第7章 ヘラクレスの時代(BC13世紀)

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Create:2019.3.29, Update:2024.1.20

1 Thebes時代
1.1 Heraclesの誕生
Boeotia地方のPlataeaの町からThebesの町に着き、Electran Gateを抜けると左側にAlcaeus の子Amphitryonの家があった。[1]
BC1275年、Amphitryonの妻Alcmenaは、そこで、男の子を産んだ。
男の子はAlcides、あるいは、祖父の名前でもあったAlcaeusと名付けられた。[2]
後に、Delphiの巫女が神託を授ける際にHeraclesと呼び、以後、その名で呼ばれるようになった。[3]

1.1.1 Heraclesの祖父Alcaeus
Heraclesの父Amphitryonは、Tiryns王Perseusの子Alcaeusの息子であった。[4]
Amphitryonの母については、諸説あるが、AmphitryonとThebesの町の繋がりが深いことから、Thebesの町のMenoeceusの娘Hipponomeであったと思われる。[5]
BC1305年、Tiryns王AlcaeusとHipponomeの間にAmphitryonが生まれた。[6]

1.1.2 Heraclesの父Amphitryon
Amphitryonの兄弟は知られておらず、Licymniusと結婚した姉妹Perimede(or Anaxo)がいた。[7]
BC1287年、Amphitryonは、Arcadia地方のPheneusの町の有力者Guneusの娘Laonomeと結婚し、息子Iphiclesが生まれた。[8]
Iphiclesが生まれたとき、Amphitryonの妻Laonomeは、息子の命と引き換えに死んだと思われる。Iphiclesは、Laonomeの兄妹と思われるPheneusの町の住人Buphagusとその妻Promneに養育されたと推定される。[9]
BC1278年、Amphitryonは、Thebesの町のSpartiに招かれて、Tirynsの町からThebesの町へ移住した。[10]
Amphitryonを招いたSpartiとは、Amphitryonの祖父Menoeceusであったと思われる。
Menoeceusから、Creon、Haemon、Maeonへと続く血統は、Spartiの家系であった。[11]

1.1.2.1 Greece北西部への遠征
BC1277年、Amphitryonは、Greece北西部のTeleboansの地へ遠征した。[12]
この遠征を企画したのは、Amphitryonの叔父で、Perseusの末子Helius(or Heleus)と推定される。
Heliusは、Argolis地方にHelosの町を建設していたが、それに飽き足らず新天地を求めたものと思われる。[13]
Heliusは、兄弟のElectryonや甥Amphitryonに協力を求めた。Amphitryonは、Aegeusに追われて、Attica地方のThoricusの町からThebesの町へ逃れて来ていたPandionの子Cephalusを誘って遠征に参加した。[14]
遠征隊は、Acarnania地方西方のIonian Seaに浮かぶ島々からTeleboansを追い出して植民した。AmphitryonはThebesの町に帰還して、神殿に戦利品を奉納した。[15]
Cephalusは、Ionian Seaで最大の島に入植し、Cephallenia島と呼ばせた。[16]
Heliusは、Echinades諸島に入植した。[17]
その後、Heliusの子Taphiusは、Cephallenia島の北に浮かぶ島々からTeleboansを追い出して、その一つにTaphosの町を創建し、島をTaphos島と呼ばせた。[18]
彼らに追い出されたTeleboansの始祖は、BC1430年、EgyptからLaconia地方に入植したLelexの娘Therapneの子Teleboasと推定される。[19]
遠征中、Teleboansとの戦いで、Electryonと息子たちが戦死した。[20]
孤児になったElectryonの娘Alcmenaと、Electryonの息子たちの中で唯一生き残ったLicymniusをThebesの町に引き取り、AmphitryonはAlcmenaと結婚した。[21]

1.1.2.2 Amphitryonの子Iphicles
Heraclesの腹違いの兄Iphiclesは、Eleia地方のPisaの町からPelopsの子Alcathousの娘Automedusaを妻に迎えた。[22]
Alcathousは、Megara王Nisusの孫娘Euaechmeと結婚して、Megara王を継承している。しかし、Iphiclesの妻Automedusaは、Euaechmeの娘ではなく、Alcathousの前妻Pyrgoの娘であった。[23]
Iphiclesの継母Alcmenaの母Eurydice (or Lysidice)は、Automedusaの父Alcathousの姉弟であり、IphiclesとAutomedusaは、いとこ同士であった。IphiclesとAutomedusaとの間には、息子Iolausが生まれた。[24]
Iolausは、Heraclesより8歳年下で、Heraclesの甥であったが、弟であるかのように常にHeraclesと行動を共にした。Heraclesは息子たち以上にIolausを愛した。[25]
Heraclesの功業も、HeracleidaeのPeloponnesus帰還も、Iolausなくしては達成できなかったと思われる。
Iphiclesには、Iolausの他に、Athensの町のTheseusと結婚した娘Iopeがいた。[26]
Heraclesの死後、Eurystheusへの脅威からHeraclesの子供たちを受け入れる町がなくなったときに、Athensの町だけが彼らを受け入れた。
当時のAthens王TheseusがHeraclesの子供たちの後見人Iolausと義兄弟であったからであった。

1.1.2.3 Amphitryonの娘Laonome
また、Heraclesには同じ母Alcmenaから生まれた妹Laonomeがいた。[27]
Laonomeは、Doris地方に住むTheiodamasの子Euphemusと結婚した。[28]
Euphemusには、弟Hylasがいた。[29]
Hylasは、Argonautsの遠征にOechaliaの町から参加している。[30]
Oechaliaの町は、Oeta山近くのTrachis地方にあった。[31]
Heraclesは、生涯の最後にTrachisの町のCeyxを頼って移住したが、そこは、妹Laonomeの嫁ぎ先の近くでもあった。[32]

1.2 Heraclesの少年期
Heraclesは、家柄もよく、容姿の美しい少年だけがなれるIsmenian Apolloに仕える1年限りの祭司になった。Amphitryonは、IsmeniasのApollo神殿に青銅の鼎を奉納した。[33]
Heraclesは13歳のとき、牛飼場(cattle farm)へ送られた。[34]
BC1258年、Euboea島のChalcisの町に住むChalcodonがBoeotia地方に侵入した。Amphitryonは、Thebesの町の北東のProetidian gate付近で武具を身に着けて、Chalcodonに向かって進軍した。Amphitryonは、Thebesの町からAulisの町方向へ約10kmの所にあるTeumessusの町近くでChalcodonと戦って、彼を討ち取った。[35]
これより少し前に、Euboea島のCriusの息子が、Delphi周辺を荒らして討ち取られている。[36]
この頃、Greece全体を襲った干ばつによる飢饉が原因で、Chalcodonも同様の理由でBoeotia地方に侵入したものと思われる。[37]
このとき、17歳と推定されるHeraclesが、父Amphitryonの戦功に関与したかは不明である。
Heraclesが働いていた牛飼場は、Thebesの町の西方のThespiaeの町の近くにあった。
Cithaeron山地からライオンが下りて来て、Amphitryonの牛たちやThespiaeの町のThespiusの牛たちを襲った。18歳になったHeraclesは、Thespiusから歓待を受け、このライオンを退治した。[38]
この後、Heraclesは父Amphitryonと共にPeloponnesus半島を旅して、Argolis地方の東海岸にあるTroezenの町のPittheusの家を訪問した。Pittheusの娘Aethraの息子で、後にAthens王となったTheseusは、まだ子供であったが、ライオンの皮を敷いて座っているHeraclesを見た。[39]
Pittheusは、Heraclesの母方の祖母Eurydice (or Lysidice)の兄弟であり、TheseusはHeraclesの母方の従兄弟であった。

1.3 Minyansとの戦い
BC1256年、AmphitryonとHeraclesが旅をしているときに、Thebesの町の北西約50kmの所にあるOrchomenusの町のMinyansとThebesの町との戦いがあった。
Minyansの王Clymenusが、Thebesの町とのほぼ中間にあるOnchestusの町で、Thebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresによって殺害された。Thebesの町は、Clymenusの子Erginusに攻められて敗れ、20年間の貢納を課せられた。[40]
旅から帰ったAmphitryonとHeraclesは、Erginusと戦って、Orchomenusの町まで攻め寄せて、戦いを短期間で終わらせた。[41]
HeraclesはMinyansとの戦いで、彼の父Amphitryonを失ったが、Erginusに対しては寛大に振舞った。[42]
この戦いには、Corinthの町からもThebesの町の応援に駆け付けており、十分に戦備を整えた上での戦いであった。[43]
Corinthの町からOedipusが息子たちと共に駆け付けて、彼の2人の息子たち、PhrastorとLaonytusは戦死した。[44]
また、これより少し前に、MinosとAthensの町との戦いの後でHariartosの町の近くのOcaleaeの町に住んでいた、Minosの弟RhadamanthusもThebesの町に加勢した。[45]
Heraclesは、Erginusとの戦いの勝利を祝ってThebesの町のArtemisの神殿に獅子の石像を奉納した。[46]
Thebesの町のCreonは、戦いの殊勲者であるHeraclesに娘Megaraを、Heraclesの異母兄IphiclesにはMegaraの妹を与えた。[47]
Megaraは、Heraclesの父方の祖母Hipponomeの年の離れた弟Creonの娘であり、Amphitryonの従妹であった。
Iphiclesは、それまでArcadia地方のPheneusの町で暮らしていたがMinyansとの戦いの前から息子Iolausと共にThebesの町に来て暮らしていた。Iolausはこの時11歳で、戦士の年齢には達していなかった。
未亡人となったAlcmenaは、Ocaleaeの町のRhadamanthysと再婚した。[48]
Alcmenaは、Thebesの町を出るとき、Thebesの人々から栄誉を授けられた。[49]

1.4 Megaraとの別れ
Minyansとの戦いの後、HeraclesはThebesの町で平和な時を過ごし、妻Megaraとの間には子供たちが生まれた。子供たちの人数については、2人から8人まで、様々に伝えられている。[50]
恐らく、失火が原因と思われる火事でHeraclesの子供たち全員が死んだ。Heraclesは、Megaraとの結婚は神に祝福されないものであったと理解して、Megaraを離縁してIolausと結婚させた。[51]
この出来事は、HeraclesとCreon、HeraclesとThebesの町との関係を疎遠にした。その後、Heraclesは、Thebesの町を忌避するように、居を変えた。
Heraclesの子供たちの死は、Thebesの町での出来事であり、AmphitryonとHeraclesの子供たちの墓は、Thebesの町にあった。[52]

2 Tiryns時代
2.1 Tirynsへの移住
BC1251年、Heraclesは、Thebesの町から彼の父Amphitryonの旧領Tirynsの町へ移住した。[53]
Mycenaeの町は、創建者PerseusからSthenelusへ継承され、さらにEurystheusへと継承された。Perseusの時代から続いていた、Argosの町との対立関係は解消されておらず、Eurystheusの息子たちも幼少で、彼を助ける者は、近くにいなかった。
Eurystheusは、彼の従兄弟Amphitryonの息子HeraclesにTirynsの町を任せたのではないかと思われる。あるいは、Thebesの町のCreonとの確執から、Heracles自身の意志でTirynsの町へ移住したのかもしれない。
古代の詩人も、HeraclesがTirynsの町へ移住した動機を理解できずに、神託を理由にしている。[54]

2.2 Heraclesの功業
EurystheusがHeraclesに命じたとされる12の功業の多くは、荒唐無稽で作り話である。
しかし、第4の功業に登場するArcadia地方にいたCentaursと、第5の功業に登場するElisの町のAugeasについては、史実をもとにしていると思われる。[55]
ただし、両者と関わった時期については、HeraclesがTirynsの町にいた時ではなく、もっと後のことであった。
また、第10の功業に登場するErytheiaの町のGeryonについては、実在の人物であったと思われる。Geryonの孫NoraxがIolausより少し前の人物で、Heraclesとほぼ同世代であり、Geryonも長生きしたとすれば、Heraclesと同時代で、実在の人物であった。
しかし、Iberia半島南部のErytheiaの町までHeraclesが行ったという伝承は作り話である。Geryonや、彼の住んでいた地方は、Heraclesが関係していたが、Amphitryonの子Heraclesではなく、Egyptian Heracles、あるいは、Phoenician Heraclesとも呼ばれるHeraclesであった。そのHeraclesは、EgyptのCanopusの町の人であり、Iberia半島で死んだMacerisであった。[56]

2.3 Asia Minorでの活動
2.3.1 Lydiaでの3年間
BC1248年、Heraclesは、Tirynsの町に来たOechaliaの町のEurytusの息子Iphitusを不幸な出来事で殺害した。[57]
このOechaliaの町は、Euboea島の町であったという伝承もあるが、Messenia地方の町であった。Iphitusの父EurytusがTyndareusに追われて、Messenia地方からEuboea島へ移住する前であり、当時、Iphitusは、Messenia地方のOechaliaの町に住んでいた。[58]
当時、過失で人を殺した者は、他人のもとで一定期間奉仕するという掟があった。[59]
Heraclesは、Lydia地方のOmphaleのもとで奉仕した。[60]
Omphaleが住んでいた所は、Lydia地方のHyllus川が流れるTimolus山の麓、後のSardisの町の近くであったと思われる。[61]
HeraclesがOmphaleのもとで奉仕していた3年の間に、Argonautsの遠征やCalydonの猪狩りがあった。[62]

2.3.2 Iliumへの遠征
BC1245年、HeraclesはOmphaleのもとでの奉仕活動を終え、Tirynsの町に帰った。[63]
帰国後、HeraclesはIolausと共にThessaly地方のIolcusの町へ行き、Cretheusの子Peliasの死に伴い、Peliasの子Acastusが開催した葬送競技大会に参加した。[64]
この後、HeraclesはIliumの町へ遠征したと伝えられている。[65]
遠征に参加し、船番をしていたArgosの町のAmphiarausの父Oeclesが、Ilusの子Laomedonに襲われて戦死して、Aeacusの子TelamonがTroy王Laomedonの娘Hesioneと結婚したと伝えられる。[66]
しかし、OeclesがHeraclesと遠征を共にしたのは、Troyを目指したものではなく、Elisの町のAugeasを攻めるための遠征であった。[67]
また、TelamonとHesioneとの結婚は、Telamonの子TeucerをTroy王家の後継者にするために作られた逸話と思われる。後に、TeucerがCyprus島にSalamisの町を創建するが、この時の住民の多くは、Trojansであった。[68]
Teucerの後裔たちは、Salamisの町の住民を従わせるため、自分たちがTroy王家の後裔であるかのような逸話を広めたと思われる。[69]

2.3.3 Cosへの遠征
Heraclesは、Iliumの町からの帰路、流されてCos島に立ち寄ったという伝承がある。[70]
これが作り話でないとすれば、つぎのようであったと推定される。
当時、Cos島は、Meropsが治めていたが、Meropsは、彼の娘Clytiaの夫Eurypylusに追われて、Heraclesに援助を求めた。HeraclesはMeropsを帰還させようとしたが、Eurypylusに妨害されて、戦いになった。Heraclesは、Eurypylusの子Chalcodon (or Chalcon)と戦って負傷した。[71]
Meropsは、Lesbos島からCos島へ移住したMacareusの子Neandrusの後裔と推定される。[72]
Heraclesは、Cos島のEurypylusの娘Chalciopeとの間に、息子Thessalus(or Thettalus)が生まれた。Thessalusの2人の息子たち、Pheidippus(or Phidippus)とAntiphusは、Cos島の人々を率いてTroyへ遠征して、2人ともHectorに討ち取られた。[73]
彼らの後裔は、その後もCos島に住み続け、医学の父と呼ばれるBC4世紀初頭のHippocratesは、Heraclesから20代目の子孫であった。[74]
Agamemnon率いるTroy遠征軍の軍医を務めたAsclepius(or Aesculapius)の子Podalirusは、Troy陥落後、Asia Minorを放浪した。Podalirusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と思われるDamaethusが治めるCaria地方のBybastusの町のDamaethusの娘Syrnaと結婚した。Podalirusは、妻の名に因んだSyrnusの町を創建した。[75]
Cos島は、Syrnusの町の近くにあり、Cos島に住むHeraclesの子Thessalusの後裔が、Syrnusの町からAsclepiusの子Podalirusの後裔を妻に迎えたものと推定される。[76]

2.3.4 Hittiteの記録を参考にしたHeraclesの行動
HeraclesのAsia Minorにおける活動は、BC1248年から3年間と、BC1244年であった。
Hittite文書によれば、この時期、Hittiteは、Piyama-RaduのLukka (Lycia)での反乱を鎮圧して、Ahhiyawaへ逃れた彼の身柄の引き渡しを要求していた。[77]
Piyama-Raduは、Heraclesの母Alcmenaの兄Celaeneusと推定され、Heraclesは、伯父Celaeneusを支援するために、Asia Minorへ渡ったと推定される。
また、Celaeneusは、Eurystheusの伯父でもあり、HeraclesはEurystheusの命令で、Asia Minorへ渡ったのかもしれない。

2.4 1回目のElis攻め
BC1243年、Heraclesは、Elis攻めの準備をした。[78]
伝承では、HeraclesのElis攻めは、Elisの町のAugeasがHeraclesに約束した報酬を支払わなかったことが原因であった。しかし、史実は次のようであったと思われる。[79]
Augeasの母は、Arcadia地方のAmphidamasの娘Nausidameであった。Nausidameの姉妹Antibiaは、Eurystheusの継母であり、AugeasとEurystheusは、お互いの妻を通じて義理の従兄弟であった。 [80]
この婚姻関係によって、Eurystheus誕生前は、Elisの町とMycenaeの町は、良好な関係にあった。しかし、Eurystheusの父Sthenelusが、Pelopsの娘Nicippe(or Archippe)と2度目の結婚をして、彼らの間にEurystheusが生まれると、Elisの町とMycenaeの町の関係は悪化した。[81]
Pelops亡き後、Elisの町が、Pisaの町に代わってOlympiaを支配下に置いて、競技会を開催し、Pisaの町とElisの町の関係も悪化した。Eurystheusは、母の出身地であるPisaの町からの請願を受けてHeraclesにElisの町を攻めさせたと推定される。[82]
AD2世紀の紀行作家Pausaniasは、Heraclesに攻められたElisの町の防戦にPylusの町やPisaの町が参加したと伝えている。しかし、Pisaの町は、Eurystheusの母の町であり、Heraclesの母方の祖母の町であった。Pisaの町がHeraclesを相手にした戦いに加わったとは思われない。[83]
Pausaniasは、HeraclesがDelphiから次のような神託を受け取って、Pisaの町を攻めなかったと伝えている。[84]
My father cares for Pisa, but to me in the hollows of Pytho.
Delphiの巫女が神Apolloを代弁して、「父ZeusはPisaを私ApolloはDelphiを憂慮する」というような意味と解され、Zeusの聖地Pisaに手出しするなとの警告のようである。
しかし、この神託は、PisaとOlympiaを同一視するBC5世紀のPindarやHerodotusのような人物による創作と思われる。[85]
Augeasは、Heraclesの動きを知り、Elisの町の西方のHyrminaの町を治めるActorの2人の息子たち、CteatusとEurytusを将に任命した。[86]
Actorは、Endymionの子Epeiusの娘Hyrminaの息子であり、Endymionの娘Eurycydaの子Eleiusの息子であるAugeasとは、又従兄弟であった。[87]
HeraclesはElisの町を攻撃するが、勇猛な戦士であったActorの息子たちの前に敗北を重ね、勝負がつかぬままにHeraclesが病気になり、休戦した。[88]
しかし、Actorの息子たちは、Heraclesが病気であるのを知って攻撃を仕掛け、Heracles側で多くの戦死者が出た。 [89]
戦死者の中には、Actorの息子たちに傷を負わされたHeraclesの異母兄Iphiclesも含まれていて、Arcadia地方のPheneusの町で傷がもとで死んだ。[90]
Iphiclesは、Lacedaemonでの戦いで死んだという伝承もある。しかし、IphiclesはPheneusの町で、Buphagusとその妻Promneの看護を受けて死んだという伝承の方が詳細で真実味がある。[91]
休戦の約束を破られて身内を殺されたHeraclesは、Hyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中のActorの2人の息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeの町で襲撃して殺した。[92]
この襲撃で、Heraclesに加勢した多くのCleonaeansが戦死したと伝えられる。しかし、殺された兄弟の母Molioneが犯人捜しをしたとも伝えられることから、少人数での待ち伏せによる襲撃であったと思われる。[93]
当時のCleonaeは、Pelopsの子Atreusによって創建されて間もなくの頃であって、Heraclesの襲撃には、Atreusが協力したものと思われる。[94]
Molioneの訴えにより、Elisの町が襲撃犯の処罰を求めたとき、Eurystheusは、Heraclesを処罰したり、Elisの町へ引き渡したりせず、彼にTirynsの町から出て行かせた。[95]

3 Pheneus時代
3.1 Centaursとの戦い
Heraclesは、母Alcmenaと甥Iolausを伴い、Arcadia地方の北東部にあるPheneusの町へ移住した。[96]
これより前に、Alcmenaは、Rhadamanthysと再婚して、Ocaleaeの町に居住していたが、夫と死別して、Tirynsの町でHeraclesと同居していた。[97]
Pheneusの町へ移住したHeraclesは、Tegeaの町のCepheusからCentaursの掃討作戦への協力を求められた。Centaursは、Thessaly地方のPelion山付近に住んでいたが、勢力を伸ばしたLarissaの町のIxionの子Peirithousを中心としたLapithsによって居住地を追われた。Centaursの一部は、Arcadia地方の北西部にあるPholoe山周辺に住みついて、山賊行為をしていた。Centaursは半人半獣とされているが、人馬一体となって馬を乗りこなす人々であった。[98]
Heraclesは、Arcadia地方に住んでいたCentaursを滅ぼし、Cepheusという協力者とともに多くのArcadiansを戦力として得ることができた。[99]

3.2 2回目のElis攻め
BC1241年、Heraclesは、新たな戦力を得て、再びElis遠征軍を準備した。この遠征には、Arcadiansの他に、Thebans、ArgivesやEpeiansが参加した。[100]
Thebansとは、Heraclesと共にOrchomenusの町のErginusと戦って、Heraclesと共にTirynsの町へThebesの町から移住した人々と思われる。[101]
Argivesとは、Melampusの子Mantiusの子Oeclesが率いるArgosの町の人々と思われる。これより少し前、兄弟Abasに追われてCalydonの町へ亡命していたOeclesが、父や息子Amphiarausと共にArgosの町に帰還した。彼らは、自分を追い出した者たちをArgosの町から追い出したため、町にはMelampusとBiasの後裔は、Oeclesの家族しか残っていなかった。[102]
OeclesとHeraclesとの間に、血縁関係はなく、何故、OeclesがHeraclesに加勢したのかは、不明である。OeclesがArgosの町に帰還したとき、Heraclesは、Lydiaにいた。
Mycenaeの町のEurystheusがOeclesの帰還を助けたのかもしれない。あるいは、HeraclesがTirynsの町に帰還後、Oeclesと交流があったのかもしれない。[103]
Perseusの後裔であるEurystheusもHeraclesも、Perseusを殺したProetusの子Megapenthesの後裔に対しては恨みがあった。しかし、Megapenthesの子Argeusの子AnaxagorasがArgosの町の共住者として招いたMelampusとBiasの後裔たちとは、敵対していなかったと思われる。[104]
また、Epeiansとは、Elisの町のEndymionの子Aetolus が、Salmoneusから追われて、Aetolia地方へ移住したときに、海峡を渡らずにAchaia地方のDymeの町などに残っていた人々の子孫であった。[105]
BC1240年、Heraclesは遠征軍を率いて、Pheneusの町を出発し、Elisの町を攻撃した。Augeasは、Pylusの町からも援軍を受けて防戦したが、Actorの息子たちがいないElis勢は、Heraclesに敗れ、町は占領された。[106]
Heraclesは、Augeasの長男Phyleusを移住先のAcarnania地方のDulichiumの町から呼び寄せた。Heraclesは、Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasを許して、捕虜も返すという寛大な処置をした。[107]

3.3 Pylus攻め
Heraclesは、Pylusの町のNeleusを攻めて、12人いたNeleusの息子たちは、一番末のNestorを除いて戦死し、Pylusの町は破壊されて廃墟と化した。[108]
Neleusが住んでいたPylusの町は、Messenia地方にあったとする伝承もあるが、Eleia地方のElisの町からPeneius川を遡り、さらに支流のLadon川を少し遡った所にあった。[109]
これ以前にNestorが兄弟たちと共にEleia地方南部のChaaの町の領有権を巡ってArcadiansと戦い、最年少のNestorが一騎打ちをしたと伝えられている。したがって、Heraclesとの戦いの時には、Nestorはすでに戦士の年齢に達していたはずである。[110]
おそらく、Nestorは、彼の兄弟の子供たちや、Neleusの富の象徴であった牛の群れを避難させ、それを守るために、Messenia湾奥の東側にあったGereniaにいたと思われる。[111]
Heraclesは、Pylusの町を攻略した後で、Gereniaへ向けて進軍し、Messenia地方のStenyclerusの町で、Neleusの子供たちと誓を交わしたと伝えられている。おそらく、Nestorの助命とPylusの町の領有権を認める代わりにHeraclesの子孫から要求があればいつでも引き渡すべしという内容であったと思われる。[112]
Neleusの長男Periclymenusの息子Penthilusもこの誓約に参加したと思われる。
彼の曾孫Melanthusは、Heracleidaeの帰還時、Messeniansの王であったが、Heracleidaeの要求に応じてMessenia地方を明け渡して、Athensの町へ移住している。[113]
Pylusの町からMessenia地方へ向かう途中で、HeraclesはEleia地方南部のLepreusの町を治めるLepreusを殺害した。[114]
Lepreusは、Actorの息子たちの父方の従兄弟にあたり、HeraclesのElis攻めに際してもAugeasに味方していた。

3.4 Evanderの移民団
戦いを終えたHeraclesの遠征隊は、Evanderの移民団に遭遇した。
Arcadia地方のTegeaの町の西方約8kmにあるPallantiumの町(現在のPalantio付近)で争いが起こり、争いに敗れたThemisの子Evanderは、新天地を探す旅の途中であった。[115]
Evanderは、参加を申し出たAchaia地方のDymeの町のEpeiansやArcadia地方のPheneusの町のArcadiansを移民団に参加させた。Evanderは、Elisの外港Cylleneから新天地を求めるための航海に出発した。[116]
Evanderの移民団は、Italy半島を右回りに航海して、半島西側中央部のTiber川を遡り、後のRomeの地に上陸し、それまでVeliaと呼ばれ、後にPalatiumと名付けられる丘の近くに定住した。[117]

3.5 Olympia競技会の開催
BC1239年、HeraclesはOlympiaの町で体育競技会を開催した。[118]
Heraclesより前には、Olympiaの町をも支配していたElisの町のAugeasが開催した。
それより前には、Elisの町のAethlius、Endymion、Epeius、Pisaの町のOenomaus、Alexinus (恐らく、Salmoneusの子Alectorの別名)、Pisaの町のPelops、Pylusの町のAmythaon、NeleusとPeliasが開催した。
開催者は、Eleia地方の支配的地位にある人物であった。HeraclesがOlympia競技会を開催したことは、Mycenaeの町のEurystheusに少なからぬ警戒心を懐かせることになった。[119]

3.6 Lacedaemon攻め
その後、HeraclesはLacedaemonのHippocoonを攻めた。
攻撃の理由は、HeraclesがPylusの町を攻撃したときに、HippocoonがNeleusに味方したためとされるが、HippocoonとNeleusの間に接点は見いだせない。 [120]
HeraclesとHippocoonとの戦いは、Elis攻めの部隊を解散した後の出来事であったことは、間違いないようである。Heraclesの手勢と、Tegeaの町のCepheusが戦いに参加している。Heraclesの戦いは、他からの依頼や陳情で始まることが多く、この時も、HeraclesがCepheusから援助を貰ったのではなく、Cepheusの援助要請にHeraclesが応えたものと思われる。後の時代に、Spartaの町がTegeaの町と争っていたように、LacedaemonのHippocoonとTegeaの町のCepheusとの間に争いがあったものと思われる。
Cepheusの兄弟Amphidamasは、Eurystheusの妻Antimacheの父であり、EurystheusからHeraclesにCepheusを助けるように依頼があったのかもしれない。
Heraclesは、Amyclaeの町とSpartaの町でHippocoonと戦い、彼を討ち取って町を占領した。この戦いでCepheusと、彼の20人の息子たちのうち、3人を残して全員戦死した。[121]
Tyndareusの兄弟Icariusは、Tyndareusと共にAetolia地方に移住したと伝えられる。
しかし、Icariusは、HeraclesとHippocoonの戦いが終わった後で、Acarnania地方へ移住し、TyndareusがAetolia地方からSpartaの町に帰還した。
Icariusは移住後、Acarnania地方の有力者Lygaeusの娘Polycaste(or Polyboea)と結婚した。Icariusは、それ以前に、Ortilochusの娘Dorodocheと結婚していた。[122]
Dorodocheは、Messenia湾に流れ込むNedon川の河口近くに、Pharaeの町を創建したPharisの娘Telegoneの子Ortilochusの娘であった。[123]
Spartaの町のすぐ南にあるPharisの町は、Icariusに嫁いだDorodocheと一緒にMessenia地方のPharaeの町から移り住んだ人々の町で、Icariusはその町に住んでいた。Pharisの町は、Pharaeとも呼ばれていた。[124]

4 Calydon時代
4.1 Calydonへの移住
BC1238年、Heraclesは、Arcadia地方のPheneusの町から海峡を渡り、Aetolia地方のCalydonの町へ移住した。Heraclesは、多くのArcadiansを引き連れていたため、Eurystheusに敵対勢力とみなされるのを危惧して、自らPeloponnesus半島を出たものと思われる。[125]
あるいは、EurystheusがArcadia王Lycurgusに働きかけて、HeraclesにPheneusの町から退去するようにと迫ったのかもしれない。Lycurgusは、Eurystheusの妻Antimacheの祖父であった。[126]
HeraclesがCalydonの町を次の移住先にしたのは、Elis攻めに参加して死んだMantiusの子Oeclesから、Calydonの町のことを聞き及んでいたためと思われる。[127]
Oeclesは、父Mantiusと共にArgosの町から逃れて、Calydonの町に20年以上住んでいた。Calydonの町は、当時の人々にとって、人気の入植地の一つであった。[128]

4.2 Achelousとの戦い
HeraclesがCalydonの町に住んで間もなく、Pleuronの町のParthaonの娘Steropeの夫Achelousは、Calydonの町に攻めて来たが、Heraclesに敗れた。[129]
このAchelousの攻撃は、Calydonの町のOeneusに対するものではなく、Heracles本人に対するものであったかもしれない。Heraclesが襲撃して殺したMolioneの息子たちは、Achelousの妻Steropeの又従兄妹であった。[130]

4.3 Deianeiraとの結婚
Achelousとの戦いの後で、Heraclesは、Oeneusの娘Deianeiraを妻に迎えた。[131]
Heraclesは37歳、Deianeiraは17歳であった。[132]
Deianeiraは、HeraclesがThebesの町のCreonの娘Megaraを離縁した後で、正式に結婚した女性であった。Deianeiraは、Heracleidaeの中で、もっとも力のある者たちの始祖となる長男Hyllusの母になった。[133]

4.4 Achelousの灌漑
Heraclesは、Calydonの町でAchelous川の大規模な灌漑地を造成した。付き従っていたArcadiansの鍛錬と世話になっている地方への恩返しを兼ねてのものであった。 [134]
Heraclesが灌漑したのは、Paracheloitisと呼ばれるAchelous川の河口近くの氾濫地帯であったと思われる。[135]
Achelous川は、Calydonの町の西側にあるPleuronの町やCuretesが住む土地のさらに西側を流れていた。Calydonの町とPleuronの町は、長年、抗争を繰り返していたが、当時は、Oeneusの支配がAchelous川まで及んでいたことを証明している。

4.5 Thesprotiaへの遠征
BC1237年、Heraclesは、Thesprotiansの地へ向けて遠征し、Calydonの町から北西方向に直線距離で180kmほどの所にあるEphyraの町を陥落させた。片道7日行程ほどを要する大遠征であった。遠く離れたCalydonの町とEphyraの町に利害対立があったとは考えられない。この遠征の目的が何であったのかは伝えられていない。[136]

4.5.1 遠征の目的
Trojan Warの少し前に、Laertesの子Odysseusが矢に塗る毒を求めて、Ephyraの町のMermerusの子Ilusを訪れている。[137]
このMermerusは、Argonautsの遠征を率いたJasonとAeetesの娘Medaとの間の息子であった。Mermerusの子Ilusの毒作りの技術は、毒薬作りで有名な祖母Medaから伝授されたものと思われる。[138]
Jasonは晩年、Dodona西方のIonian Seaに浮かぶScheria島に入植し、妻の名に因んで島はCorcyra島と呼ばれるようになったと伝えられている。[139]
以上のことから、遠征の目的は、Jasonの入植のためであったと思われる。Calydonの町に住んでいたHeraclesは、Jasonに協力してThesprotia地方への遠征に参加したと思われる。
Jasonの移住の動機は、Boeotia地方を略奪して捕虜になったSphinxからGreece北西部の豊かさの情報を得たことであったと推定される。Boeotia地方に侵入したSphinxは、Corinthiansを率いたOedipusによって撃退された。当時、Corinthの町は、Jasonが治めており、JasonもSphinxとの戦いに参加していた。[140]
また、Jasonに新天地への移住を決断されたのは、彼の妻Medeaの死であったと思われる。Jasonの移住には、Medeaが産んだ息子たち、MermerusやPheresも同行していた。[141]

4.5.2 遠征の参加者
Heraclesには、Peloponnesus半島から付き従っていたArcadiansとCalydonの町のOeneus配下のCalydoniansがいた。しかし、これだけの勢力でEphyraの町を攻め落とすことは困難であった。Ephyraの町は、50年後にThessaly地方を占領したThesprotiansの中心の町であった。 [142]
この遠征には、JasonとHeraclesが率いる人々の他に、つぎの人々が参加していた。
Augeasの子Phyleusが率いるDulichians
Oebalusの子Icariusが率いるLacedaemonians
Sisyphusの子Ornytionが率いるCorinthians
Heliusの子Taphiusが率いるTaphians
Cephalusの子Arcesius(or Arcisius)が率いるCephallenians
Coeranusの子Polyidus

4.5.2.1 Augeasの子Phyleus
Homerは、Augeasの子PhyleusがEphyraの町から持ち帰った胸当てのことを記し、さらに、その胸当ては、その地の王Euphetesから贈られたものであったと伝えている。[143]
Homerが言及したEphyraの町は、Eleia地方にあったとも解釈されているが、Thesprotia地方のEphyraの町であった。[144]
Heraclesは、Elisの町を占領したとき、Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasを寛大に処置したが、遠征へのPhyleusの参加は、この時の恩返しであった。[145]
Phyleusは、Cephallenia島のDulichium(or Dulichia、後のPaleis)の町からDulichiansを率いて、Heraclesと共にEphyraの町まで遠征した。[146]
この遠征の後で、Phyleusの子Megesは、Echinades諸島に移住して、一番大きな島を領して、故郷と同じDulichiumと呼んだ。
Megesは、Troy遠征にCephallenia島のDulichiumの町やEchinades諸島、さらにEleia地方のCylleneの町の人々を率いて参加した。[147]

4.5.2.2 Oebalusの子Icarius
Icariusは、HeraclesのThesprotia地方への遠征に、移住を希望するLacedaemoniansを率いて参加した。[148]
Icariusは、Acarnania地方に入植し、彼の2人の息子たち、AlyzeusとLeucadiusは、彼らに因んだ名前の町を創建した。[149]
Acarnania地方に住んでいたTeleboansは、Telonの子Oebalusに率いられてItaly半島中部の西海岸へ移住し、Neapolisの町の近くに浮かぶ島にCapreaeの町を創建した。[150]
Icariusが遠征の後で、妻にしたLygaeusの娘Polycaste(or Polyboea)は、戦争捕虜と推定される。Polycasteから、後にOdysseusの妻となるPenelopeが生まれた。[151]

4.5.2.3 Sisyphusの子Ornytion
Jasonと共に遠征に参加してCorinthiansを率いたのは、後にCorinthの町の支配者となるSisyphusの子Ornytionであった。
この遠征で、Ornytionは、Acarnaia地方のAchelous川近くに住んでいたTelonの子Oebalusの娘Peireneを妻にした。[152]
Corinthの町の2つの外港、Corinthian gulfに面したLechaeumと、Saronic Gulfに面したCenchreaeの名前のもとになったLechesとCenchriasは、彼らの息子たちであった。[153]

4.5.2.4 Heliusの子Taphius
Taphiusは、父HeliusがHeraclesの父Amphitryonの助けで、Echinades諸島に入植することができたことへの恩返しで遠征に参加した。[154]
Taphiusは、Echinades諸島から北西方向の島へ移住して、Taphosの町を創建し、島はTaphos島と呼ばれるようになった。[155]

4.5.2.5 Cephalusの子Arcesius (or Arcisius)
ArcesiusもTaphiusの場合と同じで、Heraclesの父Amphitryonへの恩返しで遠征に参加し、Cephallenia島からIthaca島へ居住地を広げた。
Amphitryonの遠征のとき、CephalusはCephallenia島からTeleboansを追い出し、TeleboansはIthaca島に移住した。[156]
そのとき、CephalusはTeleboanのPterelasの娘Euryodeiaを妻にして、息子Arcesiusが生まれた。[157]
Arcesiusは、Ithaca島のTeleboansとの戦いで、Ithacusの娘と推定されるChalcomedusaを妻にした。[158]
Straboは、Ithaca島とTaphos島の住人は親しい関係だと記している。
両者が、Heraclesの遠征へ参加したことと、Heraclesの父Amphitryonの助けで、両者ともこの地に同時期に入植したからであると思われる。[159]
この遠征の後で、Arcesiusの子Laertesは、Leucas半島の地峡部分にあるNericusの町を攻略した。[160]

4.5.2.6 Coeranusの子Polyidus
Melampusの子Abasの子Coeranusは、Talausの子AdrastusがArgosの町からSicyonの町へ亡命するきっかけとなったArgosの町の内紛で、町を去った一人であった。
遠征当時、Coeranusの子Polyidusは、Corinthの町に住んでいた。[161]
BC5世紀のAthensの神話学者Pherecydesは、PolyidusとAcarnania地方のDulichiumの町に住むPhyleusの娘Eurydameiaが結婚したと伝えている。[162]
当時、PolyidusとEurydameiaは結婚適齢期であり、Corinthの町とDulichiumの町との遠距離婚を成立させたのは、この遠征にPolyidusが参加したことであったと推定される。[163]

4.5.3 HeraclesとPhyleusの娘Astyocheとの息子たち
Heraclesと、Ephyraの町で捕虜となったPhyleusの娘Astyocheとの間には、息子Tlepolemus(or Tleptolemus)が生まれた。[164]
このTlepolemusは後に、Heracleidaeの一員として、一時Argosの町へ帰還を果たし、そこから、Rhodes島へ移住した。その後、Troy遠征に参加して、Lycia地方のSarpedonに討ち取られたと伝えられている。[165]
HeraclesとAstyocheとの間には、もう一人の息子Dexamenusがおり、その息子Ambraxは、Ephyraの町近くのAmbraciaの町の支配者となった。[166]
Dexamenusには、PheidippusやHaimonという息子たちがおり、彼らはThesprotiansを率いて、Thessaly地方に攻め込んで占領した。Thessaly地方の住人は、penestaiと呼ばれる奴隷身分になって残留するか、他の土地へ移住するかした。[167]
BC1126年、Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusは、penestaiとなってArneの町に残留していたBoeotiansを追い出し、その地方は、Thessaliotisと呼ばれるようになった。[168]

4.5.4 Sardiniaへの植民
HeraclesはEphyraの町に滞在しているときに、IolausにThespiusの娘たちが産んだ息子たちを率いてItaly半島の西に浮かぶSardinia島に植民するように指示した。[169]
この息子たちは51人おり、HeraclesとThespiusの娘たち50人から生まれたと伝えられる。真偽はともかくとして、大勢の孫を持つThespiusから相談を受けていたHeraclesが、Italy半島への入植をIolausに指示したものと思われる。[170]
古代の史料では、行動の真意を理解しかねる場合、よく「神託により」と伝えているが、このときのHeraclesも「神託により」植民団を送ったと伝えられている。[171]
Ephyraの町の人々は、Dodonaに神託を求めるために、町に立ち寄った人々から、Sardiniaの豊かさの情報を得ていて、Heraclesは彼らからSardiniaのことを聞き及んだと思われる。[172]
BC1236年、Iolausは、植民団を率いてAthensの町を出発した。Iolausの植民団は、Athensの町がGreece以外の地に人々を派遣した最初であったと伝えられる。2回目のCodrusの子Neileus率いるIonia植民団のときと同じく、Athensの町のPrytaneumから出発した正式な移民団であったと思われる。[173]

4.6 Calydonからの移住
Heraclesは、Calydonの町で平和な日々を送り、Deianeiraとの間に、長男Hyllusが生まれた。[174]
Deianeiraとの結婚3年目に、Heraclesは、Oeneusの親戚のArchitelesの子Ennomus(or Eurynomus)を過失により殺害したことにより、Calydonの町を去ることにしたと伝えられる。 [175]
しかし、この時のHeraclesの移住も、Calydonの町でのHeraclesの更なる勢力拡大を危惧したMycenaeの町のEurystheusの意志が働いたものと思われる。このEurystheusの意志をOeneusに伝えたのは、Oeclesの子Amphiarausであったと推定される。AmphiarausはCalydonの町で生まれ、OeclesとOeneusとは、お互いの妻を通して、義理の兄弟であった。[176]

4.7 Centaursの残党との戦い
BC1235年、HeraclesはTrachisの町へ向けて、3年間住み慣れたCalydonの町を出発した。途中、Calydonの町の東側を流れるEvenus川で、妻Deianeiraに乱暴しようとしたCentaurのNessusを殺害したと伝えられる。[177]
しかし、これは後のHeraclesの死とも関連させた作り話である。
実際は、Aetolia地方からPhocis地方やThessaly地方へ通じる要衝の地で山賊行為をしていたCentaursの生き残りのNessusとHeraclesとの戦いであった。[178]
NessusらCentaursの墓がEvenus川からさらに東へ10kmほどのTaphiassusの丘にあり、そこで戦いが行われた。[179]
この後、Heraclesは、Corinth湾を右に見て東進し、Delphiの外港Cirrhaの町から内陸に入り、Crisa平原を北上してAmphissaの町に入った。[180]
Amphissaの町には、Deianeiraの姉Gorgesが嫁いでおり、Heraclesたちを歓迎した。[181]
Amphissaから北上を続けて、北はOeta山(標高2,152m)、南はParnasus山(標高2,457m)に挟まれ、Cephissus川の上流域に広がるDryopis地方を通ってTrachisの町に到着した。[182]

5 Trachis時代
5.1 Ceyxの系譜
Trachisの町は、Heraclesの友人Ceyxが治めていた。[183]
Ceyxは、Actorの息子で、Heraclesの親友であるPatroclusの父Menoetiusの兄弟と思われる。[187]
Ceyxは、Phthia地方からSpercheius川をDryopis地方の方へ越えたOeta山の麓に移住し、Trachisの町を創建した。Trachisの町はMyrmidonsの町であった。[188]
Ceyxが移住した後で、Thessaly地方のDotium平原に住んでいたAenianiansが、Lapithsに追われて、Oeta山周辺へ逃れて来た。[189]
Aenianiansの支族MeliansがTrachisの町の近くに住み着き、Meliansの首領の娘がCeyxに嫁ぎ、CeyxがMeliansを率いることになったと思われる。[190]

5.2 Dryopiansとの戦い
BC1231年、移民団を率いてSardinia島へ渡ったIolausが、Trachisの町へ帰還した。[191]
HeraclesのTrachisの町での最初の5年間は平和であった。Deianeiraからは、息子たち、Gleneus、Hodites、それにCtesippus、そして、娘Macariaが生まれた。[192]
BC1230年、Delphi近くのDryopesの町に住んでいたPhylasがDelphiの神殿に不敬を働いた。HeraclesはTrachisの町の住人であるMeliansを率いて、Dryopesの町を攻めてPhylasを殺し、Dryopiansを追放した。[193]
追放されたDryopiansは、Peloponnesus半島へ渡って、Mycenaeの町のEurystheusから援助を受けて、Argolis地方にAine、Hermione、Eionという名前の3つの町を建設した。[194]
Dryopesの町は、Phylasの祖父Dryopesが、Parnasus山近くのDelphiの町よりも高い所にあるLycoritaeの町の近くに創建した町であった。[195]
Phylasの娘MedaとHeraclesの間には、息子Antiochusが生まれた。[196]
BC6世紀に、AthensのClisthenesは、それまでの4部族制から、10部族制に改めたが、部族の一つに、Heraclesの子Antiochusを名祖とする部族があった。[197]

5.3 Lapithsとの戦い
5.3.1 Iolcusの滅亡
BC1236年、Thessaly地方のIolcusの町や、その周辺の町に住んでいたMinyansが反乱を起こして、Peliasの子Acastusは殺され、Iolcusの町は破壊された。[198]
Minyansは、Phthiaの町のPeleusによって、Thessaly地方から追い出されて、Lemnos島へ移住した。[199]
Iolcusの町のCretheusの子Peliasは、Argonausの遠征の物語で、遠征を命じた王として登場するほど、Iolcusの町は繁栄した町であったが、創建から3代目で滅亡した。

5.3.2 Lapithsの勢力拡張
Iolcusの町の滅亡は、Thessaly地方内の勢力関係に影響を及ぼし、Thessaly地方北部Peneius川下流域のGyrtonの町やLarissaの町に居住していたLapithsの動きを活発にした。
BC1420年、Peneius川流域のDoris地方(後のHestiaeotis地方の一部)には、Hellenの子Dorusが居住していたが、Parnassus山近くのDryopia地方へ移住した。[200]
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansが追い出されて、彼らが去った後の土地にLapithsが進出した。Lapithsは、その後、Hestiaeotis地方にも進出して、Ampycusの子MopsusはOechaliaの町に、Ischysの子AesculapiusはTriccaの町に住むようになった。Gyrtonの町近くに住んでいたDoriansも次第にCaeneusの子Coronusに圧迫されるようになった。[201]

5.3.3 Coronusとの戦い
Hestiaeotis地方のDoriansは、Hellenの子DorusがDryopia地方へ移住した後もDorusの後裔と同族として繋がりがあった。
BC1227年、Caeneusの子Coronusによって居住地を追い出されたHestiaeotis地方のDoriansは、Dryopia地方のDoriansの王Dorusの子Aegimiusに助けを求めた。AegimiusはHestiaeotis地方へ駆け付けるが、Coronusによって追い返された。Aegimiusは、Trachisの町のHeraclesに土地の割譲を約束して援助を求めた。Heraclesは、ArcadiansやTrachisの町のMeliansを率いて、Hestiaeotis地方へ遠征した。Heraclesは、Doriansの土地を占拠していたCoronusと戦って破り、Lapithsを追い出した。[202]

5.3.4 Laogorasとの戦い
さらに、Heraclesは、Lapithsに味方していたDryopiansのLaogorasを殺した。[203]
Laogorasは、Delphiの神殿に不敬を働いたPhylasの兄弟で、Heraclesと戦って敗れた後で、Gyrtonの町のCoronusのもとへ逃れていた。Laogorasは、Hestiaeotis地方に居住するDoriansを追い出そうとしていたCoronusに味方していた。[204]

5.3.5 Cycnusとの戦い
Gyrtonの町のCoronusには、すべてのLapithsが協力していたわけではなく、Triccaの町のIschysの子Aesculapiusは参加していなかった。
この後、Heraclesは、Coronusに味方したLapithsと戦うために行軍し、Gyrtonの町からPagasetic Gulf西岸のItonusの町を目指した。[205]
Itonusの町のCycnusは、Lapithusの子Periphasの子Aeolusの子Cercaphusの子Aethalidesの息子であり、Lapithsであった。[206]
Heraclesは、Itonusの町でCycnusと戦い、彼を討ち取った。[207]

5.3.6 Ormeniusとの戦い
この後、Heraclesは破壊されたIolcusの町の東側に新しく創建されたOrmenionの町を攻めた。伝承では、Heraclesが町の支配者Ormeniusの娘Astydameiaを嫁に貰おうとして拒否されたのが戦いの原因であったとか、通行を妨害されたことが原因であったと伝えられる。[208]
しかし、Ormeniusは、Lapithusの子Periphasの子Aeolusの子Cercaphusの息子であり、Lapithsであり、Coronusに加担したためにHeraclesに攻められたと思われる。[209]
Heraclesとの戦いで、Ormeniusとその息子Amyntorは討ち取られた。Amyntorの子Phoenixは、これより少し前に、父との不和からPhthiaの町のPeleusのもとへ行き、Dolopia地方を分け与えられていた。[210]
Phoenixの父Amyntorの父Ormeniusの父Cercaphusの妻Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子は、Peleusであった。つまり、Peleusは、Phoenixの父の義理の従兄弟であった。[211]
Phoenixは、Peleusの子Achillesの育て親となり、Troyに出征して、Achillesの配下の5人の将の一人として、第4隊を指揮した。[212]

5.3.7 Eurytusとの戦い
BC1224年、次にHeraclesが向かったのは、Eurytusが住むOechaliaの町であった。

5.3.7.1 Oechaliaの所在
Heraclesが攻めたOechaliaの町の所在については諸説ある。
Pausaniasは、Eurytusの遺骨があったと伝えられるMessenia地方が有力だと記している。[213]
BC5世紀の歴史家Hecataeusは、Euboea島のEretria領内のScius地方あった町だと伝えている。[214]
Hormerと同時代のSamos島の詩人CreophylusもEuboea島にあったと伝えている。[215]
AD1世紀初期の地理学者Strabonの著作の中でもMelaneusの子Eurytusが住んでいたOechaliaの町については、議論されている。しかし、Heracles により破壊されたOechaliaの町について、StrabonはEuboea島のEretria領内にあったと断言している。[216]
この混乱は、Melaneusと彼の息子Eurytusが居住地を変えても町の名前を変えなかったことが原因であった。
Eurytusの父Melaneusは、Messenia地方のAndaniaの町を治めていたAeolusの子Perieresのもとへ行き、分け与えられた土地にOechaliaの町を創建した。MelaneusとPerieresには、縁戚関係があった。[217]
Perieresの父Aeolusは、その年代や後裔の居住地から、Hippotesの子Aeolusの子Lapithusの息子で、PerieresとMelaneus は兄弟であったと思われる。 [218]
年代順に見ると、次のようであったと推定される。
BC1310年、Melaneusは、Peneius川に注ぐIon川を少し遡った所に最初のOechaliaの町を創建した。[219]
BC1305年、Melaneusは従兄弟のPerieresから求められてMessenia地方へ移住し、Andaniaの町の近くに2番目のOechaliaの町を創建した。[220]
BC1239年、Tyndareusが移住先のAetolia地方からSpartaの町に帰還した。[221]
BC1237年、EurytusはTyndareusに攻められてMessenia地方を追われ、Euboea島へ移住して、3番目のOechaliaの町を創建した。[222]

5.3.7.2 Eurytusとの戦い
HeraclesがEurytusを攻めたのは、Eurytusから貢納を強いられていたEuboeansからの要請であったとも伝えられる。[223]
しかし、この戦いは、Gyrtonの町のCoronusに加担したLapithsとの最後の戦いであった。これより前に、Heraclesとの戦いで居住地を追われたLapithsが、Eurytusのもとへ逃げ込んでいたと思われる。戦いは、これまでの戦い以上に激戦を極めた。
Heracles側では、Trachisの町のCeyxの子Hippasusや、Heraclesの母の腹違いの弟Licymniusの息子たちArgiusとMelasが戦死した。[224]
Eurytus側では、Eurytus本人とその息子たち、つまり、Toxeus、MolionおよびClytiusが戦死して、娘Ioleが捕虜になった。[225]
この戦いには、ArcadiansやTrachisの町のCeyx率いるMelians、それにEpicnemidian Locriansが参加したが、その他に、LydiansのCyliksも従軍していた。[226]
Epicnemidian Locrisの母市は、Heraclesの友人であるActorの子Menoetiusが治めるOpusの町であり、彼も遠征に参加していたと思われる。[227]
Menoetiusの子Patroclusは、まだ少年であったため、この戦いには参加していないが、Heraclesのお気に入りであったMenoetiusの子Abderusは参加していたと思われる。[228]
Heraclesは戦死者を埋葬すると、Oechaliaの町を出発してEuboea島北西端にあるCenaeum岬でZeusの祭壇を築いて生贄式を行った後で、Trachisの町へ帰還した。[229]

6 Heracleaの創建
Lydia地方からHeracles のもとへ来たCyliksは、Trachisの町から少し離れて、集団で住んでいたが、盗賊になって周辺住民を脅かした。Heraclesは彼らの居留地を破却し、Heracleaと呼ばれる町を創建して、彼らを町に住まわせた。[230]
Cyliks(Kylikranoi)はHeracleaの町に住み続け、112年後、HeraclesとOmphaleと間の子孫Hegeleosに率いられて、HeracleidaeのPeloponnesus半島への遠征に参加した。[231]

7 Heraclesの死
Heraclesは、少なくとも2度、Lydia地方のOmphaleのもとへ行く前と、最初のElis攻めのときに、重い病を患っていた。Heracleaの町を創建した後で、Heraclesは、死に至る病に襲われた。[232]
Heraclesは死に際して、長男Hyllusに、成人したらEurytusの娘Ioleと結婚するようにと遺言している。[233]
Hyllusは父の死後、父の命に従ってIoleを妻にして、息子Cleodaeusと娘Euaichmeが生まれた。[234]
Heraclesの最期の地は、Oeta山の近くのHeracleaの町であったと思われる。[235]
Heraclesに助けられたDoriansの王Aegimiusは、Heraclesに感謝して、長男Hyllusを養子にした。[236]
AegimiusがHeraclesの子供たちに施した配慮は、DoriansをPeloponnesus半島の支配者へと導くことになった。
Heraclesが死んだのは、BC1237年生まれのHyllusが成人する前であり、BC1224年のEurytusとの戦いの後であった。
AD2世紀の神学者Clemens of Alexandriaや、AD5世紀の神学者Jeromeは、Heraclesの享年を52歳と伝えている。[237]
BC1223年、Heraclesは52歳で死んだと推定される。
AD2世紀初期の歴史家Arrian of Nicomediaは、HeraclesとLaiusの子Oedipusと同時代だと推定しているが、彼らは、同じ年に死んだ。[238]

8 Heraclesの母Alcmena
Heraclesの死後、Alcmenaは孫Hyllusと共に、一時、生まれ故郷であるArgolis地方のMideaの町への帰還を果たすが、Heracleidaeと共にPeloponnesus半島から撤退する際にMegara地方で死去した。BC1214年、Alcmenaは78歳で死んだ。[239]
Alcmenaの埋葬場所を先祖の眠るArgosの町にするか、夫AmphitryonやHeraclesの子供たちの墓があるThebesの町にするかで争いが起きた。結局、Boeotia地方のOcaleaeの町にある、2度目の夫Rhadamanthysの墓の傍に葬られた。[240]
当時、Thebesの町はHeraclesが離縁したMegaraの父Creonが治めており、AmphitryonやHeraclesの子供たちの墓の傍には埋葬できなかった。[241]
BC4世紀になって、Alcmenaの墓はSparta王Agesilausの手でSpartaの町に改葬された。[242]
Alcmenaの墓には、Egypt文字に似た古代文字が書かれた青銅板があり、Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをCnidosの町のEudoxusに託して、Egyptの王Nectanabisに送った。Egyptの神官Chonuphisがその碑文を3日かけて解読した。[243]
その碑文には宗教的なことが書かれていた。その古代文字は、Rhadamanthysと共にCrete島からOcaleaeの町に移住した祭司が書き記したCretan hieroglyphsと思われる。[244]

9 Heraclesの人物像
少年時代のHeraclesは、容姿の美しい少年だけがなれる祭司に選ばれるほど容姿端麗で、体も並外れて大きく、力も強く、運動能力も他に抜きんでていた。[245]
AD2世紀の著述家Apollodorosは、Heraclesが13歳の時に、身長は 4 cubits(約185cm)あったと伝えている。[246]
しかし、BC5世紀の抒情詩人PindarやBC4世紀の哲学者Dicaearchusは、Heraclesは背が低かったと伝えている。[247]
また、HieronymusやBC4世紀の哲学者Dicaearchusは、Heraclesは、色黒で屈強な体に、鉤鼻と鋭い眼光をした、長くてまっすぐな髪の持ち主であったと伝えている。[248]
大衆向けに誇張された伝承とは異なり、Heraclesには凶暴性や残忍性がなく、慈悲の心を持っていた。
Amphitryonを失ったMinyansとの戦いでのErginusや、Iphiclesを失ったElisとの戦いでのAugeasに対する処遇で、それが示されている。[249]
さらに、Heraclesは野心家ではなかった。もし、Heraclesが人並みの野心を持ち合わせていたならば、Greece全域を支配下に置いていたと思われる。Eurystheusは、Heraclesに野心がないのを見抜いており、Heracles存命中は行動を起こさなかった。しかし、息子たちの代になって、立場が逆転しないように不安の芽を摘み取ろうとして、Heraclesの息子たちを攻撃した。[250]
Heraclesは、EurystheusをPerseusの正当な後継者と認めて、その権威に逆らわないように気を遣っていた。EurystheusもElisの町からのHeraclesの身柄引き渡し要求にも応ぜず、彼を庇うように、Tirynsの町から出て行かせた。[251]
ただ、その後のHeraclesの活躍についてはEurystheusも予期していなかったようであり、次第に危機感が増してきたものと思われる。[252]
また、Heraclesには支配欲がなかった。他を支配するために戦いをしたことがなかった。理不尽な理由で地位を追われた者や、不当に攻められている者の頼みを聞き入れて、彼らに味方した。Heraclesは、道の安全な通行を脅かされていた人々の声を聞き、公共の秩序を回復することに全力を尽くした。
HeraclesがLydia地方にいた3年の間に、Greeceでは悪が栄え、悪事が蔓延していたと伝えられる。[253]
Heraclesは、死後、神々の列に加えられ、多くのHeraclesの息子と称される者たちが登場したのもHeraclesの当時からの評判が如何に絶大であったかを物語っている。

10 Heraclesの実像を伝える古代史料
Heraclesが登場する古代史料には、荒唐無稽な作り話が多い中で、Heraclesの生涯を詳しく、時系列に沿って伝えているのは、BC1世紀中期の歴史家Diodorus Siculusである。
彼の引用元は、Heraclesへの賛歌を書いたThebes人、Matrisであった。[254]

11 最後に
Heraclesを神話上の人物で、実在しなかったと考える人も多いが、私は、歴史上の人物だと思っている。
これまで見て来たように、Heraclesの生涯は、年単位で追跡することができる。
Athens王Theseusや、他の多くの人物の伝承と突き合わせても、矛盾するところがない。

End