第9章 ヘラクレイダイの帰還(BC1215-1074)

home English
Create:2019.3.30, Update:2024.3.1

1 はじめに
1.1 歴史上の出来事
Heracleidae (Heraclesの子孫)に率いたDoriansがPeloponnesusに侵入して、それまでの住人を追い出したのは、後代に作られた物語だという説もある。
しかし、BC5世紀の歴史家Herodotusは、HeracleidaeがPeloponnesusへの帰還を試みて、Heraclesの子Hyllusが戦死したと記している。[1]
また、Herodotusは、DoriansがDryopis地方からPeloponnesusへ移動して、Arcadians以外のPeloponnesusの住人を追い出したとも述べている。[2]
BC5世紀の歴史家Thucydidesは、Troy陥落の80年後に、DoriansとHeracleidaeがPeloponnesusを占領したと記している。[3]
BC4世紀の弁論家Isocratesは、DoriansがPeloponnesusに侵入して、正当な所有者から土地を奪って、3つに分割したと述べている。[4]
Isocratesの弟子であるCymeのEphorusは、古い神話の物語をやり過ごして、Heracleidaeの帰還後に起こった出来事を語ることから、彼の歴史の記述を始めた。[5]
Ephorusは、彼の『歴史』の第1巻で、HeracleidaeのPeloponnesus帰還を記している。[6]
つまり、古代の歴史家は、Heracleidaeの帰還は、歴史上の出来事として認識していた。

1.2 invasionからreturnへの変化
BC2世紀の歴史家Polybiusは、「invasion of the Heracleidae」と記述している。[7]
しかし、Polybius以降の古代の歴史家は、「return of the Heracleidae (Heraclids)」(?πιστροφ? τ?ν ?ρακλειδ?ν)という語句を使用している。
BC1世紀の歴史家Diodorusは、10回。
AD1世紀の地理学者Straboは、12回。
AD2世紀の紀行作家Pausaniasは、9回。
AD2世紀の著述家Apollodorosは、1回。
AD2世紀の雄弁家Aelius Aristidesは、1回。
AD2世紀の風刺作家Lucian of Samosata(in Syria)は、1回。
AD4世紀の歴史家Eusebiusは、4回。
AD2世紀初期の著作家PlutarchやAD2世紀の弁論家Dio Chrysostomは、DoriansとHeracleidaeがPeloponnesusに移住したと述べている。[8]

2 HeraclesとEurystheusの関係
2.1 良好な関係
Argolis地方のTirynsの町を治めていたHeraclesの父Amphitryonは、Thebesの町のSparti (恐らく、祖父Menoeceus)から招かれて、Thebesの町へ移住した。[9]
BC1275年にHeraclesが生まれ、Minyansの王Erginusとの戦いに勝利するなど、Heraclesの名を周囲に知らしめた。[10]
Amphitryonの父Alcaeusの兄弟Sthenelusの子Eurystheusは、Heraclesと同じ年の生まれであり、Argolis地方のMycenaeの町の王であった。[11]
Eurystheusは、Heraclesを父の旧領Tirynsの町へ呼び寄せ、Elisの町のAugeasを攻めさせるが勝敗はつかず、Heraclesは異母兄Iphiclesを失った。[12]
HeraclesはAugeasの将CteatusとEurytus兄弟を襲撃して殺害した。[13]
Elisの町はEurystheusにHeraclesの身柄の引き渡しを要求し、Eurystheusは、HeraclesをTirynsの町から出て行かせた。[14]

2.2 関係の変化
HeraclesはArcadia地方のPheneusの町に転居し、Centaursとの戦いで、Arcadiansを味方につけて勢力を増した。その後、Heraclesは、Elisの町、Pylusの町、Spartaの町、そして、Amyclaeの町を立て続けに攻略した。Heraclesは、Peloponnesus半島内のEurystheusの支配地域以外のほぼ全域に影響力を持つほどになった。[15]
このHeraclesの勢力拡大に対して、Eurystheusは危機感を募らせ、彼の妻の祖父で、Arcadia王Lycurgusを通して、HeraclesにPheneusの町から退去させた。Heraclesは、Peloponnesusから海を隔てて北に位置するAetolia地方のCalydonの町に移り住んだ。[16]
Calydonの町でも攻撃を加えてきたAchelousを撃退し、さらに、Thesprotia地方のEphyraの町を攻め落として活躍した。[17]
しかし、Calydonの町も3年しか住まずに、親友Ceyxが治めるThessaly地方のTrachisの町(Lamiaの南17km、現代のIraklia)へ移住した。[18]

3 EurystheusとHeracleidaeとの戦い
3.1 TrachisからAthensへの移住
BC1223年、Heraclesが死んだ。その後、Hyllusをはじめとして、Heraclesの息子たちが次々と成人すると、Mycenae王Eurystheusは、彼らに脅威を感じるようになった。[19]
Eurystheusは、CeyxにHeraclesの子供たちを追い出さなければ武力に訴えると脅した。[20]
AD2世紀の雄弁家Aelius Aristidesは、Eurystheusが、当時、絶大な勢力を誇っていたと伝えている。[21]
Ceyxは、Heraclesの子供たちをTrachisの町から出て行かせた。[22]
Heraclesの子供たちは、Athensの町に受け入れられた。HeracleidaeはMarathonの町の北東5kmにあるTricorythus (or Trikorynthos)の町に住んだ。[23]
Tricorythusの町は、近くのMarathonの町と共に、湿地帯であった。[24]
当時のAthens王Theseusの妻の一人Iopeは、Heraclesの子供たちの後見人であるIolausの妹であり、TheseusとIolausは義理の兄弟であった。また、TheseusもHeraclesも、ともにPelopsを曽祖父とし、TheseusがHeraclesを敬愛していたため受け入れられたと思われる。[25]
当時、HeraclesやIolausの故郷でもあるThebesの町では、彼らの親族Creonが実権を握っていた。HeracleidaeがThebesの町を移住先に選ばなかったのは、Creonの娘MegaraをHeraclesが離縁したことが原因であったと思われる。[26]

3.2 Eurystheusの死
BC1217年、Eurystheusは自ら大軍を率いてAthensの町へ侵攻した。Heracleidaeは、Iolausを指揮官とし、Athens王Theseusの援助を得て、Eurystheusと戦った。Eurystheusと5人の息子たち、Alexander、Iphimedon、Eurybius、Mentor、Perimedesは戦死した。[27]
Hyllusは初陣であったが、当時、50歳と推定されるIolausは叔父Heraclesと数々の遠征をともにした歴戦練磨の勇士であった。
IolausはEurystheusの頭部を切断して、Tricorynthusの町に埋葬した。[28]
安住の地から何度も追いやられたIolausのEurystheusに対する憎しみの表れであろう。[29]

4 第1回目の帰還
BC1215年、Heracleidaeは、Eurystheusとの戦いの後、Hyllusを指揮官として、Corinth地峡を通って陸路でPeloponnesus半島に入った。[30]
Heracleidaeは、Heraclesの母Alcmenaや彼女の弟Licymniusが幼少期を過ごしたMideiaの町に居住した。[31]
このときの帰還は、Peloponnesus半島全域にわたるものではなかった。Eurystheus亡き後、手薄になったArgolis地方に入ったが、城壁を備えたArgosの町や、Mycenaeの町へは入ることができなかった。
翌年、Hyllusは撤退を決断した。
撤退の原因は、悪疫が発生したためであったという伝承もある。[32]
実際は、まわりを敵に囲まれ、糧食の確保にも事欠き、莫大な富の力で、次第に勢力を回復してくるMycenaeの町を恐れたからであったと思われる。
あるいは、Heracleidae内部の不和が原因であったかもしれない。
HeracleidaeがPeloponnesusから撤退した後で、Heraclesの子Tlepolemusと、Heraclesの母Alcmenaの弟Licymniusは、Mideiaの町に引き続き残った。[33]
しかし、Licymniusが死に、Tlepolemusは、父の旧領Tirynsの町から移住を希望する人々を率いて、Lernaの海岸からRhodes島を目指して船出した。[34]
Heracleidaeの撤退時、Heraclesの母Alcmenaは、Megara地方のOlympieumの近くで死去した。享年78歳と推定される。[35]
Alcmenaは、Boeotia地方のOrchomenusの町とThebesの町の中間にあるHariartosの町にあるRhadamanthysの墓の傍らに埋葬された。[36]

5 第2回目の帰還
BC1211年、Heracleidaeは、Hyllusを指揮官として、再び、Corinth地峡を通って陸路でPeloponnesusへ進出しようとした。
Eurystheusの死後、Mycenaeの王権を引き継いだAtreusがTegeatans、Achaeans、Ioniansを引き連れてIsthmusで待ち受け、両軍が対峙した。[37]
Achaeansは、Tyndareus支配下のLacedaemonの住人とArgolis地方の住人たちであった。
この時、Hyllusは、Tegeaの町のEchemusと一騎打ちをして、敗れて死んだと伝えられている。[38]
しかし、実際は、激しい戦いがあり、総大将Hyllusが戦死して、Heracleidaeが敗退したというのが史実と思われる。
Pausaniasは、Hyllusの遺体がMegaraに葬られたと記している。[39]
これは、戦いの場所に合わせた作り話と思われる。少し前に、同じMegaraで死んだAlcmenaの遺体はBoeotiaに葬られている。[40]
恐らく、Heracleidaeは戦いに敗れて、戦死者の遺体を残して、敗走したと思われる。
この戦いでHeracleidaeに味方して遠征に参加したAtheniansにも戦死者が出て、Heracleidaeは、Tricorythusの町に住み続けることができなくなった。
Heracleidaeは、Doris地方のAegimiusのもとへ行き、Aegimiusから土地と住人を分け与えられた。[41]
この時、Heracleidaeと共にDoris地方へ行かずに、Attica地方に残った者もいた。
HeraclesとPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusは残留して、Athensの名祖の一人になった。[42]
HeraclesとDeianeiraとの間の娘Macariaは、Theseusの子Demophon(or Demophoon)と結婚して、第13代Athens王Oxyntesを産んだ。[43]

6 第3回目の帰還
6.1 Pausaniasの記述
Heracleidaeの第3回目の帰還があったと記している古代史料はない。
唯一、AD2世紀の地理学者Pausaniasは、Messenia地方の記述の中で、手がかりを記している。Pausaniasは、「HyllusとDoriansがAchaeansに打ち負かされたとき、Heraclesの子Glenusの乳母AbiaはIreの町に逃れて、そこに住みついた。」と記している。[44]
Hyllusが率いた遠征軍の中に、Doriansはいなかった。
HyllusがHeracleidaeを率いたのは、Doriansの地に行く前であった。
仮に、Hyllusが率いた遠征軍の中に、Doriansが含まれていたとしても、第1回目は、Achaeansに敗れた訳ではなく、第2回目は、Peloponnesusに入ることがなかった。
つまり、Pausaniasの記述は、Hyllusによる第1回目、あるいは、第2回目の遠征の記述ではない。

6.2 Hyllusの子Cleodaeus
Pausaniasの記述中のHyllusが、Hyllusの子Cleodaeusであれば、理解できる記述となる。Heraclesの死の少し前に生まれたGlenus (or Gleneus)の乳母が参加できる遠征軍を率いたのは、Hyllusの子Cleodaeusであったと思われる。Cleodaeusの英雄廟がSpartaの町にあり、彼は何らかの功績があった人物と思われる。[45]
Hyllusの死後、彼の息子Cleodaeusは、Doris地方のPindusの町に住み、Doriansの3部族の一つHylleisの王になった。[46]

6.3 Cleodaeusの遠征
BC1173年、Mycenaeの町のAtreusの孫Agamemnonが死んだ。[47]
Cleodaeusは、Doriansを率いてPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[48]
近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[49]
Cleodaeusは、TirynsやMideaの町も破壊して、Argosの町を占拠した。[49-1]
Agamemnonの跡を継いだ、彼の息子Orestesは、Mycenaeの町からArcadia地方のTegeaの町へ移住した。[49-2]
その後、Orestesは軍勢を集めて、Argosの町を占拠していたDoriansを追放した。
Cleodaeusは、無事にDoris地方のPindusの町へ帰還したようであり、その後、彼には息子Aristomachusが生まれた。[49-3]

6.4 Cleodaeusの長男
しかし、Cleodaeusの長男を含む一部の人々は、Doris地方へ帰還できずに、Peloponnesusに残留した。彼らは、Messenia地方のIreの町に逃げ込んで、その地に定住した。
最終帰還時、Heracleidaeが最初の目的地をMessenia地方としたのは、残留した同胞との合流が目的でもあったと思われる。[49-4]
後にMessenia地方を獲得したAristomachusの子Cresphontesに対して反乱を起こした、「真の」Heracleidaeと称するPolyphontesは、Cleodaeusの長男の息子か孫と思われる。[49-5]
「真の」という意味は、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusの正当な継承者という意味であったと思われる。
系図を作成するとCleodaeusとAristomachusの年齢差は、50歳であり、Aristomachusには、複数の兄たちがいたと思われる。[49-6]

7 第4回目の帰還
第4回目の帰還があったと思わせる古代史料の中の記述には、つぎのものがある。
1) Orestesの子Tisamenusの時代に、Heracleidaeが帰還を試みて、Aristomachusが死んだ。[50]
2) Cleodaeusの子Aristomachusは、神託の解釈を誤まって、Peloponnesusへの帰還に失敗した。[51]
3) Trojan Warから60年後のHeracleidaeの帰還の頃に、PenthilusがAsia Minorへ遠征した。[52]

Trojan Warから60年後、Orestesの子Penthilusや、Dorusの子CleuesとMalausの移民団は、Asia Minorへ植民活動をした。この時、CleuesとMalausの遠征隊は、Locris地方やPhricium山付近で長い間時を過ごして、Penthilusより遅れて海を渡った。[53]
CleuesとMalausはAgamemnonの曾孫であり、Heracleidaeの最大の敵であるOrestesの子Tisamenusの親族であった。彼らはAristomachusの動きを知って、事の成り行きを見ていたものと推定される。[54]
当時、AristomachusらHeracleidaeの居住地とMalausらの居住地は、直近の位置にあったが、Penthilusが出発したAulisからは直線距離で、100km以上離れていた。
Agamemnonの曾孫たちがAsia Minorへ移民団を率いたのは、Thessaly地方のArneの町にいたBoeotiansが、Boeotia地方へ帰還したのと同じ頃であった。[55]
Thucydidesによれば、Boeotiansの帰還は、Troy陥落後60年目であった。[56]
Boeotiansの帰還は、Cadmus時代からThebesの町に住んでいたCadmeansの移住にも繋がった。彼らは、Tisamenusの子Autesionに率いられて、Doris地方に住んでいたAristomachusのもとへ移住した。[57]
恐らく、Autesion率いるCadmeansの移住は、AristomachusにPeloponnesusへの遠征を決断させた直接の原因であったと思われる。
したがって、Trojan Warから60年後にもHeracleidaeのPeloponnesus半島への遠征があり、それを率いたのは、Cleodaeusの子Aristomachusであった。
BC1126年、Aristomachus率いるHeracleidaeは、第4回目となるPeloponnesusへの帰還を試みたが、失敗した。

8 第5回目の帰還年の推定
8.1 MelanthusのAthens王即位年
第5回目となるPeloponnesusへの帰還が行われた年を推定する上で重要になるのは、Heracleidaeに追放たMelanthusがMessenia地方からAthensの町へ移住した年である。[58]
AD4世紀の歴史家Eusebiusの年代記に記されたAthens王たちの統治年数を信用するならば、MelanthusのAthens王即位は、BC1132年であった。[59]
この頃に、第5回目の帰還があったのであれば、Troy陥落から54年後である。
BC2世紀の文法学者AthensのApollodorusやBC1世紀の年代記作者RhodesのCastor、さらに、BC5世紀の歴史家Thucydidesは、Heracleidaeの帰還をTroy陥落から80年後であったと記している。[60]
これは、MelanthusがAthens王に即位した年と、26年の差がある。
Eusebiusは、Castorからの引用で、初代のAthens王Cecropsから第15代Thymoetesまでの合計の統治期間を450年間と記している。しかし、王たちの統治期間の合計は、429年であり、合計と21年の差がある。[61]
その21年は、MelanthusのMessenia王としての統治期間であったと推定される。
Castorによれば、ThymoetesとMelanthusのAthens王としての統治期間は、8年と37年であった。実際のAthens王としての統治期間は、Thymoetesが29年、Melanthusが16年であったと思われる。
したがって、MelanthusのAthens王即位は、BC1111年のことになる。

8.2 Heracleidaeの生没年の推定
Melanthusの即位年に基づいて、主なHeracleidaeの生没年を推定するとつぎのようになる。
Cleodaeusの子Aristomachus (64) (BC1176 - 1126)
Aristomachusの子Temenus 34 (BC1146 - ?)
Aristomachusの子Temenusの子Ceisus 15 (BC1127 - ?)
Aristomachusの子Temenusの子Phalces 13 (BC1125 - ?)
Aristomachusの子Cresphontes 24 (BC1136 - ?)
Aristomachusの子Aristodemus (36) (BC1148 - 1115)
Aristodemusの子EurysthenesとProcles 4 (BC1116 - ?)
※ 数字は、BC1112年の渡海時の年齢。( )は、渡海時に生きていた場合の年齢。

この推定の根拠となるものは、つぎのとおりである。
1) AristodemusはAristomachusの長男であったと思われる。Aristodemusの息子たちは、Hylleisの王権を継承したと思われる。[62]
2) Temenusの長男は、Ceisusであった。[63]
3) Temenusには、Sicyonの町の統治者となる息子Phalcesがいた。[64]
4) Cresphontesのみ、帰還時に独身であった。[65]
5) Aristodemusには、幼い息子たち、EurysthenesとProclesがいた。[66]

9 第5回目の帰還(最終帰還)
9.1 渡海前の状況
伝承では、「3つ目の男を案内に使うべし」という神託により、Temenusが、偶然Oxylusを見つけたことになっている。[67]
しかし、Oxylusは、Temenusの父Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子であった。[68]
Oxylusの先祖は、Elisの町からAetolia地方へ移住したEndymionの子Aetolusであった。TemenusがOxylusを探し出したのではなく、Temenusの遠征を知って、先祖の地への帰還を希望していたOxylusが遠征に参加したのだと思われる。
Temenusは、Aetolia地方から海峡を渡ってPeloponnesus半島へ上陸することを決定して、Ozolian Locris地方の西の外れで、艦隊の建造に着手した。[69]
建造場所は町になり、Naupactusと呼ばれるようになった。[70]

9.2 Aristodemusの死
この遠征の準備中に、Temenusの兄弟Aristodemusが、Tisamenusの従兄弟MedonとStrophius兄弟によって、Delphiで殺害されたという伝承がある。[71]
しかし、Aristodemus率いる遠征軍がPeloponnesusへの帰還を果たす前に、Boeotia地方を進軍したという伝承もある。[72]
恐らく、Temenus率いる遠征の前に、Aristodemus率いる遠征があったと推定される。
Aristodemusは、Corinth地峡を目指して、率いる遠征Boeotia地方を進軍中に、MedonとStrophius兄弟によって殺されたと思われる。
この兄弟は、Agamemnonの娘ElectraとStrophiusの子Pyladesとの息子たちで、Strophiusは、父Pyladesの跡を継いで、Delphiの近くにあるCirrhaの町に住んでいた。[73]
兄弟は、HeracleidaeのPeloponnesus帰還を阻止するため、Aristodemusを殺したものと思われる。

9.3 妨害工作
Naupactusの町に預言者Carnusが現れ、敵の回し者とみなしたHeraclesの子Antiochusの子Phylasの子Hippotasがこの預言者を殺害した。この出来事の後、船の破壊や飢饉が襲い、Temenusが集めた軍は解散状態となり、Temenusは、Hippotasを10年間の追放処分にした。[74]
Hippotasに殺された預言者Carnusは、Argosの町からAcarnania地方へ移住したAmphiarausの子Alcmaeonの孫と思われる。[75]
追放されたHippotasの息子Aletesは、後にHeracleidaeと再び合流して、Corinthの町の支配者となった。[76]
Hippotasの祖父Antiochusは、Athensの町の10部族のひとつ、Antiochis部族の名祖であった。[77]
伝承では、以上のように伝えられているが、艦隊の壊滅は、預言者の殺害が原因ではなく、Orestesの子Tisamenusの妨害工作であったと思われる。
BC1113年、艦隊の再建造が終わり、Temenusは、翌春、遠征を開始することを参加者に伝達した。

9.4 遠征への参加者
9.4.1 Heracleidae
Hyllusの子Cleodaeusの子Aristomachusの息子や孫たちの他に、少なくとも次のHeracleidaeが遠征軍中にいた。

9.4.1.1 Delphontes
Delphontesは、Heraclesの子Ctesippusの子Thrasyanorの子Antimachusの息子であった。
Heraclesの息子にDeianiraを母とするCtesippusと、Amyntorの娘Astydamiaを母とするCtesippusがいる。
Heracleidaeを率いたTemenusは、Delphontesを自分の息子たちより信頼していたと伝えられることから、Ctesippusの母は、Deianiraと思われる。[78]

9.4.1.2 Hegeleos
Hegeleosは、HeraclesとLydia地方のOmphaleとの間の息子Tyrrhenusの子孫であった。[79]
Hegeleosは、DoriansにSalpinxを伝授した。笛吹き兵が先導するSparta軍のスタイルは、Heracleidaeの帰還時に確立されたものと思われる。[80]

9.4.2 Dorians
Temenusの遠征軍の中には、多くのDoriansがいた。かつて、HeraclesがDoriansの王Aegimiusを助けたお礼に、AegimiusはHeraclesの死後、Heraclesの長男Hyllusを養子にし、Aegimius死後、Doriansの王権はHyllusおよびその子孫に継承され、Temenusは、Doriansの3部族の一つHylleisの王であった。[81]
Doriansは、古くはDeucalionの子Hellenの子Dorusの時代には、Thessaly地方のOssa山やOlympus山近くのHistiaeotisと呼ばれる地方に住んでいたが、Thrace地方から南下したThraciansやCadmus率いる移民集団に追われて、Parnassus山とOeta山の間のDryopia地方へ移住した。[82]
その後、Histiaeotis地方に残っていたDoriansもLapithsから圧迫を受け、Heraclesの援助を受けるなどしていたが、Trojan Warで手薄となったThessaly地方に侵入したThesprotiansによって追い出されてDryopia地方へ大挙して移住していた。[83]
the Tetrapolis of the Dorians、つまり、Pindus、Boeum、Kitinium、Erineumに居住し、3つの部族、Hylleis、Pamphyli、Dymanesに分かれたDoriansがHeracleidaeに従っていた。[84]

9.4.3 Ionians
Heracleidaeがかつて居住していたAttica地方のIoniansも遠征に参加していた。
Ioniansは、Corinth湾を渡る前にNaupactusの町でTemenusの軍に合流したものと思われる。[85]

9.4.4 Lydians
Heracleidaeの始祖Heraclesの遠征には、Kylikranoiと呼ばれるLydiansが同行していた。Temenusの軍中にも、彼らの子孫のLydiansが、HeraclesとOmphaleの子孫Hegeleosに率いられて、参加していた。[86]

9.4.5 Arcadians
Heraclesの死後も、Heraclesに付き従って遠征したArcadiansがTrachisの町に残っていた。[87]
彼らの後裔は、その後も、Heracleidaeのもとにいたと思われる。
Heracleidaeが最初にArcadia地方へ向かったのは、彼らの同胞から味方を得ることであったと推定される。

9.4.6 Cadmeans
BC1126年にTisamenusの子Autesionに率いられて、Thebesの町からDoris地方へ移住したCadmeansも遠征に参加していたと思われる。[88]
Autesionの子Therasは、Aristodemusの息子たちの後見人であった。[89]

9.5 渡海の状況
BC1112年、Temenusは、HeracleidaeとDoriansを率いて、Dryopia地方を出発した。[90]
Temenusは、Aetolia地方との境に近いOzolian Locris地方のNaupactusの町に到着した。[91]
そこから、Temenusは、Oxylusの案内で、Aetolia地方とLocris地方の境にある町Molycriumの港まで艦隊を回航し、渡海の準備をした。[92]
Temenusの艦隊は、Molycriumの町近くのAntirrhium岬から、3kmほど先にある対岸のPeloponnesus半島のRion岬を目指した。[93]
Temenusの艦隊は、Tisamenus側の船から妨害されながらも、Achaia地方のRion岬に上陸した。[94]
BC2世紀の歴史家Polybiusは、HeracleidaeがCorinth地峡を通らず、Rion岬に向かった場合、LocriansはTisamenusに連絡するという協定を交わしていたと伝えている。
Locriansは、HeracleidaeがRion岬に向かっているのを知りながら、Tisamenusに知らせなかったので、Tisamenusは予防策を講じなかったという。[95]

9.6 Arcadia進軍
Rion岬に上陸したTemenusは、Oxylusの案内で、Achaia地方の海沿いを東進し、Aigeira (or Aigai)の町から南へ進路を変えてArcadia地方のPheneusの町へ向かった。[96]
Achaia地方のAegiumの町やHeliceの町は、Trojan War以前からMycenaeの町の勢力下であったが、Temenusは無事に通過した。後に、Achaia地方の住人は、Tisamenus率いるAchaeansとの共住を拒否したことから、当時は、Mycenaeの町の支配下ではなかったと思われる。[97]
Pheneusの町は、Heraclesが5年間居住し、ElisやPylus、Spartaの町を攻略するための拠点にした町であった。Heraclesの遠征に参加したPheneusの町出身のArcadiansの子孫も、Heracleidaeの遠征に多数参加していたと思われる。[98]
Pheneusの町では、Heracleidaeの侵攻を恐れたArcadia王CypselusがTemenusを待ち受けていた。Arcadiansは、Heracleidaeにとっては、Heraclesの子Hyllusの仇であった。Cypselusは、Heracleidaeに許される筈がないと思って、Temenusに彼の娘MeropeをCresphontesに嫁がせたいと申し出た。[99]
Temenusは、Arcadiansの遠征協力を条件に、彼の弟CresphontesとCypselusの娘Meropeとの結婚を許した。[100]
元来、Arcadiansは、Heraclesに協力していて、敵対したことのない種族であったことが、この寛大な処置の要因であった。[101]

9.7 Messenia侵攻
Hyllusの子Cleodaeusが、第3回目のPeloponnesus帰還を試みて、Achaeansに敗れた人々がMessenia地方のIreの町に逃げ込んで、その地に定住していた。HeracleidaeがMessenia地方を最初の目的地に選んだのは、第3回目の遠征で残留した同胞との合流が目的であったと思われる。[102]
BC1111年、Temenusは、Arcadia地方のTrapezusの町を出発してMessenia地方へ入った。[103]
当時、Messenia地方は、Melanthusの支配下にあった。[104]
Melanthusは、Heraclesとの戦いで死んだNeleusの長男Periclymenusの子Penthilus(or Borus)の子Borus(or Penthilus)の子Andropompusの子であった。[105]
MelanthusとHeracleidaeとの間に戦いがあったかどうかは不明であるが、Melanthusは、Athensの町へ移住した。[106]
Nestorの子孫たち、つまり、AlcmaeonやPeisistratus、それにPaeonの子供たちもAthensの町に移住した。[107]
Alcmaeonは、Athensの町のAlcmaeonidae、Paeonの子供たちは、Paeonidaeと呼ばれる氏族の祖となった。[108]
Peisistratusの子孫で、Hippocratesの子Peisistratusは、BC6世紀のAthensの町の僭主となった。[109]

9.8 MelanthusがAthensを移住先にした理由
AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、Cecropsに始まるAthens王を列挙している中で、「ThymoetesはMelanthusの父であった」と述べている。[110]
また、Pausaniasは、Melanthusの母も妻もAtheniansであったと記している。[111]
これらのことから、Melanthusの妻は、Thymoetesの娘であったと推定される。
系図を作成すると、移住時のMelanthusは50歳を超えており、Melanthusの跡を継いだ息子Codrusも30歳を超えている。Thymoetesは、娘婿にAthens王を継がせたものと思われる。
Melanthusの母Heniocheの父Armeniusの父Zeuxippusは、Thessaly地方のPheraeの町からTroy遠征に参加したEumelusの息子であった。
Eumelusが遠征中のThessaly地方にThesprotiansが侵入して、Thessaly地方に住んでいた人々は、penestaiと呼ばれる彼らの農奴になるか、居住地を追われた。[112]
BC4世紀の歴史家Ephorusは、Athensの町には「移住を望むHellasは歓迎すべし」という慣例があったと述べている。[113]
Atheniansは、Thesprotiansに追われて、逃れて来たIxionの子Peirithousの後裔を移住者として受け入れ、Perithoedaeという地区を割り当てた。[114]
Pheraeの町に住んでいたEumelusの子Zeuxippusも、Atheniansに受け入れられてAthensの町に住んでいたと推定される。[115]
つまり、MelanthusがAthensの町を移住先に選んだのは、その町が彼の母や妻の出身地であったからであった。

9.9 Argos侵攻
BC1110年、Temenusは、Messenia地方を獲得した後で帰還させていたArcadiansとTrapezusの町で再合流して、Tegeaの町を通ってArgosの町へ向かった。
Argolis地方へ入り、ここで、初めてTisamenus率いるAchaeansと会戦した。[116]
Tisamenusは敗れてArgosの町へ退却して籠城した。Temenusは、Argosの町の南南東約6kmにあり、Argolis湾の近くのTemeniumの町に砦を築いてArgosの町を攻囲した。[117]
Heracleidaeは、艦隊でArgolis地方沿岸部の町を攻略しており、砦を築いたTemeniumの町は海からの補給に最適であった。[118]

9.10 Argos入城
Argolis地方のMycenaeの町やTirynsの町と同じように、Argosの町も城壁を備えており、攻囲戦は長期化した。[119]
攻城兵器のなかった当時は、兵糧攻め以外に城壁を備えた町を攻略する手段はなかった。
Tisamenusとの戦いが、こう着状態の中、Temenusは、彼の息子Phalcesに軍の一部を率いさせて、Sicyonの町の攻略に向かわせた。Sicyon王Lacestadesは、Heraclesの子Phaestusの子Rhopalusの子Hippolytusの息子であり、Heracleidaeの一人であったため、戦わずに共同で統治することになったという。しかし、Phaestusは、Mycenaeansに追い出されることもなく、Heracleidaeに協力することもなかったことから、Heraclesの息子ではないと思われる。[120]

Temenusは、Tisamenusに対してArgosの町の領有権を主張して、TisamenusはArgosの町からSpartaの町に移った。[121]
おそらく、Tisamenus側の糧秣が尽きる寸前であったことと、ArgivesがArgosの町の占領者の子孫ではなく、Argosの町の建設者の子孫を支持したからと思われる。[122]
当時、Argosの町に住んでいたTydeusの子Diomedesの後裔Erginusが、Argosの町にあった都市の守護神Palladium神像を盗み出して、Temenusに協力したという伝承もある。[123]
BC1107年、TemenusはArgosの町に入城した。

9.11 Sparta入城
BC1106年、Temenusは、Spartaの町攻略のためArgosの町を出発した。[124]
Tisamenusは、会戦を挑むだけの兵力もなく、Spartaの町に籠城し、TemenusはSpartaの町を攻囲した。Tisamenusの軍にはArgivesがいなくなり、Achaeansだけが残っていた。
Spartaの町を攻囲中、Heracleidaeは、Perseusの末子Heliusが建設したLaconia湾岸のHelosの町を包囲して降伏させた。降伏して捕虜となったHelosの住民は、Helotsと呼ばれる公共の奴隷にされた。[125]
Heliusは、Helosの町を創建後、Heraclesの父Amphitryonと共にTeleboansの地へ遠征し、その地へ移住していた。Helosの町の住民は、Thessaly地方から移住したAchaeansであったと思われる。[126]
Heracleidaeは、Philonomusなる者に見返りを約束して、Tisamenusの説得に当たらせ、Philonomusは、TisamenusにAchaia地方への移住を決断させることに成功した。[127]
このPhilonomusは、Athensの町からLemnos島へ移住したPelasgiansに追われて、Lemnos島からLacedaemonへ移住して来たMinyansの一人であった。[128]
Tisamenusは、Temenusと休戦して、Peloponnesus半島北部のAchaia地方へ移住した。[129]
Heracleidaeの案内役をしていたOxylusが、TemenusからElisの町領有の約束を得て、Aetolia地方に向けて、Spartaの町を出発したのは、この頃であったと推定される。それまで、Oxylusは、Argosの町を退去したTisamenusが、Eleia地方へ行かないか注視していたものと思われる。[130]
TisamenusがAchaia地方を移住先に選んだのは、つぎのような理由であったと思われる。
1) Achaia地方は、Trojan Warの前からMycenaeの町の支配下にあった。
2) Achaia地方には、有力な支配者がいなかった。
Oxylusが危惧したように、Tisamenusの先祖Pelopsが住んでいたEleia地方も選択肢の一つに挙がったと思われる。しかし、Eleia地方は、上記の理由に反していたことから移住先にならなかったものと推定される。[131]
この時、Tisamenusとともに移住したのは、Laconia地方からArgolis地方にかけて広く居住していたAchaeansと呼ばれる人々であった。古くから、その地方に住んでいたLacedaemoniansやArgivesは、そのまま住み続けたと思われる。[132]
後のSparta王Agisは、Lacedaemon王Amyclasの子孫であるPreugenesの子Patreusが、Tisamenusらが移住したAchaia地方にPatraeの町を建設するのに協力した。[133]
また、Lacedaemoniansは、Penthilusの子Echelasの子Grasの植民活動を支援した。
[134]

9.12 OxylusのElis領有
BC1105年、Oxylusは、Aetoliansを率いてElisの町に進軍し、当時のElis王Diusに王権を譲るよう迫るが、Diusは譲らず、両軍の代表者の一騎打ちで決めることになった。Dius側の弓兵とOxylus側の投石兵による戦いは、投石兵が勝ち、OxylusはElisの町の王権を手にした。[135]
まるで史実であるかのように、一騎打ちをした両者の名前も伝えられているが、作り話と思われる。Oxylusは、Elisの町の王権を受け取ることのできる次のような理由があった。
1) Oxylusは、BC1330年頃、Aeolusの子Salmoneusに追われてAetolia地方に移住したElis王Aetolusの6代目の子孫であった。
2) Oxylusは、Peloponnesusの大部分を占領したHeracleidaeと血縁関係があった。
Oxylusは、それまでのElisの町の住民であるEpeiansは、そのまま居住することを許し、新たにAetoliansを入植させて共住させた。[136]
後年、Oxylusは、Achaia地方のHeliceの町からOrestesの曾孫AgoriusをElisの町に迎えたというが、Olympiaの管理を巡って、Pisaの町との対立があったと思われる。[137]

9.13 領土の割り当て
BC1104年、Heracleidaeの帰還は、一部を除き完了し、それぞれの領土の割り当てが行われた。[138]
TemenusはArgosの町を、CresphontesはMessenia地方を、Aristodemusの息子たちは、Lacedaemonを領有することになった。この割り当ては、籤引きで決めたと、多くの伝承が記している。[139]
しかし、年長のTemenusが父祖の地Argosの町を獲得し、Arcadia王の娘を妻にしているCresphontesが、豊かなMessenia地方を獲得したと考えられる。
まだ幼い、Aristodemusの息子たちには発言権はなかった。
伝承では、Aristodemusの息子たちの後見人Therasが発言しているが、彼にも発言権はなかった。
Therasの父Autesionは、Thebes王であったが、Thessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansによって追放されて、Doriansのもとへ身を寄せた亡命者であった。[140]

9.14 Heracleidae帰還の年
Apollodorus of Athensは、Ioniansの移住から最初のOlympiad(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がIoniansの移住が完了した年になる。[141]
Castor of Rhodesは、Heracleidaeの帰還からIoniansの移住までは、60年間であったと伝えている。[142]
Castorが言及しているHeracleidaeの帰還の年は、Heracleidaeがそれぞれの領土の割り当てを完了した年と思われる。

10 Heracleidae帰還後のPeloponnesus
10.1 Achaia
多くのAchaeansを引き連れてSpartaの町を退去したTisamenusは、Achaia地方へ入り、先住者であるIoniansに対して、共住を申し出たが拒否されて戦いとなった。Tisamenusは、鳥の飛び方で伏兵を察知するほどの名将であったが、Ioniansとの戦いで戦死した。[143]
しかし、戦いはAchaeansが優位に進め、12の町に分かれて住んでいたIoniansは神の庇護を求めてHeliceの町に集まり、Achaeansはこれを包囲した。[144]
結局、IoniansはAchaeansと休戦して、父祖の地Athensの町へ移住することになった。[145]
Atheniansは、300年以上前にIoniansの父祖Xuthusの子Ionから受けた恩を忘れずにIoniansの受け入れを承認した。Athens王となっていたMelanthusも、Doriansへ対抗するための勢力強化を図るためにAchaia地方から亡命してきたIoniansの共住を許した。[146]

10.2 Argos
TemenusがArgos王になると、Temenusの娘Hyrnethoの夫Antimachusの子Deiphontesは、Argivesを率いて東隣りのEpidaurusの町に進軍した。Deiphontesは、Xuthusの子Ionの子孫のPityreusから戦うことなくEpidaurusの町を譲渡させた。[147]
Deiphontesは、Attica地方のTetrapolisから遠征に参加したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。[148]
その後、Argosの町のTemenusは、彼がDeiphontesに好意的なことに対して不満を持つ、彼の息子たちによって殺された。[149]
Temenusの跡を長男Ceisusが継ぎ、彼は住民を集めて新たなArgosの町を建設した。[150]
BC1070年、Ceisusの末の息子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてCrete島へ植民した。[151]
Doriansは、Crete島内に10市を建設した。[152]
その後、Althaemenes自身は、Rhodes島へ入植した。[153]
Althaemenesは、Rhodes島へ入植した人々をさらに、Halicarnassus、Cnidus、それに、Cosへ分散した。[154]
Althaemenesの移住の原因は、Argosの町の内紛だという伝承もあるが、飢饉が原因のようである。[155]

10.3 Lacedaemon
10.3.1 Achaeansの追放
Tisamenusに移住を決断させた功労者Philonomusは、Spartaの町のすぐ南のAmyclaeの町を任せられた。[156]
Amyclaeの町は、Achaeansの町として最後まで残っていたがDoriansの攻撃を受け、徹底抗戦の後で、Peloponnesus半島から立ち退いた。AD2世紀の紀行作家Pausaniasは、BC8世紀のSparta王Archelausの子Teleclesの時代としているが、初代Proclesの時代の出来事のようである。[157]
AlthaemenesがArgosの町からCrete島へ移民団を率いた時期と、Amyclaeの町の人々がMelos島や、Crete島のGortynの町へ移住した時期とは、同じ頃であった。[158]
もちろん、このAmyclaeの町からの移住が最終的な町の放棄かどうかは不明である。
しかし、初代からDoriansに抵抗して、多くの住人が町を後にして、残りの住人が400年近くも住み続けることができたとは思われず、Pausaniasの誤りと思われる。[159]
このAmyclaeの町の抵抗は頑強を極め、DoriansはThebesの町からTimomachusを招いて、部隊の組織化などの指導を受けて、ようやくAchaeansを追い出した。[160]
また、それ以前に、Achaeansが住み続けていたPharisの町とGeranthraeの町の人々もDoriansとの戦いを避けて、町を退去した。[161]
Achaeansの住む町は、なくなったが、住み続けたAchaeansはいたようである。
例えば、Agamemnonの伝令Talthybiusの墓は、Spartaの町にあり、彼の後裔は、代々伝令使となる特権を有していた。[162]

10.3.2 Theraへの移住
EurysthenesとProclesが成人すると、後見人の役目を終えたTherasは、Spartaの町とRhodes島の中間にあるCalliste島へ移住した。[163]
その島は、Poecilesの子Membliarusの子孫が支配していたが、Therasは住民の支持を得て、その地の王となり、島名もTheraと改名した。[164]
Sparta王家の始祖であるEurysthenesとProclesは、双子であったが意見が合わず、常に対立していたが、Therasの移住についてはどちらも積極的に支援した。[165]
Therasが率いた移民団には、各部族から選抜した者たちの他に少数のMinyansも含まれていた。[166]
そのMinyansの中には、EuphemusとLamacheとの間の息子Leukophanesの子孫も含まれていた。[167]
BC630年、Leukophanesの子孫であるPolymnestusの子Battusは、Thera島から移民団を率いてLibyaへ移住して、Cyreneの町を創建した。[168]

10.4 Phlius
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、Argosの町とSicyonの町の軍勢を率いてPhliusの町へ遠征し、住民から受け入れられてPhliusの町の王となった。受け入れを反対したPhliusの町の指導者Hippasusは、Samos島へ移住した。[169]
これより少し前の、BC1095年、Pityreusの子Proclesが、Athensの町から元のEpidaurusの町の住人の大半を率いて、Samos島に入植し、先住民と共住し、Samosの町を創建していた。[170]
BC1102年、HeracleidaeによってArgolis地方のEpidaurusの町から追われたXuthusの子Ionの後裔であるPityreusが、Epidaurusの住人を率いてAthensへ移住していた。[171]
また、Phliusの町の一部の人々は、Cleonaeansとともに、Asia Minorに渡り、Clazomenaeの町を創建した。[172]

10.5 Corinth
BC1074年、Hippotasの子Aletesは、Doriansを率いて、Sicyonの町の西にあるGonussaの町からAntasusの子Melasを遠征隊に加えて、Corinth攻略に向かった。[173]
Hippotasは、HeraclesとDryopesの町のPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusの子Phylasの息子であり、10年間の追放処分を受けていた。[174]
また、Antasusは、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの後裔であった。[175]
当時のCorinthの町は、Propodasの2人の息子たち、DoridasとHyanthidasが王位にあったが、王位をAletesに譲って、その地に留まった。しかし、Corinthの町に住んでいたAeolisは抵抗し、AletesはSolygiaの丘に陣を構えて戦い、抵抗した住民をCorinthの町から追い出した。[176]
Aletesは、Corinth王となってMelasを共住者とした。BC657年にCorinthの町の僭主となったEetionの子Cypselusは、Melasの後裔であった。[177]

10.6 Athens
BC1075年、Peloponnesusから追い出された人々がAthensの町へ逃れ、Athensの町の勢力伸長を恐れたDoriansはAthensの町へ侵攻した。
Doriansとの戦いで、Athens王Melanthusの子Codrusは戦死したが、Athensの町はDoriansを撃退することができた。[178]
Doriansを率いたのは、Corinthの町のAletesだという伝承もあるが、彼の父Hippotasの父Phylasの父Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖であり、疑わしい。[179]
Doriansは、Athensの町から帰る途中、Megara地方に住んでいたIoniansを追い出して、DoriansのMegaraの町を建設した。[180]
このとき追い出されたIoniansもAthensの町へ移住し、一部は、Attica地方の東海岸のBrauronの町へ住み着いた。Brauronの町には、Megaraの町に墓があるAgamemnonの娘Iphigeniaに関係のあるArtemis神像があった。[181]

10.7 Mycenae
Straboは、Mycenaeの町がArgosの町と共に、Heracleidaeに占領されたと記している。
[182]
しかし、Diodorusは、Mycenaeansは独立を保っていたと伝えており、Mycenaeの町は、Heracleidaeに占領されることなく、Achaeansが引き続き住んでいたと思われる。[183]
BC480年8月、Mycenaeの町は、Thermopylaeの戦いに、兵80人を派遣し、BC479年8月、Battle of Plataeaには、Tirynsの町と合わせて兵400人を派遣した。
BC494年、Lacedaemonとの戦いで、男子市民のほとんどを失ったArgosの町はPersiansとの戦いに兵を出すことができず、それらの戦いに派兵したMycenaeansを嫉んでいた。[184]
BC468年、Argosの町は、Tegeaの町などから援軍をもらい、Mycenaeの町を兵糧攻めにした。糧食の尽きたMycenaeansの大半はMacedoniaのAmyntasの子Alexanderの保護を求め、一部はCleonaeの町やCeryneiaの町に逃げ込んだ。[185]
Achaia地方のCeryneiaの町の住人は、Mycenaeansを共住者として受け入れた。[186]

10.8 Tiryns
Tirynsの町もMycenaeの町と同じようにDoriansに占領されず、Achaeansが住んでいたと思われる。
BC494年、Argosの町は、攻め入ったLacedaemonのAnaxandridasの子Cleomenesと、Tirynsの町近くのSepeiaで戦い、男子市民のほとんどを失った。[187]
Argosの町は奴隷に町を託していたが、一般市民の息子たちが成人すると、奴隷たちを町から追放した。Argosの町を追われた奴隷たちは、Tirynsの町からAchaeansを追い出して占領した。長期の戦い後、Tirynsの町は、Argosの町の一部になった。[188]
最初のTirynsの町に住んでいたAchaeansは、Argolis湾の入り口東側のHalieisの町へ移住した。[189]

10.9 Cleonae
Heracleidaeの帰還後、Heraclesの子Ctesippusの曾孫AgamedidasがCleonaeの町を治めた。[190]
Cleonaeの町の住民の一部は、Phliusの町の住人と共にAsia Minorへ移住して、Clazomenaeの町を創建した。[191]
しかし、それ以降もAchaeansはCleonaeの町に住んでいたと思われ、BC468年にArgosの町に攻められたMycenaeansの一部が、Cleonaeの町に逃げ込んだ。[192]

10.10 Toroezen
Argosの町に従属していたToroezenの町は、Doriansを共住者として受入れた。[193]

10.11 Messenia
Messenia地方を獲得したCresphontesは、Stenyclerusの町を王都に定めた。[194]
その後、「真の」Heraclesの後裔と称するPolyphontesがCresphontesと息子2人を殺害して王位を簒奪した。[195]
Cresphontesの末の息子Aepytusは、Arcadia地方のTrapezusの町の祖父Cypselusのもとで養育されていたため無事であった。[196]
BC1073年、成人したAepytusは、Arcadia地方の伯父HolaeasやArgosの町のTemenusの子Isthmius、そして、Spartaの町のEurysthenesやProclesの支援を受けてMessenia王に復位した。[197]

おわり

/body>