第31章 イタリアの青銅器時代の歴史

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1 はじめに
ギリシア人は、西方にある大きな島のように見える半島を、Hesperiaと呼んだ。[1]
Hesperiaとは、Oenotriansが住んでいたItaly半島のことであった。[2]
AD2世紀の地理学者Pausaniasは、ギリシア人が、最初に海外へ植民したのは、Italyであったと記している。[3]
青銅器時代のItaly半島についての主な情報源は、ItalyやSicilyについての著作がある歴史家Xenophanesの子Antiochusである。[4]
Antiochusは、BC5世紀に、Sicily島のSyracuseの町に住んでいた。[5]
Pausanias、AD1世紀の地理学者Strabo、BC1世紀の歴史家Dionysius of Halicarnassusが、Antiochusの著作を参照している。[6]
この章では、Italy半島、Lipara島、Sardinia島、Sicily島の青銅器時代の歴史について記述する。Sardinia島の北にあるCyrnus島の青銅器時代に関する伝承は、見つからない。

2 最初の移住
2.1 最初の移住者
Italy半島へ最初に渡ったギリシア人は、Lycaonの2人の息子たち、OenotrusとPeucetiusが率いた人々であった。[7]
Lycaonは、Argosの町の創建者Phoroneusの娘Niobeの子Pelasgusの息子であった。[8]
Pelasgusは、Pelasgiansの始祖であり、OenotrusとPeucetiusが率いた人々は、Pelasgiansであった。[9]

2.2 移住の原因
BC1635年、Argosの町で、Niobeの子Argusの後裔の間で争いが生じた。
Argusの子Tirynsは、Argosの町から南東へ移住して、Tirynsの町を創建した。[10]
Argusの子Epidaurusは、Argosの町から東へ移住して、Epidaurusの町を創建した。[11]
Lycaonの2人の息子たち、OenotrusとPeucetiusは、Argosの町からItaly半島へ移住した。[12]

2.3 OenotrusとPeucetiusの定住地
BC1635年、OenotrusとPeucetiusは、Argosの町からItaly半島南部へ移住した。
Peucetiusは、Italy半島南東部に定住した。[13]
Peucetiusと共に定住した人々は、Peucetians (or Peucetii, Poedicli)と呼ばれ、その地方は、Peucetiaと呼ばれるようになった。[14]
Oenotrusは、Italy半島南西部に定住した。[15]
Oenotrusは、Acheron川近くの3つの峰の合流する高所に住み、一緒に定住した人々は海岸近くへ居住地を広げ、その中心地にPandosia (現在のMendicino)の町を創建した。[16]
Oenotrusと共に定住した人々は、Oenotrians (or Oenotri)と呼ばれ、その地方は、Oenotriaと呼ばれるようになった。[17]

2.4 Oenotriansからの派生
Oenotrusの孫と思われるItalusの時代になると、Oenotriansは、Pandosiaの町から北へ60km以上離れたLaus川まで居住範囲を広げた。Italusは、聡明な指導者で、彼の住民はItaliansと呼ばれるようになった。[18]
Italusには息子たち、MorgesとAusonus (or Auson)がいた。[19]
また、Sicelsの始祖SicelusもItalusの息子と思われる。[20]
Thucydidesは、ItalusをSicelsの王だと記している。[21]
BC1520年、Sicelusは、Italy半島中央部へ移住した。[22]
BC1520年、Ausonusは、Acheron川の南側へ移住して、Tempsaの町を創建した。[23]
BC1520年、Morgesは、Italy半島南西部へ移住した。[24]
Sicelus、Ausonus、Morgesが率いる人々は、それぞれ、Sicels、Ausones、Morgetesと呼ばれるようになった。[25]

2.5 Ausonesの居住地の拡大
BC1400年、Italusの子Ausonusの後裔Ausonの子Liparusは、他の兄弟によって追われて、Italy半島からSicily島の北東の島へ移住した。島は、Melogonis、あるいは、Meligunisと呼ばれていたが、彼の名前に因んで、Liparaと呼ばれるようになった。[26]
BC1365年、Italy半島南部のMetabum (後のMetapontium)の町から、Melanippeの子AeolusがLipara島へ移住して来て、Liparusの娘Cyaneと結婚した。[27]
BC1364年、Liparusは、Aeolusの援助を得て、Lipara島からNeapolisの町の近くのSurrentumの町付近へ移住した。[28]
これによって、Ausoniansは、北へ居住範囲を広げ、Italy半島西側の海はAusonian Sea、Italy半島はAusoniaと呼ばれるようになった。[29]
Straboは、Ausoniansに関係のない海が、何故、Ausonian Seaと呼ばれるようになったのか、疑問を抱いているが、以上のような経緯であった。[30]

2.6 Reatineへの定住
Ausonesは、Italy半島中部のApennines山脈の高地にあるReateの町の近くへも居住範囲を広げた。そこへ移住したAusonesには、次のような3つの大きな集団があった。
1) 1つ目の集団は、Reateの町の東のAmiternumの町近くのListaの町に定住した。[31]
2) 2つ目の集団は、Reateの町の東南東のCutiliaの町の周辺に定住した。[32]
3) 3つ目の集団は、Sancusに率いられて、Amiternumの町近くのTestrunaの町に定住した。[33]
以上の3つの集団は、Romansの始祖Quirinusを共通の先祖としていた。[34]

2.7 Pelasgiansとの合流
BC1389年、これらの集団が定住した後で、Adriatic Sea側からApennines山脈を越えて来た集団があった。その集団は、Deucalionの息子たちに追われて、Thessaly地方から逃れてきたPelasgiansであった。彼らの指導者は、Thessaly地方北部Perrhaebia地方に住んでいたNanasの子Janusであった。[35]
Janus率いるPelasgiansは、Reateの町の東のCutiliaの町の近くに宿営し、その地に居住していた2つ目の集団と対峙した。[36]
両者は、Argosの町のInachusの子Phoroneusの娘Niobeを共通の先祖としていた。Ausonesの祖OenotrusがArgosの町を離れたのはBC1635年で、246年前であった。Janusの先祖であるTriopasの子Pelasgusの娘Larisa一家がArgosの町からThessaly地方へ移住したのはBC1560年で、171年前であった。
それぞれArgosの町を去ってから異なる言葉を話す人々との交流や、言語の独自の変化によって、両者の話す言葉は違っていても、言葉は通じたものと思われる。
当時、Reatine地方周辺には、Italy半島の最古の住人Umbriansや、Italy半島南部から半島中央部へ移住してきたSicelsが散らばって住んでいた。[37]
2つ目の集団はJanus率いるPelasgiansを受け入れて共住し、UmbriansやSicelsとの戦いでの盟友とした。[38]

2.8 さらなる合流
3つ目の集団を率いるSancusは、近くのListaの町に住む1つ目の集団を追い出して居住地を広げた。Listaの町にいた1つ目の集団は、Cutilia周辺にいた2つ目の集団のもとに逃げ込んで共住した。[39]
Sancusは、さらに、1つ目の集団と2つ目の集団、それにThessaly地方から移住して来たPelasgiansが共住していたCutiliaの町を攻撃した。しかし、両者は、婚姻関係と協定締結により、深刻な敵対関係にはならなかった。[40]
婚姻関係とは、Janusの娘OlisteneとSancusの息子Sabusとの結婚であり、協定とは、先住民のUmbriansやSicelsを共通の敵として、共同で戦うことであった。[41]
この結婚によって、Janusは、Romeの神々の一人となり、1年の最初の月の名前の語源になった。[42]

2.9 集団の名称
Sancusの集団は、彼の息子Sabusの時代になって、さらに勢力を増し、Sabusの名前に因んでSabinesと呼ばれるようになった。[43]
一方、Sancusの集団以外の集団には、特定の呼び名がなかった。後世の著述家は、彼らをAboriginesと呼んだ。[44]
Aboriginesは、山に住んでいたことから名付けられたと言われ、多くの場所から集まって来た放浪者集団であった。[45]
Dionysius of Halicarnassusは、「Aboriginesは、PeloponnesusやThessaly地方からItalyに来たGreeksだ」と記している。[46]

2.10 Reatine地方からの広がり
SabusとJanusの娘Olisteneの間には、少なくとも4人の息子たち、Modius、Saturnus、Janus、Picus、それに、娘Opsがいた。[47]
BC1335年、Modius (or Fabidius)は、Cutiliaの町から南へ移住して、海岸との中間の土地にCuresの町を創建した。[48]
BC1330年、Saturnusは、Pelasgiansを率いて、Tiber川の河口近くへ移住して、Saturniaの町を創建した。[49]
BC1330年、Janusは、Vulturnusの娘Jaturunaと結婚して、Tiber川の河口近くへ移住して、Janiculumの町を創建した。[50]
Vulturnusという名前は、Neapolisの少しRome寄りのTyrrhenian Seaに注ぎ込む川やその河口付近にある町の名前であった。[51]
Jaturunaの父Vulturnusは、Ausonesであり、Aboriginesの指導者であったと推定される。
BC1335年、Picusは、Apennines山脈を越えてAdriatic Sea側に居住地を求めて移住した。
Picusの定住地はPicentine地方、その地方の住人はPicentiniと呼ばれた。[52]
Picusは、鳥類のキツツキを意味するラテン語から名付けられた。[53]
Sancusが最初に定住したTestrunaの町の近くには、軍神Marsの神託所があった。固い樫の木にも穴を開ける丈夫な嘴を持つキツツキ(picus)と、軍神が持つ槍(quiris)とが結び付いたものであった。[54]
Sancusの先祖Quirinusは、槍の名人であった。Quirinusは、死後、人々から軍神として崇められ、盾をも貫く鋭い槍先のような嘴を持つキツツキは、神鳥とされて大切にされた。[55]

2.11 Nanasの子Janusの後裔
Thessaly地方からPelasgiansを率いて移住してきたNanasの子Janusには、娘Olisteneの他に息子Aethexがいて、Aethexには息子Faunusがいた。[56]
BC1340年、Faunusは、Aboriginesと共に、Cutiliaの町から北西にあるCrotonの町へ遠征して、Umbriansを追い出して、Trasimene湖一帯を支配した。[57]
BC1315年、Sabusの子Janusの子Maleusは、父が創建したJaniculumの町から海岸近くへ移住して、Regis Villaの町を創建した。[58]
BC1300年、Faunusの子Arnusは、Lydia地方からItaly半島へ移住してきたAtysの子Tyrrhenus率いるMaeoniansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[59]
Tyrrhenus率いるMaeoniansは、Regis Villaの町、Agyllaの町、Alsiumの町、Pisaeの町などに住んでいたPelasgiansをも追い出した。追放されたPelasgiansは、Sicily島へ逃れた。[60]

2.12 Sabusの子Saturnusの後裔
Saturniaの町の創建者Saturnusは、Latiumで最初に農耕を始めたと伝えられるが、その最初の穀物はSpeltであった。[61]
Saturnusの子Picusが成人した頃、Tyrrhenus率いるMaeoniansが移住して来て、Thessaly地方からTiber川河口近くの右岸地方へ移住して来て住んでいたPelasgiansを追い出した。[62]
BC1299年、Picusは、Saturnusの跡を継いで、Janusの娘Veniliaと結婚した。Veniliaは、Picusの従姉妹であった。[63]
BC1295年、Picusは、Saturniaの町から南東へ移住して、海岸近くにLaurentumの町を創建した。[64]
BC1262年、Picusの子Faunusは、父の跡を継いで、姉妹のFatua Faunaと結婚した。[65]
また、Faunusには、2番目の妻Symaethisとの間に息子Acisがいた。[66]
BC1218年、Faunusの跡を継いだのは、3番目の妻Maricaとの間の息子Latinusであった。[67]
Latinusは、Amataと結婚して、娘Laviniaが生まれた。[68]
Latinusの治世に一族はLatinsと呼ばれるようになったが、Latinsの創建者は、Faunusであった。[69]

3 大津波による移住
BC1390年、Crete島の北に浮かぶThera (現在のSantorini)島で大噴火があり、Aegean Seaに大津波が発生した。[70]
大津波によって大規模な住民移動が発生した。

3.1 Thessalyからの移住
3.1.1 Diusの移住
Thessaly地方の沿海部に住んでいたPelasgianのDiusは、大津波で居住地を奪われ、Pagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲撃した。Diusは、Amphictyonの子Itonusの妻Melanippeを戦利品として連れ去った。[71]
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方およびThessaly地方の同族を結集して、Thessaly地方内のPelasgiansを追い出した。DiusはMelanippeを伴ってItaly半島南部のMetapontiumの町へ移住した。[72]
Melanippeは、Metapontiumの町でAeolusとBoeotusを産んだ。[73]
Aeolusは、Sicily島の北東に浮かぶLipara島に住むLiparusの娘Cyaneと結婚して、島の周辺を支配した。[74]
Boeotusは、母Melanippeと共に、Italy半島からThessaly地方のArneの町へ帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[75]

3.1.2 Janusの移住
Thessaly地方北部のPerrhaebia地方に住んでいたPelasgiansは、Janusに率いられて、Dodonaを経由して、Italy半島へ移住した。[76]
Janusは、BC1560年にArgosの町からThessaly地方へ移住したTriopasの子Pelasgusの娘Larisaの後裔と思われる。[77]
Larisaの子Pelasgusの子Phrastorの子Amyntorの子Teutamidesの子Nanasの時代に、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、各地へ移住した。[78]
BC1389年、Janusは、Italy半島東海岸からApennines山脈を越えて、半島西側の山地に移動し、Reatine地方のCutiliaの町の近くへ移住した。Janus率いるPelasgiansは、彼らより少し前に、その地へ移住して来たAusonesに受け入れられて共住した。[80]

3.1.3 DiusやJanus以外の移住
Thessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Italy半島北東部へ移住して、Padus川の河口の南にSpinaの町を創建した。[81]
Pelasgiansは、Spinaの町の少し南にあるRavennaの町も創建した。[82]
また、Pelasgiansは、Italy半島中部の西海岸にも町を創建した。
Agylla (後のCaere)の町、Alsiumの町、Pisaeの町は、Pelasgiansが創建した町であった。[83]

3.2 Boeotiaからの移住
Messapusは、Boeotia地方のHyriaの町から移民団を率いて、Italy半島南東部のPeucetia地方へ移住した。[84]
Messapusは、MegassaresとOrchomenusの娘Alcyoneとの息子Hyrieusの息子と推定される。[85]
Messapusが入植した地方はMessapiaと呼ばれた。[86]
Antoninus Liberalisは、MessapusをIllyrianだと記しているが、SolinusやPlinyは、Greekだと記している。[87]

4 Egyptからの移住
BC1341年、Acrisiusの娘Danaeは、Egyptから移民団を率いて、Sardinia島へ向かった。[88]
この移住は、DanausやCadmusの移住の場合と同じく、Egyptでの戦いが原因であったと推定される。Danaeの移住後、ギリシアの伝承に、Egyptは登場しなくなる。
Danaeが移住したとき、第18王朝のファラオAmenhotep IVがEgyptに君臨していた。[89]
Danaeの移民団を乗せた船は、Sardinia島へ向かう途中、南からの強風に流されて、Italy半島中部の西海岸に漂着した。[90]
Danaeの夫Pilumnusは死に、Argos王の娘であるDanaeが中心になって、Romeの南東にArdeaの町を創建した。[91]
当時、Danaeが町を建設したLatium地方には、Sicelsが散住していた。その後、間もなくして、Sabinesが山地から進出して来て、Saturniaの町やJaniculumの町を創建した。[92]
Danaeの移民団には、Argosの町からEgyptへ移住したAchaeansやPelasgiansが含まれていて、Sabinesとは、言葉や習慣が近かった。
Saturniaの町のSabusの子Saturnusに小麦栽培を伝授したのは、EgyptからDanaeと共へ移住した人々であったと推定される。[93]
Danaeには、Perseusの他にDaunusという息子がいて、DaunusがArdeaの町を継承した。[94]
Aeneasと戦って死んだRutuliの首領Turnusは、Daunusの後裔であった。[95]

5 Lydiaからの移住
BC1300年、Lydia地方からAtysの子Tyrrhenusに率いられたMaeoniansが、Italy半島中部へ移住して来た。[96]
Herodotusは、飢饉が原因であったと伝えているが、史実はつぎのようであった。[97]

5.1 移住前の状況
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追放されて、各地へ移住した。彼らの一部は、Chios島、Lesbos島、Lemnos島、Imbros島などへ移住した。[98]
また、それらの島から本土へ渡ったPelasgiansは、Lydia地方に定住した。[99]
Hittite文書によれば、Pelasgiansが定住した地方は、Arzawaと呼ばれていた。[100]
Silenusの息子と思われるManesに率いられたPelasgiansがその地へ行ったとき、Arzawaには、強力な指導者はいなかった。[101]
Pelasgiansは、先住民と共住し、Manesがその地の王になった。
Manesは、Hittite文書ではArzawa王Kupanta-Kuruntaという名前で登場する。[102]

5.2 移住の原因
BC1325年、Anatolia半島北西部のIda山の近くに住んでいたTantalusは、Iliumの町のIlusに追われてLydia地方 (Arzawaの一部)へ移住した。[103]
当時、Arzawa王は、Tarhuntaraduの子Maskhuiluwaであった。[104]
Tantalusは、Maskhuiluwaを追放して、Arzawa王になった。[105]
Maskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命した。[106]
Hittite王Mursili IIの時代に、ArzawaはHittite軍に攻められて占領された。[107]

5.3 Lemnosへの移住
BC1318年、Tantalusと共にHittite軍と戦ったMaeoniansは、Lydia地方から追放された。ArzawaがHittiteに征服されてから、Tyrrhenusに率いられたMaeoniansがItaly半島へ現れるまで、18年あった。その間、Maeoniansは、つぎの理由から、Lemnos島に住んでいたと推定される。
Maeoniansは、後に、Italy半島へ移住して、Tyrrheniansと名前を変えた。[108]
Lemnos島とItaly半島を結び付けるものに、つぎのものがある。
Tyrrhenia海のElba島は、Lemnos島の古い名前、Aethaliaと呼ばれていた。[109]
古代世界の4つの迷宮のうち、Egypt とCrete島以外に、Lemnos島とEtruriaに迷宮があった。[110]
Lemnos島は、Tyrrhenia島とも呼ばれていた。[111]

5.4 LemnosからItalyへの移住
BC1300年、Atysの子Tyrrhenus率いるMaeoniansは、Lemnos島からItaly半島中部へ移住した。[112]
TyrrhenusがLemnos島から遠く離れたItalyを移住先に選んだのは、次の理由が考えられる。

5.4.1 Telchinesを介して聞き及んだ
Tyrrhenusの航海の水先案内人は、海の子と呼ばれ、航海術に優れたTelchinesであったと推定される。[113]
BC1425年、Telchinisと呼ばれていたRhodes島に住んでいたTelchinesは、Rhodosの息子たちによって島から追放され、Telchinesの一部はLemnos島にも移住した。[114]
航海術と冶金技術に優れたTelchinesは、Aegean Seaのみではなく、Tyrrhenia海にも航海して、鉱山を探し求めていたと思われる。Italy半島とCyrnus島の間のAethalia島も、彼らが鉱山を発見した島のひとつであったと推定される。[115]

5.4.2 Delphiを介して聞き及んだ
BC1390年にThessaly地方から移住したPelasgiansが創建したAgyllaの町は、Delphiに宝庫を奉納するほど繁栄していた。[116]
Agyllaの町の繁栄ぶりは、世界各地から神託を求めてDelphiを訪れた人々によって、Greeks全体に広まったと思われる。[117]

5.5 移住後のTyrrhenusとその後裔
Tyrrhenus率いるMaeoniansは、UmbriansやPelasgiansを追い出して植民した。[118]
MaeoniansもPelasgiansも、90年前はThessaly地方に住んでいたが、両者は、言葉が通じなかった。[119]
Italy半島に定住したMaeoniansは、Tyrrhenusの名に因んで、Tyrrheniansに名前を変え、彼らの居住地はTyrrhenia地方と呼ばれるようになった。[120]
また、Tyrrheniansは、生贄を供える儀式を行うことから、Tusciと呼ばれることもあった。Romansは、彼らをEtrusciと呼び、彼らの住む地方をEtruriaと呼んだ。[121]
Pausaniasの時代には、Italy半島西岸のPisaeの町付近からTiber川付近までが、Tyrrheniaと呼ばれていたようである。Tyrrheniansの全盛期には、彼らの居住地は、Italy半島の東の付け根付近のPadus川の近くやRavennaの町にも及んでいた。[122]
Tyrrhenusが死んだ後、Tyrrheniansを率いる強力な指導者が現れず、町ごとに団結力を欠き、近隣部族に武力で負けて土地を捨て、海賊になった。[123]

5.6 Tyrrheniaの主な町
Tyrrhenusは、12市を建設したと伝えられる。Tyrrhenia地方には、次のような町があった。[124]

5.6.1 Saturnia (現在のRome)
Saturniaの町は、Sabusの子Saturnusが創建し、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansが住んでいた。[125]
Saturnusの子Dercennusの時代、Tyrrheniansに攻められて、Dercennusは戦死した。
Saturniaの町には、Tyrrheniansが住んだが、彼らもSicelsによって追い出された。[126]

5.6.2 Caere (現在のCerveteri)
Tyrrheniansの町で一番勢力を持っていたのは、Saturniaの町の西のCaereの町であった。[127]
Caereの町は、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansが創建し、Agyllaの町と呼ばれていたが、Tyrrheniansに奪われた。[128]

5.6.3 Alsium (現在のLadispoli)
Alsiumの町には、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansが住んでいたが、Tyrrheniansに追い出された。[129]

5.6.4 Tarquinii (現在のTarquinia)
Tarquiniiの町は、Tyrrhenusの将Tarcoが、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansを追い出して創建した。[130]

5.6.5 Regis Villa (現在のMontalto di Castro)
Regis Villaの町は、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansのMaleusが住んでいたが、Tyrrheniansに追い出された。[131]

5.6.6 Pisae (現在のPisa)
BC1389年、Thessaly地方から移住して来たPelasgiansがLiguriansを追い出して、Pisaeの町を創建した。[132]
BC1300年、Pisaeの町のPelasgiansは、Tyrrheniansに追い出された。[133]
Straboは、Nestorに率いられてTroyへ遠征したPisaの町の出身者が流浪して、Pisaeの町を創建して、町の住人はPyliansと呼ばれるようになったと伝えている。[134]
しかし、つぎのことから、Pisaeの町の創建にまつわる話は、作り話と思われる。
1) 伝承では、Nestorは、無事にPylusの町に帰還している。
2) Pisaの町よりPylusの町の出身者が多かったから住人は、Pyliansと呼ばれたと思われるが、それであれば、創建者は、Pisaの町ではなく、Pylusの町の出身者になる。
BC1126年、Locris地方からAsia Minorへ移住してCymeの町を創建した人々によって、Larissaの町の周辺に住んでいたPelasgiansは土地を追われた。[135]
Teutamusの後裔が率いるPelasgiansはItaly半島へ移住して、Tyrrheniansが住むPisaeの町に定住した。[136]
Tyrrheniansは、昔、先祖が住んでいたAsia Minorからの移住して来た同族を共住者として受け入れたと推定される。

5.6.7 Croton (現在のCortona)
BC1340年、Aethexの子Faunusは、Aboriginesと共に、Cutiliaの町の北西のCrotonの町へ遠征して、Umbriansを追い出し、Trasimene湖一帯を支配した。[137]
BC1300年、Faunusの息子Arnusは、Tyrrheniansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[138]

6 Troadからの移住
6.1 第1回Trojan War
BC1295年、Troad地方のIliumの町で王位継承争いが起きて、Phaenodamasと彼の息子たちが、Laomedonに殺された。[139]
Phaenodamasを支援したTrosの子Assaracus (or Asarakos)の後裔たちは、Dardania地方から各地へ移住した。
Phaenodamasの娘たちは、Troad地方からSicily島へ逃れて、島の北西部のCrimisus河畔に定住した。[140]
Phaenodamasの娘Egestaには、息子Aegestus (or Acestes)が生まれた。[141]

6.2 第2回Trojan War
BC1244年、Ilusの子Laomedonが死に、Laomedonの子PriamがWilusa(Troy)王を継承した。[142]
Assaracusの子Capysの子Anchisesは、PriamをIliumの町から追放して、Sicily島から呼び寄せたEgestaの子Aegestusを王に据えた。[143]
その後、Iliumの町は、Hittite軍の援助を受けたPriamによって奪還された。
Anchisesや、彼に味方した人々は、各地へ逃れた。

6.2.1 PhiloctetesのItaly半島南部への移住
BC1244年、Anchisesに味方したPoeasの子Philoctetesは、Thessaly地方のMeliboeaの町へ帰ったが、内乱が起きて、Anchisesと共にSicily島へ向かった。[144]
Philoctetesは、Italy半島南部で、Anchisesと分かれて、Crotonの町のMacallaに定住した。[145]
Philoctetesは、Crotonの町の近くにPeteliaの町を創建した。[146]
Troy遠征物語では、Philoctetesは、Agamemnonと共にTroyへ遠征している。
しかし、Philoctetesは、物語では敵であるTrojanのAegestusと共に行動をしていた。[147]

6.2.2 ElymusのItaly半島南部への移住
BC1244年、Anchisesの子Elymusは、Troad地方から逃れて、Philoctetesと共にItaly半島南部に定住した。[148]
Elymusに付き従った人々は、Elymiansと呼ばれるようになった。[149]

6.2.3 AnchisesのSicilyへの移住
BC1244年、Anchisesは、Aegestusに案内されて、Sicily島へ逃れた。[150]
Anchisesには、Scamander川流域の多くの人々が同行した。[151]

7 Arcadiaからの移住
7.1 Arcadiaからの出発
BC1240年、Arcadia地方のTegeaの町の西のPallantiumの町で争いが起こった。争いに敗れたThemisの子Evanderは、新天地を求めた。[152]
Evanderは、Argosの町の創建時から存在するParrhasiansに属し、Argosの町からArcadia地方に居住地を広げたPelasgusの子Lycaonの家系であった。[153]
Evanderの移民団は、Tegeaの町からAlpheius川に沿って、Olympiaの町へ通じる道を通ってCylleneへ向かった。Evanderは途中で、HeraclesのElis攻めに参加した人々を移民団に加えた。彼らは、Achaia地方のDymeの町のEpeansやPheneusの町のArcadiansであった。[154]
Evanderの移民団は、Elisの外港Cylleneから航海に出た。[155]

7.2 Latiumへの移住
Evanderの移民団は、Italy半島を右回りに航海して、半島中央部のTiber川を遡り、後のRomeの地に上陸した。彼らは、それまでVeliaと呼ばれ、後にPalatiumと名付けられる丘の近くに定住した。[156]
Romeの東側の地方を領していたHerilusは、Evanderに戦いを挑んだが撃退された。[157]
Evanderの移民団の中には、Heraclesの遠征に参加した歴戦の勇士が多数いて、Ausoniansの武力を上回っていた。[158]
当時、野蛮なSicelsによって苦しめられていたLaurentumの町のFaunusは、Evanderを敵とするよりも味方として受け入れた。[159]
Evanderの艦隊を率いていたArcadianのCatillusは、彼の2人の兄弟たち、Coras、Tiburnusと共にRomeの東北東に町を創建して、Tiburと名付けた。[160]

7.3 Evanderの後裔
Evanderは、Nicostrateと結婚して、息子Pallasが生まれた。[161]
Nicostrateは神がかりになって託宣を告げる予言者であり、Carmentaとも呼ばれた。[162]
Evanderの母Themisも予言者で、Carmentaとも呼ばれていた。[163]
Themisの先祖であるPelasgusの子Lycaonの子Pallasには、Chryseという娘がいた。彼女には、神秘的な宗教に関する伝承があった。予言術は、Lycaonの子Pallasの家系に連なる女性に代々受け継がれていたと思われる。[164]
BC1182年、Evanderの子Pallasは、AeneasとRutuliansのTurnusとの戦いで、Aeneasに味方して戦死した。[165]
BC1154年、Evanderと共へ移住して来たArcadiansは、Aeneasの子Ascaniusが創建したAlbaの町へ移住した。[166]
しかし、Arcadiansの一部は、Palatineの丘の近くに住み続けた。Rome建国の父Romulusの養父Faustulusも、その一人であった。[167]

7.4 Evanderの功績
Evanderと共へ移住したArcadiansは、ItalyへAlphabetを持ち込み、Romeの繁栄に大きく寄与した。[168]
AD2世紀、第15代Rome皇帝Antoninusは、Evanderの功績を認めて、彼の出身地であるArcadia地方のPallantiumの町の住人に対して、自治を認めて公課を免除した。[169]
その後、Pallantiumの町の住人は、Evander像を建立した。[170]

8 Italy半島からSicilyへの移住
BC1240年、Latiumの町のFaunusは、Evanderの助けを借りて、Sicelsの首領であるVulcanus (or Vulcan)の息子Cacusを討ち取った。Sicelsは、半島中央部から半島南部のOenotriansの領土へ逃れた。[171]

8.1 Sicelsの移住
Straton率いるSicelsは、Oenotriansに追われて、Sicily島へ移住した。[172]
この時、島へ渡ったSicelsは相当な数に上り、それまで、Sicaniaと呼ばれていた島は、Sicilyと呼ばれるようになった。[173]

8.2 Elymiansの移住
Troad地方から逃れてItaly半島南西部に定住したElymus率いるElymiansは、Oenotriansに追われて、Sicily島へ移住した。[174]

9 Acarnaniaからの移住
BC1237年、Heraclesは、Thesprotia地方へ遠征した。[175]
Acarnania地方のTaphos島に住んでいたTeleboansは、Telonの子Oebalusに率いられてItaly半島西海岸へ移住した。[176]
Oebalusは、Neapolisの町の近くに浮かぶ島にCapreaeの町を創建した。[177]
Capreaeの町は、第2代Rome皇帝Tiberius Caesarの隠棲地として有名になった。[178]
Capreaeの町を創建したTeleboansは、Lacedaemonの創建者Lelexの名前に因んだLelegesの支族であった。[179]
Libyaの子LelexはDanausの叔父であり、Lelegesは、Pelasgiansの支族であった。[180]
Oebalusより前に、Ausonの子Liparusが、Capreaeの町の近くのSurrentumの町付近へ移住しているが、LiparusもPelasgianであった。[181]
Acarnania地方とItaly半島西海岸に住むPelasgiansは、交易活動で結ばれていたと思われる。

10 Creteからの移住
Minosの死後、Crete島には強力な指導者が現れず、内戦が続いたと推定される。
Crete島からItaly半島へ、つぎのような移住があった。

10.1 Iapyxの移住
BC1235年、Daedalusの子Iapyxは、Crete島から移民団を率いてItaly半島南東部のMessapia地方へ移住した。[182]
Herodotusは、IapyxがHyriaの町 (現在のOria)を創建したと伝えている。[183]
しかし、Hyriaの名前は、彼より前に、この地方に入植したMessapusが名付けたと思われる。
Messapusの祖父Megassaresは、Boeotia地方のHyriaの町の創建者であった。[184]
Iapyxが入植した地方はIapygia、住民はIapygians (or Iapyges)、岬はIapygian Capeと呼ばれるようになった。[185]
Iapygiansは、半島南西部へも居住地を広げた。[186]

10.2 Bottonの移住
Iapyxの移民団の中にいたBottonは、新たな移民団を編成して、さらに旅を続けて、Macedonia地方の後のPellaの近くに定住した。[187]
Bottonに率いられた人々は、Bottiaeansと呼ばれるようになった。[188]
Bottonの移民団の中には、Athensの町から貢物としてCrete島のMinosのもとへ送られた若者たちの子孫が含まれていた。[189]

10.3 Idomeneusの移住
Iapyxの移民団の中には、Minosの子Deucalionの子Idomeneusもいた。
伝承では、Idomeneusは、Agamemnon率いるTroy遠征に参加したことになっている。
しかし、Idomeneusは、Crete島からCalabriaへ移住したという伝承がある。[190]
Calabriaは、MessapiaやIapygiaの別名であり、Idomeneusは、Iapyxの移民団の中にいたと思われる。[191]

10.4 Cleolausの移住
Iapyxの移民団の中にいたMinosの子Cleolausは、新たな移民団を率いて、Italy半島東部Apulia地方に入植した。Cleolausは自分の部族を、息子Daunusの名前に因んで、Dauniiと呼ばせた。[192]
Daunusの娘Euippeは、Aetoliansを率いてApulia地方へ移住して来たTydeusの子Diomedesと結婚した。[193]

11 Mycenaeからの移住
BC1190年、Agamemnonの子Halaesusは、Italy半島へ移住した。彼は、RomeからFlaminian街道を北へ進んだ所にあるFaleriiの町に定住した。[194]
Faleriiの町の周辺は、Latium地方のArdeaの町に住むRutuliansが領していた。Rutuliansの王Turnusは、Mycenaeの町の創建者Perseusの母Danaeの後裔であった。[195]
Rutuliansは、周辺の敵対する勢力に対抗して、味方を得るために、Halaesusを招いたと思われる。
BC1182年、LatinsとRutuliansとの戦いが起きた。Halaesusは、Rutuliansに味方して戦いに参加して、Evanderの子Pallasに討ち取られた。[196]
Halaesusの死後、Faleriiの町に住んでいたMycenaeansは、Mycenaeの町へ帰還したと思われる。最近の考古学調査で、BC12世紀にMycenaeの町とItalyとの関連を示す出土品が発掘されている。

12 Athensからの移住
BC1188年、Laomedonの子Priamが死ぬと、Antenorの息子たちがIliumの町を占領した。[197]
Priamの子Hectorは、Achaeansの援軍と共に、Iliumの町を奪還しようとするが、戦いに敗れて、Achaeansは各地へ逃れた。[198]
BC1186年、Hectorに味方したAtheniansの一部は、Italy半島南部へ逃れて、Scylletiumの町に定住した。[199]

13 Aetoliaからの移住
13.1 Diomedesの移住
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、TroyからArgosの町へ帰還後、Aetolia地方を経由して、Italy半島東部Apulia地方へ移住した。[200]
移住後、Diomedesは、Apulia地方の支配者Daunusの娘Euippeと結婚した。[201]
Daunusは、Minosの子Cleolausの息子であった。[202]
Cleolausは、Daedalusの子Iapyxと共にCrete島からItaly半島に入植した。Cleolausは、息子の名前に因んで、自分の部族をDauniiと名付けた。[203]
Diomedesは、Argyrippe、Canusium、Sipusの町を創建した。[204]

13.2 Diomedesの最期
Strabonは、Diomedesの最期について、4つの説を伝えている。[205]
1) Diomedesは、故郷Argosの町に呼び戻され、その地で死んだ。
2) Diomedesは、Apulia地方で死んだ。
3) Diomedesは、Apulia地方の沖に浮かぶ無人島で行方不明になった。
4) Diomedesは、Adriatic Sea最奥部のHenetiの地で死んだ。
Diomedesと共に移住したAetoliansは、南東へ移住してBrundisiumの町を創建した。しかし、彼らはApuliansによって、そこからも追われた。[206]
このことから、Diomedesと、先住民との間に争いがあったと推定される。
また、Diomedesの葬送競技会が、Daunusによって催され、その場で、Greeksは殺されたとも伝えられている。[207]
BC4世紀の哲学者Aristotleは、Diomedesがその地の王によって謀殺されたとき、彼の仲間がDiomedeia島の近くで難破したと伝えている。[208]
Apulia地方のDiomedeia島には、Diomedes神殿と、プラタナスの樹の下に、Diomedesの墓があった。[209]
Diomedeia島は、現在のTremiti諸島のSan Domino島と推定される。
以上のことから、Diomedesの最期は、つぎのようであったと推定される。
Diomedesと、Daunusとの間に争いがあり、Diomedesは、騙し討ちにあって殺害された。Diomedesの仲間たちは、Diomedeia島へ逃れて、Diomedesの遺体を島に埋葬した。
AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、DaunusがDiomedesを殺したと記している。[210]

14 Sicilyからの移住
BC1184年、Anchisesの子Aeneasは、Sicily島から船出して、Italy半島中部のLaurentumの町付近に上陸した。[211]
当時、Aeneasは40歳位で、息子Ascaniusがいた。[212]
Laurentumの町の支配者はFaunusの子Latinusであり、彼の治世35年目であった。[213]
BC1182年、AeneasはLatinusの娘Laviniaと結婚した。その結婚が原因で、Rutuliansの王Turnusとの間に戦いが起こった。Latinusは戦死して、AeneasがLaurentumの町を継承した。[214]
BC1179年、Aeneasは、Rutuliansとの戦いで戦死して、息子AscaniusがLaurentumの町を継承した。[215]
多くの伝承が、Aeneasは、Troad地方の生まれであるかのように伝えている。
しかし、Aeneasは、Sicily島生まれであった。
伝承では、Aeneasは、Anchisesと共に、Troad地方からSicily島へ逃れたと伝えられている。
しかし、AnchisesがSicily島へ移住したのは、BC1244年であり、Aeneasは、その後に生まれた。[216]

15 Liparaの歴史
15.1 半島からの移住
BC1400年、Ausonの子Liparusは、兄弟によって、Italy半島から追われて、Sicily島の北東の島へ移住した。島は、彼の名前に因んでLiparaと呼ばれるようになった。[217]
それまで、Lipara島は、Meligunisと呼ばれていた。[218]

15.2 半島南部からの移住
BC1365年、Italy半島南部のMetapontiumの町から、Melanippeの子AeolusがLipara島へ移住して来て、Liparusの娘Cyaneと結婚した。Aeolusの子Astyochusは、Lipara島を継承した。[219]

15.3 半島への移住
BC1364年、Liparusは、Aeolusの援助を得て、Crater湾 (現在のナポリ湾)のAthenaeum岬にあるSurrentumの町付近へ移住した。[220]
BC1340年、Aeolusの子Iocastus (or Jocastus)は、Italy半島南部へ移住して、Rhegiumの町を創建した。[221]
BC1340年、Aeolusの子Misenusは、Cumaeの町の近くのParthenopeへ移住した。[222]

15.4 Liparusの種族
つぎのことから、Liparusの種族は、Pelasgiansの支族Ausonesであったと推定される。
1) BC2世紀の歴史家Polybiusは、Crater湾周辺には、Ausonesが住んでいたと伝えている。[223]
2) Liparusの父Ausonは、Ausonesの始祖Italusの子Ausonと同名であった。[224]

15.5 Sicilyへの移住
BC1340年、Lipara島のAeolusの息子たちは、Sicily島へ移住した。
Aeolusの2人の息子たち、PheraemonとAndroclesは、Sicily島へ移住して、島の北部に定住した。[225]
Aeolusの子Xuthusは、Sicily島東部へ移住して、その地方はXuthiaと呼ばれるようになった。[226]
Aeolusの子Agathyrnusは、Sicily島北部へ移住して、Agathyrnusの町を創建した。[227]

16 Sardiniaの歴史
16.1 Egyptからの移住
BC1390年、Macerisの子Sardusは、移民団を率いて、EgyptからItaly半島西側のIchnussa島へ移住した。[228]
Ichnussa島は、Sardusの名前に因んで、Sardiniaと呼ばれるようになった。[229]
Sardusが島へ移住したとき、島には、先住民がいたが、彼らと争うことなく共住した。[230]
Sardinia島南西部に、「父なるSardusの神殿」があった。そこがSardusの入植地と推定される。[231]

16.2 Egyptからの移住
Sardusの入植の後で、Sardinia島へ入植したのは、Aristaeusであった。[232]
Aristaeusは、Achaeansの始祖Achaeusの息子Archanderと、Thessaly地方に住んでいたHypseusの娘Cyreneとの間の息子として、Phthiotis地方で生まれた。[233]
Aristaeusは、Phthiotis地方からArgosの町を経由して、EgyptのNileDeltaへ移住し、父Archanderと共にArchandropolisの町を創建した。[234]
BC1372年、Aristaeusは、Egyptから移民団を率いてSardinia島へ移住した。[235]
Aristaeusは、Sardusの入植地の東側にCaralisの町を創建した。[236]
Pausaniasは、Aristaeusの入植後に創建されたNoraの町が、Sardinia島で最初の町であったと伝えている。[237]

16.3 Iberiaからの移住
BC1240年、Geryonesの娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住し、島の南端に最古の町Noraを創建した。[238]
Noraxは、Iberianであったと伝えられている。しかし、彼はIberia半島南端にHeracleiaの町を創建して、そこで死んだEgyptのCanopusの町のMacerisの後裔であったと推定される。[239]
Noraxの出身地は、Heracleiaの町の北西のTartessus川を中心としたTartessus地方であった。[240]
Tartessus川の河口付近のGadeiraの町 (現在のCadiz)および向かい合う島はまとめてErytheiaと呼ばれ、Geryonesはそこで多くの牛を飼っていた。[241]
Geryonesの生まれはTartessus川の上流で、そこは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれたMacerisの終焉の地にも近かった。Geryonesの孫NoraxがSardinia島へ入植したのは、Iolausの入植よりも前であったことを考慮すると、Noraxは、Amphitryonの子Heraclesと同時代と推定される。[242]

16.4 Boeotiaからの移住
Amphitryonの子Heraclesは、Thesprotia地方のEphyraの町を攻略した後で、彼の甥IolausにSardinia島への植民を指示した。[243]
BC1236年、Iolausは、Boeotia地方のThespiaeの町の支配者Thespiusの孫たちで構成した植民団を率いてSardinia島へ植民した。[244]
Iolausは、移民団をSardinia島北東部に既に定住していたTyrrheniansと共住させて、Olbiaの町を創建した。その後、Iolausは、HeraclesがいるTrachisの町へ帰還した。[245]

16.5 Athensからの移住
Heraclesの死後、Iolausは、Athensの町へ攻め込んで来たMycenae王Eurystheusを討ち取り、Heraclesの子供たちを守った。[246]
BC1216年、Heraclesの子供たちの保護者としての役目を終えたIolausは、Athensの町で移住希望者を募集して、再び、Sardinia島へ移民団を率いた。Atheniansは、Sardinia島にOgryleの町を創建した。[247]
Iolausは、Sardinia島で生涯を終えた。[248]

17 Sicilyの歴史
Sicily島の最初の住人は、Sicanians (or Sicani)であった。[249]
Iberiaに住んでいたSicaniansは、Liguriansに追われて、Trinacriaと呼ばれていた島へ逃れ、島は、Sicaniaと呼ばれるようになった。[250]

17.1 最初のGreeks
BC1340年、Lipara島のAeolusの息子たちは、Sicily島へ移住した。
Aeolusの2人の息子たち、PheraemonとAndroclesは、Sicily島北部へ移住した。[251]
Aeolusの子Xuthusは、Sicily島東部へ移住して、その地方はXuthiaと呼ばれるようになった。[252]
Aeolusの子Agathyrnusは、Sicily島北部へ移住して、Agathyrnusの町を創建した。[253]
Aeolusの息子たちと共にSicily島へ移住した人々は、Thessaly地方からMetapontiumの町を経由して、Lipara島へ移住したPelasgiansであった。[254]

17.2 半島中部からの移住
BC1300年、Italy半島中部のRegis Villa、Agylla、Alsium、Pisaeなどに住んでいたPelasgiansは、Tyrrheniansに追われて、Sicily島へ移住した。[255]

17.3 Troadからの移住
BC1295年、Phaenodamasの娘たちは、Troad地方からSicily島へ逃れて、島の北西部のCrimisus河畔に定住した。[256]

17.4 Troadへの遠征
BC1244年、Phaenodamasの娘Egestaの子Aegestusは、Sicily島からTroad地方へ遠征した。
Aegestusの遠征の目的は、祖父の意志を継いで、Troy王になることであった。しかし、Aegestusは、Laomedonの子Priamに対する戦いに敗れて、Sicily島へ帰還した。[257]
その後、Aegestusは、島の北西部にAegesta (or Egesta)の町を創建した。[258]

17.5 Troadからの移住
BC1244年、Priamとの戦いに敗れたCapysの子Anchisesは、Aegestusに案内されて、Troad地方からSicily島へ移住した。[259]

17.6 半島南西部からの移住
BC1240年、Italy半島南西部に住んでいたSicels、Morgetes、Elymiansは、Oenotriansに追われて、Sicily島へ移住した。[260]
Sicelsは、島の先住民であったSicaniを島の西側に追いやって、島の全域に居住した。それまで、Sicaniaと呼ばれていた島は、Sicilyと呼ばれるようになった。[261]
Sicelsの指導者は、Straton、あるいは、Sicelusであった。[262]
Morgetesは、Sicily島東部の内陸部に、Morgantiumの町を創建した。[263]
Elymiansは、Sicily島北西部に、Elyma (or Eryx)の町を創建した。[264]

17.7 Acarnaniaへの移住
BC1240年、Sicily島に住んでいたPelasgiansは、Sicels、Morgetes、Elymiansの移住に伴う混乱から逃れて、Acarnania地方へ移住した。[265]
その後、Pelasgiansは、Acarnania地方から、次のようにして、移住を繰り返した。
BC1188年、Pelasgiansは、Troy遠征で手薄となったBoeotia地方へ侵入して、Boeotiansを追い出した。[266]
BC1126年、Pelasgiansは、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方に帰還したBoeotiansによって、Boeotia地方を追われて、Athensの町へ逃げ込んだ。[267]
BC1115年、Pelasgiansは、Athensの町から追放されて、Lemnos島へ移住した。[268]
BC495年、Pelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Lemnos島からChalcidice半島へ移住した。[269]

17.8 半島中部への移住
BC1184年、Anchisesの子Aeneasは、Sicily島からItaly半島中部のLaurentumの町付近へ移住した。[270]

おわり