誕生秘話
1956年、青森市に住む一少年の物語から始まる。
その一人の少年は、網膜剥離という病気で、失明寸前の状態にあり、医師の診断によれば、
手術で完治するが、それには治療費に5万円ほどかかるという。しかし、少年にはその負担能
力はない。
少年は、青森バプテスト教会へ通って聖書や英語を勉強しており、宣教師のハルバーソン夫妻
が、その治療費の斡旋に奔走したが、戦災の復興に全力を尽くしている青森市の人々にとって
経済的に5万円の目標は容易ではなかった。そこでハルバーソン宣教師は、アメリカのリッチラ
ンドに住む母のもとへ、少年の治療費の協力をお願いできないかと手紙を書いた。
手紙を読んだ母は、夫の弟のロバート・ハックルベリーがライオンズクラブに所属していたことか
らハルバーソンの意を伝えた。早速そのことがクラブ理事会に報告され、例会に諮ったところ、
わずか5分で150ドルが集められた。
そしてその拠金は、青森にはまだライオンズクラブがなったので東京ライオンズクラブに送られ
「東京クラブより青森へ送って下さい」という手紙が東京クラブに届いた。
そこで東京ライオンズクラブは、青森の一少年のために、はるか海を越えてアメリカの小都市
リッチランドのライオンズクラブが、愛の手を差し伸べようという行動に、ライオンズの社会的な
位置づけと一つの方向をみせつけられ、またその行為に、何か厳粛な人間愛の美しさを見た
ような感激が胸を走ったのでした。
当時の永野 護会長は、例会において「みなさん、このリッチランドからの拠金はこのまま東京
ライオンズクラブがお預かりして、私共もこの奉仕活動に手伝わせていただきたいと思います。
青森の少年のために、私共で治療費を作りましょう。日本の少年のために、アメリカの人たちの
好意のみに頼ることは、日本のライオンズクラブとして黙視している訳にはまいらぬではありま
せんか。そしてライオニズムの原点に立ち返って、人道主義的奉仕活動の目的のために、リッ
チランドから送られた拠金は、そのままアイ・ファンド基金として、例会ごとに会員が幾らかずつ
でも積み増していくことにし、アイ・ファンドの壷をつくろうではありませんか」と提言した。
そして、東京クラブが、5万円を例会で集め青森の一少年に送ったのでした。
のちに、アイ・ファンドの壷はリッチランドの壷と名付けられた。
(その壷は、現在1983年青森ライオンズクラブとリッチランド・ライオンズクラブの姉妹提携を
記念して青森ライオンズクラブに移譲された。)
そしてその少年は、手術を受け無事に退院することになった。
そのころ、東京クラブでは、東北にライオンズクラブがどこの地域にも結成されていないことに
気付き、今度のリッチランドの奉仕活動が、東北にクラブ結成を示唆しているように思われ、
東京クラブがスポンサーで青森にクラブをつくろうということになった。
こうして1956年12月青森市に37番目のライオンズクラブが東北のトップを切って青森ライオ
ンズクラブが結成されたのであった。