町のEurytusもHeraclesに攻められて、彼の息子たちと共に敗死した。[191]

8.4 Lapithsの消滅
Homerの軍船目録では、Lapithsの船数は、Phthia勢とほぼ同数であった。[192]
しかし、Trojan War時代にThessaly地方を占領したThesprotiansから故郷を奪い返す力はLapithsにはなく、Thessaly地方のLapithsは消滅した。[193]
BC1186年のことであった。
Magnesiansは、Thesprotiansの支配下でpenestae(農奴)となって、Magnesia地方に住み続けた。その中には、かつてのLapithsも含まれていたと思われる。[194]
BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Magnesiansは、土と水をPersia大王に献じた。[195]

9 Thessalyから逃れたLapiths
9.1 Troy遠征に参加した人々
Gyrtonの町のPeirithousの子Polypoetesや、Argisaの町のCoronusの子Leonteusは、Ionia地方のColophonの町に定住した。[196]
Triccaの町のAsclepiusの子Podalirusは、Caria地方に定住した。[197]

9.2 Thessalyに残留していた人々
Thesprotiansによって、Thessaly地方を追われたLapithsの多くは、Locris地方やPhocis地方へ逃れたと推定される。
BC1126年、Agamemnonの曾孫Malaus率いる移民団は、Asia Minorにthe Phryconian Cymeを建設した。[198]
その移民団の中には、Thessaly地方を追われたLapithsも含まれていたと思われる。
Gyrtonの町のPeirithousの後裔はAthensの町へ移住した。Atheniansは、TheseusとPerithousとの親交を理由に彼らを受け入れ、後にPerithoedaeと呼ばれる土地を分け与えた。[199]
Triccaの町のAsclepiusの子Machaonの妻Anticleiaは、子供たちを連れて、Messenia地方のPharaeの町の父Dioclesのもとへ移住した。Anticleiaの2人の息子たち、NicomachusとGorgasusは、彼らの祖父Dioclesの跡を継いで、Messenia地方のPharaeの町に住んだ。[200]

10 Lapithsと戦ったCentaurs
つぎの伝承により、CentaursはAenianiansの支族であったと推定される。
1) Centaursは、Ixionの子Peirithousに追われて、Pindus山地に住むAethicesの土地へ逃げ込んだ。[201]
2) Dotianに住んでいたAenianiansは、Lapithsに追われて、Aethiciaへ移住した。[202]
BC1390年、PelasgiansがThessaly地方を追われたとき、Deucalionの子Amphictyonが招集した部族名にAenianiansがある。[203]
Aenianiansも古くからThessaly地方に住むAeolisの支族と考えられる。
Hellenの子Aeolusの子Mimasの代と、彼の息子Hippotesの代の系譜は不明である。
Mimas、あるいはHippotesの息子にAenianiansの始祖がいて、Pelasgiansを追い出した後に、Dotianに住み着いたと推定される。[204]
Lapithsに追われたCentaursの一部は、Arcadia地方やAetolia地方へ逃れ、山賊行為を生業としていたため、Heraclesに滅ぼされた。[205]
Centaursの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。その後、Molossia地方のAuas川付近へ移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[206]
BC5世紀末、Peloponnesian WarでParauaeiはOroedusに率いられて、Peloponnesus側に味方した。[207]
BC3世紀には、Parauaeiは、Macedonia地方の辺境部に住んでいた。[208]

おわり