1 はじめに
BC1560年、Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasの子Iasusの時代に、Argosの町に住んでいたPelasgiansの大移動があった。
その原因は、Mycenaeの町との戦いの結果によるものと思われる。
Argusの子Criasusには、兄弟Ecbasusがいた。[1]
Ecbasusの子Agenorの子Argusは、Argosの町からMycenaeの町へ移住して、町の名前をArgionに変えた。[2]
Argusは、第7代Sicyon王Thurimachusの娘Ismeneと結婚して、彼らの息子Messapusは、第8代Sicyon王Leucippusの娘Calchiniaを妻にした。[2-1]
Mycenae王Messapusは、第9代Sicyon王になり、Sicyonの町を支配下に置いて、急激に勢力を増した。[2-2]
Messapusは、Argosの町を攻めて、住人を追い出した。
Argosの町の住民は、大きく4つの集団となって、Argosの町から各地へ移住した。
2 LyciaやEgyptへの移住
1つ目の集団を率いたのは、Argosの町を治めていたIasusであった。Iasusは、彼の兄弟Xanthusや彼の幼い娘Ioを含む移民団を率いてPeloponnesus半島から船出した。途中、Xanthus はIasusから分かれてLyciaに上陸して植民した。Iasusの移民団はさらに航海を続け、Egyptへ入植した。 [3]
2.1 XanthusのLycia移住
Xanthusは移住者の一部をLyciaの川(後にXanthus)の近くに植民した後で、さらに北へ向かって良い土地を探すために船出した。
Xanthusに同行していたCyrnusは、Rhodes島対岸にCyrnusの町を創建し、Xanthus自身はIssa島と呼ばれていた無人島に植民した。[4]
Issa島は、Xanthusが属していたPelasgiansに因んで、Pelasgia島と呼ばれた。その後、Thessaly地方のLapithesの子Lesbosが島に入植して、彼に因んでLesbos島と呼ばれるようになった。[5]
Lesbos島のPelasgiansは、その後、島から本土へ渡り、後のIonia地方のCymeの町の南を流れるHermus川周辺に居住して、Trojan Warの時代には一大勢力になった。[6]
2.2 Iasusと娘IoのEgypt移住
Iasusの娘Ioは、EgyptのSaisの町に住んでいたTelegonusと結婚した。[7]
Ioの息子Epaphusは勢力を拡大し、NileDeltaの分岐点より上流にMemphisの町を創建した。 [8]
また、第2代Athens王CranausもIoの息子であった。[9]
HeracleidaeのPeloponnesus帰還以前のAtheniansは、Pelasgiansであったと伝えられている。それはCranausが、IasusやIoと共にEgyptへ移住したPelasgiansを連れてAthensの町へ再移住したからであった。[10]
3 Arcadiaへの移住
2つ目の集団を率いたのはIasusの兄弟Agenorの息子Pelasgusであった。彼らは、Argosの町から西南西へ約70kmのLycaeus山(現在のMt. Lykaion、 標高1,421m)の麓へ移住した。Pelasgusは食用となる樫の実を見つけて人々に教えたと伝えられる。Lycaeus山周辺には食用となる樫の実が豊富にあったと思われる。[11]
Lycaeus山頂からはPeloponnesus半島の殆どを見渡すことができ、山頂には、雨乞いの供犠をするための祭壇があり、人身御供が行われていた。[12]
また、かつてArgosの町のPhoroneusの子ApisがAegialeiaの町のAegialeusの子Telchinと戦ったときに、Apisに加勢したParrhasiansもArcadia地方南部へ移住した。[14]
Apisに敵対しAegialeiaの町にいたCaryatii族もArcadia地方のTegeaの町に移住しているので、飢饉はArgolis地方全体に及んでいたと推定される。[15]
Pelasgusの子Lycaonは、Lycaeus山の麓で離ればなれに暮らしていた人々を集めてLycosuraの町を創建した。[16]
Pelasgusのもう一人の息子Temenusは、Arcadia地方北部に聳えるCyllene山の麓、後にStymphalusの町ができるあたりに住んだ。[17]
Lycaonには、長子Nyctimusをはじめ多くの息子たちがいて、それぞれArcadia地方各地に町を創建した。[18]
Arcadia地方へ移住したPelasgusの後裔は、他に居住地を変えることなくPeloponnesus半島中央部で暮らしていたが、Trojan Warまでに、次の5つの海外移住があった。
3.1 Samothraceへの移住
BC1430年、Arcadia地方で長期的な洪水が発生し、Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusも被災した。Dardanusは、祖父Orchomenusが創建したMethydriumの町に住んでいた。Methydriumの町は、標高約1,000mの高地を流れるMaloetas川とMylaon川の間の小高い丘の上にあった。[19]
Dardanusは息子たちの一人Deimasに住民の半分を残し、Dardanus自らは残りの住民を率いて新天地を探す旅に出た。Dardanusは、Aegean Seaを北上して、Hellespontos海峡手前のMelas Gulfの沖合に浮かぶSamothrace島へ移住した。[20]
Dardanusの母の姉妹Alcyoneも、彼女の夫Megassaresや2人の息子たち、HyperenorやHyrieus、それに娘Pharnaceと共に、Dardanusの移民団に参加した。[21]
その後、DardanusはSamothrace島からAnatolia半島北西部Troas地方へ移住して、Troy王国の始祖になった。
MegassaresはSamothrace島に立ち寄ったCadmusの移民団に参加して、Boeotia地方に再移住して、Hyriaの町を創建した。[22]
Megassaresの2人の息子たち、Hyrieus と Hyperenorは、Cadmusに次ぐ実力者Spartiになった。[23]
3.2 Creteへの移住
BC1430年、Arcadia地方のTegeaの町は深刻な食糧不足に襲われ、Lycaonの子Tegeatesの3人の息子たち、Cydon、Gortys、Archediusは、Crete島へ移住した。彼らは、Dardanusの移住と同じ原因によるもので、途中まで、彼らは一緒に行動していた。[24]
Tegeatesの子CydonはCrete島の北西部にCydoniaの町、Gortysは島中央部にGortynaの町、そして、ArchediusはCatreusの町を創建した。[25]
3.3 Parosへの移住
BC1430年、Lycaonの子Parrhasiusの子Parusは、Arcadia地方のParrhasiaからDelos島の南の島Parosへ移住した。ParusもDardanusやTegeatesの息子たちと途中まで、一緒に旅をした。[26]
3.4 Ceosへの移住
BC1390年、Achaeusの子Archanderと、Hypseusの娘Cyreneとの間の息子Aristaeusは、Attica地方のSunium岬の沖合に浮かぶCeos島へ移住した。[27]
Aristaeusの移民団には、Lycaonの後裔のParrhasiansが参加していた。[28]
3.5 Italyへの移住
BC1240年、Arcadia地方のTegeaの町の西方約8kmにあるPallantiumの町(現在のPalantio付近)で争いが起こり、敗れたThemisの子Evanderは新天地を求める旅に出た。Evanderが罪を犯して、一族共々追放されたとも伝えられる。[29]
Evanderは、Argosの町の創建時から存在する由緒あるParrhasiansに属していた。Parrhasiansは、Argosの町からArcadia地方へ居住地を広げたPelasgusの子Lycaonの家系であった。[30]
Evanderの移民団は、Arcadia地方の南部からEleia地方を流れ、Ionian Gulfに注ぎ込むAlpheius川に沿って下った。折しもElisの町のAugeasやPylusの町のNeleusに対するHeraclesの戦いが終わり、行き場を失った人々がOlympiaの町で野営していた。[31]
Evanderは、その中にいたAchaia地方のDymeの町のEpeansやPheneusの町のArcadiansを移民団に参加させた。[32]
Evanderの移民団は、Elisの町の外港Cylleneから出航して、Italy半島を右回りに航海して、半島中央部のTiber川を遡り、後のRomeの地に上陸した。[33]
Evanderの移民団は、Velia(後のPalatium)と呼ばれる丘の近くに定住した。[34]
4 Thessaly地方への移住
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaの一家を中心とする集団は、Thessaly地方北部へ移住した。[35]
Argosの町の西にあるAcropolisの名前やThessaly地方のPeneius川近くの町の名前に、このLarisaの名前が付けられている。LarisaはArgosの町に住んでいて、その後、彼女の息子たちを連れてThessaly地方へ移住したと思われる。[36]
Larisaと共にArgosの町からの移住した人々はPelasgiansであり、Thessaly地方北部のPeneius川の近くのLarisaの町から東南の海岸地方との間の地域に居住した。[37]
その後、Larisaの3人の息子たち、Achaeus、Phthius、Pelasgusが住んでいた土地は、それぞれAchaia、Phthiotis、Pelasgiotisと呼ばれるようになった。[38]
Larisaの息子Pelasgusの時代にThessaly地方北部を震源とする大地震が発生した。
Tempeと呼ばれる山々が裂けてTempe渓谷ができ、沼の水がPeneius川に注いで沼地が干上がって平原になった。平原ができて領地が広くなったPelasgusは祭りを催して大喜びしたと伝えられる。[39]
同じ頃、Thessaly地方北部を東西に流れるPeneius川に南側から注ぐEnipeus川の源流付近に暮らす人々は、大洪水の被害を受けた。
Enipeus川の源流域のMelitaeaの町に住んでいたDeucalion一族も被災した。Deucalionの長男Hellenは、Enipeus川の対岸付近にHellasという町を作っていたがMelitaeaの町より低地にあったため土地は浸水し、住民はMelitaeaの町へ逃れた。[40]
この大洪水は、初代Athens王Cecropsから第2代Athens王Cranausに代わったBC1511年に発生した。[41]
Deucalion時代の洪水と呼ばれる出来事である。
5 Megara地方への移住
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの子Crotopusは、Megara地方のGeraneia山麓に移住して、Tripodiskionの町を創建した。[42]
Pausaniasは、Crotopusの子Sthenelasの子Gelanorの時代にDanausがEgyptからArgosの町に来て、Gelanorから王権を奪ったと伝えている。[43]
CrotopusとSthenelasの間には、2世代の欠落があると思われるが、Crotopusの後裔は、Argosの町へ戻ったようである。Argosの町にCrotopusの墓があった。[44]
おわり |