第5章 エーゲ海の大津波(BC1420とBC1390)

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Create:2023.6.9, Update:2024.2.3

1 はじめに
BC1390年、第6代Athens王Erechtheusの治世13年目、Eleusisの町やMegara地方も津波に襲われ、人々はGerania山へ逃れた。[1]
大津波は、これより30年前のBC1420年にも発生していたことが記録されており、その時のRhodes島の様子を史料は伝えている。[2]
この大津波の原因と思われる記録が残されている。それによると、Crete島の北方約110kmにあるThera(現在のSantorini)島とすぐ北西にあるTherasia島との間で大噴火があった。大噴火は、4日間続き、噴出した溶岩が周囲約2kmの島を形成したという。[3]
詳細が記録されているのは、当時、Thera島に住んでいた人々の証言があったからであった。
BC1425年、Agenorの子Cadmus率いる移民団の一部の人々がPoecilesの子Membliarusを指導者として、Thera島に残り、島に住んでいた。[4]
BC1420年の津波は、Rhodes島、Crete島、Samothrace島に被害を与えた。
BC1390年の津波は、Rhodes島、Crete島、Lesbos島、Chios島、Athens、Eleusis、Egypt、Corinthの町に被害を与えた。

2 Rhodes島
BC1456年、Crete島東部のPrasusの町のErysichthonは、移民団を率いてRhodes島へ移住した。Erysichthonは島に住んでいたTelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚して、7人の息子たちが生まれた。その後、先に島に住んでいたTelchinesと民と移民との間に争いが生じ、Rhodosの息子たちはTelchinesを島から追い出した。[5]
BC1420年、Telchinesが島を出た直後に島を大津波が襲い、高所へ避難して死を免れた人々も長期的に沼地と化した土地での暮らしを余儀なくさせられた。その後、人々を悪疫が襲った。[6]
このとき人々を導いたのは、Rhodosの息子たちであった。大津波の後で、沼地になった島の土地を耕作可能な土地に変えた太陽に対する崇拝が、この時から始まった。Prasusの町からの移住者たちは、Rhodosの夫Erysichthonを太陽神Heliusとみなし、彼の子孫をHeliadaeと呼んだ。[7]
島名もそれまでのTelchinis島からRhodes島と呼ぶようになった。[8]
Heliadaeの一人で、Rhodosの息子Actis (or Auges, Atlas)は、Egyptへ移住してHeliopolisの町を創建した。[9]
BC1390年、Rhodosの息子Cercaphusが死に、彼の息子たちの代になったとき、再び、島は大津波に襲われた。無事に生き延びたCercaphusの3人の息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusは、Rhodes島内に自分たちの名を付けた町を創建した。[10]
RhodiansはAegean Seaを支配し、Thera島の大噴火後、最初に島へ上陸した。[11]

3 Crete島
Thera島に近いCrete島で、津波があったと記している史料は見当たらない。
Crete島では、BC8世紀まで、海からかなり離れて町を作っていたという。
大津波による被災の記憶が長い間、人々の記憶に留められていたようである。[12]
Phoenixの娘Europaや彼女の息子Minosも大津波で被災したと思われる

3.1 BC1420年の大津波
BC1420年、大津波がCrete島北西部のCydoniaの町を襲い、Tegeatesの子Cydonが死んだ。
彼の妻Phoenixの娘Europaと2人の息子たち、MinosとCardysは生き延びた。
Cydonは、BC1430年にArcadia地方のTegeaの町から住人を率いてCrete島へ移住して、Cydoniaの町を創建していた。Cydonの移住の原因は、異常気象による飢饉の発生であった。[13]
Europaは、BC1425年にAgenorの子Cadmus率いる移民団に参加して、Cydoniaの町を訪問し、Cydonと結婚していた。[14]
その後、Europaは、Peloponnesusから移民団を率いて来たDorusの子Tectamusの子Asteriusと再婚して、Cnossusの町に住んだ。[15]
Asteriusが跡継ぎを残さずに死ぬと、Europaの子MinosがCnossusの町を継承した。

3.2 BC1390年の大津波
BC1390年、Crete島北部を大津波が襲い、Minosが住むCnossusの町も被災した。[16]
Minosは、Cydoniaの町に住むCardysのもとへ避難するが、Cardysも津波の被害を受けていた。
MinosとCardysは、隣のApteraの町から被災者を乗せて、Asia Minorへ向かうTelchinesの移民団に加わり、Troas地方へ移住した。Cardysは、しばらく後に、Cydoniaの町へ帰った。Minosは、当時、Dardanusの子Erichthoniusが治めていたDardanusの町の近くに定住した。[17]
Dardanusの甥Corybasと妻Thebeとの間に娘Ideが生まれ、Minosには息子Lyctiusが生まれた。
IdeとLyctiusは後に結婚した。IdeとLyctiusとは、Arcadia地方のPelasgusの子Lycaonを共通の祖とする同族であった。[18]
TroyのPriam王の富は、Iliumの町の北北東にあるAbydusの町附近のAstyraの金鉱から生れた。
Minosと共にCrete島から移住した人々も採掘に関わっていたものと思われる。富を蓄えたMinosの後裔はCrete島へ帰還し、多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊まがいの住人を駆逐してAegean Seaの制海権を手に入れた。[19]

4 Lesbos島
BC1390年、大津波は、Lesbos島を襲った。
これより前、BC1560年にTriopasの子Xanthusに率いられたPelasgiansが、Argosの町から移住して島に住んでいた。Xanthusが入植した当時、島は無人で、Issaと呼ばれていたが、Pelasgiaと呼ばれるようになった。[20]
その後、BC1415年には、Erysichthonの子MacarがRhodes島からLesbos島に入植した。[21]
大津波に襲われて、島は海水に浸かって荒れ果てた。[22]
Lesbos島の住人は、荒れ果てた島を捨てて、対岸の本土へ渡った。[23]
Trojan Warの時代、Lesbos島の対岸のHermus川周辺にはPelasgiansの大部族が住んでいた。[24]
大津波の後で、Peloponnesus半島北西部のOlenusの町のAeolusの子Macareusが植民団を率いて、Pelasgia島へ移住した。[25]
Macareus自身はAeolisであったが、彼の植民団には、IoniansやPelasgiansも含まれていた。[26]
Macareusが入植する前、Pelasgia島と呼ばれていた島は、Macareusの住み家と呼ばれるようになった。[27]
その後、Macareusの兄弟Lapithesの息子Lesbosが叔父のもとへ移住して来て、島はLesbos島と呼ばれるようになった。[28]

5 Chios島
BC1390年、大津波は、Lydia地方の沖に浮かぶChios島を襲った。Aeolusの子Macareusは生き延びた人々を集めて、島の対岸にKaridesという町を創建した。[29]
その後、Macareusは、彼の息子をLesbos島からChios島へ移住させた。[30]

6 Samothrace島
BC1420年、Samothrace島は大津波に襲われた。[31]
Dardanusと彼の兄弟Iasionの妻Cybele、それに、彼女の息子Corybasは生き延びた。
しかし、Dardanusの妻ChryseとIasionは死んだ。[32]
Dardanusは、BC1430年にArcadia地方のMethydriumの町からSamothrace島へ移住して来ていた。[33]
Dardanusの姉妹Harmoniaも移住して島に住んでいたが、島を訪問したCadmusと結婚して、島からThracia地方へ移住していた。[34]
津波の後で、Dardanusは島を去って本土へ渡り、Troas地方のIda山の麓にDardanusの町を創建した。[35]
Troas地方には、Dardanusより少し前にCrete島から移住したTeucrians (or Gergis)のTeucrosが住んでいた。Dardanusは、Teucrosの娘Bateiaと再婚してTeucrosの後継者となり、Troy王国の始祖になった。[36]
CybeleとCorybasはIda山に住み、Cybeleは女神として崇められ、Corybasは母の儀式を祝う者たちをCorybantesと呼んで踊りを伝えた。[37]
Cybeleの信仰の対象はCabeiriであったが、Asiaへ広まると信仰の対象は、山の母Cybele本人となった。[38]

7 ThraciaとPeloponnesus
7.1 BC1420年の大津波
BC1420年、大津波がThracia地方を襲った。Strymon川下流域で暮らしていたThraciansのEdoniや、Pangaeus山付近の沿岸部に居住していたAgenorの子Cadmusが率いる人々が被災した。[39]
ThraciansやCadmusの集団は新天地を求めて南へ移動した。彼らの移動はThessaly地方北部に住んでいたHellenの子Dorusに影響を与えた。Dorusは南へ移動してOeta山とParnassus山の間のDryopis地方へ移住した。[40]
Cadmusの通過後、Thessaly地方内は混乱に陥った。Xuthusの子Achaeusは、父が追放されたPhthiotis地方へ帰還していたが、再び、Peloponnesusへ移住した。[41]
EdoniのTereus率いるThraciansは、Phocis地方のDaulisの町付近に移住した。その後、Tereusは、Megara地方のPagaeの町付近に定住した。[42]

7.2 BC1390年の大津波
BC1390年、大津波がPagasetic Gulf西岸のHalusの町を洗い流した。[43]
Halusの町は、Aeolusの子AthamasがThessaly地方のArneの町から移住して、創建した町であった。[44]
また、大津波は、Thessaly地方の沿岸部に住むPelasgiansの集落を襲った。住居を失ったPelasgiansは大挙して内陸に移動し、Thessaly地方のPagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲った。
Itonusの町は、Athamasの父Aeolusの兄弟Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの子Itonusが創建した町であった。Itonusは、Athamasの兄Mimasの子Hippotesの子Aeolusの娘Melanippeを妻に迎えて住んでいた。[45]
Itonusの妻MelanippeはPelasgiansのDiusの戦利品として連れ去られた。[46]
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方のThermopylae近くのAnthelaの町に住み、付近一帯のDoriansの王であった。Amphictyonは同族を結集して、PelasgiansをThessaly地方から追い出した。[47]
Thessaly地方を追われたPelasgiansは四散したが、大きな集団は西へ向かいDodona周辺に留まった。一部のPelasgiansは、Nanasの子Janusに率いられてItaly半島へ移住した。[48]
Aeolusの娘Melanippeは、PelasgiansのDiusによって、Italy半島南部のMetapontiumの町まで連れて行かれた。[49]
Melanippeの子Boeotusは成人すると、母Melanippeと共にItaly半島からThessaly地方のArneの町に帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[50]
また、大津波の後で、Achaia地方のOlenusの町のAeolusの子Macareusに率いられたIoniansやPelasgiansがLesbos島へ移住した。[51]

8 Athens、Eleusis、Egypt、Corinth
BC1390年、大津波がEgyptのNileDeltaのArchandropolisの町を襲った。Archandropolisの町は、Achaeusの子ArchanderがArgosの町から移住して創建した町であった。[52]
ArchanderとDanausの娘Scaeaとの間の息子Belusは被災した人々を率いて、新天地を求める旅に出た。Belusは、移住地を探して出航しようとしていたCorinthの町のSisyphusの子Aeetesの移民団に合流した。Aeolusの子Sisyphusが創建したばかりのCorinthの町も津波に襲われていた。
AeetesとArchanderは、Deucalionの子Hellenを共通の祖とする同族であった。[53]
Aeetesの移民団には、津波の被害を受けた人々を率いたAthensの町のBoreasとEleusisの町のCeryxも含まれていた。
Aeetesの移民団はAegean Seaを北上して、Ceryxは、Thasos島対岸のThracia地方に入植した。
Boreasは、Samothrace島対岸のHebrus (現在のMaritsa)川を遡上し、支流のRheginia (現在のErgene)川をさらに遡った土地に入植した。
AeetesとBelusは、Hellespontos海峡を抜けて、Propontis海に入った。Egyptからの移民団を率いるBelusはCyzicus手前のAesepus川流域に適地を見つけて入植した。Aeetesは、Bosporos海峡を抜けて、Pontus海に入って岸を右に見ながら船を進め、東の端まで進んで、Phasis川の河口に適地を見つけて、Colchis地方へ入植した。[54]

8.1 Ceryxの移住
Eumolpusの子Ceryxは、Thasos島対岸のThracia地方に入植した。[55]
Ceryxは、移民団の中にいたBoreasの娘Chioneと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[56]
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusと、Athensの町のPandionの子Erechtheusとの戦いが起きた。[57]
Chioneの子Eumolpusは、Thraciansを率いて駆け付け、Eleusisの町のImmaradusに加勢した。[58]
Immaradusは戦死し、Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承した。彼らの後を、Immaradusの弟CeryxがThracia地方から呼び戻されて継承し、Ceryxの跡を息子Eumolpusが継承した。[59]

8.2 Boreasの移住
Boreasは、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟であり、Athensの町の神官であったButesの息子であった。Boreasは、従妹であるErechtheusの娘Orithyiaと結婚した。[60]
Boreasは、Hellespontos海峡の手前でAeetesの移民団と別れた。Boreasは、Thracia地方のSamothrace島対岸のHebrus(現在のMaritsa)川を遡上し、支流のRheginia(現在のErgene)川を遡って、適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山のすそ野にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[61]
Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであったと推定される。
Boreasの移民団は、Athensの町のPrytaneumから出発する正式な遠征隊ではなかった。[62]
Boreasの子供たちのつぎのような婚姻関係などから、BelusやCeryxと一緒に移住したことが分かる。

8.2.1 Boreasの娘Cleopatra
Cleopatraは、Rheginia川の源流近くにあるSalmydessusの町のPhineusと結婚した。[63]
PhineusはBelusの息子であり、入植後もBoreasとBelusとの間に交流があったことが分かる。[64]

8.2.2 Boreasの娘Chione
ChioneはCeryxと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[65]
Eumolpusは、Belusの入植地に住むBenthesicymeの娘Daeiraと結婚した。[66]

8.2.3 Boreasの双子の息子たち、ZetesとCalais
BC1365年、Boreasの双子の息子たち、ZetesとCalaisは、Propontis海を越えて、黒海西岸のIster(現在のDanube)川の中に浮かぶPeuce島に移住した。[67]
そこは、Hyperboreansの住む土地であり、そこから供え物がDelos島へ届けられた。[68]
Herodotusが伝えているDodona経由の伝達路では、Euboea島のCarystusの町を経由していた。[69]
Carystusの町は、Aegeusの父Scirusの子CarystusがBC1260年にSalamis島から移住して創建した町であった。Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの娘Rhoeo(or Creousa)と結婚して、Delos島の祭司となるAnius(or Anion)を産んだ。[70]
また、Pausaniasが伝えている、Hyperboreansの地からDelos島への伝達路では、Attica地方のPrasiaeの町を経由している。[71]
いずれの伝達路とも、Athensの町がHyperboreansとDelos島との間に深く関わっていた。
ZetesとCalaisは、Boreasの居住地よりもさらに、北に移住し、年2回収穫できる肥沃な島に住むHyperboreansと呼ばれる人々の始祖になった。[72]
Hyperboreansが住む島の支配者および聖職者は、Boreasの子孫が継承した。[73]
HyperboreansとAtheniansとDeliansには、友好関係があった。Boreasの父ButesのAthensの町での神官という地位が大きく影響していると思われる。[74]
Boreasより150年以上も前からAthensの町は、Delos島で祭儀を執り行っていた。
[75]
Hyperboreansの住む島は、後に、Alexander the GreatがThracia地方を攻めたときに、Triballiansが逃げ込んだ川の中の島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster(現在のDanube)川の7つの河口のうち、一番大きいthe Sacred Mouthと呼ばれる河口から22km上流にあった。その島は、Peuce島と呼ばれていた。[76]
この時、Triballiansは友好関係を結んだ後でも、大王の島への上陸を許さなかったと伝えられる。
その島は、有事の際には住民が避難して加護を求める神聖な場所であった。[77]

8.3 Belusの入植
Aegean SeaからHellespontos海峡を抜けてPropontis海に入り、陸地を右に見て岸伝いに進むとCyzicusの手前にAesepus川の河口がある。Belusが入植したのは、Aesepus川の流域であった。その付近一帯のことを当時の人々は、Echiopiaと呼んでいた。
Belusには2人の息子たち、CepheusとPhineusが生まれた。Cepheusは父の跡を継ぎ、Phineusは黒海南西岸の地へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[78]
Phineusは、Boreasの娘Cleopatraと結婚し、その後、Dardanusの娘Idaeaと結婚して2人の息子たち、ThynusとMariandynusが生まれた。[79]
PhineusとCleopatraとの結婚は、同じ移民団の中にいたBelusとBoreasとの間に交流があったことを物語っている。
また、PhineusとIdaeaの結婚は、両者の居住地が近かったために成立したと思われる
ThynusとMariandynusは、Phrygia地方のAscania湖の南西のOlympus山付近に移住し、それぞれ、ThyniansとMariandyniansの祖となった。[80]
彼らの後裔からTroy王国のPriamの妻Hecuba(or Hecabe)が誕生した。[81]

8.3.1 Belusの父について
Belusの父をArchanderと推定したのは、つぎのことからである。
1) 系図を作成すると、BelusのEchiopia入植と、BoreasやAeetesの入植の時期が同じ頃である。
2) Belusの息子PhineusがBoreasの娘Cleopatraを妻にした。[82]
3) Aeetesの後裔の2人目のAeetesが、Phineusの息子から生まれている。[83]
以上のことから、3人は同じ移民団にいて、それぞれ別な土地に入植したと推定される。
また、BC5世紀中期の歴史家Herodotusは、身体特徴や風習、亜麻の栽培方法の類似性から、ColchiansはEgyptiansであると断言している。Aeetesの移民団にEgyptiansが含まれていたと推定される。[84]
AeetesやBoreasは、Egyptに縁がなく、Belusの入植地がEchiopiaと呼ばれていたことから、Egyptiansを含む移民団をEgyptから率いたのは、Belusと推定される。
また、EgyptのChemmisの町で生まれたDanaeの子Perseusの父も、Archanderの孫と推定される。Perseusの妻Andromedaは、Belusの子Cepheusの娘であり、PerseusとAndromedaは、Archanderを曾祖父とする又従兄妹とすれば、両者の遠距離婚も理解できる。[85]

8.4 Aeetesの入植
Aeetesは、黒海東岸のPhasis川付近のColchis地方へ入植した。[86]
Aeetesの移民団には、Belusと共にEgyptから出航した人々も含まれていて、ColchiansはEgyptiansであると信じられていた。[87]
Colchis地方は金銀の産出量が多く、TelchinesがAeetesを先導し、鉱山を探しながら旅をしたものと思われる。Aeetesの入植から150年ほど後に、黄金の国Colchisの名は広く知れ渡り、Greece各地の若者たちが黄金を求めて遠征するArgonautsの物語が誕生した。[88]

9 Egypt
BC1390年、大津波は、EgyptのNileDeltaの西のCanopusの町を襲った。[89]
Macerisの子Sardusは、被災した住民を連れてSardinia島へ移住した。Sardusの入植地は、島の南西部と思われ、そこには、Sardusの神殿があった。[90]
Sardusの父Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれた。[91]
BC1430年、Macerisは、Cadmusの父AgenorらとともにEgyptからPhoenicia地方のSidonの町に移住した。[92]
Macerisは、そこでPhoeniciansから航海術を学び、その後、EgyptのHeliopolisの町でActisから星の知識を伝授された。[93]
Macerisは、地中海の西の外れにHeracleia(後のCalpe、現在のAlgeciras付近)の町を創建し、その地で没した。[94]
Heracleiaの町の北を流れるBaetis(古くはTartessus、現在のGuadalquivir)川流域はTartessusと呼ばれ、Heracles神殿があった。そのHeraclesは、Phoenicia地方のTyreの町の神殿にあるHeraclesと同じであった。[95]
航海術に優れ、世界の果てまでを知り尽くしたMacerisは、海洋民族Phoeniciansにとっては、神のような存在であった。Tartessusの町やTyreの町の他に、EgyptのCanopusの町やThasos島にもHeraclesの神域があった。[96]
Macerisは、Agenorの息子であり、Cadmusの兄弟であったと推定される。
Agenorの子PhoenixはTyreの町に住み、Agenorの子Cillixの子ThasusはThasos島に住んでいた。[97]
Amphitryonの子Heraclesの功業に登場するErytheiaの牛飼いGeryones(or Geryon)は、Macerisの後裔であった。Geryonesの娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住し、彼の先祖Sardusの入植地の近くにNoraの町を創建した。[98]

おわり