古代ギリシア年表 (1750-1220 BC)

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Upd:2023.10.31

BC1750年、Ogygus時代の大洪水[Paus.10.6.1, JeromeChro.1757]
** Ogygus時代の大洪水から初代Athens王Cecropsの即位(BC1561)まで、190年であった。[Euseb.Chron.181, JeromeChro.1757]
BC1750年、Ogygus率いるEctenesは、Thebesの北側に定住した。[Paus.9.5.1, Paus.9.19.6, Paus.9.33.5]
** BoeotiansはEctenesの名前で呼ばれた。[Suda.epsilon.647] Ectenesの王は、Ogygusであった。[Paus.9.5.1]
** Boeotiaは、Ogygiaと呼ばれた。[Strabo.9.2.18]
** Ogygusは、Atheniansの最初の王であり、OgygusはAtheniansの先祖であった。[Euseb.Chron.181]
BC1750年、Ogygusの子Eleusisは、Eleusisを創建した。[Paus.1.38.7, JeromeChro.1777]
** Ogygusが創建した。[Euseb.Chro.177]
BC1750年、Inachusの子Aezeius(or Aegialeus)は、Aegialus(後のSicyon)を創建した。[Paus.7.1.1, StephByz.A40.13]
BC1750年、Inachusの子Phoroneusは、Phoroneus (後のArgos)を創建した。[Paus.2.15.5]
BC1750年、Inachusの娘Myceneの夫は、Mycenaeを創建した。[Paus.2.16.3-4, StephByz.M460.9から推定]
** Mycenaeの名前は、Inachusの娘Myceneに因む。SicyonとArgosを結ぶ交通の要衝に位置し、ほぼ同時に創建されたと思われる。
BC1725年、Phoroneusの子Carは、ArgosからMegaraへ移住した。[Paus.1.39.5]
** Carの墓は、MegaraからCorinthへ向かう街道沿いにあった。[Paus.1.44.6]
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Argosの南東の海岸にHermioneを創建した。[Paus.2.34.4]
BC1690年、Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの子Delphusは、Lycoreiaから移住して、Delphiを創建した。[Paus.10.6.3]
BC1690年、AegialeiaのTelchinの子Cresは、ArgosのApisとの戦いに敗れてCreteへ移住した。[Paus.8.53.5, Cleme.Str.1.21, Orosius.1.7]
** Cresが最初にCreteを統治した。[JeromeChro.1962]
BC1690年、Phoroneusの子ApisはSicyonを併合し、Peloponnesusは、Apisに因んでApiaと呼ばれるようになった。[Apo.2.1.1, Paus.2.5.7]
** PeloponnesusがApiaと呼ばれたのは『梨の里』であったからだ。[Athen.14.650c]
** PausaniasはApisをTelchisの息子だと記している。Sicyon王の誤った系譜(Euseb.Chron.173)を参考にしていたと思われる。[Paus.2.5.6]
** Peloponnesus, 21,549.6 km2。The Great Chersonesus (Crimea) 27,000 km²。[Strabo.7.4.5]
BC1665年、Apis、ThelxionとTelchisに謀殺される。[Paus.10.6.3]
** Apisは、Sicyonを25年間支配した。[Euseb.Chron.173]
BC1645年、Niobeの子Argusの子Tirynsは、Tirynsを創建した。[Paus.2.25.8]
BC1645年、Niobeの子Argusの子Epidaurusは、Epidaurusを創建した。[Paus.2.26.2]
BC1635年、Lycaonの子Oenotrusは、ArgosからItaly半島西南部に移住して、Pandosiaを創建した。[Antiq.1.11.3, Strabo.6.1.5]
** Pausaniasは、他国への移住者は、Oenotrusが最初だと記している。[Paus.8.3.5]
BC1635年、Lycaonの子Peucetiusは、ArgosからItaly半島東南部に移住した。[Antiq.1.11.3]
** Italy半島東南部は、Peucetiusに因んでPeucetiaと呼ばれた。[Plin.3.16.1]

BC1610年、Niobeの子Argusの子Peirasは、the temple of Hera in Argos創建した。[Euseb.Pra.3.8]
** Peirasは彼の娘Callithyiaを最初の巫女にした。[Euseb.Pra.3.8]
** Niobeの子Argusは、Tirynsの梨の樹でHera神像を作った。[Cleme.Exho.4, Euseb.Pra.3.8]
** Pirantosの子Callithiasが最初の神職になった。[JeromeChro.1637] Peirasの娘Callithyiaの間違いと思われる。

BC1580年、密儀祭司Trochilus、Triopasの子Agenorと争って、ArgosからEleusisに亡命した。[Paus.1.14.2]
** TrochilusはCallithyiaの息子であった。[SchoAratus.Pheno.161]

BC1580年、Argusの子Phorbasの子Triopasは、Rhodesへ植民団を派遣した。[Diod.4.58.7]
BC1580年、Boeotiaに悪疫発生した。[Paus.9.5.1]
BC1580年、BoeotiaのEctenesは、Attica、Thessaly、Egyptへと移住した。[Paus.9.5.1, Paus.9.33.5, Suda.epsilon.647, Strabo.9.2.18]
** Ectenesの一部はBoeotiaに残留した。後にCadmusと戦って敗れている。[Nonnus.5.35]
BC1580年、Cecropsの父は、EgyptのNile Deltaへ移住してSaisを創建した。[Diod.1.28.4, Tzetzes.5.650]
** Cecropsは、SaisからAthensへ来た。[Tzetzes.5.650] OgygusはAtheniansの先祖であった。[Euseb.Chron.181]

BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensへの途中で、PhoeniciaのTyreに嫁いだ。[Apo.3.14.3とMarceReg.30から推定]
BC1562年、Cecropsは、EgyptからAtticaの東海岸のMirinousに上陸した。[Paus.1.31.5]
** Cecropsは、Egyptianであった。[FGrH.Nr328.F93, JeromeChro.1550, Suda.ka.1272, Suda.pi.2506]
BC1562年、Colaenusは、MirinousからMessenia湾入り口西側に移住して、Colonidesを創建した。[Paus.1.31.5, Paus.4.34.8]
BC1561年、Cecropsは、Athens北東のAthmoneisのPorphyrionの次の王Actaeusの娘Agraulusと結婚した。[Apo.3.14.2, Paus.1.5.3]
BC1561年、CecropsはCecropia(現在のAthens)を創建した。[Apo.3.14.2, Euseb.181, Paus.1.2.6, Paus.1.5.3, Paus.1.14.7, Pliny.7.194]
** Cecropsの添え名「Diphyes」は、2つの言語を使用する人。[FGrH.328.F93, JeromeChro.1550]
** a body compounded of man and serpent[Apo.3.14.1, Diod.1.28.7]
BC1560年、Triopasの子Iasusは、彼の娘Ioを連れてEgyptへ移住した。[Paus.2.16.1]
** Ioは、the temple of Hera in Argosの巫女であった。[Apo.2.1.3, Palaepha.42]
** Ioは、Egyptでは、Isisと呼ばれた。[Suda.iota.636]
BC1560年、ArgosのCyrnusは、Rhodes対岸のCherronesusにCyrnusを創建した。[Diod.5.60.4]
BC1560年、Triopasの子Xanthusは、ArgosからLyciaに植民後、無人のLesbosに植民した。[Diod.5.81.2]
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaは、ArgosからThessalyへ移住した。[Antiq.1.17]
BC1560年、Triopasの子Agenorの子Pelasgusは、ArcadiaのLycaeus山(現在のMt. Lykaion、標高1,421m)の麓に移住した。[Paus.8.1.6]

BC1535年、Telegonusの子EpaphusはSaisからNileDeltaの南に移住して、Memphisを創建した。[Apo.2.1.4, Cleme.Str.1.21, Herod.2.153]
BC1535年、Cranausは、EgyptからAtticaに移住した。[Diod.1.29.1から推定]
** Athensの住人がPelasgiansであり、Cranaansと呼ばれていたことから、Cranausは、Ioの息子と推定される。[Herod.8.44]
** Cranausは、先祖Ogygusが昔住んでいたBoeotiaのTriton川のほとりに居住したと思われる。[Strabo.9.2.18]
** Cecropsが(Cranausに命じて)Triton川のほとりにAthensとEleusisを創建した。[Strabo.9.2.18]
** Homer(Il.4.8)は、Athenaの添え名にAlalcomenaeを使用しており、当時からその村がTriton川のほとりにあったと思われる。
** Atthisの息子Erichthoniusは、Egyptから来航しているので、AtthisもEgyptへ戻っていたと思われる。

BC1530年、Cecropsの子Erysichthonは、Delosへ木像を送った。[Euseb.Pra.3.8]
BC1530年、Xanthusの娘Lyciaの子Patarusは、LyciaのXanthus河口近くにPataraを創建した。[FGrH.Nr1.F256, Strabo.14.3.6]
BC1530年、ThessalyのDeucalionは、王になった。Athens王Cecrops治世中であった。[Parian.Marble.2]
BC1530年、Cranausの娘Atthisが誕生した。[Apo.3.14.5]
** Cranausの娘Atthis(別名Athena[Apo.3.14.6, Tzetzes.1.170])は、Triton川の近くで育った。[Herod.4.180, Paus.1.14.6, Paus.9.33.7]
** Cranausの娘Atthisに因んでAtticaと呼ばれるようになった。[JeromeChro.1506, Just.2.6, Strabo.9.1.18]
BC1525年、Cecropsの子Erysichthonは、Temple of Apollo at Delosを建立した。[JeromeChro.1511]
BC1525年、Pelasgusの子Lycaonは、Mount Lycaeusの近くにLycosuraを創建した。[Paus.8.2.1]
BC1515年、Cecropsの子Erysichthonは、Delosからの航海中に死に、Prasiaeに埋葬された。[Paus.1.2.6, Paus.1.31.2]
BC1515年、Deucalionの子Hellenは、Enipeus川の対岸にHellasを創建した。[Strabo.9.5.6]
BC1511年、Deucalion時代の洪水
** 大地震が発生して、ThessalyのPeneius川が河口近くで堰き止められて、大洪水が発生した。[Apo.3.14.5, Euseb.183]
** Hellasが被災して、HellenはMelitaeaへ再移住した。[Strabo.9.5.6]
BC1511年、Cranausは、彼の娘Atthisと夫をEgyptへ追放した。[Cranausの死後、Cranausの子Rharusではなく、Cranausの娘の息子がAthens王を継承していることから推定]
** Atthisの夫は、Cecropsの孫、恐らく、Erysichthonの息子だと思われる。
BC1511年、Cecropsが死に、CranausがAthens王に即位した。[Paus.1.2.6]
BC1510年、Atthisの子Erichthoniusが誕生した。[Apo.3.14.6]
BC1510年、Pelasgusの子Lycaonは、the Lycaean gamesを開催した。[Paus.8.2.1]
BC1503年、Deucalionの子Amphictyonは、Cranausの娘と結婚した。[Paus.1.2.6, Euseb.Chron.183]
BC1502年、Cranausは、Amphictyonに追放され、Lamptrae(AthensとSunium岬の間)で死んだ。[Apo.3.14.6, Euseb.183, aus.1.31.3]
BC1500年、Rhodosの母Haliaの父(Telchines)は、CreteからRhodesへ入植した。[Diod.5.55.4]

BC1495年、HellenとOthreisの息子Meliteusは、Melitaeaを創建した。[Antoninus.13, FGrH.Nr4.F125]
** DeucalionやHellenの時代は、町をPyrrhaと呼んでいたが、Meliteusの時代にMelitaeaと呼ぶようになったと思われる。[Strabo.9.5.6]
BC1492年、大干ばつがGreeceを襲った。[Diod.1.29.1]
BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、EgyptからAthensに渡来した。
** Erichthoniusは、Amphictyonを追放してAthens王に即位した。[Diod.1.29.1, Paus.1.2.6]
** Erichthoniusは、Eleusisに住むCranausの子Rharusの子Celeusの従兄弟であった。[Newton.Chro.143]
** Rharusは、Erichthoniusと共にEgyptから渡来した。
BC1492年、Eleusisの近くのRharium平原に初めて大麦(barley)の種が蒔かれた。[Diod.1.29.2, Paus.1.38.6]
** Egyptから種を持ち込み、種をまいたのは、Rharusであったと推定される。

BC1480年、Pelasgiansは、ThessalyのScotussaからDodonaに神託所を移した。[Strabo.7.7.10-12, Strabo.9.5.23]
** Haemonの子Thessalusは、Dodonaに神殿を建立した。[Hyginus.225]
** the sanctuary (of Dodona) also was from the beginning Pelasgian [Strabo.9.2.4]
** Dodonaの神域そのものがPelasgiansの創建と思われる。
BC1470年、Hellenの子Xuthusは、Thessalyから追い出されてAthensへ移住した。[Paus.7.1.2]
** Xuthusは、第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaと結婚した。[Paus.7.1.2]
BC1465年、Xuthusは、Attica北東部にTetrapolis(Oenoê, Marathon, Probalinthus, Tricorynthus)を創建した。[Strabo.8.7.1]
BC1460年、Hellenの子Dorusは、MelitaeaからThessaly北部のPeneius川流域へ移住した。[Herod.1.56]
BC1456年、Erysichthonは、CreteのPrasusからRhodesへ移住した。[FGrH.Nr4.F122, Strabo.10.3.19から推定]
BC1456年、Erysichthonは、TelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚し、7人の息子たちが誕生した。[Diod.5.55.4, Diod.5.56.5]
BC1450年、Lycaonの子Heraeeusは、ArcadiaのAlpheius 川の右岸にHeraeaを創建した。[Paus.8.26.1]

BC1442年、Hellenの子Xuthusは、AtticaからAegialus(後のAchaia)へ移住した。[Paus.7.1.2]
** 義父王Erechtheus死去し、Atticaで養いきれない人々を率いて新天地を求めた移住と思われる。[Paus.7.1.2]
** AeolisのPeloponnesus進出は、Hellenの子Xuthusが最初であった。
BC1440年、Xuthusの子Ionは、Aegialiansの王Selinusの娘Heliceと結婚し、Selinusの跡を継ぎ、Heliceを創建した。[Paus.7.1.3-4]
BC1438年、CreteのIda山で山火事が発生して、偶然に鉄が発見された。[Cleme.Str.1.21]
** Telchinesがはじめて鉄と銅を加工した。[Strabo.14.2.7]
** CyprusのAmathusは、銅を産出した。[Ovid.10.520]
** CreteのBerecynthusにあるApteraのIdaean Dactylsが最初に鉄の活用手段を発明した。[Diod.5.64.5]
** CreteのIdaean Dactylsが最初の鍛鉄法を発明した。[Pliny.7.197]
** Idaean Dactylsが最初の鉄の製造者であった。[FGrH.Nr333.F47]
** Idaean Dactylsと呼ばれる者はCreteで鉄の製錬と焼き戻しを教えていた。[Hesiod.Fr. ID.4]
** Celmis (and Damnameneus) of the Idaean Dactylsが、AthensのPandionの治世に、CreteのIdaで鉄を発見した。[Parian.Marble.11]
** 最初のIdaean DactylsであるCelmisとDamnameneusはCyprusで鉄を発見した。[Hesiod.ID.F2]
** Kelmis and Damnaneus, Idaean Dactyls, first discovered iron in Cyprus. [Hesiodの断片 Cleme.Str.1.16, Euseb.Pra.10.6が引用]
** Damnameneus、Scelmisは、Telchinesであった。[Nonnus.14.36]
** the Corybantes, the Cabeiri, the Idaean Dactyli, and the Telchines as identical with the Curetesは、同じ氏族であった。[Strabo.10.3.7]

BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、AegialusやAthensから味方を得てAegialusからThessalyのMelitaeaへ帰還した。[Paus.7.1.3]
BC1435年、Hellenの子Aeolusの子Mimasは、Melitaeaから北西に移住してArneを創建した。[Paus.7.1.3から推定、Achaeusに追放されて]
** Mimasの兄弟Athamas, SisyphusもMelitaeaからArneへ移住したと思われる。
BC1435年、Teucrusは、CreteのApteraを出航し、TroasのHamaxitus付近に上陸した。[Strabo.13.1.48]
** 少し前のIdaean Dactylsの鉄の発見が関連し、CadmusがSamothraceに立ち寄るより前と思われる。
** Ida山の名前は、TeucriansがCreteにある山と同じ名前を付けた。[Strabo.13.1.48]
** Dardanusの町の名前は、それより前には、Teucrusであった。[StephByz.D218.1]

BC1433年、Teucrusに同行したIdaean Dactylsは、Ida山周辺に有望な鉱脈を見つけ、鉄の加工を始めた。[Strabo.10.3.22]
BC1432年、Aeolusは、Mimasの子HippotesとMelanippeの息子として、ThessalyのArneで誕生した。[Diod.4.67.3, Home.Od.10.2] 
BC1431年、Idaean Dactylsは、Cabeiriと共にLemnos島、Imbros島、Samothraceへ渡った。[Strabo.10.3.22]

BC1430年、Agenorは、EgyptのThebesからPhoeniciaのSidonへ移住した。[Diod.1.23.4, Pliny.5.76]
BC1430年、DanausはEgyptのChemmisから出航して、RhodesのLindusに上陸した。[Apo.2.1.4, Diod.5.58.1]
BC1430年、DanausはRhodesのLindusで娘3人を亡くして、Athena神殿を建立した。[Diod.5.58.1]
BC1430年、Danausは、ArgosとLacedaemonの境であるThyreaのPyramia近くに上陸した。[Plut.Pyrrhus.32]
** Danausの最終上陸地点は、Lernaの近くのApobathmiであった。[Paus.2.38.4]
** Cadmus[Dictys.5.17, Diod.3.67.1, Herod.5.58, Hyginus.277]とDanaus[Dictys.5.17, FGrH.Nr1.F20]がPhoenician alphabetを伝えた。
** Egyptiansがalphabetを発明し、PhoeniciansがGreeksに伝えた。[Tacit.Ann.11.14]
** Cadmusと共に移住してきたPhoeniciansが持ち込み、彼らの言語がGreekになったときに、the Greek alphabetとなった。[Herod.5.58]
BC1430年、Danausは、Sthenelas(Stheneleus, Sthenelus)の子GelanorからArgosの支配権を奪取した。[Paus.2.16.1, Plut.Pyrrhus.32]
** Gelanorは、同族が住んでいたSicyonに亡命した。[Paus.2.6.5から推定]
** DanausとGelanorの間に戦いがあった。[Jerome.1475] GelanorがDanausに譲った。[Apo.2.1.4]
** Gelanorは内乱で町を追われ、Danausは町を攻撃して勝利した。[Plut.Pyrr.32]
** DanausはGelanorに王権を要求して、そして奪った。[Paus.2.19.3, Paus.2.16.1]
BC1430年、Danausの兄弟Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部Aroe(後のPatrae)に定住した。AroeにAegyptusの墓があった。[Paus.7.21.13]
BC1430年、Danausの弟と思われるOrusは、Oraea(後のTroezen)を創建した。[Paus.2.30.5]
BC1430年、Danausの叔父Lelexは、後にLacedaemonとなる地に入植した。[Apo.3.10.3, Paus.1.39.6, Paus.1.44.3]
BC1430年、Lelexは、彼の息子MylesにLacedaemonを託して、Megaraへ移住した。[Apo.3.10.3, Paus.1.39.6, Paus.1.44.3]
BC1430年、Lelexの娘Therapneの夫は、Lacedaemon近くにTherapneを創建した。[Paus.3.19.9, Strabo.7.7.2]
BC1430年、Dardanusは、ArcadiaのMethydriumからSamothraceへ移住した。[Antiq.1.61.3, Paus.8.36.1]
BC1430年、Cydon、Gortys、Archediusは、TegeaからCreteへ移住して、Cydonia、Gortyna、Catreusを創建した。[Diod.5.80.1, Paus.8.53.4]
BC1430年、Lycaonの子Parrhasiusの子Parusは、ArcadiaのParrhasiaからParos島へ移住した。[StephByz.P507.5, Dic:Parrhasius]
BC1430年、CelmisとDamnameneusは、Cyprusで鉄を発見した。[Hesiod.ID.F2]

BC1429年、Idaean Dactylsと共にSamothraceへ渡ったCabeiriのひとりCybeleは、Dardanusの兄弟Iasionと結婚した。[Diod.5.49.2]
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、移民団を率いてSidonを出航した。[Diod.4.2.1, Isocrates.Helen.68, Ovid.Meta.3.120, Pliny.5.76]
** Cadmus, who was a citizen of Egyptian Thebes. [Diod.1.23.4]
BC1426年、Cadmusは、RhodesのIalysusに上陸した。[Diod.5.58.2]
** 島の北東のIalysusは、BC1390年の大津波後、Cercaphusの子Ialysusが創建したので、正確には「後にIalysusとなる土地」。
BC1425年、Achaeusの子Archanderは、Hypseusの娘Cyreneと結婚した。[Diod.4.81.2, Hyginus.161, Nonnus.13.286]
BC1425年、Rhodosの息子たち(Heliadae)は、TelchinesをRhodesから追放した。[Diod.5.56.1, Nonnus.14.36]
BC1425年、TelchinesのLycusは、RhodesからLyciaのXanthus川近くに移住して、Apollo Lyciusの神殿を奉納した。[Diod.5.56.1]
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、ApteraのIdaean Heraclesと結婚した。[Paus.7.4.1から推定]
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydoniaの創建者Tegeatesの子Cydonと結婚した。[推定]
BC1425年、Cadmusは、Calliste島(後のThera島)に立ち寄り、Poecilesの子Membliarusが率いる一部の人々が島に定住した。[Herod.4.147]
BC1425年、Cadmusは、Samothraceに立ち寄り、秘儀に入会して、Harmoniaと結婚した。[Diod.5.48.5]
BC1425年、Aegyptusの子Lynceusは、Danausの長女Hypermnestra結婚した。[Apo.2.2.1, Pindaros.622]
** Hypermnestraは、ArgosのHera神殿のPriestessであった。[Newton.Chro.139]
BC1425年、Agenorの子CilixはIda山近くのCiliciaへ移住して、Thebeを創建した。[Apo.3.1.1]
** Cilixの娘Thebeは、Ida山のCorybasに嫁いだことから、Cilixが町に娘の名前を付けたと思われる。[Diod.5.49.3]

BC1424年、Aristaeusは、Achaeusの子ArchanderとHypseusの娘Cyreneとの間に、ThessalyのMelitaeaで誕生した。[Diod.4.81.2]
BC1423年、Abasは、LynceusとHypermnestraとの間に、Argosで誕生した。[Apo.2.2.1, Paus.2.16.2]
BC1422年、Cadmusは、Chalcidice半島北方のPangaeus山付近で金鉱を発見した。[Cleme.Str.1.16, Euseb.Pra.10.6, Strabo.14.5.28, Plin.7.197]
BC1422年、Cadmusの母Telephassaは、Thraciaで死んだ。[Apo.3.4.1]

BC1420年、----- 1回目のAegean Seaの大津波 ------
BC1420年、Rhodesに大津波が襲来した。[Diod.5.56.2]
BC1420年、SamothraceのDardanusの妻Chryse、息子Idaeus、弟Iasusは津波で死んだ。[推定]
BC1420年、Dardanusは、SamothraceからのTroadへ移住した。[Apo.3.12.1, Diod.5.49.2, Hesiod.CW.F102]
BC1420年、Cadmusと共にThraciaの海岸部に定住した人々が津波で被災した。[推定]

BC1420年、Danausが死んで、彼の娘婿LynceusがArgosの支配権を継承した。[Paus.2.16.1, Cleme.Str.1.21]
BC1420年、Cadmusは、ThraciaからBoeotia に移住して、Cadmeia(後のThebes)を創建した。[Herod.1.56, Strabo.8.7.1]
** Cadmusの移民団の中に、Cadmusに次ぐ実力を持つSparti(or Spartos)と呼ばれる者たちがいた。[Apo.3.4.2, Paus.9.5.3]
** Spartiは、会戦前に戦列を跪かせ、敵と十分な間合いとなったときに、雄たけびを上げて立ち上がり、敵を驚かせて委縮させる戦法を編み出した指導者のことであった。[Photios.186.37]
** CadmusとDanausがPhoenician alphabetをGreeceに伝えた。[Dictys.5.17, Euseb.Pra.1.6]
** Cadmusの移民団の中には、Arabiansも含まれていて、Euboeaに定住した。[Strabo.10.1.8]
BC1420年、Boeotiaに住んでいたHyantesは、Cadmusに敗れて、西へ追いやられた。[Paus.9.5.1, Paus.10.35.5]
** Hyantesは、Onchestusを中心に住んでいた。[Apollo.3.1240]
** Hyantesの一部は、Aetoliaへ移住した。[Strabo.10.3.4]
** 後に、AetolusがElisから移住したときに、Curetesの地(Pleuronの古名[Strabo.10.2.5])にいたのは、名前を変えたHyantesと思われる。
** Hyantesは、barbariansであった。[Strabo.9.2.3]
** BC1126年にBoeotiansとOrchomeniansによって追われたThraciansは隣接地のHyampolisに住むHyantesと思われる。[Strabo.9.2.3-4]
BC1420年、Cadmusとの戦いに敗れたAoniansは、Glissasに住むことを許された。[Nonnus.5.35, Paus.9.5.1]
BC1420年、Cadmusと共にPhoeniciaから来たGephyraeansは、Tanagra周辺に定住した。[Herod.5.57, Strabo.9.2.10]
** Gephyraeansを率いたのは、Cephisusと思われる。[Plut.QuestGr.40] Tanagraは、Gephyraと呼ばれていた。[FGrH.Nr1.F118]
BC1420年、Dorusの子Tectamusは移民団を率いて、DryopisからCreteへ移住した。[Diod.4.60.2, 5.80.2]
BC1420年、Achaeusは、ThessalyのMelitaeaからPeloponnesusへ移住した。[Paus.7.1.6, Strabo.8.7.1]
** Achaeusの移住先は、Thessalyへ行く前の居住地であるAegialusと思われる
** Pausaniasは、Achaeusの子でArchanderとArchitelesの2人が、PhthiotisからArgosに移住したと記している。[Paus.7.1.6]
** Straboは、Achaeusが「過失殺人の罪を犯して」Lacedaemonへ亡命したと記している。[Strabo.8.7.1]
**[推定] Achaeusと息子たちは、Aegialusへ戻り、ArchanderとArchitelesは、Danausの娘たちを娶った。
** Sicyonとの戦いでArgosに加勢し、Archanderは、Argosに住んで、Abasの後見をした。
** この時点で、AegialusからArgosの範囲の住人をAchaeansと呼んでいた。その後Lacedaemonの子Lelexの子Polycaonに嫁いだMesseneと共にArgosから多くのAchaeansがMesseniaのAndaniaに移住した。ArgolisからMesseniaの一部まで範囲の住人がAchaeansと呼ばれた。

BC1420年、Tereusは、ThraciaからPhocisのDaulis付近へ移住した。[Strabo.7.7.1]
** TereusはThraciansで、弟Dryasがいた。[Hyginus.45]
** Cadmus時代、Strymon川流域のEdoniの王は、Dryasの子Lycurgusであった。[Apo.3.5.1-4]
** TereusはCadmusの大移動と共に南下してきたEdoniであったと思われる。
BC1420年、Hellenの子Dorus、Ossa山とOlympus山の近くからOeta山とParnassus山の間のPindusに移住した。[Herod.1.56]
** Dorusは、ThessalyのDorisに住んでいた。[Strabo.9.5.17]
** Pindusの住人は、Macedniと呼ばれていた。[Herod.1.56, StephByz.D251.6]
** DorusはParnassus山周辺のDoriansを集めて、Pindusを創建した。[Ps-Scym.587, Strabo.8.7.1]
BC1420年、Ida山のHeraclesは、津波で被災した人々を率いてEleiaへ移住した。[Paus.5.7.9から推定]
** Idaean Heraclesが住むApteraの隣にCydoniaを創建したCydonから聞いて移住先を決めたと思われる。
BC1419年、Ida山のHeraclesは、兄弟5人で、Olympiaで競技会を初めて開催した。[Paus.5.7.9]
** Idaean Heracles(Acmon)は、BC1445生まれと推定され、最年長であったことから、この頃の出来事と思われる。
** 兄弟で徒競走をして、勝者にオリーブの冠を与えた。[Paus.5.7.7]
** Olympia祭競技会と名付け、5年目ごとに開催した。[Paus.5.7.9]

BC1418年、Polydorusは、CadmusとHarmoniaの息子として誕生した。[Apo.3.4.2]

BC1416年、Creteの5人のCuretesは、Rhodes対岸のCherronesusにいたCariansを追い出して、5つの町を創建した。[Diod.5.60.1]
** Olympiaで競技会を初めて開催したIdaean Heraclesを含む兄弟5人と推定される。[Paus.5.7.9]
BC1415年、Eumolpusは、Atticaに侵入した。[Strabo.7.7.1]
** Ionと戦ったEumolpusは、Thracianであった。[Strabo.8.7.1] 他の史料は言及なし。[Aelian, Apo, Athen, Hyginus, Paus, Thucy.2.15]
** Eumolpusは、つぎの理由で、ArgosからThessalyに移住したPelasgusの娘Larissaの後裔と思われる。
** Eumolpusの子Immaradusが、AthensのErechtheusと戦ったとき、DodonaからScirusが応援に駆け付けた。[Paus.1.36.4]
** 当時、Dodonaには、Thessalyに移住したPelasgusの娘Larissaの後裔が住んでいた。[Hyginus.225, Strabo.7.7.10]
** また、Eleusisには、Argosから移住した密儀祭司Trochilusの後裔が住んでいた。[Paus.1.14.2]
** Trochilusは、BC1580頃、Larissaの父Pelasgusの兄弟Agenorとの争いで、ArgosからEleusisに亡命した。[Paus.1.14.2]
** Eumolpusの侵入は、BC1415年ではなく、BC1390年にThessalyを追われたときとも考えられるが次の理由により否定される。
** XuthusのIon(45)がかなりの高齢(70)になる。
** 第5代Pandion(55)ではなく、第6代Erechtheus(40)の治世となり、Ionがpolemarchosになる必要がなくなる。
BC1415年、Atheniansは一時、Gephyraeansが住んでいたBoeotiaのTanagraまで避難した。[Suda.delta.1395]
** この時の避難がErechtheusとPraxitheaとの結婚を可能にした。[Apo.3.15.1, Tzetzes.1.170]
BC1415年、Xuthusの子Ionは、Atheniansの推挙を受けてpolemarchosとなり、Eumolpusと戦って休戦した。[Herod.8.44, Paus.2.14.2, FGrH.333.176]
** 戦いの後、EumolpusがEleusisに定住しているので、Eumolpusが優勢でIonが休戦に持ち込んだと思われる。[Paus.2.14.2]
** Atheniansを救ったIonを讃えて、Boedromiaという祭りがAthensで催されるようになった。[FGrH.Nr333.F176, Suda.beta.357]
** Ionの母は、第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaであり、当時のAthens王PandionはIonの叔父であった。[Paus.7.1.2]
** Eumolpusの侵入時、IonはPotamiに住んでおらず、AchaiaのHeliceから駆け付けたと思われる。[Paus.7.1.3-4]

BC1415年、Celeusの弟Dysaulesは、EleusisからPhliusの近くのCeleaeに移住した。[Paus.2.14.4]
BC1415年、Celeusの子Triptolemusの子Croconは、Eleusiniansとして初めて、Athensとの境のRheiti川の東側に居住した。[Paus. 1.38.2]

BC1415年、Rhodosの子Triopasは、他の兄弟の助けを借りて、兄弟のTenagesを殺害してCariaへ逃亡した。[Diod.5.57.2]
** Erysichthonの子TriopasはRhodes対岸のCnidus半島にTriopium(or Triopion)を創建した。[Diod.5.61.1, StephByz.T636.1]
BC1415年、Rhodosの子Macarは、Lesbosへ逃亡した。[Diod.5.57.2]
BC1415年、Rhodosの子Candalusは、Cos島へ逃亡した。[Diod.5.57.2]
BC1415年、Rhodosの子Auges(Actis, Actics, Atlas)は、RhodesからEgyptへ移住しHeliopolisを創建した。[Diod.5.57.2]
BC1415年、Aeolusの子Athamasは、Pagasetic Gulf西岸にHalusを創建した。[Strabo.9.5.8]
BC1415年、Danausの娘Polydoreは、Peneius川近くに住むIphthimeの息子と結婚した。[FGrH.Nr333.F8から推定]
** Polydoreの結婚を可能にしたのは、彼女の姉妹ScaeaとAutomateと、Achaeusの息子たちとの結婚であったと思われる。[Paus.7.1.6]
** Iphthimeには3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいた。[Nonnus.14.105]
BC1415年、Dorusの子Deucalionは、PindusからLocrisのOpus近くに移住した。[Strabo.9.4.2]
** Ozolian Locrisは、Euboeaの対岸のLocrisから入植した。[Ps-Scym.475]
** Ozolian Locrisへの最初の入植者は、Deucalionの子Orestheusと思われる。[Athen.35b, Paus.10.38.1]
BC1413年、Deucalionの娘Protogeniaは、LocrisからThessalyのArneに住むHippotesの子Aeolusに嫁いだ。[Apo.1.7.2, Paus.5.8.2]
BC1412年、第6代Athens王Erechtheusは、Praxitheaと結婚した。[Apo.3.15.1, Tzetzes.1.170]
** Praxitheaの母Diogeniaの父Cephisusは、Cadmusと共にTanagra周辺に渡来したPhoeniciansの首領と思われる。
** Praxitheaと共に移住したPhoeniciansがPhoenician lettersをAthensにもたらした。

BC1410年、Deucalionの子Orestheusは、Epicnemidian LocrisからOzolian Locrisへ移住した。[Athen.35b, Paus.10.38.1, Ps-Scym.475]
BC1410年、Astynousの子Sandocusは、PhoeniciaのTyreからCiliciaに移住して、Celenderisを創建した。[Apo.3.14.3, MarceReg.30]
** Astynousは、Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[Apo.3.14.3]
** Sandocusと共に移住先を探していたPygmalionは、Cyprusの北東部にCarpasiaを創建した。[StephByz.K361.13]
BC1410年、Deucalionの子Amphictyonは、Thermopylae付近にAntheia(or Anthela)を創建した。[Herod.7.200]
BC1410年、Danausの娘Anaxiteaの子Olenusは、AchaiaにOlenusを創建した。[FGrH.Nr334.F41]
BC1410年、Ialysusの娘Symeの子Chthoniusは、Triopasと共に無人のMetapontis島(後のSyme)に入植した。[Diod.5.53.1, StephByz.S591.17]

BC1408年、Lynceusが死に、彼の息子AbasがArgosの支配権を継承した。[Apo.2.2.1, Paus.2.16.2]
BC1408年、Danausによって追放されたGelanorの息子LamedonがSicyonからArgosに攻め込んで占拠した。[Paus.2.6.5推定]
BC1408年、Abasは、Phocisへ移住してAbaeを創建した。[Paus.10.35.1]
** Danausと共に渡来したOrusがTroezen、LelexがLacedaemonやMegaraにいたのに、何故、AbasがPhocisへ移住したのかは不明。
BC1408年、Aegyptusの子AntimachusとDanausの娘Mideaとの息子Amphianaxは、Ptolis(後のMantineia)へ移住した。[Strabo.8.3.2, Paus.8.12.7から推定]
** AmphianaxもAbasと同様に、Gelanorの子Lamedonによって、追放されたと思われる。
BC1408年、Achaeusの子Archanderは、Danausの娘Scaeaと結婚した。[Paus.7.1.6]
BC1408年、Achaeusの子Architelesは、Danausの娘Automateと結婚した。[Paus.7.1.6]
BC1407年、Achaeusの息子たちArchanderとArchitelesは、Lamedonと戦った。[Paus.2.6.5]
** Pausaniasは、ArchanderとSicyonのCoronusの子Lamedonとが戦ったと記しているが、時代が異なる。[Paus.2.6.5]
** このLamedonは、Danausによって、Argosを追われたGelanorの息子と思われる。
BC1407年、SicyonのOrthopolisは娘をDeucalionの子Marathoniusに嫁がせて、Sicyonを譲ることで和睦した。[Euseb.Chron.175から推定]
** LocrisのDeucalionも同族としてAchaeusの息子たちに加勢したと思われる。
** この時から、Sicyonの王家は、Inachusの後裔からThessalyのDeucalionの後裔へ移った。
BC1407年、Aeolusの子Sisyphusは、ThessalyのArneからSicyonの近くに移住して、Ephyra(後のCorinth)を創建した。[Apo.1.9.3]
** Sisyphusも同族としてAchaeusの息子たちに加勢したものと思われる
** この後、SicyonやCorinthなど、Argolis各地にThessalyの住民が移住してきて、Achaeansの呼び名が定着したものと思われる。
BC1407年、AbasはAbaeからArgosへ帰還し、義理の叔父ArchanderがAbasを後見した。[Paus.2.6.5から推定]
BC1407年、Aristaeusは、Cadmusの娘Autonoeと結婚した。[Apo.3.4.2, Diod.4.81.3, Paus.10.17.4]
BC1406年、AristaeusとAutonoeの間に、Actaeon誕生した。[Diod.4.81.3]
** Diodorusは、このAristaeusをCyreneの息子としているが、別人または、創作と思われる。
** AristaeusがCyreneの息子とすれば、Aristaeusは、父Archanderと一緒にEgyptへ行けなくなる。

BC1405年、LacedaemonのLelexの子Polycaonは、MesseniaにAndaniaを創建した。[Paus.4.1.2]
** Andaniaの創建には、Polycaonの妻Messeneの出身地Argosから大勢のAchaeansが参加した。[推定]
** Polycaonの後裔が絶えたとき、Thessalyから継承者を迎えている。[Paus.4.2.2]
** Andaniaの住民は、Achaeusの息子たちと共にThessalyからArgos周辺に移住したAchaeansと思われる。
** Lacedaemonの分家ではあったが、Polycaonの妻Messeneに因んで、地方はLacedaemonではなく、Messeneと呼ばれた。[Paus.4.1.2]
BC1405年、Danausの娘Amymoneの子Naupliusは、Tiryns近くにNaupliaを創建した。[Paus.4.35.2, Paus.2.38.2]
BC1405年、Callistoの子Arcasは、ArcadiaにTrapezusを創建した。[Hyginus.176, 275]

BC1402年、Achaeusの子Archanderは、EgyptのNileDeltaへ移住して、Archandropolisを創建した。[Herod.2.98, Paus.7.1.6]
** Archanderには、Thessalyで結婚したCyreneや息子Aristaeusも同行した。[Diod.4.81.1, 4.82.4]
BC1402年、Celeusの子Triptolemusは、ArcadiaのArcasに栽培穀物の種子を与えた。[Paus. 8.4.1]
BC1402年、Callistoの子Arcas、Triptolemusの子Croconの娘Meganiraと結婚した。[Apo.3.9.1]
** Meganiraの祖父Triptolemusが、Arcadiaを訪問したことが縁と思われる。
BC1401年、Abasは、ArcadiaのPtolis(later Mantineia)のMantineusの娘Aglaiaと結婚した。[Apo.2.2.1]
BC1400年、Triptolemusは、AchaiaのEumelusを訪問し、穀物栽培や町作りを教授した。[Paus.7.18.2]
** Triptolemusは、Ioの子Cranausの子Rharusの子Celeusの息子。
** Eumelusは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの子Aegyptusの息子。
BC1400年、Eumelusは、AchaiaにAroe(後のPatrae)を創建した。[Paus.7.18.2]
** Eumelusは、Aroeに墓があるDanausの兄弟Aegyptusの息子と思われる
BC1400年、EumelusとTriptolemusは、Aroe近くに、共同でAntheiaを創建した。[Paus.7.18.3]
BC1400年、ProetusとAcrisiusは、AbasとAglaiaとの間の双子の息子として、Argosで誕生した。[Pindaros.418]
BC1400年、Agenorの子Cilixの子Thasusは、Ida山近くのThebeからThasus島に入植した。[Herod.2.44から推定]

BC1392年、Amphictyonの子Itonusは、LocrisからThessalyのPagasetic Gulf西岸に移住してItonusを創建した。[Paus.9.1.1]
** Hellenの子Aeolusの子Athamas。Hellenの子Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの子Itonus
** つまり、Itonusは、Halusを創建した彼の祖父の従兄弟Athamasを頼って、Halusの近くに移住したと思われる。
BC1391年、Cadmusの娘Autonoeの子Actaeonは、飼い犬に噛まれて死んだ。[Apo.3.4.4, Diod.4.81.3, Paus.10.30.5]
** Actaeonは、Cithaeron山で狩りをしていて死んだ。[Apo.3.4.4, Tzetzes.6.560]
** Agaveの子Pentheusと同じくlionに襲われたと思われる。
** EuropeのlionはAchelousとNestus両川の間に生息していた。[Herod.7.126, Pliny.8.45]
** Europeのlionは、AfricaやSyriaのlionより強い。[Arist.HA.8.28.5, Pliny.8.45]
BC1391年、Cadmusの娘Autonoeは、息子Actaeonの死を悲しみ、Megaraへ移住した。[Paus.1.44.5]
BC1390年、----- 2回目のAegean Seaの大津波 ------
BC1390年、Pelasgiansは、ThessalyからDeucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。[Antiq.1.17.3, Antiq.1.28.3, Diod.5.61.1, FGrH.4.4]
BC1390年、Thessalyを追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺に逃げ込んだ。[Antiq.1.18.2]
BC1390年、Pelasgiansの一部は、Italy半島のPadus川河口の南にSpina(現在のComacchio)を創建した。[Antiq.1.18.3, Just.20.1]
BC1390年、EgyptのCanopusも津波で被災し、Macerisの子Sardusは、Sardinia島への移民団を率いた。[Paus.10.17.2]
BC1390年、PelasgianのDiusは、ThessalyからItonusの妻Melanippeと共にItaly半島南部のMetapontiumに移住した。[Strabo.6.1.15]
BC1390年、Aeolusの子Athamasは、Pagasetic Gulf西岸のHalusを津波で失い、Boeotiaへ移住した。[Apo.1.9.3, Paus.9.34.7, Strabo.9.5.8]
** Athamasは、Mt. Ptous近くのAcraephniumとCopais湖の間にあるthe Athamantian Plainに住んでいた。[Paus.9.24.1]
** Athamasは、Acraephnium(or Acraephium)を創建し、Athamasの子Ptousは、近くの山に名を残した。[StephByz.A63.10]
BC1390年、Copais湖付近に住んでいたEncheleansは、Illyriaへ移住した。[FGrH.Nr4.F50]
** Encheleansの移住の原因は、Athamasの入植と思われる。
** Encheleansの居住地はRizous川の近くであった。[PsScylax.25]
BC1390年、Cadmusは、IllyriaのEncheleansから要請を受けて移住した。[Apo.3.5.4, Apollo.4.507, Paus.9.5.3, Strabo.7.7.8]
** Cadmus 終焉の地は、IllyriaのButoe(or Buthoe, now Budva)であった。[FGrH.Nr790.F32]
** Cadmusの娘AgaveがEchionとの間に産んだ娘Epirusも同行した。[Parthe.32]
BC1390年、Cadmusの子Polydorusは、Thebes王に即位した。[Apo.3.5.5]
BC1390年、Hyrieusの息子たち、NycteusとLycusは、Phlegyasを殺害して、EuboeaからHyriaへ逃亡した。[Apo.3.5.5]
** Euboeaは、Aulis近くのHyriaの古名と思われる。HyriaはCithaeron山麓のHysiaeと思われる。[Strabo.9.2.12]
** つまり、NycteusとLycusは、Aulis近くのHyriaから、Cithaeron山麓に移住して、Hysiaeを創建した。[FGrH.Nr333.F5]

BC1390年、PolydoreとIphthimeの息子との間の息子Dryopsは、Peneius川近くからSpercheius川近くに移住した。[FGrH.Nr333.F8]
** Iphthimeには3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいた。[Nonnus.14.105]
** Aristotleは、DryopiansがSpercheius川近くからDryopia へ出て来たと述べている。[Strabo.8.6.13]
** Danausの娘Polydoreの子Dryopsは、Dryopiansの始祖と思われる。
BC1390年、Aeolusの3人の息子たち、Macareus、PerieresとAethliusは、ThessalyのArneからPeloponnesusへ移住した。[Diod.5.81.2-4]
** AeolisはLocrisから西へ居住地域を広げ、さらに、海峡を越えてPeloponnesusへ渡った。
** Aetoliaには、Cadmusに追われたHyantesの一部が既に居住していたため、海峡を渡ったと思われる。[Strabo.10.3.4]
BC1390年、Aeolusの子Macareusは、Olenusの娘と結婚した。[Diod.5.81.4から推定]
BC1390年、Aeolusの子Perieresは、Olenusの娘と結婚した。[Perieresの子PisusとPharaeのPharisの娘Telegoneの結婚から推定]
** PerieresはOlenusの婿となり、彼の息子PisusはOlenusで生まれた。その後、PisusはOlenusから移住してPisaを創建したと思われる。
BC1390年、Aeolusの子Aethlius、ThessalyのArneからEleiaに移住して、Elisを創建した。[Paus.5.1.3]
** Elisを流れるPeneius川の名前は、Aethliusと共に移住した人々が名付けたと思われる。[Strabo. 8.3.2]
BC1390年、EgyptのArchandropolisも津波に襲われて、Archanderの息子と推定されるBelusはGreeceへ航海した。[推定]
BC1390年、Sisyphusの子Aeetesは、Ephyraea(後のCorinth)をBunusに預け新天地を求めてColchisに移住した。[Paus.2.3.10]
** Bunusは、Corinthにthe temple of Heraを創建した。[Paus.2.4.7]
** したがって、Bunusの母Alcidameaは、ArgosのHera神殿の巫女であったと思われる。
** (理由) Sisyphusの家系はThessalyのDeucalionの後裔で、Hera信仰に縁が薄いと思われるため。
** SicyonとArgosの戦いの後、Gelanorの子Lamedonの娘と思われるAlcidameaは、Sisyphusの子Almusに嫁がされたと思われる
BC1390年、Sandocusの子Cinyrasは、CiliciaのCelenderisからCyprusの南西海岸に移住して、Palaepaphosを創建した。[Apo.3.14.3]
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Acarnania西部へ移住した。[Paus.3.19.9]
** Aristotleによれば、Acarnania西部には、LelegesとTeleboansが住んでいた。[Strabo.7.7.2]
BC1390年、Aristaeusは、Ceos島へ移住した。[Apollo.2.528, Diod.4.82.1]
** 移住参加者には、Lycaonの後裔のParrhasians(Arcadia創建時からの主要な部族)がいた。[Apollo.2.528]

BC1389年、Janus率いるPelasgiansは、ThessalyのPerrhaebiaからReateの東のVelia(Cutilia)に移住した。[Antiq.1.20.2, Plut.Mor.269a]
BC1389年、Aeolusの子Macareusは、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いて、Pelasgia(Lesbos)へ移住した。[Diod.5.81.2 - 4]
BC1389年、夏、Greece全体に疫病が発生した。[Diod.4.82.2]
BC1389年、Autonoeは、Megaraで死んだ。[Paus.1.44.5]
BC1389年、Cercaphusの3人の息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusは、Rhodesに3つの町を創建した。[Diod.5.57.8, Strabo.14.2.8]

BC1388年、Aeolusの娘Melanippeは、MetapontiumでBoeotusを出産した。[Paus.9.1.1, 7.4, Diod.4.67.4, Diod.19.53]
BC1388年、Triopasは、Thessalyの先住民と争い、CariaのCherronesusへ移住してTriopiumを創建した。[Diod.5.61.2, StephByz.T636.1]

BC1387年、Deucalionの娘Thyiaは、LocrisからThessalyのArneに住むHippotesの子Aeolusへ嫁いだ。[Apo.1.7.3, Hesiod.CW.F3]
BC1387年、Abasは、Argosで死んだ。[Euseb.157から推定]
** Abasは、23年間統治した。[Euseb.157]
BC1387年、Abasの子Proetusは、Acrisiusを追放し、17年間Argosを支配した。[Euseb.157]
BC1387年、Abasの子Acrisiusは、ArgosからEgyptのChemmisへ亡命した。[推定]
** Acrisiusは、亡命中に結婚して、娘Danaeが生まれた。Danaeは、ChemmisでPerseusを産んだ。
** Acrisiusは父Abasの後見人であったArchanderのもとへ亡命したと推定される。

BC1385年、Peneiusの娘Triccaの夫は、ThessalyにTriccaを創建した。[Steph.T635.1から推定]
BC1385年、Cauconは、EleusisからMesseniaのAndaniaを訪問し、Messeneに大女神の密儀を伝えた。[Paus.4.26.8]
** Cauconは、Messeneの姉Celaenoの孫であった。
BC1385年、Sancusは、Testrunaに移住した。[Antiq.1.16.1, Antiq.2.49.2]
BC1384年、Aethliusは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]

BC1381年、Acrisiusは、Aganippeと結婚した。[Hyginus.63]
BC1380年、Athamasの子Schoeneusは、Thebesの北東約9kmの所にSchoenusを創建した。[Apo.1.9.2, Paus.8.35.10, Strabo.9.2.22]
BC1380年、Aeolusの子Andreusは、ArneからBoeotiaへ移住してOrchomenusを創建した。[Paus.9.34.7]
** Aeolusの子Athamasは、Aeolusの子AndreusにOrchomenus付近の土地を割譲した。[Paus.9.34.7]
** << Pausanias説は、逆と思われる >>
** BC1390年、津波で土地を失ったAthamasが、当時移住先として適地であったBoeotiaに定住した。
** 同族のAndreusがAthamasを頼ってArneから移住した。その後、Orchomenusが発展したので、逆の説話が流布されたと思われる。
** Andreusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの息子。
** Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子。つまり、Athamasは、Andreusの曾祖父Mimasの兄弟。
BC1380年、Danaeは、Acrisiusの娘として誕生した。[Herod.6.54, Hyginus.63]
BC1380年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharesは、AchaiaのPeirus川中流域にPharaeを創建した。[Paus.7.22.5]
BC1380年、Belusの子Phineusは、黒海南西岸の地に移住して、Salmydessusを創建した。[Apo.1.9.21, Apo.2.1.4, Herod.7.61]

BC1377年、Cadmusの子Polydorusは、Chthoniusの子Nycteusの娘Nycteisと結婚した。[Apo.3.5.5]
BC1375年、Labdacusは、PolydorusとNycteisとの間の息子として誕生した。[Apo.3.5.5]
BC1375年、Proetusは、Sicyonにa temple of Heraを創建した。[Paus.2.12.2]
BC1375年、Aloeusの子Epopeusは、ThessalyのArneに住んでいた母方の祖父Aeolusの養子になった。[Paus.2.6.1推定]
BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島から対岸の本土に移住して、Galepsusを創建した。[FGrH.Nr1.F152, StephByz.G197.11]

BC1372年、Aristaeusは、Ceos島からEgyptへ帰り、移民団を率いてSardiniaへ移住した。[Diod.4.82.4, Paus.10.17.3]
BC1372年、Messapusは、BoeotiaのHyriaからItaly半島東南部に移住した。[Pliny.3.99, Strabo.9.2.13, StephByz.M447.12]
** Messapusの名前からMessapiaと呼ばれた。[Pliny.3.99]
** MessapiaのHyria と、BoeotiaのHyria近くのMessapius山の名から、MessapusはHyriaのHyrieusの息子と推定される。[Paus.9.22.5]
** 移住の時期はBoeotiaをはじめGreece全土が不幸に襲われ、AristaeusがSardinia島へ移住した頃と思われる。[Diod.4.82.2, Paus.10.17.3]
BC1372年、AthamasとThemistoとの間の息子Leuconは、病死した。[Paus.9.34.7]
BC1371年、Thersanderの子Coronusは、Athamasの養子となり、BoeotiaのCopais Lakeの南西にCoroneiaを創建した。[Paus.9.34.8]
BC1371年、Thersanderの子Haliartusは、Athamasの養子となり、CoroneiaからThebes寄りの地にHaliartusを創建した。[Paus.9.34.8]
** Athamasは、Thersanderの父Sisyphusの兄弟であった。
BC1371年、Cadmusに追われてOnchestus付近にいたHyantesは、PhocisのHyampolisへ移住した。[Apollo.3.1240, Paus.9.5.1, Paus.10.35.5]
BC1371年、MorgetesとSiceliは、Oenotriansに追われてItaly半島西南部からSicily島へ移住した。[Strabo.6.1.6]
** ThessalyのPelasgiansやMessapusの移住によって、住人の移動が生じたものと思われる
BC1370年、Acrisiusは、Proetusを追放し、31年間Argosを支配した。[Euseb.Chron.157]
** Acrisiusは、妻Aganippeと娘DanaeをEgyptに残して、Argosへ帰還したと思われる
BC1370年、Proetusは、ArcadiaのPtolisのAmphianaxのもとへ亡命した。[Apo.2.2.1]
** Amphianaxの父Antimachusの父Aegyptusは、Proetusの父Abasの父Lynceusの父であった。
** つまり、Proetusは、父Abasの従兄弟Amphianaxを頼って亡命した。
BC1370年、Proetusは、Amphianaxの娘Stheneboeaと結婚した。[Apo.2.2.1]
** Homerは、Proetusの妻をAnteiaにしている。[Home.Il.6.144]
** Homerは、CorinthのSisyphusの子Thersanderの子Proetusと混同している。[FGrH.Nr333.F170]
** Amphianaxの2人の娘たち、StheneboeaとAnteiaは、Abasの息子、Thersanderの息子、いずれも同名のProetusと結婚している。
BC1370年、Aeolusの娘Melanippeの子Boeotusは、ItalyからThessalyのArneへ帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[Diod.4.67.6]
BC1370年、Aloeusの子Epopeusは、ThessalyのArneからSicyonへ帰還した。[Paus.2.6.1]
BC1370年、Polydorus死去。Polydorusの子Labdacusが年少のため、Nycteusが後見人になった。[Paus.2.6.2, Paus.9.5.4]
** Labdacusは、当時5歳と推定される。
** Polydorusは、Cadmusの娘Agaveの子Pentheusに殺された。[Nonnus.5.190]
** Pentheusは、Semeleの子Dionysusに殺された。[Tzetzes.6.580] 恐らく、Labdacusの後見人Nycteusも関与していたと思われる。
BC1370年、Macareusの長男は、LesbosからChios島へ入植した。[Diod.5.81.8]
** Chios島には、CariansやLelegesが住んでいた。
** Macareusの長男は、Agenorの子Phoenixの娘Astypalaeaの子Ancaeusの娘Parthenopeと結婚し、息子Chiosが生まれた。[Paus.7.4.1, Strabo.14.1.3]
BC1370年、Macareusの子Cydrolausは、LesbosからSamosへ移住した。[Diod.5.81.8]
BC1370年、Aethusaの子Eleutherは、HyriaからCithaeron山を南に越えて移住して、Eleutheraeを創建した。[StephByz.E265.10]

BC1368年、ProetusはArcadiaから帰還して、Tirynsを占拠した。[Apo.2.2.1]
BC1368年、Proetusは、Argosの東でAcrisiusと戦い、戦死者を出すが勝敗は付かなかった。[Paus.2.25.7]
BC1368年、Proetusは、Acrisiusと和解して、Tiryns、Heraeum、Mideia、およびArgolisの沿海地方を領することになった。[Paus.2.16.2]
** Proetusは、Tirynsに住んでいた。[Paus.2.16.2]
BC1365年、Sisyphusの子Almusは、Orchomenus王Andreusの子Eteoclesから土地を割譲されてAlmonesを創建した。[Paus.9.34.10]
** EteoclesはHellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子。
** Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子。
** Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。
BC1365年、Melanippeの子Aeolusは、Sicily島の北東に浮かぶLipara島へ移住して、Liparusの娘Cyaneと結婚した。[Diod.5.7.5-6]
BC1365年、AmphionとZethusは、Hyrieus(or Chthonius)の子Nycteusの娘Antiopeの息子として誕生した。[Apo.3.5.5, Home.Od.11.260]
** Lycusの後見期間と、結婚の年から逆算して推定した。
BC1365年、NycteusがEpopeusとの戦いで負傷して死んだ。[Paus.2.6.2]
BC1365年、Nycteusの弟LycusがLabdacusの後見役を継承した。[Paus.9.5.5]
BC1365年、Macareusの子Cydrolausは、LesbosからSamos島へ移住した。[Diod.5.81.7-8]
BC1365年、Lapithsの始祖、Aeolusの子Lapithusは、ArneからPeneius川北側の後のPharcadon付近に移住した。[Diod.4.69.2]
BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Peuce島(Hyperboreansの地)へ移住した。[Hesiod.CW.F40]
BC1365年、LesbosのMacareusは、息子をChiosに移住させた。[Diod.5.81.7]
BC1365年、Teleboansは、Acarnania西部のLeucas半島に入植した。[Strabo.7.7.2]
BC1365年、Hippotesの子Aeolusの子Deion(or Deion or Deioneus)は、Arneから、Phocisへ移住した。[Apo.1.9.4]

BC1362年、Danaeは、Metanastesの子Pilumnusと結婚した。[Comments of Viues on August.City.18.13]
** Danaeの夫がArchanderの子Metanastesの息子と思われる。
** PerseusはEgyptのChemmisで生まれた。Danaeの夫は、Chemmisの人であったと思われる。[Diod.4.9.1, Diod.1.24.8, Herod.2.91]
** Metanastesの母Scaeaは、父DanausがEgyptから移住する前に、Chemmisで幼少期を過ごした。[Herod.2.91]
** Perseusの妻Andromedaは、Ethiopiaで生まれた。[Apo.2.4.3, Plin.6.182]
** Ethiopiaの創建者は、Egyptからの移民で、Archanderの子Belusと思われる。[Apo.2.1.4, Herod.7.61, Strabo.1.3.21]
BC1362年、Andreusの子Eteoclesの時代に、Orchomenusに複数の隕石が落下した。[Paus.9.38.1]

BC1360年、Arcasの子Elatusは、Cyprusの南西部のPalaepaphosに住むCinyrasとMetharmeの間の娘Laogoreと結婚した。[Apo.3.9.1]
BC1360年、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusは、SicyonからAnthedonへ移住した。[Paus.9.22.6]
** AnthedonからThebesへ半分くらいのSchoinosは、Athamasの子Schoenusが創建した町。Schoenusは、Aloeusの父の従兄弟であった。
** Aloeusの父の兄弟であるSisyphusの子AeetesはColchisへ移住した。Anthedonは、Colchisへ向けての航海に適した位置にあった。
BC1360年、Almusの子Phlegyasは、Phlegyasを創建した。彼は、Phlegyansと呼ばれる戦士をその町に集めた。[Paus.9.36.2]
** Phlegyasは、near the Cephisian lakeに住んでいた。[Hymns.3.277]
** PhlegyesはThebesの近くに住んでいた。[FGrH.Nr333.F41]
BC1360年、Perseusは、DanaeとPilumnusの息子として、EgyptのChemmisで生まれた。[Diod.4.9.1, Diod.1.24.8, Herod.2.91]
BC1360年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Colchisへ移住した。[Nonnus.13.222]
BC1360年、Phrixusの子Presbonは、兄弟Melasと共にColchisから祖父Athamasが住むBoeotiaへ移住した。[Paus.9.34.8]
** Athamasはまだ存命していた。
** Presbonは、Athamasが養子であるHaliartusとCoronusに与えた土地以外のAthamasの領地を相続することになった。[Paus.9.34.8]
** Presbon帰還後もColchisとの交流はあったと思われる。
** Colchisへの航海の港は、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusが移住したAnthedonと思われる。[Paus.9.22.6から推定]
** PresbonとMelasの移住には、AsteriosのColchis移住が関係するかもしれない。[Nonnus.13.222]

BC1357年、Acrisiusは、LacedaemonのEurydiceと結婚した。[Apo.3.10.3, Paus.3.13.8]
BC1357年、Labdacusは成人して、Lycusの後見は解除された。[Paus.9.5.5]
BC1356年、AmphissaのPhytiusの子Oineusは、LesbosのMacarの娘Amphissaを妻に迎えた。[Paus.10.38.4から推定]
** Amphissaの名前は、Aeolusの子Macarの娘Amphissaに因む。[Paus.10.38.4]
BC1355年、Danaeは、息子Daunusを産んだ。[Dic: Daunus]
BC1355年、Azanの子Cleitorは、Arcadia北部にCleitorを創建した。[Paus.8.4.5]

BC1352年、Eumolpusの子Immaradusは、AthensのErechtheusと戦い、両者とも戦死した。[Paus.1.38.3]
** Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承し、その後、Chioneの子Eumolpusが継承した。[Paus.1.38.3]
BC1352年、Scirusは、DodonaからEleusisの応援に駆け付けて戦死した。[Paus.1.36.4]
BC1352年、Chioneの子Eumolpusは、ThraciaからEleusisの応援に駆け付けた。[Paus.1.27.4とPaus.1.38.2から推定]
** Chioneの子Eumolpusの応援の直接の伝承はない。EleusisにEumolpusの墓がある。Eumolpusの後裔がEleusisに住んでいた。
** Atheniansと戦ったEumolpusはThracianであった。以上のことからEumolpusは応援に駆け付けたと推定される。[Paus.1.38.2]
** Athens側には、Hellenの子Xuthusの子Ionの息子たちの後裔からの求めで、同族のSicyonやCorinthから応援に駆け付けたと思われる
** Sicyonからは、Hellenの子Dorusの子Deucalionの子Marathoniusの子Coronusの子Lamedonが参加したと思われる。[Paus.2.6.5]
** Corinthからは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの子Marathonが参加したと思われる。[Paus.2.1.1]
** Marathonは、この戦いへの応援で、Erechtheusの娘との結婚が成立したと思われる。[Newton.173]
BC1352年、Erechtheusの子Cecropsが第7代Athens王に即位した。[Paus.1.5.3]

BC1350年、Epopeusの子Marathonは、父の横暴に耐えかねてSicyonからAtticaの海沿いの町へ移住した。[Paus.2.1.1]
BC1350年、Orchomenusの子Aspledonは、BoeotiaのOrchomenusの北にAspledonを創建した。[Paus.9.38.9, Strabo.9.2.41]

BC1350年、Boeotiaに住むPhlegyansがDelpiを荒らした。[Paus.9.36.2]
BC1350年、AcrisiusはAmphictyonsを組織化した。[Strabo.9.3.7]
** Achaiansが多く住むようになったArgosのAcrisiusは、LocrisやPhocisからの求めで、Phlegyansと戦うために組織化したと思われる。
** Dorusの子Deucalionの子Amphictyon が最初に結集した種族 - Ionians, Dolopes, Thessalians, Aenianians, Magnesians, Malians, Phthiotians, Dorians, Phocians, Locrians who border on Phocis, living at the bottom of Mount Cnemis. [Paus.10.8.2]
** Ionians, Dolopes, Aenianians, Magnesians, Molians, Phthiotians, Dorians, Phocians, Perrhaiboi, Boiotians, Achaians, Delphians [Suda.Alpha.1736]
** Thessalians, Boeotians, Dorians, Ionians, Perrhaebi, Magnetes, Dolopians, Locrians, Oitaeans, Phthiotians, Malians, Phocians [Aeschines.116]
BC1350年、ArgosのPhilammonは、Delhpiを荒らしたPhlegyansとの戦いで戦死した。[Paus.9.36.2]
** Philammonは、Argosの精鋭を率いていたことから、Acrisiusの息子と思われる。[Paus.9.36.2]
BC1350年、Lacedaemonの子Amyclasは、Lapithusの娘Diomedeと結婚した。[Apo.3.10.3]
** Amyclasの姉妹Eurydiceは、ArgosのAcrisiusの妻であり、AmyclasとAcrisiusは義兄弟であった。[Apo.3.10.3, Paus.3.13.8]
** Acrisiusが隣保同盟を組織化したときに、ThessalyのLapithusと知合い、義理の弟の縁組みを仲介したものと思われる。[Strabo.9.3.7]
** Diomedeと共にThessalyから移住したAeolisが初めてLacedaemonに居住した。

BC1350年、Arcasの子Elatusは、Arcadiansを率いてPhlegyansを撃退した。[Paus.8.4.4, Paus.10.34.2]
BC1350年、Arcasの子Elatusは、PhocisにElateiaを創建した。[Paus.8.4.4]
BC1350年、Aeolusの子Macedonは、ArneからOlympus山近くに移住した。[Hesiod.CW.F3, Strabo.7.8.2]
BC1350年、Haliartusの子Hippomenesは、HaliartusからThebes寄りに移住して、Oncestusを創建した。[Paus.9.26.5]
BC1350年、Aeolusの子Magnesは、兄弟Macedonと共に、ArneからOlympus山近くへ移住した。[Apo.1.7.3, Paus.6.21.11, Hesiod.Women.3]
BC1350年、Aeolusの子Cretheusは、ArneからPagasetic Gulf北岸に移住して、Iolcusを創建した。[Apo.1.9.11]
BC1349年、Acrisiusは、後継者がいなくなったため、Egyptに住むDanaeの子PerseusをArgosへ連れ帰った。[Plut.Mor.106aから推定]

BC1348年、Proetusは、LyciaからCyclopesを招きTirynsの城壁を強化した。[Apo.2.2.1, Paus.2.16.5, Paus.2.25.8, Strabo.8.6.11]
** Cyclopesは7人で、Nauplia近くの洞窟を住んでいた。[Strabo.8.6.2, Strabo.8.6.11]
BC1348年、Perieresの子Pisusは、Olenus近くのPharaeからPharisの娘Telegoneを妻に迎えた。[Greeceの河神に記述]
BC1347年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharisは、Messenia湾に流れ込むNedon川の河口近くにPharaeを創建した。[Paus.4.30.2]
** Pharisは、兄弟PharesがAchaiaのPeirus川中流域に創建した町と同じ名前を付けた。[Paus.7.22.5]
BC1345年、AmphionとZethusは、Thespiae近くに移住して、Eutresisを創建した。[Strabo.9.2.28]
BC1345年、Perieresの子Pisusは、OlenusからAlpheius川の近くへ移住してPisaを創建した。[Paus.6.22.2]

BC1343年、Perseusは、祖父の兄弟Proetusを殺した。[Hyginus.244]
BC1343年、Perseusは、Seriphus島へ逃れて、Dictysと妻Clymeneの庇護を受けた。[Apo.2.4.1, Hyginus.63]
** Dictysと妻Clymeneは、Perseusの救済者で、Athensに両者の祭壇がある。ClymeneはAthensに縁があると思われる。[Paus.2.18.1]
** PolydectesとDictysをMagnesの息子たちとする説。[Apo.1.9.6, Hesiod.CW.F3]
Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Magnesの子Dictys。
Hellenの子Xuthusの子Achaeusの子Archanderの子Metanastesの子Pilumnusの子Perseus。
** PolydectesとDictysをPeristhenesの息子たちとする説。[FGrH.Nr333.F4]
Danausの娘Amymoneの子Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの子Dictys。
Danausの娘Hypermnestraの子Abasの子Acrisiusの娘Danaeの子Perseus。
** 両説とも、PolydectesとDictys兄弟の名前はあるが、Seriphusとの関係は明記されていない。
** 前者の説では、Perseusとの関係が薄く、ThessalyのMagnesiaからSeriphus島までの距離も遠い。
** 後者の説では、Abasと従兄弟のNaupliusは、住んでいる町も近く、親戚付き合いがあったと思われる。NaupliaからSeriphusまでも近い。
** したがって、Seriphus島のPolydectesとDictys兄弟は、Danausの娘Amymoneの子Naupliusの曾孫と思われる
** Seriphus島は、ArgosとCrete、Egyptを結ぶ航路の補給基地であったと思われる
** Seriphus島は、Dictys兄弟が入植する前から、Danausの娘Amymoneの子Naupliusが創建した、Tiryns近くのNaupliaの住人が漁や交易で利用していたと思われる。Naupliusの父は、Danausと共に渡来した者であった。[Paus.4.35.2]

BC1341年、Danaeは、Egyptから植民団を率いてSardinia島へ向かう途中、強風に流され、Italy半島西部海岸に漂着した。[Virg.Aene.7.409]
** Sardinia島へは、(BC1390年)Macerisの子Sardusに、(BC1372年)Archanderの子Aristaeusが、Egyptから植民団を率いている。
BC1341年、Danaeは、Romeの南東30kmの所にArdeaを創建した。[Pliny.3.56, Virg.Aene.7.409]
** Danaeの植民団には、ArgosからEgyptへ移住したAchaeansやPelasgiansが含まれていたものと思われる。

BC1340年、Phrixusの子Cytissorusは、ColchisからPontus海南岸に移住してCytorusを創建した。[Diod .4.72.2, Strabo.12.3.10]
BC1340年、Antiopeの子Zethusは、LocrisからPhysciusの娘Thebeを妻に迎えた。[Apo.3.5.6]
BC1340年、Aethexの子Faunusは、Aboriginesと共にTrasimene湖北のCrotonからUmbriansを追い払った。[Antiq.1.20.4, Ita.5.1]
** Faunusの子ArnusはThessalyから移住したPelasgiansの後裔であった。[Herod.1.57]
BC1340年、Orchomenusの子Aspledonは、Orchomenusから南西へ約10kmの所に母の名前に因んだMideiaを創建した。[Paus.9.39.1]
BC1340年、Lapithusの子Lesbosは、Thessalyから植民団を率いてLesbosへ移住し、Macareusの娘Methymaと結婚した。[Diod.5.81.6]
BC1340年、LesbosのMacareusは、彼の息子NeandrusをCos島に移住させた。[Diod.5.81.8]
BC1340年、LesbosのMacareusは、彼の息子LeucippusをRhodesに移住させた。[Diod.5.81.8]
BC1340年、Cardysの子Clymenusは、CreteのCydoniaからOlympiaへ移住した。[Paus.5.8.1, Strabo.8.3.30]
** Deucalionの時代の大洪水から、約50年後であった。[Paus.5.8.1]

BC1339年、Cardysの子Clymenusは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.1]
BC1339年、Acrisiusは、Argosで死去して、ArgosのAcropliceであるLarissaに埋葬された。[Cleme.Exho.3]
BC1339年、Proetusの子Megapenthesは、TirynsからArgosに居を変えた。[推定]
** Megapenthesは、Abasの直系であり、傍系のPerseusよりもArgosの住民は歓迎したものと思われる。
** Megapenthesと共に、Tirynsなどの住民もArgosに移住したと思われる。
BC1338年、Laiusは、Labdacusの息子としてThebesで生まれた。[Apo.3.5.5]
BC1338年、Salmoneusの娘Tyroは、ThessalyのArneの近くのPylusに住むHippocoonに嫁いだ。[Apo.1.9.11, Hyginus.10]
** Salmoneusは、Enipeus川を挟んでPylusの対岸に住んでいたと思われる。
** TyroはEnipeus河神(Hippocoon)に恋した。[Apo.1.9.8, Home.Od.11.235, Strabo.8.3.32]
BC1337年、Labdacusは、Thebesで死んだ。[Apo.3.5.5]
** Labdacusは、父方の従兄弟Pentheusと同じような考えを持っていたので狂乱女たちに殺された。[Apo.3.5.5]
BC1337年、Labdacusの子Laiusは、1歳であったので、祖父Nycteusの兄弟Lycusが2度目の後見になった。[Apo.3.5.5、Paus.9.5.6]

BC1335年、Aethliusの子Endymionは、Cardysの子ClymenusをOlympiaから追放した。[Paus.5.8.1]
BC1335年、Perseusは、EthiopiaのCepheusの娘Andromedaと結婚した。[Apo.2.4.3]
** Adrasteiaに住んでいたTantalusと、Ethiopia(Adrasteiaの一部)に住んでいたPerseusとは面識があったと思われる。
** 後の、Perseusの息子たちとTantalusの子Pelopsの娘たちとの結婚は、この当時の縁であったと思われる。
BC1335年、Salmoneusは、ThessalyからEleiaへ移住して、Salmoneを創建した。[Strabo.8.3.32, Apo.1.9.7]
** Salmoneusは、異母兄弟Aethliusが創建したElisの近くに移住した。
BC1335年、Andraemonの子Amphissusは、Oeta山近くに、Oetaを創建した。[Paus.7.2.5]
BC1335年、Anaxは、Maeander川の河口近くに、Anactoriaを創建した。[Paus.7.2.5]
** Anaxは、最初のMinosの子Asteriosの2人の息子たち、MiletusとCaunos、いずれかの息子と思われる。[Nonnus.13.222, 546]

BC1332年、Perseusは、Seriphus島から帰国し、Tirynsを占拠した。[推定]
** Perseusのそれまでの拠点は、Seriphus島と思われる。[Paus.2.18.1]
BC1332年、Antiopeの子Amphionは、Tantalusの娘Niobeと結婚した。[Apo.3.5.6, Paus.9.5.7]
** 出会いの場は、Thebesの西約5kmのCabeiriの神域と思われる。そこから南西約7kmの所にAmphionが住むEutresisがあった。
** SamothraceからGreeceに伝播したCabeiriには、Niobeの父祖が信奉するCybele信仰も含まれていた。
** Tantalusの子Broteasは、神々の母の一番古い神像を作った。[Paus.3.22.4]
BC1330年、Alxionの子Oenomausは、ArcadiaのHeraeaからEleiaへ移住して、Harpinaを創建した。[Paus.6.21.8]
BC1330年、Meliaの子Tenerusは、Ptous山に神託所を開設した。[Paus.9.26.1, Strabo.9.2.34]
** Ptous山の神託所は、BC335年、Alexander the GreatがThebesを破壊するまで続いた。[LeakeN.2.279]
BC1330年、Aeolusの子Magnesの子Glaphyrusは、ThessalyのBoebeis湖の近くにGlaphyraeを創建した。[StephByz.G209.3]
BC1330年、PerseusはMycenaeを創建して、堅固な城壁で囲んだ。[Paus.2.15.4, Paus.7.25.6]
** Mycenaeは、420年前に創建されたが、Perseusの時代には、町はなかったのかもしれない。

BC1329年、Endymionは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.1.4]
BC1328年、TantalusはGanymedesを死なせて、Ilusに追われてLydiaのSipylus山へ移住した。[Diod.4.74.4]
** Tantalusは、ElisのEndymionによってOlympiaから追放されたCardysの子Clymenusの息子と思われる。[Paus.5.8.1]

BC1326年、Endymionの子Aetolusは、Phorbas(Phorbus)の娘Pronoeと結婚した。[Apo.1.7.7]
** PhorbasがThessalyに住んでいた頃で、Hippotesの子Aeolusを共通の先祖とする同族の結婚であった。
BC1326年、ZethusとAmphionは、Thebesを攻めたが、Lycusに撃退されて、Locrisに亡命した。[FGrH.Nr333.F170とPaus.9.5.6から推定]
** ZethusとAmphion は、Thespiae近くのEutresisに住んでいた。[Strabo.9.2.28]
** Locrisには、Zethusの妻Thebeの父Physciusがいた。[Apo.3.5.6]
BC1325年、ZethusとAmphionが軍勢を集めてThebesを攻めて、Lycusと交戦した。[Diod.19.53, Paus.9.5.6]
BC1325年、Lycusは、ZethusとAmphionによって殺害された。[Apo.3.5.5]
** Lycusは、後見20年目であった。1回目~8年(BC1365-57)、2回目~12年(BC1337-25)
** Thebeの兄弟Locrusは、義兄弟Zethusに加勢した。[FGrH.Nr333.F170]
** ThessalyのArneに住むBoeotusの子Itonusも加勢したと思われる。
** Itonusは、Locrusの父Physciusの兄Itonusの妻Melanippeの子Boeotusの息子であり、Locrusは、Boeotusの従兄弟であった。
** この戦いへの参加が端緒となって、Boeotusの子ItonusがBoeotiaへ移住したと思われる。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Amphionは、LaiusをThebesから追放した。[Apo.3.5.5] Laiusは、密かにThebesから逃れた。[Paus.9.5.6]
** しかし、後にLaiusはPelopsのもとへ亡命しているので、Pelopsの姉妹Niobeの夫AmphionとLaiusの間には敵対関係はなかった。
** Laiusは、そのままThebesにいて、AmphionはLaiusの後見人になったと推定される。
** LaiusはAmphionの母Antiopeの姉Nycteisの息子Labdacusの息子であった。つまり、LaiusはAmphionの母方の従兄弟の息子であった。[Aelian.13.5, Athen.603a, Plut.Mor.313e]
** Amphionは、Laiusの父Labdacusの母Nycteisの妹Antiopeの息子であった。
BC1325年、ArneのBoeotusの子Itonusは、Boeotiaへ移住した。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Itonusの居住地は、最初はLake Copaisに沈んだArne、そこから、近くのCoroneiaへ移り住んだと思われる。
** Itonian Athenaが、ThessalyのArneの近くと、BoeotiaのCoroneia周辺にあった。[Strabo.9.5.17, Paus.3.9.13, Paus.9.34.1, Paus.9.34.5, Strabo.9.2.29]
** LelegesもLocrisからBoeotiaへ移住した。[Strabo.7.7.2]
BC1325年、Deionの子Phylacusは、PhocisからThessalyへ移住し、Pagasetic Gulfの北東にPhylaceを創建した。[Apo.1.9.12]
BC1324年、AmphionとZethusは、Cadmeiaの下方に城壁を備えた市を創建した。[Home.Od.11.253, Paus.9.5.7]
** 城壁は、近くに住む横暴なPhlegyesから町を守るためであった。[FGrH.Nr333.F41]
BC1324年、AmphionとZethusは、Cadmeiaの下方に創建した町の名前をThebesと定めた。[Paus.9.5.6]
BC1322年、Zethusは、彼の息子NeisがThebeの過失で死に、悲嘆のあまり死んだ。[Paus.9.5.9]
BC1321年、Epopeusが死去。Epopeusの子Marathonは、AtticaからSicyonへ帰還した。[Paus.2.1.1]
** Marathonは、SicyonにAsopia(後のSicyon)、CorinthusにEphyraea(後のCorinth)を分け与えた。[Paus.2.1.1]

BC1320年、Lapithesの子Phorbasは、Rhodesの住民から招かれて、Thessalyから島へ移住した。[Diod.5.58.5]
** Rhodesへ招いたのは、Macareusの子Leucippusと思われる。彼とPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを祖父とする従兄弟であった。
BC1320年、Salmoneusは、ElisのEndymionの子Aetolusを追放した。[Paus.5.1.8, Strabo.8.3.33]
BC1320年、Aetolusは、ElisからAetoliaへ移住した。[Apo.1.7.6]
** Aetolusの移住先は「Curetian country」、つまり、後のPleuronであった。[Apo.1.7.6, Strabo.10.2.5]
** Aetolusの移住先は、Achelous川とEuenus川の間の、Curium山麓の土地であった。
** Aetolusは、Aetoliaに住んだ最初のGreeksであった。AetolusがAetoliansの名祖となった。[Paus.5.1.8, Strabo.8.3.33, Strabo.10.3.4]
BC1320年、Amphion一家が悪疫のために、死に絶えた。[Apo.3.5.6, Paus.9.5.9]
** Amphionの息子Amyclasと娘Meliboea(Chloris)は、助かった。[Apo.3.5.6]
** Chlorisには兄弟姉妹が多く、彼女は最年長であった。[Apo.3.5.6]
** Chlorisは、Pelopsの結婚当時も、未婚であった。[Paus.5.16.4]
BC1320年、Labdacusの子Laiusは、Thebes王に即位した。[Paus.9.5.10]

BC1320年、Ascraの子Oeoclusは、Aloeusの息子たち、OtusとEphialtesと共にBoeotiaのAsopus川源流付近にAscraを創建した。[Paus.9.29.1]
** Sicyonに住むAloeusの息子たちがAscra創建に協力したのは、両者の間につぎのような関係があったからと思われる。
** AscraはSisyphusの子Aloeusの娘で、夫はSisyphusの子Thersanderの子Haliartusで、従兄妹同士の結婚と思われる。
** Ascraの子OeoclusとAloeusの息子たちとは、Sisyphusの子Aloeusを共通の祖父とする従兄弟と思われる。
BC1320年、Erechtheusの子Pandorusは、Euboeaへ渡って、Chalcisを創建した。[Ps-Scym.566]
BC1320年、Erechtheusの子Cecropsは、Euboeaへ移住した。[Paus.1.5.3]
** 支配者が、突然「移住した」という場合、「追放された」であることが時々ある。
** Lynceusの子AbasによるArgosからPhocisへの移住。[Paus.10.35.1]
** Melampusの子AbasによるArgosからThessalyへの移住。[Strabo.9.5.5]
BC1320年、Cecropsの子Pandionは、Megaraへ移住して、Pylasの娘Pyliaと結婚した。[Apo.3.15.5, Paus.1.5.3]
** この時、Pandionの兄弟と思われるCychreusとScyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)もそれぞれ、Salamis島とScyros島へ移住した。[推定]
BC1320年、Amyclasの子Acriasは、Laconia湾岸にAcriaeを創建した。[Paus.6.21.10]
BC1320年、Endymionの子Paeonは、Paeoniaへ移住した。[Paus.5.1.5]
BC1320年、Linusは、AmphimarusとOuraniaの息子として、Thebesで生まれた。[Diogenes.1.3, Suda.la.568]

BC1319年、Endymionの子Epeiusは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]
BC1319年、Melampusは、AmythaonとAglaiaの間の息子として、ThessalyのPylusで生まれた。[Apo.1.9.11, Diod.4.68.3]
** Melampusの予言術と、兄弟すべてがBoeotiaから妻を迎えていることから推測して、Aglaiaは、BoeotiaのTenerusの娘と思われる。
BC1318年、Salmoneusの娘Tyroは、Iolcusに住む、叔父Cretheusと再婚した。[Hyginus.13]
BC1315年、Oenomausは、HarpinaからPisaに移住した。[Paus.5.1.6]
** Harpinaに住むOenomausが、すぐ西側のPisaに住むPerieresの子Pisusを攻めて、Pisusは追放された。[推定]
** Pisusは妻Telegoneの父Pharisが創建したMesseniaのPharaeへ移住した。
** 当時、Olympiaを領していたElisは、Perieresの兄弟Aethliusの後裔の町であり、Oenomausは、Olympiaをも奪った。[Paus.5.1.7]
BC1315年、Naxos(Strongyle)島のThracians、Euboeaを襲撃したが撃退された。[Diod.5.50.4]
** Euboeaは島ではなく、Hyriaと思われる。その後、近くのAnthedonからAloeusの妻と娘が拉致されている。[Diod.5.50.6]
BC1315年、Naxos島のThraciansは、ThessayのDrius(位置不明)を襲撃した。[Diod.5.50.4]
BC1315年、BoeotiaのAnthedonのAloeusの妻Iphimedeiaと娘Pancratisは、Thraciansに拉致されてNaxos島へ連れ去られた。[Diod.5.50.6]

** Aloeusは、AitoliaにAlusを創建したという伝承もあるが、創作と思われる。[Hesiod.CW.F6]
** Aloeus の息子たち、OtusとEphialtes の墓がAnthedonにあった。[Paus.9.22.6]
BC1315年、OtusとEphialtesは、Naxos島のThraciansを打ち負かした。[Diod.5.50.6]
** Strongyleと呼ばれていた島の名前をDiaに変更した。[Diod.5.51.2, Pliny.4.67]
** PhliusやSicyonで大事に祀られているDia(Hebe ~ Argosで崇拝される女神Heraの娘)を島名にしたと思われる。[Strabo.8.6.24]
** Naxos島は、豊かなブドウ畑の故にDionysiasと呼ばれた。[Pliny.4.67]
BC1315年、2人目のMinosが生まれた。[Diod.4.60.3]

BC1314年、Oenomausは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]

BC1312年、Cecropsの子Pandionは、Athens王に即位した。[Euseb.Chron.185]
BC1312年、Pandionは、妻Pyliaの父Pylasの助力を得て、MegaraからAthensへ帰還した。[Euseb.Chron.185から推定]
BC1312年、Pelopsは、IliumのIlusに攻められ、LydiaからPeloponnesosへ移住した。[Paus.2.22.3]
** PelopsのPeloponnesos上陸地は、Laconia湾のEurotas川の河口近くと思われる。
** Eurotas川の河口近くのAcriaeの創建者AcriasがOenomausに殺された。[Paus.6.21.10]
** Acriasは、Spartaから南に移住してAmyclaeを創建したAmyclasの息子と推定される。
** AcriaeにはPeloponnesus半島内で最古の神々の母の神像があった。[Paus.3.22.4]
** Pelopsの本当の名前は、Peloponnesusであった。[StephByz.P515.2]
** Pelopsは、Asiaから莫大な富を持って、貧しい人々の暮らすGreeceにやってきて、富によって勢力を広げた。[Thucy.1.9]
** TantalusとPelopsの子孫たちが持つ富はPrygiaやSipylus山一帯の鉱床から生れた。[Strabo.14.5.28]
BC1312年、Pelopsは、PisaのOenomausと戦って、彼の娘Hippodamiaを捕虜にした。[Paus.5.16.4]
** Pelopsは、Oenomausを槍で殺した。[Eur. IT.826]
** PisaからCorinth地峡までの戦車競走の逸話があるが、馬が競走できる距離ではない。[Apo.E.2.5]
** Pelopsの後裔が、自分たちを戦争捕虜の子孫としないように、戦車競走の逸話を広めたものと思われる
BC1311年、PelopsとHippodamiaの婚礼の宴の徒競走でAmphionとNiobeの間の娘Chlorisが勝利した。[Paus.5.16.4]
** これが史実とすれば、Pelopsは姪Chlorisを妻にする筈であり、創作と思われる

BC1310年、OtusとEphialtesは、Muses女神を3柱 Melete (Practice), Mneme (Memory) and Aoede (Song)と見なした。[Paus.9.29.2]
BC1310年、Periphasの子Melaneusは、Triccaの近くにOechaliaを創建した。[推定]
BC1310年、Aeolusの子Perieresは、後継者の絶えたMesseniaのAndaniaからの求めに応じて、ThessalyからAndaniaへ移住した。[Paus.4.2.2]
** ThessalyのAeolisの有力者の中から独身であったPerieresが選ばれたものと思われる。
BC1310年、Perseusは、Proetusの子Megapenthesに殺された。[Hyginus.244]
** この後、ArgosとMycenaeは絶縁状態になった。
** Thebes攻めでMycenaeは援軍を出すことを承諾したが、結局出さなかった。最初から援軍要請もしていなかったと思われる。
** Argos はTroy攻めに名を連ねているが、戦死者もなく、消極的参加だったと思われる。
BC1310年、Megapenthesは、PhocisのAbaeのLynceusを殺害した。[Hyginus.244]
BC1310年、PhocisのAbaeのLynceusの子Abasは、Megapenthesを殺害した。[Hyginus.244]
** Acrisiusの死後、MegapenthesがArgosを治め、植民市Abaeとの間で、紛争があったと思われる
BC1310年、Megapenthesの子Argeusは、Argos王に即位した。[Paus.2.18.4]
BC1310年、Lynceusの子Abasは、PhocisのAbaeからEuboeaのChalcisに移住した。[Hyginus.244, Strabo.10.1.3]
BC1310年、Lynceusの息子と思われるOrnytusは、AbaeからPhocis北西部へ移住してNaubolenses(後のDrymaea)を創建した。[Paus.10.33.12]
BC1310年、Lynceusの息子と思われるCriusは、AbaeからEuboeaに移住した。[Paus.10.6.6]
BC1310年、Pandorusの子Diusは、EuboeaのChalcisから北西へ移住して、Dion(Dium, Dios)を創建した。[wiki:Dius, SchoOnHomeIl.2.538]

BC1309年、Alexinusは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]
** Alexinusは、ElisのSalmoneusの子Alectorと思われる。[Diod.4.69.2]

BC1308年、Labdacusの子Laiusは、Menoeceusの娘Jocastaと結婚した。[Paus.9.5.10]
BC1307年、Aeolusの子Perieresは、MycenaeのPerseusの娘Gorgophoneと結婚した。[Apo.1.9.5, Paus.4.2.4]
** AndaniaとMycenaeはAchaeansの町であることから、この婚姻が成立したと思われる。

BC1306年、Lapithesの子Phorbasは、Pelopsを恐れたElis王Alectorから招致されてOlenusを任せられた。[Diod.4.69.2]
** <<AlectorがSalmoneusの息子と思われる理由。>>
** Salmoneusは、ElisのEndymionの子Aetolusを追放した。[Paus.5.1.8, Strabo.8.3.33]
** Aetolusの跡を継いだのは、Aetolusの姉妹Eurycydaの子Eleiusであった。[Paus.5.1.8]
** Eleiusは、Salmoneusの異母兄弟Aethliusの孫娘の息子であった。[Apo.1.7.3]
** Pausaniasの系譜に登場しないElis王Alectorが、PhorbasにOlenusを任せた。[Diod.4.69.2]
** Phorbasは、Salmoneusの異母兄弟Lapithesの息子であった。[Diod.5.81.6]
** Oenomausの後にOlympic Gamesを開催したAlexinusは、Alectorと同一人物と思われる。[Euseb.Chron.191]
** 以上のことから、つぎのことが推定される。
** AlectorはSalmoneusの息子であり、Eurycydaの夫であり、Eleiusの父であった。
** Salmoneusは、Elis王Aetolusを追放して、孫EleiusはElis王となり、年少であったため父Alectorが後見人になった。
** その後、PisaのPelopsが勢力を増し、危機感を募らせたAlectorは、従兄弟Phorbasに当時Elis領であったOlenusを任せた。

BC1305年、Periphasの子と思われるMelaneusは、Andaniaの近くにOechaliaを創建した。[Paus.4.2.2]
** Melaneusは、父Periphasの兄弟Aeolusの息子、つまり、従兄弟のPerieresの求めでMesseniaに移住したと思われる。
BC1305年、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの間の息子Europusは、Pellaの少し北に、Europus創建した。[StephByz.E287.14]
BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Delphiの近くにCyparissusを創建した。[Paus.10.36.5]

BC1303年、MesseniaのAndaniaのPerieresは、2人の息子たち、AphareusとLeucippusを残して死んだ。[推定]
** Perieresの妻Gorgophoneが、LacedaemonのOebalusと再婚して、Aphareusと結婚する娘Areneが生まれるので、この頃と思われる。
BC1303年、Aeolusの子Cretheusは、Iolcusで死んだ。[Diod.4.68.3]
BC1303年、Cretheusの子Peliasは、父の継承権を巡って兄弟のNeleusと争った。[Diod.4.68.3]
** PeliasやNeleusは共同でOlympia祭競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
** Neleusと共に移住したBiasの娘がPeliasと結婚した。[Hyginus.14]
** 以上のことから、PeliasとNeleusは、良好な関係にあった。
BC1303年、Amythaonの娘Perimelaは、Periphasの子Antionと結婚した。[Diod.4.69.3]
BC1303年、Amythaonは、Neleus、Melampus、Biasを連れてEleiaに移住して、Pylusを創建した。[Apo.1.9.9, Diod.4.68.3, Paus.4.36.1]
** Amythaonは、息子たちを同行させており、Eleiaへの移住を主導したのはNeleusではなく、Amythaonであった。[Diod.4.68.3]
** Pylusは、ElisからOlympiaへ行く山道にあった。Pylusの近くを流れるLadon川がPeneius川に合流する。[Paus.6.22.5]
** MegaraのClesonの子Pylasは、EleiaにPylusを創建したという伝承もある。[Paus.6.22.5]
** 史実であれば、Pylasは78歳以上である。Pylusの名前から考えられた創作と思われる。
** Pylusの名前は、Amythaonの生まれ故郷、ThessalyのPyllusをそのまま名付けものと思われる。[Apo.1.9.11]
BC1303年、Aeolusの子Perieresの妻Gorgophoneは、SpartaのOebalusと再婚した。[Apo.1.9.5, Paus.4.2.4]
BC1303年、Hippocoonの子Pheresは、PhyllusからIolcusの近くへ移住してPheraeを創建した。[Apo.1.9.14]

BC1302年、Amythaonの子Melampusは、ArgosのMegapenthesの娘Iphianeiraと結婚した。[Apo.2.2.2, Diod.4.68.5]
** Megapenthesの子Argeusは、Mycenaeを恐れて、当時、Eleiaの盟主であったAmythaonの息子に妹を嫁がせたものと思われる
BC1301年、Aetolusの子Calydonは、Amythaonの娘Aeoliaと結婚した。[Apo.1.7.7]
** Amythaonの祖父Salmoneusは、Calydonの父AetolusをElisから追い出した敵であった。
** Calydonの住人の多くは、Elis出身者の後裔であった。
** Calydonは、Curetesを味方にして勢力を増す彼の兄弟Pleuronに、婚姻を通して対抗しようとしたと思われる。

BC1300年、Aeolusの子Magnesの子Pierusは、Olympus山の北側にPieriaを創建した。[Tzetzes.6.930]
BC1300年、Hippocoonの子Aesonは、Pagasetic Gulf近くにAesonis(or Aeson)を創建した。[Apollo.1.411, StephByz.A54.16]
BC1300年、Perseusの子Cynurusは、MycenaeからLaconiaの近くへ移住してCynuriaを創建した。[Paus.3.2.2]
BC1300年、Eurymachus率いるPhlegyesは、Thebesに攻め入り、略奪して町を荒廃させた。[FGrH.Nr333.F41]
** Phlegyesには、Phorbasという指導者もいた。Phorbasは、Trojan Warの後でPanopeusに住んでいた。[Ovid.Meta.11.410, Philos.2.19]
BC1300年、CreonはMenoeceusの息子としてThebesで生まれた。[Hyginus.86]
BC1300年、Atysの子Tyrrhenus率いるMaeonians (Pelasgians)は、LydiaからItaly西海岸へ移住した。[Antiq.1.27.2, Herod.1.94, Strabo.5.2.4]
BC1300年、Romisは、Latiumに侵入しようとしたPelasgiansを撃退した。[Plut.Romu.2]
BC1300年、Faunusの子Arnusは、TyrrhenusらのPelasgiansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[Ita.5.1]
BC1300年、PelasgiansのMaleosは、Tyrrhenusに追われてRome近くのRegis VillaからSicilyへ移住した。[Paus.1.28.3, Strabo.5.2.8]
** Pelasgiansは、Sicily、Acarnania、Boeotiaと住居を変えて、BC1126年頃にAthensに移住した。[Paus.1.28.3, Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
BC1300年、ThessalyからItalyに移住したPelasgiansは、Tyrrhenus率いるMaeoniansに追い出された。[Pliny.3.50, Strabo.5.2.3]
BC1300年、Perseusの子Electryonは、Mideaを創建した。[Paus.2.25.9から推定]
** Electryonの妻Mideaの名前に因んで、町の名前にした。[Apo.2.4.5]
BC1300年、Triopasの子Phorbasの子Pellenは、ArgosからAchaiaへ移住して、Pelleneを創建した。[Paus.7.26.12]
BC1249年、AriadneはArgosで死に、その地に埋葬された。[Paus.2.23.8]
BC1249年、Augeasは、Elisで競技会を開催した。[FGrH.Nr333.F118, Home.Il.11.655]
** 競技会を開催地は、Elisではなく、Olympiaと思われる。
BC1248年、Laomedonは、彼の留守中に娘HesioneをMiletusのLelegesに嫁がせたPhaenodamasや彼の息子たちを殺し、彼の娘たちをIliumから追放した。Phaenodamasの娘たちは、Sicily島へ移住した。[Antiq.1.52.2, Lycoph.Cassa.1115]
BC1248年、Heraclesは、TirynsでOechaliaのEurytusの息子Iphitusを殺害した。[Apo.2.6.2, Diod.4.31.3]
** この当時、EurytusがいたOechaliaとは、Euboeaではなく、MesseniaのOechaliaであった。
BC1248年、Heraclesは、Heraclesは悪病に襲われ、Neleusに罪の清めを依頼して拒否される[Diod.4.31.4]
BC1248年、Heraclesは、SpartaのHippocoonに罪の清めを依頼して拒否される[Paus.3.15.3]
BC1248年、Heraclesは、Sparta近くのAmyclaeのDeiphobusにより罪の清めを行う[Diod.4.31.5]
< Heracles's Lydia period (3年間) >
BC1248年、Heraclesは、LydiaのOmphaleの下で3年間奉仕した。[Apo.2.6.3, Diod.4.31.5, Herod.1.7, Tzetzes.2.420]
** 当時、過失により人を殺した者は、他人のもとで一定期間奉仕するという決まり事があった。[Plut.QuestGr.37]
** Heraclesが奉仕していた間に、Argonautsの遠征、Calydonの猪狩り、Theseusの地峡での功業があった。[Apo.1.9.19, 2.6.3]
** Omphaleの居住地は、LydiaのHyllus川が流れるTimolus山の麓であったと思われる。[Home.20.379, Paus.1.35.8, Strabo.13.4.5]
BC1248年、Naubolusの子Iphitusは、神託を得るためにDelpiを訪問したJasonを案内した。[Apo.1.9.16, Apollo.1.207, Home.2.517]
BC1248年、Argonautsの遠征[Apo.1.9.16-28, Hyginus.14]
** Theseusは16歳でAthensへ行く前年に、Troezenから参加した。[Paus.1.27.8]
** 遠征は、Aegeusの治世中(BC1288-1240)であった。[Euseb.Chron.183]
** 遠征は、Minyansにより行われたが、後に当時の英雄が加わったように改められた。[FGrH.Nr8.F3]
** 金毛羊皮とは、黄金ができる手順が書かれた巻物であった。[Para.Anony.F3]
** Argonautsの遠征の伝承に登場するHeraclesの侍童Hylasは、Polyphemusの侍童であった。[FGrH.Nr4.F131b]
** Hylasの出身地Oechaliaは、Trachisにあった。[Hyginus.14, StephByz.O487.18, Strabo.10.1.10]
** BC6世紀、Italy半島南部の町CrotonのOrpheusが『Argonautica』を書いた。[Suda.omicron.657]
** BC2世紀、AlexandriaのDionysius of MityleneもArgonautsについて書き、それをDiodorusが引用した。[Diod.3.52.3, Suda.delta.1175]
** Apollonius of Rhodesの『Argonautica』には登場しないLaertesがDiodorusに登場する。[Diod.4.48.5]
BC1248年、Aeneusの子Cyzicusは、先祖を追い出したThessaliansと知って、Argonautsの遠征隊と戦って戦死した。[Apollo.1.936, Apollo.1.961, FGrH.Nr70.F61, Hyginus.16, Hyginus.273]
BC1248年、Polyneicesは、OedipusとEuryganeiaとの間の息子として、CorinthのTeneaで生まれた。[Paus.2.20.5, Hyginus.243]
BC1247年、Carmanorの娘Chrysothemisは、the competition to sing the Pythian Apollon hymnで勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1247年、Antionの子Phlegyasは、Larissaの近くにGyrtonを創建した。[Strabo.9.5.21から推定]
** Phlegyasの跡を継いだIxion(別名Gyrton)に因んで、Phlegyasが創建した町は、Gyrtonと呼ばれた。[Dic: Gyrton, StephByz.G215.20]
BC1247年、Melampusの子Mantiusは、AetoliaからArgosへ帰還し、兄弟AbasやBiasの後裔をArgosから追放した。[Pind.Ne.9から推定]
** Mantiusの子Oecles(or Oecleus)やMantiusの孫Amphiarausも、AetoliaからArgosへ移住した。
** この後のHeraclesのElis攻撃にArgivesが参加していることから、Mantiusの帰還にEurystheusが協力したと思われる。
BC1247年、Talausは、Amphiarausに殺害された。[Schol.Pind.N.9.30b]
BC1247年、Talausの子Adrastusは、Melampusの後裔Amphiarausと争って、SicyonのPolybusのもとへ亡命した。[Apo.3.6.2, Paus.2.6.6]
** PolybusはAdrastusの母Lysianassaの父であった。
BC1247年、Melampusの子Abasの子Polypheidesは、父と争って、AchaiaのHyperesiaへ移住した。[Home.Od.15.220]
** Polypheidesの移住は、Argosの内紛が原因と思われる。Hyperesiaの近くのPelleneは、Argivesが創建した町であった。[Paus.7.26.12]
** Polypheidesは、Eleusisにも住んでいた。[FGrH.Nr333.F116]
** BC1580年にCallithyiaの子TrochilusがEleusisに移住した後で、ArgosとEleusisは交流があったと思われる。[Paus.1.14.2]
BC1247年、Melampusの子Abasは、ArgosからThessalyのLarissa近くのPhyllusに移住した。[Strabo.9.5.5]
** Abasの子Idmonは、ArgosからArgonautsに参加した。それまでは、Abas一家は、Argosに住んでいたと思われる。[Apollo.1.139]
BC1247年、Peleusは、DolopesのAmyntorと戦って勝った。Peleusは、Amyntorの子Crantorを人質として預かり、自身の盾持ちとした。[Ovid.Meta.12.341]
** Amyntorは、DolopesのActorの子Ctimenusの息子と思われる。つまり、Peleusの従兄弟であった。
** Ctimenusの2人の息子たち、EurydamasとEurytionは、Argonautsの遠征に参加した。[Hyginus.14]
BC1247年、Theseusは、TroezeneからAthensへ行く途中で功業を行った。[Apo.3.16.1 - E.1.4, Plut.These.15]
** Theseusは、TroezenからArgonautsの遠征に、AthensからCalydonの猪狩りに参加した。[Hyginus.14, Apo.1.8.2]
** Theseusは、Heraclesの名声をずっと前から聞き知り、自分も功業を熱望していた。[Plut.These.6]
** HeraclesがLydiaのOmphaleのもとにいたので、Greeceは乱れていた。[Plut.These.6]
** Theseusは、16才になった時、その岩を押上げ、父が置いた剣とsandalsを取り出して、旅に出た。[Paus.1.27.8]
** 剣とsandalsは、男子の旅の必需品であった。Odysseyの6か所に登場する。[Home.Od.2.1, 4.306, 16.80, 17.1, 20.125, 21.340]
BC1247年、JasonとMedeaは、Corinthiansから町を任された。[Paus.2.3.10]
** JasonがCorinthusの跡を継いだ。[Paus.2.3.10]
** しかし、Euripidesに登場するCreonがCorinthusの跡を継ぎ、JasonはCreonの跡を継いだと思われる。[Medea.20]
** Jasonは、BC1237年にHeraclesと遠征するまで、10年間Corinthに住んでいた。[Apo.1.9.28]
BC1247年、Oeneusの子Meleagerは、Idasの娘Cleopatra(or Halcyone)と結婚した。[Paus.4.2.7]
BC1247年、Carmanorの娘Chrysothemisは、Pythia祭の歌唱の競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1246年、Calydonian boar hunt [Apo.1.8.3, Home.9.544, Hyginus.173, Paus.8.45.6-7, Strabo.10.3.6]
** Argosからは、PleuronのThestiusの娘Hypermnestraを母に持つ、Oeclesの子Amphiarausのみが参加した。
BC1246年、Peleusは、Calydonの猪狩りでPhthiaのEurytionを誤って殺し、Peliasの子Acastusによって清められた。[Apo.1.8.2, Apo.3.13.2]
BC1246年、Alcathousの子Ischepolisは、Calydonの猪狩りで死んだ。[Paus.1.42.6]
BC1246年、MegaraのAlcathousは、自分の息子Callipolisを殺した。[Paus.1.42.6]
BC1246年、Melampusは、Alcathousを清めるためにMegaraを訪問した。[Paus.1.43.5]
BC1246年、CalydonのOeneusは、AetoliaのOlenusのHipponousを攻めて陥落させ、Periboeaを戦利品とする。[Apo.1.8.4]
BC1246年、Aeanianiansは、Ixionや彼の息子Peirithousが率いるLapithsによって、Dotiumから追われた。[Strabo.9.4.10, Strabo.9.5.22]
** Aeanianiansの一部は、MolossiaのAuas川付近に移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[Plut.QuestGr.13]
BC1246年、LarissaのIxionの子Peirithousは、CentaursをPelion山から追い出した。[Apo.2.5.4, Diod.4.70.3, Paus.5.10.8]
** CentaursのCheironは、ThessalyのIolcus北東のMount Pelion周辺に居住していた。[Apo.2.5.4]
** Centaursの一部は、Peneius源流のAethicesの地方へ移住した。[Strabo.9.5.19]
** PeleusもCentaursとの戦いに参加した。Peleusの盾持ち、DolopesのAmyntorの子Crantorは戦死した。[Ovid.Meta.12.341]
** Peirithousは、Pelion山周辺を自領とした。[Strabo.9.5.19]
BC1246年、Theseusは、Lapithsに味方して、Centaursと戦った。[Plut.These.29]
** 戦いの発端であるPeirithousの婚礼の場には、Theseusも同席していた。[Diod.4.70.3]
** Peirithousの妻Hippodameiaの父Butesは、Theseusの義理の従兄弟と思われる。
< Heracles's Tiryns period (2年間) >
BC1245年、Heraclesは、Omphaleの下での奉仕を終えて、Tirynsへ帰った。[Apo.2.6.4]
BC1245年、HeraclesはIolausと共に、IolcusのPeliasの子Acastusが開催した葬送競技会に参加した。[Apo.3.13.2, Hyginus.273, Paus.5.17.9]
** Hyginusは、開催順に記している中で、Argonautsの遠征中の競技会の次に紹介している。[Hyginus.273]
BC1245年、Sisyphusの子Glaucusは、Peliasの葬送競技会で、馬に踏まれて死んだ。[Hyginus.250, Hyginus.273, Paus.6.20.19]
BC1245年、CreteのMinosは、Sicily島西南部のCamicus川付近で、Sicaniの支族CamicのCocalusによって殺された。[Diod.4.79.2]
** TheseusとPhaedraとの結婚当時、Creteの支配者はDeucalionであったことからMinosはBC1245年頃に死んだと思われる。[Diod.4.62.1]
** Herodotusは、Minosの死の2世代後にTrojan Warがあったと伝えている。[Herod.7.171]
BC1245年、Hodoedocusの子Calliarusは、LocrisのCynusの近くにCalliarusを創建した。[StephByz.K349.8]
BC1245年、Eleia南部のLepreusに住むCauconesは、Lepreusの横暴に耐え切れずにLyciaへ移住した。[Strabo.断片.63]
BC1245年、Neleusの息子たちは、Eleia南部にPylus(Lepreatic Pylus)を創建した。[Strabo.8.3.7]
BC1245年、Idasは、CalydonからAreneへ帰還した。[推定]
BC1245年、Ariadneの子Staphylusは、Peparethos島に植民した。[Ps-Scym.566]
BC1244年、Heraclesは、Iliumへ遠征した。[Apo.2.6.4, Diod.4.32.3, Dares.2-3]
** Argonautsの遠征の際に立ち寄ったTroy沖でLaomedonに酷い扱いをされた復讐として遠征した。[Dares.2]
** この時、Heraclesは仲間を集めるために、lettersを送った。[Dares.3]
** Laomedonの娘Hesioneは、Telamonに与えられた。[Apo.2.6.4, Ovid.Meta.11.200]
** CyprusのSalamis創建時の住民は、TeucerがTroyで獲得した捕虜たちであった。[Athen.256b]
** Salamisを支配するTeucerの後裔が、住民を従わせるために、Teucerの母をHesioneだとする話を創作したと思われる。[Apo.3.12.7, Hyginus.97]
** 当時の人々に、この話に真実味を持たせるためにHeraclesが必要であったものと思われる。
BC1244年、Heraclesは、Iliumからの帰路にCos島のAstypalaeaの子Eurypylusと戦った。[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]
** HeraclesとCos島の話は創作と思われるが、仮にあったとすれば、つぎのようなことであったと推定される。
** Cos島の支配者Meropsが、娘Clytiaの夫Eurypylusに追われた。[Calli.Hym.4.153]
** Heraclesは、Meropsを帰還させるためにEurypylusと戦った。[FGrH.Nr333.F78]
** この時、Heraclesを負傷させたChalcodonは、Eurypylusの息子であった。[Apo.2.7.1, ComTheocId.7.5]

BC1244年、Heraclesは、Cos島を去り、Phlegraで巨人と戦って破った。[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]
** ItalyのCampaniaのPhlegra[Diod.4.21.7, Strabo.6.3.5]、Chalcidice半島のPhlegra[Strabo.7.8.3]、場所不明のPhlegra[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]。いずれにしても創作と思われる。
BC1244年、Heraclesは、Amazonの地への遠征の帰路にParos島に住むMinosの子Eurymedonらと戦った。[Apo.2.5.9]
** Heraclesの第9番目の功業の出来事であるが、AmazonやParos島、Thasus島での話はすべて創作と思われる。
BC1244年、Eleia南部のPylusのNeleusの息子たちは、Chaaの領有権を巡ってArcadiansと戦った。[Home.Il.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
** このときのArcadiaの王はLycurgusであったが、高齢のため、PsophisのCepheusが代理であったと思われる。[FGrH.Nr333.F158]
** あるいは、Lycurgusは陣中で病死したと思われる。Lycurgusの墓がTegeaではなく、Chaaの近くのLepreusにあった。[Paus.5.5.5]
BC1244年、Augeasの長男Phyleusは、ElisからAcarnaniaのDulichium(Dulichia)へ移住した。[Apo.2.5.5, Diod.4.33.4, Home.Il.2.625]
** Phyleusが移住したDulichiumは、Echinades諸島の島ではなく、Cephallenia島西部のPaleisであったと思われる。[Paus.5.5.5]
BC1244年、Talausの子Adrastusは、Demonassaと結婚した。[Hyginus.71]
** 彼らの娘DeipylaをBC1243生まれとしなければならないため、この年の結婚と推定した。
BC1244年、Augeasは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.3]
BC1243年、Thamyrisの父Philammonは、the competition to sing the Pythian Apollon hymnで勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1243年、Glaucusの子Bellerophontesは、IsthmusからLyciaのXanthusへ移住して、Iobatesの娘Philonoeと結婚した。[Apo.2.3.2, Tzetzes.7.850]
** ProetusはIobatesに手紙を書いた。[Apo.2.3.1] Proetusは、100以上前の人物、手紙も書けなかったと思われる。
BC1243年、Alcmenaは、再婚したRhadamanthysと死別して、BoeotiaからTirynsのHeraclesのもとへ移住した。[Diod.4.33.2から推定]
** HeraclesがTirynsから追放されたときに、母Alcmenaも一緒にいたので、この頃、同居したものと思われる。[Diod.4.33.2]
BC1243年、Heraclesは、最初のElis攻めの軍を準備した。[Apo.2.7.2]
** Elis攻撃は、報酬未払いが原因とするのは創作と思われる。[Diod.4.33.1, Paus.5.1.9]
BC1243年、Augeasは、Heraclesの動きを知り、Actorの息子たち、CteatusとEurytusを将に任命した。[Apo.2.7.2, Paus.5.1.10]
BC1243年、Heraclesは、ElisのAugeasと戦うが勝敗が付かなかった。[Diod.4.33.1, Apo.2.7.3, Paus.5.2.1]
** Phliusの子Dameonも参加したが、Actorの子Cteatusに討ち取られた。[Paus.6.20.16]
** Diodorusは、この戦いの後で、Heraclesは、AchaiaのOlenus市のDexamenusのもとに滞在したと伝えている。[Diod.4.33.1]
** しかし、Dexamenusの双子の娘たちの夫は、Actorの息子たちであり、敵方の家へHeraclesが滞在したとは思えない。[Paus.5.3.3]
BC1243年、Heraclesが病気になり、休戦した。[Apo.2.7.2]
BC1243年、Heraclesが病気であるのを知ったActorの息子たちに攻撃されて、多くの者が殺された。[Apo.2.7.2]
BC1243年、Heraclesの異母兄Iphiclesは、ArcadiaのPheneusで戦いの傷が原因で死んだ。[Apo.2.7.3, Paus.8.14.9]
** Iphiclesは、Lacedaemonでの戦いで戦死したという伝承もある。[Plut.Mor.492d]
BC1243年、Amarynceusが死去。EleiaのBuprasiumで葬送競技会が開催された。[Home.Il.23.624]
** Amarynceusは、ElisのAugeasの盟友であったが、Heraclesとの戦いには登場しない。[Paus.5.1.10]
** 葬送競技会が開催されたとすれば、Heraclesとの戦いが開始されて、Actorの双子の息子たち殺される前までの間である。
BC1243年、Heraclesは、HyrminaからIsthmusへ向かう途中のActorの息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeで襲撃して殺した。[Apo.2.7.2, Diod.4.33.4, Paus.5.2.1]
** Aelianusは、Heraclesに加勢したCleonaans 360人が戦死したと伝えている。[Aelia.4.5]
** しかし、Actorの息子たちの母Molioneが犯人捜しをしたことから、少人数による暗殺規模であったと思われる。[Paus.5.2.2]
** Pausaniasは、Heraclesが彼らを矢で殺したと伝えている。[Paus.2.15.1]
** 当時、Cleonaeは、創建者Atreusが住んでいた。Atreusの父Pelopsは、Heraclesの母方の曽祖父であった。
** ElisがArgosに襲撃犯の処罰を求めたとき、HeraclesはTirynsにいたので、Cleonaeでの襲撃は、HeraclesがTirynsから追放される前であった。[Paus.5.2.1]
< Heracles's Pheneus period (5年間) >
BC1243年、Heraclesは、AlcmenaとIphiclesとIolausと共にTirynsからArcadiaのPheneusに移住した。[Diod.4.33.2]
** Elisからの要求にEurystheusが耐えられずに、Heraclesを退去させたと思われる。
** この頃のEurystheusは、息子たちが成年に達しておらず、勢力がなかったと思われる。
BC1243年、Thamyrisの父Philammonは、Pythia祭の歌唱の競技会で勝利した。[Paus. 10.7.2]
BC1242年、Nestorは、OrchomenusからClymenusの娘Eurydice(or Anaxibia)を妻に迎えた。[Home.Od.3.452, Hyginus.97, Apo.1.9.9]
BC1242年、Theseusは、貢物の一人としてPhalerumからCreteへ行った。[Paus.1.1.2, Paus.1.22.5, Plut.These.15]
** これは、創作で、実際は、Minosの後裔とAtheniansとの同盟締結のために、TheseusはCreteへ行ったと思われる。
** 9年目ごと、3度目の貢納であった。[Plut.These.15, 17] Minosとの戦いはBC1264年、和議と1回目貢納がBC1260年、2回目BC1251年
** Creteの王位は、9年を1期としていた。[Paus.3.2.4]
** MegaraのAlcathousの娘Periboeaも貢物の一人。[Paus.1.17.3; 1.42.2] Scirusの娘の子Menesthesも貢物の一人。[Plut.These.17]
** Minos自身が貢物の男女を迎えに来た。貢物を乗せる船はAtheniansが用意し、舵取りはSalamians。[Plut.These.17]
** Atheniansの若い男女がCreteへ送られたのは、競技会の勝者に与えられる奉公人としてであった。彼らの子孫は、Bottonを指導者としてMacedoniaに移住し、Bottiaeansと呼ばれるようになった。Aristotleも、若い男女は奴隷としてCreteへ送られたと述べている。[Plut.QuestGr.35, Plut.These.16]
BC1241年、Theseusは、Minosの娘Phaedraと結婚した。[Diod.4.62.1]
** Minosの子DeucalionはAtheniansと同盟を結ぶために、PhaedraをTheseusに嫁がせた。[Diod.4.62.1]
** Minotaur伝説は、Theseusが競技会でMinosの子Asterius(別名Minotaur)に勝ったことからできた逸話と思われる。[Apo.3.1.4, Paus.2.31.1]
** Cerameicus区の名祖Minosの娘Ariadneの子Ceramusは、Theseusの妻Phaedraと共にAthensに移住したと思われる。[Paus.1.3.1]
** Ceramicusは、Potters Quarter(陶工たちの区)であった。[Pliny.35.45.1]
BC1241年、Theseusは、CreteからAthensへ帰還する途中、Delos島に立ち寄った。[Plut.These.21]
** Delos島の祭司は、Theseusの父Aegeusの父Chironの子Carystusの子Zarexであったと推定される。[Plut.These.21]
BC1241年、TheseusとAmazonsのAntiopeとの間の息子Hippolytusは、祖父Pittheusの跡継ぎとなるためにTroezenへ移住した。[Diod.4.62.1]
BC1241年、Pelion山から追い出されたCentaursは、ArcadiaのPholoe山を根城にして山賊行為をしていた。[Apo.2.5.4]
BC1241年、Heraclesは、Pholoe山のCentaursと戦った。[Apo.2.5.4]
** この戦いは、HeraclesがTegeaのCepheusに協力したもので、以後、Heraclesは、Arcadiansを戦力として加えた。
BC1241年、CentaurのChironは、ArcadiaのMaleaで死んだ。[Apo.2.5.4]
BC1241年、Heraclesは、EleusisのEumolpusによって、Centaurs殺害の罪を清めた。[Apo.2.5.12]
BC1241年、Heraclesは、Argives, Thebans, Arcadiansから構成される、2回目のElis遠征軍を準備した。[Paus.5.3.1]
** AchaiaのDymeのEpeiansもHeraclesのElis遠征に参加した。[Strabo.8.3.9]
** Argivesは、Mantiusの子Oeclesが率いていたと思われる。Argosの内紛で、MelampusとBiasの後裔は、Oeclesの家族しかArgosにいなかった。
BC1240年、Heraclesは、ElisのAugeasと戦って、町を占領した。[Apo.2.7.2, Diod.4.33.4, Paus.5.3.1]
** EleiaのPylusやPisaも、Elisに加わって防戦した。[Paus.5.3.1]
** HippocoonもNeleusに味方した。[Apo.2.7.3]
BC1240年、Heraclesは、Elisに加勢したPisaへの遠征は神託により中止した。[Paus.5.3.1]
** ElisへPisaが加勢したことについて、ApollodorosやDiodorusに記述がなく、Pausaniasのみが伝えている。実際はなかったと思われる。
** Pelops亡き後、Elisが、Pisaに代わってOlympiaを支配下に置いて、競技会を開催するなど、Pisaにも影響力を及ぼすようになった。
** EurystheusがPisaからの請願を受けてHeraclesにElisを攻めさせたと推定される。[Apo.2.4.5, Paus.5.8.3]
** EurystheusとHeraclesは、PisaのPelopsの後裔であった。
BC1240年、Heraclesは、PylusのNeleusと戦って、町を占領した。[Apo.2.7.3]
** Heraclesに破壊されたPylusは、MesseniaのPylusではなく、Elis近くのPylusであった。
** Pausaniasは、HeraclesがEleiaのPylusに遠征したと伝えている。[Paus.6.25.2]
** Pausaniasは、Heraclesに滅ぼされPylusの廃虚がEleiaにあったと伝えている。[Paus.6.22.5]
** Neleusの12人いた息子はNestorを除いてすべて殺された。[Aelia.4.5, Apo.2.7.3, Strabo.8.3.28]
BC1240年、Heraclesは、Augeasの子PhyleusをElisに呼び戻した。[Diod.4.33.4]
** Heraclesは、Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasを許すと共に捕虜も返すという寛大な処置をした。[Paus.5.3.3]
BC1240年、Heraclesは、Eleia南部のLepreusの支配者Lepreusを一騎打ちで殺した。[Aelia.1.24, Athen.412a]
** Lepreusは、HeraclesがElisのAugeasに報酬を要求したときに、Heraclesに敵対した人物。[Aelia.1.24]
BC1240年、Heraclesは、MesseniaのStenyclerusで、Neleusの子供たちと誓を交した。[Paus.4.15.8]
** 誓約したのは、GereniaにいたNestorおよび戦死したNeleusの息子たちのそのまた息子たちのことと思われる。
** Heracleidaeの帰還時、HeraclesがNestorにPylusを預けたという大義を掲げた。[Paus.2.18.7]
** 不正な籤引きと同様に、Doriansが広めた創作と思われる。HeraclesはMesseniaに足を踏み入れてはいないと思われる。
BC1240年、Evanderは、ArcadiaのPallantiumから植民団を率いてRomeに移住して、Pallantiumを創建した。[Antiq.1.31.1-4, Paus.8.43.2]
** 60th year before the Trojan war. [Antiq.1.31.1]
** FaunusはEvanderを受け入れ、土地を分け与えた。[Antiq.1.31.2, Ita.6.579, Just.43.1]
** ArcadiansがalphabetをItalyへ持ち込んだ。[Antiq.1.33.4, Euseb.Chron.269, Hyginus.277, Livius.1.7]
** EvanderがItalyへ伝えたのは、Greek alphabetではなく、Homerの頃まで使われていたPelasgic lettersと思われる。[Diod.3.67.5]
** Evanderの移民団は、Elisの外港Cylleneから出発した。[DionyGuide.34]
** AD2世紀の叙事詩人Dionysius of Alexandriaは「Italy半島の西側のTyrrheniansの次に住むPelasgiansはCylleneから来た」と伝えている。[DionyGuide.34]
** Evanderは、TegeaからOlenusを結ぶ大街道を利用してElisの北西にあるCylleneに陸路で移動したと思われる。
** Tegea、Heraea、Olympia、Elis、Olenusは、古代の大街道(the Arkadhia road[LeakeM.1.023])であった。
BC1240年、Evanderに同行したEpeansやPheneusの人々は、Sicelsを追い出してSaturnianの丘に居住した。[Antiq.1.34.2, Antiq.2.1.4]
BC1240年、Sicelsは、PelasgiansとAboriginesによって追われてItaly半島南部へ移住した。[FGrH.3.228]
** ArgosのAlcyoneの女司祭職26年目で、Trojan Warの2世代前であった。(1186+27*2=1240) [Antiq.1.22.3, FGrH.3.228]
** Alcyoneの就任は、BC1265年。(1240+26-1=1265) Alcyoneが、18歳で就任したとすれば、BC1283年生まれ。
** Alcyoneは、MycenaeのSthenelusの子Eurystheusの姉と思われる。[Apo.2.4.5, Diod. 4.12.7]
BC1240年、Sicels、Oenotriansに追われてSicily島へ移住した。[Antiq.1.22.3]
** Troy戦争の3世代前、ArgosでAlcyoneが神職を務めた26年目[Antiq.1.22.3]
** 移住したSicelsの指導者は、Stratonであった。[Antiq.1.22.5]
BC1240年、Pelasgiansは、Sicelsの移住に伴う混乱でSicily島からAcarnaniaに移住した。[Paus.1.28.3, Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
BC1240年、Geryonesの孫Noraxは、Sardinia島南東部に島で最古のNoraを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1239年、Philammonの子Thamyrisは、the competition to sing the Pythian Apollon hymnで勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1239年、Heraclesは、Olympiaで競技会を開催した。[Apo.2.7.2, Paus.5.8.3]
** Heraclesが競技会を開催したのは、Athens王Aegeusの治世中であった。[Euseb.185]
** 歴代の実力者が開催していたOlympia競技会の開催は、EurystheusにHeraclesに対する敵対感情が生じる原因になったと思われる。
BC1239年、Aegeusが死去。TheseusがAthens王になった。[Diod.4.61.8, Plut.These.24]
BC1239年、Heraclesは、AmyclaeとSpartaでHippocoonと戦って勝利した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.6, Tzetzes.2.450]
** HeraclesがHippocoonを攻めたのは、伝承では、罪の清めを依頼して拒否されたなどがある。[Paus.3.15.3]
** 実際は、TegeaのCepheusからの要請に応じた戦いであったと思われる。
** Hippocoonの息子たちの半分はSpartaに住み、彼と残りの息子たちはAmyclaeに住み、IcariusはPharisに住んでいた。[Paus.3.14.7, 3.15.1]
** Hippocoonとの戦いで、Cepheusと彼の17人の息子たちは戦死した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.6]
BC1238年、Sphinxの反乱が、Thebesに迫り、Creonの息子Haemonが戦死した。[Apo.3.5.8]
BC1238年、Oedipusは、Corinth勢を率いてThebesに帰還し、Sphinxの反乱を鎮圧した。[Paus.9.5.10, Paus.9.26.2]
** Sphinxとの戦いには、Oedipusの息子たち、EteoclesとPolyneices は参加せず、Adrastus はOedipusに同道したと思われる。
** Sphinxの反乱とは「海の民」の一部と思われる。
** Sphinxは、多数の船でAnthedon沖に現れ、Anthedonの西南西約27kmの標高550m位の山に拠点を置いて周辺を荒らした。[Paus.9.26.2]
** Boeotiansは、treacheries「裏切り、反逆」を riddles「なぞなぞ」(Athen.456bを参照)と呼んでいた。[August.City.18.13]
BC1238年、Adrastusは、Amphiarausと和解して、Argosへ帰還した。[FGrH.Nr12.F29, Dic: Amphiaraus]
** Alcmaeonが、BC1237生まれで、結婚と和解は同じ頃と思われる。
BC1238年、Talausの娘Eriphyleは、Amphiarausと結婚した。[Apo.1.9.13, Diod.4.65.6, Hyginus.71]
< Heracles's Calydon period (3年間) >
BC1238年、Heraclesは、ArcadiaのPheneusに5年間居住した後で、AetoliaのCalydonへ移住した。[Diod.4.34.1]
** Heraclesは、多くのArcadiansと行動を共にしていたため、Eurystheusに敵とみなされないようにPeloponnesusを出たと思われる。[Diod.4.34.1]
** Eurystheusは、妻の祖父で、Arcadiaの支配者Lycurgusを通して、Pheneusから去るようにさせたと思われる。
BC1238年、Heraclesは、Calydonに攻め寄せたAchelousを打ち負かした。[Tzetzes.2.450]
** Achelousの攻撃対象は、Heracles本人であったかもしれない。Achelousの妻SteropeとHeraclesに殺されたMolioneの息子たちは、また従兄妹であった。[FGrH.Nr333.F79]
BC1238年、Heraclesは、CalydonのOeneusの娘Deianeiraと結婚した。[Diod.4.34.1]
BC1238年、Heraclesは、Calydonで大規模なAchelous川の灌漑地を造成した。[Diod.4.34.1, 4.35.3, Strabo.10.2.19]
** Heraclesが灌漑したのは、Paracheloitis(Achelous川の河口近くの氾濫地帯)と思われる。[Strabo.10.2.19]
** Achelous川は、Calydonから西にあるPleuronやCuretesのさらに西を流れていた。Oeneusの支配はその地まで及んでいたと思われる。
BC1237年、HeraclesはCalydoniansを率いてThesprotiansの地へ向けて遠征し、Phyleusを殺して、Ephyraを占領した。[Apo.2.7.6, Diod.4.36.1]
** Thesprotiansの地は、Acarnaniaの北西にあり、中心地はEphyraであった。後に、Dodonaも支配地域に入った。[Strabo.7.7.11]
** Heraclesが、MolossiansのAidoneusに捕らわれていたTheseusを放免させたという伝承がある。[Plut.Thess.35]
** この伝承では、Heraclesの生存中に、TheseusはAthens王としての権力を失っている。しかし、Heraclesの死後、TheseusはEurystheusの攻撃に対して、Heraclesの息子たちに加勢している。[Diod.4.57.6]
** この遠征には、Augeasの子Phyleusも協力して、Ephyraと敵対関係にあったEuphetesから胸当てを贈られている。[Home.Il.15.531]
** この遠征には、Jasonと息子たちも参加し、Mermerusは戦死したが、PheresはEphyra、JasonはCorcyra島を得た。[Paus.2.3.9]
** Trojan Warの前に、Ephyra に住むPheresの子Mermerusの子IlusをOdysseusが矢に塗る毒を求めて訪問した。[Home.Od.1.261]
** この遠征には、Icariusと2人の息子たち、AlyzeusとLeucadiusも参加したと思われる。[Strabo.10.2.9]
** この遠征には、CorinthのSisyphusの子Ornytionも参加したと思われる。[Paus.2.3.11から推定]
** この遠征には、Melampusの子Abasの子Coeranusの子Polyidusも参加したと思われる。PolyidusはCorinthに住んでいた。[Home.Il.13.663]
** PolyidusはAcarnaniaのDulichiumに住むPhyleusの娘Eurydameiaと結婚した。[FGrH.Nr333.F115]
** この結婚を可能にしたのは、Phyleusの遠征参加であったと思われる。
** この遠征は、最遠の地Corcyra島に入植したJasonの発案と思われる。
** Oedipusと共にThebesに遠征したJasonが各地を荒らしていたSphinx(海の民)からCorcyra島付近の豊かさの情報を得たと思われる。
BC1237年、Jasonは、CorinthからCorcyra島へ移住した。[Paus.2.3.9]
** Jasonの移住の動機は、妻Medeaの死であったと思われる。
** Jasonの移住には、Medeaが産んだMermerusやPheresも同行した。[Paus.2.3.9]
BC1237年、Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からTaphos島へ移住した。[Apo.2.4.5から推定]
BC1237年、Aeolusの子Sisyphusは、JasonからCorinthを継承した。[Home.Il.6.144, Paus.2.3.11]
BC1237年、Telonの子Oebalusは、Teleboansを率いてAcarnaniaからItaly半島のCapreae(near Neapolis)へ移住した。[Dic:Oebalus, Virg.Aene.7.713]
** OebalusはAchelous川近くに居住し、彼の娘Peireneは、Sisyphusの子Ornytionの妻になった。[Paus.2.3.11と川の名前と年代から推定]
BC1237年、Icariusの息子たち、LeucadiusとAlyzeusは、LeucasとAlyziaを創建した。[Strabo.10.2.9]
** 当時、Leucasは島ではなく、半島であった。[Strabo.1.3.18, PsScylax.34]
BC1237年、Heraclesは、Ephyraに滞在中、IolausにSardinia島への植民を指示した。[Apo.2.7.6]
** Heraclesは、MaeoniasのSardinia島などへの入植について、Omphaleから聞き知っていたものと思われる。[Herod.1.94, Strabo.5.2.2]
** Sardinia島入植については、神託に従ったという伝承もある。[Diod.4.29.3]
BC1237年、HeraclesとDeianeiraとの間に、息子Hyllusが誕生した。[Paus.3.18.11]
BC1237年、Tyndareusは、AetoliaからSpartaへ移住した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.5, Tzetzes.2.450]
** Heracleidaeの帰還時、Heracleidaeは、先祖のHeraclesがTyndareusにSpartaを預けたという大義を掲げた。[Paus.2.18.7]
** Tyndareusは、Heraclesによって帰還させられたことになっているが、HippocoonやIcariusがいなくなったSpartaへ自らの意志で帰還したと思われる。
BC1237年、Tyndareusの息子たち(Dioscuri)は、AndaniaのLeucippusの2人の娘たちを奪い、自分たちの妻にした。[Paus.3.18.11]
** この後、Andania近くのOechaliaのEurytusも追い出されているので、Leucippusは戦死し、娘たちは捕虜になったと思われる。
BC1237年、MesseniaのOechaliaのEurytusは、SpartaのTyndareusに攻められて、追放された。[Paus.3.18.11]
BC1237年、Eurytusは、Euboeaへ移住して、3番目のOechaliaを創建した。[Strabo.10.1.10]
BC1236年、SicyonのPolybusは、在位40年目で死んだ。[Euseb.175]
BC1236年、Polybusの娘Lysianassaの子Adrastusは、祖父からSicyon王を継承した。(4年間)[Euseb.175, Paus.2.6.6]
BC1236年、Iolausは、Thespiusの娘たちの息子たちを率いてAthensを出発した。[Diod.4.29.1, Paus.1.29.5]
BC1236年、Iolausは、Sardinia島北東部にOlbiaを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1236年、HeraclesとDeianeiraの間に、息子Ctesippusが生まれた。[Apo.2.7.8, Hesiod.98]
BC1236年、Peleusは、IolcusのPeliasの子 Acastusを殺したMinyansを追放した。[Apo.3.13.7, FGrH.Nr333.F62, Strabo.9.5.15]
** Iolcus破壊の原因は、IolcusのAcastusの僭主化に反発したMinyansの反乱であった。[Strabo.9.5.15]
** BC511年、Hippiasの亡命先候補としてIolcusの名前が登場する。[Herod.5.94]
** BC290年、Demetrias創建時、Iolcusは、町として存続していたが吸収された。[Strabo.9.5.15]
** Straboは、Iolcusが破壊されたままだと記しているが、町の中心部分と思われる。[Strabo.9.5.15]
** BC5世紀の抒情詩人PindarはIolcusを破壊したとき、PeleusがThetisを捕らえたと伝えている。[Pind.Ne.3.30, FGrH.Nr333.F62]
** Thetisは、Acastusの息子の妻であったと思われる
BC1236年、Iolcus周辺にいたMinyansは、Lemnos島へ移住した。[推定]
** 後にPelasgiansによって、追放されるMinyansがLemnos島に住み着いたのは、このときと推定される。
BC1236年、Pheraeに住んでいたPheresの子Admetusは、EuboeaのTamynaeへ亡命した。[FGrH.Nr325.F9から推定]
** ThessalyのPheraeにもAdmetusの母であるMinyasの娘Periclymeneと共に移住したMinyansがいた。
** Peliasの娘Alcestisの夫Admetusも反乱に巻き込まれて、Alcestisの前夫Hippasusの子Theseusのもとへ亡命した。[FGrH.Nr325.F9]
** Hippasusの死後、Alcestisは息子Theseusを連れて、Admetusと再婚した。[FGrH.Nr325.F9]
BC1236年、Arcesiusの子Laertesは、ParnassusのAutolycusの娘Anticliaと結婚した。[Apo.E.3.12, Hyginus.97]
** Anticliaの父Autolycusの母Philonis(or Chione)の父は、Pandion。
** Laertesの父Arcesiusの父Cephalusの父は、Pandion。
** つまり、LaertesとAnticliaは又従兄妹であった。
BC1235年、Cercaphusの子Ormenusは、Iolcusの南東にOrmeniumを創建した。[Strabo.9.5.18]
** Ormenusは、Lapithsであったが、IolcusのMinyans追放に加勢して、the Pagasaean gulf周辺に進出できたものと思われる。
** Ormenusの母は、Myrmidonの娘Eupolemiaであった。Peleusは、Ormenusの母方の従兄弟Aeacusの息子であった。
BC1235年、Heraclesは、Oeneusの家で彼の親戚のArchitelesの子Ennomus(Eurynomus)を過失により殺害した。[Apo.2.7.6, Athen.410f, Diod.4.36.2, Tzetzes.2.450]
** HeraclesとDeianeiraとの結婚から3年後であった。[Diod.4.36.2]
BC1235年、Heraclesは、Trachisへ行く途中、Calydonの東のEvenus川で、CentaurのNessusを殺害した。[Apo.2.7.6, Diod.4.36.5, Strabo.10.2.5, Tzetzes.2.450]
** Centaursの生き残りNessusは、AetoliaからPhocisやThessalyへ通じる要衝の地で山賊行為をしていた。
BC1235年、Achillesは、PeleusとThetisとの間の息子として、Phthiaで誕生した。[Pind.Py.3.100]
< Heracles's Trachis period (12年間) >
BC1235年、Heraclesは、CalydonからDryopesの地を通り、TrachisのCeyxのもとへ到着した。[Apo.2.7.7, Diod.4.36.5, Paus.1.32.6]
** Eurystheusが、ArgosのOeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonに対してHeraclesを追い出すように迫ったと思われる。
** BC1247、Melampusの子Mantius、息子Oecles、孫AmphiarausがArgosに帰還する際に、Eurystheusが協力したと思われる。
** Ceyxは、Myrmidonの子Actorの息子で、Heraclesの親友であるPatroclusの父Menoetiusの兄弟と思われる。[Home.2.681, Paus.1.32.6]
** Ceyxが率いるMeliansは、Ossa近くのDotium平原からLapithsに追われたAenianiansの支族と思われる。[Apo.2.7.7, Strabo.9.5.22]
BC1234年、Oedipusは、MycenaeのSthenelusの娘Astymedusaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** CreonはHeraclesとの確執もありArgives嫌いであった。[Dic:Creon]
** この結婚は、OedipusがThebesを追放された原因であったと思われる。
** Oedipus がCorinthのTeneaにいた頃、MycenaeのAstymedusaとは面識があったと思われる。
BC1234年、Heraclesと、EphyraのPhyleusの娘Astyocheとの間に、息子Toepolemusが生まれた。[Apo.2.7.8, Home.2.653]
BC1233年、HeraclesとDeianeiraとの間に、息子Hoditesが生まれた。[Diod.4.37.2, Paus.4.30.1, Apo.2.7.8, Hesiod.98]
BC1233年、Atreusの子Plisthenesは、CreteからCleonaeに、Catreusの娘Aerope(or Eriphyle)を妻に迎えた。[Apo.3.2.2, Euri.Scho.Or.5.1, Dictys.1.1]
** CreteとCleonaeの遠距離婚を可能にしたのは、Phliusに住むPhliasusであったと推定される。
** Catreusの娘AeropeとAriadneの子Phliasusは、Minosを共通の祖父とする従兄妹であった。
BC1232年、Talausの子Adrastusは、Sicyonを4年間支配して、Argosへ帰還した。[Euseb.175, Paus.2.6.6]
BC1232年、Iolausは、Greeceへの帰国の途中で、Sicily島に滞在した。[Diod.4.30.3]
** DaedalusがいたSicily島中南部のCamiciの地と推定される。[Strabo.6.2.6]
BC1232年、Telephusは、母Augeと共にArcadiaからMysiaへ移住した。[Paus.1.4.6, Strabo.12.8.4]
BC1231年、Iolausは、Sardinia島からTrachisに帰還した。[Diod.4.30.3]
BC1231年、HeraclesとDeianeiraの間に娘Macariaが生まれた。[Paus.1.32.6, Plut.Pelo.21]
BC1230年、Ornytionは、Corinthian gulfに面したLechaeumと、Saronic Gulfに面したCenchreaeを創建した。[Paus.2.2.3]
BC1230年、Ornytionの子Phocusは、CorinthからPhocisのTithoreaへ移住した。[Paus.9.17.6, Paus.10.4.10]
BC1230年、OrmeniumのAmyntorの子Phoenixは、PhthiaのPeleusのもとへ亡命して、Dolopiaを与えられた。[Home.9.430, Strabo.9.5.11]
** Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。
** つまり、Peleusは、Phoenixの父Amyntorの又従兄弟であった。
** Phoenixの亡命は、父Amyntorとの争いが原因であった。[Home.9.430-]
BC1230年、Heraclesは、Delphiの神殿に不敬を働いたDryopsの王Phylasを殺し、Dryopiansを追放した。[Diod.4.37.1, Herod.8.43, Paus.4.34.9-10]
** Dryopiansは、HeraclesとMeliansに追われた。[Diod.4.37.1, Herod.8.43]
** Dryopiansは、Spercheius川一帯の諸地域からDryopsに進出して来た。[Strabo.8.6.13, Strabo.9.5.9]
** Heraclesに殺されたPhylasの3代前のDryopsは、Parnassus周辺のLycoritaeの隣にDryopsを創建した。[Paus.4.34.9]
** Heraclesに追い出されたDryopiansは、Eurystheusのもとへ逃げて、ArgolisにAsineを創建した。[Diod.4.37.2]
** 後に、Dryopiansは、Argivesによって、Asineから追われてLacedaemonへ移住した。[Paus.4.8.3]
** Hermioneには、Heraclesに追われたDryopiansが住んでいた。[Herod.8.43]
** Heraclesに追い出される前に、Dryopiansは、EuboeaにStyraを創建していた。[Paus.4.34.11]
** Phylasの父は、Cragaleusと思われる。[Antoninus.4]
** Aeschinesの演説「against Ctesiphon」(107)にDelphiを冒涜したCragalidaeが登場する。
BC1230年、Dryopiansは、Heraclesに追われてEuboea南東部のCarystusに移住した。[Diod.4.37.2]
BC1230年、Daedalusの子Iapyx率いる移民団は、CreteからItaly半島東南部に移住した。[Herod.7.170, Pliny.3.102, Strabo.6.3.2, Strabo.6.3.6]
** Iapyxは、Hyriaを創建したと伝えられるが、Messapusが創建した町と思われる。[Messapusの出身地Hyriaから推定]
** 伝承では、IapyxがGlaucusを探していたことになっている。[Athen.523a]
** Iapyxは、Bottonらと同じ植民活動をしていたと思われる。[Strabo.6.3.2, Strabo.7.8.2]
BC1230年、Botton率いるCreteの移民団は、Adrias海から陸路でMacedoniaへ移住して、その地に定住した。[Strabo.6.3.2, Strabo.7.8.2]
** Pellaの少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusが創建したEuropusがあった。[StephByz.E287.14]
** Bottiaeansは、Argeadaeに追われてChalcidiansの地に隣接した土地へ移住。Thucydidesの時代もそこにいた。[Thucy.2.99]
** BottiaeansはBithyniaに植民市を建設した。最初Ankore, 次にAntigoneia, そして、Lysimachosの妻Nikaiaに因んでNikaiaとよばれた。[StephByz.N474.17]
BC1230年、Minosの子Cleolausは、CreteからItaly半島東南部に移住した。部族は彼の息子Daunusに因んで、Dauniiと呼ばれた。[Solinus.2.6]
** Cleolausの子Daunusの娘Euippeは、Tydeusの子Diomedesと結婚した。[Ovid.Meta.14.500, Dic: Daunus]
BC1230年、TegeaのTelephusは、彼の母Augeと共にPergamusのあるMysiaへ移住した。[Paus.1.4.6, Strabo.12.8.4]
** Arcadiansと称する住人がPergamusにいたことから、Tegeaの住人の集団移住と思われる。[Paus.1.4.6]
** Telephusは、妻の父TeuthrasからMysiaを継承して実力者になった。[FGrH.Nr327.F19]
BC1230年、Ariadneの子Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThraceのIsmarusに移住した。[Home.Od.9.193, Diod.5.79.2]
BC1227年、Heraclesは、Aegimiusからの要請でLapithsと戦い、Gyrtonの王Caeneusの子Coronusを殺した。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.3]
** このとき、Aegimiusは、Dorisの土地の3分の1と王権を約束した。[Diod.4.37.3]
** Aegimiusは、Heraclesの死後、Hyllusを養子にした。[Strabo.9.4.10]
** Hyllusは、Dorians 3部族の一つの首領となっているので、3分の1の土地と住人を割譲されたと思われる。
BC1227年、Heraclesは、Lapithsに味方したDryopesの王Laogorasを殺した。[Apo.2.7.7, Tzetzes.2.460]
** Dryopesは、Heraclesに敗れて各地に逃れたが、Lapithsの地に逃れて抵抗していた者たちを一掃したものと思われる。
BC1227年、Heraclesは、ItonusでPelopiaの息子Cycnusと一騎打ちをして討ち取った。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.4]
BC1227年、Heraclesは、Iolcus近くのOrmeniumの支配者Ormeniusと息子Amyntorと戦って討ち取った。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.4]
** LapithsではないPhylaceのProtesilausは、Heraclesに協力したか、中立を保って、湾の西側を南のAntronまで領土にした。[Strabo.9.5.7]
BC1227年、Heraclesは、Lapithsとの戦いを終えて、Trachisに帰還した。[Apo.2.7.7]
BC1226年、Oeneusの子Tydeusは、Adrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Deipylaと結婚した。[Apo.1.8.5, Hyginus.97]
** Oeneusの母Aeoliaは、Adrastusの父Talausの父Biasの姉であり、TydeusとAdrastusは、Amythaonを共通の曾祖父とする又従兄弟であった。
BC1225年、Oedipusは、Thebes から追放されて娘Antigoneと共に、AthensのTheseusのもとへ亡命した。[Apo.3.5.9]
** Antigoneの息子MaeonもAthensに同行したと思われる。
** Heracleidaeの帰還の頃、ThebesにAthensのAegeusの血を引くAegeidaeがいたという伝承がある。[FGrH.Nr70.F16]
** Maeonの妻は、Aegeusの孫娘であったと推定される。
** EteoclesとPolyneices協議の結果、Thebesを交代で治めることになった。[Apo.3.6.1]
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、ArgosのAdrastusのもとへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]
** Adrastusは、Polyneicesの父Oedipusの養父Polybusの娘Lysianassaの息子であった。
** つまり、Polyneicesは義理の従兄弟Adrastusのもとへ亡命した。
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、Adrastusの娘Argiaと結婚した。[Hyginus.72, Paus.9.5.12]
** Adrastusは、Sicyonで暮らしていたときに、CorinthにいたPolyneicesと面識があったと思われる。
BC1225年、Helenは、Tyndareusの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.3.10.6, Paus.5.19.3]
** Helenの母は、Tyndareusが帰還後に娶った若い妻で、遺児となったHippocoonの娘と思われる。
BC1225年、Phyleusの子Megesは、Cephallenia島から、Heliusの子Taphiusが移住して住人の少なくなったEchinades諸島へ移住した。
** Megesは、Echinadesの一番大きな島を故郷と同じDulichiumと呼んだ。[Home.Il.2.625, Home.Il.15.518, Apo.2.4.5, Apo.2.4.7から推定]
BC1224年、Heraclesは、Oechaliaへの遠征のために、Arcadians、Melians、Locriansを招集した。[Apo.2.7.7]
** Heraclesの遠征動機は、EurytusがEuboeansから貢納を強制していたからであるという説もある。[Athen.461f]
** 実際は、LapithsであるEurytusがThessalyのLapithsに協力して、Heraclesと戦っていたと思われる。
** ThessalyからEurytusと共にOechaliaへ逃れたLapithsは、かなりの数であったと思われる。
** Rome時代には、Eretria領内にOechaliaがあり、Heraclesが破壊した町の名前を残していた。[Strabo.10.1.10]
BC1224年、Heraclesは、EuboeaのOechaliaに住んでいたEurytusを攻めた。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.5]
** Eurytus自身と彼の息子たち、Toxeus、MolionおよびClytiusは戦死、娘Ioleは捕虜になった。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.5, Hyginus.31]
** TrachisのCeyxの子Hippasusが戦死した。[Apo.2.7.7]
** Heraclesの母の腹違いの弟Licymniusの息子たち、ArgiusとMelasが戦死した。[Apo.2.7.7]
BC1224年、Heraclesは、Oechaliaから船でEuboeaのCenaeum岬に着き、生贄式を行った。[Apo.2.7.7]
BC1224年、HeraclesとDeianeiraの間に、息子Gleneusが生まれた。[Diod.4.37.2, Paus.4.30.1, Apo.2.7.8, Hesiod.98]
** Gleneusの乳母Abiaが、Heracleidaeの帰還に参加していたことから、Gleneusは末子と思われる。[Paus.3.15.10, Paus.4.30.1]
BC1223年、Heraclesは、TrachisのHeracleaと呼ばれる町を創建した。[Athen.462a]
** Heracleaは、HeraclesがLydiaから呼び寄せたCylicranesが盗賊集団と化したため、居留地を破却して、新たに建設された。
** Heraclesの遠征には、Lydians(Kylikranoi, Cyliks)がつき従っていた。[Athen.461f]
BC1223年、HeraclesはHyllusに、成人したらIoleと結婚するように遺言した。[Apo.2.7.7]
BC1223年、Heraclesは、Trachisで死んだ。[Apo.2.7.7]
** Heraclesは、52歳の生涯であった。[Cleme.Exho.2, JeromeChro.1196]
** Heraclesは、背は低いが、強い精神力を持っていた。[Pind.Is.4.50]
** 小さな身長、剛毛の髪、大きな力、スリムで、しなやかで、暗く、鉤鼻、明るく輝く目、そして長くまっすぐな髪。[Cleme.Exho.2]
** Heraclesの死因は不明であるが、過労が持病を悪化させたことによる病死と推定される。
BC1223年、Oedipusは、Athensで死んだ。[Apo.3.5.9, Paus.1.28.7]
** OedipusはThebesに埋葬され、その後、Athensに改葬された。[Paus.1.28.7]
BC1223年、Oedipusの葬送競技会がThebesで開催され、Talausの子Mecisteusが活躍した。[Home.23.676, Paus.1.28.7]
** Adrastusの娘ArgeaはOedipusの葬儀に参列した。[Hesiod.CW.F24]
** Polyneicesは、Eteoclesと争っており、妻Argeaを弔問に行かせたと思われる。
** Mecisteusの母Lysianassaの父Polybusは、Oedipusの養父であり、OedipusはMecisteusの義理の叔父であった。
** AmphiarausはOedipusを埋葬した一人であった。[Hesiod.CW.F99]
** PolyneicesがEteocles に招かれてThebesに戻ったのは、Oedipusの死後であった。Polyneicesの妻の弔問がきっかけと思われる。
BC1222年、Asclepiusの子Machaonは、MesseniaのPharaeからDioclesの娘Anticleiaを妻に迎えた。[Paus.4.30.3]
BC1222年、Oeneusの娘Gorges(or Gorge)は、CalydonからAmphissaのAndraemonに嫁いだ。[Apo.1.8.1, Hyginus.97, Paus.10.38.5]
BC1220年、Arcesiusの子Laertes率いるCephalleniansは、Leucas半島のNericusを攻略した。[Home.Od.24.375, Strabo.1.3.18, Strabo.10.2.8]
BC1220年、AmazonsがAthensに侵入した。
** Amazonsの侵入は、AdrastusのThebes攻めの5年前であった。[Parian.Marble.21]
BC1220年、HyllusはAegimiusの養子となり、Doriansの3部族の一つHylleisの始祖になった。[FGrH.Nr70.F15, Strabo.9.4.10]
** HeracleidaeがDoriansの地へ行ったのは、Hyllusが死んだ後である。
BC1220年、Teucerは、Aeacusの子TelamonとAlcathousの娘Eriboea (or Periboea)との間の息子として誕生した。[Lycoph.450, Parthe.26から推定]
** Teucerの母は、TroyのLaomedonの娘Hesioneと伝えられる。[Apo.3.12.7, Hyginus.97]
** この伝承は、CyprusにTroyの捕虜たちと共にSalamisを創建したTeucerの後裔が、住民を従わせるために流布した創作と思われる。[Athen.256b]
BC1219年、Hyllusは、Ioleと結婚した。[Apo.2.8.2]
BC1218年、Eurystheusは、CeyxにHeraclesの子供たちを追い出さなければ武力に訴えると脅した。[Diod.4.57.3, Paus.1.32.6]
BC1218年、Heracleidaeは、TrachisからAtticaのTricorythus(Marathon近く)へ移住した。[Diod.4.57.4, Paus.1.32.6]
** Theseusの妻の一人Iopeは、Iolausの妹であり、TheseusとIolausは、義兄弟であった。[Plut.These.29]
BC1217年、Eurystheusは、Heracleidaeが住んでいたAthensへ攻め込んで、Iolausに討ち取られた。[Apo.2.8.1, Paus.1.44.10, Strabo.8.6.19]
** Heraclesのすべての息子たちが成人して、Heraclesの栄光のために若者たちに誇りの精神が芽生えたときであった。[Diod.4.57.5]
** ArgosのHera神殿の巫女、Eurystheusの娘Admeteは、Samos島に逃れた。[Athen.15.672a]
** ArgosとMycenaeはHera神殿をめぐって争っていたが、Eurystheusの時代にはMycenaeの管轄にあった。[Diod.11.65.2]
BC1217年、Atreusは、Mycenaeを継承して、CleonaeからMycenaeへ移住した。[Diod.4.58.2]
** Atreusが創建したCleonaeは、兄弟Cleonymusを住まわせ、この時、町の名が変わった。[FGrH.Nr2.F3, Paus.2.15.1]
** << AtreusがMycenaeを継承した理由 >>
** Eurystheusの死後、後継者がいなくなり、神託がPelopsの子を王とすべしと告げた。[FGrH.Nr333.F133]
** EurystheusがHeracleidaeを攻めるために出発するとき、AtreusにMycenaeを託した。[Dic:Atreus, Thucy.1.9]
** Atreusは、Perseusの娘Autochtheの息子であったと推定される。[Dic:Perseus]
** したがって、Atreusには、祖父Perseusが創建したMycenaeの相続権があった。
BC1216年、Iolausは、Athensで移民を集めてSardiniaへ移住した。その後、IolausはSardiniaで生涯を終えた。[Paus.9.23.1]
** Iolausは、AdrastusのThebes攻めのときには、Greeceにいなかったと思われる。
BC1216年、Oedipusの子Polyneicesは、Eteocles に招かれてThebesに戻った。その後、再びArgosへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]

BC1215年、不慮の死を遂げたThebes攻め参加予定者Lycurgus(or Lycus)の子Opheltes(or Archemorus)を偲んで第1回Nemean gamesが開催された。[Apo.3.6.4, Cleme.Exho.2, Euseb.Pra.2.6, Hyginus.14, Hyginus.74, Hyginus.273, Paus.8.48.2, Pindaros.1]
** Nemean gamesは5年ごとに開催された。[Hyginus.74]
BC1215年、Thebesを追放されたPolyneicesに同行して、Tydeusが、Mycenaeを訪問した。[Home.4.364]
** Mycenaeは援軍を出すことを承諾したが、不吉な前兆により援軍を出さないことに決した。[Home.4.364]
** Mycenaeは、Perseus創建時からArgosとは、敵対関係にあった。
** 当時のMycenaeは、AtreusかThyestesの支配下にあったが、応対者の名前が逸話に登場しない。Tydeusらの訪問は創作と思われる。
BC1215年、Seven Against Thebes [Apo.3.6.1, Hyginus.70, Paus.9.9.1]
** Argos側の援軍には、ArcadiansやMesseniansがいた。[Paus.9.9.2, Paus.2.20.5]
** PharaeのDioclesの2人の息子CrethonとOrtilochusと思われる。
** Thebes側の援軍には、Phociansや、Minyan地方のPhlegyansがいた。[Paus.9.9.2]
BC1215年、Tydeusは、Thebesへ使者としての帰り、Thebes勢に襲われるが、逆襲して、Haemonの子Maeonのみが生還した。[Home.4.364]
BC1215年、Astacusの子Melanippusは、Amphiarausに討ち取られた。[Apo.3.6.8]
** BC712、MegaraのZypoetesが移民団を率いて、Bithyniaに町を作った。町は近隣部族の攻撃を受けて、Atheniansの移住を求めた。その移民団を率いたのが、ThebesのSparti であったAstacusの後裔であった。町の名前はAstacusになった。[Memnon.12.1.1, Paus.5.12.7]
** AtheniansにThebesのSpartiの後裔が含まれていたのは、BC1200にTanagra周辺のGephyraeansが、Athensへ移住したからと思われる。[Herod.5.57, Paus.9.20.1]
BC1215年、EteoclesとPolyneicesは、戦死した。Eteoclesの子LaodamasがThebes王に即位して、Creonが後見人になった。[Paus.1.39.2]
BC1215年、Theseusは、Thebesと和議を結び、放置されていたArgivesの遺体を葬った。[Aelia.12.27, Plut.These.29]
** Pausaniasは、TheseusがThebesと戦って遺骸を運んだ、あるいは、戦いはなく、Thebesが許したとも伝えている。[Paus.1.39.2]
** BC4世紀の弁論家Isocratesは、AthensがThebesに脅しをかけたと伝えている。[Isocra.Pan.170]
** Adrastusら将官はEleusisに、それ以外の兵はEleutheraeに埋葬された。[Plut.These.29]
** BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを希望した。[Paus.1.38.8]
** この頃から、EleutheraeはThebesよりもAthensに好意をもっていたと思われる。
BC1215年、Amphiarausの御者Batonは、IllyriaのEncheleae近くのHarpyiaに移住した。[Polyb.Fr.2.34]
** Illyriaの指導者Batonとの混同と思われる。[Strabo.7.5.3]
BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、ThraceのIsmarusの近くにMaroneiaを創建した。[Diod.1.20.2]

< 1st return of Heracleidae >
BC1215年、Hyllusは、Peloponnesusに侵入して、各地を占領した。[Apo.2.8.2]
** 戦力の回復していないMycenaeは籠城し、Hyllusが占拠したのは、MideiaとTirynsと思われる。[Pind.Ol.7.20, 75, Strabo.8.6.11]
BC1215年、Atreusは、Aegisthusに殺された。[Hyginus.88, Tzetzes.1.450]
** しかし、AegisthusがAgamemnonに殺されていないことから、Atreusは天寿を全うしたものと思われる。
BC1215年、AgamemnonとMenelausは、ThyestesによってMycenaeから追放されて、Tyndareusのもとへ亡命した。[Tzetzes.1.450-]
** AgamemnonとMenelausの祖父Atreusは、Tyndareusの母Gorgophoneの姉妹Autochtheの息子であった。
** つまり、AgamemnonとMenelausは、Atreusの従兄弟Tyndareusを頼って、亡命した。
BC1215年、Pelopsの子Alcathousは、Megaraで死んだ。[Paus.1.42.4から推定]
BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraへ移住し、Alcathousの跡を継承した。[Paus.1.42.4]

BC1214年、Heracleidaeは、Peloponnesus各地に悪疫が発生したため、Tricorythusへ撤収する。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.4]
** Hyllusは、「3度目の収穫の後に帰還するように」との神託を得た。[Apo.2.8.2]
** Mycenaeの勢力回復や、Hyllusと異母兄弟Tlepolemusとの仲間割れが撤収の原因と思われる。
** TlepolemusはHyllusらと共に撤収せずに、Rhodesへ移住した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7]
BC1214年、Alcmenaは、Megaraで死んだ。[Paus.1.41.1]
** Alcmenaの埋葬場所をArgosにするかThebesにするかで争いが起った。[Paus.1.41.1]
** しかし、AlcmenaはMideiaの生まれで、Argosとは無縁であった。
** また、Thebesには、AmphitryonやAlcmenaの孫たちの墓があったが、埋葬はできなかったものと思われる。
** Alcmenaは、BoeotiaのHariartos領のOcaleaeにある、Rhadamanthysの墓の傍らに葬られた。[Plut.Lysa.28]
** Alcmenaの墓は、BC4世紀にSpartaのAgesilaus(BC399-358)によってSpartaへ改葬された。[Plut.Mor.577e]
** Alcmenaの墓には、Egypt文字に似た古代文字(Cretan hieroglyphs)が書かれた青銅板があった。[Plut.Mor.577e]
** Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidosに託して、Egyptの王Nectanabisに送って、解読した。[Diogenes.8.87.]
BC1213年、Tlepolemusは、Rhodesへ移住し、Lindus、Ilysus(Ialysus)、Cameirusを創建した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Home.Il.2.662, Paus.2.22.8, Strabo.14.2.6]
** Tlepolemusは祖母の弟Licymniusと残留していたが、Licymniusは病死し、Mycenaeに圧迫されて、Rhodesへ移住したと思われる
** LicymniusがArgosで死んだと伝えているもの[Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Paus.2.22.8]
** Tlepolemusは、ArgosではなくMideaに滞在し、Tirynthiansと共にRhodesに渡った。[Pind.Ol.7.20, 75]
** Tirynthiansの中には、Eurystheusの兄弟Iphitusの息子と推定されるLebesもいて、Creteに定住した。[Pind.Ol.7.75から推定]
** TirynsのAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていた。Licymniusの墓は、そこにあったと思われる。[Strabo.8.6.11]
BC1212年、Neoptolemusは、AchillesとLycomedesの娘Deidamiaと間の息子として生まれた。[Apo.3.13.8, Dictys.4.15, Epic.Cypria.1, Hyginus.97]
** Neoptolemusは、Scyros島で生まれた。[Strabo.9.5.16, Sopho.Philo.220]
BC1211年、Theseusの妻Phaedraが死んだ。[Diod.4.63.2]

< 2nd return of Heracleidae >
BC1211年、Hyllusは、神託を「3年待って帰還せよ」と解釈し、Peloponnesusに向けてTricorythusを出発した。[Apo.2.8.2]
BC1211年、Atreusは、Tegeatansや他の民族を彼の部隊に加えて、Heracleidaeと会戦するために進軍した。[Diod.4.58.2]
** この時のMycenae王は、Atreusではなく、Thyestesであった。
BC1211年、Hyllusは、Isthmusで、TegeaのEchemusと一騎打ちをして討ち取られた。[Diod.4.58.4, Herod.9.26]
** Heracleidae側が総大将を出しているのに、Peloponnesus側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。
** Thyestesが追放したAgamemnonとEchemusとは、お互いの妻を通して義兄弟であった。
** HyllusとEchemusの一騎打ちは、創作で、Hyllusは合戦で戦死したと思われる。
BC1211年、Heracleidaeは、Aegimiusのもとへ行き、父が預けていた土地を要求して、Doriansの地に住み着いた。[Diod.4.58.6]
** Hyllusの軍にはIoniansもいたと思われ、その中に戦死した者たちがいて、Tricorythusに居づらくなったと思われる。
** Athensの名祖の一人で、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusはそのまま住み続けた。[Paus.1.5.2から推定]
** HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonの妻になって、Athensに残った。[JeromeChro.1148]
BC1210年、Theseusは、IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaeに匿った。[Diod.4.63.2, Plut.These.31]
** 当時、Helenは、7歳[FGrH.Nr4.F168b]、10歳[Diod.4.63.2]、12歳[Apo.E.1.23]であった。
** IdasとTheseusの友Peirithousは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であった。
** Lapithesの子Aeolusの子Perieresの子Aphareusの子Idas。Lapithesの子Periphasの子Antionの子Ixionの子Peirithous。
** IdasとTheseusも、Peirithousを介して親交があったと思われる。[Plut.These.30]
BC1210年、Theseusは、Thesprotisへ出かけてAthensを留守にした。[Paus.1.18.4, Paus.2.22.6, Paus.3.18.5, Plut.These.31]
** ThesprotisのAornumには死者を呼び出す神託所がある。Theseusは死んだ妻Phaedraを呼び出すために行った。[Paus.9.30.6]
BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、EuboeaのChalcisのElephenorのもとへ亡命した。[Aelia.4.5, Plut.These.35]
** Theseusが息子たちを避難させた。[Plut.These.35] DemophonとAcamasは、Menestheusに追放された。[Aelia.4.5]
** Chalcodonの子Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。つまり、Theseusの義母の兄弟であった。
BC1210年、Dioscuriは、AthensのAphidnaeを占領し、HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[Paus.2.22.6]
** Megareusの子Timalcusも遠征に参加してTheseusに討ち取られたとされるが、Theseus不在で戦いもなかった。[Paus.1.41.3-4, Paus.3.18.5]
BC1210年、Dioscuriは、Eleusisの秘儀に入門するため、Aphidnusの養子になった。[Plut.These.33]
**Athens市民でない者が秘儀に入門するためには、Athens市民の養子になる必要があった。
** Persia戦争の頃には、Greeksであれば入門できるようになった。[Herod.8.65]
BC1210年、Theseusは、Athensに帰るが、住民の反感を抑えられず、GargettusでAtheniansへの呪詛を行う。[Plut.These.35]

BC1209年、TheseusはScyros島へ亡命するが、Lycomedesに殺害された。[Paus.1.17.6, Plut.These.35, Plut.Cimon.6]
** Theseusは、Lycusの偽の中傷により追放されて、Lycomedesに嫉妬されて殺された。[Suda.th.368]
BC1209年、Menestheusが、Athens王に就いた。[Euseb.185]
** HeracleidaeがTricorythusからDoriansの土地へ移住したため、Theseusが劣勢になったと思われる
** DioscuriがMenestheusに協力した。[Paus.1.17.5]
** DioscuriがMenestheusを連れ戻した。[Apo.E.1.23]
** DioscuriがMenestheusに勧められて、Athensを攻めた。[Plut.These.32]
** DioscuriがMenestheusに王位を与えた。[Aelia.4.5]
** 史実は、Helen奪還のためにAthensに来たDioscuriを、Theseusの留守中に政権奪取を画策したMenestheusが利用したのだと思われる。
BC1209年、Tyndareusの息子たち、CastorとPolydeuces(Dioscuri)は、Messeniaと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** Pausaniasは、Dioscuriが父Tyndareusの跡を継いだように記している。[Paus.3.1.5, 3.17.2]
** しかし、彼らには息子がおり、その後、娘婿MenelausがSpartaを継承するのは困難である。
** Dioscuriが父より先に死んで、TyndareusがMenelausにSpartaを任せたとする伝承の方が妥当。[Apo.3.11.2]
BC1209年、IdasとLynceusは、Tyndareusの息子たちと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** Idasとの戦いでCastorが死んだ。[Apo.3.11.2]
** その後の戦いで、PolydeucesがLynceusを殺した。[Paus.3.14.7, Paus.4.3.1]
** DioscuriがMenestheusのAthens王即位を助けたので、IdasとLynceusが死んだのは、この頃と思われる。[Aelian.4.5, Paus.1.17.5]
BC1209年、Nestorは、Idasの跡を継いで、MesseniaのArene近くに移住して、Pylusを創建した。[Paus.4.3.1, Paus.4.3.7]
** Nestorは、Idasの娘婿として、Idasの跡を継いだと思われる。
BC1208年、Nestorは、ThessalyのTriccaのAsclepiusを訪問した。[Strabo.1.1.16から推定]
** IdasからMesseniaを継承したが、領内のLapithsが、彼に従わなかったために、ThessalyのLapithsの有力者を利用したと思われる。
** PharaeのDioclesの娘AnticleiaとAsclepiusの子Machaonとの婚姻を仲介したと思われる。[Paus.4.3.1]
** Nestorは、Troyで戦死したMachaonの遺骨を持ち帰って、Gereniaに埋葬した。[Paus.3.26.9-10]
BC1205年、EpigoniのThebes攻め[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1, Paus.9.9.4, Paus.9.5.13]
** AdrastusのThebes攻めの10年後、Eteoclesの子Laodamasの治世であった。[Apo.3.7.2]
** Amphiarausの子Alcmaeonが指揮した。[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1]
** Polyneicesの子供たちが指揮した。[Paus.9.33.1]
** Polyneicesの子Thersanderが指揮した。[Paus.7.3.1]
** Thebes側の援軍は、Thebes周辺の諸市であった。[Paus.9.9.4]
** Argos側の援軍は、Messenians、Arcadians、Corinthians、Megariansであった。[Paus.9.9.4]
** Theseusの子Hippolytusは、戦車が転覆して引きずられて死んだ。[Apo.E.1.19, Diod.4.62.3, Paus.2.32.10]
** HippolytusはEpigoniに参加して戦死したものと思われる。[Paus.2.32.1]
** TroezenにDiomedesが創建したHippolytusの神苑があった。HippolytusとDiomedesは同世代であった。
BC1205年、Epigoniは、Argosから海路でAulisに上陸した。ThebansがGlisasで待ち受けて、戦いになった。[Paus.9.5.13]
BC1205年、Polyneicesの子Thersanderは、Thebes王に即位した。[Paus.9.5.14]
BC1205年、Thebesから逃れた人々は、Alalcomenae近くのTilphossaeumに集まった。[Diod.4.66.5]
BC1205年、Thebesの予言者Tiresiasは、Argivesに連れられてDelphiへ行く途中、Haliantiaで死んだ。[Paus.7.3.1, Paus.9.33.1]
** Tiresiasの娘Mantoは、戦利品の中で最良のものとして、Delphiへ連れて行かれた。[Apo.3.7.4]
BC1205年、Tiresiasの娘Mantoは、Amphiarausの子Alcmaeonの捕虜になった。[Apo.3.7.7]
** 後に、AlcmaeonとMantoとの間に、息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[Apo.3.7.7]
BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、ThebesからIllyriaのEncheleansのもとへ移住した。[Herod.5.61, Paus.9.5.13, Paus.9.8.6]
BC1205年、Thebansの一部は、Illyriaに行かずに途中で分かれて、ThessalyのHomoleへ移住した。[Paus.9.8.6-7]
BC1205年、Thebansの一部は、Euboea北部にHestiaea(Histiaea)を創建した。[Apo.3.7.3]
BC1205年、Thebansの一部は、Copais Lake南西のAlalcomeniaやTilphosium山にArgivesが退去するまで隠れていた。[Diod.19.53]
BC1205年、Adrastusは、EpigoniのThebes攻めに同行し、帰る途中、Megaraで死んだ。[Paus.1.43.1]
BC1205年、Thebes西方約5kmのCabeiraeaのPelasgiansは、Athensへ移住した。[Herod.2.51, Paus.9.25.7]
BC1205年、Atreusの孫Menelausは、SpartaのTyndareusの娘Helenと結婚した。[Hyginus.78, Paus.2.22.6]
BC1205年、Menelausは、義父TyndareusからLacedaemonの王位を譲渡された。[Apo.3.11.2, Apo.E.2.16]
BC1204年、Alcmaeonは、Acarnaniaへ遠征してArgos(後のArgos-Amphilochicum)を創建した。[Strabo.7.7.7, Strabo.10.2.25]
** Alcmaeonは、Mantoらの捕虜を連れて、Illyriaを目指すが、途中Achelous川河口付近にAstacusを創建した。[Strabo.10.2.21から推定]
** Diomedesの協力者は、Alcmaeonではなく、Capaneusの子Sthenelusであった。[Hygnius.175]
** AlcmaeonのAcarnania遠征の動機は、捕虜がIllyria行きを希望したからであったと思われる。
** the Peloponnesian warの頃のAstacusのtyrant Evarchusは、Epigoniの捕虜の中にいたSpartiの後裔と思われる。[Memnon.12.1から推定]
** Alcmaeonは、Melampusの後裔で、息子たちAcarnanとAmphoterusの後裔がHesiodに予言術を教えたと思われる。[Paus.9.31.5]
** Hesiodは、Naupactusから東へ15kmほどのOineonで殺害された。[Plut.Mor.969e, Thyc.3.96]
** Hesiodは、AcarnaniaとBoeotiaを往復していたと思われる。
** Thermopylaeの戦いに参加したAcarnania出身の予言者Megistiasは、Melampusの後裔であった。[Herod.7.221]
** Alcmaeonの弟Amphilochusもこの遠征に参加し、以後、Argosには帰らなかったと思われる。
** Thucydidesは、AmphilochusがTroy遠征に参加したと記している。[Thucy.2.68]
** しかし、つぎの理由で、Alcmaeonの弟Amphilochusは、Troy遠征に参加していなかったと推定される。
** 1. 兄弟でEpigoniのThebes攻めに参加しているのに、兄の遠隔の地での町の創建に弟が参加しないはずがない。
** 2. 兄Alcmaeonが、Agamemnonからの要請を断り、弟だけがTroy遠征に参加したとは思われない。
** 3. HomerがAmphilochusについて言及していない。
** 4. Homerは、Argosの将を3人列挙している。[Home.Il.2.557]
** (1) Argos 3王家の本家Capaneusの子Sthenelus
** (2) Bias王家のTalausの子Adrastusの子Aegialeusの子Cyanippusの代理のDiomedes
** (3) Bias王家のTalausの子Mecisteusの子Euryalus
** AmphilochusのTroy遠征が真実であれば、Argos 3王家のひとつMelampus王家の将として名前が挙がっているはずである。
** 5. 兄Alcmaeonには多くの妻子の名前が伝えているが、Amphilochusの妻子は不明であり、若くしてGreeceから離れたと思われる。
** 6. 多くの史料で、Asia MinorのColophonで生まれて、CiliciaのMallusで死んだ、兄AlcmaeonとMantoの息子と混同されている。

BC1203年、ThebesのThersanderは、Epigoniに追われて、IllyriaとHomoleへ逃れた人々を呼び戻した。[Diod.19.53, Paus.9.8.7, Strabo.9.2.3]
BC1203年、AgamemnonがMycenaeの王位に就いた。[Euseb.177]
** Agamemnonの統治18年目にTroyが陥落した。[Euseb.177, Cleme.Str.1.21]
** AgamemnonとMenelausは、Lacedaemoniansを率いて、Mycenaeに帰還した。[Tzetzes.1.460]
** 彼らは、Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾の沖に浮かぶCythera島に住むように命じた。[FGrH.10.11, Tzetzes.1.460]
** Thyestesは、Cythera島で死んだ。[Home.Od.4.512から推定]
BC1202年、Oeneusは、Agriusの息子たちに追われて、CalydonからArgosのDiomedesのもとへ亡命した。[Paus.2.25.2]
BC1202年、Diomedesは、Aetoliaへ遠征し、Calydonを追われた祖父Oeneusの仇を討った。[Paus.2.25.2]
** Diomedesの協力者は、Amphiarausの子Alcmaeon[Apo.1.8.6, Strabo.10.2.25]ではなく、Capaneusの子Sthenelus[Hygnius.175]であった。
** Sthenelusは、Diomedesの親友であった。[Hygnius.257]
** Oeneusの敵であるPleuronのParthaonの子Agriusの息子たちは、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係であった。
** Alcmaeonが親族を相手の戦いに協力したとは思えない。
** DiomedesのAetolia遠征は、EpigoniのThebes攻めの後であった。[Strabo.7.7.7]
** OeneusはTrojan War前に死んでいたので、DiomedesのAetolia遠征はTrojan War前であった。[Home.Il.14.117]
** Diomedesは、AmphissaのOeneusの娘婿AndraemonにAetoliaを任せた。[Apo.1.8.6]
** Thestius一族とAgrius一族は、Aetoliaの内陸部へ逃れて、ThestiaとAgriniumを創建した。[LeakeN.1.155]
** ThestiaやAgriniumは、数で最大のEurytaniaに属していた。[LeakeN.2.623]
** ThestiaやAgriniumは、BC218 年にMacedonia王Philip 5世がAetoliansを攻めたときに存在していた。[Polyb.5.7]
BC1202年、Alcmaeonは、Achelousの娘Callirhoeと結婚した。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonの父Amphiarausの父Oeclesの妻Hypermnestraは、Aetolusの子Pleuronの後裔であり、Callirhoeも母方の先祖はPleuronであった。
BC1202年、Agamemnonは、Argosを攻めて、Mycenaeの支配下に置いた。[Strabo.10.2.25]
** Agamemnonは、Argosの兵の多くがDiomedesと共にAetoliaへ遠征中の時を狙った。[Strabo.10.2.25]
BC1202年、Oeneusは、Calydonを娘婿Andraemonに任せ、孫のDiomedesと共にArgosへ行って死んだ。[Apo.1.8.6, Paus.2.25.2]
** Oeneusは、孫のDiomedesと共にArgosへ行く途中、ArcadiaでAgriusの息子たちに殺されたという伝承もある。[Apo.1.8.6]
BC1200年、Tanagra周辺のGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensへ移住した。[Herod.5.57, Paus.9.20.1]
** EpigoniのThebes攻めの少し後でGephyraeansは、Boeotiansに追われてAthensへ移住した。[Herod.5.61]
** BC1415年にEumolpusに追われたAtheniansをGephyraeansが受け入れた借りを返したものと思われる。[Suda.Delta.1395]
BC1200年、Italy半島北東部の町RavennaにいたPelasgiansは、Tyrrheniansに圧迫されてThesprotiaへ移住した。[Strabo.5.1.7から推定]
** BC1390年にThessalyからRavennaに移住したPelasgiansが、Thessalyへ帰還した。[Strabo.5.1.7]
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、CreteからAsia Minorへ移住して、Colophonを創建した。[Paus.7.3.1]
BC1200年、Dardanusの子Zacynthusは、ArcadiaのPsophisからZacynthus島へ移住した。[Paus.8.24.3]
** ArcadiaのPsophisは、EpigoniのThebes攻めの頃はPhegiaと呼ばれていた。Troy遠征には、Zacynthus島から参加していた。
** したがって、Zacynthusの移住は、この頃と思われる。[Paus.8.24.8, Home.Il.2.631]
BC1198年、HelenがTroyへ連れ去られた。[Apo.E.3.1-5, Dictys.1.3]
** Helenが連れ去られた2年後に、準備を終えてTroyへ遠征した。[Apo.E.3.18]
** HelenはSparta近くのTherapneに埋葬された。[Paus.3.19.9]
BC1197年、Hermioneは、MenelausとHelenの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.E.3.3, Paus.10.16.4]
** Hermioneの誕生をTroy遠征の9年前とした。
** HelenがTroyへ連れ去られたとき、Hermioneは9歳であった。[Apo.E.3.3]
BC1196年、第1回Troy遠征と称される出来事。
** Agamemnonの遠征軍は、MysiaをTroyと間違えて上陸して失敗した。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Achillesは15歳で海軍を指揮した。[Apo.E.3.16]
** Athens王Menestheus[BC1209-1186]の治世13年目であった。[Parian.Marble.23]
** Epigoniを率いたAlcmaeonは、Thersanderの妻Demonassaの兄であり、ThersanderをThebes王に復位させた恩人であった。
** AlcmaeonはTiresiasの娘Mantoとの間に子供2人をもうけ、その後、Aetoliaへ遠征し、AcarnaniaでCallirhoeを妻にした。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonは、Epigoniの捕虜になった人々と新天地へ移住を希望するMantoをThersanderに託した。[推定]
BC1196年、Thersanderは、ArcadiaのTegeaからMysiaに移住していたTelephusを頼るが、その地で死んだ。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Telephusの従兄弟Parthenopaeusの2人の息子たち、TlesimenesとBiantesは、MysiaからEpigoniのThebes攻めに参加した。[Hyginus.71]
** TlesimenesとBiantesは、AlcmaeonやThersanderの戦友であり、Mysiaへ案内した。[推定]
** Telephusが留守にしたMysiaを荒らすのは簡単だという諺の元となったほど、Telephusの強さは有名であった。[FGrH.Nr327.F19]
** Troyと間違えてMysiaに上陸して、ThersanderがTelephusに殺されたという伝承には、この諺も影響していた。
BC1196年、Tiresiasの娘Mantoは、Mysiaから南下して、Colophonに住んでいたCretansと共住した。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
BC1196年、Mantoは、CreteからColophonに移住したMycenaeanのLebesの子Rhaciusと結婚した。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusは、Thebes陥落をMantoから聞いて泣いた。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesは、MycenaeのSthenelusの子Iphitusの息子と思われる。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesの父Iphitusの姉妹Astymedusa(Eurystheusの姉妹)は、ThebesのOedipusの妻であった。[FGrH.333.95から推定]
BC1194年、Mantoは、Colophon近くの海辺のClarusにApollonの神託所を創建した。[Photios.186.6]
BC1190年、Agamemnonは、ColophonのRhaciusからTroyの繫栄ぶりを聞き及んで、遠征を決意した。[推定]
BC1190年、Agamemnonは、Lemnos島をTroy遠征軍の補給基地とするためにNemeaのEuneusを島の支配者にした。[推定]
** Lemnos島の住人は、Euneusの母Hypsipyleの父Thoasが率いたNaxos島からの移住者と、Thessayから逃げ込んだMinyansであった。
** Agamemnonは、両方の住人を従わせるために、EuneusがHypsipyleとArgonautsの遠征を率いたJasonの息子だと流布したと思われる。
** Euneusの父をJasonとする史料[Apo.1.9.17, FGrH.Nr12.F14, Home.Il.7.464; 23.738, Hyginus.15, 273, Statius.6.340, Strabo.1.2.38]
** 次の理由で、Euneusは、NemeaのTalausの子PronaxとHypsipyleとの間の息子と思われる
** (理由1) Argonautsの遠征時、Minosの娘Ariadneの子Thoasの娘Hypsipyleは、7歳くらいであった。
** (理由2) HypsipyleとJasonとの間にはEuneusの他に息子Nebrophonus(or Deipylus)がいた。[Apo.1.9.17, Hyginus.273]
** Lemnos島にいたHypsipyleがNemeaに住むことになった経緯は、次のように推定される。
** Lemnos島のThoas家に不幸な出来事があり、Hypsipyleのみが残され、そこへArgonautsの遠征隊が立ち寄った。
** 遠征隊の中にHypsipyleの父Thoasの兄弟で、Phliusに住むPhliasusおよびEurymedonがいた。
** Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusで育てられた。婚期を迎え、Phliusから約7km離れたNemeaのPronaxに嫁いだ。
** あるいは、Argonautsの遠征とは関係なく、Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusに住んでいた。
BC1190年、Agamemnonは、SicyonのRhopalusの子Hippolytusを攻めて、支配下に置いた。[Paus.2.6.7]
BC1190年、Achillesは、Troy遠征への参加を拒否するTanagraのPoemanderを攻めた。[Plut.QuestGr.37]
** これが原因で、ThebesとEleutheraeの対立が続いたと思われる。BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを欲した。[Paus.1.38.8]
BC1190年、TanagraのPoemanderは、過失により息子を殺害し、ChalcisのElephenorにより清められた。[Plut.QuestGr.37]
BC1190年、Laomedonに殺されたPhaenodamasの孫であるAegestusは、Priamの許しを得て、Sicily島からIliumへ帰還した。[Antiq.1.52.2-3]
BC1190年、Phocusの子Crisusの子Strophiusの子Pyladesは、Crissaから南へ移住して、Crissa湾の岸辺にCirrhaを創建した。[Pind.Py.11]

BC1189年、Alcmaeonは、Phegeusの息子たち、TemenusとAxionによって、Arcadiaで殺された。[Paus.8.24.10]
** Alcmaeonは、AgamemnonからのTroy遠征参加要請を断っているので、Acarnaniaに建設した町を離れたとは思われない。
BC1189年、Menelausは、SpartaのHeIleniumに遠征参加者を集め、会議を開催した。[Dares.10, Paus.3.12.6]
BC1188年、ArgosのHera神殿で、Troy遠征参加者が総大将に相応しい人物の名前を書いて投票し、Agamemnonが選出された。[Dictys.1.16]
BC1188年、Troy遠征参加のArgivesは、ArgosのTantalusの骨壺が安置された場所で、Troy攻略を誓った。[Paus.2.22.2]
BC1188年、第2回Troy遠征と称されるAgamemnonを総大将とした遠征
** 第1回Troy遠征と称される出来事から8年後であった。[Apo.E.3.19]
** AthensのPhalerum港に集結後、AchillesとPatroclusが代表して、Delphiで神託を受けて来て、Aulisへ向かった。[Dares.14, Paus.1.1.2]
** Telamonは、AthensからAulisに向かう船をSalamisから見送った。[Paus.1.35.3, Paus.8.28.4]
** 戦いは、10年続いた。[Athen.343d, Apo.E.3.19, Apo.E.5.8, Dictys.3.23, DioChry.7.96, Diod.37.1.2, Demosthenes(Funeral Speech.10), GrAntho.(5.139 and many others), Hyginus.108, Isocrates(To Philip.111, Panegyricus.83), Ovid.Meta.13.640, Plato.Laws.682), PlutMor.350e, Thucy.1.11, Virgil.Aeneid.8.370]
** Iphiclusの子ProtesilausがTroyに一番乗りした。[Arr.1.11.5, Apo.E.3.30, Dictys.2.11, Hyginus.103]
** Protesilausの墓は、ChersoneseのElaesusにある。[Arr.1.115, GrAntho.7.141, Herod.9.116, HygAstro.2.40.3, Pliny.16.238]
** << 遠征が10年ではなかったと思われる理由 >>
** Agamemnonの治世は18年間であった。[Cleme.Str.1.21, Euseb.Chron.179, JeromeChro.1197]
** AgamemnonはTroy遠征前に、Achaia、Argolis、Messenia湾岸地方を支配下に置いていた。[Home.Il.2.569, Home.Il.9.150, Strabo.8.4.1]
** AgamemnonがThyestesからMycenaeを奪ってからPeloponnesusの半分を支配下に置くのに、8年間では短すぎると思われる。
** << 遠征が1年ではなかったと思われる理由 >>
** Troy遠征中に死んだTelamonの子Ajaxと捕虜の女性たちとの息子たちがAthensに住んでいた。[Dictys.5.16, Plut.Arist.19, Harp10Orat.e167]
** 何年か留守にしたことは真実であろうが、3日か、4日で行ける所に10年もいたとは思われない。[Home.Il.9.356, Home.Od.3.151]
BC1188年、Lemnos島のEuneusは、Troy遠征軍を歓待して、物資を補給した。[Home.Il.2.716, Home.Il.7.464, Home.Il.8.212]
BC1188年、Achillesは、Troyに加担するLesbiansを攻撃した。Phorbasを殺害し、娘Diomedeaを戦利品にした。[Dictys.2.16, Home.9.656]
BC1188年、Achillesは、Miletusを襲って、Lelegesの王Trambelusを殺した。[Athen.43d]
BC1188年、Agamemnonは、Troy沖に浮かぶTenedos島の住民をArgolisのTeneaに強制移住させた。[Paus.2.5.4]
BC1188年、Telamonの子Ajaxは、Phrygiansの支配者Teuthrasを殺して、娘Tecmessaを捕虜にした。[Dictys.2.18]
** このTeuthrasは、MysiaのTelephusの義父でない。Chersoneseに近い、Hellespont付近のPhrygiaの住人と思われる。
BC1188年、Sicily島から移住してAcarnaniaに住んでいたPelasgiansは、Boeotiaへ侵入した。[Paus.1.28.3]
BC1188年、Boeotiansは、ThraciansやPelasgiansに追われて、ThessalyのArne族のもとへ移住した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** << Boeotiansが亡命先をArneにした理由 >>
** BC1330のAmphionとZethusのThebes攻めのとき、Amphictyonの孫Locrusも協力した。[FGrH.Nr333.F170]
** LocrusはLelegesを率いていた。[Hesiod.Women.82]
** このとき、Locrusの従兄弟のBoeotusも息子たちと共に参加した。
** それが端緒となってBoeotusの子ItonusがBoeotiaに移住したものと思われる。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Boeotusの後裔がBoeotiansを率いてTroyへ出征し、残っていた者たちが追われてArneに亡命した。
** ThraciansとはBoeotiaの代名詞であった。[Pliny.4.27]
** Hyantesは、Cadmusに追われてPhocisのHyampolisに居住した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** ThraciansはOrchomenusを占領した。[FGrH.Nr4.F42b]
** PelasgiansはCoroneiaを占領した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** ThraciansはThebesも占領した。Thebansの捕虜たちはHaliartusまで連れて行かれたが奪還された。[Paus.9.16.6]
BC1188年、Aeolusの子Athamasの後裔Athamas率いるOrchomeniansは、Ioniaへ移住してTeosを創建した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** Teosのすぐ東のColophonには、EpigoniのThebes攻めの捕虜たちが、Trojan Warの前にその地に移住していた。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
** Teosに移住したAthamasの後裔に率いられたOrchomeniansは、BC4世紀にPhilipによって帰還させられた。[Paus.9.37.8]
BC1188年、Thraciansに追われたOrchomeniansの一部は、Athensに受け入れられて、Munychiaに住んだ。[FGrH.Nr4.F42b]
** Munychusは、DemophonとPriamの娘Laodiceの息子。[Plut.These.34] Munychusは、AcamasとLaodiceの息子。[Parthe.16]
** Theseusの息子たち、DemophonとAcamasは、Troyに行っていないので、いずれも創作と思われる。
BC1188年、Chalcisへ逃れていたTheseusの息子たち、DemophonとAcamasは、Athensへ帰還して、Atheniansを掌握した。[推定]
BC1188年、Atheniansは、Scyros島へ渡って、Lycomedesを殺して、Theseusの仇討ちをした。[Suda.th.368]
BC1187年、Thyestesの子Aegisthusは、Cythera島からMycenaeへ帰還した。[Agamemnonを殺害していることから推定]
BC1187年、Agamemnonの庶子Halaesusは、MycenaeからItalyのFaleriiへ移住した。[Ovid.Fasti.4.63]
** HalaesusはTroy遠征に参加しないで、残留していたと思われる。
** HalaesusはFaleriiから南南西へ約46kmのAlsiumにも関係があった。[ItaPunica.1.1]
BC1186年、Thesprotiansは、Thessalyへ攻め込んで、Thessalyを占領した。[Herod.7.176, Strabo.9.5.23]
** Phociansは、Thesprotiansの侵入を防ぐために城壁を造った[Herod.7.176]
** Thucydidesは、Thesprotiansを非ギリシア人とみなしている[Thucy.2.80]
** ThessalyのArneのBoeotiansは、Haimonに敗れてBoeotiaへ帰還した。[Suda.pi.962]
** Arneの一部の住人はpenestai(農奴)となって残留し、3代目まで住み続けた。[Athen.264b, Suda.Pi.962]
BC1186年、予言者Peripoltasは、Peneleusの子OpheltesやBoeotiansを率いて、ArneからChaeroneiaへ移住した。[Plut.Cimon.1]
** Opheltesは、ThessalyのArneには2年間しかいなかったと思われる。
** Opheltesは、この時、Thessalyへ行く前に住んでいたCoroneiaをPelasgiansから奪還する力はなかったと思われる。
** Chaeroneiaは、当時、Arneと呼ばれていた。[FGrH.Nr4.F81, Paus.9.40.5]
BC1186年、Neoptolemusは、Ilium陥落に必要との神託により、招致された。[Apo.E.5.11]
** Neoptolemusは、ThesprotiansにThessalyを追われ、Scyros島を経て、Thessaly陥落の報を持って、Troyに渡ったと思われる。
BC1186年5月29日、Troy陥落
** 夏至の17日前、Thargelion月の終わりの日から8日目にTroyは陥落した。[Antiq.1.63.1]
** Troy陥落は、DemophonがAthens王に即位した年のThargelion月の満月の日であったと伝えられる。
** BC1178年4月16日の歴史的日食をもとに、月齢周期を、29.53日として計算すると、Ilium占領は、BC1186年5月29日のことであった。
** Odyssey Eclipse - https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEhistory/SEhistory.html
** Herodotusは、Trojan WarをPersiaのGreece侵攻以前に起こった悲惨な出来事のように記している。[Herod.6.98]
** Thessaly陥落の知らせが届いて、遠征軍は解散したと思われる。
** 実際は、Troyは攻められたが陥落はしなかったと思われる。
BC1186年、Neoptolemusは、Tenedosに立ち寄って、2日間滞在した。[Apo.E.6.5]
** < NeoptolemusがThessalyへの帰還を断念した理由 >
** Neoptolemusの故郷はAcastusに奪われたが奪還して故郷へ帰還した。[Dictys.6.7-9]
** Neoptolemusは、Molossiansの地に行った後、Peleus亡き後の旧領を継承した。[Apo.E.6.13]
** Neoptolemusは、帰還を軽蔑して、Molossiansの地へ移住した。[Paus.1.11.1]
** Neoptolemusは、父の王国を不在にして王国を失った。[Just.17.3, LeakeN.4.175]
BC1186年、Diomedesは、AthensのPhalerum付近に停泊して、Demophonと夜間の戦闘となった。[FGrH.Nr325.F12, Paus.1.28.9]
** Diomedesは、NestorやMenelausと共に、Tenedos島、Lesbos、Chios島、Psyria島、Euboeaを経由して帰還した。[Home.Od.3.151]
** MenelausとAgamemnonは帰還を巡って対立し、MenelausはAchaeansの半分と共に先発し、OdysseusはTenedos島からAgamemnonのもとへ戻った。[Home.Od.3.151]
** DiomedesのArgos到着は、Troy出発の4日目であった。[Home.Od.3.151]
** Achillesは、3日目にはPhthiaに着くと言っていた。[Home.Il.9.356]
** Troyの帰路、NestorがCeos島に立ち寄り、the temple of Nedusian Athenaを造営した。[Strabo.10.5.6]
** 後に、Messenia湾奥のNedon川近くの住人が島に移住して造営したものと思われる。
** PheraeのAdmetusの子Eumelusの後裔は、Athensへ移住した。[FGrH.4.125]
** OrmeniumのEuaemonの子Eurypylusは、Delphiの神託に従って、Patrae(Achaia)に定住した。[Paus.7.19.6-]
BC1186年、Agamemnonは、Tenedosに立ち寄ってから帰国した。[Apo.E.6.5]
** Agamemnonは、LaconiaのMalea岬付近で暴風に遭遇した。[Home.Od.4.512]
** Agamemnonの軍船団にいたAchaiaのPelleneの人々は、暴風で流されてChalcidice半島のPelleneに住み着いた。[Thucy.4.120]
BC1186年、Achillesの育ての親Phoenixは、Thermopylae付近で死んだ。[Home.Il.9.485, Apo.E.6.12]
BC1186年、Neoptolemusは、Molossiansの地へ移住した。[Apo.E.6.12]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Athensに上陸できずに、 Italy半島南部Scylletiumに移住した。[Strabo.6.1.10]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Aeolis地方のCyme近くのElaeaに移住した。[Strabo.13.3.5]
BC1186年、Telamonの子Teucerは、父に下船を阻止され、Cyprusに移住して、Salamisを創建した。[Just.44.3, Paus.1.28.11, Parian.Marble.26]
** Teucerは父の死の噂を聞いて、故国へ戻ったが、Ajaxの子Eurysacesに阻止されて、Hispaniaへ入植した。[Just.44.3]
** Teucerの息子と思われるAjaxが、Cilicia TracheiaのOlbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1186年、Asclepiusの子Podalirusは、Damaethusが治めるCaria地方のBybastusの近くにSyrnusを創建した。[FGrH.Nr70.F167, Paus.3.26.10, Parthe.1, Steph.Byz.593.17]
** Damaethusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定される。
** Podalirusは、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。
BC1186年、Tiresiasの娘Mantoは、Colophonで死んだ。[Photios.186.6]
** Colophon近くの海辺の町ClarusにあるApollonの神託所をMantoの子Mopsusが継承した。[Photios.186.6]
** ClarusのApollonの神託所は、Mantoが創建したと思われる。
BC1186年、Peirithousの子Polypoetesと、Coronusの子Leonteusは、Colophonに定住した。[Apo.E.3.14, Apo.E.6.2, Dares.14]
BC1186年、Calchasは、Pamphyliaに移住してSelgeを創建した。[Herod.7.91, Paus.7.3.7, Strabo.12.7.3, Strabo.14.4.3]
** Pamphyliaは、Mopsusの姉妹の名前に因む。[StephByz.P498.15]
** Pamphyliaは、Mopsusの娘の名前に因む。[Photios.176]
** Selgeは、Alexander the Greatの信頼される同盟者となった。[Arr.1.28.1]
BC1186年、Ancaeusの子Agapenorは、Arcadiaへ帰らないで、Cyprus南西部のPalaepaphosの近くにPaphosを創建した。[Strabo.14.6.3]
BC1186年、Magnesiansは、戦利品の10分の1をDelphiに奉納して、Delphiに定住した。[Photios.186.29]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Troyを出航した。[Antiq.1.52.1]
BC1186年、Anchisesの子Aeneasは、Troyを出航した。[Antiq.1.63.2, Virg.Aene.3.1]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Sicily島北西部のCrimisus河畔に到着した。[Antiq.1.52.1]

BC1185年、Aegisthusは、Agamemnonを殺害した。[Home.Od.11.404, Home.Od.24.15, Paus.2.16.6]
** Aegisthusの屋敷での凶行であった。[Home.Od.24.15, 4.512]
** Agamemnonは、帰国の途中、Laconia湾右側半島のMalea岬で流され、昔Thyestesが、今Aegisthusが住む土地に着いた。[Home.Od.4.512]
** Andron of Halicarnassusは、Cythera島にAegisthusが住んでいたと想定している。[FGrH.Nr10.F11]
** AgamemnonがThyestesとAegisthusをCythera島に住まわせた。[Tzetzes.1.460]
** Agamemnonや一緒に殺害された者たちの墓がMycenaeにあった。[Paus.2.16.6]
** Orestesが、AegisthusとClytaemnestraを殺害した場所も、Mycenaeの城壁内と思われる。
** Temenus率いるHeracleidaeがPeloponnesusに侵入したとき、Orestesの子TisamenusはArgosに籠城した。
BC1185年、Anchisesの子Aeneasは、Thraceでの冬営を終えて南下した。[Antiq.1.63.2]
BC1185年、Aeneasは、Delos島に立ち寄り、神官Aniusの歓待を受けた。[Antiq.1.50.1, Virg.Aene.3.69]
** Aniusの父ZarexとAchillesは、第7代Athens王Cecropsを共通の先祖とする又従兄弟であり、この伝承は創作と思われる。
BC1185年、Aeneasは、Cythera島に立ち寄って、Aphroditeの神殿を造営した。[Antiq.1.50.1]
** Cythera島はMycenae領であったと思われ、この伝承も創作と思われる。[FGrH.Nr10.F11, Tzetzes.1.460]
BC1185年、Aeneasは、SicilyでElymusとAegestusに迎えられ、AegestaとElymaの創建に協力した。[Antiq.1.52.4]
** Aeneasの目的地は、Sicilyであり、ElymusとAegestusと合流する予定であったと思われる。
BC1184年、Diomedesは、Aegisthusの支援を受けた妻Aegialeiaの謀略で死刑判決を受け、Argosを去ってAetoliaへ移住した。[Diod.7.3.1]
** Diomedesの妻Aegialeiaは、Sthenelusの子Cometesと不貞を働いた。[Apo.E.6.9, Tzetzes.3.280]
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、AetoliaからItaly半島東岸へ移住して、Argyrippeを創建した。[Tzetzes.1.760, Strabo.6.3.9]
** DiomedesとDauniansの王Daunius(or Daunus)の娘Euippeとの間には、2人の息子たち、DiomedesとAmphinomusがいた。[Antoninus.37]
** Brundisiumは、Diomedesと共に渡海したAetoliansが創建した。[Just.12.2]
** ArpiとBeneventumは、Diomedesが創建した。[Solinus.2.10]
BC1184年、Aeneasは、Sicilyでの冬営を終えてItaly半島西岸を北上した。[Antiq.1.63.2]
BC1184年、Aeneasは、Laurentum付近に上陸した。[Antiq.1.45.1]
** Latinusの治世35年目であった。[Antiq.1.44.3] 夏の半ば[Antiq.1.63.3]
** Aeneasの仲間は、600人であった。(家族は含んでいないと思われる。)[Solinus.2.14]
BC1184年、Aeneasは、Laurentumの近くにLaviniumを創建した。[Antiq.1.45.1, Just.43.1]
** Laviniumの創建者は、Latinusであり、彼の娘の名に因んで町の名にしたという伝承もある。[Strabo.5.3.2]
BC1182年、Aeneasは、Latinusの娘Laviniaと結婚した。[Antiq.1.60.1, Euseb.Chron.283, Just.43.1]
** AeneiasとLaviniaの結婚はLatinusが戦死した後であるという伝承もある。
** しかし、LatinusがLaurentumを継承しているので、戦いの前と思われる。[Euseb.Chron.283]
** Aeneiasは父Anchisesが40歳頃に生まれたと思われる。[FGrH.Nr2.F39]
BC1182年、Latinusは、反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Just.43.1]
BC1182年、Agamemnonの子Halaesusは、Aeneasの味方のEvanderの子Pallasと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.411]
BC1182年、Tydeusの子Diomedesは、Rutuliansの王Turnusから援軍を要請されるが断った。[Ovid.Meta.14.460]
BC1182年、Evanderの子Pallasは、Aeneasに味方してRutuliansの王Turnusと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.466]
BC1182年、RutuliansのTurnusは、Aeneasとの戦いで戦死した。[Euseb.Chron.283, Just.43.1]
BC1182年、AeneasがLaurentumを継承した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Diod.7.5.2, Just.43.1]
BC1182年、Agamemnonの子Halaesusは、Aeneasの味方のEvanderの子Pallasと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.411]
BC1181年、Menestheusは、Melos島で死んだ。[Apo.E.6.15b, JeromeChro.1181]
BC1180年、AeneasとLaviniaとの間に、娘Aemiliaが誕生した。[Plut.Romu.2]
BC1180年、Aeneasの父Anchisesが死んだ。[Antiq.1.64.5]
** Anchisesは、Aeneasが戦死した戦いの前年に死んだ。[Antiq.1.64.5]
** Pausaniasは、Anchisesの墓がArcadiaにあると伝えている。山の名前が似ていることから作られた伝承と思われる。[Paus.8.12.8]
** Vergiliusは、AnchisesがSicily西部のDrepanumで死んだように伝えている。[Virg.Aene.3.692]
BC1179年、Aeneasは、再び反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死。AscaniusがLaurentumを継承した。[Antiq.1.64.3, Just.43.1]
** Aeneasは、Troy陥落から7年目に死んだ。[Antiq.1.65.1]
BC1178年、AeneasとLaviniaとの間に、息子Silviusが誕生した。[Antiq.1.70.1]
BC1178年、Orestesは、Aegisthusを殺害して、Mycenae王に即位した。[Dictys.6.3, Hyginus.119]
** Orestesの友Pyladesが、Aegisthusに加勢したNaupliusの息子たちを殺した。[Paus.1.22.6]
** 『Atreusの子らの帰国』第3巻の「HermioneusがIasusを追いかけて槍で刺した」のは、このときの記述と思われる。[Athen.9.399a]
** Hermioneusは、Pyladesの兄弟と思われる。
** Orestesには、CreteやAthensからも援軍が来たとされるのは、創作と思われる。[Dictys.6.3]
** 実際は、Aegisthusは高齢であったので、Aegisthusの死を聞いて、OrestesがMycenaeを掌握したとも思われる。
BC1178年、MenelausはTroas地方を掠奪して、8年目に帰還した。[Paus.3.22.2]
** Orestesが、治世8年目のAegisthusを誅殺し、供養の宴を催していた日に、Menelaus帰還した。[Home.Od.3.312]
** Menelausは、8年の放浪の末に帰還して、復讐を終えたOrestesに会った。[Apo.E.6.29]
** 実際は、MenelausはTroy陥落直後に帰還していたと思われる。それならば何故兄の仇を討たないのかと疑問に思われるので、8年目に帰還したことになったと思われる。Menelausは、Aegisthusに太刀打ちできなかったと推定される。
BC1176年、Sthenelusの子Cylarabesが死去した。[Paus.2.18.5]
** Inachusの子Phoroneusから574年続いたArgosの王統が断絶した。
BC1176年、MycenaeのOrestesは、Argosを占領した。[Paus.2.18.5]
** このとき、OrestesはMycenaeに住んでいた。[Paus.2.18.5]
BC1175年、Arcadia王Hippothousは、王都をTegeaからTrapezusに遷都した。[Paus.8.5.4]
** Hippothousは、Calydonの猪狩りに参加しているので、BC1262以前の生まれと思われる。[Paus.8.45.7]
BC1175年、Orestesは、DelphiのApollonの神託に従って、MycenaeからArcadiaへ移住した。[Paus.8.5.4]
** OrestesはTegeaで死んでいるので、Trapezusへの遷都とOrestesの移住に関連があると思われる。[Herod.1.67]
** OrestesはArcadia の大半も領した。[Paus.2.18.5]
** Messenian Warの際に、Arcadiansは、Messeniansを同族として支援した。
** Agamemnonは、Messenia湾岸の7つの町を支配して、多くのAchaeansがMesseniaに居住していたと思われる。
** Orestesと一緒に多くのAchaeansがTegeaへ移住したと思われる

< 3rd return of Heracleidae >
BC1175年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Peloponnesus帰還を試みるが、失敗した。[推定、Paus.3.15.10, Paus.4.30.1]
BC1175年、Heraclesの子Glenus(or Gleneus)の乳母Abiaと一部の人々は、帰還を断念してMesseniaのIreに定住した。[Paus.4.30.1]
** Heraclesの子Glenus(BC1224生)の乳母AbiaをBC1241生まれと推定。Glenusも遠征に参加していたと思われる。
** GlenusはCleodaeusより年長で、始祖Heraclesの息子であった。
** しかし、Heracleidaeを率いたのは、Doriansの王であるHeraclesの子Hyllusの子Cleodaeusであったと思われる。[Paus.4.30.1]
** Cleodaeusと息子Aristomachusの生年差が40歳以上あり、Cleodaeusと共に遠征に参加した彼の長男がいたと思われる。
** Cleodaeusは戦死し、長男は、Glenusの乳母Abiaと共にMesseniaに逃れてIreに定住した。[Paus.4.30.1]
** 長男の孫が「真の」Heraclesの後裔と称されるPolyphontesであったと思われる。[Apo.2.8.5])
BC1175年、Mantoの子Mopsusは、異父兄弟Amphilochusと共に、ColophonからCiliciaへ移住して、Mallusを創建した。[Strabo.14.5.16]
** Mopsusには3人の娘、Rhode, Melias,Pamphiliaがいた。LyciaのRhodiaとPamphyliaは、娘たちの名前に因んでいた。[Photios.176]
** Alexander the Greatに随行し、EgyptのAlexandriaの発展を予言したTelmessusのAristandrusは、Mopsusの後裔と思われる。[Arr.3.2]
** Telmessusからは、Sardisの王MelesやCroesusも神託を受けたと伝えられる。[Herod.1.78, Herod.1.84]
BC1175年、NeoptolemusはDelphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansとの戦いで戦死した。[Apo.E.6.14, Strabo.9.3.9, FGrH.Nr333.F64]
** Orestesらに謀殺されたとも伝えられる。[Apo.E.6.14, Paus.2.29.9, Just.17.3, Hyginus.123]
** NeoptolemusはDelphiのApollo神殿で、司祭Machaereusを裏切ったため、Orestesに殺された。[JeromeChro.1160]
** Troyから帰還して、Delphiに住み着いていたMagnesiansもNeoptolemusとの戦いで、Delphiansに協力したと思われる。
BC1175年、AchillesとDeidamiaとの息子Oneirosは、Phocisでの戦いでOrestesに討ち取られた。[Photios.190]
** Oneirosは兄弟Neoptolemusと共に、Delphiansに味方したPhociansに加勢したOrestesとの戦いになったと思われる。
BC1173年、ThessalyのMagnesiansは、DelphiからCreteを経由してLydiaへ移住してMagnesiaを創建した。[Photios.186.29]
** Magnesiansと共にDaetasの子Machaereusも移住して、Magnesia創建に参加した。[Strabo.14.1.40, Strabo.9.3.9]
** MagnesiaからMiletus近くへ移住して、DidymaにApolloの神託所を開設したBranchusは、Machaereusの子孫であった。[Strabo.9.3.9]
BC1170年、Ajaxの子PhilaeusとEurysacesは、Athensの市民権を得て、Salamis島を譲り、BrauronとMeliteへ移住した。[Plut.Solon.10]
** Eurysacesの聖域がMeliteにあり、EurysacesはMeliteに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** 従って、PhilaeusはBrauronに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** Philaeusの妻は、Agamemnonの娘Iphigeniaであったと思われる。その理由は、つぎのとおりである。
** Philaeusは、Megara王である父Ajaxと共にMegaraに住んでいたと思われるが、その町にIphigeniaの英雄廟があった。[Paus.1.42.4, Paus.1.43.1]
** Iphigeniaは、Artemisに仕える巫女になって、Brauronで死んだと思われる。[Eur.IT.1464]
** Iphigeniaの兄弟HyperionがMegara王を継承している。[Paus.1.43.3]
BC1170年、Hippothousの子Aepytusは、Arcadia王に即位した。[Paus.8.5.4]
BC1169年、Tyndareusの息子たちCastorとPolydeuces(Dioscuri)は、神として祀られることになった。[Paus.3.13.1]
** Dioscuriの神格化は、IdasとLynceusとの戦いから40年後であった。[Paus.3.13.1]
BC1165年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusは、Arneに残留して反乱を起こしたBoeotiansを攻めた。[Polya.8.44]
BC1160年、Telamonの子Teucerの息子と思われるAjaxは、CyprusからCilicia Tracheiaに移住してOlbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheと共にAsia Minorへ移住してPergamonを創建した。[Paus.1.11.2]
** AndromacheとHectorには、複数の息子たちがいた。Neoptolemus にはHelenus が与えられた。[Dictys.5.16]
** Hectorの子Laodamasは、Andromache と共にNeoptolemus のもとにいた。[Dictys.6.12]
BC1154年、Aeneasの子Ascaniusは、Albaを創建した。[Antiq.1.66.1]
** Albaの創建は、Laviniumの創建から30年目であった。[Antiq.1.66.1]
BC1150年、Smyrna率いるAmazonsは、Ephesusの神殿を焼き払った。[Euseb.Chron.185, Strabo.14.1.4]
** Demophonの子Oxyntesの治世(BC1153-41)であった。[Euseb.Chron.185]
BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaから東へ移住して、Medeonを創建した。[StephByz.M439.19]

< The migration of the Aeolis BC1148-1055 >
BC1148年、Orestesは、遠征隊を率いて、Aeolisに植民活動を開始した。[Strabo.13.1.3]
** Aeolisの植民活動はIoniansより4世代前に開始された。[Strabo.13.1.3]
BC1148年、Orestesは、AmyclaeのPeisanderと共にTenedosを創建した。[FGrH.Nr4.F32, Pind.Ne.11, Strabo.13.1.3]
** Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[Pind.Ne.11]
** Tenedos島の住民は、Agamemnonによって、ArgolisのTeneaに強制移住させられ、島は無人であった。[Paus.2.5.4]
** BC4世紀の歴史家Nymphodorusが"Voyage round Asia"の中でTenedosは美女の島だと伝えている。[Athen.13.609e]
BC1148年、EpidaurusのPerinthusは、Orestesに同行して、(Thraceではない)Perinthusを創建した。[StephByz.P517.17]
BC1142年、Ascaniusが死んだ。彼の異母弟Silviusが継承した。[Antiq.1.70.1]
** Ascaniusの治世38年目であった。[Antiq.1.70.1]
BC1132年、Orestesが死んだ。Orestesの子TisamenusがLacedaemon王に即位した。[Herod.1.67, Paus.2.18.6]
** Orestesは70歳のとき、蛇が原因で死んだ。[FGrH.Nr12.F25]
** Orestesの最初の墓は、Tegeaの市門の内側にあった。そこから、SpartansがOrestesの遺骨を盗み出した。[Paus.8.54.4]
BC1126年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusは、Arneに残留していたBoeotiansを追い出した。[Polya.1.12]
BC1126年、ThessalyのArneから追い出されたBoeotiansは、Boeotiaへ帰還した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29, Thucy.1.12]
BC1126年、Arneから帰還したBoeotiansはCoroneiaを奪回して、Orchomenusも併合した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29]
** AthensのMunychiaに避難していたOrchomeniansもこの時、帰還した。[FGrH.Nr4.F42b]
BC1126年、Orchomeniansの一部がTheroの子Chaeronと共にBoeotiansがいなくなったArneに移住して、Chaeroneiaと呼ぶようになった。[FGrH.Nr1.F116, Paus.9.40.5, Plut.Sulla.17]
BC1126年、BoeotiansはOrchomeniansと共に、BoeotiaからPelasgiansを追い出した。Pelasgiansは、Athensへ行った。[Strabo.9.2.3]
** このPelasgiansの中にはSamothraceからCadmusらと共にBoeotiaへ移住して来た者の後裔もいた。[Herod.2.51]
** Pelasgiansは、AthensのAcropolisの下に住み、AgrolasとHyperbiusの指揮下で城壁を築いた。[Herod.6.137, Paus.1.28.3, Strabo.9.2.3]
** Pelasgiansは、城壁築造の功により、Hymettus山麓の不毛な土地(Pelasgicon地区)を与えられた。しかし、その土地が立派に開墾したのをAtheniansが嫉まれて、追放された。[Herod.6.137]
BC1126年、Orestesの子Penthilusは、Aulis港を出港し、Lesbosに植民した。[Paus.3.2.1, Strabo.9.2.3, Strabo.13.1.3]
** Boeotiansの帰還とPenthilusのAulis出航は、Troy陥落60年目であった。[Strabo.13.1.3, Thucy.1.12]

< 4th return of Heracleidae >
BC1126年、Thebesを追われたCadmusの後裔最後の王Autesionは、Doriansの地にいるAristodemusのもとへ亡命した。[Paus.9.5.15]
** Autesionの祖母の故郷Argosは、MycenaeのOrestesの子Tisamenusの支配下にあった。
** Autesionの移住は、AristomachusにPeloponnesusへの遠征を決断させた要因の一つであったと思われる。
BC1126年、Aristomachusは、Orestesの子Tisamenusに敗れた。[Apo.2.8.2, Paus.2.7.6, Strabo.13.1.3]
BC1126年、Agamemnonの子孫たち、Dorusの子CleuesとMalausの遠征隊は、Locris付近に長期間駐留していた。[Strabo.13.1.3]
** CleuesとMalausは、Aristomachus率いるHeracleidaeのPeloponnesus帰還の経過を見ていたものと思われる。
** Penthilusの遠征隊の出発地からは100km以上離れているが、Cleuesらの出発地からは、直近の位置にDoriansの居住地があった。
** CleuesとMalausはAgamemnonの曾孫で、彼らの祖父母は、Aegisthusによって、Mycenaeから追放されたと思われる。
** 遠征隊の多くの者は、Mt. Phriciumに住んでいた(恐らく、Thessalyから逃げ込んだ) Aeolisであったと思われる。[FGrH.Nr4.F80]
BC1126 年、Malausの遠征隊は、Larisa周辺に住んでいたPelasgiansを征服し、the Phryconian Cymeを創建した。[Strabo.13.1.3, Strabo.13.3.3]
** LarisaのPelasgiansは、強大な部族であったが、Trojan Warで弱体化していた。[Strabo.13.3.3]
** Larissa周辺から追われたTeutamusの後裔率いるPelasgiansは、ItalyのPisaeに逃れて、Tyrrheniansと共住した。[Pliny.3.50から推定]
** Cymeへの主たる移住者は、Thesprotiansによって、Thessalyを追われたAeolisであった。[FGrH.Nr4.F80から推定]
** Cymeは、Amazonsの名前であった。[Strabo.11.5.4, 12.3.21]
BC1125年、Heraclesの子Alcaeusの子Belusの子Ninusの子Agronは、Sardis王に即位した。[Herod.1.7]
** この系譜は、創作と思われる。
BC1120年、Orestesの子PenthilusはBoeotiansを率いて、the Aeolian colonyを実行した。[Strabo.9.2.5]
** BC1126年にThraciansとPerasgiansをBoeotiaから追い出した後であった。[Strabo.9.2.5]

< 5th return of Heracleidae >
BC1115年、Aristomachusの子Temenusは、「帰還は3度目の子孫の収穫」という神託を聞いて軍を準備した。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Temenusは、Thoasの子Haemonの子Oxylusを道案内にする。[Apo.2.8.3, Paus.5.3.5, Strabo.8.3.33]
** Oxylusが、陸路ではなく、船でPeloponnesusに入るように進言した。[Paus.5.3.6]
** Temenusは、過去の失敗から学んで、海峡を渡ってPeloponnesusへの侵入を計画して、その方面に詳しいOxylusを仲間にしたと思われる。
** Oxylusは、Temenusの父Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子。
** つまり、Oxylusは、Temenusの父の3従兄弟であり、親族であった。
BC1115年、Temenusは、LocrisのNaupactusで、船を建造した。[Apo.2.8.2, Paus.10.38.10, Strabo.9.4.7]
** Naupactusの創建者はTemenusであった。[Ps-Scym.475]
BC1115年、Temenusの兄弟Aristodemusは、Tisamenusの従兄弟MedonとStrophiusにDelphiで殺害された。[Apo.2.8.2, Paus.3.1.6, Paus.2.16.7]
** MedonとStrophiusは、Delphiの南西60stadesにあるCirrhaに住んでいた。[Pindar.Py.11]
** Aristodemusは子供の誕生を見た後で病死した。[Herod.6.52]
** Aristodemusは落雷で死んだ。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Phylasの子Hippotes(Hippotas)は、Naupactusで預言者Carnusを殺害した。[Apo.2.8.3, Paus.3.13.4, Photios.186.26]
** Carnusは、ArgosのAmphiarausの子Alcmaeonの孫と思われる。
BC1115年、Temenusは、神託によりHippotesを10年間の追放処分にした。[Apo.2.8.3]
** Hippotesは、Heraclesに追い出されたDryopesの王Phylasの娘から生まれたAntiochusの後裔であった。
** 40年後、Hippotesの子AletesがCorinthの支配権を獲得した。[Paus.2.4.4]
BC1115年、PelasgiansはAthensを追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[FGrH.Nr328.F100, Herod.6.137]
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Pelasgiansに追われてLacedaemonへ移住した。[Herod.4.145, Paus.7.2.2, Strabo.8.3.19]
** SpartansがMinyansを受け入れたのは、彼らの先祖が自分たちの先祖と同じArgonautsであったからであった。[Herod.4.145]
** Minyansの一部がOrchomenusからIolcusへ移住し、このためArgo船の勇士たちはMinyansと呼ばれるようになった。[Strabo.9.2.40]
** IolcusのPelias がOrchomenusのAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、若干のMinyansを伴ってきたものと思われる。
** これと似た例は、Neleusの場合やNiobeの場合にも見られる。[Strabo.8.3.19, Strabo.8.4.4]
** 当時のSparta王は、Tyndareusの血を引くOrestesの子Tisamenusであったと思われる。
** Herodotusは、Argonautsから3世代目の子孫(or 子供たちの子供たち)だと伝えている。[Herod.4.145]
** Phocus(PeleusはArgonauts)の子Crisusの子Strophiusの子Pylades(Orestesの親友)。Tisamenusは、Argonautsから4世代目。
** Herodotusは、3世代で100年として計算している。[Herod.2.142]
BC1115年、Lemnos島のPelasgiansは、AtticaのBrauronで娘たちを略奪した。[FGrH.Nr328.F100, FGrH.Nr328.F101, Herod.6.138]
** Lemnos島の最初の住人Sinties or Sintiは、Pelasgiansであった。[FGrH.Nr328.F101][Thucy.2.98, Home.Il.1.594, Strabo.7.8.3]
BC1114年、Temenusは、Naupactusで、再び、船の建造を開始した。
BC1113年、Temenusは、渡海用の艦隊の建造を完了した。Naupactusへの翌春集合を伝達した。
BC1112年、Temenusは、DorisのPindusから出発して、Naupactusに到着した。[Pind.Py.1.70, Strabo.9.4.10]
** Temenusには、HeraclesとOmphaleの子孫Hegeleosも同行していた。[Paus.2.21.3]
** Hegeleosは、後に、ArgosにA sanctuary of Athena Trumpetを造営した。[Paus.2.21.3]
BC1112年、AtticaのTetrapolisのIoniansは、NaupactusでTemenusの軍に合流した。[Strabo.8.6.15から推定]
** AtticaのTetrapolisのIoniansも同行し、ArgolisのEpidaurusに定住した。[Strabo.8.6.15]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、NaupactusからMolycriumまで回航して、渡海の準備をした。[Paus.5.3.6]
** AetoliaとLocrisの境界にあるAntirrhium岬(Molycrian Rhium)から、対岸のRion岬を目指した。[Strabo.8.2.3から推定]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusらの上陸をAchaiaのRion付近で待ち受けた。[Polya.1.9]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusの偽計に騙されて、Isthmusに軍を移動させた。[Polya.1.9]
BC1112年、Temenusは、AchaiaのRionに上陸した。[Paus.8.5.6, Polya.1.9]
** 海峡の幅は、約3km。Tisamenus側の船から妨害を受けた。[Apo.2.8.2]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、AchaiaのAegaeからArcadiaへ進軍した。[Paus.5.4.1]
** Heracleidaeは、Pheneus周辺から、Heraclesの遠征に参加したArcadiansの子孫を多く遠征隊に編入したと推定される。
BC1112年、Arcadia王Cypselusは、娘MeropeをTemenusの弟Cresphontesに嫁がせたい旨を申し出た。[Paus.8.5.6, Polya.1.7]
BC1112年、Temenusの弟Cresphontesは、ArcadiaのTrapezusで、Cypselusの娘Meropeと結婚した。[Paus.4.3.6]

BC1111年、Temenusは、TrapezusのArcadiansを軍に編入し、Pylusに侵攻した。
** PylusのMelanthusの先祖Neleusの息子の時代から、Arcadia人の土地へ進出して、敵対していた。[Home.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
BC1111年、Temenusは、PylusのMelanthus等のNeleusの子孫を追放した。[Paus.2.18.8]
** MelanthusがPylusの王であったとする伝承がある。[Euseb.Chron.183, JeromeChro.1136, JeromeChro.1129, Paus.7.2.3, Photios.186.39]
** しかし、Melanthusは、Nestorの直系ではないのでPylus王ではなく、Neleusの長男の直系としてMessenia王であったと思われる。
BC1111年、Melanthusは、Athensへ移住して、Oxyntesの子Thymoetesを追放した。[Paus.2.18.9]
** Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensへ行くことになった。[Athen.3.96e]
** Eleusisの祭司CauconがAndaniaのMesseneに伝えた大女神の祭儀は、脈々と受け継がれていた。[Paus.4.1.5]
** Melanthusの母も妻もAtheniansであった。Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[Paus.7.2.3, Tzetzes.1.180]
** Melanthusの移住団の中には、Cauconesもいた。[Herod.1.147]
BC1111年、Melanthusは、ThebesのXanthusと決闘して、偽計を用いて殺した。[Polya.1.19, Strabo.9.1.7]
** Thymoetesが一騎打ちを忌避して、Melanthusに譲ったとする伝承もある。[Photios.186.39]
** Melaenae (or Melania)の領有権をめぐる争いであった。[FGrH.Nr70.F22, Polya.1.19, Harp10Orat.a173]
** Oinoeの領有権をめぐる争いであった。[Photios.186.39]
BC1111年、Melanthusは、Athens王になった。[Herod.5.65]
BC1111年、Nestorの子孫Alcmaeonは、Melanthusと共にAthensに移住して、Alcmaeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Paeonの子供たちは、Melanthusと共にAthensに移住して、Paeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Peisistratusは、Athensに移住した。[Herod.5.65]
** BC6世紀のAthensの僭主Hippocratesの子Peisistratusは、Nestorの子孫であった。[Herod.5.65]
BC1110年、Aristomachusの子Temenusは、待ち受けていたTisamenusと会戦した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Tisamenusに味方したAegimiusの子PamphylusとDymasは、Temenusとの戦いで戦死した。[Apo.2.8.3]
** Pamphylusは、後に、Temenusの娘Hyrnethoの娘Orsobiaと結婚しているので、この戦いでは死んでいない。[Paus.2.28.6]
BC1110年、Tisamenusは、Argosに籠城した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Temenusは、Argosの南のTemeniumに砦を築いてTisamenusと戦った。[Paus.2.38.1]
** Heracleidaeは、艦隊でArgolis沿海地方の町を攻略したと思われる。Temeniumも海からの兵站に便利であったと思われる。[Polya.2.12]
BC1110年、Diomedesの子Amphinomusの子Erginusは、Argosの守護神Palladium像を盗み出して、Temenusに協力した。[August.City.3.7, Plut.GreekQuest.48]
** Diomedesの死後、息子Amphinomusは、ItalyからAetoliaへ移住、彼の息子Erginusは、Argosに住んでいたと思われる。[Antoninus.37]
** ErginusとTemenusは、CalydonのOeneusを共通の先祖とする親族であった。
BC1109年、Temenusの子Phalcesは、Sicyonに夜襲をかけるが、戦闘はせずLacestadesと共同で王権を握った。[Paus.2.6.7]
** Sicyonは、最初の王Aegialeus (即位BC2090)から981年続いた。[Suda.sigma,402]
** 実際は、Inachusの子Aegialeusを始祖とするSicyonの王統は、BC1750年から641年間続いた。
BC1109年、Heraclesの子Ctesippusの曾孫Agamedidasは、Cleonaeを奪取した。[Paus.3.16.6]
BC1107年、Temenusは、TisamenusにArgosの領有権を主張して獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.2.18.7, Paus.4.3.3, Polya.1.6]
BC1107年、Tisamenusは、ArgosからSpartaへ移った。
BC1107年、Temenusは、Argosに入城した。
BC1106年、Temenusは、Sparta攻略のためにArgosを出発した。[Polya.1.10]
** Sparta攻略のとき、EurysthenesとProclesだけではなく、Temenusもいて、全軍であったと思われる。[Polya.1.10]
BC1106年、Temenusは、Spartaに籠城したTisamenusを攻囲した。
BC1106年、Oxylusは、案内役を終えて、Aetoliaへ向けて、Spartaを出発した。
** OxylusがTisamenusのSparta退去まで、Temenusのもとにいた場合は、Tisamenusの移住先は、Achaiaではなく、彼の先祖Pelopsが住んでいたPisaであったかもしれない。

BC1105年、Heracleidaeは、Perseusの末子Heliusが創建したLaconia湾岸のHelosを包囲して降伏させた。[Paus.3.20.6]
BC1105年、Oxylusは、Aetoliansを率いてElisに進軍した。[Paus.6.23.8, Strabo.8.3.33]
BC1105年、Oxylusは、ElisのDiusと戦って、Elisの王権を手に入れた。[Paus.5.4.2, Strabo.8.3.33]
** BC1320年にAetolusがSalmoneusに追われてから、215年後の帰還であった。
BC1104年、Philonomusは、Heracleidaeと裏取引して、TisamenusにAchaiaへ移住するように説得した。[Strabo.8.5.4-5]
** Philonomusは、Imbros島やLemnos島からSpartaに来た。[Photios.186.36]
** Philonomusは、BC1115年にPelasgiansに追われてLemnos島からLacedaemonへ移住したMinyansの一人であったと思われる。
BC1104年、Tisamenusは、SpartaからAchaiaへ移住した。[Paus.2.18.8, Strabo.8.7.1, 8.8.5]
BC1104年、EurysthenesとProclesの後見人Therasは、籤で領土を決めるように提案した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.4-5, Strabo.8.1.2, Strabo.8.5.6]
** Heracleidaeは、Peloponnesusを征服した後で、籤引きをした。[Apo.2.8.4]
BC1104年、Cresphontesは、Messeniaの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.5, Polya.1.6, Strabo.8.8.5]
** Heraclesの正妻Deianeiraの長男Hyllusの直系の男子、Temenus、Cresphontes、Aristodemusの遺児で分配した。[Diod.4.34.1, Strabo.9.4.10]
BC1104年、EurysthenesとProclesは、Lacedaemonの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Polya.1.6]
** Lacedaemonに居住したのは、Dorians 3部族のうち、Hyllusの部族であった。[FGrH.Nr70.F173]
BC1104年、Aristodemusの双子の息子EurysthenesとProclesは、Sparta王に即位した。
** Troy陥落から80年後であった。[Thucy.1.12]
BC1104年、Philonomusは、EurysthenesとProclesからAmyclaeを任せられた。[Photios.186.36, Strabo.8.5.4]
BC1104年、Tisamenusは、Achaiaに住んでいたIoniansに対して、共住を申し出るも拒否された。[Paus.7.1.8]
BC1103年、Tisamenusは、Ioniansとの戦いで戦死した。[Paus.7.1.8]
** Tisamenusが鳥の飛び方で伏兵を知った逸話は、この時の戦いと思われる。[Polya.2.37]
BC1103年、Ioniansは、神の庇護を求めてHeliceに集まり、Achaeansがこれを包囲した。[Herod.1.145, Paus.7.1.8]
BC1103年、Cresphontesは、Messeniaの王都をStenyclerusに定めた。[Paus.4.3.7, Strabo.8.4.7]
BC1102年、Ioniansは、Achaeansと休戦条約を結んでAthensへ移住した。[Paus.7.1.5, Strabo.8.7.1, Strabo.8.7.4]
BC1102年、Athens王Melanthusは、Achaiaから亡命してきたIoniansを共住させた。[Paus.7.1.9]
BC1102年、Antimachusの子Deiphontes(Temenusと同世代)は、Argivesを率いてEpidaurus王Pityreusから王位を譲渡させた。[Paus.2.26.1]
BC1102年、Deiphontesは、AtticaのTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusに定住させた。[Strabo.8.6.15]
BC1102年、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensへ移住した。[Paus.2.26.1]
BC1101年、Oxylusは、神託により、AchaiaのHeliceからOrestesの曾孫Agoriusを迎えてElisの共同統治者にした。[Paus.5.4.3]
** MesseniaとEleiaの勢力が逆転した。[Strabo.8.3.30]

BC1100年、TemenusはDeiphontesとHyrnethoを偏愛したので、息子たちに殺された。[Apo.2.8.5]
BC1100年、Temenusの息子たちと娘Hyrnethoの夫Deiphontesとの対立が生じた。[Paus.2.26.2]
BC1100年、Ceisusは、Argos王に即位した。[Paus.2.19.1]
BC1100年、Ceisusは、住民を集めてArgosを創建した。[Strabo.10.4.18]
BC1100年、Proclesは住民を集めて、Argos創建と同時期に、Spartaを創建した。[Strabo.10.4.18]
BC1100年、Autesionの子Therasは、後見人の役目を終えた。[Herod.4.147]
BC1100年、Penthilusの子ArchelausはAeolis遠征隊を率いて、Dascylium一帯やCyziceneへ移住した。[Strabo.13.1.3]
BC1099年、Oxylusは、Olympia競技会を開催した。[Paus.5.8.5]
** Oxylusを最後にOlympia競技会はIphitus が復活させるまで中断した。[Paus.5.8.5]
BC1099年、Therasは、SpartaにAthena神域を奉納した。[Paus.3.15.6]
BC1099年、Lacedaemonに定住したMinyansは、不法行為が多く処刑が決まっていたが、脱獄して立てこもった。[Herod.4.146]
BC1099年、Therasは、Calliste島へ植民のため赦免されたMinyansらを引き連れて出航した。[Herod.4.148, Paus.7.2.2]
BC1099年、Therasは、Calliste島へ移民し、その地の王になって、島をTheraと改名した。[Paus.3.15.6, Strabo.8.3.19]
** 移民は、LacedaemoniansとLemnos島からPelasgiansに追われてLaconiaへ逃げ込んだMinyansの一部とで構成された。[Paus.7.2.2]
** 当時、島には、BC1425にCadmusから分かれたPoecilesの子Membliarusを指導者とする入植者たちの後裔が住んでいた。[Herod.4.147]
BC1099年、EurysthenesとProclesは、Therasの植民市創建を支援した。[Paus.3.1.7]
BC1098年、TriphyliaのScillusの町は、OlympiaにDoris様式のHera神殿を建立した。[Paus.5.16.1]
** OxylusがElisを手に入れてから約8年後であった。[Paus.5.16.1]
** 後に、Scillus はPisaと共にElisに対して反乱を起こしていることから、Scillusの建設者は、Pelopsの息子と思われる。[Paus.5.6.4]
BC1098年、Spartaから逃れたMinyansは、Eleia南部にLepreum, Macistus, Phryxae, Pyrgus, Epium, Nudiumを創建した。[Herod.4.148]
BC1095年、Athensの王Melanthusが死んだ。CodrusがAthens王に即位した。[Euseb.185]
BC1095年、Pityreusの子ProclesはEpidaurusの元住人を率いて、AthensからSamos島に入植してSamosを創建した。[Paus.2.26.1, Paus.7.4.2, Strabo.14.1.3]
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、ArgosとSicyonの軍勢を率いてPhliusへ遠征した。[Paus.2.13.1]
BC1087年、Phalcesの子Rhegnidasは、Phliusの王になった。[Paus.2.13.2]
BC1087年、PhliusのHippasusは、Samosへ移住した。[Paus.2.13.2]
BC1085年、Cresphontesは、息子2人と共に「真の」Heraclesの後裔のPolyphontesに殺され、Messenia王位を簒奪された。[Apo.2.8.5, Paus.4.3.7]
** Polyphontesは、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeus長男の孫と思われる。
BC1085年、Xuthusの3人の息子たち、Cothus、Aeclus、Ellopsに率いられたIoniansは、Euboeaに、それぞれ、Chalcis、Eretria、Ellopiaという町を創建した。Ellopsは、さらに、周辺のHistiaeaなどの町も攻略した。[Plut.QuestGr.22, Strabo.10.1.3, Herod.5.57]
BC1085年、AthensのEretria区のGephyraeansは、Euboeaへ移住して、Eretriaを創建した。[Herod.5.57, Strabo.10.1.3]
BC1082年、Cresphontesの末の息子Aepytusは、Messenia王に即位した。[Apo.2.8.5, Paus4.3.8, Paus.8.5.7]
** Aepytusは、Arcadiaの伯父HolaeasやArgosのTemenusの子Isthmius、SpartaのEurysthenesやProclesの支援を受けた。
BC1075年、Xuthusの息子と思われるAmphiclusは、EuboeaのHistiaeaから、Chios島へ入植した。[Paus.7.4.8]
BC1075年、Aletesは、GonussaからAntasusの子Melasを遠征隊に加えて、Corinth攻略に向かった。[Paus.2.4.4, Paus.7.26.13, Photios.186.26]
** Aletesは、Heraclesの子Antiochusの子Phylasの子Hippotasの子で、Temenusとは同世代であった。
** Melasは、Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの子孫であった。[Newton.Chro.62]
BC1075年、Aletesは、Solygiaの丘に陣を構えて、抵抗した住民(Aeolis)と戦って、彼らをCorinthから追い出した。[Paus.2.4.3, Thucy.4.42]
BC1075年、Aletesは、Propodasの2人の息子DoridasとHyanthidasから譲位されてCorinth王となり、Melasを共住者にした。[Paus.2.4.4]
** Melasは、BC657にCorinthの僭主になったEetionの子Cypselusの先祖であった。[Paus.2.4.4]
** Aletesは、Corinthから亡命して、再び、帰国した。[FGrH.Nr76.F80]
BC1074年、Melanthusの子Codrusは、Athensに攻めて来たPeloponnesusのDoriansと戦って戦死した。[Paus.7.25.2, Polya.1.18]
** Aletes (vagabond)がAthensを攻めた。[Photios.186.26]
** しかし、Aletesの先祖、Heraclesの子Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖なので疑わしい。[Paus.1.5.1]
BC1074年、Doriansは、Athens領MegaraのIoniansを追い出して、DoriansのMegaraを創建した。[Paus.1.39.4, Strabo.9.1.7]
** 後に、Megaraが力をつけると、母市Corinthと戦った。[FGrH.Nr327.F9]

< the migration of the Ionians (BC1073-43) >
BC1073年、Codrusの子Neileusは、AthensのPrytaneumから最初の移民団を率いて、Miletusに入植した。[Herod.1.146, Paus.7.2.6]
** Neileusの移民団は、Athensの市会堂から出発した正式な移民団であった。[Herod.1.146]
** Neileusの移民団は、Iolausの植民団に次ぐAthensが単独で送り出した2回目の遠征隊であった。[Paus.1.29.5]
** Neileusに同行したPasiclesの子Philistusは、Miletusの北西の海岸近くにa temple of Eleusinian Ceresを建立した。[Herod.9.97]
BC1073年、Euctemonの息子たち、PhilogenesとDamonは、Phocaeaを創建した。[Paus.7.2.4, Strabo.14.1.3]
BC1070年、Codrusの庶子Cydrelus(or Cyaretus)は、Miletusを少し遡った所にMyusを創建した。[Paus.7.2.10, Plut.Mor.253a, Strabo.14.1.3]
BC1070年、Pharisと Geranthraeに住むAchaeansは、Doriansに攻められて、Peloponnesusを立ち退いた。[Paus.3.2.6, Paus.3.22.6]
BC1070年、Amyclaeは、Doriansに頑強に抗戦してから退去した。[Paus.3.2.6]
** Amyclae退去は、BC1104、PhilonomusがAmyclaeを報酬として得てから、また、Temenos から3世代目であった。[Photios.186.36]
** Pausaniasは、Amyclae退去を第8代Archelausの子Teleclusの時と記しているが、Proclesの時であった。[Photios.186.36, 47, Strabo.10.4.18]
** Laconiaの中でAmyclaeは最も収穫に恵まれた土地であった。[Polyb.5.19.1]
** Spartaから南へたった4kmの土地に300年居座れるか疑問である。
BC1070年、PolisとDelphos率いるPhilonomos(Minyans?)は、Creteに移住し、Gortynを攻略して、先住民と共住した。[Photios.186.36, 47]
BC1070年、Apodasmosを指導者とする集団は、Creteに渡らず、Melos島に定住した。[Photios.186.36]
** Apodasmosは、Philonomusの息子と思われる。[Commentary on Thucydides Book 5]
** Melos島民は、Lacedaemonからの入植者であった。[Herod.8.48, Thucydides.5.84]
** Doriansは、ThebesからTimomachusを招いて、Amyclaeとの戦いの軍事指導をさせた。[FGrH.Nr70.F16, Pind.Is.7.1]
BC1070年、Temenosの子Ceisusの子Althaemenesは、ArgosからDoriansとPelasgiansを率いてCreteへ植民した。[Photios.186.47, Strabo.10.4.18]
BC1070年、Althaemenesは、Rhodesに移住し、Lindos, Ialysos, Kameirosを創建した。[Photios.186.36, 47]
** BC1213年、Tlepolemusが、ArgosからRhodesへ移住して、同じ3つの町を創建しているので、同族と共住したものと思われる。[Diod.4.58.8]
** Althaemenesの移民団には、DoriansがAthens攻めから戻る途中に創建したMegaraに住むDoriansがいた。[Strabo.14.2.6]
** Rhodesの支配者は、HeliadaeからPhoeniciansに、それからCariansになっていたが、Doriansが取って代わった。[Photios.186.47]
** BC1213年にTlepolemusが、ArgosからRhodesへ移住している[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Home.Il.2.662, Paus.2.22.8, Strabo.14.2.6]
** Greeceの7賢人の一人、RhodesのLindosのCleobulusは、Althaemenesの後裔と思われる。[Diogenes.1.89, Paus.10.24.1]
BC1070年、AnthesはTroezenから植民団を率いて、Cariaに移住して、HalicarnassusとMyndusを創建した。[Paus.2.30.9, StephByz.A74.6, Strabo.14.2.16]
** Anthesは、Anthasの子Aetiusの後裔であった。[Paus.2.30.9]
** AlthaemenesはRhodesに居を定めた後で、植民団をHalicarnassusやCnidusやCosに分散した。[Strabo.14.2.6]
BC1068年、Codrusの子Androclusは、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusを創建した。[Strabo.14.1.3]
BC1068年、Codrusの子Andraemonは、Cariansを追い出して、Lebedusを創建した。[Paus.7.3.5, Strabo.14.1.3]
BC1065年、Codrusの庶子Nauclusに率いられたIoniansは、Teosに入植した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
BC1065年、Androclus率いるEphesiansがSamos島に攻め込んで、島の住民を追放した。[FGrH.Nr70.F166, Paus.7.4.3, Plut.GreekQuest.55]
** Samos島のProclesの子LeogorusがCariansと通じて、Ioniansに対して陰謀を企んでいるという理由であった。
** 島の住民の一部は、Samothraceへ移住した。
** 残りは、Leogorusと共に本土に渡り、島の対岸のAmazonsのAnaea埋葬の地やMycaleに移住した。
** Samiansは、追放されてから10年後にSamos島を奪還した。[Paus.7.4.3]

BC1060年、Codrusの庶子Nauclusと彼の弟Damasus、Melanthusの曾孫Apoecus、GeresがTeosに入植した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** BoeotianのGeresは、Boeotiansを率いていた。[Paus.7.3.6]
BC1060年、SamothraceのSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerinthusを創建した。[Plut.GreekQuest.57]
** 創建からDarius Iの時代までの間に、Strymon流域に住むPaeoniansはPerinthusを攻略した。[Herod.5.1]
BC1060年、Codrusの子Neileusの子Aepytusは、Ioniansを率いてIonia地方にPriene創建した。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
BC1060年、Codrusの庶子Cnopusは、Ionia地方の全地域から人を集めてErythraeへ移住した。[FGrH.Nr1.F228, Paus.7.3.7, Polya.8.43, Strabo.14.1.3]
** ErythraeはCnopopolisと呼ばれた。
BC1055年、Penthilusの子Echelas(or Archelaus)の子Grasは、Lacedaemonの支援を受けてLesbosを占領した。[Paus.3.2.1, Strabo.13.1.3]
BC1055年、Echelas(or Archelaus)の子Grasは、Ionia地方とMysiaの間のAeolis地方を領有した。[Paus.3.2.1]
** Grasは、Granicus川まで進出した。[Strabo.13.1.3]
** これ以前にPenthilusがLesbosを占領しているので、再占領であった。[Paus.3.2.1]
** Aeolis地方の植民は、Ionia地方の植民より4世代前に始まり、後者より長期間であった。[Strabo.13.1.3]
BC1055年、島から追い出されたSamiansは、Samos島からEphesiansを追い出して、島を奪い返した。[Paus.7.4.3, Plut.QuestGr.55]
BC1053年、EphesusのAndroclusは、Cariansに攻められたPrieneの救援中に戦死した。[Paus.7.2.9, FGrH.Nr70.F126, StephByz.A1.1]
BC1050年、ColophonのParalus(or Parphorus)を指導者とするIoniansは、Clazomenaeを創建した。[Paus.7.3.8-9, Strabo.14.1.3]
** Ioniansの大半は、Heracleidaeに追われたCleonaeやPhliusのAchaeansであったことから、Paralusは、Codrusの後裔と思われる。[Paus.7.3.9]
BC1043年、Hippalcimusの子Peneleusの後裔Philotasは、ThebesからIoniaのPrieneに移住して、町を再建した。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
** Prieneの創建者は、Codrusの子Neileusの子Aepytusであった。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
** Apollodorus of Athensは、Ioniansの移住から最初のOlympiad(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がIoniansの移住が完了した年になる。[Euseb.Chron.179]

BC1020年、Samiansは、Ionian Leagueに加盟した。[Paus.7.4.3]
** Samos島をEphesiansから奪還してから、少なくとも1世代以上後と思われる。

おわり