1 はじめに
Asia MinorへのGreeksの入植は、BC16世紀から行われていた。[1]
Hittiteの勢力がAsia Minorへ及んでいて、ギリシア人の入植地は、Miletusの町やLycia地方、Rhodes島、Lesbos島、Chios島、それに、Samos島に限られていた。
BC13世紀の後半、Hittiteの勢力が衰えてくると、Arcadia地方のTegeaの町からMysia地方への入植が行われた。[2]
BC12世紀になると、Boeotia地方からColophonの町への入植が行われた。[3]
その少し後で、Orchomenusの町からColophonの町の近くのTeosの町への入植が行われた。[4]
これらの入植の後で、本格的なAsia Minorへの植民活動が始まった。
2 AchaeansのAeolis地方植民 (BC1170-1055)
2.1 Aeolis植民の開始時期
Straboは、AeolisのAsia Minorへの植民活動は、Ioniansより4世代早く始まったと伝えている。[5]
Aeolisの植民活動の最初の遠征は、Agamemnonの子Orestesによるものであった。
そして、Ioniansの植民活動の最初の遠征は、BC1073年にAthensの町のPrytaneumから出発したCodrusの子Neileusによるものであった。
Neileusは、Melanthusの子Codrusの息子であり、MelanthusとOrestesの子Tisamenusは、同時代人であるので、OrestesはNeileusより3世代前となる。
3世代で100年として計算しているHerodotusに従えば、Aeolis植民の開始は、BC1170年と推定される。[6]
2.2 Orestesの植民
BC1170年、Agamemnonの子Orestesは、Sparta人Peisanderと共にTenedos島へ遠征して、Tenedosの町を創建した。[7]
Troy沖に浮かぶTenedos島の住民は、Agamemnonによって、Argolis地方のTeneaの町に強制移住させられており、Trojan War後、島はほとんど無人であった。[8]
Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[9]
「Voyage round Asia」の著者Nymphodorusは、Tenedos島を美女の島と伝えている。[10]
また、Orestesの遠征には、Epidaurusの町のPerinthusも同行し、Perinthusの町(Thracia地方の町ではない)を創建した。[11]
2.3 Orestesの植民の原因
2.3.1 Mycenaeの破壊
Agamemnonが死んで、彼の息子OrestesがMycenaeの町を継承した直後、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[12]
30年間の治世の後にAgamemnonが死んだのは、BC1173年と推定される。[13]
近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[14]
Doriansは、TirynsやMideaの町も破壊して、Argosの町を占拠した。[15]
その後、Orestesは軍勢を集めて、Argosの町を占拠していたDoriansを追放した。
しかし、Mycenaeの町の城壁内は廃墟になっていて、Orestesは亡命していたTegeaの町に住み続けた。
2度にわたる攻防戦によって、Mycenaeの町の周辺の土地は荒廃した。
2.3.2 気候変動
Aristotleは、Trojan War以後、Mycenaeの町は乾燥して不毛になったと伝えている。[16]
Orestesの植民活動に、Amyclaeの町やEpidaurusの町からも参加していることを考慮すると、この現象は、Peloponnesus全般で起こったことのようである。[17]
土地から得られる収穫が減った上に、収穫を可能にする土地自体が減ったために飢饉が発生したことが移住の原因と推定される。
2.4 Penthilusの植民
Orestesの死後、Orestesの子Penthilusは移民団を率いて、Aeolis地方へ渡った。
BC1126年、PenthilusはBoeotia地方のAulis港を出港し、Lesbos島を占領して植民した。[18]
かつて、Lesbos島はPelasgia島と呼ばれて、Argosの町のTriopasの子Xanthusが率いて入植したPelasgiansが多く居住していた。その後、Aeolusの子Macareusが入植し、Lapithusの子Lesbosが移民団を率いて来島し、Pelasgiansの一部は本土に移住し、Aeolisが多く住んでいた。[19]
Penthilusが率いた移住者もLesbos島の住民の大半も同族であった。Troy側として戦ったPhorbasとその息子Ilioneusはともに戦死していていたので、島の住民は彼らを共住者として受け入れたものと思われる。[20]
Penthilusは、移住者を率いて本国とAeolis地方の間を何度か往復した。彼の異母兄弟Tisamenusの子Cometesも同行して、Aeolis地方に移住した。[21]
また、Tisamenusは、Boeotiansだけの移民団を率いたこともあった。[22]
2.5 CleuesとMalausの植民
BC1126年、Lesbos島へ向かうPenthilusの後から、Dorusの子CleuesとMalausの遠征隊も続くはずであったが、彼らの居住地に長く留まっていた。[23]
Aristomachus率いるHeracleidaeのPeloponnesus帰還の推移を見ていたものであった。彼らは、Penthilusよりもかなり遅れて移住先へ出発した。[24]
CleuesもMalausもAgamemnonの曾孫で、Locris地方やMt. Phricium付近に住んでいた。[25]
CleuesとMalausの移民団は、Lesbos島の対岸へ移住して、Larisaの町に住んでいたPelasgiansを征服し、the Phryconian Cymeを創建した。[26]
CymeはAmazonsに因む名前で、古くからの集落があったのかもしれない。[27]
BC1186年、Troy陥落後、Menestheus配下のAtheniansが、Cymeの町の近くのElaeaの町に定住していた。[28]
Larisaの町の周辺にいたPelasgiansは、Lethusの息子たち、PylaeusやHippothousに率いられた強大な部族であったが、Trojan Warで弱体化していた。[29]
2.6 Penthilusの子Archelausの植民
BC1100年、Penthilusの子Archelaus(or Echelas)は、Achaeansの移民団を率いて、Propontis近くのDascyliumの町の周辺に移住した。[30]
BC680年、Candaulesの次にLydia王になったDascylusの子Gygesは、Dascyliumの町の出身であった。[31]
Lydia王になったGygesは、Ionia地方の町を次々と攻略するが、AchaeansとIoniansとは敵対関係にあったからであった。[32]
2.7 Grasの植民
Orestesの後裔による植民活動は、Heracleidae帰還後も行われ、Lacedaemoniansは、Penthilusの子Archelausの子Grasの植民活動を支援した。[33]
Aeolis地方への移民の中には、Spartaの町の古くからの住人であるLacedaemoniansも含まれていたものと思われる。支配者が代わってもSpartaの町とその植民地との繋がりは維持されていたものと思われる。
BC1055年、Archelausの子Grasは、Granicus川まで遠征し、Lesbos島を再占領して、Mysia地方とIonia地方の間のAeolis地方を領有した。[34]
Lesbos島でAchillesに殺されたHypsipylusの兄弟Helicaonの妻は、Priamの娘Laodiceであり、Lesbos島は、Trojansとの繋がりが強かった。[35]
2.8 Aeolis地方の12市
BC5世紀の歴史家Herodotusによれば、Aeolis12市は、つぎのとおりである。
Phryconian Cyme、Larissa、Neonteichus、Temnus、Cilla、Notium、Aegiroessa、Pitane、Aegaeae、Myrina、Gryneia[36]
3 IoniansのAsia Minor植民 (BC1073-43)
第17代Athens王Codrusが死ぬと、長男Medonが父の跡を継いだ。他の兄弟は、Neileusとともに植民団を率いてAthensの町に溢れた人々を受け入れる土地を探して遠征することになった。[37]
移住先は、Troy陥落後、Achaeansが入植したAeolis地方より南の地方であった。
その地方は、古くはCariansが住んでいた。[38]
BC1426年、Cadmusの異母兄弟Phoenixの娘Astypalaeaがその地を領する者に嫁ぎ、息子Ancaeusが生まれた。Astypalaeaと共に、その地に移住した人々はLelegesと呼ばれるようになった。[39]
IoniansのAsia Minorへの植民は、BC1073年からBC1043年にかけて、数度にわたって行われた。
Apollodorus of Athensは、Ioniansの移住から最初のOlympiad(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がIoniansの移住が完了した年になる。[40]
Castor of Rhodesは、Heracleidaeの帰還からIoniansの移住までは、60年間であったと伝えている。[41]
Spartaの町のOrestesの子Tisamenusが、Heracleidaeに町を明け渡したのが、BC1104年と推定される。
したがって、Castorの説が、Ioniansが移住を完了した年とすれば、Apollodorus の説とほぼ合致する。[42]
3.1 Ioniansの他の植民参加者
Asia MinorのIonia地方への移住者の大半は、古くからPeloponnesus半島北部に住んでいて、Achaeansに追われて、Athensの町へ移住して来たIoniansであった。
しかし、つぎの種族もIoniansとともにAsia Minorへ移住した。[43]
3.1.1 Abantes
Euboea島から移民団に参加したAbantesは、Ioniansに次いで大きな比重を占めていた。[44]
Abantesは、元々はArgosの町に住むPelasgiansであった。Danausの娘Hypermnestraの子AbasがPhocis地方に創建したAbaeの町からEuboea島に移住したChalcodonの父Abasの名に因んでAbantesと呼ばれるようになった。[45]
AbantesとIoniansとは種族的には、まったく結び付きがないが、つぎの点から密接な繋がりがあったものと思われる。
1) 第9代Athens王Aegeusの妻の一人Chalciopeが、Abasの子Chalcodonの娘であった。[46]
2) 第10代Athens王Theseusの息子たちがChalcodonの子Elephenorのもとへ避難した。[47]
3.1.2 Minyans
BC1188年、Phocis地方のHyampolisの町のHyantesがOrchomenusの町に侵入した。町から追い出されたMinyansは、Aeolusの子Athamasの後裔であるAthamasに率いられてIonia地方へ移住してTeosの町を創建した。[48]
Minyansの一部は、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[49]
BC1126年、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方にBoeotiansが帰還し、Coroneiaの町のPelasgiansを追い出して、Orchomenusの町も併合した。[50]
このとき、Athensの町に住んでいたMinyansは、Orchomenusの町へ帰還した。
しかし、Minyansの一部は、Athensの町に残留していて、その後、Ioniansの植民活動に加わった。[51]
3.1.3 Cadmeians
Thebesの町の最後の王Xanthusの祖父Damasichthonの祖父Peneleusの後裔Philotas率いるCadmeiansもIoniansと共に移住した。[52]
3.1.4 その他の種族
Ioniansと共に、Dryopians、Delphiansを除くPhocians、Molossians、Arcadians、Epidaurusの町の新しい住人であるDoriansも移住に参加した。[53]
3.2 Ionia地方の12市
Ioniansは、Achaeansに追われる前に、Peloponnesus半島北部にあった12の町の数と同じ数の町をAsia MinorのLydia地方やCaria地方の沿岸部に創建した。[54]
Ioniansが入植する前は、Ephesusの町以南の地方にはCariansが住み、北の地方にはLelegesが住んでいた。[55]
3.2.1 Miletus
3.2.1.1 Ioniansの移住前
3.2.1.1.1 最初のGreeks
Cadmusの兄弟Phoenixの娘Astypalaeaの息子Ancaeusは、Lelegesの王であった。Ancaeusの妻Samiaは、Maeander河神の娘であった。[56]
古い時代には、Miletusの町はLelegeisと呼ばれて、Lelegesの居住地であった。[57]
以上のことから、Ancaeusは、Maeander川の流れるMiletusの町を支配していたと推定される。
Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[58]
つまり、Ancaeusが支配した人々は、先住民のCariansと共住して、混血したGreeksであった。[59]
Ancaeusの息子と思われるAnaxが父の跡を継いで、Miletusの町は、Anactoriaと呼ばれた。[60]
3.2.1.1.2 Hittiteへの従属
BC1318年、Hittite王Mursili IIは、Miletusの町を攻めて、占領した。[61]
この戦いの原因は、Miletusの町がHittiteに反抗していたUhha-Zitiと同盟を結んでいたからであった。[62]
Anaxの子Asteriusは、Miletusの町の前に浮かぶLade島近くの島へ逃れて死んだ。[63]
また、Anaxの息子と思われるCleochusは、Uhha-Zitiの軍に合流した。
その後、Cleochusは、Mursili IIとの戦いに敗れて、Uhha-Zitiの子Piyama-Kuruntaと共にHittite軍の捕虜になった。[64]
その後のCleochusの消息は不明であるが、Miletusの町の近くのDidymaeumに墓があった。[65]
Cleochusの娘AriaはCrete島へ逃れ、彼女に息子Miletusが生まれた。[66]
3.2.1.1.3 Hittiteからの独立
BC1295年、Ariaの子Miletusは、Minosの兄弟Sarpedonの協力を得て、Crete島からAsia Minorへ移住して、祖父の旧領を回復した。[67]
Miletusの子Erginusは、Laomedonの娘Hesioneを妻に迎えて、Troyとの関係を深めた。[68]
3.2.1.1.4 再び、Hittiteへ従属
Miletusが死ぬと、Miletusの町は、再び、Hittiteの属国になった。
しかし、Miletusの子Erginusは、父がHittite王に敵対していたが、Hittite王によって、そのままMiletusの町を任せられた。[69]
Erginusが許されたのは、彼の妻がTroy王Laomedonの娘であったからと推定される。
3.2.1.1.5 Trojan War時代
Peleusの子Achillesは、Miletusの町を攻めて、Lelegesの王Trambelusを殺した。 [70]
Trambelusの母は、Laomedonの娘Hesioneであり、彼はErginusからMiletusの町を継承していた。[71]
3.2.1.2 Ioniansの移住
BC1073年、Codrusの子Neileusは、Athensの町が派遣した正式な移民団として、Prytaneumから新天地に向けて出発した。[72]
Neileusの移民団は、女性を含まない若者たちの集団であった。[73]
Athens王Codrusの継承権を争ったNeileusの入植地Miletusの町は、Ionia地方の王都にはなれなかった。[74]
Miletusの町がIonia地方の中央になかったことと、その町の住民が、Ioniansではなく、Codrusの父Melanthusと共にAthensの町へ移住して来たMesseniansであったからであった。[75]
後に、Miletusの町の賢人Thalesは、Ionia地方の中心都市にするべきだと主張した。[76]
Neileusに同行したPasiclesの子Philistusは、Miletusの町の近くのScolopoeisの地に、EleusisのCeresの神殿を建立した。[77]
3.2.2 Myus
BC1080年、Codrusの庶子Cydrelus(or Cyaretus)は、Neileusと仲違いして、Miletusの町からMaeander川を少し遡った土地に移住してMyusの町を創建した。[78]
3.2.3 Ephesus
3.2.3.1 Ioniansの移住前
Troyan War当時は、Alopeの町と呼ばれ、CariansやLelegesが住んでいた。[79]
Hittite文書に登場するArzawaの首都Apasaは、Ephesusの町の古い名前のようである。[80]
恐らく、Apasaの創建者は、Cariansであったと思われる。
BC1318年、Apasaは、Hittite軍に攻められて陥落し、住人は追放された。[81]
その後、Samos島の奴隷1,000人がEphesusの町に定住した。[82]
BC1150年、Smyrna率いるAmazonsがEphesusの町に攻め込み、神殿を焼き払った。[83]
AmazonsのOtreraが、Seven wonders of the worldに数えられる、Dianaの神殿を建立した。[84]
多くの史料が、AmazonsがEphesusの町を創建したと伝えている。[85]
しかし、いずれの創建者もGreeksではなかった。
3.2.3.2 Ioniansの移住
BC1068年、Codrusの子Androclusが、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusの町を創建し、Ionia地方の王都となった。[86]
移住者の中には、Messenia出身者もいて、Ephesusの町のSmyrna地区に居住していたが、町から北へMeles川を越えた所に移住して、Smyrnaの町を建設した。[87]
BC1053年、Androclusは、Cariansに攻められたPrieneの町を救援するため、Ephesiansを率いて駆け付けて勝利するが、Androclusは戦死した。[88]
その後、Androclusの息子たちと他のEphesiansとの争いが生じて、敵対者はTeosの町やMysia地方のCarineの町から植民者を受け入れて対抗した。その結果、Ephesiansは5つの部族になった。つまり、本来のEphesiansの他に、Bennaeans、Euonymous、Teians、Carineansである。[89]
3.2.4 Lebedus
BC1068年、Codrusの子Andraemonが、Cariansを追い出して、Lebedusの町を創建した。[90]
3.2.5 Colophon
3.2.5.1 Ioniansの移住前
BC1200年、Crete島からLebesの子Rhaciusが移民団を率いて、Chios島とSamos島の間の本土側に移住し、Colophonの町を創建した。[91]
LebesはMycenianであり、Mycenaeの町のSthenelusの子Iphitusの息子と思われる。[92]
BC1196年、RhaciusがColophonの町に住んで間もなく、Epigoniの捕虜になったBoeotia地方の人々が移住して来て、Cretansと共住した。彼らの中にいたThebesの町の予言者Tiresiasの娘Manto(or Daphne)は、Rhaciusと結婚し、Agamemnonに従軍したCalchasを凌ぐ予言者となる息子Mopsusを産んだ。[93]
BC1186年、Troy陥落後、Thessaly地方から遠征に参加したPeirithousの子Polypoetesや、Coronusの子Leonteusは故郷へ帰還せずに、Colophonの町に定住した。[94]
3.2.5.2 Ioniansの移住
BC1065年、Codrusの2人の息子たち、DamasichthonとPromethusがIoniansを率いてColophonの町に移住し、Cretansに共住を許された。[95]
Ioniansの移住時、Rhaciusの後裔がColophonの町を治めていた。その後、住人の多くがIoniansになったためか、あるいは、Ionian Leagueへの加入のためにか、Codrusの2人の息子たちがColophonの町を治めることになった。[96]
3.2.6 Priene
BC1060年、Miletusの町のCodrusの子Neileusの子Aepytusが、Ioniansを率いてPrieneの町を創建した。
BC1053年、Prieneの町はCariansに攻められ、Ephesusの町からAndroclusが救援に駆け付けて勝利するが、Androclusは戦死した。[97]
BC1043年、Hippalcimusの子Peneleusの後裔PhilotasがThebesの町から移民団を率いて来て町を再建した。[98]
BC2世紀初頭の伝記作者Satyrusによって、the Seven Sagesの筆頭に上げられるTeutamesの子Biasは、この時の入植者の後裔であった。[99]
初期のPrieneの町の住人には、Achaia地方のHelice出身者が多く含まれ、Panioniumは、Heliconian Neptuneにささげられたものであった。[100]
3.2.7 Teos
3.2.7.1 Orchomeniansの移住
BC1188年、Thraciansに追われたOrchomenusの町の住人の一部は、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方へ移住してTeosの町を創建した。[101]
Teosの町のすぐ東側には、Colophonの町があり、EpigoniのThebesを攻めで、捕虜となったBoeotia地方の人々が、少し前に、その地に移住していた。[102]
3.2.7.2 Ioniansの移住
BC1065年、Codrusの庶子Nauclusに率いられたIoniansが最初にTeosの町に入植した。
BC1060年、Nauclusの弟DamasusやMelanthusの曾孫Apoecusに率いられたIonians、それにBoeotianのGeresが率いるBoeotiansが入植した。[103]
3.2.8 Erythrae
3.2.8.1 Ioniansの移住前
BC1260年、Rhadamanthus(or Rhadamanthys)の子ErythrusがCrete島から移民団を率いて、Chios島の対岸に移住して、Erythraeの町を創建した。町には、Cretansに友好的なCariansや、少し前に、Minosに追い出されて、Sarpedonと共に移住して、Lyciansと呼ばれていた人々が共住した。[104]
BC5世紀の歴史家Hellanicusは、Codrusの子NeileusがErythraeの町を創建したと伝えているが、古い町を再建したものと思われる。[105]
3.2.8.2 Ioniansの移住
BC1060年、Codrusの庶子Cnopusが、Ionia地方のすべての町から人々を集めて、Erythraeの町に連れて行って共住し、町はCnopopolisと呼ばれた。[106]
Erythraeは、Boeotia地方の同名の町の植民市とも伝えられる。[107]
3.2.9 Clazomenae
BC1050年、Asiaに渡ったIoniansが、Colophonの町のParalus(or Parphorus)を指導者に招いて、最初、Ida山麓に町を建設した。しかし、この町を放棄して、Colophonの町の近くにScyppiumの町を建設した。その後、まだ人が住んでいない土地にClazomenaeの町を創建した。[108]
Clazomenaeの町のIoniansの大半は、Heracleidaeに追われたArgolis地方のCleonaeの町やPhliusの町のAchaeansであった。Clazomenaeの町がIonian League加盟していることから、Paralusは、Codrusの後裔と思われる。[109]
3.2.10 Phocaea
BC1080年、Euctemonの2人の息子たち、PhilogenesとDamonは、Codrusの子Neileusの最初の移民団の中にいたが途中で別れた。彼らは、Phocis地方のPhociansを率いて、Aeolis地方南部のまだ人の住んでいない土地に移住して、Phocaeaの町を創建した。[110]
その土地は、BC1126年、Agamemnonの曾孫MalausがLocris地方のPhricium山麓に住んでいた人々を率いて移住し、先住民のPelasgiansを追い出して創建したCyme Phriciumの町の支配下にあった。彼らは、かつての同郷のよしみで土地を分け与えられたものと思われる。[111]
後に、Phocaeaの町の住民は、Ionian Leagueへの加盟を申し出たが、Codrusの後裔を王に迎えることで加盟を許された。
Erythraeの町やTeosの町からCodrusの後裔、DeoetesとPericlusとAbartusを王に迎えた。Phocaeaの町のIonian League加盟の時期は不明であるが、Erythraeの町やTeosの町への入植の後であった。[112]
Phocaeaの町がIonian Leagueに加盟したのは、海運が発達してCymeの町と利害関係が生じたためで、かなり後と推定される。[113]
3.2.11 Samos島
3.2.11.1 Ioniansの移住前
BC1365年、Macareusの子CydrolausがLesbos島からSamos島へ移住した。[114]
この移住より前の島の先住民は、Ephesusの町へ移住したと思われる。[115]
BC1248年、Argonautsの遠征に、Samos島からAstypalaeaの子Ancaeusが、兄弟であるMiletusの町のErginusと共に参加した。[116]
ArgonautsがArgosの町からHeraの神像を持ち帰って、Samos島のHeraの神域を創建したという伝承もある。[117]
BC1213年、the Temple of Hera in Argosの巫女であったEurystheusの娘AdmeteはSamos島へ移住した。[118]
3.2.11.2 Ioniansの移住
BC1095年、Pityreusの子Proclesが、Athensの町から元のEpidaurusの住人の大半を率いて、Samos島に入植して、Samosの町を創建した。[119]
Samosの町は、Tembrionが創建し、その後、Proclesがこれを再建した。[120]
Proclesの父Pityreusは、BC1102年、HeracleidaeによってArgolis地方のEpidaurusの町から追われたXuthusの子Ionの後裔であり、同族のいるAthensの町へ移住していた。[121]
しかし、Heracleidaeは、Epidaurusの町から住人を追い出して、Attica地方からHeracleidaeの遠征に同行したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。
それ以前にEpidaurusの町を治めていたのは、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusであったが、住民の多くはAchaeansであったと思われる。
Ionia地方の4つの方言のうち、Samos島民だけが独特な方言を話していた。[122]
BC1087年、Heracleidaeに追われたArgolis地方のPhliusの町の指導者Hippasusが、Samos島へ移住して来た。Hippasusは、有名なPythagorasの先祖であった。[123]
3.2.11.3 島からの移住と帰還
BC1070年、Proclesの子LeogorusがCariansと組んで、Ioniansに対して陰謀を企んでいるという理由で、Androclus率いるEphesiansが島に攻め込んだ。
島の住民の一部は、Samothrace島へ移住し、残りは、Leogorusと共に本土に渡り、島の対岸のAmazonsのAnaea埋葬の地やMycale半島に移住した。[124]
Samothrace島に移住したSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerintusの町を創建した。[125]
BC1060年、Samos島から追い出された人々は、島からEphesiansを追い出して、島を取り戻した。[126]
Samos島のIonian League加盟はこの後であった。
3.2.12 Chios島
3.2.12.1 Ioniansの移住前
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Aeolisに追われて各地へ移住した。[126-1]
Pelasgiansの一部は、Chios島へ移住した。[126-2]
BC1370年、Lesbos島のMacareusの長男は、CariansやLelegesが住むChios島に入植した。彼は、Agenorの子Phoenixの娘Astypalaeaの子Ancaeusの娘Parthenopeと結婚し、息子Chiosが生まれた。[127]
BC480年、Greeceに進攻したXerxesの軍勢には、Chios島のPelasgiansも含まれていた。Macareusと共にPeloponnesusからLesbos島へ移住し、その後、Macareusの長男と共にChios島に移住したPelasgiansであった。[128]
BC1250年、Minosの娘Ariadneの子OenopionがNaxos島からChios島に入植した。[129]
3.2.12.2 Ioniansの移住
BC1060年、Euboea島のHistiaeaの町のAmphiclusがChios島に入植した。[130]
BC970年、Amphiclusから4代目のHectorが、Chios島からAbantesやCariansを追い出して、Ionian Leagueに加入した。[131]
Pausaniasは、なぜHectorが同盟に加入できたのか理由が分からないと記しているが、Hectorが治める住民がIoniansであったからであった。[132]
Hectorの祖Amphiclusは、Athensの町から移民団を率いてEuboea島へ渡ってEllopiaの町を創建したEllopsの兄弟であった。[133]
Ellopsは近隣のHistiaeaの町も支配下に置き、Amphiclusは町の住人や、次々にAthensの町から移住して来る人々を率いて、Chios島へ移住した。[134]
Ellopsは、Xuthus(or Ion)の息子であり、種族的には、Phoeniciansであり、Gephyraeansという部族に属していた。[135]
BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入し、Atheniansは、一時、Gephyraeansが居住するBoeotia地方のTanagra近くまで避難し、Gephyraeansに受け入れられた。[136]
BC1200年、Tanagra周辺のGephyraeansは、Boeotiansに追われて、Athensの町へ逃げ込み、市民として受け入れられた。[137]
Athensの町へ亡命したGephyraeansを率いたのは、SpartiのAstacusの息子たち、Ismarus、Leades、Amphidicusであり、Ellopsの父Xuthusは、彼らの後裔であった。[138]
3.2.12.3 Chiosの町の創建
Chios島がIonian Leagueに加入後、Egertiusが雑多な移民団を率いて来島し、Chiosの町を建設した。[139]
3.2.13 Smyrna
3.2.13.1 Ioniansの移住前
Herodotusは、Atysの子Tyrrhenusが移民団を率いて、SmyrnaからItalyへ船出したと伝えている。これは、BC1300年の出来事であり、当時、Smyrnaの町はなかった。[140]
その土地には、Lydia王Melesに因んで名付けられたMeles川が流れ、Lelegesが住んでいた。[141]
3.2.13.2 Smyrnaの創建
BC1075年、Codrusの嫡出子Androclusが、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusの町を創建した。[142]
その移住者の中にいたMessenia地方のPyllusの町の出身者は、Ephesusの町のSmyrna地区に居住していた。後に、Smyrna地区の住人は、Meles川の北側にSmyrnaの町を建設した。[143]
3.2.13.3 Smyrnaの創建前の状態
その地方は、Trojan War以前、Lethusの2人の息子たち、PylaeusとHippothousを指導者とするPelasgiansが住んでいた。
BC1126年、Agamemnonの曾孫Malausが、Epicnemidian Locris地方の Phricius山周辺に住んでいたAeolisを率いて、Mysia地方に植民した。[144]
彼らは、Hermus川流域のLarissaの町を中心に広大な土地を支配していたPelasgiansを征服して、Cymeの町 (Phryconian Cyme, Cyme Phriconis)を建設した。[145]
Pelasgiansは、Samos島の対岸のMycale半島付近まで支配していたと伝えられるが、CariansやLelegesと共住していたものと思われる。[146]
Pelasgiansを追い出したCymeの町の人々の居住範囲は、Meles川近くまで及んでいたことから、Smyrnaの町は、Aeolisが建設した町だとHerodotusは認識していたと思われる。[147]
3.2.13.4 Smyrnaの創建時期
Smyrnaの町の創建時期については、Phocaeaの町がIonian Leagueに加盟した頃と推定される。
BC826年、Cymeの町は他の町より遅れて、港の使用料を取立てた。[148]
それ以前に、海運が盛んになり、港を利用する船の数も多くなったものと思われる。
Ephesusの町から移住してSmyrnaの町を建設したのも、良港があり、北方への海運に便利なためであったと推測される。Ephesusの町からAeolis地方へ船で行くためには、Mimas半島を大きく迂回する必要があった。Alexander the GreatもMimas半島の根元に運河を作ろうとしたが成就しなかった。[149]
また、海運が盛んになることによって、良港を持つ、Phocaeaの町と、すぐ近くのCymeの町との間に対立が生じて、Phocaeaの町がIonian Leagueに加盟した。[150]
3.2.13.5 Cymeとの戦い
それまで、Meles川までを自分たちの土地と思っていたCymaeansには、Smyrnaの町が栄えるのを容認することができなかった。
Cymaeansは、Smyrnaの町を攻めて住人を追い出した。追い出された人々は、母市Ephesusの町の手前にあるColophonの町に避難した。その後、その町の人々の援助を得て、Smyrnaの町を奪還した。[151]
この時、Cymeの町から移住して、Smyrnaの町に住んでいたMaionの子Melesigenesは、人質として、Colophonの町に住まわせられた。彼は、後に、Homerと呼ばれる叙事詩人であった。[152]
3.2.13.6 Ionian Leagueへの加盟
Herodotusは、最初、Aeolis地方の町として創建されたSmyrnaが、Colophonの町に奪われたと伝えているが、一連の出来事の後半しか知らなかったようだ。[153]
BC733年頃、Smyrnaの町は、Lydians (恐らく、Alyattesの子Ardysの治世)の攻撃で破壊され、以後、村落の状態が続いた。
約400年後、Antigonusは、Alexander the Greatの命によって、Meles川の南側に新しいSmyrnaの町を建設した。[154]
BC688年、Smyrnaの町からOlympicに選手が参加している。[155]
Pausaniasは、その当時、Smyrnaの町はIonia地方の町であったと記している。[156]
Smyrnaは、最後にIonian Leagueに加盟し、13番目のIonia地方の町になった。[157]
おわり
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