イッソスの会戦の考証

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Upd:2023.2.24
イッソスの戦いの関係場所

1 はじめに
 ギリシア北方に興ったマケドニア王国は、紀元前338年夏、ギリシア連合軍をカイロネイアの会戦で破り、コリントス同盟の盟主となってギリシア世界に覇を称えた。しかし、紀元前336年夏、盟主ピリッポスⅡ世は暗殺され、息子のアレクサンドロスがマケドニアの王となった。アレクサンドロスは、王国の安全を脅かす周辺部族を次々に打ち破り、統治基盤を揺るぎないものにしようとした。その遠征のさなかにマケドニアに対して反旗を翻したテーバイを完膚なきまでに破壊し、もはや昔日の勢力を失ったギリシア諸ポリスへの見せしめとした。コリントス同盟の盟主となったアレクサンドロスは、紀元前334年春、父ピリッポスⅡ世をはじめとする多くのギリシア人の長年の夢であった東征の途についた。
当時のアケメネス朝ペルシアのダレイオスⅢ世とギリシア同盟軍を率いたアレクサンドロスⅢ世との最初の戦いである「イッソスの会戦」は、歴史関係の書物をはじめ多くの著書に取り上げられているが、ほぼ一致しているのは、お互いが敵を求めて前進したことにより偶然生じた「空前のすれ違い」であり、その結果、ダレイオス軍がアレクサンドロス軍の背後に現れたとしている。しかし、この分析は誤りで古代の史料を精査するとアレクサンドロス大王の緻密な計算が背後にあることがわかる。
会戦まで経過を具体的な日付で推定するために、2つの基準日を設定したい。
1つ目は、アレクサンドロスのタルソス到着日である。
アレクサンドロスが、タルソスに到着日は「夏で、太陽の熱気でキリキアの海岸地方は特に暑かった」(1)ことから、記録的な暑さではなかったものの真夏であったことは間違いないだろう。現代の気象観測が始まってからのタルソスの最高気温は42゚Cであり、7月29日から8月6日までの間に3日観測されている。この日にちの中間の8月2日を、アレクサンドロスのタルソス到着日と推定して、基準日1としたい。
2つ目は、イッソスの会戦のあった日である。
この会戦は、「アテナイのアルコンがニコクラテスの年のマイマクテリオン月」にあった(2)とされ、現在の暦年では、紀元前333年10月中旬から11月中旬である。また、ダレイオス軍がダマスコスに送った財貨をパルメニオンが接収する時、雪が降っていた(3)と記録されている。ダマスコスの11月中旬の平均最高気温は17゚C、平均最低気温は2゚C。イッソスからダマスコスまでは約480km。パルメニオンが歩兵を伴っていたのであれば、毎日行軍して17日行程であるが、接収を急いでいたことからすれば、騎兵部隊のみであった(4)と思われるが、少ない部隊での敵中行軍を考慮し、また途中で援軍要請のため行軍をまったく停止させている(5)ので、同じくらいの日数を要したと思われる。従って合戦のあった日については、11月1日と推定して、基準日2としたい。

2 メムノンの病死 (基準日0)
 ヘッレスポントス海峡を渡ったアレクサンドロスは、紀元前336年春に父ピリッポスによって、少なくとも10,000(6)のギリシア同盟軍を率いて先発させていた(7)パルメニオンと小アジアで合流した後、グラニコス川の戦いでペルシア帝国の小アジア太守連合軍を破った。その後、小アジアの総督府があったリュディア地方のサルディスで備蓄されていた財貨を接収し(8)、遠征当時30日分しかないと言われていた遠征費用(9)を確保してペルシア側拠点を次々に攻略し、ゴルディオンで冬営する。(10)
すぐ南下してキリキアへ攻め込まなかったのは、ペルシア帝国の傭兵隊長メムノンが海軍を率いてギリシア本土を窺い(11)、カリア太守オロントバテスもハリカルナッソスで各地から追われてきたペルシア勢力を結集して激しく抵抗していたこと(12)が挙げられる。また、プリュギア方面へ派遣していたパルメニオン部隊(13)との合流や、カリアからマケドニアへ一時帰郷させていた新婚兵とそれらと一緒に来る予定になっていた新兵の来着を待っていた(14)ことも理由としてあげられる。しかし、紀元前333年春、オロントバテスの抵抗は続いていたものの一時帰郷兵が新たに徴募した騎兵や歩兵を伴って帰還(15)すると、ハリュス川以東のカッパドキア地方に残るペルシア側勢力の制圧作戦を開始する。(16)
メムノンは、ハリカルナッソスを小アジア防衛の最後の拠点と位置づけ、総力を挙げて抵抗活動をしていたが、アレクサンドロス軍の手に落ちる前に市街地を焼却し、拠点を周辺の城塞に移した。(17) 陸上での抵抗はオロントバテスに任せて、メムノン自らは傭兵部隊を艦隊に乗せ、船上の人となった。これより前にダレイオスから艦隊司令官に任命されていた(18)メムノンは、アレクサンドロス軍の海上輸送の中継基地となる島々を奪取し、兵站路を断ち切るとともに、ギリシア傭兵部隊をギリシア本土に上陸させ、マケドニア本国を狙って、アレクサンドロスの帰国を余儀なくさせるという作戦であったのだろう。(19) しかし、レスボス島のミテュレネ攻略に手間取っている間に、この作戦に不可欠な存在であったメムノン自身が病死してしまった。(20)
運命の女神は常にアレクサンドロスに微笑んでいるが、この時の微笑みほどアレクサンドロスに喜ばれたものはなかった。もし、メムノンの作戦が実行に移されていれば、この後、2年後に勃発するスパルタ王アギスとマケドニア本国の留守部隊の指揮官アンティパトロスの戦い(21)は、時期的にもっと早まり、しかもアギス側の兵員数も2倍になり、アンティパトロスは破れ、アレクサンドロスは急遽本国帰還を余儀なくされたはずである。この時のアギス軍は、ギリシア傭兵8,000(22)を含めて歩20,000、騎2,000。(23)一方のアンティパトロスは40,000(24)を下らない兵を率いて対抗し、アギスは戦死する。
このメムノンの死亡時期がいつかは不明であるが、アレクサンドロスのもとへ伝わったのはパンフィリア及びカッパドキア地方で活動中のこと(25)であった。総大将の死は、自軍にとっては大きなマイナスであるため、秘匿されるのが普通であり、すぐにはアレクサンドロスのもとへも届かなかったはずである。しかし、それを知ってアレクサンドロスはキリキアへ進出し、基準日1には、タルソスに到着している。メムノンの死から、それがアレクサンドロスに伝わり、タルソスに到着するまで、13日と見積もり、メムノンの死亡を紀元前333年7月20日として、これを基準日0とする。レスボス島周辺で活動中のアレクサンドロス軍側の者にメムノンの死亡が伝わるまでを3日、急使がカッパドキア付近のアレクサンドロスのもとへ届けるまで4日、行軍してタルソスに到着するまで6日とした。

3 ダレイオスの決断
 当時、夏の都エクバタナにいた(26)と思われるダレイオスにメムノン病死の報が届けられると、メムノンの作戦を継続するか、自らが出陣して決戦を挑むかが協議されたが、後者が採択された。(27) 紀元前390年代のスパルタ王アゲシラオスの小アジア遠征時には、買収によって本国に紛争を起こして帰国を余儀なくさせた(28)が、今回はギリシア諸ポリスに戦うだけの戦力もなく、各ポリスとも東征軍中に人質を取られているため買収工作はできなかったのであろう。また、メムノンなくしてマケドニア本国の留守を預かるアンティパトロスと渡り合うことはできなかったであろうし、メムノンが指揮を執っても恐らく騎兵のいない部隊に敵を攻めて再起不能なまでに撃破することは不可能であったろう。
そこで、ダレイオスが示達した内容はおよそ次のようなものであった。
(1) 艦隊司令官には、アルタバソスの子パルナバゾスをあてる。(29)
(2) パルナバゾスは、アウトプラダテスと封鎖作戦を継続すること。(30)
(3) パルナバゾスは、テュモデスに傭兵部隊を預けること。(31)
パルナバゾスは、レスボス島で包囲作戦をしていた傭兵部隊を、当時リュキアにいたメントルの子テュモデスに預けて、再びレスボス島へ戻った。(32)テュモデスは、リュキア付近でアレクサンドロス軍の残留部隊に抵抗していたギリシア傭兵部隊を集めて艦隊で南下し、ポイニキアのトリポリスへ上陸した。(33)
(4) テュモデスは、傭兵部隊を上陸させ、ソコイで本隊と合流すること。(34)
ソコイの場所については、アッシリア地方にあって、シリア門から2日行程ほど離れた場所(35)としか分かっていないが、シリア門とアレッポの中間地点と思われる。この古くからの街道から大きく外れて、アレクサンドロス軍を待ち受けるのはかなり危険なことで、アレクサンドロス軍の神速を持ってすれば首都バビロンを急襲されることが十分考えられたであろう。ソコイから南には、後にセレウコスが戦象500頭とともに軍を養えるほど肥沃な地方(36)があり、ダレイオス軍に十分な糧秣を供給できたはずである。
(5) 帝国内各民族は、軍を率いてバビロン郊外に招集すること。
バクトリア人、ソグディアナ人、紅海の住民(インド人)等は召集に間に合わなかった(37)が、遅れて駆けつけることもなかった事実から見て、進発予定日の余程前に、何らかの事情で進発を早めたものと思われる。1週間位早めたのであれば、ソコイで合流できたと思われるので、出発予定日の2週間以上早めに出発したのではないか。2年後のガウガメラ戦の時の召集では、バクトリア人などは他の多くの民族より早くバビロンに集結したと述べており(38)、この時の事情が影響していると思われる。
(6) シリア・エジプトの部隊は、ソコイに先行して本隊の到着を待つこと。
バビロン応召民族については、クルチウスが詳細に述べている(39)がシリア・エジプトの民族名は見あたらない。しかし、イッソスでのペルシア側戦死者にエジプト太守サバケスの名があり(40)、シリア太守についてもイッソス戦の後でパルメニオンが財貨接収のためダマスコスに行くとシリア太守が既に戻っていた(41)とあり、イッソス戦に参加していたと思われる。小キュロスの反乱時、フェニキア太守アブロコマスが300,000の軍勢を指揮した(42)とあり、誇張を斟酌しても相当な部隊を引き連れてきたことは想像に難くない。
メムノン病死の知らせがダレイオスに届けられたのは、基準日0から10日後と見なして、7月30日であった。当時、サルディスからの「王の道」はカッパドキアから以西はアレクサンドロス軍に押さえられていたもののキリキアから以東の宿駅については健在で機能していたであろう。全111宿駅(43)のうち、63宿駅は駅伝機能があった。完全に機能していれば、全部で7日要していたので、当時使えた部分はキリキアの宿駅からの4日分。エクバタナまでへも同じくらいの日数で行けたのではないかと思われる。メムノン病死の直後に使者が発せられたとしても、小アジア一帯は敵地であったため、使者がレスボス島からキリキアの宿駅まで達するのに6日とした。「王の道」を使用せずに海路でポイニキアを経由してエウプラテス川沿いに陸路を早馬を駆けさせることもできたであろうが、更に多くの日数を要したろう。

4 アレクサンドロスのキリキア進出
 メムノン病死の報に励まされて、アレクサンドロスは主力を率いて南下を決意した。
小アジア南部のキリキア地方へは、タウロス山脈のキリキア門(標高約1,300m)を越えないと軍隊は南下できない。紀元前401年、小キュロスの軍勢もまたここを通過しており、クセノポンをして荷馬車は通れるが恐ろしく急勾配でしかも敵に阻止された場合、軍隊が通過することは不可能であると言わしめている(44)場所である。関門の長さは約20スタディオン(約3.7km)あり、切り立った山際から城壁が延びて道を塞ぎ、数カ所に門があった。(45)
主力部隊をパルメニオンとともに関門の手前で待機させ、アレクサンドロス自らが率いる軽装部隊は関門を急襲する。キリキア太守アルサメスの守備隊は戦わずして関門を放棄、アレクサンドロスは全軍を率いて翌朝キリキア門を越えるが、アルサメスがタルソスを破壊して撤退を企てていると聞き、軽装部隊を率いてタルソスに急行する。(46) 2日行程の道のりを猛進撃してタルソスに到着した。アレクサンドロスはこの時の疲労と、夏のもっとも暑い時期(47)に冷たいキュドノス川(48)で水浴びをしたため病気になった。(49)病名は急性肺炎あるいはマラリア熱と推定されているが、急性心筋梗塞の可能性もあろう。夜明けとともに(50)関門を通過し、一日の中で一番熱い時間帯に(51)タルソスに到着した。約8時間で駆け下った距離は500スタディオン(約92.5km)であった。(52)

5 パルメニオンのシリア門先発
 史料の中でパルメニオンのシリア門への出発について言及されているのは、アレクサンドロスのタルソス出発の少し前(53)のみである。しかし、タルソスで闘病中のアレクサンドロスに宛てて、アレクサンドロスとともにタルソスにいるはずのパルメニオンから医師ピリッポスに用心するようにとの書簡が届く。色々な場所からの送付ということになっている(54)が、クルチウスのみは「先発先」からとなっており、アレクサンドロスが発病する前からパルメニオンが先発させられていたような記述をしている。(55) クルチウスに従えばパルメニオンは、タルソス到着日にキリキア太守アルサメスの焦土作戦を阻止のため派遣されている。これがそのまま先発となり、後から次々に部隊が増派されたのであろう。アレクサンドロスのタルソス出発前とするのはあまりに呑気過ぎるようだ。
先発の時期についてのアリアノスの記述は信用できない。しかしパルメニオンとともに先発した部隊は、ギリシア同盟歩兵部隊(17,500)、ギリシア傭兵部隊(2,300)、シタルケス麾下のトラキア人部隊(7,000)とテッサリア騎兵部隊(1,850)であった。(56) 歩26,800、騎1,850、総勢28,650。キリキア門を越えたアレクサンドロス軍の実に60%の兵力であった。シリア門の手前、イッソスの町から5パラサンゲス(約27.6km)の所には「ヨナの柱」と呼ばれる隘路があり、東側が絶壁、西側がイッソス湾で、通常、北側はキリキア太守の守備隊、南側は大王直轄の守備隊が守っている通過困難な関門(Xen.Anab.1.4.4)であった。しかしゴルディオンのアレクサンドロスからの指示で再建された艦隊(57)が後方支援のため付近にいたようで、小キュロスの隘路通過時と同じように(Xen.Anab.1.4.5)パルメニオンの先発部隊は大した抵抗を受けずに通過したであろう。
パルメニオンの先発部隊は、イッソス湾に面した現在のイスケンデルン市からアマノス山脈の隘路にあるシリア門へ向かい、そこに守備隊を置いた。この関門は長さ3スタディオン(約555m)あって、城壁についた開閉式の門で道を塞ぐことができた。(58) 関門の向こう側は既にシリア太守の率いる軍勢が守っていた(59)と推定されるが、パルメニオンの先発部隊は、敢えて関門を突破する必要はなく、ダレイオス軍が海側へ進出して来るのを防ぐだけの任務であったようだ。パルメニオンのシリア門進出は、タルソスから普通の行軍速度でも9日を要するが、歩兵の敵中行軍や急速を要する任務を考慮すると同じ位の日数を要したであろうから、8月11日としたい。

6 ダレイオスのバビロン進発
 ダレイオスが帝国内の諸民族に対してバビロン集結を命じた期日は不明である。しかし、国家の一大事に際して、バクトリアやインドまで兵を招集するためには、命令を末端まで届けるだけで2~3週間、その地方で軍を招集し、バビロンに向けて出発するまでに1~2週間、部隊が行軍してバビロンに到着するまでに4~5週間。インドの部隊まで軍勢に組み込もうとするならば、8月2日の招集決定から2ヶ月は見なければならず、バビロン進発予定は、9月末であったと推定される。
しかしダレイオスは何らかの事情で期日前に出発を余儀なくさせられた。その「事情」とは、アレクサンドロスの急病の知らせと思われるが、ダレイオスがアレクサンドロス急病の報に接したのはエウプラテス渡河前(60)であり、バビロンを出発(61)した後であった。すると、パルメニオンの先発部隊がシリア門の大王直轄守備隊と接触し、まさにアレクサンドロス軍がメソポタミアを直撃するのではないかと思わせる知らせが、その「事情」であったと思料される。ソコイを集結場所にしていながら、その手前でアレクサンドロス軍を迎撃しなければならなくなったのである。シリア門を守備していたシリア太守からの知らせで、急遽バビロンを出発したのは8月21日頃だろう。
ダレイオス軍のバビロン進発時の総勢は、歩兵250,000、騎兵62,200。ギリシア侵攻時のクセルクセスを真似て、10,000人が入る防御柵に囲まれた場所を用意して巨大な升に見立てて順番に中に入れ、人数を数えてから出発させた。(62) クルチウスは、これにギリシア傭兵30,000が加わったと記述しているが、進発時にはいなくて後で加わったとも解釈でき、テュモデスがソコイに引き連れてきた傭兵部隊であろうと思われる。
バビロン進発直後は、向かって来るであろう敵との会戦を予定して斥候を先に行かせ、本隊は通常の行軍速度で進んだ。出発後まもなくしてアレクサンドロス急病の報が届き、ダレイオスは軍を急がせエウフラテス川を5日で渡河する。(63) バビロンから渡河地点のタプサコスまでは約670kmであるので、通常の行軍であれば、28日行程であるが、途中の大休止や策敵活動などを考慮して、渡河地点まで42日とし、渡河完了は、10月7日としたい。ダレイオスが、アレクサンドロスの急病の報を受けたのはバビロン進発直後ではなく、渡河地点近くで9月25日頃。ソコイ到着は、10月17日頃であろう。

7 アレクサンドロスのタルソス出発と山地キリキア討伐作戦
 アレクサンドロスはパルメニオンの先発部隊がダレイオス軍の接近を見張っている間、タルソスで軍を休ませ、自らも病後の療養をしていた。そこへ、ハリカルナッソスの残留部隊から敵方に応援に来るピシディアやリュキアの周辺部族をキリキア側からの討伐要請があってか、あるいはアレクサンドロス自身が前年の秋から冬にかけての平定作戦で手を付けられなかった地域への掃討作戦の意味があるのか、山地キリキアの討伐作戦をすることになったと推定される。
タルソスを出発したアレクサンドロスは、アンキアロスを経由して平地キリキアの要所であるソロイの町に到着した。(64) 山地討伐隊は、マケドニア歩兵の3つの部隊、つまりペゼタイロイ(歩兵仲間)と呼ばれる重装歩兵部隊(4,500)。全弓兵隊(500)、アグリアネス人部隊(500)の総勢5,500名の歩兵部隊であった。一方、ソロイに残留した部隊は、ヒュパスピステス(楯持ち)と呼ばれる近衛歩兵部隊(3,000)、ペゼタイロイ(歩兵仲間)の残りの部隊(7,324)、ヘタイロイ(騎兵仲間)と呼ばれる騎兵部隊(2,050)、ギリシア同盟騎兵部隊(400)、トラキア騎兵部隊(1,200)の歩10,324、騎3,650、総勢13,974であった。
山地討伐隊は、ソロイを出発して海沿いに進軍し、カリュカドノス川河口に到着した。カリュカドノス川河口にはホルモイ(現Slifke)の町があった。(65) ホルモイからはカリュカドノス川沿いに上流に軍を進め、討伐作戦の拠点を目指した。山地キリキアの討伐作戦には7日を要したとされる(66)が、ソロイを出発してから帰ってくるまでの期間なのか、途中の日数は含めないで実際に討伐に要した日数なのかはこの一文からは判然としない。しかし前者とすれば、後のテュロス攻略中のアラビア討伐に要した10日(67)やペルセポリス滞在中のマルドイ人などのザグロス山中の山地民の討伐に要した30日(68)に比べるとあまりにも短期間である。アラビア討伐は、アンティリバノス山に根城を持つ山賊の討伐で、作戦地域までは1日行程であったのに比べ、山地キリキアの作戦地域までは片道6日は必要で、やはり、7日というのは、実質的な討伐作戦に要した日数とした方が妥当であると思われる。以後、その判断で、山地討伐隊の行動を推定してみたい。
討伐作戦の拠点についてはピシディア地方の中心ラランダ(現Karaman)であろう。ラランダは後にアレクサンドロスが任命したキリキア太守バラクロスがそこの反乱を鎮圧しようとして戦死した(69)という町であり、ラランダから先に、小キュロスの軍勢が通過した、イコニオンとキリキア門手前のタダの町を結ぶ街道がある。小キュロスのもとから、キリキア太守の妻を伴って、テッサリア人メノン率いる部隊がタウロス山脈越えの近道を通って、タルソスに着いている。(70) 通常のルートを使った小キュロスは、行軍9日、4日休んで、13日目にタルソスに着いているが、メノンはそれより5日早く到着している(71)ので、8日行程であろう。メノンが小キュロスと別れた地点からラランダまで1日、山を越えたホルモイからタルソスまで3日として、ラランダからホルモイまでは4日。メノン隊は途中、山賊の襲撃に遭い背後に敵を感じながらの慌ただしい行軍(72)であった。ホルモイからラランダまでは海岸線から標高差1,600mの登り道でもあり、通常の敵地行軍と考えて6日行程。帰りは5日行程と推定される。
ラランダ周辺で7日間、武力行使あるいは協定により帰順させたりして山地キリキアを一応、制圧した。この地方を小キュロス軍のメノン隊は重装歩兵1,000、軽装歩兵500で通過したが、途中で重装歩兵100を失っている。(73) ラランダとともに、デルベやイサウラなどのピシディア地方は、ローマ時代になってもタウロス山脈の高地の洞窟をねぐらにした山賊が住み、地中海沿岸には海賊の砦が数多くあった。(74) 山地討伐隊がラランダからホルモイを経てソロイに到着したのは、10月14日と推定される。

8 テュモニデスのギリシア傭兵部隊
 ダレイオスからの指令は、パルナバゾスとテュモニデスに届けられた。
メムノンの後を継いだペルシア帝国艦隊指揮官パルナバゾスは、当時エーゲ海の島々をペルシア側にして、アレクサンドロス軍の補給ルートを絶つ作戦を実施中であったが、レスボス島のミュテレネが頑強に抵抗していて、この町の包囲作戦をしていた。パルナバゾスは、ミテュレネ市民と協定締結を急ぎ、これに応じてミテュレネが陥落する(75)と包囲作戦に従事していた多くのギリシア傭兵を海路リュキアにいたメントルの子テュモデスに引き渡した。(76)
一方、リュキアにいたテュモニデスもダレイオスの指令を受けて、カリアなどで抵抗活動中のギリシア傭兵部隊をかき集めて、リュキアでパルナバゾスを待っていた。パルナバゾスからレスボス島のギリシア傭兵部隊を受け取ると、自分がかき集めた傭兵と一緒に海路ポイニキアのトリポリスに上陸(77)し、ソコイでダレイオスと合流した。(78)
この結果、カリアのハリカルナッソスの抵抗勢力はアレクサンドロス軍の残留部隊のために殲滅させられ(79)てしまい、アレクサンドロス側の余剰兵力もイッソスに向かうことになる。

9 アレクサンドロス軍のソロイ出発
 山地キリキアの討伐作戦は、未だ完全に掌握しきれない小アジアの動静が深く関わっていた。今回の作戦は、テュロス攻囲中のアラビア族討伐(80)のような単なる山賊討伐とは性格が異なり、小アジアで抵抗都市の攻略作戦を継続中の味方の部隊の側面支援が主目的だったのではないか。サガラッソスがアレクサンドロス軍に攻められている時に、テルミッソスから救援部隊が駆けつける(81)など、都市間が密接に繋がっていたようであり、この時期、山地討伐隊がキリキア側から直接本拠地を叩くのは非常に効果があったと思われる。実際、ラランダやイサウラからどこに応援部隊を出していたかは不明もしくはそのような事実はないかもしれないが、同じ時期に広範囲に攻められた場合、他に救援を求めることも、他に逃げ込むこともできないのが現実であろう。
また、アレクサンドロス軍がプリュギアからタウロス山脈を越えたキリキア進出は、ペルシア帝国の西側の支配力に大きく貢献していたメムノンの病死により可能にはなったとは言え、ペルシア側の抵抗勢力を一掃した訳ではなく、ペルシア海軍の補給基地となる小アジア沿岸の主要な都市や島ではアレクサンドロス軍に抵抗していたものもいくつかあり、完全に制圧するまでキリキアを離れることは戦略上できなかったのであろう。ソロイに帰着して間もなくして、カリア太守オロントバテス率いるペルシア勢をプトレマイオスらが打ち破ったとの報告がもたらされた。(82) これこそがアレクサンドロスが待ちに待っていたものであったろう。小アジアは完全に平定はされないながらも、歩700、騎50を討ち取り、1,000人以上の捕虜を取った(83)ことにより、表だった抵抗はしばらくはなくなることが予想された。破れたオロントバテスはバビロンに逃げ延び、ガウガメラ戦でペルシア人部隊を指揮しているが、イッソスの戦いには間に合わなかったようだ。(84)
キリキア山地討伐には、実際はアレクサンドロス自らが遠征していないかもしれない。ソロイで療養していた可能性がある。というのは、キリキア山地への部隊行動はアリアノスのみが行われたという事実のみを伝えているだけで、病気から回復し健康を取り戻したことを感謝すべくソロイで医神アスクレピオスのために供犠を行っているからである。またソロイでは観閲式や松明競技、体育競技などを行い、兵士の士気高揚と体力充実を図っている。(85) 史料には記録されていないがソロイ近くの山側のオルベの町にあったゼウスの神域(86)をアレクサンドロスが訪問したことは十分考えられ、これらも含めてソロイ滞在は、これから直面するダレイオス軍との決戦を前にした最後の大休止の意味もあった。ソロイ出発は、基準点2から15日前と推定され10月17日であろう。
アレクサンドロスはソロイからピロタス騎兵隊を先発させ、マロス付近で渡河することになるピュラモス川の架橋工事をさせている。(87) 重装歩兵部隊等の主力部隊は真っ直ぐマッロスへ向かわせたが、この時、ともすればダレイオス側になって、背後から襲いかねないソロイの住民を人質として引き連れた。(88)アレクサンドロス自らが率いる歩兵と騎兵の親衛部隊はマガルソスの町に立ち寄ってアテネ・マガルシスに生贄を捧げてからマッロスに向かった。(89)

10 ダレイオス軍のソコイ到着
 マッロスで主力部隊およびピロタスの騎兵部隊と合流し、付近のアレイオン平野でアポロンと争って命を落とした英雄神アンピコスのために供犠を行った。(90) ダレイオスがソコイに到着した様子は不明であるが、アレクサンドロスがそのことを知ったのは、マッロス滞在中であった。パルメニオンの急使の報告でダレイオス軍がシリア門から2日行程のソコイに陣を張っていることを知った。(91) このことから逆算するとダレイオス軍のソコイ到着は、10月17日と推定される。
ここで重要なのは、ダレイオス軍のソコイ到着の情報をどこから入手したかである。
両軍の守備隊により、完全に閉鎖されているシリア門を通ることのできた商人の口から聞いたのであろうか。それとも閉鎖されていない海路から情報を得たのであろうか。イッソスから2日行程南にあるミュリアンドロスは、商業の中心地で多数の商戦が出入りするフェニキア人の港町であった(92)ようであるし、書簡も外部から届いたようである。(93)しかし、アレクサンドロスは、これらのあまり頼みにできない情報源に頼ることよりも、自らの兵士に策敵および近道や抜け道を探させていたと思う。
アリアノスは、マッロスでアレクサンドロスと側近のヘタイロイが会議を開き、ダレイオス軍に向かって急進撃して2日目にミュリアンドロス付近に到着したとしている。(94)しかし、クルチウスはイッソス湾北側のカスタバルムの町で守備部隊をミュリアンドロス付近に残して駆け付けたパルメニオンと合流し、イッソス付近の状況等の詳細な報告を受け(95)、次のイッソスの町ではさらに進むべきかを会議で協議した(96)と記している。
アリアノスの伝えのみを信じてアレクサンドロスの胸中を知ろうとするならば、いつもの神速をもってダレイオス軍に迫り決戦を挑もうとしたと見るしかない。しからば何故一気にシリア門を越えなかったのか。ミュリアンドロス付近で嵐のために釘付けになったという理由であるがいささか疑問である。
クルチウスは、パルメニオンがカスタバルムで王を待っていたと伝えている。アリアノスの言うようにアレクサンドロス軍が「ヨナの柱」を通り、シリア門を越えてソコイに陣取っているダレイオス軍に向かおうとしているのならば、パルメニオンは守備隊がいる場所で待っていても良さそうなものである。わざわざ自らが出向いて、アレクサンドロスに伝えなければならない情報があったのだと思う。
パルメニオンがアマノス門の道も把握していて、ソコイも斥候範囲に入っていたならば、ダレイオス軍のソコイ進発は当然急使を持ってパルメニオンに伝えられたであろう。3ヶ月近くもイッソス付近でダレイオス軍の接近を監視してきたパルメニオンがアマノス門の道を見逃すはずがなく、シリア門だけを監視していたとは到底思えない。アッシリア方面からキリキア地方に大軍が来た場合、戦略上イッソスを重要な地点とアレクサンドロスが考え、すべての隘路を探させ、手を打っていたと考えるのが普通であろう。アマノス山脈を大迂回するダレイオスが実際に通った隘路もパルメニオンは当然把握していた。

11 アレクサンドロスの戦略
 それでは何故、アレクサンドロスは袋小路のような場所に軍を進め、背後を突かれるような形になったのであろうか。
これには、アレクサンドロスの深い読みがあった。戦場となったイッソスの野は、アマノス山脈とイッソス湾に挟まれた地峡になっており、北を上にして見た場合は先の細い逆三角形をしており、実際の戦いでは、アレクサンドロス軍は下側の頂点部分から上の底辺方向に徐々に左右に翼を広げながらダレイオス軍に向かっている。これが逆であれば、遙かに人数の多い、ダレイオス軍は、次第に左右から敵を包囲することが容易になり、アレクサンドロス軍にとっては極めて不利であり、包囲殲滅される恐れが多分にある。イッソスでの史上空前のすれ違いから生じた彼我逆向きの配陣は、ヘタイロイ騎兵部隊とマケドニア密集歩兵部隊の破壊力に絶対の自信を持つアレクサンドロスの緻密な計算があった。
しかし、後代の歴史が証明しているように、この配陣は大きな賭けであったろう。歴史上、「イッソスの戦い」と名付けられた戦いは、3回あった。
2度目は、西暦194年、ローマ皇帝の地位をめぐってセヴェルスとシリア総督ニゲルとの戦いである。セヴェルス軍は、西から軍を進め、小アジアの2箇所でニゲル軍を破り、キリキアへ進んで「関門」と呼ばれる場所の近くで、ニゲル軍と会戦する。イッソスとミュリアンドロス間の隘路「ヨナの柱」のことであろうと思われる。「片側が崖で、反対側は海に落ちる断崖」とローマ時代の歴史家ディオ・カッシウスが伝えており、アマノス山脈中の隘路「シリア門」ではない。北のイッソス方向から押し寄せるセヴェルス軍と「ヨナの柱」の手前の小高い丘に布陣したニゲル軍とが激突する。両軍とも重装歩兵を前列にして、後列には弓兵などの軽装歩兵を配し、狭い場所で敵を圧倒した方が勝ちという戦いであった。最初、ニゲル軍が数と場所の優位さから優勢であったが、北風を伴った突然の雷雨がニゲル軍を直撃し、セヴェルス軍を一転して勝者に導いた。ニゲル軍は押し切られ戦場を捨て、シリア方面に敗走する。(97)
3度目は、西暦622年、東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスがササン朝ペルシアの首都への親征途中、侵攻を阻止しようとするペルシア軍とイッソス付近で激突する。タウロス山脈を越えて侵攻するヘラクレイオス軍をイッソス付近で待ち受けるペルシア軍の背後をヘラクレイオスは、艦隊でペルシア軍の後方に上陸させた部隊に襲わせ勝利を得た。上陸地点は不明であるが、ミュリアンドロスではないかと思われる。ヘラクレイオスは、カルタゴ総督の父を持ち、カルタゴから艦隊を率いて先代の皇帝を廃位させた経緯があり、海軍力をうまく活用した。
いずれの場合も、キリキア地方からアッシリア・シリア方面への進出を企てた方が勝っているが、布陣を考えるとアレクサンドロスの場合とは逆であったろう。つまり、負けた方が南側に位置していたのである。

12 おびき寄せ
 アレクサンドロスは戦場となるイッソスを実地踏査し、イッソスにおいて会議を開く。その席で、周囲の探索を3月近くもの長期間行ってきたパルメニオンが意見を述べ、「隘路」がダレイオス軍を迎え撃つのにもっともふさわしい場所であるとして、採用されている。(98)アリアノスやクルチウスなどが伝える文章の中に、パルメニオンが作戦上で意見を言う箇所が見られるが、アレクサンドロスによって不採用になることが多い中で、この「隘路」を戦場に決定する意見の採用は特異であり、逆に、極めて信憑性が高いものと思われる。パルメニオンが進言した「隘路」を「ヨナの柱」や「シリア門」とする説もあるが、ダレイオスとの直接対決を切望していたアレクサンドロスの性格や東征のその後の歴史を見てもそのような場所を積極的に選んだ記録がないことから妥当ではない。ここで言う「隘路」が、幅14スタディオン(約2.59km)しかない(99)「イッソスの地峡」を指していることは、イッソス付近にダレイオス軍が進出したとの偵察隊の報告を聞いたアレクサンドロスが祈り願ってきた「その隘路」で決戦を迎えることになった(100)と記されていることからも間違いない。
ただ、イッソスの町に複数のマケドニア人傷病者が残されていたのは、この推定と矛盾する。しかし、ダレイオス軍のソコイ進発の報を受けたアレクサンドロスが敵のイッソス到着予定日を読み誤った可能性は大いにある。ダレイオス軍のイッソス進出にアレクサンドロスが驚いたと伝えている(101)ように、本隊から遅れてでも傷病者が着いてくるまで間があると思っていたものが以外に早い到着に驚いたのであろう。

イッソスの戦いの前の両軍の移動経路

13 ダレイオスのソコイ進発
 ダレイオスがソコイからキリキア進出を決定に至った理由が縷々残されているが、進軍を諫める忠告にダレイオスが従わず、自ら騎兵を主力とする大軍には不利な地峡に進出したとしている。おそらく後にアレクサンドロスに帰順したギリシア傭兵隊長が懐古的に多少の誇張をまじえて、ダレイオス軍首脳部が自分たちの進言を聞き入れなかったとする記録を残したのであろう。アンティオコスの子アミュンタスのソコイ決戦提言(102)やメントルの子テュモデスのメソポタミア後退提言および大軍分割提言(103)である。
そもそもソコイを決戦場所にダレイオスが考えていたかどうかである。ソコイの場所については、シリア門から2日行程離れたアッシリア地方にある(104)というだけで、正確には分かっていない。「決戦場所」というよりは「集結場所」であったろう。ポイニキアに上陸して駆けつけるギリシア傭兵部隊や、エジプト・シリア部隊にとっては言うに及ばず、小アジア方面からの部隊にとってもキリキアにいる敵の目に触れ難い場所であり、最適であった。取りあえず、シリア太守をシリア門に急派して敵の更なる侵入を防ぎ、そこから少し離れた地点を「集結場所」とした。ソコイ周辺の平野はローマ時代にも合戦が2つあった(105)ようで、勢力のぶつかり合う場所であったようだが、ダレイオスは、ペルシア大王の威厳を示すためにも敵を待つのではなく、敵を粉砕する絶対に強い大王でなければならなかった。
進発の時期については、「冬が迫り、糧秣の確保が難しくなる」(106)などのもっともらしい理由も挙げられているが、テュモニデスがギリシア傭兵部隊を引率して到着(107)し、戦闘の足手まといになる者たちをアルタバゾスの子コペンを指揮官(108)としてダマスコスへ送った(109)後であろう。イッソス戦後、パルメニオンがダマスコスからアレクサンドロスに宛てた書簡の接収物一覧には料理人200人等が含まれており(110)進軍直前までは必要な人たちであったろうからこれらの人々のダマスコス移送は出発の直前であったろう。
それでは何故シリア門を大軍の力で押し通らないで、もしかすればすれ違いの生じる恐れがあるアマノス山脈迂回という進軍路を選んだのであろうか。ペルシア帝国内ではアルタクセルクセスⅡ世の時代に小アジアでタダメスの反乱が起き、大王は大軍を派遣したが狭隘な地で戦う12の1の敵に勝つことができなかった。(111) 恐らくこの時の教訓がまだダレイオス軍首脳部の脳裏に残っており敢えて大迂回作戦を実行させたものと考えられる。
ダレイオスは、アレクサンドロス軍がシリア門を越えて来ようとするならば、長期間それを阻止できるだけの兵力を残してキリキアに進出し、圧倒的な騎兵部隊の力でアレクサンドロス軍を撃破することにした。シリア門のペルシア守備隊は、イッソス戦で名前の見えないシリア太守の率いる部隊であったと推定される。パルメニオンが接収のためダマスコスに近付くとシリア太守が既に戻っていて(112)、ダレイオスを裏切ってアレクサンドロスに進んで財貨を差し出す行為に及んだことから考えてもその可能性がある。イッソス戦の後、シリア門から逃げて来たアミュンタスらの率いるギリシア傭兵部隊からダレイオス軍敗戦の報を聞き、いち早く逃走したものと思う。
ダレイオスは、軍をソコイから出発させ、アマノス山脈をBahce峠(標高約600m)、またはそれより南側にあり距離的にも短いHasanbey峠(標高約1,200m)を越えるかしてキリキアに出た。いずれの場合も約150kmの道のりである。

14 ダレイオス軍のピナロス河畔の幕営
 ダレイオスは、一旦、イッソスの町の北方の1日行程以内の平野で軍に最後の大休止を与え、次の日の早朝、先発隊をイッソスの町に派遣し、町を占拠するとともに残留させられていた傷病者達を捕虜にした。イッソスの町は、船の停泊地のある小さな町(113)で、小キュロスの反乱の時は、スパルタの艦隊から重装歩兵800が上陸した。(114) この時、60隻の艦船はキュロスの陣営に沿って停泊したと言われ(115)ダレイオス軍と同様にピナロス川付近の海岸近くに陣を張ったのであろう。ダレイオス軍は、協力的なイッソスの住民からアレクサンドロス軍の部隊がシリア方向へ進んだと聞いて、(116)「ヨナの柱」手前まで後を追うが次第に狭くなっていく地形に不安を感じ、また「隘路」での敵の抵抗を予想してピナロス河畔で陣を張り、方針を検討することにした。(117)
「ヨナの柱」は、キリキア側とシリア側にそれぞれ城壁があり、その間3スタディア(約555m)で通路が狭く、しかも幅30m程の川まであり、敵が守った場合に強行突破は難しい関門であり、艦船を使って両側から挟撃しなければならなかったがダレイオス軍には艦船がなかった。しかもピナロス川から先は狭くて荒れた土地であるのを見たダレイオスが敵に利があり自分は不利な立場にあると気づいた。(118) アレクサンドロス軍がキリキアの平原に陣を構えていると思って、進軍してきたダレイオスは、ソコイと変わらない状況であることに気づき失望した。結局、自分のいる場所が不利な場所になっただけで、敵のいる場所は大軍が押し進むには不利な関門の先であった。そこでダレイオスは、もっと広い場所に陣営を築いてアレクサンドロス軍の動きを見ようと考えたのであろう。
イッソスではピナロス河畔に陣を張った。(119) クルチウスは、ダレイオス軍がピナロス川を渡って、逃亡を抑えるため川を背にして布陣したと伝えているが、多くの異民族兵士が脱走の恐れがあり、ダレイオスを中心としたペルシア正規軍はピナロス川の北側に本陣を設けた(120)のであろう。カッリステネスもアレクサンドロス軍の進軍を知って、ダレイオスらが歩兵部隊を本来の位置に整列させたとして、暗にピナロス川を挟んで逆の位置にいたことを窺わせる。(121)アリアノスはアレクサンドロス軍接近を知って、ダレイオスが戦列を組む様子を伝えているが、この推定を裏付けるようだ。
つまり、最初に異民族部隊の脱走防止のため本陣とともにピナロス川の北側にいたペルシア人騎兵部隊3万騎と2万の軽装歩兵部隊を一旦ピナロス川を南側に渡らせた。(122) その後は推定であるが、騎兵部隊を異民族の大部隊のさらに南側に進ませ、東西に横隊を組ませて横並びになって、ピナロス川の南側から押し上げて全部隊に川を渡らせて、ピナロス川の北側に横一線になるように戦列を作らせた。これが完了するとペルシア人騎兵部隊の大部分は海側に配置し、一部は丘側に行ったが狭くて配置できなかったため、結局海側に配置した。(123) また、アリアノスのみがピナロス川の何カ所かに「逆茂木」が引き回されていた(124)と記しているが、大集団を整列させるのがやっとでとてもそのような工作物をこの布陣の時に設置できたとは思えず、もしこの記述が事実であるとするならば、先に述べた異民族の大部隊の脱走防止用であるとするのが妥当であろう。

15 ダレイオス軍の戦力
 ダレイオス軍の兵力については、プルタルコスとアリアノスは600,000(125)、ディオドロスとユスティヌスは歩400,000、騎100,000(126)、クルチウスのみは部族の詳細と歩騎それぞれの数を挙げ、歩220,000、騎62,200にギリシア傭兵30,000が加わったと記している。(127)バビロンに集結した部隊のみであり、ギリシア傭兵についてはソコイで合流した分であろう。(128)
ソコイでは前述したエジプト太守サバケスらが率いるシリア・エジプト部隊が既に到着し、シリア門および陣営周辺を確保してダレイオスを待っていたものと想像される。他にも、小アジアやキリキアから逃れてきたペルシア側の地元部隊もそこで待っていたと思われる。シリア・エジプト部隊についてもクセノポンが記した300,000(129)までは行かなくても相当な数であったと思われ、これらも含めるとクルチウスも他の史家と同じような数になる。しかし、各史家が同じような原史料を参考としているとすればあり得ることで、この数をもってダレイオスが実際にイッソスに動員した兵力とするのは甚だ無理がある。実際の数は、プルタルコスがイッソスの戦いで110,000以上の敵が潰滅した(130)と伝えているが、この数がシリア門の守備隊も含めたダレイオス軍の兵力として一番妥当な数と思われる。ユスティヌスが伝えるダレイオス側の戦死・捕虜の合計111,000(131)は、あまりに途方もない数字である。

16 ダレイオス軍のギリシア傭兵
 アリアノスは、ダレイオスの戦列の最前列に30,000のギリシア傭兵が配置されていた(132)とし、クルチウスもテュモニデスがギリシア傭兵30,000を連れて来た(133)と述べ、両史家ともラゴスの子プトレマイオスの一次史料を元にしたと見られるが、これはあくまで当時アレクサンドロスとともに右翼騎兵部隊にいたプトレマイオスが見たおおよその数であったようで、実際はもっと少なかったようである。
イッソスから逃げのびた各史料に残るギリシア傭兵の数を調べると約16,000、残り全部が戦死またはバラバラに逃走したとは考えにくく、実際のイッソス戦参加者は、20,000弱だったのではないだろうか。
アレクサンドロス東征当初のペルシア帝国のギリシア傭兵数は50,000(134)とされているが、かなり無理があるようだ。グラニコス川の戦いに参加した20,000(135)と、イッソス戦の参戦者数を単純に足した数に見える。グラニコス戦のギリシア傭兵の捕虜数は2,000(136)とされ、大方妥当な数であるが、参加総数については多すぎるようだ。この時も残り全部が戦死したとは考えにくく、大部分は逃走したのであろう。イッソス戦時、エーゲ海のキオス島などの抵抗勢力に対抗するため若干の傭兵部隊が活動しており、すべてがイッソスに動員された訳ではない。イッソス敗戦の報を聞いてキオス島に向けてシノプス島から急遽1,500の傭兵部隊がパルナバゾスによって運ばれた(137)という記録もある。
メムノンの後を継いだペルシア帝国艦隊指揮官パルナバゾスがダレイオスの命によりレスボス島でミュテレネ包囲作戦をしていたギリシア傭兵部隊をリュキアにいたメントルの子テュモデスに引き渡した。(138) この直前にミュテレネが陥落し、ギリシア傭兵部隊が不要になった。(139) リュキアにいたテュモニデスは付近のギリシア傭兵部隊をかき集め、リュキアからポイニキアのトリポリスに上陸(140)し、ソコイでダレイオスと合流した。(141) しかし、この結果、ハリカルナッソスの抵抗勢力はアレクサンドロス軍の残留部隊のために殲滅させられた。(142)
ギリシア傭兵部隊がソコイにいたダレイオス軍に合流した時期については、傭兵部隊がダレイオスのもとに到着したと述べており、さらに傭兵部隊の指揮官らから意見を聞き、アマノス山脈を迂回してキリキアに進出作戦を決定している(143)ことからダレイオスが軍を進発させる直前に合流したものと思われる。

17 アレクサンドロス軍の反転
 アレクサンドロスがダレイオス軍のイッソス進出を知った時期については各史家とも曖昧である。一番、位置関係がハッキリしているのはアレクサンドロスの東征に同行した御用哲学者カッリステネスが古代ローマの歴史家ポリュビオスの口を通して伝えているもので、アレクサンドロス軍が「ヨナの柱」を通過した後で、100スタディオン(約18.5km)離れていたとしている。(144) ピナロス川を現在のパヤス川に比定した場合、アレクサンドロス軍は「ヨナの柱」と現在のイスケンデルン市の中間あたりを進軍中、あるいはその付近にあった陣営に居たものと思われる。但し、ダレイオス軍がイッソスの町に残留していたマケドニア人の傷病者達に残忍な仕打ちをし、その傷病者達がアレクサンドロス軍にダレイオス軍のイッソス進出を最初に伝えた(145)のが本当であるならば、既に陣営にいたものと思われる。行軍に耐えられなくて残留させられた者たちが本隊に追いつけるはずがないと思うからである。
実際にはアマノス門経由の進出路を見張るためイッソスの町に斥候が残されていて、その報告があったのであろう。傷病者についても本隊にどこかで合流し、ダレイオス軍の様子を伝えたことは間違いないと思われる。この後、アレクサンドロスはイッソスに偵察隊を派遣して状況を確認させる。アリアノスは船で海上から確認させたと記している(146)が、クルチウスはアレクサンドロスが偵察隊を先発させて、ダレイオス自らが出陣しているのか単なる将軍が率いているのかを確認させた(147)として、陸行による偵察を推定させるが、実際は確度を高めるために両方の偵察活動が取られたのであろう。
クルチウスは、アレクサンドロスの派遣した偵察隊が敵の先発部隊などに行く手を阻まれダレイオス軍本隊を確認できないまま「ヨナの柱」へ引き返そうとした時、背後のイッソスの野に大地を埋め尽くすほどの軍勢を確認し、やがて火が輝き始めたと伝えており、斥候の派遣は、午後遅く、従ってアレクサンドロスのダレイオス軍到着の認知は昼過ぎと思料される。
アレクサンドロスは全軍を3回に分けて進軍したようである。その方が合理的に考えて兵士の疲労を少なくし、戦いに臨む体力を維持するには最良の方法であったのであろう。全軍が陣営から一度に進軍した場合、歩兵33,624が8列で前後の間隔が1mだと単純に考えた場合、4.2kmの行列ができる。出発の号令があってから最後尾の者が出発するためには、1時間待たねばならない。
夕方、隘路の偵察及び確保のために騎兵と弓兵の小部隊を出発させた。(148) その後、全軍に食事をさせ、軍の半分には深夜まで十分休むようにさせて、アレクサンドロスは付近の丘に登り、戦勝を祈願して供犠を行い、残りの半分の軍を率いて出発した。「ヨナの柱」に着いたのは深夜で、付近の岩場で夜明けまで大休止させた。(149)一方、後発隊は深夜に出発して夜明け頃「ヨナの柱」に到着し、全軍揃ってイッソスの戦場へと進軍した。(150) この時、万が一「ヨナの柱」が敵に占拠されていた場合を想定して、海路の偵察で使用した三段櫂船も第一陣と並行して北上したのであろう。陸上からの攻撃だけでは「ヨナの柱」を奪取することは困難である。
以上のことから、アレクサンドロス軍全体が極めて冷静に整然と戦いに臨んだことが分かる。決して突然背後に予期しない敵が現れ、猪突猛進的に向かって行ったのではないことだけは確かである。極めて緻密に計算し尽くされた戦略であったと思う。

18 シリア門守備隊
 ダレイオス軍も全軍がソコイからアマノス門へ向かった訳ではなく、当然、敵が現に向かっているシリア門に多くの守備隊、もしくは侵入できるのであればアレクサンドロス軍の背後を脅かすに足る軍勢を残したであろう。東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスがとった挟撃作戦をダレイオスがとった場合、アレクサンドロスは窮地に陥る可能性がある十分あった。しかるにアレクサンドロスは、この関門を押さえるため若干の部隊を残した筈である。
この守備隊については伝わっていないが、パルメニオンの先発部隊にその名があるギリシア同盟歩兵部隊の一部だったようだ。イッソス戦の戦列右翼に「ペロポネソス人とその他の同盟騎兵」(151)と記された箇所はあるが「ギリシア同盟部隊」とする名がないことから、コリントス同盟加盟諸ポリスで派遣した部隊のうち、ペロポネソス半島出身部隊以外のギリシア本国の諸ポリスの部隊が守備に残ったものと思われる。
東征出発時のギリシア同盟歩兵部隊は7,000(152)で、ヘッレスポントス海峡を渡ってすぐにパルメニオン麾下の先発隊10,000が合流した。この数にはマケドニア人やギリシア傭兵も含まれていたと推定されるが大部分はコリントス同盟のギリシア諸ポリスから拠出した部隊であったろう。(153)この後、2,000はケライナイの守備隊として残留(154)している。その直前にミレトスで艦隊を解散した時に乗組員をギリシア同盟歩兵部隊に組み入れている(155)はずであるが、この人数については各史料とも記述がない。しかし、カッリステネスはキリキア侵入時にアレクサンドロス軍に歩5,000、騎800が加わった(156)と述べていることから推定すると艦隊解散時に歩兵部隊に組み入れた乗組員は、2,000であったようだ。というのは、出発からキリキア侵入までに新規参入として記録が残るのは、ゴルディオンで合流したマケドニア人歩兵3,000のみである(157)からである。ゴルディオンでアレクサンドロスは、ヘゲロコスに艦隊再編を指示している(158)ので、再び解散時の乗組員を連れて行ったとも考えられるが、この時、軍資金も渡して艦隊を集めるように指示しており、ヘゲロコスのもとにはなかなか集まらなかった(159)との記録もあるので乗組員も現地調達であったようだ。
以上のことから、キリキア門を越えたギリシア同盟の歩兵部隊は17,500であったろう。その内、ペロポネソス半島以外のコリントス同盟加盟のポリスからの拠出歩兵は60%の10,500位であったと推定され、シリア門守備のため残留されたと思われる。
ギリシア同盟歩兵はグラニコス戦の時は後方に置かれ戦闘に参加していないが、イッソス戦でもギリシア傭兵部隊が戦列の後尾で予備にまわされるなど、アレクサンドロスがペルシア軍戦列の中央にペルシア側のギリシア傭兵部隊を配置しているので、戦意を疑っての措置と思われる。イッソス戦に参加させられた「ペロポネソス人」部隊は、ダレイオス軍側のギリシア傭兵部隊の出身者のいないポリスからの派遣部隊なのであろう。イッソス戦の後でアミュンタスらの率いるダレイオス側のギリシア傭兵部隊8,000がここを無事通過しているのは、アレクサンドロスが懸念していた「同郷のよしみ」で通過させたのであろうか。

アレクサンドロス軍のミュリアンドロスからの進軍

19 アレクサンドロス軍のイッソス出現
 クルチウスは、「ヨナの柱」からイッソスのダレイオス軍の陣営までは30スタディオン(約5.6km)であったと述べている(160)が、カッリステネスは、アレクサンドロスが40スタディオン(約7.4km)先から戦列を組みながら前進したと述べている。一見矛盾しているようだが、前述の「ヨナの柱」までの行軍と同じように第一史料の作者の視点が異なるようである。クルチウスの記述の元になった恐らくラゴスの子プトレマイオスは、軍の先頭近くにいたのであろう。歩40,000、騎5,500が狭い土地を行軍する場合、部隊の長さはどの位であろうか。クルチウスは進軍路が狭く32列縦深で最初進んだと述べており(161)、8人が横に広がるのがやっとであったようだ。騎兵は4騎として、前後の間隔を歩1m、騎3mとし、部隊間の間隔を考慮しなければ、軍全体の長さは、約9.2kmになる。但し、歩兵のみであれば約5kmであり、出発地点では前後の間隔を詰め、道の両側の岩場で次の部隊を待機させれば、1km以内には収まる。足の速い騎兵部隊や戦列を組む必要のない輜重隊はあるいは「ヨナの柱」の手前に待機して、後から続いたかもしれない。
「ヨナの柱」自体は3スタディオン(約555m)あり、カッリステネスの言う戦列を組ませて前進させた地点が「ヨナの柱」を出た直後(北側)であるならば、ピナロス川は現在のパヤス川に比定されるべきであろう。それより約13.6km北方のデリ・チャイ川とした場合、両者の間が100スタディオン(約18.5km)であったとするカッリステネスの記述(162)が全く意味のないものになってしまう。
夜明けとともに「ヨナの柱」からイッソスに宿営しているダレイオス軍に向かって北上(163)した。11月1日の日の出時間は午前6時2分。空が白んできて松明を灯さずに進軍できるようになったのは午前5時30分頃であろう。先頭は重装歩兵で騎兵がそれに続き、最後尾は輜重隊であった。(164)
ある程度の地峡部分を抜けて戦列の組めるようになったのは、ダレイオスから30スタディオン(約5.6km)手前のことであった(165)というよりも、先頭部隊はその地点から出発したと言っても過言ではない。最初狭い道を32列縦深で進むのがやっとであった。(166) 1中隊512人であるので、ダレイオス軍から見ると8人が横に広がって進軍してくるのが見えたであろう。そのうち土地の広さに応じて、前列が16人になり、32人になり、近付けど近付けど、右側の海との間に隙間がなく、横一線に並んだ戦闘集団が迫ってくるのを見ていたダレイオス軍の兵士の心境はどのようなものであったろうか。急速に恐怖が増したのではないだろうか。最終的に敵に向かい合った時は通常より浅い8列縦深であった(167)が、兵士の横の間隔は通常の半分で最大に密集したファランクスを形成した。

20 ダレイオス軍の狼狽と布陣
 アレクサンドロス軍のイッソス進出は奇襲には当たらないが、ダレイオス軍へはそれに勝るとも劣らない衝撃を与えるに十分な効果があった。アレクサンドロスが夜間の行軍を強行し、夜明けとともにイッソスを目指したのは、ダレイオスの陣営をこれ以上はないというほどの絶好の位置から移動させないためであり、もし先に自軍の方に向かって来られると隘路での攻防戦になり、戦闘が泥沼化し、数に押されて遙か後方に陣取るダレイオスを直撃して決定的勝利を得ることは不可能になるおそれがあった。
プルタルコスは、イッソスが狭くて荒れた土地であるのを見たダレイオスが敵に利があり自分は不利な立場にあると気づいた(168)と、イッソスがにわかに戦場になったように記し、ユスティヌスもダレイオスは戦列を整えるのにぐずぐずしていなかった(169)とダレイオス軍そのものが動揺していた雰囲気を伝えている。クルチウスはここでも重要な事を書き残している。つまり、ダレイオス軍はこの時出発の準備はしていたが、戦闘の準備はまったくしていなかった(170)というのである。これについてはプルタルコスもダレイオスが「以前の陣営」に戻るため撤収しようとしていた(171)と記しているのでおそらく事実であろう。プルタルコスが途中の経由地を省略しているので、「以前の陣営」は「ソコイ」と受け取れるが、ここは一つ前の陣営の意味で、イッソスの町の北方の平野であったと思う。
正にその絶妙なタイミングをアレクサンドロス軍が襲ったのである。アレクサンドロスは最初からイッソスを戦場とした会戦を想定し、イッソスからミュリアンドロスまでの道すがら戦列を展開させる策を練っていたものと思う。さらに陣営の測量までさせる(172)など準備万端であった。一方のダレイオスはアレクサンドロスは、既にシリア門を目指しており、よもや再びイッソスに軍を返すことはあるまいと思っていたに違いない。
ダレイオスは、右翼海側に騎兵30,000、軽装歩兵20,000、中央には30,000のギリシア傭兵部隊を配し、その両側にカルダケスと呼ばれる各民族からの混成部隊60,000、左翼山側に20,000、その後ろにダレイオスを囲むように大集団がいた。

21 アレクサンドロス軍の兵力
 イッソスの会戦に参加したアレクサンドロス軍の兵力について記した史料はない。ポリュビオスだけが、歩42,000、騎5,000であろうとしている。(173)
東征出発時からの兵力を推定を交えて詳細に分析すると次のようになる。
(1) ヘタイロイ騎兵(騎兵仲間) マケドニア人
出発時1,800(174)であり、グラニコス川の戦いで約30戦死。(175) この時、負傷して傷が治らず戦闘に参加できなくなった者も当然いたと思われ、本国に送還されたか、途中の守備隊駐留地に残されたと思われ、この数を死者数の3分の2と見積もった。この後の東征で、アレクサンドロス自らが重傷を負う場面もあるが、回復しているので、負傷してまったく廃人同然になることは少なかったものと思う。グラニコス川の戦いの時は送還者20としたい。この後、ゴルディオンで300(176)補充しており、合計2,050が参加した。
(2) プロドロモイ(前哨騎兵) パイオネス人、トラキア人
出発時900(177)に、イッソスの会戦の直前に300(178)補充され、合計1,200が参加した。クルチウスは、会戦時、丘の上のペルシア人部隊にはトラキアからの新参アグリアネス人を対抗させた(179)とし、アリアノスは丘の上の敵に対して騎兵300を配置したと述べており、このことから、この新参アグリアネス人は騎兵300であったことが分かる。カッリステネスもキリキア侵入時、アレクサンドロス軍に歩5,000、騎800が加わった(180)と伝えているが、東征出発後の騎兵の補充はゴルディオンでのマケドニア人騎兵300とテッサリア騎兵200しか記録がない(181)ので、イッソス戦の直前、恐らくプトレマイオスら戦勝の報とともにソロイにアグリアネス人騎兵部隊300の来援があったと思われる。この来援時、ハリカルナッソス陥落で不要になったギリシア傭兵部隊3,000も一緒に伴ったと推定される。(182)
(3) テッサリア騎兵
出発時1,800(183)であり、グラニコス川の戦いで約90戦死。(184) この時の送還あるいは小アジア残留60と推定。この後、ゴルディオンで200(185)補充しており、合計1,850が参加した。
(4) ギリシア同盟騎兵
出発時600(186)であり、カリアに守備隊として200が残留。合計400が参加した。
(5) ヒュパスピステス(近衛歩兵) マケドニア人
出発時3,000(187)であり、途中の戦死傷者数は全く不明なのでこのままの人数の参加とした。
(6) ペゼタイロイ(歩兵仲間) マケドニア人
出発時9,000(188)であり、グラニコス川の戦いで約30戦死。(189) この時の送還あるいは小アジア残留20と推定。カリアおよびピシディアで約76戦死。(190) この時の送還あるいは小アジア残留50と推定。この後、ゴルディオンで3,000(191)補充しており、合計11,824が参加した。
(7) ギリシア同盟歩兵
出発時7,000(192)であったが、これにパルメニオン麾下の先発隊10,000が合流。ミレトスで艦隊を解散し、歩兵に組み入れている(193)が、数については不明であるが、2,000と推定。(根拠については前述) その後、ケライナイの守備隊として、1,500を残留。(194)ゴルディオンでは、エリス人150が加わっているが出発時に拠出していないエリスが遅れて合流したものと解され、出発時の兵力に含まれていたものと思料される。(195)ミュリアンドロス付近からの反転時、シリア門守備隊として残されたのは、10,500と見積もり、ペロポネソス人部隊の合計は7,000であろう。
(8) ギリシア傭兵部隊
出発時5,000。(196) ミレトスで傭兵300が投降してアレクサンドロス軍に加わった。(197)その後、カリアの守備隊として3,000が残留させられている(198)が、先のトラキア人部隊とともにプトレマイオスらの戦勝後、ソロイで再び合流したと思われ、合計は5,300。(199)
(9) トラキア人部隊
出発時7,000。(200) すべて参加した。
(10) アグリアネス人歩兵とクレタ弓兵部隊
出発時1,000。(201) すべて参加した。
以上を合計すると、歩35,124、騎5,500で、総勢40,624名であった。

イッソスの戦いにおけるアレクサンドロス軍の戦列

22 アレクサンドロス軍の戦列
 カッリステネスが目撃した記録をもとにポリュビオスはイッソスの戦場の広さを東側の丘の麓から海まで14スタディオン(約2.59km)と書き記している。(202) また、戦列の長さについては、11スタディオン(約2.035km)としている。(203) このことから、海岸線から丘に向かって、東に延びた戦列が鉤の手状(204)に曲がって丘の上の敵に対抗して配置された最右翼のトラキア騎兵部隊から、丘の麓までは約565mの空間があったことになる。クルチウスはアレクサンドロスが前進中に左翼のパルメニオンに対して戦列を左側に寄らせて海側に間隙が生じないようにさせた(205)と伝えているが、丘側は相当の荒れ地で騎兵の運用には適さないため、この方面からペルシア騎兵に回り込まれることはないだろうとの判断であると思う。
海岸線から丘に向かって伸びるアレクサンドロス軍の戦列については次のようであったと推定される。
まず、ギリシア同盟騎兵部隊400が4列縦深で200mに渡って並び、その背後に18列縦深のテッサリア騎兵部隊1,850が並んだ。その右にはペロポネソス人の密集重装歩兵部隊7,000が8列縦深で393.8mの幅で並んだ。次からはマケドニア重装歩兵ペゼタイロイの各部隊11,824が8列縦深で665.1mの幅で並んだ。部隊名については、アレクサンドロスの子クラテロス隊、アンドロメネスの子アミュンタス隊、セレウコスの子プトレマイオス隊、ネオプトレモスの子メレアグロス隊、オロンテスの子ペルディッカス隊、ポリモクラテスの子コイノス隊の順である。この右にパルメニオンの子ニカノルが率いる近衛歩兵部隊3,000が8列縦深で168.8mの幅で並んだ。アレクサンドロス自らが率いるヘタイロイ騎兵部隊2,050は、横に50騎、41列で幅100mを占めた。1隊200騎の部隊ごとに4~5列ずつ並んだ。後列にいたメネステオスの子ペロイダス隊200と、クレアンドロスの子パントルダノス隊200は、丘の上の敵に対抗させるために一時、丘側に向かって配置された。アッタロスが率いるアグリアネス人投石部隊500もトラキア騎兵部隊300とともに配置され、全体の戦列は鉤の手状に曲がったものとなった。
また、初戦の攪乱部隊として、戦列の前に投擲兵が一時的に配置されたが次のような布陣であった。海側のペロポネソス人部隊の前にはシタルケス麾下のトラキア人投げ槍兵7,000およびアンティオコス麾下のクレタ弓兵部隊の半数250が配置され、マケドニア密集歩兵部隊の前面には残りの弓兵部隊250が配置された。ヘタイロイ騎兵部隊の前には、プロトマコス率いるプロドロモイ騎兵部隊とアリストン率いるパイオネス騎兵部隊900が配置された。
さらに、ギリシア傭兵部隊5,300については、全軍の後尾に配置され、万が一敵に背後に回り込まれた場合の備えとして、3列縦深で795.2mの幅で並んだ。この傭兵部隊の一部も一時丘の上の敵に備えて右翼に配置された。
テッサリア騎兵部隊については、戦列を形成して前進中は、ヘタイロイ騎兵部隊と同じ右翼に置いていたが、ダレイオス側の騎兵のほとんど全てが右翼(206)に集中的に配置されているのを見て、密集歩兵部隊の背後を回って左翼のパルメニオン指揮下に入れた。(207)クルチウスは戦いが始まってからと記しているがそれでは遅すぎ、ギリシア同盟騎兵部隊400だけでは突破されていたであろうから、アリアノスの言うように戦列を前進させている最中のことであろう。前進途中であれば起伏の多い場所だけに、歩兵部隊の背後に隠れて右翼から左翼に騎兵部隊が密かに移動することも可能であったろう。
丘の上の敵に備えて配置していた部隊については、アグリアネス人部隊などに攻撃をさせると簡単に持ち場を放棄したので、トラキア騎兵部隊300のみを対置させて、残りはすべて前方の敵に向けることができた。(208)

23 戦いの推移
 アレクサンドロスは、旺盛な闘争心でともすれば早足になり戦列を乱す兵を時々停止させて(209)戦列に間隙を生じないよう誘導し、矢玉の届く距離に達するや、被害を少なくするために真っ先にピナロス川に躍り込んでダレイオス軍の左翼に突撃を敢行(210)した。しかし、クルチウスは戦闘が左翼のギリシア同盟軍の騎兵部隊へのペルシア騎兵の突撃で始まった(211)と伝え、アリアノスと食い違うがおそらくほとんど同時であったのであろう。
戦列の構成や各史家の記述から、初戦についての経過はおよそ次のようなものであったろうと想像される。まず、右翼側では、プロトマコス指揮下のプロドロモイ騎兵部隊900がダレイオス軍前面のピナロス川に沿って並んで味方に向かって盛んに矢を送り込んでいる弓兵部隊に投げ槍を放って突撃し、飛んでくる矢数を少なくした。アグリアネス人の投石兵部隊500がそれに続いて投石で援護している間に、ニカノル麾下の近衛歩兵部隊3,000が徒歩でピナロス川を渡河、弓兵部隊を追い散らした間隙に、ピロタス麾下のヘタイロイ騎兵部隊2,050が楔形隊形で突撃した。ダレイオス軍の左翼、諸民族歩兵部隊(カルダケス)30,000に大きく食い込む形でダレイオスの位置する中央へ向かって大きく左回りに旋回し、徐々にダレイオスに近付いていった。カルダケスを構成する諸民族歩兵部隊については、多くの民族で構成され言葉も通じなかったであろうから、指揮系統などというものは存在しなかったであろうし、招集に応じて駆けつけただけで戦意というものは殆どなかったであろう。後のガウガメラ戦の時に召集に応じた兵は武器を持っていなかったし、騎兵も投げ槍しか持っていなかったので盾と剣が支給された程であった。(212) 歴戦の勇士で構成され、名誉を重んじる戦闘意欲に満ち溢れるヘタイロイ騎兵部隊にとっては、烏合の衆を相手の戦いであった。
しかし、この右翼の突出した敵への突入は、右翼側から次々とピナロス川を越えて戦列を維持しようとするマケドニア密集歩兵部隊には大きな負担になり、対岸が切り立った険しい箇所(「逆茂木」設置個所か)があって先に渡った右翼との間に間隙が生じた。恐らく、多くの犠牲者を出した自らも戦死しているプトレマイオス隊であろう。この間隙を見逃さず、ダレイオス側のギリシア傭兵部隊が突入を計った。この時、右翼側で敵を圧倒していた近衛歩兵部隊が戦列中央に向きを変え、このギリシア傭兵部隊の横腹に切り込み、敵を圧倒した。全体として右翼側の戦列を大きく伸ばして敵を包み込む形になり、にわかに浮き足だち(213)、ついには敗走に移った。(214)
左翼ではペルシア騎兵の大集団の突撃を受けてテッサリア騎兵が苦戦していた。クルチウスは、テッサリア騎兵1中隊が敵に踏みつぶされるや、馬を旋回し拡散してから再び戦闘に入ったと伝えている。ペルシア騎兵は、馬や騎兵の装甲は薄い鉄板を繋ぎ合わせて編んだもの(215)で重く、動きの妨げになり、個別に攻撃してくるのが、テッサリア騎兵部隊は身軽さを利用して一旦向きを変えて退却し、再度戦列を整えて、遠距離から槍を投げながらペルシア騎兵部隊に突撃を繰り返したのであろう。クセノポンは自らの騎兵として経験から投げ槍は遠くから投げるのが望ましいとし、その理由として旋回してもう一つの投げ槍を取る時間的余裕が生じると述べている。(216) ペルシア騎兵部隊はあまりにも密集しすぎていたため投げ槍を投げずに敵を突き刺す道具として使用したのではないだろうか。クルチウスは投げ槍が用をなさずに騎兵は剣を抜いて白兵戦を演じた様を描いている。(217) このような状況下でのテッサリア騎兵部隊による旋回しての波状攻撃は非常に有効であった。

ダレイオス軍の野営状況から戦列完成までの経過

24 ダレイオスの逃走
 アリアノスは、左翼がアレクサンドロスの騎兵の突撃で潰滅したのを見て、ダレイオスは戦車で逃走し、途中で馬に乗り換えた(218)と記し、プルタルコスはダレイオスが4~5スタディオン(219)先を逃げたので捕虜にできなかった(220)と伝えているが、他の史家は王の回りで激戦があったと伝え、ダレイオスが踏みとどまっていたかのように記述している。(221)
しかし、退却のための大混乱で多くの犠牲者が出る中を追撃者を振り切って逃げ切るのは容易なことではないと思われ、プルタルコスの記述するように、投げ槍の届く距離まで敵が近づかないうちに逃走したと推定した方が良いかもしれない。
クルチウスはダレイオスが生け捕りを恐れて背後に用意していた馬に飛び乗って逃げた(222)としているが、このような逃走のために乗り継ぐ馬が多く用意されており、追跡者を振りきることができた。ペルシア帝国の大王が軍勢を率いて出陣する時は、王の馬200~400頭を伴った。(223)
ダレイオスがソコイと同一と推定されるオンカイの町に着くまでの逃走経路は不詳であるが、戦闘のただ中を突破し、さらに関門を二つも通って逃げたとするのは無理があり、南から迫り来る敵から逃れるために北へ逃げ、アマノス門を通り来た道を戻ったとした方が納得できる。
アレクサンドロスは、200スタディオン(約36.8km)追跡したが(224)、暗くなって足下が見えなくなったので追跡を断念して引き返し(225)、陣営に着いたのは深夜であった。(226) 11月のイッソスの日の入りは午後5時前。薄暮時間も考慮に入れて、午後6時過ぎまで約3時間追跡し、戻り道は暗がりでの敗走兵との衝突や馬の疲労等を考えると通常の徒歩以下の速度で、6時間以上かけて陣営に帰着したのではないだろうか。

25 敗走後のペルシア軍
 イッソスから潰走したダレイオス軍の大きな集団は、4つ記録されている。
(1) ペルシアへ向かった集団
ダレイオスを中心とする集団については、次々と馬を替えるダレイオスの速さに誰も付いて行くことができなかったとクルチウスが伝え、さらにオンカイという町で4,000のギリシア傭兵部隊が王を迎えたと、不思議なことを記録している。(227) オンカイの町は、タプサコスにまっすぐ通じているということなので、アレッポ付近の町であろうと推定され、シリア門経由で逃げてきたギリシア傭兵部隊が、ダレイオスより若干早くオンカイの町に到着していたのであろう。
(2) エジプトへ向かった集団
ギリシア傭兵部隊8,000が、シリア門経由でポイニキアのトリポリスへ逃亡。そこから艦隊でキュプロスに渡るが、アミュンタスの率いるギリシア傭兵部隊4,000は、さらにエジプトに向かった。ペルシア守備隊からナイル河口の町ペルシオンを奪い、さらにメンピスでも守備隊を破るが、反撃されて壊滅した。(228)
(3) 小アジアへ向かった集団
ダレイオス軍の将軍たちに付いて小アジアに逃げた集団は、失地奪回を図るべくカッパドキアとパプラゴニアの部族を加えて、リュディア太守のアンティゴノスと3度戦ったが3度とも破れた。(229)アンティゴノスは守備隊の多くをイッソス戦に差し出しているが、現地のアレクサンドロス派の勢力も味方にしたのかもしれない。
(4) ペロポネソスへ向かった集団
クルチウスは、ギリシア傭兵部隊8,000がペロポネソス半島へ渡って、スパルタ王アギスと合流し、マケドニア本国の留守を預かるアンティパトロスに戦いを挑もうとしていた(230)としているが、この内の4,000については、前述のアミュンタスとキュプロスで別れて、ペロポネソスへ戻った者たちであったかもしれない。残りの4,000については、ソロイやマッロスに停泊していた船舶を強奪して海を渡ったと推定される。後のテュロス攻防戦で、それらの町からも艦船が応援に駆けつけている。(231)

26 最後に
 ダレイオスの敗因の根本は、アレクサンドロスの強烈な個性とその才能を知らなかったことにある。ペルシア王家が代々一度の決戦に帝国の運命を賭けてきたことに反して、グラニコス川の戦いで多くの精鋭部隊をなくし、イッソスの会戦では、武勇に富むバクトリア騎兵やインド諸族の来援を待たず、恐らく、シリア門守備のために多くの兵力をさらに割いたと思われることが敗因であろう。アレクサンドロス軍の軍事力をあまりに低く見積もったために戦略が一定せずに、イッソスから「ヨナの柱」方向へ追撃して地峡部分に入り、自らの危険を認識していながら敵が向かってくるかもしれない関門を押さえなかったことが致命的である。アレクサンドロス軍の反転進行を農夫から聞いたというのだから軍隊以前の問題である。(232)さらに致命的なのは、ダレイオス軍の主力であった圧倒的に優勢で、ダレイオスに忠実であったペルシア騎兵の運用を誤ったことが最大の失敗であろう。ピナロス川の防御戦に固執して、もっと広い空間の取れる北側への布陣を怠ったがために、狭い突破口をテッサリア騎兵部隊に塞がれ、結局犠牲を重ねて撃退されてしまった。
しかし、ダレイオスが一度の決戦に帝国の運命を賭けたとしてもアレクサンドロスには勝てなかったと思われてならない。アレクサンドロス軍には、ダレイオス軍にないものが二つあった。
一つは、将の利である。指揮官の地位と戦闘における勇気は反比例するものであり、最高指揮官の勇気については古来、希有であるとされる(233)が、アレクサンドロス軍では少ない犠牲者の中に部隊指揮官の名が見え、戦闘での死を名誉として重んじる気風が醸成されていたのであろう。特に軍を統率するアレクサンドロスの勇気についには多くの逸話が残されており、東征中の負傷は一般の兵士以上であった。
もう一つは、兵の利である。兵の敵に対する精神力を培うものが二つある。つまり、軍が歴戦して勝利を重ねることと、幾度か極度の困苦を経験することである(234)が、アレクサンドロス軍中、特にマケドニア人の中にペルシア人に比べて大きなものがあった。
古代の歴史家が残した貴重な文献を比較検証して、イッソスの会戦について自分なりに見いだしたことが1つある。それは、イッソスの会戦が天下分け目の戦いであったという結論である。これまでは、参加兵力もイッソスの会戦以上に多く、平原を舞台にしたスケールの大きいガウガメラの会戦がこれに該当すると勝手に思いこんでいたが、そうではなかった。アレクサンドロスの天才を遺憾なく発揮した戦いは、このイッソスの会戦であると。