第2章 イタリアへの移住(BC1635-)

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1 Greeksが最初にItalyへ渡った年代
1.1 2つの伝承
最初にItaly半島へ渡ったGreeksについては、Pelasgusの子Lycaonの2人の息子たち、OenotrusとPeucetiusということで伝承は一致している。
しかし、Pelasgusについて、Dionysius of Halicarnassusは「Phoroneusの娘Niobeの息子」、Pausaniasは「Triopasの子Agenorの息子」と伝えている。[1]
Dionysius説では「ArgosからBC1635年頃」、Pausanias説では「ArcadiaからBC1485年頃」にItaly半島へ移住したことになる。
両者の説には、150年の差があり、GreeksのItaly半島進出の時期を決定する上で重要である。

1.2 2つの鍵
いずれの伝承が妥当かを検討する上で、2つの鍵がある。
Lycaonの息子たちの移住が最古の海外移住であった。[2]
Oenotrusは、Troy遠征の17世代前に生まれた。[3]

1.2.1 1つ目の鍵の検討
Phorbasの子TriopasがRhodes島へ植民団を派遣したと伝えられ、それは、BC1580年頃のことであった。[4]
Pausanias説では、Lycaonの息子たちの移住が最古の移住ではなくなり、1つ目の鍵に合わなくなる。

1.2.2 2つ目の鍵の検討
Dionysius説では、OenotrusはBC1660年、Pausanias説では、OenotrusはBC1510年に生まれたと推定される。
これを基に1世代の平均年齢を計算すると、Dionysius説では28歳、Pausanias説では19歳になる。

1.3 結論
以上のことから、Dionysius説が妥当であり、GreeksのItaly半島進出は、BC1635年頃と推定される。

2. OenotrusとPeucetiusのItaly半島南部への移住 (BC1635年)
Hesperiaと呼ばれていたItaly半島に最初に渡ったGreeksは、OenotrusとPeucetius兄弟であった。[5]
2人の父Lycaonは、Argosの町の創建者Phoroneusの娘Niobeの子Pelasgusの息子であった。[6]
Lycaonの父Pelasgusの時代、Argosの町に住む人々は、Pelasgiansと呼ばれていた。したがって、OenotrusやPeucetiusに率いられてItaly半島へ移住した人々は、Pelasgiansであった。[7]

2.1 Peucetiiの成立
BC1635年、OenotrusとPeucetiusは、Argosの町を出発してPeloponnesus半島西側を岸伝いにIonian Gulfを北上して移住に適した土地を探した。Italy半島最東端の土地を目指してIonian Gulfを横断し、Peucetiusはその地に定住した。[8]
Peucetiusと共に定住した人々は、その後Peucetians(or Peucetii, Poedicli)と呼ばれ、Calabria半島に住み続け、その地方はPeucetiaと呼ばれた。[9]

2.2 Oenotriの成立
Oenotrusは、Peucetiusと別れて、Italy半島を右回りに岸伝いに航行し、Acheron川の近くに適地を見つけて、その地に定住した。[10]
Oenotrusは、Acheron川近くの3つの峰の合流する高所に住み、一緒に定住した人々は海岸近くに居住地を広げ、その中心地にPandosia(現在のMendicino)の町を創建した。[11]
Oenotrusと共に定住した人々は、その後Oenotrians(or Oenotri)と呼ばれるようになり、その地方はOenotriaと呼ばれた。[12]

2.3 Oenotriansからの派生
Oenotrusの孫と思われるItalusの時代になると、OenotriansはPandosiaの町から北へ60km以上離れたLaus川まで居住範囲を広げた。Italusは聡明な指導者で、その住民はItaliansと呼ばれるようになった。[13]
Italusの次の時代には Sicelusを指導者とする一団がItaly半島中央部から逃れて来て、Oenotriansと共住していたが、仲間を増やして再び戻って行った。また、Italusの息子AusonusはAcheron川の南側にTempsaの町(現在のNocera Terinese付近)を創建し、別な息子Morgesはさらに南へ移住した。Sicelus、Ausonus、Morgesが率いる人々は、それぞれ、Sicels、Ausones、Morgetesと呼ばれた。[14]
ItalusにはPandosiaの町や、Oenotriansと呼ばれる人々を継承した息子たちがいたと推定される。Oenotriansは、300年後、SicelsやMorgetesを圧迫して、Italy半島からSicily島へ移住させた。[15]
MorgetesはSicily島東部の内陸部に、Morgantium(現在のAidone)の町を創建し、Sicelsは島の先住民であったSicaniを島の西側に追いやって島の全域に居住した。それまで、Sicaniaと呼ばれていた島は、Sicilyと呼ばれるようになった。[16]

2.4 Ausonesの居住地の拡大
BC1400年、Italusの子Ausonusから6世代目にTempsaの町を治めていたのは、Ausonであったと推定される。彼の息子の一人Liparusは他の兄弟によってItaly半島から追われて、Sicily島の北東に浮かぶ島へ移住した。島は、彼の名前からLiparaと呼ばれるようになった。[17]
BC1365年、Italy半島南部のMetabum(後のMetapontium、現在のMetaponto)の町から、Melanippeの子AeolusがLipara島に来航して、Liparusの娘Cyaneと結婚した。その後、LiparusはAeolusの援助を得て、Crater Gulf(現在のGulf of Naples)の入り口にある、後のSurrentumの町(現在のSorrento)付近に移住した。これによって、Ausoniansは北へ大幅に居住範囲を広げ、Italy半島西側の海はAusonian Sea、Italy半島はAusoniaと呼ばれるようになった。[18]
Aeolusの息子の一人Astyochusは、Lipara島を継承し、他の息子たちはSicily島北部の沿海部やItaly半島最南端に入植した。[19]
Aeolusの母Melanippe(or Arne)は、Thessaly地方のDeucalionの子Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの娘であり、Aeolianであった。[20]

2.5 Reatine地方への定住
Ausonesは、Italy半島中部のApennines山脈の高地へも居住範囲を広げた。
そこへ移住したAusonesには、少なくとも3つの大きな集団があった。
1つ目は、後のRomeから北北東へ約65kmの山中にあるReate(現在のRieti)の町の東へ約40kmの所にあるAmiternum(現在のCermone)の町近くのListaの町(場所不明)へ移住した集団である。[21]
2つ目は、Reateの町から東南東へ約12kmの所にあるCutilia(現在のTerme di Cotilia)の町の周辺へ移住した集団である。[22]
3つ目は、Listaの町から約4.5km離れたTestruna(Amiternum付近)へ移住したSancusを指導者とする集団である。[23]
以上の3つの集団は、後にRomansの始祖と呼ばれるようになるQuirinusを共通の先祖としていた。[24]
BC1389年、これらの集団の定住後、Adriatic Sea側からApennines山脈を越えてやって来た集団があった。その集団はLocris地方のDeucalionの子Amphictyonらに追われて、Thessaly地方から逃れてきたPelasgiansであった。彼らの指導者はThessaly地方北部Perrhaebia地方に住んでいたNanasの子Janusであった。[25]
Janus率いるPelasgiansはReateの町の東方Cutiliaの町の近くに宿営し、その地に居住していた2つ目の集団と対峙した。[26]
両者の先祖を遡れば、Argosの始祖Inachusの子Phoroneusの娘Niobeを共通の祖としていた。Ausonesの祖OenotrusがArgosの町を離れたのはBC1635年で246年前であった。Janusの先祖であるTriopasの子Pelasgusの娘Larisa一家がArgosの町からThessaly地方へ移住したのはBC1560年で171年前のことであった。
それぞれArgosの町を去ってから異なる言葉を話す人々との交流や、言語の独自の変化によって、両者の話す言葉は違っていても、言葉は通じたものと思われる。
当時、Reatine地方周辺には、Italy半島の最古の住人Umbriansや、Italy半島南部から半島中央部に移住してきたSicelsが散らばって住んでいた。[27]
2つ目の集団はJanus率いるPelasgiansを受け入れて共住し、UmbriansやSicelsとの戦いでの盟友とした。[28]
3つ目の集団を率いるSancusは近くのListaの町に住む1つ目の集団を追い出して居住地を広げた。Listaの町にいた1つ目の集団は、Cutilia周辺にいた2つ目の集団のもとに逃げ込んで共住した。[29]
Sancusは更に、1つ目の集団と2つ目の集団、それにThessaly地方から移住して来たPelasgiansが共住するCutiliaの町を攻撃した。しかし、両者は深刻な敵対関係にはならず、婚姻関係により、協定を結んだようである。[30]
婚姻関係とは、Janusの娘OlisteneとSancusの息子Sabusとの結婚であり、協定とは、先住民のUmbriansやSicelsを共通の敵として共同で戦うことであった。[31]
この結婚により、後に、JanusはRomeの神の一人となり、1年の最初の月の名前の語源になった。[32]

2.6 Reatine地方からの広がり
Sancusの集団は、彼の息子Sabusの時代になって、さらに勢力を増し、Sabusの名前に因んでSabinesと呼ばれるようになった。[33]
一方、1つ目の集団と2つ目の集団には特定の呼び名がなかったようであり、後世の著述家は彼らを総称してAboriginesと呼んだ。[34]
Aboriginesは、山に住んでいたことから名付けられたと言われ、多くの場所から集まって来た放浪者集団であった。[35]
SabusはJanusの娘Olisteneとの結婚後、Cutiliaの町に住み、少なくとも4人の息子たち、つまり、Modius、Saturnus、Janus、Picus、それに娘Opsがいた。[36]
BC1335年、Modius(or Fabidius)は、Cutiliaの町から南へ人々を率いて移住し、海岸との中間の土地にCures(現在のCorese)の町を創建した。[37]
BC1330年、Saturnusは妹Opsと結婚し、多くのPelasgiansを率いて海岸に近いTiber川左岸に移住してSaturniaの町を創建した。[38]
BC1330年、JanusはVulturnusの娘Jaturunaと結婚して、海岸に近いTiber川右岸にJaniculumの町を創建した。[39]
Vulturnusという名前は、Neapolisの少しRome寄りのTyrrhenian Seaに注ぎ込む川やその河口付近にある町の名前であった。Jaturunaの父Vulturnusは、Ausonesであったと同時にAboriginesの指導者であったと推定される。[40]
BC1335年、PicusはApennines山脈を越えてAdriatic Sea側に居住地を求めて移住し、後に住人はPicentini、その地方は、Picentine地方と呼ばれた。[41]
Picusは鳥類のキツツキを意味するラテン語から名付けられ、神のお告げを人々に伝える者であったようだ。[42]
Sancusが最初に定住したTestrunaの町の近くには軍神Marsの神託所があった。固い樫の木にも穴を開ける丈夫な嘴を持つキツツキ(picus)が槍(quiris)と結び付いたものであった。[43]
Sancusの先祖Quirinusは槍の使い手であった。彼の死後、Quirinusは、人々から軍神として崇められ、盾をも突き通す鋭い槍先のような嘴を持つキツツキは神鳥とされて大切にされた。[44]
Sabusの息子たちは、先祖の地に留まることなく、各地に新天地を求めて勢力を伸ばしたが、敵対するSicelsとは異なる習慣があったと伝えられる。それは、生まれた子供を大切にし、成人すると各地に送り出したということであり、Sicelsは食糧が不足すると生まれてくる子供を口減らししていたようである。[45]

2.7 Nanasの子Janusの後裔
Thessaly地方からPelasgiansを率いて移住してきたNanasの子Janusには、娘Olisteneの他に息子Aethexがいて、Aethexには息子Faunusがいた。BC1340年、FaunusはAboriginesと共にCutiliaの町から北西約130kmのCroton(現在のCortona)の町へ遠征してUmbriansを追い出して、Trasimene湖一帯を支配した。[46]
BC1300年、Faunusの子Arnusは、Lydia地方からItaly半島へ移住してきたAtysの子Tyrrhenus率いるPelasgiansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[47]
Sabusの子Janusの子Maleusは、父が創建したJaniculumの町から西北西へ約45km離れた海岸近くのRegis Villaの地へ移住した。Maleusは、Tyrrhenus率いるPelasgiansによってその地から追い出された。[48]
Tyrrhenusに追われて、Regis Villa近くのAgyllaやAlsium、やや北に位置するPisaeなどから逃れた多くのPelasgiansは、Sicily島へ逃げ込んだ。[49]
BC1240年、PelasgiansはSicily島へ大挙して移住してきたSicelsに追われて、Sicily島からAcarnania地方へ移住した。[50]
BC1188年、PelasgiansはTroy遠征で手薄となったBoeotia地方へ侵入してBoeotiansを追い出した。[51]
BC1126年、PelasgiansはThessaly地方のArneの町からBoeotia地方に帰還したBoeotiansによって、Boeotia地方を追われて、Athensの町へ逃げ込んだ。[52]
BC1115年、PelasgiansはAthensの町を追放され、Lemnos島へ移住した。[53]
BC495年、Lemnos島のPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島のCleonae, Olophyxis, Acrothoi, Dium, Thyssusの町へ移住した。[54]
JanusがThessaly地方北部を去ってから、約900年後、Janusの後裔は、皮肉にも先祖が昔住んでいた所からほど遠からぬ地方に住むこととなった。

2.8 Sabusの子Saturnusの後裔
後のRomeの地にSaturniaの町を創建したSaturnusはLatiumで最初に農耕を始めたと伝えられ、その最初の穀物はSpeltであった。[55]
Saturnusの息子Picusが成人した頃、Tyrrhenus率いるLydia地方からの移民集団が渡来し、Thessaly地方からTiber川右岸の地方へ移住して来て住んでいたPelasgiansを追い出した。[56]
BC1299年、Picusは、Saturnusの跡を継ぎ、従兄妹であるJanusの娘Veniliaと結婚し、Saturniaの町から南東へ約24km離れた海岸近くにLaurentumの町を創建した。[57]
BC1262年、Picusの跡を彼の息子Faunusが継ぎ、姉妹のFatua Faunaと結婚した。[58]
また、Faunusには2番目の妻Symaethisとの間に息子Acisがいた。[59]
BC1218年、Faunusの跡を継いだのは、3番目の妻Maricaとの間の息子Latinusであった。[60]
LatinusはAmataと結婚して、娘Laviniaが生まれた。[61]
Latinusの治世に一族はLatinsと呼ばれるようになったが、Latinsの創建者は、Faunusであった。[62]

3 DiusのItaly半島南部への移住 (BC1390年)
BC1390年、Thessaly地方の沿海部に住んでいたPelasgiansのDiusは、大津波で居住地を奪われ、Pagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲撃した。Diusは、Amphictyonの子Itonusの妻Melanippeを戦利品として連れ去った。
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方およびThessaly地方の同族を結集して、Thessaly地方内のPelasgiansを追い出した。DiusはMelanippeを伴ってItaly半島南部のMetapontiumに移住した。[63]
MelanippeはMetapontiumでAeolusとBoeotusを産んだ。[64]
AeolusはSicily島の北東に浮かぶLipara島のLiparusの娘Cyaneと結婚して、島の周辺を支配した。[65]
Boeotusは母Melanippeと共に、Italy半島からThessaly地方のArneの町へ帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[66]

4 JanusのItaly半島中部への移住 (BC1390年)
BC1560年、Janusの先祖であるArgosの町に住むTriopasの子Pelasgusの娘Larisaの一家を中心とするPelasgiansがThessaly地方へ移住した。[67]
BC1390年、Larisaの子Pelasgusの子Phrastorの子Amyntorの子Teutamidesの子Nanasの時代に、大津波がThessaly地方沿岸部に住んでいたPelasgiansを襲った。津波で住居を失ったPelasgiansは大挙して移動し、Thessaly地方のPagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲った。Itonusの町には、Amphictyonの子Itonusと妻Melanippeが住んでいた。MelanippeはPelasgiansの指導者Diusの戦利品として連れ去られた。[68]
Itonusの父であるLocris地方のDeucalionの子Amphictyonと、Melanippeの父であるThessaly地方のArneの町のHippotesの子Aeolusは同族を結集して、Thessaly地方からPelasgiansを追放した。[69]
Thessaly地方北部のPerrhaebia地方に住んでいたPelasgiansは、Nanasの子Janusに率いられて、Dodonaを経由してItaly半島北東部へ上陸した。[70]
Pelasgiansの一部は、Padus川(現在のPo川)河口の南にSpina(現在のComacchio)の町を創建した。[71]
BC1389年、Janusは、Italy半島東海岸からApennines山脈を越えて、半島西側の山地に移動し、Reatine地方のCutiliaの町の近くに宿営した。彼らより少し前に、その地に移住して住んでいたAusonesに受け入れられて共住した。[72]

5 SardusのSardiniaへの移住 (BC1390年)
BC1390年の大津波は、EgyptのNile Deltaの西の外れの河口の町Canopusの住民からも住居を奪った。Macerisの子Sardusは、被災した住民を率いて、Italy半島西側のIchnussa(後のSardinia)島へ移住した。[73]
移住者は、島の先住民と争うことなく共住した。[74]
Sardinia島の南西部に「父なるSardusの神殿」があり、そこがSardusの入植地と推定される。[75]
Sardusと共に移住した人々は、Greece系Egyptiansであった。彼らは、Boeotia地方からEgyptに移住してSaisの町を創建した人々、あるいは、Argosの町からIasusやIoと共に移住した人々の後裔であった。[76]

6 AristaeusのSardiniaへの移住 (BC1372年)
Sardusの入植の後で、AristaeusがSardinia島へ入植した。[77]
Aristaeusは、Achaeansの名祖Achaeusの息子Archanderと、Thessaly地方に住んでいたHypseusの娘Cyreneとの間の息子として、Phthiotis地方で生まれた。[78]
Aristaeusは、Phthiotis地方からArgosの町を経由して、EgyptのNileDeltaへ移住し、父Archanderと共にArchandropolisを創建した。[79]
BC1372年、Aristaeusは、Egyptから移民団を率いてSardinia島へ移住した。[80]
Aristaeusは、Sardusの入植地の東側にCaralis(現在のCagliari)の町を創建した。[81]
Pausaniasは、Aristaeusの入植後に創建されたNoraの町がSardinia島で最初の町であったと伝えているので、Caralisは集落程度であったと思われる。[82]

7 MessapusのItaly半島南部への移住 (BC1372年)
BC1372年、MessapusがBoeotia地方北東部の海沿いのAnthedonの町から移民団を率いて、Italy半島東南部のPeucetia地方へ移住した。[83]
Messapusは、Arcadia地方のOrchomenusの娘AlcyoneとMegassaresとの息子Hyperenor (or Anthas)の息子と推定される。[84]
Messapusの移住は、Archanderの子AristaeusのSardinia島移住と関連があり、BC1390年の大津波と、その後を襲った悪疫の流行によるものと思われる。[85]
Messapusが入植した地方はMessapiaと呼ばれた。[86]

8 DanaeのItaly半島中部への移住 (BC1345年)
Acrisiusの娘Danaeは、彼女の息子Perseusを彼女の父がArgosの町へ連れ去った後で、当時、移住先として人気のあったSardinia島へ新天地を求めた。[87]
BC1345年、Danaeの移民団を乗せた船は、Sardinia島へ向かう途中、南からの強風に流されて、Italy半島中部の西海岸に漂着した。[88]
Danaeの夫Pilumnusは死に、Argos王の娘であるDanaeが中心になって、Romeの南東約30kmの土地にArdeaの町を創建した。[89]
Danaeが町を建設したLatium地方には当時Sicelsが散住していた。その後、間もなくして、Sabusの後裔が山地から進出して来て、Saturniaの町やJaniculumの町を創建した。
Danaeの移民団は、Argosの町からEgyptへ移住したAchaeansやPelasgiansで構成されていた。彼らと、Sabusの後裔とは、言葉や習慣が近かった。
Saturniaの町のSaturnusに小麦栽培を伝授したのは、EgyptからDanaeと共に移住した人々であったと思われる。[90]
DanaeにはPerseusの他にDaunusという息子がいて、DaunusがArdeaの町を継承した。[91]
Aeneasと戦って死んだRutuliの首領TurnusはDaunusの後裔であった。[92]

9 TyrrhenusのItaly半島中部への移住 (BC1300年)
BC1300年、Lydia地方からAtysの子Tyrrhenusに率いられたLydiansがUmbriansの地へ移住した。[93]
Herodotusは、飢饉が原因であったと伝えているが、史実はつぎのようであった。[94]

9.1 移住前の状況
BC1390年の大津波やその後のDeucalionの息子たちの攻撃によって、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは各地へ四散した。彼らの一部は、Hellespontの沿岸部や隣接したChios島、Lesbos島、Lemnos島、Imbros島などの島々へ移住した。[95]
また、島から本土に渡ったPelasgiansは、当時、Maeoniaと呼ばれていたLydia地方に定住した。[96]
Hittite文書によれば、Pelasgiansが定住した地方は、Arzawaと呼ばれていた。[97]
Silenusの息子と思われるManesに率いられたPelasgiansがその地へ行ったとき、Arzawaには、Luwian languageを話す人々が住んでいたが、強力な指導者はいなかった。[98]
Pelasgiansは、先住民と共住し、Manesがその地の王になった。
Manesは、Hittite文書ではArzawa王Kupanta-Kuruntaという名前で登場する。[99]

9.2 移住の原因
BC1325年、Anatolia半島北西部のIda山の近くに住んでいたTantalusが、Iliumの町のIlusに追われてLydia地方(Arzawaの一部)へ移住して来た。[100]
当時、Arzawa王は、Tarhuntaraduの子Maskhuiluwaであった。[101]
Tantalusは、Maskhuiluwaを追放して、Arzawa王になった。[102]
Maskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命した。[103]
その後、Hittite王Mursili IIの時代に、ArzawaはHittite軍に攻められて占領された。[104]

9.3 Lemnosへの移住
Tantalusと共にHittite軍と戦ったMaeoniansは、Lydia地方から追放された。ArzawaがHittiteに征服されてから、Tyrrhenusに率いられたMaeoniansがItaly半島へ現れたのは、18年後であった。その間、Maeoniansは、つぎの理由から、Lemnos島に住んでいたと推定される。
Maeoniansは、後に、Italy半島へ移住して、Tyrrheniansと名前を変えた。[105]
Lemnos島とItaly半島を結び付けるものに、つぎのものがある。
Tyrrhenia海の島(Elba島)が、Lemnos島の古い名前、Aethaliaと呼ばれていた。[106]
Plinyが記す古代世界の4つの迷宮のうち、Egypt とCrete島以外に、Lemnos島とEtruriaに迷宮があった。[107]
Lemnos島が、Tyrrhenia島とも呼ばれていた。[108]

9.4 Italyへの移住
BC1300年、Atysの子Tyrrhenus率いるMaeoniansは、Lemnos島からItaly半島北西部へ移住した。[109]
Tyrrhenusの移住の動機は不明であるが、本土から逃げ込んで来た人々を島が受け入れて人口が増えたことが原因と思われる。
Lemnos島から遠く離れたItalyを移住先に選んだのは、次の理由が考えられる。

9.4.1 Telchinesを介して聞き及んだ
Tyrrhenusの航海の水先案内人は、海の子と呼ばれ、航海術に優れたTelchinesであったと推定される。[110]
BC1425年、当時Telchinisと呼ばれていたRhodes島に住んでいたTelchinesは、Rhodosの息子たちによって島から追放され、Telchinesの一部はLemnos島にも移住した。[111]
航海術と冶金技術に優れたTelchinesはAegean Seaのみではなく、Italyの島々にも航海して、鉱山を探し求めていたと思われる。Italy半島とCyrnus島(現在のCorsica島)の間のAethalia島(現在のElba島)も鉱山を発見した島のひとつであったと推定される。[112]

9.4.2 Delphiを介して聞き及んだ
BC1390年にThessaly地方から移住したPelasgiansが創建したAgyllaの町(後のRomeのすぐ西にあった)はDelphiに宝庫を奉納するほど繁栄していた。[113]
Agyllaの町の繁栄ぶりは、世界各地から神託を求めてDelphiを訪れた人々によって、Greeks全体に広まっていたと思われる。[114]

9.5 移住後のTyrrhenusとその後裔
Tyrrhenus率いるMaeoniansは、後のRomeより北の海岸に住んでいたUmbriansを追い出して居住していたPelasgiansを追い出して植民した。[115]
MaeoniansもPelasgiansも、90年前はThessaly地方に住んでいたが、言葉が通じなかった。[116]
Maeoniansの中に、Luwian languageを話す人々がいたか、Maeonians全体がその言葉を話すようになっていたと思われる。
指導者Tyrrhenusの名に因んで、MaeoniansはTyrrheniansと名前を変え、彼らの居住地はTyrrhenia地方と呼ばれた。[117]
また、Tyrrheniansは、生贄を供える儀式を行うことから、Tusciと呼ばれることもあり、Romansは彼らをEtrusciと呼び、その居住地をEtruriaと呼んだ。[118]
AD2世紀の地理学者Pausaniasの時代には、Italy半島西岸のPisaeの町付近からTiber川付近までが、Tyrrheniaと呼ばれていたようである。Tyrrheniansの全盛期には、Italy半島の東の付け根付近のPadus川流域やRavennaの町にも及んでいた。[119]
Tyrrhenusが死んだ後、Tyrrheniansを率いる強力な指導者が現れず、町ごとに団結力を欠き、近隣部族に武力で負けて土地を捨て、海賊になった。[120]

9.6 Tyrrheniaの主な町
Tyrrhenusは12市を建設したと伝えられるが、Tyrrhenia地方には次のような町があった。[121]

9.6.1 Saturnia(現在のRome)
後のRomeの中心となるSaturniaの町は、Sabusの子Saturnusが創建し、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansが住んでいた。[122]
Saturnusの子Dercennusの代になって、Tyrrhenusらに攻められ、Dercennusは戦死した。
Saturniaの町には、Tyrrheniansが住んだが、彼らもSicelsによって追われた。[123]

9.6.2 Caere(現在のCerveteri)
Tyrrheniansの町で一番勢力を持っていたのは、後のRomeのすぐ西に位置するCaereの町であった。[124]
Caereの町は、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansが創建し、Agyllaの町と呼ばれていたが、Tyrrheniansに奪われた。[125]

9.6.3 Alsium(現在のLadispoli)
Alsiumの町は、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansが住んでいたが、Tyrrheniansに追い出された。[126]

9.6.4 Tarquinii(現在のTarquinia)
Tyrrhenusの将TarcoがThessaly地方から移住して来たPelasgiansを追い出して創建した。[127]

9.6.5 Regis Villa(現在のMontalto di Castro)
Regis Villaの町は、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansのMaleosが住んでいたが、Tyrrheniansに追い出された。[128]

9.6.6 Pisae(現在のPisa)
BC1389年、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansがLiguriansを追い出して、Pisaeの町を創建した。[129]
BC1300年、Pisaeの町のPelasgiansはTyrrheniansに追い出された。[130]
Straboは、Nestorに従ってTroy遠征に参加したPisaの町の出身者が流浪して、Pisaeの町を創建して、町の住人はPyliansと呼ばれるようになったと伝えている。[131]
しかし、Nestorは無事にPylusの町に帰還しているのに、その一部が流浪して、遠く離れたTyrrheniansの土地に町を建設できたとは思えない。
Pisaの町よりPylusの町の出身者が多かったから住人は、Pyliansと呼ばれたと思うが、それであれば、創建者はPylusの町の出身者になる。
Straboが記しているPisaeの町の建設についての記事は、作り話と思われる。
BC1126年、Locris地方からAsia Minorに移住してCymeの町を創建した人々によって、Larissaの町の周辺に住んでいたPelasgiansは土地を追われた。[132]
Teutamusの後裔が率いるPelasgiansはItaly半島へ移住して、Tyrrheniansが住むPisaeの町に定住した。[133]
Tyrrheniansは、昔、先祖が住んでいたAsia Minorからの移住者を同族として受け入れて共住したと推定される。

9.6.7 Croton(現在のCortona)
FaunusはAboriginesと共にCutiliaの町から北西約130kmのCrotonの町に遠征してUmbriansを追い出し、Trasimene湖一帯を支配した。[134]
BC1300年、Faunusの息子Arnusは、Tyrrheniansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[135]

10 Aegestusの母のSicilyへの移住 (BC1295年)
BC1295年、Iliumの町で政争が起き、Phaenodamasと彼の息子たちが、Laomedonに殺された。Phaenodamasの娘とその一族はTroyを追われて、Sicily島北西部のCrimisus河畔へ移住した。[136]
Hittiteの文書は、Wilusa王Alaksanduは、Mursili II(BC1321-1295)とMuwatalli II(BC1295-72)と協定を締結したと伝えている。[137]
また、Hittiteの文書には、Alaksanduは正当な継承者ではないように記されている。[138]
Mursili IIとMuwatalli II、両方と協定を締結可能なWilusa(Troy)王は、Greeceの伝承では、Laomedonのみである。
後に、Phaenodamasの娘の息子Aegestusが一時、Sicily島からTroyへ渡っていることから、Laomedonは、王位簒奪者と推定される。[139]

11 EvanderのItaly半島中部への移住 (BC1240年)
11.1 Arcadiaからの出発
BC1240年、Arcadia地方のTegeaの町の西方約8kmにあるPallantiumの町(現在のPalantio付近)で争いが起こった。争いに敗れたThemisの子Evanderは新天地を求めた。あるいは、Evanderが罪を犯して、一族共々追放された。[140]
Evanderは、Argos創建時から存在するParrhasiansに属し、Argosの町からArcadia地方に居住地を広げたPelasgusの子Lycaonの家系であった。[141]
Evanderの移民団は、Tegeaの町からAlpheius川に沿って、Olympiaの町へ通じる道を通ってCylleneへ向かった。Evanderは途中で、HeraclesのElis攻めに参加していた人々を移民団に参加させた。彼らは、Achaia地方のDymeの町のEpeansやPheneusの町のArcadiansであった。[142]
Evanderの移民団は、Elisの外港Cylleneから航海に出た。[143]

11.2 Latiumへの移住
Evanderの移民団は、Italy半島を右回りに航海して、半島中央部のTiber川を遡り、後のRomeの地に上陸した。彼らは、それまでVeliaと呼ばれ、後にPalatiumと名付けられる丘の近くに定住した。[144]
Romeから東へ約35km離れた土地(後のPraeneste、現在のPalestrina)の支配者HerilusはEvanderに戦いを挑んだが撃退された。[145]
Evanderの移民団の中には、Heraclesの遠征に参加した歴戦の勇士が多数いて、Ausoniansの武力を上回っていた。[146]
当時、野蛮なSicelsによって苦しめられていたLaurentumの町のFaunusは、Evanderを敵とするよりも味方として受け入れた。[147]
Evanderの艦隊を率いていたArcadianのCatillusは、彼の2人の兄弟たち、Coras、Tiburnusと共にRomeから東北東へ約30kmの土地に町を作り、Tiburと名付けた。[147-1]

11.3 Evanderの後裔
Evanderは移住後、Nicostrateと結婚し、息子Pallasをもうけた。[148]
Nicostrateは神がかりになって託宣を下す予言者であり、Carmentaとも呼ばれた。[149]
Evanderの母Themisも予言者で、Carmentaとも呼ばれていたことから、姑から嫁に術を伝授していたものと思われる。[150]
Themisの先祖であるPelasgusの子Lycaonの子PallasにはChryseという娘がいた。彼女には、神秘的な宗教に関する伝承があった。予言術は、Lycaonの子Pallasの家系に連なる女性に代々受け継がれていたと思われる。[151]
BC1182年、Evanderの子Pallasは、AeneasとRutuliansのTurnusとの戦いで、Aeneasに味方して戦死した。[152]
BC1154年、Evanderと共に移住して来たArcadiansの後裔は、Aeneasの子Ascaniusが創建したAlbaの町に移住した。[153]
しかし、Arcadiansの一部はそのままPalatineの丘の近くに住み続けた。Rome建国の父Romulusの養父Faustulusもその一人であった。[154]

11.4 その他
AlphabetをItaly広めたのは、Evanderと共に移住したArcadiansであったと伝えられ、Romeの繁栄に大きく寄与した。[155]
AD2世紀、第15代Rome皇帝AntoninusはEvanderの功績を認めて、彼の出身地であるArcadia地方のPallantiumの村を市に格上げし、住民の自治を認めて公課を免除した。[156]
その後、Pallantium市民は、Evander像を建立した。[157]

12 StratonのSicilyへの移住 (BC1240年)
BC1240年、EvanderがArcadia地方のPallantiumから率いた移民団は小規模なものであったが、Eleia地方から途中で参加した者も含めると相当な数になった。Latiumの町のFaunusは、Evanderの助けを借りて、Sicelsの首領であるVulcanus(or Vulcan)の息子Cacusを討ち取り、Sicelsを南へ追いやった。[158]
Straton率いるSicelsはItaly半島南部から海峡を渡り、Sicily島へ移住した。[159]
この時に移住したSicelsは相当な数に上り、それまで、Sicaniaと呼ばれていた島は、Sicilyと呼ばれるようになった。[160]

13 NoraxのSardiniaへの移住 (BC1240年)
BC1240年、Geryonesの娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住し、島の南端に最古の町Nora(現在のPula岬付近)を創建した。[161]
NoraxはIberianと伝えられている。しかし、彼はIberia半島南端にHeracleiaの町(現在のAlgeciras付近)を創建して、そこで死んだEgyptのCanopusの町のMacerisの後裔であったと推定される。[162]
Noraxの出身地は、Heracleiaの町の北西のTartessus川(後のBaetis、現在のGuadalquivir)を中心としたTartessusという地方であった。[163]
Tartessus川の河口付近のGadeiraの町(現在のCadiz)および向かい合う島はまとめてErytheiaと呼ばれ、Geryonesはそこで多くの牛を飼っていた。[164]
Geryonesの生まれはTartessus川の上流で、そこは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Herculesと呼ばれたMacerisの終焉の地にも近かった。Geryonesの孫NoraxがSardinia島へ入植したのは、Iolausの入植よりも前であったことを考慮すると、Noraxは、Amphitryonの子Heraclesとほぼ同年代と思われる。[165]

14 OebalusのItaly半島中部への移住 (BC1237年)
BC1237年、HeraclesはThesprotia地方へ遠征した。[166]
Acarnania地方に住んでいたTeleboansは、Telonの子Oebalusに率いられてItaly半島西海岸へ移住して、Neapolisの町の近くに浮かぶ島にCapreaeの町を創建した。[167]
Teleboansは、Lacedaemonの創建者Lelexの名前に因んだLelegesの支族であった。[168]
Libyaの子Lelexは、Danausの叔父であり、LelegesはPelasgiansの支族であった。[169]
後に、第2代Rome皇帝Tiberius Caesarは、Capreaeの町に隠棲した。[170]

15 IolausのSardiniaへの植民 (BC1236年)
Amphitryonの子Heraclesは、Thesprotia地方のEphyraの町を攻略した後で、彼の甥IolausにSardinia島への植民を指示した。[171]
BC1236年、Iolausは、Boeotia地方のThespiaeの町(現在のThespiesの近く)の支配者Thespiusの娘たちから生まれた息子たちで構成した移民団を率いてSardinia島へ渡った。[172]
Iolausは、移民団をSardinia島北東部に既に定住していたTyrrheniansと共住させ、Olbiaの町(現在のOlbia)を創建した後でHeraclesのもとへ帰還した。[173]

16 AnchisesのSicilyへの移住 (BC1236年)
HittiteのMilawata letter (CTH 182)は、Wilusa(Troy)で王位継承をめぐる争いがあったことを伝えている。[174]
Greeceの伝承では、Laomedonによって殺されたPhaenodamasの娘の息子Aegestusが、Trojan Warの時に、Sicily島からTroyへ来て、Troy陥落時にSicily島へ帰還したことになっている。[175]
この出来事が、Troyの王位継承をめぐる争いに関係していると思われる。
つぎのように推定される。
Troy王Laomedonが死んで、正当な王位継承者による反乱が起きた。
首謀者は、Trosの子Assaracusの子Capysの子Anchisesであった。
Anchisesは、正当な王位継承者AegestusをSicily島から呼び寄せた。[176]
反乱は成功し、Laomedonの子Priamは、Miletusの町へ亡命した。[177]
その後、Priam (Walmu)は、Hittite王の援助でTroyへ帰還した。
Hittite軍との戦いに敗れたAnchisesは、Aegestusと共にSicily島へ逃れた。
Anchisesに味方したAesyetesの子Antenorは、Adriatic Seaの奥の地へ移住した。[178]
したがって、Anchisesの子Aeneasに関するSicily島より前の伝承は、すべて作り話と思われる。
AeneasはSicily島で生まれたと思われる。Aeneasは、Anchisesの晩年に生まれた息子であった。[179]
Aegestusや彼の仲間のElymus (or Elyuius)は、Sicily島の北西部にAegesta (or Egesta)の町(現在のSegesta)とElyma (or Eryx)の町(現在のErice)を創建した。[180]

17 IapyxのItaly半島南部への移住 (BC1235年)
BC1235年、Daedalusの子Iapyxが、Crete島から移民団を率いてItaly半島南東部に移住してHyriaの町(現在のOria)を創建したと伝えられている。[181]
しかし、Hyriaの名前は、彼より前に、この地方に入植したMessapusが名付けた可能性が高い。Messapusの祖父MegassaresがBoeotia地方に創建したHyriaの町から名付けたと思われる。[182]
彫刻家Daedalusは、彼の弟子Talos(or Calos)を殺して、Crete島のMinosのもとへ亡命した。[183]
Daedalusは、Athensの町のAegeusの子Theseusの従兄弟であった。
Daedalusは、Gortynの町から妻を娶り、息子Iapyxが生まれた。[184]
Iapyxが入植したHyriaの町の近くを流れる川はIapyx川、地方はIapygia地方、岬はIapygian Cape(現在のCapo di Leuca)、住民はIapygians(or Iapyges)と呼ばれた。[185]
IapygiansはItaly半島南西部の後のCrotonの町(現在のCrotone)付近にも広く居住していた。[186]
Iapyxの移民団の中にいたBottonは、新たな移民団を編成して、さらに旅を続けて、Macedonia地方のBottiaeaに定住した。[187]
Bottonの移民団の中には、Athensの町から貢物としてCrete島のMinosのもとへ送られた若者たちがいた。[188]

18 CleolausのItaly半島中部への移住 (BC1235年)
Iapyxの移民団の中にいたMinosの子Cleolausは、新たな移民団を率いて、Italy半島東南部Apulia地方に入植した。Cleolausは自分の部族を息子Daunusに因んで、Dauniiと呼ばせた。[189]
Cleolausの子Daunusの娘Euippeは、Aetoliansを率いてApulia地方へ移住して来たTydeusの子Diomedesと結婚した。[190]

19 IolausのSardiniaへの移住 (BC1216年)
Heraclesの死後、Iolausは、Athensの町へ攻め込んで来たMycenaeの町のEurystheusを討ち取り、Heraclesの息子たちを守った。[191]
BC1216年、Heraclesの息子たちの保護者としての役目を終えたIolausはAthensの町で移民を募り、再びSardinia島へ移民団を率いて移住した。AtheniansはOgryleの町(場所不明)を創建した。[192]
Iolausは、その後、Greeceに帰ることなく、Sardinia島で生涯を終えた。[193]

20 HalaesusのItaly半島中部への移住 (BC1187年)
BC1187年、Agamemnonの子Halaesusは、AgamemnonがTroyへ遠征中、Thyestesの子Aegisthusによって、Mycenaeの町から追放されて、Italy半島へ移住した。彼は、RomeからFlaminian街道を北に進んだ所にある、後にFaleriiと呼ばれる町(現在のCivita Castellana)に定住した。[194]
Halaesusの支配は、Faleriiの町から南南西へ約46kmのAlsiumの町にも及んでいたようである。[195]
BC1182年、AeneasとLatium地方のArdeaの町のRutuliansとの戦いが起きた。Halaesusは、Rutuliansの王Turnusに味方して、Evanderの子Pallasに討ち取られた。[196]
Rutuliansは、Argos王Acrisiusの娘Danaeの後裔であり、Tyrrheniansを追い出して、Faleriiの町の近くにも居住していた。[197]
Halaesusは、同族のRutuliansから土地を分け与えられたと推定される。

21 DiomedesのItaly半島中部への移住 (BC1184年)
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、Troyから帰還後、妻であるAdrastusの娘Aegialia (or Egiale)の不貞を知り、Italy半島東岸Apulia地方へ移住した。[198]
移住後、DiomedesはApulia地方の支配者Daunusの娘Euippeと結婚した。[199]
Daunusは、Minosの子Cleolausの息子であった。[200]
Cleolausは、Daedalusの子Iapyxと共にCrete島からItaly半島南部に入植した。Cleolausは、息子の名前に因んで、自分の部族をDauniiと名付けた。[201]
Diomedesは、Argyrippeの町(現在のFoggia)やCanusiumの町(現在のCanosa)やSipusの町(現在のManfredonia)を創建した。[202]
BC1182年、Diomedesは、Ardeaの町のRutuliansの王Turnusから援軍を要請されるが応じなかった。[203]
Strabonは、Diomedesの最期について、4つの説を伝えている。[204]
1) Diomedesは、故郷Argosの町に呼び戻され、その地で死んだ。
2) Diomedesは、Apulia地方で死んだ。
3) Diomedesは、Apulia地方の沖に浮かぶ無人島で行方不明になった。
4) Diomedesは、Adriatic Sea最奥部のHenetiの地で死んだ。
Diomedesと共に移住したAetoliansは南東へ移住してBrundisiumの町(現在のBrindisi)を創建した。しかし、彼らはApuliansによって、そこからも追われた。[206]
このことから、Diomedesらの移住者と、先住民との間に争いがあったと推定される。
また、Diomedesの葬送競技会が、Daunusによって催され、その場で、Greeksは殺されたとも伝えられている。[207]
BC4世紀の哲学者Aristotleは、Diomedesがその地の王Aeneasに謀殺されたとき、彼の仲間がDiomedeia島の近くで難破したと伝えている。[208]
Apulia地方の沖合い20kmに浮かぶDiomedeia島(現在のTremiti諸島のSan Domino島と推定される)には、Diomedes神殿と、プラタナスの樹の下に、Diomedesの墓があった。[209]
以上のことから、Diomedesの最期はつぎように推測される。
Diomedesらの移住者と、Daunusらの先住民との間に争いがあり、Diomedesは騙し討ちにあって殺害された。Diomedesの仲間たちは海へ逃れたが、Diomedeia島の近くで難破して、彼の遺体を島に埋葬した。
AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、DaunusがDiomedesを殺したと記している。[209-1]

22 AeneasのItaly半島中部への移住 (BC1184年)
BC1184年の夏、Anchisesの子Aeneasが、Laurentumの町付近に上陸した。[210]
当時、Aeneasは30歳代半ばであり、息子Ascaniusがいた。[211]
Laurentumの町の支配者はFaunusの子Latinusであり、彼の治世35年目であった。[212]
BC1182年、AeneasはLatinusの娘Laviniaと結婚するが、その結婚が原因になって、Rutuliansの王Turnusとの間に戦いが起こった。Latinusは戦死して、AeneasがLaurentumの町を継承した。[213]
BC1179年、Aeneasは、再び反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死して、息子AscaniusがLaurentumの町を継承した。[214]

おわり