1 はじめに
ギリシア北方に興ったマケドニア王国は、紀元前338年夏、ギリシア連合軍をカイロネイアの会戦で破り、コリントス同盟の盟主となってギリシア世界に覇を称えた。しかし、紀元前336年夏、盟主ピリッポスⅡ世は暗殺され、息子のアレクサンドロスがマケドニアの王となった。アレクサンドロスは、王国の安全を脅かす周辺部族を次々に打ち破り、統治基盤を揺るぎないものにしようとした。その遠征のさなかにマケドニアに対して反旗を翻したテーバイを完膚なきまでに破壊し、もはや昔日の勢力を失ったギリシア諸ポリスへの見せしめとした。コリントス同盟の盟主となったアレクサンドロスは、紀元前334年春、父ピリッポスⅡ世をはじめとする多くのギリシア人の長年の夢であった東征の途についた。
当時のアケメネス朝ペルシアのダレイオスⅢ世とギリシア同盟軍を率いたアレクサンドロスⅢ世との最初の戦いである「イッソスの会戦」は、歴史関係の書物をはじめ多くの著書に取り上げられているが、ほぼ一致しているのは、お互いが敵を求めて前進したことにより偶然生じた「空前のすれ違い」であり、その結果、ダレイオス軍がアレクサンドロス軍の背後に現れたとしている。しかし、この分析は誤りで古代の史料を精査するとアレクサンドロス大王の緻密な計算が背後にあることがわかる。
会戦まで経過を具体的な日付で推定するために、2つの基準日を設定したい。
1つ目は、アレクサンドロスのタルソス到着日である。
アレクサンドロスが、タルソスに到着日は「夏で、太陽の熱気でキリキアの海岸地方は特に暑かった」(1)ことから、記録的な暑さではなかったものの真夏であったことは間違いないだろう。現代の気象観測が始まってからのタルソスの最高気温は42゚Cであり、7月29日から8月6日までの間に3日観測されている。この日にちの中間の8月2日を、アレクサンドロスのタルソス到着日と推定して、基準日1としたい。
2つ目は、イッソスの会戦のあった日である。
この会戦は、「アテナイのアルコンがニコクラテスの年のマイマクテリオン月」にあった(2)とされ、現在の暦年では、紀元前333年10月中旬から11月中旬である。また、ダレイオス軍がダマスコスに送った財貨をパルメニオンが接収する時、雪が降っていた(3)と記録されている。ダマスコスの11月中旬の平均最高気温は17゚C、平均最低気温は2゚C。イッソスからダマスコスまでは約480km。パルメニオンが歩兵を伴っていたのであれば、毎日行軍して17日行程であるが、接収を急いでいたことからすれば、騎兵部隊のみであった(4)と思われるが、少ない部隊での敵中行軍を考慮し、また途中で援軍要請のため行軍をまったく停止させている(5)ので、同じくらいの日数を要したと思われる。従って合戦のあった日については、11月1日と推定して、基準日2としたい。
2 メムノンの病死 (基準日0)
ヘッレスポントス海峡を渡ったアレクサンドロスは、紀元前336年春に父ピリッポスによって、少なくとも10,000(6)のギリシア同盟軍を率いて先発させていた(7)パルメニオンと小アジアで合流した後、グラニコス川の戦いでペルシア帝国の小アジア太守連合軍を破った。その後、小アジアの総督府があったリュディア地方のサルディスで備蓄されていた財貨を接収し(8)、遠征当時30日分しかないと言われていた遠征費用(9)を確保してペルシア側拠点を次々に攻略し、ゴルディオンで冬営する。(10)
すぐ南下してキリキアへ攻め込まなかったのは、ペルシア帝国の傭兵隊長メムノンが海軍を率いてギリシア本土を窺い(11)、カリア太守オロントバテスもハリカルナッソスで各地から追われてきたペルシア勢力を結集して激しく抵抗していたこと(12)が挙げられる。また、プリュギア方面へ派遣していたパルメニオン部隊(13)との合流や、カリアからマケドニアへ一時帰郷させていた新婚兵とそれらと一緒に来る予定になっていた新兵の来着を待っていた(14)ことも理由としてあげられる。しかし、紀元前333年春、オロントバテスの抵抗は続いていたものの一時帰郷兵が新たに徴募した騎兵や歩兵を伴って帰還(15)すると、ハリュス川以東のカッパドキア地方に残るペルシア側勢力の制圧作戦を開始する。(16)
メムノンは、ハリカルナッソスを小アジア防衛の最後の拠点と位置づけ、総力を挙げて抵抗活動をしていたが、アレクサンドロス軍の手に落ちる前に市街地を焼却し、拠点を周辺の城塞に移した。(17) 陸上での抵抗はオロントバテスに任せて、メムノン自らは傭兵部隊を艦隊に乗せ、船上の人となった。これより前にダレイオスから艦隊司令官に任命されていた(18)メムノンは、アレクサンドロス軍の海上輸送の中継基地となる島々を奪取し、兵站路を断ち切るとともに、ギリシア傭兵部隊をギリシア本土に上陸させ、マケドニア本国を狙って、アレクサンドロスの帰国を余儀なくさせるという作戦であったのだろう。(19) しかし、レスボス島のミテュレネ攻略に手間取っている間に、この作戦に不可欠な存在であったメムノン自身が病死してしまった。(20)
運命の女神は常にアレクサンドロスに微笑んでいるが、この時の微笑みほどアレクサンドロスに喜ばれたものはなかった。もし、メムノンの作戦が実行に移されていれば、この後、2年後に勃発するスパルタ王アギスとマケドニア本国の留守部隊の指揮官アンティパトロスの戦い(21)は、時期的にもっと早まり、しかもアギス側の兵員数も2倍になり、アンティパトロスは破れ、アレクサンドロスは急遽本国帰還を余儀なくされたはずである。この時のアギス軍は、ギリシア傭兵8,000(22)を含めて歩20,000、騎2,000。(23)一方のアンティパトロスは40,000(24)を下らない兵を率いて対抗し、アギスは戦死する。
このメムノンの死亡時期がいつかは不明であるが、アレクサンドロスのもとへ伝わったのはパンフィリア及びカッパドキア地方で活動中のこと(25)であった。総大将の死は、自軍にとっては大きなマイナスであるため、秘匿されるのが普通であり、すぐにはアレクサンドロスのもとへも届かなかったはずである。しかし、それを知ってアレクサンドロスはキリキアへ進出し、基準日1には、タルソスに到着している。メムノンの死から、それがアレクサンドロスに伝わり、タルソスに到着するまで、13日と見積もり、メムノンの死亡を紀元前333年7月20日として、これを基準日0とする。レスボス島周辺で活動中のアレクサンドロス軍側の者にメムノンの死亡が伝わるまでを3日、急使がカッパドキア付近のアレクサンドロスのもとへ届けるまで4日、行軍してタルソスに到着するまで6日とした。
3 ダレイオスの決断
当時、夏の都エクバタナにいた(26)と思われるダレイオスにメムノン病死の報が届けられると、メムノンの作戦を継続するか、自らが出陣して決戦を挑むかが協議されたが、後者が採択された。(27) 紀元前390年代のスパルタ王アゲシラオスの小アジア遠征時には、買収によって本国に紛争を起こして帰国を余儀なくさせた(28)が、今回はギリシア諸ポリスに戦うだけの戦力もなく、各ポリスとも東征軍中に人質を取られているため買収工作はできなかったのであろう。また、メムノンなくしてマケドニア本国の留守を預かるアンティパトロスと渡り合うことはできなかったであろうし、メムノンが指揮を執っても恐らく騎兵のいない部隊に敵を攻めて再起不能なまでに撃破することは不可能であったろう。
そこで、ダレイオスが示達した内容はおよそ次のようなものであった。
(1) 艦隊司令官には、アルタバソスの子パルナバゾスをあてる。(29)
(2) パルナバゾスは、アウトプラダテスと封鎖作戦を継続すること。(30)
(3) パルナバゾスは、テュモデスに傭兵部隊を預けること。(31)
パルナバゾスは、レスボス島で包囲作戦をしていた傭兵部隊を、当時リュキアにいたメントルの子テュモデスに預けて、再びレスボス島へ戻った。(32)テュモデスは、リュキア付近でアレクサンドロス軍の残留部隊に抵抗していたギリシア傭兵部隊を集めて艦隊で南下し、ポイニキアのトリポリスへ上陸した。(33)
(4) テュモデスは、傭兵部隊を上陸させ、ソコイで本隊と合流すること。(34)
ソコイの場所については、アッシリア地方にあって、シリア門から2日行程ほど離れた場所(35)としか分かっていないが、シリア門とアレッポの中間地点と思われる。この古くからの街道から大きく外れて、アレクサンドロス軍を待ち受けるのはかなり危険なことで、アレクサンドロス軍の神速を持ってすれば首都バビロンを急襲されることが十分考えられたであろう。ソコイから南には、後にセレウコスが戦象500頭とともに軍を養えるほど肥沃な地方(36)があり、ダレイオス軍に十分な糧秣を供給できたはずである。
(5) 帝国内各民族は、軍を率いてバビロン郊外に招集すること。
バクトリア人、ソグディアナ人、紅海の住民(インド人)等は召集に間に合わなかった(37)が、遅れて駆けつけることもなかった事実から見て、進発予定日の余程前に、何らかの事情で進発を早めたものと思われる。1週間位早めたのであれば、ソコイで合流できたと思われるので、出発予定日の2週間以上早めに出発したのではないか。2年後のガウガメラ戦の時の召集では、バクトリア人などは他の多くの民族より早くバビロンに集結したと述べており(38)、この時の事情が影響していると思われる。
(6) シリア・エジプトの部隊は、ソコイに先行して本隊の到着を待つこと。
バビロン応召民族については、クルチウスが詳細に述べている(39)がシリア・エジプトの民族名は見あたらない。しかし、イッソスでのペルシア側戦死者にエジプト太守サバケスの名があり(40)、シリア太守についてもイッソス戦の後でパルメニオンが財貨接収のためダマスコスに行くとシリア太守が既に戻っていた(41)とあり、イッソス戦に参加していたと思われる。小キュロスの反乱時、フェニキア太守アブロコマスが300,000の軍勢を指揮した(42)とあり、誇張を斟酌しても相当な部隊を引き連れてきたことは想像に難くない。
メムノン病死の知らせがダレイオスに届けられたのは、基準日0から10日後と見なして、7月30日であった。当時、サルディスからの「王の道」はカッパドキアから以西はアレクサンドロス軍に押さえられていたもののキリキアから以東の宿駅については健在で機能していたであろう。全111宿駅(43)のうち、63宿駅は駅伝機能があった。完全に機能していれば、全部で7日要していたので、当時使えた部分はキリキアの宿駅からの4日分。エクバタナまでへも同じくらいの日数で行けたのではないかと思われる。メムノン病死の直後に使者が発せられたとしても、小アジア一帯は敵地であったため、使者がレスボス島からキリキアの宿駅まで達するのに6日とした。「王の道」を使用せずに海路でポイニキアを経由してエウプラテス川沿いに陸路を早馬を駆けさせることもできたであろうが、更に多くの日数を要したろう。
4 アレクサンドロスのキリキア進出
メムノン病死の報に励まされて、アレクサンドロスは主力を率いて南下を決意した。
小アジア南部のキリキア地方へは、タウロス山脈のキリキア門(標高約1,300m)を越えないと軍隊は南下できない。紀元前401年、小キュロスの軍勢もまたここを通過しており、クセノポンをして荷馬車は通れるが恐ろしく急勾配でしかも敵に阻止された場合、軍隊が通過することは不可能であると言わしめている(44)場所である。関門の長さは約20スタディオン(約3.7km)あり、切り立った山際から城壁が延びて道を塞ぎ、数カ所に門があった。(45)
主力部隊をパルメニオンとともに関門の手前で待機させ、アレクサンドロス自らが率いる軽装部隊は関門を急襲する。キリキア太守アルサメスの守備隊は戦わずして関門を放棄、アレクサンドロスは全軍を率いて翌朝キリキア門を越えるが、アルサメスがタルソスを破壊して撤退を企てていると聞き、軽装部隊を率いてタルソスに急行する。(46) 2日行程の道のりを猛進撃してタルソスに到着した。アレクサンドロスはこの時の疲労と、夏のもっとも暑い時期(47)に冷たいキュドノス川(48)で水浴びをしたため病気になった。(49)病名は急性肺炎あるいはマラリア熱と推定されているが、急性心筋梗塞の可能性もあろう。夜明けとともに(50)関門を通過し、一日の中で一番熱い時間帯に(51)タルソスに到着した。約8時間で駆け下った距離は500スタディオン(約92.5km)であった。(52)
5 パルメニオンのシリア門先発
史料の中でパルメニオンのシリア門への出発について言及されているのは、アレクサンドロスのタルソス出発の少し前(53)のみである。しかし、タルソスで闘病中のアレクサンドロスに宛てて、アレクサンドロスとともにタルソスにいるはずのパルメニオンから医師ピリッポスに用心するようにとの書簡が届く。色々な場所からの送付ということになっている(54)が、クルチウスのみは「先発先」からとなっており、アレクサンドロスが発病する前からパルメニオンが先発させられていたような記述をしている。(55) クルチウスに従えばパルメニオンは、タルソス到着日にキリキア太守アルサメスの焦土作戦を阻止のため派遣されている。これがそのまま先発となり、後から次々に部隊が増派されたのであろう。アレクサンドロスのタルソス出発前とするのはあまりに呑気過ぎるようだ。
先発の時期についてのアリアノスの記述は信用できない。しかしパルメニオンとともに先発した部隊は、ギリシア同盟歩兵部隊(17,500)、ギリシア傭兵部隊(2,300)、シタルケス麾下のトラキア人部隊(7,000)とテッサリア騎兵部隊(1,850)であった。(56) 歩26,800、騎1,850、総勢28,650。キリキア門を越えたアレクサンドロス軍の実に60%の兵力であった。シリア門の手前、イッソスの町から5パラサンゲス(約27.6km)の所には「ヨナの柱」と呼ばれる隘路があり、東側が絶壁、西側がイッソス湾で、通常、北側はキリキア太守の守備隊、南側は大王直轄の守備隊が守っている通過困難な関門(Xen.Anab.1.4.4)であった。しかしゴルディオンのアレクサンドロスからの指示で再建された艦隊(57)が後方支援のため付近にいたようで、小キュロスの隘路通過時と同じように(Xen.Anab.1.4.5)パルメニオンの先発部隊は大した抵抗を受けずに通過したであろう。
パルメニオンの先発部隊は、イッソス湾に面した現在のイスケンデルン市からアマノス山脈の隘路にあるシリア門へ向かい、そこに守備隊を置いた。この関門は長さ3スタディオン(約555m)あって、城壁についた開閉式の門で道を塞ぐことができた。(58) 関門の向こう側は既にシリア太守の率いる軍勢が守っていた(59)と推定されるが、パルメニオンの先発部隊は、敢えて関門を突破する必要はなく、ダレイオス軍が海側へ進出して来るのを防ぐだけの任務であったようだ。パルメニオンのシリア門進出は、タルソスから普通の行軍速度でも9日を要するが、歩兵の敵中行軍や急速を要する任務を考慮すると同じ位の日数を要したであろうから、8月11日としたい。
6 ダレイオスのバビロン進発
ダレイオスが帝国内の諸民族に対してバビロン集結を命じた期日は不明である。しかし、国家の一大事に際して、バクトリアやインドまで兵を招集するためには、命令を末端まで届けるだけで2~3週間、その地方で軍を招集し、バビロンに向けて出発するまでに1~2週間、部隊が行軍してバビロンに到着するまでに4~5週間。インドの部隊まで軍勢に組み込もうとするならば、8月2日の招集決定から2ヶ月は見なければならず、バビロン進発予定は、9月末であったと推定される。
しかしダレイオスは何らかの事情で期日前に出発を余儀なくさせられた。その「事情」とは、アレクサンドロスの急病の知らせと思われるが、ダレイオスがアレクサンドロス急病の報に接したのはエウプラテス渡河前(60)であり、バビロンを出発(61)した後であった。すると、パルメニオンの先発部隊がシリア門の大王直轄守備隊と接触し、まさにアレクサンドロス軍がメソポタミアを直撃するのではないかと思わせる知らせが、その「事情」であったと思料される。ソコイを集結場所にしていながら、その手前でアレクサンドロス軍を迎撃しなければならなくなったのである。シリア門を守備していたシリア太守からの知らせで、急遽バビロンを出発したのは8月21日頃だろう。
ダレイオス軍のバビロン進発時の総勢は、歩兵250,000、騎兵62,200。ギリシア侵攻時のクセルクセスを真似て、10,000人が入る防御柵に囲まれた場所を用意して巨大な升に見立てて順番に中に入れ、人数を数えてから出発させた。(62) クルチウスは、これにギリシア傭兵30,000が加わったと記述しているが、進発時にはいなくて後で加わったとも解釈でき、テュモデスがソコイに引き連れてきた傭兵部隊であろうと思われる。
バビロン進発直後は、向かって来るであろう敵との会戦を予定して斥候を先に行かせ、本隊は通常の行軍速度で進んだ。出発後まもなくしてアレクサンドロス急病の報が届き、ダレイオスは軍を急がせエウフラテス川を5日で渡河する。(63) バビロンから渡河地点のタプサコスまでは約670kmであるので、通常の行軍であれば、28日行程であるが、途中の大休止や策敵活動などを考慮して、渡河地点まで42日とし、渡河完了は、10月7日としたい。ダレイオスが、アレクサンドロスの急病の報を受けたのはバビロン進発直後ではなく、渡河地点近くで9月25日頃。ソコイ到着は、10月17日頃であろう。
7 アレクサンドロスのタルソス出発と山地キリキア討伐作戦
アレクサンドロスはパルメニオンの先発部隊がダレイオス軍の接近を見張っている間、タルソスで軍を休ませ、自らも病後の療養をしていた。そこへ、ハリカルナッソスの残留部隊から敵方に応援に来るピシディアやリュキアの周辺部族をキリキア側からの討伐要請があってか、あるいはアレクサンドロス自身が前年の秋から冬にかけての平定作戦で手を付けられなかった地域への掃討作戦の意味があるのか、山地キリキアの討伐作戦をすることになったと推定される。
タルソスを出発したアレクサンドロスは、アンキアロスを経由して平地キリキアの要所であるソロイの町に到着した。(64) 山地討伐隊は、マケドニア歩兵の3つの部隊、つまりペゼタイロイ(歩兵仲間)と呼ばれる重装歩兵部隊(4,500)。全弓兵隊(500)、アグリアネス人部隊(500)の総勢5,500名の歩兵部隊であった。一方、ソロイに残留した部隊は、ヒュパスピステス(楯持ち)と呼ばれる近衛歩兵部隊(3,000)、ペゼタイロイ(歩兵仲間)の残りの部隊(7,324)、ヘタイロイ(騎兵仲間)と呼ばれる騎兵部隊(2,050)、ギリシア同盟騎兵部隊(400)、トラキア騎兵部隊(1,200)の歩10,324、騎3,650、総勢13,974であった。
山地討伐隊は、ソロイを出発して海沿いに進軍し、カリュカドノス川河口に到着した。カリュカドノス川河口にはホルモイ(現Slifke)の町があった。(65) ホルモイからはカリュカドノス川沿いに上流に軍を進め、討伐作戦の拠点を目指した。山地キリキアの討伐作戦には7日を要したとされる(66)が、ソロイを出発してから帰ってくるまでの期間なのか、途中の日数は含めないで実際に討伐に要した日数なのかはこの一文からは判然としない。しかし前者とすれば、後のテュロス攻略中のアラビア討伐に要した10日(67)やペルセポリス滞在中のマルドイ人などのザグロス山中の山地民の討伐に要した30日(68)に比べるとあまりにも短期間である。アラビア討伐は、アンティリバノス山に根城を持つ山賊の討伐で、作戦地域までは1日行程であったのに比べ、山地キリキアの作戦地域までは片道6日は必要で、やはり、7日というのは、実質的な討伐作戦に要した日数とした方が妥当であると思われる。以後、その判断で、山地討伐隊の行動を推定してみたい。
討伐作戦の拠点についてはピシディア地方の中心ラランダ(現Karaman)であろう。ラランダは後にアレクサンドロスが任命したキリキア太守バラクロスがそこの反乱を鎮圧しようとして戦死した(69)という町であり、ラランダから先に、小キュロスの軍勢が通過した、イコニオンとキリキア門手前のタダの町を結ぶ街道がある。小キュロスのもとから、キリキア太守の妻を伴って、テッサリア人メノン率いる部隊がタウロス山脈越えの近道を通って、タルソスに着いている。(70) 通常のルートを使った小キュロスは、行軍9日、4日休んで、13日目にタルソスに着いているが、メノンはそれより5日早く到着している(71)ので、8日行程であろう。メノンが小キュロスと別れた地点からラランダまで1日、山を越えたホルモイからタルソスまで3日として、ラランダからホルモイまでは4日。メノン隊は途中、山賊の襲撃に遭い背後に敵を感じながらの慌ただしい行軍(72)であった。ホルモイからラランダまでは海岸線から標高差1,600mの登り道でもあり、通常の敵地行軍と考えて6日行程。帰りは5日行程と推定される。
ラランダ周辺で7日間、武力行使あるいは協定により帰順させたりして山地キリキアを一応、制圧した。この地方を小キュロス軍のメノン隊は重装歩兵1,000、軽装歩兵500で通過したが、途中で重装歩兵100を失っている。(73) ラランダとともに、デルベやイサウラなどのピシディア地方は、ローマ時代になってもタウロス山脈の高地の洞窟をねぐらにした山賊が住み、地中海沿岸には海賊の砦が数多くあった。(74) 山地討伐隊がラランダからホルモイを経てソロイに到着したのは、10月14日と推定される。
8 テュモニデスのギリシア傭兵部隊
ダレイオスからの指令は、パルナバゾスとテュモニデスに届けられた。
メムノンの後を継いだペルシア帝国艦隊指揮官パルナバゾスは、当時エーゲ海の島々をペルシア側にして、アレクサンドロス軍の補給ルートを絶つ作戦を実施中であったが、レスボス島のミュテレネが頑強に抵抗していて、この町の包囲作戦をしていた。パルナバゾスは、ミテュレネ市民と協定締結を急ぎ、これに応じてミテュレネが陥落する(75)と包囲作戦に従事していた多くのギリシア傭兵を海路リュキアにいたメントルの子テュモデスに引き渡した。(76)
一方、リュキアにいたテュモニデスもダレイオスの指令を受けて、カリアなどで抵抗活動中のギリシア傭兵部隊をかき集めて、リュキアでパルナバゾスを待っていた。パルナバゾスからレスボス島のギリシア傭兵部隊を受け取ると、自分がかき集めた傭兵と一緒に海路ポイニキアのトリポリスに上陸(77)し、ソコイでダレイオスと合流した。(78)
この結果、カリアのハリカルナッソスの抵抗勢力はアレクサンドロス軍の残留部隊のために殲滅させられ(79)てしまい、アレクサンドロス側の余剰兵力もイッソスに向かうことになる。
9 アレクサンドロス軍のソロイ出発
山地キリキアの討伐作戦は、未だ完全に掌握しきれない小アジアの動静が深く関わっていた。今回の作戦は、テュロス攻囲中のアラビア族討伐(80)のような単なる山賊討伐とは性格が異なり、小アジアで抵抗都市の攻略作戦を継続中の味方の部隊の側面支援が主目的だったのではないか。サガラッソスがアレクサンドロス軍に攻められている時に、テルミッソスから救援部隊が駆けつける(81)など、都市間が密接に繋がっていたようであり、この時期、山地討伐隊がキリキア側から直接本拠地を叩くのは非常に効果があったと思われる。実際、ラランダやイサウラからどこに応援部隊を出していたかは不明もしくはそのような事実はないかもしれないが、同じ時期に広範囲に攻められた場合、他に救援を求めることも、他に逃げ込むこともできないのが現実であろう。
また、アレクサンドロス軍がプリュギアからタウロス山脈を越えたキリキア進出は、ペルシア帝国の西側の支配力に大きく貢献していたメムノンの病死により可能にはなったとは言え、ペルシア側の抵抗勢力を一掃した訳ではなく、ペルシア海軍の補給基地となる小アジア沿岸の主要な都市や島ではアレクサンドロス軍に抵抗していたものもいくつかあり、完全に制圧するまでキリキアを離れることは戦略上できなかったのであろう。ソロイに帰着して間もなくして、カリア太守オロントバテス率いるペルシア勢をプトレマイオスらが打ち破ったとの報告がもたらされた。(82) これこそがアレクサンドロスが待ちに待っていたものであったろう。小アジアは完全に平定はされないながらも、歩700、騎50を討ち取り、1,000人以上の捕虜を取った(83)ことにより、表だった抵抗はしばらくはなくなることが予想された。破れたオロントバテスはバビロンに逃げ延び、ガウガメラ戦でペルシア人部隊を指揮しているが、イッソスの戦いには間に合わなかったようだ。(84)
キリキア山地討伐には、実際はアレクサンドロス自らが遠征していないかもしれない。ソロイで療養していた可能性がある。というのは、キリキア山地への部隊行動はアリアノスのみが行われたという事実のみを伝えているだけで、病気から回復し健康を取り戻したことを感謝すべくソロイで医神アスクレピオスのために供犠を行っているからである。またソロイでは観閲式や松明競技、体育競技などを行い、兵士の士気高揚と体力充実を図っている。(85) 史料には記録されていないがソロイ近くの山側のオルベの町にあったゼウスの神域(86)をアレクサンドロスが訪問したことは十分考えられ、これらも含めてソロイ滞在は、これから直面するダレイオス軍との決戦を前にした最後の大休止の意味もあった。ソロイ出発は、基準点2から15日前と推定され10月17日であろう。
アレクサンドロスはソロイからピロタス騎兵隊を先発させ、マロス付近で渡河することになるピュラモス川の架橋工事をさせている。(87) 重装歩兵部隊等の主力部隊は真っ直ぐマッロスへ向かわせたが、この時、ともすればダレイオス側になって、背後から襲いかねないソロイの住民を人質として引き連れた。(88)アレクサンドロス自らが率いる歩兵と騎兵の親衛部隊はマガルソスの町に立ち寄ってアテネ・マガルシスに生贄を捧げてからマッロスに向かった。(89)
10 ダレイオス軍のソコイ到着
マッロスで主力部隊およびピロタスの騎兵部隊と合流し、付近のアレイオン平野でアポロンと争って命を落とした英雄神アンピコスのために供犠を行った。(90) ダレイオスがソコイに到着した様子は不明であるが、アレクサンドロスがそのことを知ったのは、マッロス滞在中であった。パルメニオンの急使の報告でダレイオス軍がシリア門から2日行程のソコイに陣を張っていることを知った。(91) このことから逆算するとダレイオス軍のソコイ到着は、10月17日と推定される。
ここで重要なのは、ダレイオス軍のソコイ到着の情報をどこから入手したかである。
両軍の守備隊により、完全に閉鎖されているシリア門を通ることのできた商人の口から聞いたのであろうか。それとも閉鎖されていない海路から情報を得たのであろうか。イッソスから2日行程南にあるミュリアンドロスは、商業の中心地で多数の商戦が出入りするフェニキア人の港町であった(92)ようであるし、書簡も外部から届いたようである。(93)しかし、アレクサンドロスは、これらのあまり頼みにできない情報源に頼ることよりも、自らの兵士に策敵および近道や抜け道を探させていたと思う。
アリアノスは、マッロスでアレクサンドロスと側近のヘタイロイが会議を開き、ダレイオス軍に向かって急進撃して2日目にミュリアンドロス付近に到着したとしている。(94)しかし、クルチウスはイッソス湾北側のカスタバルムの町で守備部隊をミュリアンドロス付近に残して駆け付けたパルメニオンと合流し、イッソス付近の状況等の詳細な報告を受け(95)、次のイッソスの町ではさらに進むべきかを会議で協議した(96)と記している。
アリアノスの伝えのみを信じてアレクサンドロスの胸中を知ろうとするならば、いつもの神速をもってダレイオス軍に迫り決戦を挑もうとしたと見るしかない。しからば何故一気にシリア門を越えなかったのか。ミュリアンドロス付近で嵐のために釘付けになったという理由であるがいささか疑問である。
クルチウスは、パルメニオンがカスタバルムで王を待っていたと伝えている。アリアノスの言うようにアレクサンドロス軍が「ヨナの柱」を通り、シリア門を越えてソコイに陣取っているダレイオス軍に向かおうとしているのならば、パルメニオンは守備隊がいる場所で待っていても良さそうなものである。わざわざ自らが出向いて、アレクサンドロスに伝えなければならない情報があったのだと思う。
パルメニオンがアマノス門の道も把握していて、ソコイも斥候範囲に入っていたならば、ダレイオス軍のソコイ進発は当然急使を持ってパルメニオンに伝えられたであろう。3ヶ月近くもイッソス付近でダレイオス軍の接近を監視してきたパルメニオンがアマノス門の道を見逃すはずがなく、シリア門だけを監視していたとは到底思えない。アッシリア方面からキリキア地方に大軍が来た場合、戦略上イッソスを重要な地点とアレクサンドロスが考え、すべての隘路を探させ、手を打っていたと考えるのが普通であろう。アマノス山脈を大迂回するダレイオスが実際に通った隘路もパルメニオンは当然把握していた。
11 アレクサンドロスの戦略
それでは何故、アレクサンドロスは袋小路のような場所に軍を進め、背後を突かれるような形になったのであろうか。
これには、アレクサンドロスの深い読みがあった。戦場となったイッソスの野は、アマノス山脈とイッソス湾に挟まれた地峡になっており、北を上にして見た場合は先の細い逆三角形をしており、実際の戦いでは、アレクサンドロス軍は下側の頂点部分から上の底辺方向に徐々に左右に翼を広げながらダレイオス軍に向かっている。これが逆であれば、遙かに人数の多い、ダレイオス軍は、次第に左右から敵を包囲することが容易になり、アレクサンドロス軍にとっては極めて不利であり、包囲殲滅される恐れが多分にある。イッソスでの史上空前のすれ違いから生じた彼我逆向きの配陣は、ヘタイロイ騎兵部隊とマケドニア密集歩兵部隊の破壊力に絶対の自信を持つアレクサンドロスの緻密な計算があった。
しかし、後代の歴史が証明しているように、この配陣は大きな賭けであったろう。歴史上、「イッソスの戦い」と名付けられた戦いは、3回あった。
2度目は、西暦194年、ローマ皇帝の地位をめぐってセヴェルスとシリア総督ニゲルとの戦いである。セヴェルス軍は、西から軍を進め、小アジアの2箇所でニゲル軍を破り、キリキアへ進んで「関門」と呼ばれる場所の近くで、ニゲル軍と会戦する。イッソスとミュリアンドロス間の隘路「ヨナの柱」のことであろうと思われる。「片側が崖で、反対側は海に落ちる断崖」とローマ時代の歴史家ディオ・カッシウスが伝えており、アマノス山脈中の隘路「シリア門」ではない。北のイッソス方向から押し寄せるセヴェルス軍と「ヨナの柱」の手前の小高い丘に布陣したニゲル軍とが激突する。両軍とも重装歩兵を前列にして、後列には弓兵などの軽装歩兵を配し、狭い場所で敵を圧倒した方が勝ちという戦いであった。最初、ニゲル軍が数と場所の優位さから優勢であったが、北風を伴った突然の雷雨がニゲル軍を直撃し、セヴェルス軍を一転して勝者に導いた。ニゲル軍は押し切られ戦場を捨て、シリア方面に敗走する。(97)
3度目は、西暦622年、東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスがササン朝ペルシアの首都への親征途中、侵攻を阻止しようとするペルシア軍とイッソス付近で激突する。タウロス山脈を越えて侵攻するヘラクレイオス軍をイッソス付近で待ち受けるペルシア軍の背後をヘラクレイオスは、艦隊でペルシア軍の後方に上陸させた部隊に襲わせ勝利を得た。上陸地点は不明であるが、ミュリアンドロスではないかと思われる。ヘラクレイオスは、カルタゴ総督の父を持ち、カルタゴから艦隊を率いて先代の皇帝を廃位させた経緯があり、海軍力をうまく活用した。
いずれの場合も、キリキア地方からアッシリア・シリア方面への進出を企てた方が勝っているが、布陣を考えるとアレクサンドロスの場合とは逆であったろう。つまり、負けた方が南側に位置していたのである。
12 おびき寄せ
アレクサンドロスは戦場となるイッソスを実地踏査し、イッソスにおいて会議を開く。その席で、周囲の探索を3月近くもの長期間行ってきたパルメニオンが意見を述べ、「隘路」がダレイオス軍を迎え撃つのにもっともふさわしい場所であるとして、採用されている。(98)アリアノスやクルチウスなどが伝える文章の中に、パルメニオンが作戦上で意見を言う箇所が見られるが、アレクサンドロスによって不採用になることが多い中で、この「隘路」を戦場に決定する意見の採用は特異であり、逆に、極めて信憑性が高いものと思われる。パルメニオンが進言した「隘路」を「ヨナの柱」や「シリア門」とする説もあるが、ダレイオスとの直接対決を切望していたアレクサンドロスの性格や東征のその後の歴史を見てもそのような場所を積極的に選んだ記録がないことから妥当ではない。ここで言う「隘路」が、幅14スタディオン(約2.59km)しかない(99)「イッソスの地峡」を指していることは、イッソス付近にダレイオス軍が進出したとの偵察隊の報告を聞いたアレクサンドロスが祈り願ってきた「その隘路」で決戦を迎えることになった(100)と記されていることからも間違いない。
ただ、イッソスの町に複数のマケドニア人傷病者が残されていたのは、この推定と矛盾する。しかし、ダレイオス軍のソコイ進発の報を受けたアレクサンドロスが敵のイッソス到着予定日を読み誤った可能性は大いにある。ダレイオス軍のイッソス進出にアレクサンドロスが驚いたと伝えている(101)ように、本隊から遅れてでも傷病者が着いてくるまで間があると思っていたものが以外に早い到着に驚いたのであろう。